Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

アーロン・メスキン「自己-関与的なインタラクティブフィクションとしてのビデオゲーム」

書誌情報

Robson, Jon, and Aaron Meskin. "Video Games as Self‐Involving Interactive Fictions." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 74.2 (2016): 165-177.

章立て

1.イントロダクション
2.ビデオゲームとフィクション
2.A.ビデオゲームフィクション
2.B .ビデオゲームフィクションに関する既存の説明
2.C.インタラクティビティ
3.自己-関与的なインタラクティブフィクション
3.A.SIIFを理解する
3.B.アバター
3.C.SIIFを動機づける
4.ウォルトン主義からの反論
4.A.ウォルトンによるフィクション的自己-関与
4.B.ウォルトン主義の手続き
4.C.作品世界への参加
4.D.作品世界に関する懸念
5.SIIFの意義とスコープ
5.A.SIIFのスコープ
5.B.SIIFの意義

どんな論文?

多くのビデオゲームTRPGなどをその例とするSIIF(Self-Involving Interactive Fiction)*1というフィクションの定義を提唱する。

有用さ

ビデオゲームTRPGといったさまざまなゲームを包括的に扱うことができるような定義の提示。ウォルトンの虚構概念のビデオゲームへの適用とその修正を行う。

手法

SIIFの擁護のために多くの実例を用いている。また、ウォルトンの議論を具体例に当てはめ、検討している。

発展性

ビデオゲーム研究から包括的なゲーム研究への可能性を提示している。また、暴力表現を含むゲームとゲームプレイヤーの倫理的な関係を分析する手がかりを与える。

関連文献

Meskin, Aaron, and Jon Robson. "Videogames and the Moving Image." Revue Internationale de Philosophie 254.4 (2011): 547.
Meskin, Aaron, and Jon Robson. "Fiction and fictional worlds in videogames." The philosophy of computer games. Springer Netherlands, 2012. 201-217.

Walton, Kendall L. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. Harvard University Press, 1990.
Walton, Kendall L., and Michael Tanner. "Morals in fiction and fictional morality." Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volumes 68 (1994): 27-66.

 

*1:8/9のワークショップにて会話した際のメスキン本人の発音は/si:f/と聴こえた。

アーロン・メスキン「コミックを定義する?」

書誌情報

Meskin, Aaron. "Defining comics?." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 65.4 (2007): 369-379.

Defining Comics? - MESKIN - 2007 - The Journal of Aesthetics and Art Criticism - Wiley Online Library

章立て

1. イントロダクション
2. コミックを定義する近年の試みに関する簡単な歴史
3. ハイマン-プラットによるコミックの定義
4. コミックとナラティヴ
5. コミックと子供の絵本
6. コミックと歴史
7. いくつかのさらなる懸念
8. コミックと定義
9. 結論

どんな論文?

分析美学者メスキン(Aaron Meskin)のコミックの定義に関する論文。コミックの四つの定義を批判。コミックを定義する試み自体への疑問を表明。

有用さ

コミックの定義をまとめ、neccessary faturesを定義する難しさを指摘。コミックの定義は可能であるにしてもstandard featuresに関する定義であると述べる。また、何を目的として定義するのかを再考する必要性を説く。

手法

コミックの定義を批判する際、コミックの事例のみならず、映像や絵本などの関連する分野の事例も豊富に用いている。芸術作品の定義の議論に関して、ウォルトンやレヴィンソンの議論を紹介している。

発展性

芸術作品を定義する目的と定義という作業そのものの意味の再考を促している。

関連文献

Walton, Kendall L. "Categories of art." The philosophical review (1970): 334-367.Categories of Art on JSTOR

Meskin, Aaron. "Comics as literature?." The British Journal of Aesthetics 49.3 (2009): 219-239.
Weitz, Morris. "The role of theory in aesthetics." The journal of aesthetics and art criticism 15.1 (1956): 27-35.The Role of Theory in Aesthetics on JSTOR

デイヴィッド・ベネター『人間という苦境』第2章 意味

第2章 意味 Meaning

この章では、「人生に意味はあるのか」という問いが、どのような問いなのかを確認する。第1節では、人生の意味を問う動機に軽く触れ、第2節では人生の意味をさまざまなパースペクティヴから確認する。第3節では、あるパースペクティヴにおいては人生の意味が存在することを論証する。

The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions

1. イントロダクション

自分の人生が無意味(meaningless)なのではないかとおそれることは、わたしたちにとってまれなことではない。こうした考えをときおり、ほんの一瞬だけ抱くひともいれば、こうした考えをしばしば、継続して抱くひともいる。あるいは、存在的不安(existential anxiety)や絶望にとらわれているひともいる。(p.13, par.1)

こうした深さや長さの如何にかかわらず、ここで懸念されているのは、あるひとの人生の意義のなさ(insignificance)や無益さ(pointlessness)である。

人生に関する問いは次のような問いから生まれている。

わたしたちの時空間的な限界(limitedness)に関する問い(p.13, par.2)、そしてわたしたちが生まれてきた際の偶然性(contingency)に関するもの(p.13, par.3)、あるいは生まれてきた際の偶然性に比べて、死ははっきりとしていることについて(p.14, par.1)。また、死に至るまでの繰り返しの毎日の意味や、次世代がふたたび生まれては死に向かう過程を繰り返す意味について問われる。(p.15)

こうした問いを考えないひとはいないだろう。そのときひとはどんな答えを出すのだろうか?

