Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

人間の4つの実存方略――物語的自己、ゲーム的自己、おもちゃ的自己、ギャンブル的自己

人間の生き方には4種類ある*1

  1. 物語的自己:なんでも物語にしてしまう。「動機は?」「意味は?」「つながりは?」
  2. ゲーム的自己:なんでもゲームにしてしまう。「どっちが強い?」「いま効率的?」
  3. おもちゃ的自己:なんでもおもちゃにしてしまう。「どんな反応する?」「どう遊ぼう?」
  4. ギャンブル的自己:なんでもギャンブルにしてしまう。「どこまで賭けられる?」「何が起こる?」

§1

これまで哲学、特に倫理学では物語的自己(narrative self)の議論がなされてきた。その研究は分厚く、門外漢の私には触れ得ないほどにあるが、傍で見ているだけでも価値のある研究がなされ、物語的自己の分析が進んでいるように思われる。

しかし、物語的に自己を組み立て世界を理解している人は世の中にそんなにいない。なのに、物語的自己がここまで深く倫理学的に考察されているのはなぜか。それは、物語的自己の人とは、主に倫理学に関心のある人だからだ、と憶測する。

私はまったく物語的自己ではない。私は人の動機について考えたり、自分の動機について考えたり、自分の過去と現在のつながりをあまり考えたりしない。

物語的自己は、おそらく、近代において小説の誕生や書籍形式での物語小説の一般化によってメジャーになった近代的な自己了解であろう。物語的自己はレトロスペクティブな過去を編集する自己である。彼女のセルフケアは、セラピーである。哲学者で言えば、ウィリアムズ、テイラーであろう。

§2

現代は、ゲーム的自己の時代である。ゲーム的自己(gamic self)*2とは、「人生ハゲームデアル」というメタファーで生きている。周りの人と自分の達成を比べ、これからのキャリアアップを考え、自己の修練を欠かさず、目標に向かって最適な効率を見つけ出そうとする。

このメタファーは、しばしば成長物語の形式と組み合わせられる。ゲームというメタファーは「段階ごとの成長」という性質を人生に照射する(難波 2021)。例えば、『弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、ガガガ文庫講談社、2016年〜)という人気ライトノベルはゲーム的自己の物語である。主人公友崎はある時出会った「リア充」である日南葵からレッスンを受け、友崎は見た目や姿勢や喋り方を変えていく。「クラスメイトに話しかける」「何かを頼む」といったステップごとの課題をクリアしていく。あくまで人生は単線的でステージとレベルと成長の観点から捉えられる。

ゲーム的自己はプロスペクティブな未来に投企する自己である。彼女のセルフケアは、ストラテジー(未来への処方)である。哲学者は、カント、ヘア、アリストテレスマクダウェル大庭健ピーター・シンガーであろう。

§3

おもちゃ的自己(toyic self)は、自分をおもちゃとして考える。そして、他人に遊ばれることを喜ぶ*3

西村清和は『遊びの現象学』において「玩具の玩具性とは、遊びの隙、遊びの場所を遊び手に提供し、そこで、あるいはそれに即して、遊び関係が、遊動の同調の輪がひとつにむすばれるように遊び手にそそのかす、いわば「相即性」とでもいうべき存在性格にある」(西村 1989, 153)と主張する。

西村の言う遊びとは「ある特定の活動であるよりも、ひとつの関係であり、この関係に立つものの、ある独特のありかた、存在様態であり、存在状況である。それは、ものとわたしのあいだで、いずれが主体とも客体ともわかちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつする遊動のパトス的関係である」とされ、「この独特の存在関係」が「遊戯関係」すなわち遊び関係とされる(ibid., 31-32)。おもちゃは意識を持たない。しかし、私たちは意識を持ったおもちゃでありえて、遊戯関係を生み出し、相手に遊びをそそのかすことができる。

おもちゃ的自己はもっとも古い自己である。それは古代の自己了解にみえる。おもちゃ的自己は現在的で、未来にも過去にも目を向けていない、祝祭的な自己である。おもちゃ的自己のセルフケアは、応答である。哲学者で言えば、ニーチェラッセル、グッドマン、ドゥルーズである。

§4

ギャンブル的自己(gambling self)は、自己を運に賭けることで、超越を目指す。自己破壊的な傾向があり、自己の意識流も賭けに負けた後と勝った後で分断される。蛹のような瞬間、つまり、組織化以前の世界に触れることを望んでいる。ギャンブル的自己はあまり見たことがない。該当する哲学者はスピノザパスカルパーフィットウィトゲンシュタインだろうか。あまり自信はない。

§5

これらのいずれも病理的ではない。私たちはこれらの4つの方略を組み合わせて自己の人生を理解可能なものにしている。しかし、次に述べるいずれかの「化」が行き過ぎると機能不全が発生する(これらの質問調査票をつくるのもおもしろそうである)。

§6

興味深いのは、これらは自己化であるが、他人化と対になっている。すなわち、

  1. 他人の物語化(フィクション化、Narrative-Other):物語のキャラクターとして他人をまなざす。精神分析的関わり。動機を問う。
  2. 他人のゲーム化(ルール化、Gamic-Other):NPCやプレイヤーとして他人をまなざす。業績的関わり。機能を問う。対戦相手(勝手にライバル視)。勝利のため、承認欲求の充足ために相手を使う。NPC
  3. 他人のおもちゃ化(Toyful-Other):おもちゃとして他人をまなざす。デュオニソス的関わり。遊びがいを問う。
  4. 他者ギャンブル|他者がそもそもいない

§7

これは性的モノ化をより詳細に分類することもできる。

  1. 性的物語化:独りよがりな妄想の投射。
  2. 性的ゲーム化:勝ち負けとしての性愛関係。
  3. 性的おもちゃ化:限定的な自律性しかもたない存在として扱う。
  4. 性的ギャンブル化:危険な性愛関係への投入。

§8

トイ・ストーリー』を4つの実存方略から分析してみよう。

  1. ウッディは最初「おもちゃとしての自分」をゲーム的・物語的にアイデンティティ形成している。しかし自分がおもちゃであること、実存的に不安定であることを知ってしまっている。
  2. そこにバズ・ライトイヤーが現れる。彼は実存の不安を持たない。強固に物語化・ゲーム化されている。おもちゃであることを知らない。
  3. ウッディはバズの登場でアイデンティティの危険を感じる。
    1.  道中のリトルグリーンメンは物語化の一形態である宗教化で守られている。
  4. バズ・ライトイヤーは実存の不安に直面する「私はおもちゃなのだ」。
  5. ウッディとバズは究極まで他人におもちゃ化されたシドのおもちゃたちに出会う。物語化もゲーム化も剥ぎ取られた存在者である。
  6. ウッディは「究極までおもちゃ化されることへの不正さ」も理解する
  7. 最後、ウッディは、おもちゃであること、つねに他のおもちゃの登場によって自己が脅かされることを受け入れる。
  8. ゲーム化、物語化、おもちゃ化の中庸にウッディとバズはそれぞれの割合でいったん落ち着く。

参考文献

Sicart, M. 2022. Playthings. Games and Culture, 17(1), 140-155.

