font-family: 'Raleway', sans-serif;

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第7章 あなたのうちにある情動

はじめに

ページを数えるとようやく半分を過ぎたところ。運がよければ夏が来る前に読み終えられそうだ。あせらず、疑問を持ちながら読み進めていきたい。

第7章 あなたのうちにある情動

この章では、音楽がいかにして情動を持つのか、そしてどのようにわたしたちに情動を惹き起こすのかという問いに答えることを試みる。

まず第1節では、音楽と情動に関する問いを確認する。次に第2節では、ペルソナ説性向説というふたつの惹起説の検討をする。最後に第3節では、もし音楽がわたしたちに不快な情動を惹き起こすなら、なぜわたしたちはその音楽を聴くのか、という問いを検討する。そのなかで、キヴィの自説が展開される。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 音楽と情動に関する問い

第1 音楽と情動をめぐるふたつの問い

音楽と情動めぐってふたつの問いがあった。
それは、音楽の表現性(expressiceness of music)と音楽がわたしたちを情動的に動かす力(music's power to move us emotionally)とに関する問いである。
(p.110, par.1)
単純な惹起説(arousal theory)では、これらふたつの問いを、傾向性(disposition)を用いて説明する。(par.2)
けれども、わたしたちが前章で見てきたように、現在はこうした単純な惹起説は一般的ではない。そのため、傾向性を用いた説明は十全ではないのだ。

いま現在、わたしたちは、音楽が持つ情動を認知するのであり、それを感じるわけではない、という考え方が一般的である。しかしそうであるなら、日常でみられるように、音楽がわたしたちを情動的に動かしているように思われ、決してたんに認知しているわけではないように思える場合をどう説明できるだろうか?(p.111, par.1)

第2偶然性

こうした日常的な体験において、音楽が月並みな情動を惹き起こす理由を、ハンスリックは音楽の〈病的な〉(pathological)効果によるものだと説明した。この表現がうまく内容にそぐわないとして、キヴィはこれを〈わたしたちの歌〉(our-song)効果と言い換える。この効果は、わたしたちがある特定の情動の状態(emotional state)において、また、特定の環境(circumstance)において音楽を聴くことで生じる。(par.2)
それぞれについて例をあげつつ説明しよう。
まず、情動の状態について。キヴィはつぎの例を挙げる。
3年の長い軍役生活から帰郷したひとりのアメリカ人が、船から降り、故郷の土を踏んだ。そのとき彼の耳に飛び込んできたのは、軍楽隊が奏でる《星条旗》(The Star-Spangled Banner)だった。彼は涙し、そして激情に呑まれた。帰郷の喜び、友との死別、そのほかの情動の激流に呑まれたのだ。
ひとりのアメリカ人の特定の情動の状態で聴かれた《星条旗》はこのように、確かに彼の情動を動かす。(par.3)
つぎに環境による情動惹起の例をあげる。
映画〈カサブランカ〉において、バーを経営する主役のリックは、友人のピアノ弾きのサムに《時の過ぎ行くままに》(As Time Goes By)を演奏することを禁じている。なぜならその曲は彼が昔別れた女性のことを思い出させるからであった。その旋律を聴くと、リックは深い哀しみ、そして怒りの情念を覚えてしまうのだ。(p.112, par.1)
こうした状態と環境において、ひとは音楽の情動を認知するのではなく、ある情動を確かに感じるのだ。

以上のふたつの例はひじょうに説得的である。しかし、これらは音楽の美的に、芸術的に重要な特徴(aesthetically or artistically significant features)とは関係を持っていない。《星条旗》は勇壮な歌であり、《時の過ぎ行くままに》はセンチメンタルな愛の歌であるが、それらと聴き手の情動とは関係していない。(par.2)

第2節 ふたつの惹起説 ペルソナ説と性向説

ここからすすんで、情動は偶然感じられるのではなく、わたしたちが音楽が持つ聴かれた要素(heard properties)を認知し、そしてそのことによって惹き起こされる、と考えることはできないだろうか? とキヴィは問いかける。(par.3)

第2節では、こうした問題意識を持ちふたつの惹起説、〈ペルソナ説〉と〈性向説〉とを紹介し、それらを検討する。

第1 ペルソナ説

1 概説

まずひとつめは、〈ペルソナ説〉(persona theory)である。

この説は、わたしたちが音楽作品を人間の発話として聴くということを主張する(The persona theory has it that we hear a piece of music as a human utterance.)。(p.113, par.3)
どういうことだろうか? 順を追って見てゆこう。

