Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

本の二つの読み方:精読型と検索型

友人が本の読み方について質問をしてくれた。自分にとっても有益だったので対話をほぼそのまま公開する。

Mさん さいきん文章を自分がどう読んでいたのかまるで思い出せないので、きちんと体系化された文章の読み方と分析の仕方を身につけ直さないといけなさそうなんですが、ナンバさんって研究のとき何/どんなやり方を心の軸に据えてますか?

––––文章の読み方は、特定の哲学者を研究するのではない限りは、「目的を持って読む」のが一番いいかなあと思います。むしろ、自分の場合は何の目的もなく勉強で読む文章は教科書くらいで、専門書を読むときは必ず目的を持って読んでいますね。もう少し具体的に言えば、自分の議論のパーツにどう使えるかとか、自分の議論の反論や反例、傍証になるかどうかを考えて読んでいます。なので、一冊の本を丁寧に読み通す、ということは、ほとんどないですね。

Mさん ありがとうございます。検索的な読み方、と言えるかも。最初の目的の磨き込みや設定が間違えているとなんか違うんだよな、的なところに辿り着いてしまう。
その本全体を読んで体感することや、作品全体の大きな構造の分析そのものが目的なら、ただ読む、あるいは細かく細かく精読する、というスタンスはあり得る。けれど議論やその材料のために使うなら、検索的に読む。

––––そうですね。例えば、ハイデガーを研究する人ならむしろ精読方式が正しいはずです。

Mさん ああ、確かに。特定の人物を研究する場合は精読になる。何かを立ち上げたりしたい時は精読というより検索っぽい感じ。

最近『自省録』を読んでいたら、自分の本の読み方が「たしかに全体を読んでいるけど、これなんで読んでいるんだっけ?」みたいな状態になっていたんですよね。読み終えることに変なこだわりが発生していたことを自覚できました。ナンバさんありがとう。

––––こちらこそ話していて二つの読み方があることに気づかされました。精読型と検索型。

Mさん 最近は普段の生活で多くの時間を占めている仕事が、テーマに対するアスリート的(研究者的?)なものではないので、いつの間にかこういうフォームの崩れが生じるからこわい。

––––フォームの崩れ、というのもおもしろいですね。たしかに、目的を定めない読書ほど難しいかもしれません。極端に言えば、誰しもが研究テーマを持って読書したほうが本を読みやすいんじゃないかな、と思うんです。論文じゃなくて、きっと作品づくりのために読む人もいると思うけれど、何かしら目的をもって本を「使う」という目論見のもとで本を精読するのか、検索するのかを決めるとよいのでしょうね。

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)書評*機能についての不明点と研究態度へのコメント

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)は、「本書は、今日のVTuber文化の中で活躍するVTuberの典型的な特徴を抽出し、その特徴をある統一的な観点から体系的に解釈することを試みる著作であ」り(i)、その目論見に従って、全5章にわたりバーチャルYouTuberというアバターをまとった配信者文化についての研究を行うものだ。

本書評は、山野の議論の中核をなすVTuberの定義と、山野の研究態度についての批判を行う。

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)

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「彼女/彼/彼らをVTuberとする!」と私たちは宣言しているのだろうか?

山野は、VTuberをこう定義している。

我々は、「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる(23)

ここで私はいきなり分からないのだが、「我々は「〜」という事態を、そう宣言することで成立させる」という「我々」はなんなのだろうか。ここでは、ジョン・サールによる制度的対象についての議論を参照しており、前項には、国王という制度的対象を創り出す地位機能宣言について説明している。

なるほど、国王、あるいは貨幣については、「我々」つまり、あなたや私を含めた人々がその地位機能宣言に渋々、あるいは熱狂的に関わっている、というのがサールの見立てである。

しかし、山野が言うように、私たちは、誰かをVTuberにしたりしなかったりしているのだろうか?

「我々」である私たちは、「「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させ」ているのだろうか? 

私たちはそもそもVTuberを地位機能としてはみていないように思われる。

なぜなら、私たちは、VTuberに対して、国王や貨幣のような制度的対象が持つ独特の「機能」、例えば、法を制定したり、物品交換のために使用できるパワーをほとんど認めていないように思われるからだ。

VTuberにはサール的な意味でのいかなる機能もないように思われる。VTuberはたんに表現者あるいは表現物であり、VTuberに政治家のような不逮捕特権を認めてもいないし、VTuberが貨幣を作ることもできない*1

いったい山野の言う機能とは何だろうか?

VTuberアイデンティティを保持しているだけで機能を果たしているのだろうか?

もちろん、山野は「機能」について解説してくれている。

「「VTuberとして活動する」(言い換えれば「一般に「VTuber」として受容されるような活動を行う」)」こと機能と呼んでいる箇所が注にある(注34, 52)。そして、「VTuberとして活動する」は「VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことだという(43)。

そうすると、VTuberの定義はこうなる。

我々は、「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる」こと。

だが、VTuberの機能が「VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことだ、というのはよく分からない。

例えば、国王の機能は国を統治したり戦争を終わらせることにあるのではなく、「国王としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」というのはピンとこない。

もちろん、「国王としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ということは国王の「ごく普通の意味での機能」の一つではあるが、国王をはじめとして、教師や親や子どもといった他のあらゆる人間が素材となるタイプが持つごく普通の意味での機能であり、サール的な社会存在論の枠組みにおける機能というにはあまりにも社会的な力を持たない。