Sicart, M. 2023. Playing Software. MIT press.

難波優輝. 2021. 「自己啓発するライトノベル弱キャラ友崎くん』とゲームとしての人生」Lichtung Criticism. https://lichtung.hateblo.jp/entry/2021/01/14/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8E%E5%BC%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E5%8F%8B%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%80%8F.

西村清和. 1989. 『遊びの現象学勁草書房

*1:本稿は松永伸司、萬屋博喜との議論に多くを負っている。

*2:このような英語表現はあまり一般的ではなさそうだ。関連する概念を論じている論者がいればぜひ学びたい。

*3:ミゲル・シカールのおもちゃは流用をメインにしており、おもちゃ的自己のより細かい種であろう(Sicart 2022: 2023)。

Problems and Projects-ネルソン・グッドマン『問題と企画』目次

『問題と企画』(1972)は、米哲学者ネルソン・グッドマンによる論文集である。彼の『現象の構造』(1951)、『事実・虚構・予言』(1955)、『芸術の言語』(1968)に続いて、4冊目の出版物である。以前の著作を再録したり、著作で扱った問題を論じていたり、続く『世界制作の方法』(1978)における世界制作論の萌芽が見られたりする。全体としては、460ページほどあり、色々なトピックに関心のあるグッドマンらしい論文集の趣がある。邦訳は、何かしらの偶然が重なれば実現するだろう。しかし、グッドマンの読者はまだそれほど多くはないので、まずは読者を増やさなければならない。

インターネットに転がってはいなかったので、目次とその翻訳を載せておく。少しでも関心を惹いたなら幸いである。

ちなみに、各章には、それぞれの論文についての説明や発表当時の状況、他のグッドマンの論文へのリンクなどが記載されている。自著解説は往々にしてそうだが、グッドマンの哲学理解にわりあい役立つような内容になっている。

それを受けて、目次の訳のところで、難波の方でざっくりと内容を書いている。概ね適当なことを書いているので、つねに改訂される。

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『問題と企画』ネルソン・グッドマン

I 哲学

  1. 哲学の改訂
  2. 世界のありよう
  3. システム理論についての省察
  4. アームソンの『哲学的分析』のレビュー
  5. 哲学者としてのデカルト
  6. 定義とドグマ

グッドマンの哲学観を紹介するパート。2. は後の『世界制作の方法』を予感させる。特に5. 6. は、第二次大戦を終えた憂鬱な雰囲気があり、文章では軽快なダジャレばかりを言うグッドマンにしては意外な感じがする。

II 起源

  1. センスと確からし

  2. 認識論的議論

  3. 皇帝の新しいアイデア

  4. アームストロング『バークリーの視覚理論』レビュー

1. は『芸術の言語』で取り扱われるようなシンボル論の序章となる論文であるという意味で起源であり、前半二つは彼に先行する哲学者のレクチャーで、後半二つは彼の生徒であったノーム・チョムスキーについての批判をしているという意味で「起源」に関わる。

III 芸術

  1. 芸術と真正性

  2. 芸術と探求

  3. 手段としてのメリット

  4. 『芸術の言語』注記

  5. さらなる注記

  6. ゴンブリッチ『芸術と幻影』のレビュー

1. は『芸術の言語』からの再録。その他は、『芸術の言語』の注記や発展する話題など。

IV 個体

  1. 個体たちの世界
  2. 構成的唯名論へのステップ (W・V・クワインとの共著)
  3. 『現象の構造』改訂

グッドマンの分析哲学らしさのある個体(individual)についてのテクニカルな議論が詰まっている。私はグッドマン研究を行うつもりだが、まだ全然分からない。こわグッドマン。

V. 意味

  1. 時間の話

  2. 意味の類似性について

  3. 意味のいくつかの差異について

  4. 翻訳の疑似テストについて

1. は『現象の構造』のアレンジ版。意味について論じている。何を論じているか意味はよく分からない。

VI 関連性

  1. について
  2. 「について」の誤り

何かしら「A is about B」に関わるような話をしているようだが、私には今の所、何についての話をしているのか分からない。レベルを上げてから訪れるタイプのダンジョンだろう。

VII 単純さ

  1. 単純さのテスト
  2. 単純さ理論の近年の発展
  3. 凝縮化 対 単純化
  4. クレイグ「補助的表現の置換」レビュー
  5. 論理外公理の消去(W・V・クワインと共著)
  6. 安全さ、強さ、単純さ
  7. 科学と単純さ
  8. 統一性と単純さ

『世界制作の方法』でも重要概念として現れる「単純さ(simplicity)」についての議論がまとまっているもの。ここもテクニカルな議論がちらほらあり、恐怖を覚える。しかし、単純さは正しいバージョンの重要な要素のひとつなので、怖がってばかりもいられないだろう。

VIII 帰納

  1. 確証についての問い合わせ

  2. 確証説の欠点

  3. 帰納の新しい謎

  4. 投射可能性理論における改訂 (with Robert Schwartz and Israel Scheffler)

  5. 帰納的翻訳

  6. 『事実、虚構、予言』へのコメントへの応答

  7. ライヘンバッハ『記号論理の要素』レビュー

  8. 雪片とごみ箱

3. は『事実、虚構、予言』からの抜粋。愛される「グルーのパラドクス」に関わる話が目白押しである。リストの内容から予測すると、帰納について話しているようだが、私の予想が正しいのかは判明でない。

IX 類似性

  1. 無関心からの順序
  2. 類縁性への7つの非難

類似性(similarity)も、批判込みで、グッドマンの中で重要な位置を占める概念。確かワインバーグ『科学とモデル』で2. は引用されていた気がする。

X パズル

真実の語り手と嘘つき

実はグッドマンは論文を発表する以前に有名になっていた––––匿名で1931年に『ボストン・ポスト』に投稿したある論理パズルによって。中身を聴けば、「ああ、あれか!」となるようなタイプのパズルである。これを論文集の最後に収録するユーモアのセンスは、まさにグッドマンという感じである。

Ploblems and Projects, Nelson Goodman

Introduction

I Philosophy

  1. The Revision of Philosophy
  2. The Way the World Is
  3. Some Reflections on the Theory of Systems
  4. Reviews of Urmson’s Philosophical Analysis
  5. Descartes as Philosopher
  6. Definition and Dogma

II Origins

  1. Sense and Certainty
  2. The Epistemological Argument
  3. The Emperor’s New Ideas
  4. Reviews of Armstrong’s Berkeley’s Theory of Vision

III Art

  1. Art and Authenticity
  2. Art and Inquiry
  3. Merit as Means
  4. Some Notes on Languages of Art
  5. Further Notes
  6. Reviews of Gombrich’s Art and Illusion