あるひとはこうした問いに対して悲観的な答えを出すだろう。ベネターは、悲観的な答えは一般に受けいられるものではないかもしれないが、適切(appropriate)な答えであると言う。事実、次章では、人生の意味のうち重要な意味があり得るかどうかについてニヒリスティックな結論が述べられる。けれども、人生におけるすべての意味に対してニヒリスティックな態度をとる必然性はない。次節では、人生にどんな意味がありうるのかを問い、第3節では、わたしたちの人生において、ある種の意味は獲得し得るものだということが論証される。

2. 問いの理解

わたしたちが問おうとする「人生に意味はあるのか」という問いはそもそも無意味(meaningless)な問いである、と主張する者もいる。彼らによれば、意味を持つのはつねに語(word)あるいはサイン(sign)であり、語やサインが指し示す(signify)ものは意味を持たない。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは「ランプシェードに意味はあるのか」と同じく、カテゴリーミステイク(category mistake)で無意味な(meaningless)な問いなのだ。というのも「ランプシェードそのもの」は「ランプシェード」という言葉のように意味を持つわけではない。
これに対してベネターは反論する。
彼らは意味という言葉をあまりにも狭義な理解で用いている。意味とは、〈意義深さ〉(significance)や〈重要性〉(importance)あるいは〈目的〉(purpose)といった意味を含みもつ。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは、人生に意義深さや重要性や目的があるのかどうかを問うており、これはカテゴリーミステイクな無意味な問いではない。(p.17)
意味という言葉に含まれる以上の様々な区別をベネターは取り立てて意識せずに用いる。というのも、ベネターがこれから問おうとするのは、以上のような意味の総体を人生が持ちうるかどうかという問いそのものであるからだ。

限界の超越

多くの論者は人生の有意味性を考えるにあたって、〈限界の超越〉(transcending limits)について注目している。
ここで、「有意味な人生とは、自分が、自分自身の限界を超越し、意義深いようなかたちで他者に影響し、自分を超えた目的に仕えるような人生のことである」(A meaningful life is one that transcends one's own limits and significantly impacts others or serves purposes beyond oneself.)、とされる。(p.18, par.2)

ここで、他者に影響を与えることとはどういうことだろうか?
他者にはさまざまなかたちで影響を与えることができる。歴史を紐解けば、影響力を持った人間たちは、よい影響を与えたというよりも、死や破壊と関係するかたちで他者に影響を与えてきた。すなわち、多くの征服者や僭主、支配者や大量殺戮の指導者が、他者に対して、死や破壊という大きな影響を与えてきた。(p.18, par.3)

こうした人物たちの人生が有意味である可能性もあるが、それに反対する論者もいる。彼らは、「その目的や超越の方法がポジティヴで、有益な、あるいは価値があるようなものでなければ、その人生は有意味ではない(a life is not meaningful unless its purposes or ways of transcending limits are positive, worthy, or valuable)」と主張する*1。(p.19, par.1)

有意味性と生の質

また、有意味性(meaningfulness)はよい人生の部分をなしているように思われる
(Meaningfulness does seem to be part of a good life.)*2。そして、生の質(quality of life)と深く関わっているように思われる。けれども、有意味性と生の質とが単純に関係しているわけではない。
というのも、もし生の質という言葉が、その人生を生きる人間に感じられた質のことを指すのだとすれば、客観的には意味に欠けているけれども、本人が人生の意味を気に掛けていない場合や、自分の人生が有意味であると勘違いしている場合、主観的にはよい質を持った人生がありうるからである。こうした生の質と有意味性との複雑な関係とは対照的に、自分の人生が無意味であると考えている場合、そこには、生の質に対して非常に強いネガティヴな影響がある。(p.20, par.1)

語の整理  不条理さ absurdを例に

 人生の意味に関する問いは、あるひとには理解されるが、別のひとには理解されない。例えば、人生は不条理(absurd)かどうか、といった問いがそうである。ひとびとの理解と不理解を隔てているのは、深刻な不一致ではなく、関連する語の理解の違いなのだ、とベネターは言う。例えば、無意味な人生を不条理な人生と規定することもできるし、また、無意味ではあるが不条理ではない人生、不条理ではあるが無意味ではない人生がありうる、というように規定することができる。(p.20, par.2)
試みに、ネーゲル(Thomas Nagel, 1937-)の議論を検討してみよう。不条理を生み出すのは、「わたしたちの人生に対する真剣さと、わたしたちが真剣に向き合っているすべてが恣意的なものであり、疑いに開かれているのではないかという永続する可能性との衝突(the collision between the seriousness with which we take our lives and the perpetual possibility of regarding everything about which we are serious as arbitrary, or open to doubt)」*3であるとネーゲルは述べている。(p.20, par.3)

ネーゲルの議論をまとめると、彼は、
(a) あるひとの人生は不条理である。
(b) あるひとが自分の人生が不条理であると認識する。
という二つの条件に関して、(a)が(b)によって導き出される、と考えたのだ。逆に言えば、自分の人生が不条理であると認識することのないネズミの生は、不条理ではありえない。

ベネターはこれに対し、反論を述べる。あるひとがまったく不条理な行為をしていることを彼自身が認識していない光景をわたしたちが目の当たりにするとき、彼の無自覚ゆえに一層わたしたちは、彼の人生が不条理であると考える。従って、ベネターは、本人の自覚なしにあるひとの人生が不条理であったり無意味であったりすることがありうる、と考える(a life can be absurd or meaningless...without the being whose life it is realizing that it is so)。(p.21, par.1)

パースペクティヴ

はっきりさせておかなければならないのは、人生に意味があるかどうかという問いを問うているとき、わたしたちがどのような意味を思い浮かべているかである。ベネターは、異なるパースペクティヴ(perspective)に応じた異なる意味がある、と主張する。ここでパースペクティヴとは、そこから人生に意味があるかどうかを問うことができるような視座(persoective)のことである(perspectives from which one can ask whether life has meaning)。(p.21, par.2)

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図2.1(p.22より、一部改変)を参照しながらパースペクティヴと意味の関係について考えてゆこう。
もっとも広いパースペクティヴから人生の意味の有無を考えることができる。〈宇宙的なパースペクティブ〉がそれであり、そのパースペクティヴにおける意味が〈永遠の相の下に〉あるかどうかが議論されうる。また、より限定的なパースペクティヴから人生の意味の有無を問うこともできる。(p21, par.3)