山野はこう反論するかもしれない。第一章では、アイデンティティの中身を身体的/倫理的/物語的アイデンティティとして特定することでVTuberの機能を具体化しようとしている。そうすることで、「アイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことに独自性を与えているのだ、と。実際、山野は最終的に次の定義を提示している。

我々は、「身体的・倫理的・物語的なアイデンティティの結びつきによって生じるVTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる(43)

しかし、そうやってアイデンティティに中身を与えても、VTuberが持つとされるのは「ごく普通の意味での機能」であって、社会存在論的な枠組みにおける制度的対象と関わるタイプの機能と言う必要がない。

例えば、もしもアイデンティティを保持しながら活動状態にあることがVTuberの機能なのだとしたら、例えばその活動が長く頻繁だとVTuberとしての高評価になるのだろうか? もちろん活動が長ければ褒められるかもしれないし、頻繁ならファンは嬉しいだろうが、VTuberとしての評価とは言えない。

同じように、国王も在位期間が長いと、いい感じがするかもしれない。けれど、国王としての機能はそこにはないだろう、という感じがする。調印をしたり、議会を開いたり閉じたり、外交したりするのが国王の機能であり、こうした特定の目的に向けられた機能の遂行で国王は評価される。

閑話休題:山野のVTuberの定義は天皇の定義に使えるので良い

ちなみに、山野のこの特徴づけは興味深く、「アイデンティティを保持しながら活動状態にある」こと自体が社会的な力を持つ顕著な事例が日本にただ一つある。それは、日本における国家の象徴として生きる「天皇」という制度的対象の定義としてはよく出来ている。

我々は、「身体的・倫理的・物語的なアイデンティティの結びつきによって生じる天皇としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという条件を満たす任意の人間が、日本文化において「天皇」という地位を有し、天皇としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる。

これはかなりいい天皇の定義である。天皇が行うのは国事行為であり、天皇は活動状態にあるということこそが機能だからだ。そのため、山野のこの定義は「天皇の哲学」をする際にはかなり役立つだろう。日本のナショナリティを考察するうえで重要な文献となることは間違いない。

機能の別の活かし方がある

話を戻そう。山野のVTuberの機能に基づく特徴づけはうまくいっていない。「VTuberを制度的存在者」とするメリットはない。

しかし、山野の主張を改善する方策はある。後の章で、山野はVTuberを芸術作品だと言っている。そこで、VTuberの機能というからには、VTuberの中核的価値が評価されるような基準にその機能の成否が関わっているように定義してやればよい。

しかしもちろん、身体的/倫理的/物語的アイデンティティを保持しながら活動状態にあること自体はVTuberの中核的評価にはあまり関わらないだろうから、それは一旦脇に置くとよいだろう。

なので、山野が、あるいは山野のラインに共感する読者がVTuberの定義で機能を使うなら、山野が第五章でステッカーの『分析美学入門』を引いて批判している芸術の定義における(美的)機能主義的説明の方が馴染みがよさそうに思える。IsemingerやZangwillなど興味深い論者がいるこちらで頑張ってみる方がよさそうだ。

文献を紹介しておこう。まず、芸術の機能主義的定義については、サイモン・フォクトの次の論文が簡便にまとまっていてよい。

Fokt, S. (2015). A critique of functionalist definitions of art. Kultura-Społeczeństwo-Edukacja8(2), 27-46.

それから、スティーブン・デイヴィスの論文集に収録されている機能主義と制度主義の対立の整理も役に立つだろう。

Davies, S. (2007). Philosophical perspectives on art. Clarendon Press.

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ザングウィルの次のものもしばしば論じられる。

Zangwill, N. (2007). Aesthetic creation. OUP Oxford.

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芸術の機能主義はやや人気のない立場だが、自分はこういう一点突破で頑張る研究はカッコよくて好きなので、ぜひこちらで研究していただきたい。

研究態度についての批判

私がもっとも違和感があるのは、第五章「生きた芸術作品としてのVTuber」で、松永伸司『ビデオゲームの美学』の議論を参照し、VTuberが「芸術作品」「芸術形式」だと言う部分である。

VTuberとは芸術作品を生み出す「芸術家」であると同時に、自らが「芸術作品」そのものである二重の身分を持つ存在である。(245)

ここで、引用元の松永が強調するように、松永が用いる「芸術」は一つの理論的な立場込みの表現であり、(松永はやや否定しているが)ラーメンや日用品のデザインもまたその意味で「芸術」となりうるような概念である。だが、山野は松永のこの留保を書き写しておらず、読者に対してあまり親切ではない。

山野の書きぶりは、特殊な意味で定義されている「芸術」ラベルを、ハイアートの芸術ラベルにすり替えることでVTuber文化を殊更高尚に見せようとしているようだ。

VTuberを「芸術家」であると言うとき、一般的な褒め言葉としての「芸術」に寄っている。だが、「芸術家」の定義はこの本のどこにもない。

山野の研究態度に対する批判となるが、美学者たちが芸術の定義を何のために行うのか、その理由に自覚的であろうとしてきたことに無自覚なのが残念だ。

ダントーやディッキーは新たな芸術表現の登場に直面して新たな定義を考察してきた。松永は、ナラデハ特徴とリンクさせるための定義を提示した。

なぜなら、「芸術」というラベルと概念は、ときに破壊的な帰結を引き起こすからだ。ナチズムにおける音楽や映画の芸術利用、そして、芸術化されることで女性のヌードが鑑賞してよいものとしてエロス化される事例など、「芸術」というラベルと概念は魔力を持っており、それを慎重に運用することが研究者には求められる。

