Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義

はじめに

読み進めるほどにあちこちに、これから学ぶべきものが見えてくる。

さまざまな本をひらきつつ、聞き知ったことがらを関連させていければと思う。

それでは、ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第5章を読んでいきたい。

Introduction to a Philosophy of Music

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung

第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

第5章 形式主義

この章では、形式主義について検討するために以下の3つのトピックを扱う。まずformalismという表現について、次にMeyerの情報理論。最後に音楽理解について扱う。

第1節では、formalismという表現が生むふたつの誤解について注意を促し、第2節ではメイヤー(Leonard B. Meyer)の〈情報理論〉(information theory)によってわたしたちの音楽享受のあり方を〈出来事〉(event)〈予想〉(expectation)のふたつの側面から説明する。第3節では、音楽理解についての条件を〈志向的対象〉(intentional object)と〈音楽理論〉(music theory)にふれつつ検討し、最後に第4節では扱えない問いとして、ゲームの楽しさと個々の音楽要素の美そのものについてふれる。

第1節 Formalism:不適切な言葉

まず、今回取り扱う形式主義・フォーマリズムという言葉そのものについて注意を向けよう。〈形式主義〉(formalism)は、実のところ、音楽の形式主義について定義するためには不適切な言葉なのだ。この言葉は以下のふたつの点で不適切であるといえる。(p.67, par.1)

第1 音楽の純粋主義

まず第一に、フォーマリズムは、音楽について、その評価に関係するただ一つの側面が、形式のみであると提案している。この観点は、カント、ハンスリック、ガーナーにおいては正しいかもしれない。しかし、以下で見直すような、現在提案されているようなフォーマリズムに関してはあてはまらない。(p.67, par.2)
フォーマリズムは、まず否定的な言葉によって定義される。すなわち、音楽が何ではないかという言葉によって。絶対音楽は意味論的、あるいは表象的な内容を持たない。そして音楽は〈純粋〉(pure)な音の構造である。それゆえに、フォーマリズムというドクトリンは、音楽の〈純粋主義〉(purism)であると呼ばれることがある。(p.67, par.3)
しかし、もちろん、音楽にはその形式のみならず、その他にも芸術的な面白さがある。それは個別の音や和音、さまざまな楽器による音色といったもので、これらはまたそれぞれの魅力を持っている。(p.68, par.1)
なので、カントやハンスリックのような形式主義ではなく、ここで扱う形式主義においては、わたしたちは音楽的に、音楽作品における〈感覚的〉(sensous)な要素を享受(enjoy)していると考えよう。最も重要なものであるにせよ、形式もそのひとつなのだ。(p.68, par.2)

第2 空間的・時間的

第二に、形式主義という言葉は、もっぱら視覚的な形式、静的で空間的な諸形式(static spatial forms)を示唆してしまう。けれども、もちろん、音楽の〈形式〉は時間的(temporal)なものだ。そのため、言い換えの案として〈時間的パターン主義〉(temporal patternism)のほうがより適切かもしれない。けれども、形式主義は長らく使われてきたものなので、いまここで変更してしまうと誤解を生むかもしれない。(par.3)なので、あえて変更はせずにおく。
以上の二点の不適切な点に注意しつつ、ここでは形式主義という表現を用いることにしよう。

第2節 情報理論

第1 情報理論

キーワードの確認を終えたところで、いよいよ形式主義に基づいて、音楽の哲学的な問題に取り組んでゆこう。
さて、まず第一に、絶対音楽に関する形式主義者の問いとは次のようなものである:音楽の構造を把握する際、わたしたちは何を享受しているのだろうか?(What do we enjoy in our apprehension of musical structure?)(par.4)
この問いに直接答える前に、次の予備的な問いを考えてみよう。
わたしたちは小説を読むとき、あるいは映画を観ているとき、何を享受しているのだろうか?
まず指摘できるのは、わたしたちは小説や映画が展開するフィクショナルな出来事(fictional event)を享受しているはずだということだ。そしてまた、文字を用いた作品なら、言葉の美しさを、映画ならば画面の構成を楽しんでいるだろう。加えて、話の筋の構成や、作品が提示する哲学的、倫理的な問いに楽しみを見出すかもしれない。
いずれにせよ、主としては、物語(story)を享受しているといえる。(p.69, par.1)