IV Individuals

  1. A World of Individuals
  2. Steps Toward a Constructive Nominalism (with W. V. Quine)
  3. A Revision in The Structure of Appearance

V. Meaning

  1. Talk of Time
  2. On Likeness of Meaning
  3. On Some Differences about Meaning
  4. On a Pseude-Test of Translation

VI Relevance

  1. About
  2. “About” Mistaken

VII Simplicity

  1. The Test of Simplicity
  2. Recent Developments in the Theory of Simplicity
  3. Condensation versus Simplification
  4. Reviews of Craig’s “Replacement of Auxiliary Expressions”
  5. Elimination of Extralogical Postulates (with W. V. Quine)
  6. Safety, Strength, Simplicity
  7. Science and Simplicity
  8. Uniformity and Simplicity

VIII Induction

  1. A Query on Confirmation
  2. On Infirmities of Confirmation-Theory
  3. The New Riddle of Induction
  4. An Improvement in the Theory of Projectability (with Robert Schwartz and Israel Scheffler)
  5. Inductive Translation
  6. Replies to Comments on Fact, Fiction, and Forecast
  7. Review of Reichenbach’s Elements of Symbolic Logic
  8. Snowflakes and Wastebaskets

IX Likeness

  1. Order from Indifference
  2. Seven Strictures on Similarity

X Puzzle

The Truth-Tellers and the Liars

グッドマンの世界制作論とバージョンの衝突について+スタンフォード哲学百科の部分訳

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グッドマンの世界制作論について

米国哲学者、ネルソン・グッドマンの知名度は、哲学研究者、しかも、プラグマティズム研究者や分析哲学研究者以外(特に科学哲学と美学)にはものすごく低いだろう。

しかし、彼の「世界制作」論、それと関連する「記号システム」論は、わたしたちにさらなる高解像度の世界理解を可能にさせうるような、いまなお非常に魅力的な哲学的な世界理解であり、さらなる研究や紹介が待たれる。

ここでは、世界制作論のモチベーションを紹介しよう。グッドマンの主張は、世界はたくさんある、というものだ。どういうことだろう?

わたしたちの多くはこう考えているだろう。

👩🏻‍💼 わたしたち わたしたちの見ている世界はわたしたちのヒト種の感覚やものの見方によって切り取られた世界に過ぎない。犬やコウモリならそれはそれで別様の世界を見ている。ユクスキュルの「環世界論」然り。しかし、そうしたもろもろの世界の先には、本当に実在する世界=THE 実在があり、その世界に対して正しいか正しくないかでその世界理解の正確さが決まる。

そこからわたしたちは次のように喧嘩をすることができる。

👩🏽‍🔬 物理学者 わたしたちの見ている世界ではなく、物理学的な世界観こそがより真なる実在を描いている! 机などは存在せず、机上に並ぶ分子、いや、さらに細かい素粒子たちだけが存在するのだ!

💁‍♂️ 宗教家 わたしたちの見ている世界ではなく、〇〇教□□派の世界観こそが正しい! わたしたちは悪しきものに欺かれているのだが、信仰と直観により、わたしたちは新なる実在に近づける!

 👩🏿‍🏭 普通のヒト 物理学的な世界観でもある宗派の世界観でもなく、わたしたちの見ている常識的な世界観こそが正しい! わたしたちは常識的に見えている世界こそが世界の実在と対応している!

さて、誰が一番正しいのだろうか? たしかに物理学は学問として大成功しており、宇宙に行けるのもGPSも物理学の成果による。しかし、宗教的な直観もわたしたちは手放せない(腹痛のあの痛みの存在など、悪しき者の存在以外、何を考えられようか?)。そしてもちろん、机があろうがなかろうが、わたしたちは「机を運んで」と他の人に頼まざるをえない。

グッドマンが彼らと出会ったなら、「いや、みんなはそれぞれに正しさを持っているが、みんなの正しさの基準は間違っているよ」と言うだろう。

彼らはみな同じ思考に属する。それは、「真なる実在との一致による世界観の正しさ」という基準に。しかし、グッドマンはそれとは違う世界観の正しさについて論じる。それが「世界制作」論である。それがどういうものかというと……以下スタンフォード哲学百科の「ネルソン・グッドマン」の項の部分訳を紹介しよう。以下は次の訳である。

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

6.非実在論と世界制作

6.1 非実在

グッドマンは自らの立場を「非実在論(irrealism)」と名付けている。非実在論とは、ざっくり言えば、世界は諸々のバージョンに溶け込むという主張である。グッドマンの非実在論は、彼の哲学の中でも最も議論を呼ぶ部分であることは間違いない。

二つの議論の流れにグッドマンの著作を分けることができる(Dudau 2002)。第一に、グッドマンは、単一の世界のバージョン内では調停しきれない相反する言明が存在すると主張する。つまり、いくつかの真理は対立する(WW, 109-16; MM, 30-44)。もしそうだとすれば、矛盾する言明を調停し、真理の標準的な対応説(言明の真理は世界と対応していることである)と一致させるために、もしあるなら、多くの世界が必要となる。第二の主張は、多くの世界が必要なのであれば、世界〔そのもの〕は必要ないというものである。もし各バージョンに世界が必要なら、なぜバージョンを超えてさらに世界〔そのもの〕を仮定するのか。

まず、第一の議論について詳しくみてみよう。地球は静止している。かつ、太陽の周りを公転している。同時に複数の経路を同時に運動している。しかし、静止している間は何ものも動きはしない。グッドマンが認めるように、これに自然に対応するのは、次のような文章である。

(S1)地球は静止している。

(S2)地球は動いている。

は、次の省略形と理解すべきである。

(S1′)天動説によれば、地球は静止している。

(S2′)地動説によれば、地球は動いている。

しかし、グッドマンによれば、これは誤りである(WW, 112)。次の二つの歴史学的文章を考えてみよう。「スパルタの王たちは二票を持っていた」と「スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。最初の文はヘロドトスによる報告の一部であり、二番目の文はトゥキディデスによる報告の一部である。これらの文を次のような省略として理解したくなる。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」そして「トゥキディデスによれば、スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。しかし、明らかにこの後者の二つの文はスパルタについて何も語ってはいない。これらは、ヘロドトストゥキディデスがスパルタについて語ったことしか伝えてくれないのだ。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」というのは、たとえスパルタたちが実際には一票ももっていなかったとしても三票持っていたとしても、真である。地動説と天動説の相対化も同じだ。天動説によれば地球が静止しているのは事実だが、このことは世界についてわたしたちに何も知らせてはくれない。このように、(S1)と(S2)が両方とも正しいと仮定した場合、文字通り同じ一つの世界について正しいとすると、矛盾が生じることになる。もし、文字通り真ではなく、省略であり、暗黙のうちに相対化されているとするならば、どの世界についての真理でもない二つの真理が存在することになる。少なくとも、わたしたちが関心を寄せている世界の部分については、そうではないことになる。この二つの真理は、バージョンについての真理ではあるが、惑星たちについての真理ではないことが判明する。グッドマンが選んだ解決策は、この二つの真理は二つの異なる世界についての真理であると主張することだった。どちらもある世界についての文字通りの真理を述べているが、同じ世界についての真理ではないだけなのである。