対して、山野の議論には、そうした美学的、哲学的に検討された動機づけが書かれていない。慎重さもない。たんにVTuberが芸術的に思えるから芸術かどうか考えてみよう、くらいのものであると私は読み取った。

華美なエフェクトと共に歌い、踊るVTuberたちの姿は、まさに「芸術的」と形容することが可能な存在である。(228)

VTuberの活動の軌跡とも言えるアーカイブのページは、まさに「芸術作品」が展示されている博物館のようにも思えてくる。(228)

こうした、研究対象との距離があまりにも近い記述に私は危惧を覚える。私の読み取りが悪いのかもしれないが、単にVTuberのファンが箔付けのために哲学を利用して、VTuberを「芸術」だと言いたいだけに見える。ここで山野は、研究対象との距離を適切にとりそれらを考察する研究者ではなく、研究対象をまず肯定するファンに見えてしまう。

ポピュラー文化を哲学やアカデミックで箔付けする行為は散々批判されてきた。ここで私は文献を挙げることはできない。

しかし、ポピュラー文化研究をしている人にとって「研究対象のファンであること、愛好者であることは前提かもしれないが、それでもなお、研究対象を批判的に分析すること、その政治性やジェンダー不平等なメカニズムに鋭敏な感覚を向け、鋭く批判すること」は、研究者としての倫理的な態度のスタンダードになっている、と私はかなり確信している。

山野には、あるいは、山野だけではなく、バーチャルYouTuberやポピュラー文化を研究する人には、こうしたポピュラー文化研究の態度について、つねに気にかけて欲しい、と研究者として思う。

山野はこの本で、VTuberを「哲学」というラベルで箔付けようとしているようにわたくしには見える。こういう表現もある。

こうした切り抜き動画の在り様は、さながらある思想家や哲学書の解説書の如きものである。『ハイデガー存在と時間』入門』や『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』といった著作があるように、例えば『月ノ美兎入門』、『兎田ぺこら入門』、『因幡はねる入門』といった「解説書」のようにな役割を切り抜き動画は担っている。(254)

こうした物言いをみると私は深く悲しくなる。なぜ、もともとの動画が『存在と時間』「人間の条件」に喩えられなければならないのか? VTuberの動画を哲学書に喩えることで数多くのものが失われることに私は一人のある程度のVTuber文化の愛好者として苦しみを覚える。切り抜き動画は解説書だと言われて、切り抜き動画を作る者たちの何人が喜ぶのだろうか?

こんな箔付けをわたくしは好まない。

ポピュラー文化研究、表象文化論、美学研究の歴史を見てもらえば、あるいは、今生きている無数の研究者たちの研究態度を眺めてもらえば、彼らはみなこの危険に自覚的であることが分かるだろうと思う。山野だけでなく、私は、ポピュラー文化を箔付けするような態度で接近する哲学研究者のすべてに反省を促したい。

*1:しかも、議論のためにVTuberが制度的対象だとしても「我々」が地位機能を与えるからVTuberとしての地位を有することを成立させられるという事態がいったいどうやって実現しているのかうまく把握できない。

移民ユートピアを求めて:Aimee Bahng(エイミー・バン)『Migrant Futures(移民的未来)』の紹介

概要

金融投機や経済発展の物語に翻弄されるのではなく、そこから解放される道があると、サンフランシスコ州立大学のエイミー・バンは主張している。

バンは、People of colorの作家たちによるスペキュラティブ・フィクションこそが、新しい未来を切り拓く鍵なのだと説く。バンが『Migrant Futures』で分析するのは、1990年代以降に書かれた作品群だ。これらの作品は、SF的な設定を通して、植民地時代の負の遺産や、科学技術が生み出した負の側面を鋭く指摘している。そうすることで、近代の進歩的な神話に異を唱え、西洋中心主義を解体しようとしている。

Duke University Press - Migrant Futures

たとえば、カレン・テイ・ヤマシタの『熱帯雨林の彼方へ』は、フォード自動車がブラジルに造ろうとしたゴム農園の失敗を描いている。この作品から、環境破壊や人権侵害に満ちた企業活動の実態が浮かび上がってくる。

一方のナロ・ホプキンソン『真夜中の強盗』は、近未来の世界を舞台に、身体が変異したキャラクターたちの冒険を描き出し、生物学的な境界を越え、新しい「家族」のあり方を示唆している。これらのフィクション作品が描くのは、従来の発展の物語からは見えてこない世界。移民やPeople of color、クィア/トランスを生きる人々の生き様が、新しい未来観を提示している。

たしかに資本主義社会は日々、発展と成長を約束し、金融投機(financial speculation)で未来を商品化しようとする。しかしそこには、権力から追放された人々の視点が欠落している。

グローバル資本主義に翻弄されるなかで、未来を金融的に投機する=スペキュレイトするのではなく、フィクション空間の中で思弁する=スペキュレイトすること。バンが描くのは、別の賭け=スペキュレーションの可能性だ。

各章について

Chapter 1: インペリアル・ラバーの投機の流れ カレン・テイ・ヤマシタの熱帯雨林の未来

カレン・テイ・ヤマシタのフィクション『熱帯雨林の彼方へ』は、アマゾン熱帯雨林における歴史的かつ新植民地主義的な搾取、特にゴム採取に焦点を当てている。本章では、この作品とフォードの物語を通して、帝国主義、資本主義、環境・社会への影響を批判的に検証し、事実の歴史とスペキュレイティブな要素を交錯させ、開発と搾取の物語に挑戦する。