人間全体のパースペクティヴからの意味は〈人間の相の下に〉。その下位には、国家や部族、コミュニティや家族といったさまざまな人間の集団のパースペクティヴがあり、その視座からの意味は〈共同体の相の下に〉。もっとも限定的なものとして、ある個人のパースペクティヴ、〈(個)人の相の下に〉おける人生の意味が問われうる。(p.22, par.1)

あるひとの人生は、あるパースペクティヴからの意味を獲得し、あるいは獲得に失敗する。こうした異なる意味を区別することができないとき、ひとはある種の意味の欠落や存在が、他の意味の欠落や存在であると勘違いしてしまいうる。議論に入って行く前に、いくつかの注意を述べておく。(p.23, par.1)

一つに、パースペクティヴという言葉を字義通りに解釈してはならない。宇宙や人間の全体といったものがパースペクティヴを持つわけではないし、個人でさえ、赤子や重い認知症を患ったひとはパースペクティブを持ちえない。ゆえに、これからわたしたちがパースペクティヴという言葉を扱うとき、比喩的な意味で用いることにしよう。本当の問題は、関連するレヴェルで人生が目的や影響や意義深さを持ちうるかどうかという問いなのである。(p.23, par.2)

二つに、意味とは程度の問題でありうる(meaning can be a matter of degree)。人生はあるパースペクティヴからある意味をある程度持ちうるかもしれないし、持ちえないかもしれない。それは無か有かという二値のみならずさまざまなグラデーションを持つ。

三つに、わたしたちが人生に意味があるかどうかを問う際、〈生〉の範囲は可変である(the scope of "life" may vary)。個人の人生、人間の人生一般、あるいは、あらゆる生一般について問いを設けることができる。そしてそうしたそれぞれの生に関して異なるパースペクティヴに基づく意味を問うことができる。例えば、わたしたちは個人の人生が宇宙的な意味を持つかどうかを気にかけるが、人間の全体の人生が、個人やコミュニティといったパースペクティヴから意味があるかどうかはそれほど問われない。(p.23, par.4)

四つに、次の二つの意味を区別に注意しよう。
(a)〈主観的意味〉(subjective meaning):知覚された意味(perceived meaning)
(b)〈客観的意味〉(objective meaning):アクチュアルな意味(actual meaning)

主観的に意味のある人生が客観的に無意味である場合もあるし、主観的に意味のない人生が客観的には意味のある人生である可能性もある。こうした区別を設けるのは〈客観主義者〉(objectivist)の立場である。(p.24, par.2)

 けれども、すべてのひとがこの区別を受け入れるわけではない。自分自身で意味があると感じられる人生のみが、アクチュアルな意味を持つ、とする立場がある。こうした、アクチュアルな意味が知覚された意味からのみ生まれるとする立場を〈主観主義者〉(subjectivist)と呼ぶ。

しかしこの立場には問題がある。

例えば、テイラー(Richard Taylor)は次のようなシシュポスのヴァリエーションを提示している。シシュポスが、石を転がしているのは、自覚的に無益な労働に耐え忍んでいるのではなく、寛大でひねくれた神が、シシュポスに石を転がしたいという奇妙で不合理な衝動を植え付けたがゆえである、という物語である。

もしわたしたちが主観主義の立場に立つなら、シシュポス自身が石をひたすらに転がすことを意味あるものと考えている限り、シシュポスの人生は有意味であると結論しなければならない。だが、わたしたちの多くは、彼の人生は彼にとって満足のいくものではあろうが、無意味な人生であると考える。同様に、ソープオペラを見るためだけに捧げられた人生や、他人の頭に生えている髪を数えるために一生を捧げる人生を懸けた人間がいるとして、彼ら自身が人生に意味を感じている限り彼らの人生はアクチュアルに意味のある人生である、と結論することはあまりにも奇妙だ。(p.25, par.1)

客観主義の立場に立つならばこうした問題は解決される。

ここで注意しておきたいことがある。それは、あるひとが自分自身で無意味であると感じられた人生がアクチュアルな意味で有意味である場合がある。例えば、フランツカフカ(Franz Kafka)は、自身の作品の価値をほとんど無と考え、死後友人のブロート(Max Brod)に原稿の焼却を命じた。しかし、ブロートはその指示に従わず、そのおかげで現在もカフカの作品を読むことができる。

カフカは満足のいかない人生を送ったが、彼の人生は優れて有意味であると考えられる。(p.25, par.2)

ここで、主観主義と客観主義のハイブリッドを考えることもできる。例えば、ヴォルフ(Susan Wolf)は「主観的に魅力的なものが、客観的な魅力に適合するとき、意味が発生する」(meaning arises when subjective attraction meets objective attractiveness)と述べる。この立場では、主観的に魅力的なものがなければ、意味が存在し得ないとされる。(p.26, par.1)

しかし、この立場からカフカの人生を考えると、カフカ自身は主観的に魅力的なものを感じていなかった以上、彼の人生は意味のないものであったことになるが、それは納得しがたい。ゆえに、わたしたちは、(a)人生が有意味に感じられること、(b)人生がアクチュアルに有意味であること、とを区別する。(p.26, par.2)

以上の客観的、主観的意味の区別は、さまざまなパースペクティヴの各々に対して考えられる。つまり、宇宙的、人間的、共同体的、個人的なパースペクティヴにおいて、それぞれに客観的/主観的の意味がありうる。(p.26, par.3)

主観的な意味の重要性ははっきりしているが、ここからは客観的な意味を主として扱う。けれども、特に第7章では、自死に関する主観的な意味と客観的な意味とを分析する。(p.27, par.1)

さて、次の節では、あるパースペクティヴにおける意味は獲得しうることを論証しよう。

3. (いくらか)よいニュース

さて、一般的に、より限定されたパースペクティヴにおいては、人生の意味は獲得の可能性がより高いものとなる。そこで、もっとも身近であるようなもっとも限定されたパースペクティヴから議論をはじめよう。(p.27, par.2)