グッドマンの議論にとって重要なのは、(S1)と(S2)の対立において、(a) 言明の間での実際の対立があり、かつ、(b) その対立を解決する他の方法(例えば、恣意的でないやり方で二つの発言の少なくとも一方を否定するなど)がない、ということである。もちろん、グッドマンと同時代のクワインやカルナップも、経験だけでは理論選択を決定することはできないという問題を考えていた。しかし、彼ら〔クワインとカルナップ〕は、プラグマティックな基準によって、長期的にはすべてを包含する一貫した一つの世界のバージョンに到達することができると信じていたのである。クワイン(Quine 1981)とカルナップ(Carnap 1932)の哲学では、これは物理的なバージョンであると仮定されている。しかし、グッドマンは物理主義的な還元主義を信じていない。まず、現在のところ、すべての真理が物理学に還元可能であるという説得力のある証拠はないだろうし(心的真理を物理的真理に還元する問題を考えればよい)、第二に、物理学自体が一貫した体系を形成しているとも思えないからだ(WW, 5)。それゆえ、グッドマンからすれば、わたしたちは、真だと考える世界のバージョンが相反することで行き詰まってしまうことになる。先に見たように、相対主義はグッドマンにとってオプションではない。なぜなら、相対主義は、真の記述をバージョンについてだけ真にすることになるからである。ここでわたしたちはグッドマンの多元主義に行き着く。相反する真なるバージョンは、別々の世界に対応しているのだというのだ。

グッドマンの著作に見られる第二の議論は、正しいバージョンが対応する世界は存在しない、あるいは少なくともそのような世界は必要ないという考えをもてあそぶものである。世界のバージョンで十分であり、とにかく直接アクセスできるものはそれしかないのだ。バージョンは多くの目的のために、世界として扱うことができる(WW, 4 and 96; cmp. MM, 30-33)。

グッドマンはもちろん、バージョンと世界の違いを認識している。バージョンは英語であり、語で構成されている。世界は英語でも語でも構成されてもいない。しかし、あるバージョンが世界に対して真であるためには、その世界は何らかの形でそれに対応していなければならない。例えば、(S1)に「対応する」世界とは、惑星と時空を持ち、惑星の一つである地球がその中で静止しているように配置された世界である。しかし、「惑星」「時空」「静止」などは、バージョンに依存した現実の分類方法である。これらの述語は、まさにこのバージョンで選ばれたものである。このバージョンが構築される以前には、これらの述語に対応して順序付けられた世界は存在しない。むしろ、そのバージョンが作られたときに、その構造を持つ世界が作られたからこそ、世界は(S1)で表現されるバージョンに対応するのである。

しかし、世界は何でできているのだろうか? 少なくとも、大文字の実在(Reality)は、生地がクッキーカッターで構造化できるように、別のバージョンで構造化できるような、ある種のものであると仮定すべきではないだろうか? わたしたちのバージョンが構造を投影するための、何らかの物質が必要ではないだろうか?グッドマンによれば、複数の世界が根底にある唯一の大文字の実在のバージョンでありうる、とする「寛容な実在論説」もまた、不要な追加に過ぎない。世界の根底にある実在は、構造化されておらず、中立的なものでなければならず、したがって何の役にも立たない。もし、互いに両立不能だが、等しく満足できる世界が多数存在するならば、「中立的な大文字の実在」が存在する余地はあまり残されていない。大文字の実在には、惑星も運動も時空も関係も点も構造もまったくないことになる。そのようなものがあると仮定することはできる、とグッドマンは認めているようだが、それは議論に値しない(あるいは、反対するにも値しない)。もし、根底にある大文字の実在のようなものを仮定せずに、世界の真なるバージョンと偽なるバージョンを見分け、かつ、あるものは真なるバージョンで、あるものは偽なるバージョンである理由を説明できるのなら、なぜそれを仮定するのだろうか。倹約性を考慮すれば、そうしたものを仮定することは控えるべきだろう。

6.2 世界制作

グッドマンは「あるとすれば、多くの世界がある」(MM, 127; MM, 31参照)と主張するが、グッドマンの世界を可能世界と混同してはならない。グッドマン世界には可能世界というものはまったく存在せず、すべて実際(actual)の世界である(WW, 94, 104; MM, 31)。世界は正しいバージョンに対応することによって「作られる」のであり、偽のバージョンに対応する(単に可能な)世界は存在しない。というのがグッドマンの見解である。ここで重要なのは、この見解が非合理主義やポストモダン思想家が好む空想的な文化相対主義には陥らないということである。真なるバージョンを作るのは簡単なことではない。驚くことではないが、実在論者にとっての真のバージョンを作ることよりも簡単ではない。どのようにして真なるバージョンを作るかは、どちらの説でも全く同じである。違いは、真のバージョンを作るときに何をするかという点だけである(議論は、WWとMcCormik 1996を参照)。

世界制作に対する制約は厳しい。わたしたちは、さっと物事を作ることはできない。述語は確立されていなければならず、以前のバージョンとの密接な連続性がなければならない。単純性は、わたしたちはゼロから新しいものを作らないようさせる、一貫性は、わたしたちが初期に持っている信憑性が高い信念と相反するものを作らないようさせる。さまざまな制約がある。

世界は、世界のバージョンを作ることによって作られる。だから、グッドマンによれば、世界のバージョンを作ることこそが理解されなければならないのである。すでに述べたようにカルナップの「アウフバウ」は世界のバージョンを提示しているし、〔グッドマンの著作〕『質の研究』や『現れの構造』のシステムも世界のバージョンであり、科学理論もそうである。天動説や地動説は比較的原始的な世界のバージョンであり、アインシュタイン一般相対性理論はより洗練された世界のバージョンである。しかし、世界のバージョンは形式的な言語で構成される必要はない。それどころか、形式的であれ非形式的であれ、言語である必要は全くない。例えば、絵画のような芸術で使われる記号システムも、世界制作のプロセスに利用することができる。哲学、科学、芸術のすべてが認識論的に重要であり、私たちの理解に貢献している。これらはすべて世界の創造を助けるのだ。

世界のバージョンを作るのは難しい。夥しい数のものを認めても、それが簡単になるわけではない。例えば、先人たちの問題を克服し、単純で、よく確立された述語を使い、あるいは新しい述語にうまく置き換え(これはさらに難しい)、有用な予測を可能にするような構成システムを作ることは大変な仕事である。グッドマンにとって、科学者、芸術家、哲学者は、この点で類似した問題に直面しているのである。