わたしたちは、例えば交響曲を聴くとき、ある情動を受ける。その交響曲の情動は、ペルソナが、つまり、虚構のキャラクター(fictional character)が表現している情動なのだ。とペルソナ説は述べる。(p.114, par.1)
そして次に、そのペルソナが表現している情動にちょうど〈共感〉(empathize)することで、わたしたちは音楽作品を聴く際に情動を惹き起こされるという訳なのだ。

あたかも、友人が泣いていることから彼女が悲しんでいることに気づき、彼女に同情するようにして、とキヴィは説明する(par.2)
しかし、現実の人間に対しては彼が感じている情動に共感することはあり得ようが、虚構のキャラクターに対して同じように共感するだろうか?(par.3)
けれども、わたしたちが小説や演劇、映画に触れている際、実際に、虚構のキャラクターの悲しみや喜びに共感していることは経験から確かだ。(p.115, par.1)
むろん、とキヴィは指摘する。虚構のキャラクターがいかにしてわたしたちに現実の情動を発生させるかは問題である。として、この問題についてはこの章の後半で扱う。(par.2)

2 3つの検討

さて、ペルソナ説についてひと通り述べたところで、この説を3つの観点から検討し、その疑問点を取り上げておこう。(par.3)

まずひとつに、経験から言って、わたしは音楽的ペルソナがそれ自身の情動を表現しているとはまったく気づくことなしに、音楽に深く感動する(music moves me deeply without my being aware at all of musical personae expressing their emotive states)。これはペルソナ説を知る以前も、そしていまもそうである。(par.4)
これに対して、ペルソナ説に賛同する者は、ペルソナに意識的に気づくことなしに、ペルソナが表現している情動はわたしに効果をもたらす、と述べる。
しかしこれに対してキヴィは疑念を呈する。彼らの主張はあたかも、わたしがアンナ・カレーニナに共感することで、不幸な気分になる際に、別段、アンナ・カレーニナの不幸に意識的に気づくかなくともよい、と述べているようだ。これは受け入れがたい。(p.116, par.1)
けれどもこの点をこれ以上深掘りすることはしない。というのも、この点に対してはレヴィンソン(Jerrold Levinson)の有力な反論があるためだ。(par.2)

第二に、ペルソナ説は、音楽的なペルソナ(musical persona)とフィクションの物語(narrative fiction)のキャラクターとのあいだの類比(analogy)に立脚している。しかしこれは成り立たない。(par.3)
というのも、音楽的なペルソナとはいったいどんな存在なのか、いかなる性かもわからないような、ひじょうにあいまい(vague)な存在なのだ。なんとなれば、小説、劇や映画のなかでさえ、それがよくない作品であれば、キャラクターが浅い(shallow)と言われたりする。それにも増して音楽的なペルソナとははっきりしない存在なのだ。(par.4)

このあいまいさの理由はかんたんで、小説や演劇ではキャラクターは言葉を持ち、そして描写された姿を持っていけれども、ひるがえって音楽的ペルソナはそうした要素を持ち得ないからだ。言ってみれば、ピーター・ラビットのほうがよっぽど〈パーソナリティ〉(personality)を持っている、とキヴィは述べる。(p.117, par.1)

最後に、ペルソナ説は、しばしばあやまった情動をたどってしまう(the theory...tracks the wrong emotion)。ゆえに成り立たない。(par.2)
実生活から考えてみよう。

生活において、他のひとの情動表現に対するわたしたちの反応は単純ではない。わたしがどんな情動を感じるかは、わたしが反応するそのひとがどんなひとか、わたしにとってどんなひとか、どんな状況下であるかによって影響される。
たとえば、あなたが怒っているとき、わたしは怒りではなく、恐れや怯えを感じるかもしれない。わたしの敵が不幸であるとき、わたしは喜びを感じるかもしれないのだ。
ときおりわたしはあなたと〈自身を同一化〉し、あなたの情動を感じるが、けれどもつねにではないし、ましてや原則としてではないSometimes I may 'identify' with you, and feel your emotions. But not always, or even as a rule.)。(par.3)
もちろん虚構のキャラクターに対しても同じである。(p.118, par.1)