個人の相の下での意味

まず、個人のパースペクティヴから見た人生の意味を考える。このパースペクティヴから見た意味の説明にはふた通りの理解の仕方がある。
一つに、個人の相の下での意味を、他の個人のパースペクティヴから見た個人の人生の意味として理解することができる。すなわち、ある個人が他者に対してポジティブな影響を十分に与えたかどうか、つまり他者のパースペクティヴに基づいて、ある個人の人生に意味があるかどうかを考えるのである。こう考えると、隠居している者や、孤立している個人を除いて、多くのひとがこの他者のパースペクティヴに基づいた人生の意味を獲得しうると言える。(p.27, par.3)
二つに、個人の相の下での意味を、ある個人の人生そのもののパースペクティヴから見たある個人の人生の意味としてとらえることができる。客観主義に基けばこの理解は以下のように解釈することができる:人生は、その人生を生きているひと自身が設けた意義深い目的や目標を達成するとき、有意味になる。
多くのひとはこの意味で、有意味な人生を送る。運動、技術、熟練、知識、理解といった自分で立てた目標を達成することができる。(p.28, par.1)
ゆえに、どちらの理解に基づいても、個人の相の下での意味は多くの人々に獲得可能なものである。(p.28, par.2)

共同体の相の下での意味

つぎに、より広域的な、人間集団のパースペクティヴ、共同体の相の下での意味を考えよう。ここで、まず、もっとも小規模で、もっとも親密である人間の集団として、家族(family)を考える。多くのひとびとは、家族において、愛され、祝福され、有意味な人生を送る。(p.28, par.3)
むろん、すべてのひとがそうではない。弱く、ときに敵対的であるような家族関係を持つひとはそうではない。けれども、やはり多くのひとびとにとって、彼らの人生は、彼らの子ども、親、兄弟姉妹、祖父母、叔父、叔母、従兄弟、甥、姪にとって有意味である。彼らの人生は家族において、重要で価値のある目的を担っている。(p.29, par.1)
次により広域的な、ローカルコミュニティのパースペクティヴから見た意味を考える。
これは家族のパースペクティヴにおける意味よりも獲得が難しい。けれども、面倒見のよい医者や、献身的な看護師、ひとを元気付ける神父や牧師、人気のラジオパーソナリティや無私で慈悲深い働き手として、ローカルコミュニティにおける意味を得ることができる。(p.29, par.2)

また、さらに大きな、国家という共同体において有意味な人生はまれである。(p.29, par.3)
ここで、足跡を残す(making a mark)ことは認知されることとは同一ではない。例えば、秘密裏に活動するエージェントはひとびとに大きな影響を与えているかもしれないが、認知されることはない。(p.29, par.4)

ここで、人間以外の動物の幸福に寄与する活動を行う人間も、共同体のパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ることに注意しよう。そうしたひとびとは、人間の共同体や人間全体に対して、間接的ではあるが、価値のある仕事をしている。例えば獣医師は、ペットを治療することで、そのペットを大切にしているひとびとに寄与する。また、動物の権利の活動家は、人間が動物の扱いに関して倫理的な過ちを犯すことを減らし、廃絶することに寄与する。(p.29, par.5)

ここでは主題的に扱うことはできないが、個々の動物のパースペクティヴ、動物の集団のパースペクティヴを考えることもできる。(p.29, par.6)

人間の相の下での意味

人間の相の下での意味を獲得しうるひとは比較的少ない。例えば仏陀シェイクスピアアインシュタインチューリング、サーク、マンデラのようなひとがこのパースペクティヴにおいて有意味な人生を送った。(p.30, par.2)
もちろん、彼らを生み、育てたひとや、教師たちは認知されない貢献を行なっているために、このパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ったと言える。(p.30, par.3)

今まででベネターは人生の意味に関して「影響を与える」「足跡を残す」「目標を達成する」「目的を担う」と言ったことを強調してきた。これは人生の意味を図る尺度としてふさわしいのだろうか?(p.31, par.2)

もしあなたの人生が家族に対してある影響を与えるがゆえに家族のパースペクティヴにおいて有意味であると考えられるなら、同様に、人類に対してあなたの人生が有意味であるとするなら、それはあなたが何らかの影響を人類全体に対して与えているからに他ならない(If your life has meaning from the perspective of your family because of what you mean to them, then for your life to have meaning from the perspective of all humanity, it must be because of what you mean to hummanity.)。家族における意味と人類における意味とに違いはない、とベネターは述べる。

今までの議論に加えて、人間の相の下での意味と、人間の共同体の相の下での意味とは区別されるべきである。家族に対してあなたの人生が意義深いものだとしても、それが直接人間全体に対してそうであるとは限らない。(p.32, par.2)

また、個人や共同体の相の下で影響を持つことは、知覚できない形で人間の相の下での意味を持つ、とする考えがある。しかし、パースペクティヴという比喩で捉えようとしている影響のちがいをぼやけさせてしまうためこの考えを受け入れることはできない。例えば、キュリー夫人と小さな街の市長の影響はやはり区別できなければならないのだ。(p.33, par.1)

もちろんこの区別の強調は、家族やコミュニティにおける意味をより広域的なものと比べて少なく見積もるために行なっているのではない。(p.33, par.2)

4. 結論 

いくらか良いニュースは、私たちの人生が、あるパースペクティヴから、有意味でありうるということだ。これがいくらか良いニュースでしかないひとつの理由は、より限定的な水準でさえ、アクチュアルに、あるいは感じられたものとしての人生が無意味であるひとびともいるからだ。さらに言えば、意味を獲得できる見込みは、一般に、パースペクティヴがより広域的になるに従って減じる。このようにして見込みが減じる傾向にあることは、より限定的なパースペクティブにおいて無意味な人生が、より広域的なパースペクティヴにおいて、まったく有意味でない、ということを示しているわけではない。というのも、例えば、家族を持たず、あるいは彼の家族やコミュニティに避けられているために、それらに対して意味を持たない者が、より広域的な水準で影響力持つことがあるからだ。