グッドマンの主張は、わたしたちが世界を作るのはそのバージョンを作るときであり、世界について語ることをバージョンについて語ることに置き換えたほうがよいというものだが、それが、真のバージョンを作ることは非常に難しいということを認めるだけでは解決しない問題を生み出している。バージョンを作ることと、そのバージョンが対象としているものを作ることは、明らかに異なる作業である。イズラエル・シェフラーが「グッドマンのすばらしい世界」の概要で書いているように。

グッドマンが駆り立てる世界制作というものは、つかみどころがない。世界は(真の)世界のバージョンと同定されるべきものなのか、それともむしろそのようなバージョンによって参照されるものを構成するものなのか。[『世界制作の方法』]の様々な箇所が一つの答えを示唆し、様々な箇所が別の答えを示唆している。バージョンが作られたものであることは容易に受け入れられるが、バージョンが参照するものが同様に作られたものであることは、私には受け入れられない。(Scheffler 1979, 618)

シェフラーは、グッドマンが「世界」と「世界制作」をバージョン的な意味と客観的な意味の両方で混同して使っていると論じている。先に述べたように、グッドマンの主張は、わたしたちはバージョンを作ることによって、客観的な意味での世界を作るというものである。この主張は、すべての真なるバージョンが対応する世界の唯一の構造は独立して存在するのではなく、むしろ、わたしたちの概念化によって、この構造を世界に投影するからこそ見出される、という彼の信念に基づいている。彼のお気に入りの例は、「北斗七星」として知られる星座である。確かに、わたしたちは任意の星の配置を一つ選び出し、それに名前をつけることで北斗七星を「作った」のである(より正確には、北斗七星はおおぐま座の一部なのだが、要旨は同じだ)。 北斗七星を構成する天体の配置は、純粋に慣習的なものであり、ゆえに我々の概念的なものでしかないのである。ヒラリー・パトナム(1992a)は、この考えは北斗七星についてはある程度妥当かもしれないが、例えば北斗七星を構成する星については当てはまらないことを示唆している。確かに、「星」は一部慣習的な境界を持つ概念であるが、「星」という概念が慣習的な要素を持つからといって、「星」を何に適応させるかは慣習の問題にはならない(したがって、単に世界のバージョン制作に関する問題である)。

(難波優輝訳)

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

つまりどういうことだろうか?

さて、以上、グッドマンの解説を紹介した。つまり、グッドマンは何を言いたいのだろうか?

まず、グッドマンは、真理の対応説、言明の真理は世界と対応していることである、を受け入れている、と解説されている(ここはちょっと調べておきたい)。

そうすると、世界が一つしかないと、互いのどちらかしか少なくとも真にはならないような言明が生まれることがある。しかし、このどちらもを真にしたくなる気分のときがある。これはわたしがよく使う例を紹介しよう。

ここに二枚の『モナ・リザ』がある。物理的組成はまったく同じであるとする。本当に同じである。しかし、片一方はレオナルド・ダ・ヴィンチがつくった確かに本物の『モナ・リザ』であり、もう一方は超高性能な複製技術による複製である。

ここであなたは二つの『モナ・リザ』のうちどちらかを買うことになった。あえて複製を買いたい人もいるかもしれないし、やはり本物を買いたい人もいるかもしれない。少なくとも、逆に本当にどちらでもいい、と思う人がいるかもしれない。

いずれにせよ、二つの『モナ・リザ』をほとんどの人はふつう区別したくなるのではなかろうか? (ならなくてもいいが)

しかし、もしあなたが物理学的語彙や概念でこの両者を区別せよ、と言われたら困るだろう。この二つの『モナ・リザ』をうまく区別する語彙や概念は物理学にはふつうなさそうだからだ。これは物理学的な世界観が間違っているというのではなく、物理学はふつう物理的組成はまったく同じ芸術作品の弁別には注意を払わないからだ。

逆にあなたが芸術について本当に何も知らず関心もない場合、「どっちも同じ」と言うかも知れない。そのときあなたはそれはそれで特殊な世界観に立っている。芸術に関心のある人の世界観では、明らかに両者の価値は驚くほど異なり、実際に両者は異なるものだとみなされるはずだ。

このように、物理学的な世界観、芸術にまったく関心のない世界観、芸術的な世界観のいずれが「真の実在に基づいて」より正しい、ということはなさそうだ。

これら3つの世界観、グッドマン的にはバージョンは、物事に対してどのような弁別をするか、何に注目するか、のあり方の違いを持つのみで、他の世界に対して別の世界が「真の実在に基づいて」より正しい、と言うことはできない。というか、言って何がおもしろいのか、というのが、より近い感覚かもしれない。

わたしたちは、物理学的な世界観も、芸術的な世界観も(そして時には芸術にはまったく関心のない世界観も)必要である。なぜなら、それぞれのバージョンはそれぞれの世界の理解をわたしたちに与えるからだ。

ゆえに、グッドマンは、「物理学的な世界よりも常識的な世界のほうが正しい」だとか、「物理学的な世界よりも芸術的な世界の方が正しい」などとも主張していないことに注意して欲しい。

しかし同時に、グッドマンが「どんな世界もなんでもありだよ」とも言っていないことも気をつけて欲しい。それぞれの世界のバージョンには、それぞれ簡潔性や一貫性などをどう担保するかの課題を持っており、世界のバージョンたちは日々切磋琢磨のうちに制作されているのだ。

バージョンタイプ間の衝突

これ以上はわたしのアイデアになってしまうが、例えば、道徳的なバージョンも存在する。そのとき、わたしたちは道徳的価値の増減やその種類に気を使う。こうした道徳的なバージョンからすれば、どのような道徳的なバージョンがより適切かが争われうる。功利主義か義務論か徳倫理か。美的なバージョンでも同じだ。言いたいことは、こうした規範的な価値に関わる世界のバージョンも無数に存在し、それらの同一のタイプのバージョン間でも議論が交わされていることを考えると、やはり、グッドマンの世界制作論は単純な相対主義に陥る必要がなくなってくる。

つまりこうなる

 🎨 バージョンタイプ:バージョンには、物理学的な世界のバージョンのような事実に係るようなバージョンと、道徳的な世界のバージョンのような規範に関わるバージョンがある。これらをバージョンタイプの違いから整理できる。

 🎨 規範的バージョン:道徳的価値をめぐるバージョンや美的価値をめぐるバージョン、その他規範的なものをめぐるバージョンがある。

より興味深いのは、道徳的なバージョンと美的なバージョンの対立があったときに、どのバージョンが提示する行為をわたしたちは選択するのか? という問いだ。これは微妙に明言化されていないが、わたしにとって非常に重要な問題だ。わたしたちはどのようにして、バージョンタイプ間の対立を調停するのだろうか? これは、抽象的な問題ではなく、わたしたちの人生において、たとえば、家庭での愛を優先するのか、芸術や仕事での達成を優先するのか、というのは、どのバージョンにコミットするのか、という選択にほかならないように思えるのだ。