それゆえ、ペルソナ説は音楽と情動の関係をうまく説明できない。

以上の検討に対して、ペルソナ説の擁護者は、ふたつの反論をする。

まずひとつに、彼らは、音楽的ペルソナにおいてのみ、つねにそのペルソナが表現する情動とそれに対するひとが抱く情動とは一定にある。と主張する。しかし、それではなぜ音楽においてのみそうした一定の関係が成り立つのかについて説明しなければならない。(par.1)

さらに再反論として、音楽的ペルソナが位置するのはつねに一定の状況下(circumstances)である。とする。しかしその状況下とは何かが答えられていない点では納得しがたい、とキヴィは述べる。(par2)

そしてふたつに、擁護者は、実生活やフィクションの物語と同じように、わたしたちは状況下ごとに、ある特定のペルソナが表現する情動に対しても、そのつど異なる情動を抱く。と主張しうる。しかしこれは、ペルソナ説の根本をひっくり返してしまう反論であり認められない。(par.3)

以上からキヴィは、ペルソナ説は音楽と情動の関係を説明するには不十分であるとして退ける。

第2 性向説

1 概説

それでは次に、ふたつめの説、〈性向説〉(tendency theory)を検討しよう。(p.119, par.1)

まずは一般的な〈性向〉(tendency)について考える。

一般に黄色は快活な色、そして黒は陰鬱な色だとされている。そしてわたしたちは色そのものに快活さや陰鬱さを知覚する。これらは色の知覚された質(perceived quality)の部分を成している。そして、〈常識〉(common sense)に基づけば議論の余地なく、黄色はひとびとに快活にする〈性向〉を持っている、と言える。(par.2)
さらに性向説論者は、同じく〈常識〉に基づいて、以上の議論を音楽の表現的な要素にも適応する。
そして、ある音楽の表現的な要素がこうした情動を惹き起こす性向を持つなら、ときおり、わたしたちにその情動を惹き起こす、と結論する。アスピリンが頭痛に効かない場合があるにせよ、頭痛を癒すようなある性向性を持っているのと同じように。(par.3)
性向説の論者であるデイビス(Stephen Davies)は次のような比喩を使って説明する。
あなたが演劇用の、とくに悲劇用の、憂鬱を表現しているような仮面を作る工場で働いているとする。1日8時間、週に5日、周りをぐるりとその悲劇的な仮面に囲まれて仕事をする。

そうすると、とデイビスは結論づける。あなたはきっと憂鬱な情動を抱くだろう。憂鬱を生み出す仮面の性向は、最終的にあなたに影響するのだ。そしてこれは憂鬱な音楽にも成り立つ。このように性向説は主張する。(p.120, par.1)

2 反論

それではキヴィによる反論を見てゆこう。

キヴィはまず、〈常識〉を用いることを疑う。議論の手法として常識を多用することは得策ではない、とする*1

そしてこの性向説、すなわち、すべての表現的な要素は、特に、音楽の表現的な要素は、みずからが表現している情動を受け手に生じさせる性向を持っている(all expressive properties, and, in particular, the expressive properties of music, have a tendency to produce in the perceivernthe emotions they are expressive of)、とする説に反論する。(par.2)

まず、一般に、性向のうちには、発揮されない性向もあり得るということを指摘する。例えば、時速90マイルで走るとハンドルを切らなくても左に曲がってしまうという性向を持った車は、もちろん、時速90マイル以下ではその性向を発揮しない。(par.3)

それでは、音楽についてはどうか。ある音楽の情動を惹き起こす性向は、実現されるのだろうか?(Does this tendency ever get cashed out?)それとも車の例のように、発揮されないままなのだろうか?(does it remain unfulfilled)(p.121, par.1)

デイビスの例を取るなら、憂鬱な音楽はどれぐらい聴けば聴き手を憂鬱にさせるのか?
憂鬱な仮面と同じく、1日8時間、週に5日聴けばいいのか?