Chapter 2: 祖国の未来

本章では、スペキュレイティブ・フィクションと国境安全保障戦略の交錯を検討する。アメリカの国土安全保障省がSF作家と未来の脅威を想像するコラボレーションを行う中で、フィクションが軍事・治安戦略に与える影響が浮き彫りになる。メキシコとの国境での監視と治安強化を助長するこれらのシナリオを批判し、未来の国境の姿をめぐるメディアの描写を分析する。

Chapter 3: 投機と膣鏡

投機的経済と生殖技術のなかでPeople of colorの女性が被るインターセクショナルな苦境を扱う。代理出産や生殖労働のナラティブを通じて、商業的代理出産産業、特にグローバル南の女性の搾取が論じられる。ディストピア的未来の描写を批判し、生殖技術、帝国主義、資本主義に関わる言説を批判する。

Chapter 4: アジアの世紀の残酷な楽観主義

シンガポールや中国による太平洋での大規模な土地造成計画とその地政学的、経済的、環境的影響が考察される。シンガポールの変容と中国の南シナ海における領土主張の背後にある島々の開発に着目し、これらを「アジアの世紀」、投機的経済成長、アジア台頭に伴う周縁化された集団の課題といった広範なテーマと関連づける。

Chapter 5: ソルト・フィッシュ・フューチャーズ:照射された太平洋とヒトゲノム計画の金融化

太平洋での核実験の環境的・生物学的・社会政治的影響と、遺伝子研究の商品化を論じる。マーシャル諸島における米国の核実験の影響を検証し、遺伝学の金融化へのシフトを追う。ラリッサ・ライの「ソルトフィッシュガール」を手がかりに、新自由主義的未来主義を批判し、核実験と遺伝子実験の歴史的トラウマを認識した上での公正でインクルーシブな未来観を提示する。

エピローグ: 言説としての投機、豊穣としての思弁

サミュエル・ディレニーとミシェル・フーコーに基づき、言説が未来理解をいかに形作るかを探る。支配的パラダイムに挑戦し、特にマージナルな視点から別の未来を想像するSFの役割を強調する。ここでは、グローバル資本主義の枠組みを超え、関係性、経済、存在の在り方を新たに構想するSFの可能性が強調され、「移民的未来」は抵抗と創造性の実践として位置づけられている。

 

バーチャルYouTuberというフィクションをスポイルする鑑賞を愛していることについて

バーチャルYouTuberを視聴するとき、私がまなざす対象の一つは、そのアバターである。アバターが動いている。もう一つ、私が耳を向ける対象は声である。動画内の、あるいは歌声の。あるいはさらにしばしばバーチャルYouTuberはゲームプレイをしているので、ゲーム中のプレイアブルキャラクタたちもまた私の目を捉える。あるいは、配信を離れて、XやInstagramといったSNSのテキストを読む。

アバター、歌/声、プレイヤブルキャラクタ、テキスト。これら様々な現れと関わることで、私はバーチャルYouTuberを鑑賞していることになる。これらの現れを、私は「ペルソナ」と呼ぶ。

だが、私は、その先について何かを感じている。つまり、アバター、歌/声、プレイアブルキャラクタ、テキストの先にある何かに対して関心を向ける。その関心の先にある対象。

もちろん、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、その先に何の関心もない人がいるかもしれない。たとえば、哲学者の山野弘樹の論考をみると、山野はバーチャルYouTuberの先には関心がなさそうである。あくまでバーチャルYouTuberとは、それ自体独立した存在であり、独自の人生の物語を生きている、と考えているように思われる(山野 2022)。

たしかに、バーチャルYouTuberの先にある人の人生を考えないことが、バーチャルYouTuberの鑑賞にあたってもっとも適切だと道徳的に結論されるかもしれない。山野のような態度は、バーチャルYouTuberを鑑賞する、という態度として、文化内的にかなり適切な態度に私には思える。バーチャルYouTuberとして配信をする人々にとっても嬉しいだろう。

だが、そうした人々が大勢だとすれば、バーチャルYouTuberに対する誹謗中傷は起こり得ないし、彼らの実名やバーチャルYouTuberとしての労働を始める前の姿を暴こうとやっきになったりする人々はいないだろう。実際は、私たちは、バーチャルYouTuberの先の何かを気にかけ、愛し、憎んでいる。

こうしたバーチャルYouTuberの先の対象をパーソンと呼ぼう。パーソンとは、とりあえずは、バーチャルYouTuberの中の人と呼ばれるような、この世界に生きている、現実の人物であり、多くの場合に戸籍に登録されており、税金を払ったり、国民保険料を払ったり、食事をしたり、病気になったり、誰かに恋をしたり、しなかったり、バーチャルYouTuberとして労働し、その労働にときに苦しみ、喜び、あるいは趣味としてバーチャルYouTuberとして配信することを楽しんでいるような、私たちとよく似た人間である。

私は、バーチャルYouTuberの現れと同じくらい、その向こうのパーソンのことが気になっている。それも、彼らがバーチャルYouTuberとして配信をしたり動画を撮ったりSNSに投稿したりしている以外の瞬間のありようが気になっている。パーソンが事務所に所属している場合には労働者としてより適切な地位と労働条件で働けることを陰ながら願ったり、個人の趣味として生きたり、自分の様々なアイデンティティを試行する場としてバーチャルYouTuberという枠組みを利用していることを遠くから祝福したりするようなとき、私は、バーチャルYouTuberとしてのペルソナだけでなく、その向こうの、バーチャルYouTuberとして現れていないその人そのもの、パーソンのことを志向している。