SFの7つの美:魅力的なSFのレシピのために

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イスタヴァン・チチェリー-ロナイ・ジュニア(Istvan Csicsery-Ronay JR.)による『SFの7つの美(The Seven Beauties of Science Fiction)』は、SFジャンルに特徴的な7つの魅力を星座を辿るように論じていくSFスタディーズの重要書である。

SFを好んで書き、読んでいるならチェックして損はない本だ。

とはいえ、原著も英語でアクセスしにくい。そこで、7つの項目を簡単に紹介しよう*1

以下は「SF性」=サイエンス・フィクショナリティを形成し、魅力を与えている7つのカテゴリだ。

Beauty 01. 虚構的新語

Fictive neology––––SFには、「タイム・マシン」「亜光速ドライブ」「ロボット」「時雨」「無限不可能性ドライブ」のような新語がほぼ必ずと言っていいほど現れる。音のかっこよさや魅惑はもちろん、その語が発話される世界を予感させ、新しい世界の生成を支える力も持っている。

ちなみにこの点については、Stockwellという別のSF研究者の『SFの詩学』にも詳しい。

lichtung.hatenablog.com

Beauty 02. 虚構的ノーヴム

Fictive novums––––「ソラリスの海」「季節ごとに性が変化する知的生命体」「火星人」「フランケンシュタインのつくった怪物」といった現実世界には存在しない(か一般的に実装されたりはしていない)技術・生物・人工物・出来事などであり、SFの世界と物語をドライブさせる新事象=ノーヴム。しばしば新語が指示する対象。ダルコ・スーヴィン曰く、SFであるための必要条件であり、認知的異化をもたらすSFのコア。

ちなみに日本で読める解説としては自著のものもおすすめ。

lichtung.hatenablog.com

Beauty 03. 未来史

Future history––––近年、ビジネスや組織で未来を考えるために用いられる手法であるSFプロトタイピングの主題がそうであるように、SFは、現在と関係する未来を描くことによって、現時点から未来を様々に想像することを可能にするジャンルである。その際には、単に未来が想像されるのではなく、必ず現時点からどんな未来たちが可能かが想像されることで、未来から見た現時点が再考されたりする。未来を想像する意味については、自著も参考。

unleashmag.com

Beauty 04. イマジナリー・サイエンス

Imaginary science––––存在しない、あるいは存在する科学技術を社会と絡み合わせることで、その科学技術のポジティブ/ネガティブな価値を語れるようになる。上のSFプロトタイピングはまさにその効果を用いている。SFがSFらしさとして重要なのは、単なる科学技術の未来を記述するだけではなく(それはおそらくたんなる説明書やスペックカタログになるだろう)それが人間社会に与える価値も再考する点にある。

日立製作所と協働で行ったSFプロトタイピングは、こうしたイマジナリー・サイエンス+テクノロジーの観点から、すぐ未来の実装されつつある科学技術をSF的に思考しようとしたものだと再定義できる。

medium.com

Beauty 05. SF的崇高

Science-fictional sublime––––壮大なグランドキャニオン、打ち捨てられた巨大な共産主義圏の遺構を見た時に感じる、感嘆と慄きの入り混じった経験。それが崇高だ。SF的な崇高は銀河サイズの脳を持った生命体であったり、超巨大な建築物であったり、ガンマ線バーストのような宇宙スケールの災害であったり、ともかく巨大で、多いものであり、私達を圧倒するものだ。

この点についてはSF作家の草野原々がインタビューで「とにかくデカいオブジェクトがあること」を良いSFの特徴として挙げていたことが思い出される。

youtu.be

Beauty 06. SF的グロテスク

Science-fictional grotesque––––『鋼の錬金術師』に出てくる、人を利用したキマイラ、屍体をつなぎ合わせて作った蠢く『フランケンシュタイン』の子ども、『メイドインアビス』のボンボルド卿がつくりだす、生命を利用したおぞましいテクノロジー。人と人でない生き物、生と死、そうした存在論的に交わってはいけないものを越境させるとき、私達はおぞましさを感じる。こうした汚濁の産物が科学技術によって生成されるとき、私達はSF的グロテスクの美を感じる。

日本SF・ファンタジーはSF的グロテスクの宝庫だが、SF的崇高も含めて言えば、近年では草野原々がSF的崇高とグロテスクの旗手である。

lichtung.hateblo.jp

Beauty 07. テクノロジャイド

Technologiade––––最後に挙げられるのは、テクノロジャイド。科学技術による人間社会の変容を描くことで、現在地点での私達を取り巻く科学技術のあり方を私達に理解させ、あるいは、科学技術を親しんだ文化やサブカルチャーの価値体系へと引き込む作用だ。

言い換えれば、これは科学技術を私達の文化的な想像力へと参入させるような働きだ。SFは、科学技術が私達にもたらす経験を語るための水路を引こうとする。例えば、『ゴジラ』が原子力のイメージを怪物へと転嫁させるように、ウイルスがゾンビたちに転嫁されるように、そのままでは受け止められない衝撃や生活を変える科学技術たちを知解可能なものへと変容させる営み。

おわりに

自分で書いていても、SFを読み、書く時に非常に役立つ7つの項目だと感じた。ぜひ原著も含めて読んでほしいし、SFスタディーズ、おもしろそうじゃないかと思っていただけたらさいわいだ。

宣伝だが、SFプロトタイピングの地図を描いた共編著『SFプロトタイピング』

異常論文というフォーマットで、SFの可能性を探求する『異常論文』どちらもぜひ読んでください。

*1:わたしはまだ数章しか読めていない

家父長制を批判する三つのやり方

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「家父長制(patriarchy)」とは何か*1

縁談が家名の下に進められる。役所の手続きで夫婦同姓を強制される。男性において称賛される勇敢・自由・自律といった振る舞いを女性が行うと非難される。避妊用ピル/緊急避妊薬の販売や流通許可の決定権を男性が持っている。総じて女性の自己決定や自由の権利が脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

男性に勇敢・自由・自律といった振る舞いが強制的に奨励される。経済的自立を促される。労働能力の欠如を非難される。総じて男性の自己決定や自由の権利が脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

性別二元論にはおさまらない人々が、典型的な家父長制の期待には答えない生き方の中で自己決定や自由の権利を脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

家父長制的制度をこんなふうに捉えてみる。疑問が浮かぶ。では、人々の生活の質を下げるならなぜこのようなものが存在するのか? なぜ家父長制は存続し続けているのだろうか? 一部の人には利益を与えるかもしれないが、多くの人に不利益を与える非機能的にみえる制度が?