このニュースがいくらか良いものでしかない別の理由は、より広域的な、地球におけるパースペクティブから見て有意味な人生を送っている者が、彼の人生における意味で満足することは稀でしかないからだ。これは、ひとびとが単に彼らが手にすることのできるもの以上の意味を求めるからではなく、ひとびとが獲得しうる意味のほぼ全てが、限定されたものでしかありえないことによる。これが次章で向き合うことになる、悪いニュースである。(p.33, par.3-p.34)

*1:ランダウ(Iddo Landau)は、有意味な人生の条件として「十分に高い程度の有益さや価値」 "a sufficiently high degree of worth or value" を伴うことを主張している:Landau, Iddo. "Immorality and the Meaning of Life." The Journal of Value Inquiry 45.3 (2011): 309-317. を参照。注9、p.217

*2:ヴォルフ(Susan Wolf)はこの見方を持っている:Wolf, Susan. "Happiness and meaning: two aspects of the good life." Social Philosophy and Policy 14.1 (1997): 207-225. を参照。注10、p.217

*3:Thomas, N. A. G. E. L. "The Absurd." repr. in Mortal Questions (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1979) (1971), 3.

デイヴィッド・ベネター『人間という苦境』第1章 イントロダクション

『人間という苦境——人生の問題への率直なガイド』 The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions *1

はじめに

著者のベネター(David Benatar, 1966—.)は南アフリカ共和国ケープタウン大学の哲学科教授。著書に『生まれてこないほうがよかった――生まれ出るという害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』(2006年)や、『第二のセクシズム――成人男子と男児に対する差別(The Second Sexism: Discrimination Against Men and Boys)』(2012年)がある。専攻は道徳と社会の哲学、応用倫理学、法と宗教に関する哲学である*2

 ベネターは Better Never to Have Been における次のような主張によって有名である:いかなる場合においても、子供をもうけることはつねに道徳的に悪い(In all cases, it is morally wrong to procreate.)*3。これは一般的な感覚からすれば問題含みの主張であり*4、事実多くの論争を引き起こしていると言われる*5

このような記述から陰鬱でペシミスティックな、あるいはスノビッシュで奇を衒った哲学者の像が結ばれるかもしれない。

事実この本『人間という苦境——人生の問題への率直なガイド』*6 で扱われるのは、次のような陰鬱で奇妙なテーマである:生の無意味さ、死の無意味さ、自死の無意味さ、生の質(QOL)の無意味さ、不死の無意味さ。

けれども、単にひとを驚かすためにこれらのテーマが扱われるわけではない。ベネターは端々で、人生の苦境をその場しのぎでやり過ごすのではなく、真剣に議論することの価値を強調している。そして、すぐれて倫理的であろうとするなら、生と死に関する問い、そして、それらの意味に関する問いを放って置くわけにはいかないことに何度も注意を向ける。この主張には説得力があり、読者が本書に読む動機のひとつとなりうる。

加えてもうひとつ読み進める動機となりうるのは、彼の文章それそのものの魅力だろう。必要十分で乾いた論証のそこかしこに、おかしみを誘うぼやき、韜晦、とぼけが挿入され、読み進める苦痛を感じることは能うかぎり少ない。

筆者はその議論の態度と軽妙なユーモアに魅力を感じ、自分の学習と、ベネターの紹介のために、こうして読書ノートとして公開することにした。倫理学に興味のある方、人生の意味を考えているひとになんらかの形で寄与できれば幸いである*7

The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions

第1章 イントロダクション

1. 人生の大問題 Life's big questions

この本は人生の「大問題」を扱う:わたしたちの人生に意味はあるのか? 人生は生きるに値するのか? わたしたちが現在も死に近づいていることにどう向き合うべきか? 永遠に生きることはよりよいことなのか? わたしたちは自身の人生をはやく終わらせてよいのだろうか?

この問題を考えたことのない者はいないだろう。その点ではわたしたちは共通しているものの、その答え方には様々な深さや方向の違いがある。この大問題に対して、宗教的、世俗的な心地よい出来合いの答えを持ち出す者もいれば、この問題が答えようがないほど複雑であると考える者もいるし、この問題に対する答えは一般にむごたらしいものだと考える者もいる。
そして、ベネターがこれから述べるものは最後の部類に属する。つまり、この本でベネターは端的に、「人生は悪く、死もまた悪い」ことを論証する。 'Life is bad, but so is death.' (p.1-2)

これから6章にわたる議論を概観しておこう。
まず、宇宙的視点(a cosmic perspective)から見て、人生にはなんの意味もない。わたしたちの人生は互いにとって意味があるかもしれないが(第2章)、それ以上の目的はない(第3章)。
わたしたちの生活の質(quality of life)はそれがどんなによいものでも、究極的に悪さがよさを上回る(第4章)。
死は人生の苦しみからの解放であるがゆえに悪くはない、と考えられている。けれども、死は人生の宇宙的視点からの無意味さになんら対抗し得ないし、自死すら救いをもたらさない(第5章)。
不死(immortality)がもし可能でも、悪いものである(第6章)。
自死は人生の苦しみからの解放としては合理的ではある。しかし、悲劇的であり、悪い(第7章)。
人生の苦境に対する応答はなにも自死に限らない。ベネターの悲観主義に対する楽観主義の反論を論駁しつつ、別の応答の可能性を述べる(結論部)。(p.2-4)

2. 悲観主義と楽観主義 Pessimism and optimism

 ここで悲観主義(pessimism)と楽観主義(optimism)の区別をしておこう。
これらの間には、事実についての見方の違いと、事実をどのように評価するかについての二つの違いがある。