私は、バーチャルYouTuberを「バーチャルYouTuberを見ている」というフィクション内においては、山野の言うような穏健な独立説で描かれるような、パーソンでもなく、キャラクタでもないような独立した存在者として眺めることは非常に適切であると考える。

しかし、私は、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、フィクション内にのみ留まって鑑賞することは、一つの鑑賞のあり方ではあるが、すべてを尽くすものではないだろうと考える。私が提示したいのは、山野のように、配信上のフィクションを支えている経験を明示化し、それを典型的なものとして描く言説ではない。

私が説明したいのは、人々が、バーチャルYouTuberに対して誹謗中傷をし、バーチャルYouTuberとして働く前の姿を暴こうとするような、バーチャルYouTuberを適切に鑑賞するわけではない、不適切で、不愉快で、下世話で、バーチャルYouTuberというフィクションを破壊するような、スポイル的鑑賞についてである。それは同時に、バーチャルYouTuberの労使関係を議論したり、労働について批判したりできるような、フィクションから漏れるようなバーチャルYouTuberとの関係性である。

そうした関係性を語りたいと思うのは、私がバーチャルYouTuberを単体で愛しているというよりは、バーチャルYouTuberを鑑賞するコミュニティの運動、うねり、情念に対して強く惹かれていることが主な理由だろう。そこには、少なからず性的欲求や、承認欲求や、商売っ気や、差別的な雰囲気が渦巻いており、その奇妙な情念のバザールに私は惹かれ続けている。そういうわけで、私はバーチャルYouTuberのファンではないだろう。バーチャルYouTuberのファンの愛好家といったところだろうか。

こうした態度になるのは、私が哲学者ではなく、美学者だからかもしれない(と言うと美学者仲間にそれは違う、と言われそうではある)。

参考文献

山野弘樹. (2022). 「バーチャル YouTuber」 とは誰を指し示すのか?. フィルカル: philosophy & culture: 分析哲学と文化をつなぐ, 7(2), 226-263.

ジュディス・バトラーのパフォーマティビティ概念とメタ/クィア批評の意味について

パフォーマティビティとは何か?

発語内行為や発語媒介行為を発語行為以外にも拡張可能だ。レイ・ラングトンが論じるポルノグラフィの言語行為論的分析は、画像提示内行為や画像提示媒介行為と理解できる(cf. Langton 1993)*1

一般化し「表現内行為」「表現媒介行為」を考えよう(難波 2019)*2

表現内行為、表現媒介行為は、もちろん、特定の状況で成功したり不発だったり効力を発揮しなかったりする。あるポルノグラフィを分析のために学術的に引用するとき、それがもし女性をモノ化する表現内行為/表現媒介行為を元の文脈で発揮できていたとしても、その力は剥ぎ取られうる。

特定のジェンダーを割り当てられた者が、それに反した割り当てを自らに行い、逸脱して振る舞い・おしゃれ・香りを漂わせるとき、それは確かにバトラーの言うようなタイプの「不適切な文脈での不発に終わる・効力のない表現内行為/表現媒介行為」を行為することができる。

それによって、「その当人がジェンダー割り当てを行う権威を持つべきだ」という表現内行為を成立させることはかなり多くの場合できるだろう。「抗議」「抵抗」「非難」といった行為だ。

しかし、その表現行為が周囲の人間に、当人が望んだような表現媒介行為を成立させるかどうかはかなり文脈と当人の行為次第である。たとえば、ジェンダー割り当ての権威を当人に与えるべきだと周囲が信じたり、当人をサポートしたり、集合的に行為し始めたりするかどうかは、時と場合による。

ゆえに、撹乱的な表現行為がどのような政治的帰結をもたらすかは、かなり具体的な状況によって変わる。すなわち、バトラー的なパフォーマンスが成立しても、それが社会を撹乱できているかどうかは具体的に分析する必要がある。たとえば、規範のどこに効いたのか、どういう信念を変容させたか。

クィア批評を分析する

クィア批評がある行為をパフォーマティビティを指摘することには意味がある。どのような表現内行為、表現媒介行為が行われているのかを辿ることは非常に価値がある。しかし、パフォーマティビティの存在が即社会の撹乱を実際に遂行したかどうかはつねに議論が必要なところになる。

クィア批評は、表現内行為、表現媒介行為が成功したか、どのように失敗したのかを分析することで、より政治的な運動に資するものになるように思われる。しかし、これはメタクィア批評的であり、クィア批評そのものが、表現内行為/表現媒介行為を遂行しようとしていることが多いだろう。

メタ/クィア批評を両方とも遂行することで、私たちは、バトラー的なパフォーマティビティの概念を、より社会批判に資するものとして活用できるだろう。その際には、オーソドックスなオースティンを始めとする言語行為論とその現在も活発に議論されている系譜を参照することが有益だろう。

つまり、クィア批評の目的は、少なくとも以下の三つである。

(1)異性愛規範や健常規範を始めとする、何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為をパフォーマンス、作品、歴史に見出し、どのように成功し、失敗しているかを特定すること。

(2)そのかなり広い意味での発語媒介行為がもたらした影響を特定すること。の2つがまず挙げられるだろう。
さらに、

(3)上記を遂行することで、クィア批評をするという行為自体が何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為を成立させる。

以上のように整理すると、クィア批評がいったい何を目指しているのか、部分的にせよ、それを行っていない人にも伝わるように思われる。

参考文献

Langton, Rae, 1993,“ Speech Acts and Unspeakable Acts”, Philosophy and Public
Affairs, Vol. 22, No. 4, Fall.