それでは、わたしたちは絶対音楽の形式的、感覚的な要素を聴いているとき、何を享受しているのだろうか?(What is it we enjoy in listening to the formal and a sensual properties of absolute music unfold in our listening space?)
もし形式主義者なら、わたしたちが享受しているのは、フィクショナルな出来事ではなく、純粋に音楽的な出来事、すなわち、音の〈出来事〉(sound 'event')、これを享受していると答えるだろう。(par.2)
ここで予備的な問いに注意を向けよう。

音楽的な出来事(musical event)の知覚、そして享受と、フィクショナルな物語(fictional narratives)の理解、享受とのあいだには、共通の性質があるということ。大まかに言って、どちらの場合においても、わたしたちはただ筋を追っているのではなく、考えているthink)のだ。(par.3)
フィクショナルな物語、たとえば小説をはじめて読むとき、わたしたちは受動的な鑑賞者(passive spectator)ではなく、何が起こるのかを考えているのだ。
つまり、わたしたちがフィクショナルな物語に心を向けているとき、わたしたちは、言ってみれば、問いと答えのゲーム(question-and-answer game)に興じているのだ。フィクショナルな物語はこうしたわたしたちの問いに対して、当然あるべき予想を裏切ったり、異なる結論に達して困惑させたりする。(par.4)

次に、わたしたちの〈予想〉(expectation)について考えよう。

すこし考えれば気づくことだが、わたしたちの〈予想〉はそれまでにどんなジャンルの物語をわたしたちが読んだかによって条件づけられている。わたしたちは読んだことのないジャンルの読み方が分からなかったり、次にどんな展開が訪れるのかをまったく予想できなかったりする。すなわち、わたしたちの予想は、つねに流動的な状態にあり、かつ、わたしたちがどんな思考態度(mindset)を持ち込むかによってその予想は変化するのだ。(p.70, par.1)

物語との比較で気づくように、音楽作品はプロット(plot)を持っている。もちろん、物語の登場人物の行動によるものではなく、純粋に音楽的なプロットをである。音の出来事は以前ハンスリックが述べたように、音楽的な〈論理〉(logic)もしくは〈意味〉(sense)の連結によって起こるのだ。
わたしたちがこの音楽的なプロットを追うときの態度は、フィクショナルな物語を追うのとほとんど同じをものだと言える。(p.70, par.3)

次に、こうした分析を踏まえて、音楽の構造を把握するとき、わたしたちは何を享受しているのかを、 メイヤー(Leonard B. Meyer )の Emotion and Meaning in Music (1956)を援用して分析してみよう。(p.71, par.1)
メイヤーは〈情報理論〉(information theory)に基づいて音楽の分析を行っている。まずこの情報理論について概略を確認しよう。
まず、情報理論において〈情報を伝える〉(inform)とは、誰かに、そのひとが知らないことを伝えることを意味している。(par.2)
そして、〈出来事〉(event)は、完全に予想できるものから、まったく予想できないものにいたるまで、連続的に(それぞれの値をもって)存在する。ある出来事が予想可能なものであるほど、それはすこししか情報を持っていない。逆の場合も同じである。すなわち、予想だにしない出来事は情報が多い(highly informed)のだ。(p.72, par.1 )

第2 統合論的出来事と形式的出来事

こうした情報理論をメイヤーは音楽的な出来事に援用する。
その際、音楽的な出来事のカテゴリーを区分することでより詳細な議論を行っている。以下、見ていこう。
まず、音楽的な出来事を〈統合論的出来事〉(syntactical event)〈形式的出来事〉(formal event)のふたつに区分する。(par.2)
はじめの〈統合論的出来事〉(syntactical event)とは、音楽的な文法の規則(rules)に基づく出来事である。すなわち、和音の進行、解決といった音楽理論的な規則に基づく出来事のことである。(par.3)
形式的出来事〉(formal event)とは、さまざまな音楽の形式に基づく出来事である。統合論的出来事よりすこしおおきな枠組みでの形式のことである。(par.4 )
たとえば、ソナタ形式において楽曲はおおきく、提示部(exposition)・展開部(development)・再現部(recapitulation)に分かれている。
提示部では主題が提示され、その主題は展開部においてさまざまに変奏される。そして最後に再現部において主題が反復され終わる。このような形式を形式的出来事と呼ぶ。(p.73, par.1)下図参考(https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Simple_sonata_form.png

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第3 音楽的な出来事の予想 外的、 内的

それでは、出来事そのものについての確認を終えたところで、わたしたちの予想について考えよう。わたしたちの予想はいったいどこから発生するのだろうか?(From whence do these expectations arise?)(par.2)

