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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第10章 語りと表象

第10章 語りと表象

この章では、テキストと音楽の関係、そして表象と音楽の関係を詳しく分析してゆく。
第1節では表象のさまざまな区分を導入する。第2節では標題音楽を頼りに、テキストと音楽の関係や作用を分析する。

Introduction to a Philosophy of Music

1.音楽的表象

前章ではオペラのテキストにおける音楽の表現的要素(music's expressive properties)の役割について詳しく見てきた。(p.182, par.1)
音楽の表現的要素はテキストとうまく適合させることができる。モーツァルトの《フィガロの結婚》を例に考えてみよう。(par.2, p.183, par.1)
フィガロの結婚》は仲違いしたカップルたちが最後には一緒になる物語である。その最後の場面、仲直りの解決(resolution)の場面で、モーツァルトはGメジャーではじまったこの曲をDメジャーで終わらせている、つまり、音楽を解決(resolution)させている。これは仲直りを音楽によって〈表象〉(represent)していると言われる。しかし、それはどのような意味での表象なのだろうか?(par.2)

絵画的表象と構造的表象

表象という言葉をより詳細に定義するため、ふたつの区別を導入する。ひとつは〈絵画的表象〉(pictorial representation)でありもうひとつは〈構造的表象〉(structural representation)である。前者の例はダヴィンチの《モナ・リザ》(Mona Lisa)であり、後者は《フィガロの結婚》におけるGからDへの解決である。(par.3)
絵画的表象においては、イギリスの哲学者ウルハイム(Richard Wollheim 1923-2003)の用語を借りれば、わたしたちは絵画の中に女性の顔を〈見出す〉(see in)のだ。
音楽においては〈聞き取る〉(hearing in)。しかし、わたしたちはモーツアルトの作品のティーメジャーへの解決に仲違いしたカップルたちの仲直りを聞き取るのだろうか。もちろん仲直りは聞こえない。音(sound)がするわけでもないし音楽の中に聞く(heard)こともできない。ここで、わたしたちは音楽の構造とカップルたちの仲直りとの間の類比を聞きそして知覚しているのだ。これが構造的表象である。この構造的表象において言葉や劇的な設定がなければわたしたちは音楽的な構造をカップルたちの仲直りとして解釈することはできないに違いない。(par.4)

補助された・補助なしの表象

この議論から絵画的表象においてさらなるふたつの区分を設けることができる。それは〈補助された〉(aided)あるいは〈補助なしの〉(unaided)の絵画的表象である。
わたしたちはダヴィンチのモナリザの中に補助なしに絵画的表象を見出すことができる。しかしターナー(J. M. W. Turner 1775-1851)の《湖に沈む夕陽》(Sunset over Lake)に関して言えば、確かにわたしたちはこの絵に湖に沈む夕日を見出すけれども、しかしそれはわたしたちがこの作品の題名を知って初めてそうすることができるのだ。これを補助された絵画的表象とする。(p.184, par.1)
この補助の有無の区別は構造的表象に関しても用いることができる。音楽は補助された構造的表象をしか持つことができない。それでは、音楽は絵画的表象が可能なのであろうか、そして可能だとするならば、それは補助されたものなのか、あるいは補助なしのものなのか。つぎに、この問いを検討しよう。(par.2)
音楽における絵画的表象はつねに〈〉(sound) の表象としてしかありえない。絵画の絵画的表象がつねに〈視覚〉(sight)に関する表象であるのと同様である。もちろん音楽も絵画も音や視覚に関するもの以外を表彰することはできるが、それは〈絵画的に〉(pictorially)ではない。(par.3)
音楽における補助なしの絵画的表象は明白なものとしてしかありえない。鳥の声や、オネゲル(Arthur Honegger 1892-1995)による、蒸気機関車の駆動音を表象した《パシフィック231》(Pacific 231)のような作品以外ではありえないのだ。そしてこうした例は、音楽の美的な可能性のレパートリーに入れるには稀にすぎる(unaided pictorial representation in music is, if possible at all, too rare a phenomenon to be counted as belonging to music's repertoire of aesthetic possibilities)。(p.185, par.1)
次に補助された音楽の絵画的表象について考えよう。
ここでもふたつの区別を導入する。ひとつは〈音楽以外の音の表象〉、もうひとつは〈音楽の表象〉である。(par.2)
ひとつめの事例は数え切れないほどある。ドラやドラムロールを用いてなされる雷の表象や、弦楽のたゆたうような旋律による、穏やかな川の流れの表象などがあげられる。(par.3)
また、ふたつめの音楽の表象はワーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に見られる。教会で礼拝客たちが聖歌を歌い出す場面で、ワーグナーは教会音楽そのものを表象している。(p.186, par.1)