家父長制的制度を批判する三つの方法

制度は特定の問題を解決するために設計された人々の協調ルールである。家父長制的制度が制度なら、それは何らかの問題解決のために設計されている。男性同士の配偶者獲得をめぐる闘争を避けるための調整かもしれないし、結婚と家族の制度と結びついた特定の集団の存続のための制度かもしれないし、資本主義的な再生産奨励をドライブさせるためのパーツかもしれない。設計とはいっても、デザイナーがいるというより、自然的要因と集合的な人間の意図によって編み上げられたものだろう。

そう考えると、わたしたちが家父長制的制度を批判するとき、わたしたちが行える3つの戦略があると分かる。

  1. 家父長制的制度によって解決されていた問題を別の仕方で解決可能だと示すこと。
  2. 家父長制的制度によって解決されると思われていた問題は実は家父長制では解決されていないこと。
  3. 家父長制的制度によって解決されなければならない問題が家父長制によって生まれていると示すこと。

戦略1:家父長制的制度を使わなくても問題解決できる

これまで人間が生成する少なくない社会の中で家父長制的制度が設計されているようにみえる*2。偶然でないなら、家父長制的制度による問題解決を人類が何らかの意味で選び取りがちだということになる。普遍的に問題解決の仕方は無数にあるが、なぜよりによって「家父長制」と名指される制度が用いられるのか?

おそらく、人類の生得的な傾向性、認知バイアス、情報の偏り、競争原理、性淘汰、人類を取り巻く環境、集合的な行為の際の意思決定の仕組み、などが初期人類から現在まで、人類が家父長制的制度を採用しがちな理由を作っている。

こうした初期条件は現在のテクノロジーや文化的装置、別の制度の発達によって変更可能かもしれない。家父長制的制度のオルタナティヴの提示は、家父長制的制度が解決しようとしていた問題を特定し、それが実は別の制度によっても解決可能であることを示すことにある。

たとえば、人工の社会をシミュレートし、どのようにな条件設定をすれば家父長制的制度が発生するかを計算することで、家父長制的制度を生み出すパラメータを特定できるかもしれない。すると、そのパラメータをうまく変更してやれば家父長制的制度以外の問題解決ルールが誕生するかもしれない。

家父長制的制度とは、ローカルな局所解にいたってしまった状態だと言える。奴隷制がそうだったり、厳格な階級社会がそうだったりする。問題解決を行うルールではあるが、よりよいオルタナティブがあるかもしれない。ちょうど遺伝子アルゴリズムが局所的に適応度の高い解を見つけて、そこに嵌ってしまうように、家父長制的制度も人類の制度探索アルゴリズム最適化問題においての憂うべき局所解なのだ。その解を揺らしてやる必要がある。ちょうど金属に焼きを入れて邪魔な結晶を取り除き純度を高める「焼きなまし(アニーリング)」のように。必要なのは、制度アニーリングなのだ。社会批判は焼きなましなのである。社会に焼きを入れること。

この戦略は難しい。なぜなら家父長制的制度が何らかの問題を解決してしまっているとしたら、とりあえずわたしたちはそれを使い続けてしまうからだ。それ以外の問題解決の方法を開発し、それが実装可能であることを示さなければならない。不可能ではない。わたしたちは未来を設計しなければならないということだ。

戦略2:家父長制的制度ではそもそも解決していない

家父長制的制度を仕方なく採用しているとしても、そもそも家父長制的制度が問題を解決していないことはありそうだ。たとえば出生率の維持のために家父長制的制度があるのだ、とか夫婦同姓は家庭の絆を高めるのだ、といった主張に対応する戦略である。この場合は家父長制的制度が問題を解決していないことを示すという事実のレベルで争える。

戦略3:家父長制的制度のマッチポンプ

家父長制的制度が解決している問題が家父長制的制度によって生まれているマッチポンプのケースでは、家父長制的制度をやめれば問題が消失する。

このケースでは、家父長制的制度が解決している問題がどのように生成されているのかを分析し、それがよりのっぴきならない外的要因によるというより家父長制的制度そのものが生み出すものであることを示せばよい。

制度をデザインするために

家父長制批判のモチベーションは簡単で、うまくいっていない制度を改訂したい、というシンプルな欲求だ。それは非機能的なレガシープログラムを社会が運用し続けていることからくるわたしたちの生活の質の低減というコストへの批判だ。わたしたちの権利の誤った分配の問題だ。わたしたちがそれぞれに権利を支払わなければならない燃費の悪い制度があれば、しかもそれが不平等な形でコストが分配されている制度があれば、それを変えたいという願いだ。

制度設計のレベルで家父長制批判を行う、家父長制をサービス終了し、よりよい制度を始めること。家父長制を採用したい人はもしかしたらその批判者と同じ問題を解決したいのかもしれない。あるいは、問題点そのものを見逃しているのかもしれない。制度のデザインのレベルではわたしたちはたとえ敵対していたとしても、データによって議論できる。それを拒否するなら、どこかでイデオロギー闘争にはなるかもしれないが、その手前で話せることはかなり多くあるだろう。

古い制度のデザインを使い続けたいという気持ちは誰にもある。よく知っているし使い方が分かる。だが、わたしたちは世界をデザインしよりよいものに変えてきた。プロダクトだけではなく、制度もまたデザインできる。制度は自然ではない。だからわたしたちの手で変えられる。よりよい世界のためにわたしたちにできることはかなりある。

*1:この文章は『不平等の進化的起源』を読む前のエッセイだ。ゲーム理論の道具を何も持たずに直観で議論するとこういうことが言えるという事例として参考にして欲しい。しかし三つの分類はそれなりに有用だとも思われる。

*2:むろんわたしの知らないオルタナティブは無数にあるだろうし、家父長制的制度を採用していなかった社会の方が多いのかもしれない。

「人間の美学」に向けて

生の有意味性の哲学を読み、人間の美学の構想が生まれた。

人間の美学(Aesthetics of Human Beings):人間が人生の中で展開する、道徳的価値や美的価値や認識的価値といった枢要な価値や達成をはじめとする価値を下支えしそれを芳醇にする生の有意味性という価値を感受し・制作し・評価する実践に関する美学。

前段

『生の有意味性の哲学』伊集院利明、2021年、晃洋書房。人生の中での意味(Meaning In Life)は生実現形成:現実世界で多元的な価値を目指し自己と生を作り上げていき、生を生きる活動の充実度により決まるとする説を提示し、Well-BeingやMeaning Of Life との関係も統一的に説明する。おもしろい。

人間のナラデハの価値

おそらく動物たちもまた美的価値を創出・感受できているようには思う(ニワシドリの美的なあずまや)。人生の有意味性が自己像を持つ人間のナラデハ価値になると考えると、人生の意味の哲学とは、人間アートの哲学とも呼べるような、美学と倫理学が入り混じった価値の哲学の分野になるのだろう。

芸術的価値を支えるもの

さる美学者と話していたとき、もしポップアートに対しハイアートがどうしても意図的にナラデハの価値を提示したいとするなら、作品単体だけではなく作家の人間としての徳とか深みで勝負しなければいけないのでは? という話になったのをMeaning in Lifeと諸価値の下支えの議論で思い出した。

人間の美学の範例としてのアイドル美学

アイドルファンとは、もしかするとアイドルの生の有意味性の創造に伴走することで生の有意味性を獲得するような営みであり、だからこそアイドルの愛がファンにつねに第一に向けられているという確約を欲しているのかもしれない。だからファンは見知らぬ恋人の出現に怯える。推すこととMeaning in Life。