まず、音楽的な出来事に対する予想は次のふたつに分類することができる。〈外的な予想〉(external expectation)と〈内的な予想〉(internal expectation)とである。
前者は、ある特定の音楽環境において育つことで無意識のうちに獲得される予想のことである(The former are the expectations one acquires quite naturally, without being aware of it, in growing up in a specific musical environment.)。たとえば、わたしたちは、すでに無意識のうちに西洋音楽的な和声感を身につけてしまっている。(par.3)
後者は聴取者が心を向けている特定の音楽作品の内的なはたらきによって惹き起こされる予想である(The latter expectations, the internal ones, are aroused and frustrated or confirmed by the inner workings of the particular musical work itself that the listener may be attending to.)。(p.74, par.1)

第4 情報理論による音楽の説明

以上をふまえて、〈よい〉(good)音楽とはなにかを考えてみよう。
メイヤーによれば、よい音楽とは、予想と予想外の中間をゆくものでなければならない。完全に予想できるものは情報を持っておらず、退屈であり、まったく予想できないものは情報過多であり、それに対するわたしたちは混乱に陥ってしまう。
たとえば、地理的にあるいは時間的に離れた諸民族の奏でる音楽を聴く際、わたしたちはそれらのひとつひとつがもつ響きの多様性にしばしば戸惑う。その訳はこの情報理論に基づいても説明できる。

それらは、わたしたちの外的な予想の外にあり、それゆえ、そのよしあしを判断できるだけの経験をもっていないのだ。そして、あまりに情報過多であるがゆえに、正当な判断ができない。(p.74, par.2)

第5 ふたつのゲーム

以上までで、情報理論に基づき、出来事、予想のふたつの要素についての音楽享受の分析がなされた。次に情報理論による説明に関して、さらにふたつの問いを取り上げよう。
ひとつは、予想し、そして驚きや満足を得るプロセスにおいて、どの程度まで意識的に、どの程度まで無意識的になされるのかという問いであり、ふたつには、何度も聴いた音楽に、つまりすでに展開を知ってしまっている作品にも予想のプロセスを適用できるのか?という問いである。(p.74, par.3)

1 仮設ゲーム

まずひとつめの問いについては、意識的でも無意識的でもありうる(both consciously and unconsciously)と答えることができる。ことの詳細を見てゆこう。
音楽の聴取者は、音楽を用いて〈仮設ゲーム〉(hypothesis game)を行っている。とキヴィは説明する。聴取者は、音楽を聴きながら、次になにが起こるのかについてのじぶんの仮説を組み立て、その結果、その予想に対する驚きや確証を得る。(p.75, par.1)

こうした予想と驚きのゲーム、情報理論に基づいて言い換えれば、新たな情報を手に入れていく遊びによって音楽の構造を享受しているのだと、仮設ゲームは言わんとしている。

ここで注意しておきたいことがある。あるひとはこの仮設ゲームを行いながら、自分が仮設ゲームを行なっていることを自覚していることがある。けれども、仮設ゲームを行っているものがみなこうした自覚(self-sonsciousness)を持っているというわけではない。
仮設ゲーム説に反論する者が、音楽の聴取は自覚的な行為ではないと主張するとき、彼らは仮設ゲームそのものを批判しているというよりは、「仮設ゲームをしているという自覚を持つ」ということについて何らかの批判を加えているのだ。(par.2)こうした区別は重要である。

また、この説は音楽の聴取をいたずらに知的な活動に仕立て上げているわけではない。(par.3)
そうではなく、BGMとして聴くのではなく、真剣に、注意して音楽を聴いているひとならば、みなこの仮設ゲームを行なっているのだ。(p.76, par.1)とキヴィは主張する。
以上より、ここでは、音楽聴取においてわたしたちは無意識的に仮設ゲームを行なっているし、あるいはまた、仮設ゲームを行なっていることを自覚していることもある。と主張されている。

2 かくれんぼ

次に、第二の問い、すなわち、何度も聴いた音楽を聴取する際、わたしたちはどのように仮設ゲームを行っているのかを考えよう。(par.2)
この問題は音楽再聴問題(problem of rehearing music)と呼ぶことがある。(par.3)
まず、絶対音楽は、フィクションと同じように、〈錯覚の持続性〉(the persistence of illusion)と呼ばれる性質を持っている。(p.77, par.1)
たとえば誰かが自分を殴るふりをしたとき、それがふりだとわかっていても、わたしたちは身構えからだをこわばらせてしまう。こういった染み込んだ反応をわたしたちはしてしまう、とキヴィは述べている。同じように、何度も聴いた曲でも、急激なテンポの変化や、ダイナミクスの変化にわたしたちは毎度驚いたり感動したりできるというわけである。