ふたつの問い

いまあげた例に関してふたつの反論がある。ひとつは表象と表象されるものの区別に関する問い(a distinction between representation and the thing represented)、もうひとつはそこで表象されている何をわたしたちは見出し、聞き取ることができるのか(we be able to 'see in, or (in this case) 'hear in' the pictorial representation what is represented there)、という問いである。(par.2)
ひとつめの問いに関して、イギリスの哲学者スクルートン(Roger Scruton 1944-)の議論を検討しよう。彼は、あるものを表象していると誤ってみなされている音楽は、表象ではなく、あるものそのものである(the music just is what it is (mistakenly) described as representation)と主張する。すなわち、ワーグナーは作中で教会音楽を表象しているのではなく、教会音楽そのものを取り込んでいるだけなのだ。(par.3)
ふたつめの問いに関して、アメリカの哲学者ロビンソン(Jenefer Robinson)は、端的に、わたしたちは表象を聞き取ることができない、と答える。(par.4)

キヴィはまず、スクルートンの主張に反論する。
ワーグナーのオペラ《ニュルンベルクのマイスタージンガー》において演奏される教会音楽はもともと16世紀に作られたものだが、ワーグナーはそれを彼の作曲した弦楽によるアレンジを挟みながら演奏するように作曲している。つまり、19世紀のワーグナーの音楽形式に基づいて16世紀の教会音楽が演奏されている。これはやはり絵画的な表象である、とキヴィは述べる。(p.187, par.1)
また鳥の声や雷といった非音楽的なものを表象する際にも、スクルートンのようにあるものそのものと考える必要はない。それらは音楽的な楽器によって模倣されるのであり、模倣する対象そのものではないことは明らかである。(par.2)
つまり、音楽の絵画的表象において表象されている対象と表象する媒体とが識別できないとする理由はない(there seems no reason to think that, in pictorial representations in music, medium cannot clearly be distinguished from the object represented)。(par.3)

次に、ロビンソンの主張を検討しよう。
そのためにまず、〈見出す〉(seeing in)ことと〈錯覚〉(illusion)とを区別を導入する。
わたしたちは《モナ・リザ》という作品のキャンバスに女性の姿を見出すのであり、そこに女性がいると錯覚するわけではない。(p.188, par.1)
音楽の絵画的表象においても同様に、わたしたちはシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の《糸を紡ぐグレートヒェン》(Gretchen am Spinnrade)において表象されている紡ぎ車を、紡ぎ車そのものが回っているとは勘違いしない*1
もちろん、見出すことの生々しさ(vividness)に比較すると、聞き取ることの生々しさは劣る。とキヴィは経験から述べる。加えて、見出すことはふつう補助なしで行われうるが、聞き取ることはそうではない('Seeing in' is usually unaided. 'Hearing in' probably never is.)と述べる。(par.3, p.189, par.1)

構造的表象

それではつぎに構造的表象について検討しよう。音以外のものや音の出来事(sound events)を音楽で表象することは西洋音楽の伝統のひとつである。ルネサンス期にはじまり、1600年から1750年にかけて、すなわちバロック時代に頂点に達した。この伝統のもっとも熱烈な賛同者はバッハ(Johan Sebastian Bach 1685-1750)である。しばしばバッハの〈トーン・ペインティング〉(tone painting)と呼ばれるものは、彼が用いた宗教的な概念やイメージを〈反映〉(reflect)し、あるいは〈描いた〉(illustrate)ものである。(p.189, par.1, 2)
彼は聖書や同時代の宗教的なテキストを元に作曲をした。例えば、聖書の十戒を、10回繰り返されるテーマによって表象しようとしたり、キリストの教えと、それを反復する信徒の様子を同一のテーマの繰り返しと変奏からなる〈カノン〉(cannon)によって表象することを試みた。(par.3)
これらはテキストに対応している音楽の構造であるがゆえに、キヴィは構造的表象と定義する。(p.190, par.1, 2)
上にあげた表象の例は音を表象している訳ではないし、音の出来事を表象しているわけでもない。見ることはできるが聞くことはできないような物事や概念を表象している。ここでひとは、音の構造を聞き、テキストを理解し、そしてそれらの構造的な類比を知覚・認識するのだ。(par.3)
ここで重要なことは、音楽における絵画的表象と構造的表象はともに補助されたものであるということだ。8章でも扱ったように、音楽はなんらかのテキストなしでは表象を行うことができない。(par.4)

2. 標題音楽

音楽は少なくとも以下の3つのやり方でテキストと整合的に知覚されうる。
ひとつは、テキストが表現するのと同じ情動を音楽が表現する場合。
ふたつ目は、テキストの中で言及、描写、暗示されている音の出来事を、音の絵画(sound picture)として描く場合。
みっつ目は、テキストのうちの出来事・イメージ・概念を構造的な類比として表象する場合。(p.191, par.1)
ひとつ目は前章で見たように、オペラにおいてさかんに取り上げられた。残りふたつは19世紀、〈標題交響曲〉(programmatic symphony)と〈交響詩〉(tone opera)において探求された。以下、このふたつを取り扱ってゆく。(par.2)
19世紀は、〈ロマン派音楽〉(Romantic Music)の時代であった。そして有名な著述家ペイター(Walter Pater 1839-1894)の、すべての芸術は音楽に憧れる(All art constanly aspires towards the condition of music.)という言葉は、ロマン主義における音楽と文芸の関係を示している。
同時に、19世紀に〈文学的作曲家〉(literary composer)がはじめて登場した。シューマン(Robert Schuman 1810-1856)、ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-1863)、ワーグナー(Richard Wagner)の3人がその代表である。シューマンベルリオーズは音楽批評において、ワーグナーは音楽の哲学的省察において偉大な作品を残した。(par.3)
19世紀には器楽曲に文学的内容を込めようという試みがなされたが、その試みの哲学的な原点を探ることは難しい。19世紀に頻繁に参照された偉大な哲学者ヘーゲル(G. W. F. Hegel 1770-1831)を例にとると、音楽が芸術であるためにはそれは内容を持たなければならない、と主張していることはわかる。(p.192, par.1)
そしてまた、オペラにおけるテキストと音楽の統合も別の道を辿りながら解決が図られようとしたのもこの時代であった。(par.2)