事実についての見方の違い:楽観主義者は、不幸が自分のもとには降りかからないと考えており、悲観主義者は、自分に不幸が降りかかる、と考えている。あるいは不幸な人間の数について両者は明白に異なる答えを出すはずである。

事実をどのように評価するかについての違い:使い古された例だが、コップに半分の水が入っているときに楽観主義者は「半分も水が入っている」と考え、悲観主義者は「半分しか水が入っていない」と考える。
しかし、これから扱う問題に関して、その回答の仕方が楽観主義的か悲観主義的かを判別する際には注意を要する。例えば、6章で扱う不死性について、不死性が悪いものだと考える立場は悲観主義だろうか? しかしこれは死性(mortality)がましなものだと考えているために楽観主義的な見方であるとも言える。ゆえに、この本では、人間の条件の要素をネガティブな言葉で描写する立場を悲観主義と呼び、その反対を楽観主義と呼ぶこととする。(p.4)

この節の最後に、悲観主義と楽観主義に関して注意すべき点を挙げておこう。

まず、わたしたちが悲観主義的であるか楽観主義的であるかは、扱う対象ごとに変わりうるのであって、すべてにわたって悲観主義的な、あるいは楽観主義的な態度を取る必要はない。
次に、悲観主義と楽観主義とはデジタルな0と1の問題ではない。わたしたちは、両極端な主義に振り切ることなく、正確に議論を展開しなければならない。(p.5-6)

人生の大問題に関する悲観主義的な回答は不人気である。ひとびとは悪いニュースを避けたがるものであり、楽観主義的な見方を信じたがるものである。
けれども、そうした楽観主義に馴染めず、かといって現実の過酷さを認められない者は厳しい現状にある。
しかし、人生の大問題は、その見かけに反して、回答不可能な問題などではない。単に怖ろしい(horror)ものであるだけだ。ゆえにベネターは「人間の条件」(human condition)は「人間という苦境」(human predicament)に等しいと考える。(p.7)

3. 人間の苦境と動物の苦境 The human predicament and the animal predicament 

人間の苦境は動物の苦境とそれほどかけ離れてはいない。
例えば、孵卵場で鶏のひよこは孵化後雄と雌とに選別され、卵を産まない不要な雄は粉砕や圧殺など様々な方法で処理される*8。雌として生き延びても、狭いゲージでストレスを感じながら一生を終える。
ある種の動物の苦境は人間の苦境よりもひどいと言える。

にも関わらず、この本で人間の苦境を主題的に扱い、動物の苦境について本格的な議論を行わない。次の二つの理由がある。
一つに、人間は自分が苦境にあると意識し、自殺も選択できるという点で、他の動物とは異なる。ゆえに、この点で検討の価値がある。
二つに、実際的な理由として、人間は自分たちの苦境にしか興味を持たないことが多い。ゆえに、人間の条件に関する悲観主義的な見方を打ち出すことは、人間の注意を引くことができる。(p.8-9)

4. 伝えるべきか、伝えざるべきか To tell or not to tell?

この章の最後に、悲観主義的な見方を擁護する際に起こる明白なディレンマについて考えよう。
ひとびとが人間の苦境を直視しないために様々な仕組みを用いて対処しているというのに、その鼻面に人生の苦境を、それがいかにひどいものかを強調して見せつけることになんの意味があるのだろうか?
もちろんベネターはひとを不幸にさせたくて人生の苦境を考察しようとしているわけではない。しかし、ひとびとが苦境に対処するために抱いている幻想が無害なものであるとは限らないことを指摘する。
人生の苦境に対処するための宗教が不寛容を生み出すことはしばしば見受けられる。瀆神者、同性愛者、不信心者、宗教的マイノリティに対する宗教的な弾圧の例は多く存在する。
加えて、世俗のイデオロギーによって、多くの悲惨な出来事が起こされたことも間違いがない。そして、日常的な楽観主義的なイデオロギーにも苛烈ではないにせよ多くの害が潜んでいる。ゆえに、ひとびとの楽観主義的な幻想は無害というわけではないのだ。

もちろん、ベネターは、各個人の幻想に関しては、それが他人を傷つけない限り関知しない*9
ただ、世の中に流通している心地よい書物や言説、本屋の「セルプヘルプ」(self-help)や「精神と宗教」(spiritual and religious)といった棚に並んでいる心理学的インチキ薬(psychological snake oil)に抗してこの本を書いているのだ、と強調する。(p.9-10)
最後にベネターは彼の著述の目的を述べる。

悲観主義的な書物は、すでに悲観的な見方を持っており、孤独を感じ、ゆえに精神に不調をきたしているひとびとにいくらか快癒をもたらす。他の者も自分と同じ見方を分かち持っていることを認識し、さらに、その見方が優れた議論によって組み立てられていることを知ることで快活さを得るだろう。
もちろんすべてのひとの目の曇りを晴らせるわけではない。けれども、読者の幾人かが、以前には持ち得なかった自分の立場を支持する議論の力を理解することを望む。人間という苦境を認識することは決して心地よいものではない。けれども、結論で述べるように、現実を否定せずに、現実に対処する道があるのだ。

A pessimistic book is most likely to bring some solace to those who already have those views but who feel alone or pathological as a result. They may gain some comfort from recognizing that there are others who share their views and that these views are supported by good arguments.
This is not to say that the scales will fall from a nobody's eyes. One hopes that at least some readers will come to see the force of arguments for a position that they did not previously hold. Recognizing the human predicament will never be easy. However, as I show in the concluding chapter, there are ways of coping with reality that do not denying it.(p.11) 