けれども、たしかに、錯覚の持続性は、すぐれて音楽特有の性質というわけではない。そこで、キヴィは音楽特有の性質を取り上げるために〈かくれんぼ〉(hide and seek)というキーワードを用いる。(par.2)
西洋古典音楽において、19世紀の終わり頃から、旋律はさまざまに変形、変奏されて楽曲に埋め込まれるようになった。そしてそうした変形され隠された旋律を探し当てることが聴取者の音楽享受のひとつの要素となったのだ。(p.78, par.1-par.2)
組み立てられた音楽的な構築物から主要な旋律を認識することが聴取者の課題となった。同時に、旋律を多様化させ、隠し、変化させ分割し、聴取者に解くためのパズルを与えることが作曲家の課題となった。(p.78, par.3)
その手掛かりとして、絶対音楽は主題を何度も循環(recurrence)させる(par.4)

こうしたいとなみを、作曲家が埋め込み、楽曲のうちに隠れている旋律と、それを聴き取ろうとする聴取者との、そのあいだでのかくれんぼになぞらえることができる。

第6 まとめ

それではここで以上をまとめよう。

We can now put together the two processes of musical listening, the hypothesis game, and the game of hide and seek, into a plausible account of what we enjoy in our encounters with absolute music (and a music with texts as well). What both of these games suggest is a kind of puzzle play, much like, as I suggested earlier, the kind of thing that goes on when we take in a fictional narrative, whether read (as in novel) or seen (as in plays and movies). In a story we are held captive because we want to know what is going to happen: how things will turn out. But we are not completely passive observers of the fictional proceedings: not intellectually passive, that is. A great deal of our pleasure in the experience of fictional narrative is the treasure we take in wondering what is going to happen, making conjectures about what is going to happen, and, of course, finding out what is going to happen: finding out if our conjectures on the money or not. Narratives pose riddles we try to solve.(par.5)

 絶対音楽(あるいはテクストを伴った音楽)と向き合うとき、わたしたちが何を享受しているのか。わたしたちは、この問いに対する説得的な説明を、仮設ゲームとかくれんぼという、音楽聴取のふたつのプロセスを用いて組み立てることができる。これらのゲームが示唆しているのはある種のパズル遊びである。そしてこれらのパズル遊びにおいて起こっていることは、先に述べたように、小説を読んでいるときに起こっていること、あるいは、劇や映画を観ているときに起こっていること、そうしたフィクショナルな物語に没入するときに起こっていることにとてもよく似ている。物語のうちに、わたしたちがとりこになっているのは、何がこれから起こるのかを、すなわち、どんなふうにものごとが進展するのかをわたしたちが知りたがっているからなのだ。しかし、フィクショナルな物語が進行する際、わたしたちはまったく受動的な鑑賞者であるのではない。知的には受動的であるわけではないのだ。というのも、フィクショナルな物語の体験をする際のわたしたちの喜びのかなりは、何が起きるのかいぶかしむこと、何が起きるのかについて推測すること、そしてもちろん、何が起こるのかを見つけ出すこと:たとえその推測が適切であろうとなかろうと……こうしたいとなみによって掘り出す宝物にあるからだ。物語はわたしたちが解こうとする謎を提出するのである。

The forms of absolute music are plots without content. Or, if you like, they are purely musical stories.(p.79, par.1)

絶対音楽の形式とは、内容のないプロットである。あるいは、純粋に音楽的な物語であると言ってもいい。

第7 音楽の反復性

ここで、いったん、後に8章でも扱うことになる音楽の特徴について触れておこう。
音楽がフィクショナルな物語と異なる点は、それが非常に〈反復的〉(repetitive)なのもであるという点である。(par.2)

旋律は変奏されながら何度も繰り返される。さらに、形式的な構造としても、響きは繰り返される。

この点をふまえると、仮設ゲームは物語的なものと音楽的なものとに共通しており、かくれんぼは文学的であるというより、音楽的であると特徴付けることができる。
むろん、物語においても、言葉や比喩の反復性は重要な役割を果たしており、そうした反復を見つけ出すことが文学作品の楽しみにもなってはいる。けれども、こうしたテクストを持つものは、反復性そのものよりもむしろ論述の構造が作品の主題探求の手がかりに寄与している。そして内容を持たず、プロットのみを持つ絶対音楽においてこそ、反復性が重要になる。
加えて、テーマの回帰が見られるような作品がしばしば「音楽的」であると言われるのは、まさにこの音楽の特徴を謂ったものである、とキヴィは述べている。(par.3)