幻想交響曲

標題音楽〉(program music)は〈標題交響曲〉(programmatic symphony)と〈交響詩〉(symphonic tone poem)とに分類されうる。このどちらも〈音楽外的〉(extramusical)な概念が含まれている。音楽外的な内容を補強するためにテキストを伴っているのだ。
交響詩はひとつの楽章、標題交響曲は複数の楽章からなり、その〈標題〉(program)はたんなるタイトルから完全な物語までさまざまなものがある。(par.3)
まずタイトルのみを伴う標題音楽の例としてブラームスJohannes Brahms 1833-1897)の《悲劇的序曲》(Tragische Ouvertüre)を取り上げよう。(p.193, par.1)
そのタイトルから、わたしたちはこの曲を表象的な側面から鑑賞することができる。けれども、ブラームスがそれをつよく希望したというわけではない。(par.2)
次に、この曲よりもずっと詳しいテキストを伴う標題音楽の例として、ベルリオーズの《幻想交響曲》(Symphonie fantastique)を取り上げよう。(par.3)
この曲は5楽章からなり、それぞれに標題がつけられており〈夢、情熱〉〈舞踏会〉〈野の風景〉〈断頭台への行進〉〈魔女の夜宴の夢〉、加えて作曲家自身による数行の文章を伴う。(par.4)
こうした物語を音楽が伝えているわけではない、とキヴィは主張する。音楽はテキストを伴わなければこのような物語を伝えることはできない。(p.194, par.1, 2, 3, 4)
そしてキヴィは、幻想交響曲のような標題音楽がテキストなしでも、その音楽自体で鑑賞できることに注意を向ける。そしてこのことを標題音楽に対する哲学的な反論の根拠としてあげている。(p.195, par.1)
スクルートンも同様のことを述べている。(par.2)
もちろん、標題音楽をその音楽のみから〈十全に〉(fully)に享受することはできないだろう。というのも、標題を知らなければ意味の通らない(doesn't make sense)音楽的要素がありうるからである。(par.3)
たとえばリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の《ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》は、ロンド形式、すなわちテーマが幾度となく繰り返されると音楽形式を持ち、この曲ではそのテーマは主人公たるティルを表象しているのだが、音楽的にはいささか唐突にティルのテーマが挿入される。これは標題を知らなければ理解しがたいであろう、とキヴィは述べる。(p.196, par.1)
同じことはベルリオーズ幻想交響曲にも言える。(par.3, 4)
ここで〈十全に鑑賞する〉(appreciate fully)という言葉に注意しよう。ベルリオーズ標題音楽をその音楽的側面のみから、ベートーヴェンと比較することは、彼の作品を十全に鑑賞することにはならない。(par.2)

音楽とテキストの関係

次にキヴィは、絶対音楽の可能性を指摘する。絶対音楽はテキストや物語をしばしば付け加えうる。(p.198, par.1, 2)
また、キヴィは、音楽は純粋数学のように、それ自体はなにも表象しないが、なにかを表象するために用いることもできるものだと述べている。(par.3)

音楽それ自体は月並みな情動を惹き起こすことはないが、テキストが付け加わるとそれが可能になることは認めてよい。しかし、そもそもなぜフィクションがわたしたちの情動を惹き起こすのかは明らかではない。(par.2, 3, p.200, par.1)

まとめ

さて、これまでとても長い道のりを辿ってきた。いまいちどかんたんに振り返ることにしよう。
まず、音楽と情動に関する理論を概観し、形式主義、そして強化された形式主義を検討し、それを反論から擁護しテキストを伴う音楽を扱った。
次の章では、そもそもわたしたちが扱っているもの、すなわち、音楽作品そのものと演奏について扱ってゆこう。(par.2, 3)

 

*1:この曲では紡ぎ車の回転がピアノの右手による16分音符のオスティナートによって、そして、紡ぎ車を回すペダルの足踏みが左手の低音のリズムによって表象されている。同時に、糸を紡ぐグレートヒェンを声楽歌手が演じ、女性の感情の高ぶりとピアノのテンポ、ダイナミクスとが連動している。こうして、ひじょうに高度なレヴェルで『糸を紡ぐグレートヒェン』そのものが表象されていると言えよう。