Boucher, Geoff (2006). The politics of performativity: A critique of Judith Butler. Parrhesia 1:112-141.

*1:これは私が修論で論じた点である。

lichtung.hatenablog.com

*2:これについては以下のブログ記事が元になっている。

lichtung.hateblo.jp

「可能性の地平線:ニューロクィア理論に関する若干のメモ」を紹介する

日本ではそれほど十全に紹介されていないクリップ理論(身体的・認知的インペアメント、ディスアビリティの解釈、分析を通して、健常性規範に挑戦する枠組み)の中で、とりわけ、ニューロクィア(neuroqueer)という概念は、じわじわと、確実に広がっている。

そもそもクリップ理論のなかで、身体的なインペアメントやディスアビリティが注目されてきた、という歴史がある。そのなかで認知的インペアメント、ディスアビリティ、すなわち、自閉症ADHD、LDなどを始めとするあり様について人文学的、クィア理論的解釈はまだ十分に試みられているとは言えないようだ。

その中で、ニック・ウォーカーは認知的インペアメント、ディスアビリティの議論で頻出する「ニューロクィア」概念を提示した一人であり、Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities に収録の「可能性の地平線」というテクストの中で、、ニューロクィアという概念を紹介している。この概念は、クィア理論と神経多様性の交差点から生まれ、神経認知行動をめぐる社会規範に挑戦している。

本記事では、ニューロクィア概念についてこのテクストをまとめながらかんたんに紹介する。

Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities

https://amzn.to/3S55Ccy

書誌情報:Walker, A. 2021. Horizon of Possibility: Some Notes on Neuroqueer Theory. Neuroqueer Heresies, in Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities. Fort Worth, TX: Autonomous Press.

クィア理論とニューロクィア理論

ウォーカーは、ヘテロ規範に対するクィア理論の挑戦を、ニューロクィア理論がニューロ規範に投げかける挑戦と結びつけている。彼女は、ジェンダーセクシュアリティが固有のものではなく、社会的に構築されたパフォーマンスであるように、ニューロ認知的な行動もまた、社会的期待によって形成されたパフォーマンスとして理解することができると主張している。

もしジェンダーが特定の行為を習慣的に行うことによって維持されるのであれば、ヘテロ規範とヘテロ規範的なジェンダーの役割は、ヘテロ規範的なパフォーマンスから創造的に逸脱し、ヘテロ規範的なパフォーマンスとファックするような実践に携わることによって、破壊され、変容し、修正され、緩められ、逃れられ、そして/またはより流動的にすることができる。そのような実践に従事することは、一般的にクィアリングと呼ばれている。……後天的に身についた神経型パフォーマンスの習慣から自分を解放し、ニューロダイバージェンスを体現させる過程は、ニューロ規範をクィアリングする過程と言えるのかもしれない。(Walker 2021)

神経本質主義とその限界

彼女は、ニューロダイバーシティを厳格な二元論で捉えるニューロ本質主義を批判している。ウォーカーは、より包括的で流動的なアプローチを提案し、そこでは神経多様性は、自然と育ちの両方によって形成されたさまざまな経験を包含する。

実践とアイデンティティとしてのニューロクィア

ニューロクィアは動詞であり、そしてアイデンティティでもある。ニューロクィアリングに取り組むということは、神経規範的な行動から積極的に逸脱し、社会規範に挑戦することを意味する。ウォーカーは、「ニューロクィアとは、神経規範と異性愛規範の両方を積極的に破壊することである」と強調する。「ニューロクィアとは、規範的なパフォーマンスの要求に意図的に従わないことである」と。

ニューロクィアが何よりもまず動詞であることを強調し、破壊的で変容的な実践の創発的配列としてニューロクィアリングに焦点を当てる理由は、私の最優先事項が、創造性、幸福、そして美しい奇妙さに対する人間の潜在能力の育成であり、そのような潜在能力を実現に導く能力は、究極的にはアイデンティティのラベルの選択ではなく、実践の選択にかかっているからである。しかしもちろん、新しいアイデンティティや名前、ラベルを戦略的に採用すること自体が、変革的な実践として機能することもある。(Walker 2021)

パフォーマンスと素質

この理論は、神経的認知的行動における生得的要因の役割を認めると同時に、社会的条件付けの重要な影響を強調する。ウォーカーは、純粋な本質主義や社会構築主義的な見方に反対し、個人の独自性を認めるハイブリッドな理解を提唱する。

私のニューロクィア理論の概念に影響を与えている私自身の立場は、本質主義モデルも社会構築主義モデルも、それだけで捉えると過度に還元主義的だというものだ。私が好むのは、両方のモデルの要素を取り入れた、より複雑なハイブリッド理解であり、おそらく80%が社会構築主義、20%が本質主義といったところだろう。このハイブリッドな理解は、ジェンダーの役割やジェンダー・パフォーマンスのルールは社会的に構築され、植えつけられたものであるが、人間個々人もまた、多かれ少なかれ生まれつきの傾向や可能性(その人の性器の形や、いわゆる「生物学的性別」とはまったく関係のない傾向や可能性)を持っているという前提に基づいている。(Walker 2021)

