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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第12章 そして演奏について

第12章 そして演奏について

この章では前章で軽く触れるにとどまった演奏と楽譜の関係について分析する。

第1節では、歴史的な楽譜の変化に触れつつ、楽譜と演奏の関係を、第2節では、作曲家と演奏家の関係を、歴史的に真正な演奏という言葉を軸に分析する。

Introduction to a Philosophy of Music

1. 演奏と楽譜

音楽作品がどのような存在かという問いに対して、前章ではみっつの回答を紹介した。すなわち、楽譜のコンプライアンス・クラス(score compliance class)説、創られたタイプ(created type)説、そして発見されたタイプ(discovered type)説のみっつである。(p.224)
そのどの説においても、演奏はなんらかの形で楽譜に従っている(comply)と考えられている。ところで、楽譜に従うとは、いったいどのような行為を意味するのだろうか?(p.225, par.2)
この問いに答えるために、キヴィはよっつの譜例を提示する。
ひとつめは中世初期の聖歌の譜面である。

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The Introit Gaudeamus omnes, scripted in square notation in the 14th–15th century Graduale Aboense, honors Henry, patron saint of Finland
この譜面には音高関係が示されてはいるが、それぞれの音の絶対的な基準が示されていないという点で現在用いられる譜面とは大きく異なっている。
ここから推測されるのは、いかなる譜面も、その時代や環境の背景知識なしには読み取ることができないという事実である。(p.228)
次にキヴィはバッハの《フルートとチェンバロのためのソナタ》(BWV1034)の譜例を用いる。ここでは、同時代のパーセルの譜例を用いよう。(p.229)

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Melody from the opening of Henry Purcell's "Thy Hand, Belinda", Dido and Aeneas (1689) with figured bass below
譜面上段は主旋律を、下段はチェンバロの左手バスのみを記している。そのバスのさらに下には変化記号と数字が付されている。これらの記号と数字が付されていることにより、この楽譜は〈数字付き低音〉(figured bass)と呼ばれる。
この数字は、書かれていないものの奏者が演奏するべき音を示している。記された音から何度離れているか、どのような和音を奏するべきかが指示されているのだ。
この次にキヴィは通常の楽譜と、数字付き低音の《フルートとチェンバロのためのソナタ》(BWV1034)を譜面化した例をあげている。(p.233)
数字付き低音の場合は、通常の譜面に比べて高い自由度を持っていると考えられている。なぜなら、数字付き低音は、演奏者がその譜面の指示内でその都度自由に和音を選択し演奏することができるからだ。しかし、現代に一般的な楽譜においても、演奏者はそこに記載されている音のみならず、どのように音量を変化させるか、どれほどの音の長さを選ぶか、どのような音色を奏でるかということを考慮し、その都度演奏しているという点で、バッハの時代の演奏者に劣らず演奏しつつ〈作曲〉(compose)していると言える。(p.236-237)

2.歴史的に真正な演奏

以上のような作曲家としての側面を持った演奏家という考えと対立する考えがある。第2節では、〈歴史的に真正な演奏〉(historically authentic performance)という考えを扱い、反駁を加える。(p.240)
この立場は、過去の音楽作品の演奏に際して、その時代の楽器や演奏習慣を可能な限り再現することを重要視する立場である。作曲家が意図した音楽作品を再現するために、作曲家が指定した楽器や彼の時代で受け入れられていた演奏方法に基づく必要があると考えるのだ。キヴィはこの立場を「考古学的な再建」(archeological reconstruction)と表現している。(p.244)この立場に立てば、バッハの作品を現代のピアノで演奏することや、弦楽器による演奏の際、ビブラートを加えることは作曲家の意図に反していることになる。果たしてこの主張は正しいのだろうか。

ふたつの意図

キヴィはこの主張を反駁するために、アメリカの哲学者ディパート(Randall Dipert)の議論を用いる。ディパートは、作者の意図にはふたつのレヴェル(level)があると主張した。ひとつは、作曲者が望む音楽的効果を達成するための〈高次〉(high-order)の意図(intention to achieve the musical effect he wants)であり、もうひとつは、その効果を達成するための特定の手段に関する〈低次〉(low-order)の意図(intention to achieve the effect with a certain means)である。(p.247)
歴史的に真正な演奏を重要視するものは、単に作曲者の低次の意図を遵守することに注力してしまい、作曲者の高次の意図を再現することができていない、とキヴィは述べる。作曲者の〈反事実的条件の意図〉(counterfactual intention)を想像することができない。もし、作曲家がいまどのように演奏を求めるのか想像することができない。もうすこしこの論点を詳しく述べよう。(p.247)

物理的な音と音楽的な音

バッハの作品を当時の楽器や演奏習慣に従って演奏することで、確かに当時の〈物理的な音〉(physical sound)を再現することができるだろう。しかしそれはバッハの同時代人たちが聴いたバッハの演奏そのものを再現することにはならない。なぜなら物理的な音が同じであったとしても、それを聴くわたしたちがバッハの同時代人異なっている限り、その音は彼らが聴いたようには聴こえない。つまり〈音楽的な音〉(musical sound)を再現したことにはならないのだ。(p.248)

それでは歴史的に真正な演奏は廃止されるべきか? キヴィはそんなことはないと述べる。これまで論駁したのは、「もっともよい演奏」が存在するといった主張を批判するためであった。ゆえに、すぐれた演奏ならば、歴史的に真正な演奏であろうと、そうでない演奏であろうと、同時に存在しうるし、それらはともどもに音楽として享受できるのだ。(p.249)