*1:原題は The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions.  字義通りに訳せば『人間の苦境』となるはずだが、次の理由から『人間という苦境』とした:Predicamentには苦境の他にも、論理学用語として「範疇」の意味があり、加えて、古い用法として「状態」の意味がある。ベネターは本書で、人間の存在そのものが無意味であるという立場を取っており、人間の状態が根本的に苦しみであること、人間という範疇がつねに苦しみを伴うものであることを主張している。ゆえに、Predicamentの「範疇」「状態」「苦境」という3つの意味を含意するよう、『人間の苦境』ではなく、『人間という苦境』と訳した。しかし、文中で字義通りに訳したほうが意味が取りやすい場合は適宜「人間の苦境」とそのまま訳す。predicament - definition of predicament in English | Oxford Dictionaries及びpredicament noun - Definition, pictures, pronunciation and usage notes | Oxford Advanced Learner's Dictionary at OxfordLearnersDictionaries.comを参照。

*2:Overview | Department of Philosophy

*3: ベネターの議論を整理した図2を参照。Philosophical Disquisitions: Harman on Benatar's Better Never to Have Been (Part One) 2017/07/23閲覧

*4:反出生主義に対する反応にも少し触れられているベネター本人に対するインタヴュー記事:The Critique – Why We Should Stop Reproducing: An Interview With David Benatar On Anti-Natalism 2017/07/23閲覧。

*5:例えば、Harman, E. "Critical Study: David Benatar's Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence" (2009) 43 Nous 776

*6: Benatar, David. The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions. Oxford University Press, 2017.

*7:倫理学に関して門外漢の筆者がベネターの名前を知ったのは長門氏(@nag_ato)のTweetを偶然見かけたことによる。

*8:独の研究(Laser tech may mean fewer unwanted male chicks 2017/07/23閲覧)によって孵化前に雌雄の診断を可能にする技術が開発されたとのことである。もし痛みを感覚しないことがよいという立場に立つならば、孵化前の痛みを感覚しないであろう時期にひよこを処分できることはひよこたちにとってはよいことだと言える。生命を容易に選別できることがよいことかどうかは別の問題である。

*9:ベネターはある倫理学者との会話を注記している。あるとき、『生まれてこないほうがよかった――生まれ出るという害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』(2006年)に対して反論を加えてきた倫理学者のハーマン(Elizabeth Harman)が「わたし妊娠しているんです」とベネターに言った。ベネターはそれに対して沈黙していた。そこで、彼女が「あなたはせめておめでとう、と言うべきです」と言ったとき、ベネターは「おめでとう。あなたにとってはね。しかしこれからも生まれて来る子どもにとっては、おめでたくないですね」("I am happy for you. It is your expected child for whom I'm not happy.")と言った。ベネターによれば、ハーマンは学会などでこの会話を不正確な形で広めているという。なので、正しい会話の記録を注記しておくそうである。(本書216ページ、注9)

ラテン語 ギリシア語 スタディガイド

はじめに

ヨーロッパの思想、文学、芸術、歴史にアクセスする際、ラテン語古典ギリシア語の知識が必要となる場面は多い。現在は独習に適した書物も多くあり、誰でもこれらの言語を学ぶことができる。
とはいえ、直接西洋古典語を学習している知り合いがいない場合、どの書が優れているのかは明らかではない。 

そこで、本ノートでは、初学者に向けた学習書のかんたんな読書案内をしたい。

ラテン語や古典ギリシア語に触れたいと思うひと、それから腰を入れて学ぼうと思うひと、さまざまなひとに何らかの益があればと思う。

参考になるよう、筆者の経験に加え、周囲の研究者や指導者の勧めに基づいて選書している。

以下では、1.概観 2.文法学習 3.原書購読の3つに分けて情報を記載する。

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ラテン語

1.概観

はじめてのラテン語 (講談社現代新書)

はじめてのラテン語 (講談社現代新書)

 

 2.文法学習

次に基礎的な文法学習のためには次の2冊が適している。ただし、本格的に学習する際には、二冊目のものがより優れている。

初級ラテン語入門

初級ラテン語入門

 

まず一冊目のこちらは薄く、コンパクトであり、学習の負担は大きくない。とりあえずラテン語を学ぼうというひとに向いている。ただ、この本では英語圏では一般的ではない格変化表を用いている。

というのも、この本では格変化が主格・対格・与格・属格・奪格、の順に記載されている(ふつうは主格・属格・与格・対格・奪格と続く)。そのため、続いて別の本、特に英米圏の学習書を利用する際に混乱するおそれがある。そのため本格的にラテン語を学習するひとには次の本を勧めたい。

古典ラテン語文典

古典ラテン語文典

 

こちらは先ほどのものよりかなり分厚い。それだけ例や解説が豊富であり、初学者や中級者にふさわしい。

変化表

また、以下のサイトの変化表は見やすく有用である。
ラテン語文法_Via della Gatta

3.原書購読

原著にあたりながら、読み取れない文章が現れた場合は、2.の学習書に戻りながら、どの文法事項なのかの当たりをつけ、次の網羅的な文法書で詳しい解説をみると良い。

Gildersleeve's Latin Grammar (Dover Language Guides)

Gildersleeve's Latin Grammar (Dover Language Guides)

 

原文に関しては以下のサイトを参照。英訳もあり、単語検索もでき、快適に読み進めることができる。

Perseus Digital Library

古典ギリシア語

2.文法学習

もっとも勧めたい本はこちらである。

古典ギリシア語入門

古典ギリシア語入門

 

こちらの本は見やすく、コンパクトである。CDも付属しており、発音の確認もできる。

残念ながら、2017年7月現在絶版。

 

一年以上かけて古典ギリシア語と付き合っていくなら、この本がよい。分厚く、実例を豊富に記載している本で、テキスト篇、文法篇、テキストと文法の答え、の三分冊になっており、加えて別売りのCDがある。

 

Reading Greek: Text and Vocabulary

Reading Greek: Text and Vocabulary

 
Reading Greek: Grammar and Exercises

Reading Greek: Grammar and Exercises

  • 作者: Joint Association of Classical Teachers
  • 出版社/メーカー: Cambridge University Press
  • 発売日: 2007/07/30
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An Independent Study Guide to Reading Greek