ニューロクィアリングの実践

ウォーカーは、抑制された自閉症の手の動きを取り戻すなど、ニューロクィアリングの例を示す。彼は、このような実践が社会規範に対する反抗行為であるだけでなく、個人の信頼性と創造性への道でもあることを強調する。

自閉症者は生来、手を使って刺激を与える傾向がある。この刺激は、程度の差こそあれ、規範的な演技の規則に違反するさまざまな形をとることがある(例えば、手をばたつかせる、風になびく木の枝のように宙を舞う、空間のパターンをなぞる指の曲がりくねった動き、手や指をこすり合わせる、手や指が表面を探ったり、なでたり、たたいたりする)。
      
応用行動分析学(ABA)は、虐待的でトラウマを誘発する転換「療法」の一形態であり、神経多様性のある子どもたちに規範的なパフォーマンスを強制することを目的としている。ABAの加害者は、被害者の手をコントロールすること、特に手に関連する刺激を抑制することに、不気味なほど、時には執拗なまでに、大きな焦点を当てることが多い。このような文脈でABA実践者が「手を静かに!」という命令を使うことから、自閉症解放のスローガンのひとつとして「大声の手(loud hands)」というフレーズが採用されるようになった。ニューロダイヴァーシティのボディマインドを服従させるための戦争、そしてその服従に対するニューロクィアの抵抗において、私たちの手は、身体的・象徴的レベルの両方において、特に重要な争いの場となっている。(Walker 2021)

アイデンティティ・ポリティクスを超えて

ニューロクィア理論は伝統的なアイデンティティポリティクスを超え、アイデンティティを流動的でカスタマイズ可能なものとみなす。ニューロクィア理論では、神経的認知の出発点に関係なく、誰もがニューロクィアに関わることができるという考えを推進している。ウォーカーはこうまとめる。

ニューロクィアは、アイデンティティを流動的でカスタマイズ可能なものとして扱うだけでなく、根本的に包括的であることによっても、本質主義的なアイデンティティ政治を超越している。

結論

「可能性の地平線」は、ニューロクィア理論のレンズを通して、ニューロダイバーシティを受け入れ、ニューロノーマティビティに挑戦することを呼びかけるテクストだ。神経認知体験をより広く、より包括的に理解することを提唱し、社会規範を覆す実践に携わることを個人に促している。

ニューロクィアの理論と実践を理解し、それに参加しようとする人々のためのガイドとして、広く読まれることを望んでいる。最後にウォーカーの最後の文を引用して終わる。

神経規範と異性愛規範は、要するに、人間の可能性を人為的に制限するシステムである。その性質上、私たちの可能性を制限している。ニューロクィアとは、そうした制限に縛られることを拒否することである。強制的神経規範や強制的異性愛規範という制限的な慣習が存在するところには、何らかの方法でそれらの慣習をクィア化することによって、創造的な可能性の新たな地平を開く可能性も存在する。ニューロクィアの実践の可能な形態と地平は、事実上無限である。結局のところ、クローゼットの外の空間の広さは、クローゼットの中の空間の広さよりも常に無限に大きいのだ。(Walker 2021)

難波

人間の4つの実存方略――物語的自己、ゲーム的自己、おもちゃ的自己、ギャンブル的自己

人間の生き方には4種類ある*1

  1. 物語的自己:なんでも物語にしてしまう。「動機は?」「意味は?」「つながりは?」
  2. ゲーム的自己:なんでもゲームにしてしまう。「どっちが強い?」「いま効率的?」
  3. おもちゃ的自己:なんでもおもちゃにしてしまう。「どんな反応する?」「どう遊ぼう?」
  4. ギャンブル的自己:なんでもギャンブルにしてしまう。「どこまで賭けられる?」「何が起こる?」

§1

これまで哲学、特に倫理学では物語的自己(narrative self)の議論がなされてきた。その研究は分厚く、門外漢の私には触れ得ないほどにあるが、傍で見ているだけでも価値のある研究がなされ、物語的自己の分析が進んでいるように思われる。

しかし、物語的に自己を組み立て世界を理解している人は世の中にそんなにいない。なのに、物語的自己がここまで深く倫理学的に考察されているのはなぜか。それは、物語的自己の人とは、主に倫理学に関心のある人だからだ、と憶測する。

私はまったく物語的自己ではない。私は人の動機について考えたり、自分の動機について考えたり、自分の過去と現在のつながりをあまり考えたりしない。

物語的自己は、おそらく、近代において小説の誕生や書籍形式での物語小説の一般化によってメジャーになった近代的な自己了解であろう。物語的自己はレトロスペクティブな過去を編集する自己である。彼女のセルフケアは、セラピーである。哲学者で言えば、ウィリアムズ、テイラーであろう。

§2

現代は、ゲーム的自己の時代である。ゲーム的自己(gamic self)*2とは、「人生ハゲームデアル」というメタファーで生きている。周りの人と自分の達成を比べ、これからのキャリアアップを考え、自己の修練を欠かさず、目標に向かって最適な効率を見つけ出そうとする。

このメタファーは、しばしば成長物語の形式と組み合わせられる。ゲームというメタファーは「段階ごとの成長」という性質を人生に照射する(難波 2021)。例えば、『弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、ガガガ文庫講談社、2016年〜)という人気ライトノベルはゲーム的自己の物語である。主人公友崎はある時出会った「リア充」である日南葵からレッスンを受け、友崎は見た目や姿勢や喋り方を変えていく。「クラスメイトに話しかける」「何かを頼む」といったステップごとの課題をクリアしていく。あくまで人生は単線的でステージとレベルと成長の観点から捉えられる。