第3節 音楽を理解すること

さて、次に、わたしたちは音楽の何を理解しているのかについて考えよう。
ここでも、まず、物語との類比から考えよう。

フィクショナルな物語を理解するとは、その物語のなかで何が起こっているのかを把握することである。(p.80, par.1)
たとえば、オースティンの『高慢と偏見』を子供が読んでもその全体を理解することは難しいだろう。なぜなら物語を理解するために必要な経験を、彼あるいは彼女は持ち合わせてはいないからだ。(p.80, par.2)
しかし、それでは、音楽を聴く者は何を理解しているのだろうか?(p.80, par.3)
もちろん、まったく無意識に、夢見心地で、音に浸かるようにして音楽を聴くという態度もありうるだろう。しかし、それはここで探求しようとする態度ではない、とキヴィは述べる。(p.80, par.4)

第1 志向的対象

ここで、キヴィは、音楽理解の深さを記述するために〈志向的対象〉(intentional object)という言葉を導入する。
たとえば、あなたと友人の前にある男が現れる。あなたはその男がハムレットで有名な役者であることを知っており、友人は何も知らない。このとき、あなたの志向的対象は、「背が高く、格好の良い、ハムレットの演技で有名な役者」というものになるが、友人の志向的対象は「背が高くて格好の良い男」というものになる。つまり、あなたと友人は同じ男を目の前にしているが、異なる志向的対象と向き合っているのだ。(p.81, par.1)
音楽も同様に、聴き手の音楽的な知識や経験によって異なる志向的対象として記述される。音楽的な知識や経験が多いほど、おおきな志向的対象となるであろうし、音楽について知るほどに、より手の込んだ記述ができるようになるだろう。(p.81, par.2)

第2 音楽理論の扱い

さて、上述したこととの関係で、〈音楽理論〉(music theory)について考えよう。音楽理論は音楽的な出来事についての技術的で精巧な記述であり、ほかの芸術分野には類比的なものが見られないようなものである。(p.82, par.1)
まず注意しておきたいのは、音楽理論の知識は豊かな音楽鑑賞の必要条件(requirement)ではないということである。(p.82, par.2)
しかし他方、音楽理論の知識は音楽享受にはなんら寄与しないという結論も避けなければならない。とキヴィは述べる。(p.82, par.3)
音楽の記述には音楽理論の知識は有用であり、それによって志向的対象が拡大する。加えて、誰にでも学べるものであり、絶対音楽以外の音楽を鑑賞する際にも有用だと述べる。(p.83, par.1-2)

第4節 扱えない問い

以上でこの章の本題は終わった。次に、キヴィは、それ以上はここでは扱うことのできないふたつの問いを取り上げる。ひとつめは、なぜ、いかにしてゲームは楽しいのか(How, why, are these games enjoyable?)という問い。(p.83, par.4)ふたつめは個々の音楽要素のそのものについて(concept of beauty itself)の問いである。(p.84, par.4)

第1 なぜゲームは楽しいのか

キヴィは、なぜ、いかにしてゲームは楽しいのか、という問いに答えるためには、心理学的、生理学的な研究が必要になると述べる。そしてこの問いは哲学者が扱える範囲を超えているとも述べる。(Perhaps it goes beyond even what the philosopher of anything can or is obligated to explain. )(p.84, par.3)

第2 美しさ

音楽の美そのものについては、わたしの問いではない、とキヴィは述べている。(The question of musical beauty is someone else's question, not mine.)(p.86, par.2)

ただし、個別の事例においては、それらの事例がなぜ美しいか説明をすることは可能であると付け加えている。(p.86, par.3-4)

まとめ

以上、第5章では形式主義について検討した。もう一度内容をまとめておく。

Summary

  1. Formalism:不適切な言葉
  2. メイヤーの情報理論
  3. 音楽理解について
  4. 扱えない問い

第1節では、formalismという表現が生むふたつの誤解について注意し、第2節ではメイヤー(Leonard B. Meyer)の〈情報理論〉(information theory)によってわたしたちの音楽享受のあり方を、〈出来事〉(event)〈予想〉(expectation)のふたつの側面から説明した。第3節では、音楽理解についての条件を〈志向的対象〉(intentional object)と〈音楽理論〉(musical theory)にふれつつ検討し、最後に第4節では扱えない問いとして、ゲームの楽しさと個々の音楽要素の美そのものについてふれた。

続く第6章では、形式主義について、さらに詳細な議論を展開していく。