こうした問題について性向説は答えていない。ゆえに、性向があるという証拠は存在しないし、もし存在していたとしても、以上のような効果を持っているかどうかも定かではない(Nor is there any evidence that these tendencies, if they exist, have any such effect.)。したがって、性向に訴える議論はうまくいかない、とキヴィは結論づける。

さてこれらふたつのペルソナ説、性向説に対する批判を加えたところで、より一般的に、惹起説全体に対する批判を行う。そしてその議論をしつつ、キヴィの持論へとつないでゆく。

第3節 音楽と情動

まずそもそもの前提から考える。

もし音楽が月並みな情動を惹き起こすことができるなら、おおくの音楽は不快なものになってしまう。すなわち、憂鬱な音楽は憂鬱を惹き起こし、怒りの音楽は怒りを惹き起こすなら、ひとびとはなぜわざわざそれを聴くのか? 選択の問題として、いったい誰が無償で憂鬱や怒りや恐れの体験をしたいのか?(Who would gratuitously, as a matter of choice, undergo the experience of melancholy, anger, fear?)(par.2)

この基本的な疑問に対してさまざまな応答がある。ここでは代表的ななものを扱う。(p.123, par.1-2)

第1 教育説

おおくの論者は、本来的に不快な情動は快いものに変えることができ、なおかつ受け入れられなかった当の情動は残り続ける(an emotion inherently unpleasant can be 'made' pleasant and still remain the emotion that it was unacceptable)。という考えをおよそばかばかしいものとみなす。そして、不快な情動は、より深い道徳的、心理学的教育のために役立つ(serve some deep purpose of moral or psychological education)と考える。(par.3)

たしかに、すべてではないにせよ、ある種の小説や映画、劇〔あるいは、伝承の民話や寓話〕は不快であるが、教訓を与えるものとしてある。けれども、音楽作品に対してはこの説明は的外れである。
たとえば、ベートーヴェン交響曲第5番がわたしたちにいかなる教訓を教えてくれるのだろうか? そしてわたしたちが交響曲に教訓を求めることは正当だろうか?

そうした要求は不当であり、過剰な解釈(over-interprets)である、とキヴィは批判する。(p.124, par.1)

第2 対象・信念・感じ

第1で述べたような説に反対して、キヴィは次のように主張する。
すなわち、わたしたちが憂鬱や恐れといった不快な情動を惹き起こされているという前提そのものを否定する。
わたしたちはなぜ音楽がわたしたちを動かす不快な月並みな情動を享受しているのか、という問いに答える必要はない。というのも、音楽は快、不快のどちらにしても、わたしたちに月並みな情動を与えないのだ(We do not have to explain why we enjoy those of the garden-variety emotions that music moves us to, that are unplaesant, because it does not move us to the garden-variety emotions at all, either the pleasant or the unpleasant ones.)。とキヴィは述べる。(par.2)

この説を説明するために、情動がいかにして惹き起こされるのかについて基礎的な確認をしよう。(p.125, par.1)

1 対象・信念・感じについて

わたしたちが情動を経験するとき、そこには、その情動に関する〈対象〉(object)とその情動を生じさせる〈信念〉(belief)そしてその情動から惹き起こされる〈感じ〉(feeling)が存在している(there is an object of the emotion, a belief or set of beliefs that causes the emotion, and causes it to have the object it does, and a certain feeling aroused in the one experiencing the emotion)。(p.126, par.3)

例えば、あなたがポーカーをしていて、友人のイカサマに気づき、腹を立て怒ったとしよう。このとき、あなたの怒りという情動の対象は友人であり、信念は友人がイカサマをした、ということであり、そして感じは腹立ちである*2(p.126, par.2)
(p.125, par.2-p.126, par.1, 2, 3)

こうした整理を経て、まずペルソナ説、性向説を含む惹起説一般の議論の前提にキヴィは問いを投げかける。
惹起説は、月並みな情動を表現しない音楽は、わたしたちの情動を動かすことはない(music not expressive of the garden-variety emotions cannot be deeply moving: cannnot move us emotionally)と述べている。(p.127, par.1-2)
しかし、14世紀後期、15世紀、16世紀はじめにおける作曲家の作品のおおくは、清廉な(serene)な音楽であり、月並みな情動とは関わりのないものである。(p.128, par.1)
また、合唱曲、とくに児童合唱は水晶のように透明で、情念のない、天上の声(cystal-clear, almost passionless, ethereal voices)であると言われる。(par.3)
こうした音楽は、怒りや恐れといった月並みな情動をなんら表現していない。にもかかわらず、ひじょうに感動的な音楽である。これらは清廉さや静謐な美しさ(tranquil beauty)といった月並みな情動では表現できないものによってわたしたちを感動させる。(p.129, par.1)
(p.127, par.3, p.128, par.1, 2, 3, p.129, par.1, 2)