ゲーム的自己はプロスペクティブな未来に投企する自己である。彼女のセルフケアは、ストラテジー(未来への処方)である。哲学者は、カント、ヘア、アリストテレスマクダウェル大庭健ピーター・シンガーであろう。

§3

おもちゃ的自己(toyic self)は、自分をおもちゃとして考える。そして、他人に遊ばれることを喜ぶ*3

西村清和は『遊びの現象学』において「玩具の玩具性とは、遊びの隙、遊びの場所を遊び手に提供し、そこで、あるいはそれに即して、遊び関係が、遊動の同調の輪がひとつにむすばれるように遊び手にそそのかす、いわば「相即性」とでもいうべき存在性格にある」(西村 1989, 153)と主張する。

西村の言う遊びとは「ある特定の活動であるよりも、ひとつの関係であり、この関係に立つものの、ある独特のありかた、存在様態であり、存在状況である。それは、ものとわたしのあいだで、いずれが主体とも客体ともわかちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつする遊動のパトス的関係である」とされ、「この独特の存在関係」が「遊戯関係」すなわち遊び関係とされる(ibid., 31-32)。おもちゃは意識を持たない。しかし、私たちは意識を持ったおもちゃでありえて、遊戯関係を生み出し、相手に遊びをそそのかすことができる。

おもちゃ的自己はもっとも古い自己である。それは古代の自己了解にみえる。おもちゃ的自己は現在的で、未来にも過去にも目を向けていない、祝祭的な自己である。おもちゃ的自己のセルフケアは、応答である。哲学者で言えば、ニーチェラッセル、グッドマン、ドゥルーズである。

§4

ギャンブル的自己(gambling self)は、自己を運に賭けることで、超越を目指す。自己破壊的な傾向があり、自己の意識流も賭けに負けた後と勝った後で分断される。蛹のような瞬間、つまり、組織化以前の世界に触れることを望んでいる。ギャンブル的自己はあまり見たことがない。該当する哲学者はスピノザパスカルパーフィットウィトゲンシュタインだろうか。あまり自信はない。

§5

これらのいずれも病理的ではない。私たちはこれらの4つの方略を組み合わせて自己の人生を理解可能なものにしている。しかし、次に述べるいずれかの「化」が行き過ぎると機能不全が発生する(これらの質問調査票をつくるのもおもしろそうである)。

§6

興味深いのは、これらは自己化であるが、他人化と対になっている。すなわち、

  1. 他人の物語化(フィクション化、Narrative-Other):物語のキャラクターとして他人をまなざす。精神分析的関わり。動機を問う。
  2. 他人のゲーム化(ルール化、Gamic-Other):NPCやプレイヤーとして他人をまなざす。業績的関わり。機能を問う。対戦相手(勝手にライバル視)。勝利のため、承認欲求の充足ために相手を使う。NPC
  3. 他人のおもちゃ化(Toyful-Other):おもちゃとして他人をまなざす。デュオニソス的関わり。遊びがいを問う。
  4. 他者ギャンブル|他者がそもそもいない

§7

これは性的モノ化をより詳細に分類することもできる。

  1. 性的物語化:独りよがりな妄想の投射。
  2. 性的ゲーム化:勝ち負けとしての性愛関係。
  3. 性的おもちゃ化:限定的な自律性しかもたない存在として扱う。
  4. 性的ギャンブル化:危険な性愛関係への投入。

§8

トイ・ストーリー』を4つの実存方略から分析してみよう。

  1. ウッディは最初「おもちゃとしての自分」をゲーム的・物語的にアイデンティティ形成している。しかし自分がおもちゃであること、実存的に不安定であることを知ってしまっている。
  2. そこにバズ・ライトイヤーが現れる。彼は実存の不安を持たない。強固に物語化・ゲーム化されている。おもちゃであることを知らない。
  3. ウッディはバズの登場でアイデンティティの危険を感じる。
    1.  道中のリトルグリーンメンは物語化の一形態である宗教化で守られている。
  4. バズ・ライトイヤーは実存の不安に直面する「私はおもちゃなのだ」。
  5. ウッディとバズは究極まで他人におもちゃ化されたシドのおもちゃたちに出会う。物語化もゲーム化も剥ぎ取られた存在者である。
  6. ウッディは「究極までおもちゃ化されることへの不正さ」も理解する
  7. 最後、ウッディは、おもちゃであること、つねに他のおもちゃの登場によって自己が脅かされることを受け入れる。
  8. ゲーム化、物語化、おもちゃ化の中庸にウッディとバズはそれぞれの割合でいったん落ち着く。

参考文献

Sicart, M. 2022. Playthings. Games and Culture, 17(1), 140-155.

Sicart, M. 2023. Playing Software. MIT press.

難波優輝. 2021. 「自己啓発するライトノベル弱キャラ友崎くん』とゲームとしての人生」Lichtung Criticism. https://lichtung.hateblo.jp/entry/2021/01/14/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8E%E5%BC%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E5%8F%8B%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%80%8F.

西村清和. 1989. 『遊びの現象学勁草書房

*1:本稿は松永伸司、萬屋博喜との議論に多くを負っている。

*2:このような英語表現はあまり一般的ではなさそうだ。関連する概念を論じている論者がいればぜひ学びたい。

*3:ミゲル・シカールのおもちゃは流用をメインにしており、おもちゃ的自己のより細かい種であろう(Sicart 2022: 2023)。