人間の美学とキャラクタの美学

キャラクタへの愛とは、特定の美的価値の鑑賞にとどまるものではなく、虚構的な生の有意味性に対する鑑賞実践である。それは、現実の人間に対するのとアナロジカルに、創造された生の有意味性に対する真正な尊敬をキャラクタに対してなす人々や、キャラクタの生き方を生の範例とする人がいるように、フィクションに対する態度と真正な現実的態度の混合した独特な実践である。

人間の美学とバーチャルYouTuberの美学

アバターの出現により、人々はルッキズムを超えられたわけではない。しかし、見た目に並ぶ人の人生の有意味性への感受性がいっそう純化され始める兆候が見られなくもない。それはこれまでも小説や自伝やノンフィクション作品の中で味わわれてきたが、YouTubeという生配信も可能にするプラットフォームと合体し、リアルタイムでの生の有意味性パフォーマンスアートが発達し始めている。

廃墟はなぜ魅了するのか?『摩耶観光ホテル』に行って廃墟を美学する。第13回応用哲学会発表「廃墟とペルソナ」資料公開

廃墟はなぜわたしたちを魅了するのかについての美学研究をしました。美学者の難波です。

2021/05/22に第13回応用哲学会のワークショップ「廃墟と亡霊たち」にて、広島工業大学萬屋博喜さん(ヒューム・哲学)と京都大学の松永伸司さん(ゲーム研究・美学)と共同発表してきました。オンライン開催、休みのお昼下がりに70名ほど来ていただいて、とてもうれしかったです。

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廃墟の亡霊

廃墟に行ったときに感じる、あのいわく言い難い寂寥感、しかし安心した感じ、どこか後ろめたい仄暗い快楽……とは何なのか。こうした疑問から、わたしは廃墟に行くことで感じられる美的経験を分析することにしました。

まずは文献を読み、廃墟の美学小史をつくりました。ちょっと並べてみましょう。

  • 1961:ポール・ザッカー「廃墟––––美的ハイブリッド」。歴史的な廃墟鑑賞態度を絵画作品から読み解き、18世紀において廃墟は自然に侵食されながらも建築家の目指したものを幾分か保持し、オリジナルな作品のよさも含め鑑賞されていたとする。
  • 1982:フロレンス・M・ヘツラー「廃墟の美学:存在の新たなカテゴリ」。自然と人工物、そしてそれを鑑賞するわたしたちが作り上げる新しい種類の「廃墟美」をもたらす対象として廃墟を特徴づける。
  • 1983:ドナルド・クロフォード「自然と芸術:弁証法的関係」。廃墟を自然と人工物が「弁証法的」に作り上げる「ハイブリッドオブジェクト」として特徴づける。廃墟の他にランドアートの話もメイン。スカブローの「古典」「ロマン主義」の区別の参照元
  • 2001:クリストファー・ウッドワード『廃墟論』。物語作品を手がかりに廃墟のイメージを探求。歴史的な話。
  • 2004:ロバート・ギンズバーグ『廃墟の美学』詩も含めた多岐にわたる廃墟イメージの分析。
  • 2009:グレン・パーソンズ&アレン・カールソン『機能的美』。機能をうまく果たしているものが機能美を持つとする立場から、機能を果たしていない廃墟は非機能的な面は美的欠陥だが、その表出的価値によって欠陥は見逃されるとする。
  • 2014:ジェニファー・ジュドキンス「もうそこにはないものについて」。既に失われたものを失われている場所で鑑賞する経験について。真正性や場所の感覚との関係を指摘。
  • 2014:ジャネット・ビックネル「建築的幽霊」。「建築的幽霊」と呼ばれる痕跡から過去の創造的に再建される建物について、設計図だけの建築や写真から想像される建築などと比較。建築の身体経験との差異、喚起される情動について。
  • 2014:キャロライン・コースマイヤー「時の勝利:ロマン主義の再来」。歴史的価値と、美的価値に関与する歳月的価値を区別。時間経過を重視して廃墟を特徴づけ「崇高」などの経験を廃墟経験に結びつける。
  • 2014:エリザベス・スカブロー「想像されざる美」。ジュドキンス、ビックネル、コースマイヤーの説を批判。
  • 2015:エリザベス・スカブロー「廃墟の美学」スライド中に詳細。

どれもけっこうおもしろみがあるので気になった方は読んでみてください。

それに加えて、廃墟についての語りを分析してみました。すると「面影」「人の気配」といった人間的な要素が廃墟の良さとして指摘されていたんですね。

軍艦島は昔栄えていたけれど、廃れていって、廃墟化してそのまま荒れるにまかせるようになっている。死んでいるまちだけれど、まちには人の生きている気配がある。人の息吹をいまだに感じるという部分があったんですね。自分のいとこは死んでしまったけれど、彼女の存在というものはどこかで感じている。そういうところと重なったのがきっかけで、廃墟を求めて縦横無尽にうろうろして、写真を撮るようになったというわけです。(西川&山崎 2021, 3、強調は筆者)

さて、こうした経験をどう概念化するか……? 発表とは名前を変えつつ概念を提示すると*1

人影:人間の生活の痕跡から想像的に再建される人間の仮想的な身体と振る舞い。

人は、廃墟に訪れたとき、そこにある様々な壊れたオブジェクトをただそれとして知覚するだけではない。人は、そのオブジェクトの配置から「ここに住まっていた人々はどのような習慣的なふるまいをしていたのだろうか」と想像し、その想像が高まったときには、その人の横顔さえ想像できるようになる。オブジェクトから想像される存在したかもしれない人々の振る舞い=人影が廃墟から立ち上がることで、わたしたちは廃墟に人の姿を見出し、それを味わっているわけです。

廃墟に行ってみた「摩耶観光ホテル」探訪篇

これだけだと本当にこの概念がいい感じに使えるかわからないので、試すために廃墟に行ってみた、というのが、この発表のおもしろいポイントかなと思います。立ち入り禁止のところ、ご協力をお願いし、保存グループの方にご案内していただきました。写真の一部をご紹介しましょう。

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作為の自由な戯れ

廃墟に行った結果、当初考えていなかった廃墟の美的経験の特徴を発見しました。スライド中では「意図の自由な戯れ」と呼んでいますが、作為の自由な戯れにしようかなと思っています*2

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芸術作品は作為によって作られ、作為を認知する。環境などは作為なしに作られ、しかし作為を認知してしまう。この両者の間に廃墟はあり、作為があるようでないようで、やはりあるように見える……こうした作為の自由な戯れが独特の美的な快楽を生み出しているのでは、というアイデアです。

いずれも生成途中なので、これからもっと発展させていきたいですね。

資料はこちらです。

drive.google.com

 

 

*1:川瀬和也、大岩雄典、銭清弘の指摘による。

*2:銭清弘の指摘による。