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  • 発売日: 2008/04/10
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Speaking Greek 2 Audio CD set (Reading Greek)

Speaking Greek 2 Audio CD set (Reading Greek)

 

3.原書購読

テキストはラテン語の項であげたPerseusが有用。

その際、参考にできる文法書は以下のものである。 

定評があるものはこちら。授業や演習ではこの本が指示される。

Greek Grammar

Greek Grammar

 

 日本語では以下の本。

ギリシア語文法 (岩波オンデマンドブックス)

ギリシア語文法 (岩波オンデマンドブックス)

 

辞書

どちらもインターネット上で使える信頼できる辞書がある。

Logeion

こちらはiOS版アプリケーションもある。 

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 目次及びPDF

これまで上げてきたものをPDFにまとめました。全60ページです。

内容は変わりありませんが、誤植の訂正とレイアウトの調整を行なっています。

ご入用の方はご連絡ください。

加えて、目次をまとめました。

目次

PDF見本

f:id:lichtung:20170713235151j:imagef:id:lichtung:20170713235224j:imagef:id:lichtung:20170713235233j:imagef:id:lichtung:20170713235305j:image

 

連絡先

・email: deinotaton☆gmail.com (☆を@に変えてください)

twitter: @deinotaton

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第13章 どうして聴かなければならないのだろう

第13章 どうして聴かなければならないのだろう

この章では、なぜわたしたちは音楽を聴くのか、という根本的な問いを問う。

ショーペンハウアーの音楽理解が参照されつつ、キヴィの自説が述べられる。

Introduction to a Philosophy of Music

なぜ聴くのだろう

この章では、音楽を聴くよろこびをなぜ選び取るのだろうか?(Why should you want this kind of pleasure or satisfaction instead of some other kind? )問いを扱う。(p.252, par.2)
キヴィはこの問いに答えるために、ショーペンハウアーの主張を参考する。
ショーペンハウアーは、音楽の特質を主張するために〈充足理由律〉(Principal of Sufficient Reason)を扱った。
これは、ライプニッツ(Gottfried Willhelm von Leibniz, 1646-1716)が「なにものも因果なしに発生しない」(nothing happens withoit reason)と述べたように、すべてのできごとにはかならずその因果的な理由があるという法則のことである。(p.252)
ショーペンハウアーにとって、こうした充足理由律は、わたしたちを動機付けさせ、行為へと仕向け、わたしたちに変化していってしまう時空間的の中で生きることを強制し、あれを行なったならばこれを行うことができないように論理的な限定を加え、果てしない因果の連続のなかに引き摺り込むものと考えた。(p.253)
そして、ショーペンハウアーは、芸術を、上記のようにわたしたちを時空間的に、因果律的に、論理的に、行為的に拘束している充足理由律からわたしたちを解放するものだと考えた。そして音楽をその最上のものと考えたのである。(p.254)
キヴィはこのショーペンハウアーの説を発展させ、音楽は、〈解放する〉(liberating)芸術である、と述べる。
他の芸術はすべてのなんらかのできごとを表象している。例えば物語は登場人物たちの選択を提示することで、それを享受するわたしたちに、わたしたち自身がいかに生きるべきか、という現実的な問いを投げかける。
しかし、音楽はそうした物語的内容を持たない。キヴィはその無内容性を「音楽は、毎日の生活からわたしたちを解放する唯一の芸術である」(Music, alone of the fine arts, makes us free of the world of our everyday lives.)として評価する。(p.257)
そして、キヴィは、以下のように主張する。

わたしは、絶対音楽を聴くことは、とりわけ、わたしたちの住むこの試練と苦難とあいまいさに満ちた世界から脱して、わたしたちの世界の描写の表象として解釈する必要がなく、その言葉そのものによってのみ鑑賞できるがゆえに、苛烈な痛みの解消とも正当に類比できるような解放の感覚を与えるような、純粋な音構造の世界へと誘うことだと述べているのだ。この解放の感覚は、痛みからの解放のようにポジティブなものであり、ネガティヴな感覚ではないということを強調しておく。それは単になにかしら悪いものから自由になることであるというよりも、明白な喜びや満足であるのだ。

I am arguing, then, that listening to absolute music is, among other things, the experience of going from our world, with all of its trials, tribulations, and ambiguities, to another world, a world of pure sonic structure, that, because it need to not be interpreted as a representation of a description of our world, but can be appreciated on its own terms alone, gives us the sense of liberation that I have found appropriate to analogize with the pleasurable experience we get in the process of going from the state of intense pain to its cessation. I have emphasized that this feeling of liberation, like that liberation from pain, is a positive rather than a negative feeling: that it is a palpable pleasure or satisfaction rather than simply a release from something bad.(p.260)

さいごに

キヴィはこの本の最後に、読者に向けた言葉を書き残している。この本は読者が、これから音楽に関する問いを問うてゆく助けになるように書かれたのであり、なんらかの定まった真実を教えるために書かれたのではないということを強調する。
「わたしが書いたことのすべてを信じてはいけない」(Don't believe anything I have written.)。とキヴィは明記する。そして、この本の〔そしてこの読書ノートの〕冒頭に掲げられたソクラテスの言葉をキヴィはもう一度繰り返す。

すべての議論に対してそのつど、ぼくの言うことが正しい、ともし君が思ったのなら、ぼくに賛成して欲しい。そしてもし思わなかったのならそのつど反対して欲しい。じぶんじしんをも、君をも決して偽りたくないというぼくの思いと、さらに、ぼくが去ったあとも、蜂のように、君のもとに針を残しておきたいというぼくの切望を思いやって欲しいのだ。

If you think that what I say is true, agree with me; if not, oppose it with every argument and take care that in my eagerness I do not deceive myself and you and, like a bee, leave my sting in you when I go.
(p.263)