ゆえに、情動が惹き起こされるか否かとその音楽が感動的であるかどうかとは、関わりがない。この点からキヴィは持論を展開していく。

2 音楽への適用

さて、それではいよいよ〈対象〉〈信念〉〈感じ〉の3つの観点から、わたしたちが音楽に対するときどのような情動があらわれるのかを考えよう。

まず、わたしたちが〈音楽的情動〉(musical emotion)を感じる際に〈対象〉としているのは、もちろん〈音楽〉(music)である。より正確に言えば、わたしたちが対象としているのは、聴き手が美しいと、見事であると、あるいはそのほか、かなりの程度、美的に賞賛できると信じているような、音楽のうちにある特徴のセットである(the set of features in the music that the listener believes are beautiful, magnificent, or in some other ways aesthetically admirable to a high degree)。(par.2)

つぎにわたしたちが抱く〈信念〉とは聴き手が、音楽にどのような美しさや美的な要素があるかについて抱いている信念そのものである(listener's belief that the music she is listening to)。(p.129, par.3)
ゆえに、信念が変わることで、同じひとつの音楽から受ける情動が変化することがある。以前はある音楽に感動していたものの、その単純な仕組みを知ったことで、感動しなくなる、ということもありえる。(p.130, par.1, 2)

最後に、わたしたちが感じる〈感じ〉どのようなものだろうか。
音楽を聴いたときにわたしたちが感じる感じは、興奮(excitement)、陽気さ(exhilaration)、驚き(wonder)、畏敬(awe)、熱狂(enthusiasm)といったなにかしら高揚した(high)ものである、とキヴィは述べる*3
そして、情動の対象は、その情動がなにかではなく、それがどのように感じられるかを定義したり決定することを助ける(it is the object of the emotion that helps define or determine not just what the emotion is, but how it feels)。たとえば、どのように愛が感じられるかは、なにが愛されているかを参照することでもっともよく説明される(how...love 'feels'...is best described with reference to what it is that is...loved)。
あるいは、あなたが息子を愛するとき、飼い犬を愛するとき、そしてヴァイオリンを愛するときは、みな愛の情動と言える。けれどもその感じはそれぞれに異なって感じられるのだ。とキヴィは説明する。ゆえに、感じはその対象を名指すことなしにはその違いを説明することができない。(par.3, 4)

第3 まとめ

以上の3つの要素をまとめよう。

The object of the emotion is, in a word, the beauty of the music; the belief is that the music is beautiful; the feeling is the kind of excitement or exhilaration or awe or wonder...that such beauty customarily arouses.

情動の〈対象〉は、ひとことで言えば、音楽の美である。そして〈信念〉はその音楽が美しいということであり、〈感じ〉は、ある種の興奮や陽気さや崇高や驚きである。……これらが、このような美を習慣的に惹き起こすのだ。(p.131, par.1)

第4 具体例への適用

それでは、キヴィのこの説を具体例を通して確認しよう。

試みにベートーヴェン交響曲第7番の第2楽章を聴いてみよう。ここには、さまざまな音楽的要素(musical properties)が含まれている。そのうちで、たとえば悲しく憂鬱な要素がわたしたちを深く感動させたとしよう。(par.2)

このときわたしたちは悲しく憂鬱な情動にさせられたのではなく(not to be moved to funeral melancholy)、音楽のうちにある悲しく憂鬱な情動によって心を動かされ、それによって興奮や喜びの情動へと動かされるのだ(But to be moved by funeral melancholy to excitement and enthusiasm and joy over its musical beauty is, on the contrary, to be moved to an emotion devoutly to be wished.)。
わたしたちはその音楽的な美に感動する(We are moved by their musical beauty.)。もしそれが憂鬱なものなら、それがどれほど美しく憂鬱(beautifully melansholy)であるかに感動するのだ。
音楽はそれ自身の美によって、あるいはほかのはっきりとした美的な質によってわたしたちを感動させ、情動的に高揚させる(They move us by their beauty, or other positive aesthetic qualities, to an emotional high over the music.)*4。(p.132, par.1)

第5 補論

以上でキヴィの自説の説明はなされた。以下では、補論として、つぎのふたつを取り上げておく。(par.2)

1 準-情動

この章の第2節で扱ったふたつの情動説において、わたしたちに惹き起こされる情動は情動そのものではなく、〈準-情動〉(quasi-emotions)であると述べられている。というのも、音楽が惹き起こすような恐怖や怒りといった情動はじっさいにわたしたちをある行動へ駆り立てることはないからだ。(par.3)
そう考えると、第3節で展開した説においても、美しく憂鬱な音楽がわたしに惹き起こす音楽的な情動は、憂鬱ではないにせよ、その対象として憂鬱さを持っている(the musical emotion that beautifully melancholy music arouses in me , though not melancholy, has melancholy as its object)おり、それゆえに、準-情動と言えるかもしれない、とキヴィは言い添えている。(p.133, par.1, 2)

2 情動の勘違いについて

キヴィの説が正しいとすれば、なぜ、ひとびとは音楽がかれこれの情動を惹き起こす、と主張するのだろうか。キヴィは、はっきりとした証拠はないものの、次のように述べる。
高揚した情動の興奮(high state of emotional excitement)は恐れや怒りを伴っている。しかし、ひとびとは、前者と後者のセットを、後者のみと誤解しているのではないか。(p.133, par.3)

おわりに

さて、この章では、音楽がいかにして情動を持つのか、そしてどのようにわたしたちに情動を惹き起こすのかという問いに答えることが試みられた。
まず第1節では、音楽と情動に関する問いを確認し、つづく第2節では、ペルソナ説と性向説というふたつの惹起説の検討をした。最後に第3節では、もし音楽がわたしたちに不快な情動を惹き起こすなら、なぜわたしたちはその音楽を聴くのか、という問いを検討し、そのなかで、キヴィの自説が展開された。

キヴィの説はわたしたちが音楽にある情動を認知し、そこで終わるのではなく、さらにポジティヴな感じを感じる、ということを主張しようとしている*5

つぎの章では、強化された形式主義を用いて絶対音楽の輪郭を描くこと、そして強化された形式主義を反論から擁護することを試みる。(p.134, par.1, 2)

 脚注

*1:ここでキヴィが言いたいのは、すべての予断を排除せよ、と言うものではない。情動に関する議論において、わたしたちの感覚に照らし合わせることは重要な論拠や説得感を生む場合が多々あるが、流布されている説に従うことは賢明ではない、ということだ。

*2:ここで感じの扱いを確認しておきたい。怒りというのは一般的な情動である。しかし、つねに同じ怒りをわたしたちは感じているわけではない(not...I feel same way)。ときどきに爆発的な怒りや、くすぶるような怒りを感じている。とキヴィは説明する(p.126, par.2)。こうしたそれぞれの感じ(feeling)は、情動とは区別される。

*3:〈ハイ〉な感じ(high)と訳したほうが分かりやすいかもしれない。けれどもそれだとあまりに多義的だと考え、まだしも意味が狭い〈高揚〉と訳した。

*4:キヴィのこの説明はわたしにとっては十全でない。例をあげて考えてみよう。わたしたちは音楽を対象として、そこに陰鬱な美があるという信念を抱く。そしてその陰鬱さそのものを認知することで、畏敬や驚きの高揚感を得る。とすると、わたしたちは陰鬱さそのものの認知を楽しむことができる、ということだろうか? なるほど、惹起説が説明するように、わたしたちが陰鬱な情動をじっさいに抱いてしまうなら、それを楽しむことはできない。陰鬱な曲にちょうど陰鬱なエピソードが付随してしまっている場合、わたしたちは陰鬱な情動を抱くため、その曲を楽しめない。以上のようにわたしは解釈した。

*5:ここには指摘したいことが3つある。
まず、認知と感じは直結するのかどうか、ていねいな議論が必要だということ。つぎに、情動と感じの正確な区分が必要であるということ。最後に、とくに指摘しておきたいのは、〈高揚〉(high)な感じと指摘したからと言って、その感じはそれほどあきらかではないこと。
すなわち、highという表現はあまりに汎用的で、説明としては現時点では怪しいということ。言ってしまえば、好物を食べるときもわたしはハイな感じを感じるだろうし、花の香りにうっとりするときにもハイな感じを感じるだろう。音楽に関する感じの説明としては、あまりに漠然としているとわたしは考える。