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Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その1 第1章 …の哲学

はじめに

ピーター・キヴィの『音楽哲学入門』 (Peter Kivy, Introduction to a philosphy of music, Oxford University Press, 2002.)は音楽哲学の創始に多大な貢献を果たしたPeter Kivy(1934-2017)による音楽哲学の入門書である。300ページほどのそこまで大部ではない本であり、音楽の哲学への入門書として基本的な文献になっているそうだ。

しかし邦訳はいまだ出版されていない。そもそも2017年現在、音楽哲学に興味のある初学者が気軽にアクセスできるような出版環境は整っていないようだ。

これから読書ノートとして、全13章を読み進めていきたい。そのときにつくったまとめと妙訳を合わせて掲載していきたいと思う。
あえて稚拙なノートを掲載するのは、音楽哲学に興味のある誰かが、検索の末にこの場末に辿り着いたとき、このノートがすこしなりとも学習の手がかりになってほしいと思ったからであり、そしてなにより、この2017年の5月6日に惜しくも亡くなられたピーター・キヴィそのひとに対して、彼の豊かな研究をわずかでも受け継ぎたいと思っている、極東の僻地に住む名もない人間からのささやかな感謝のしるしになれば、と思ったからだ。

 

Introduction to a Philosophy of Music

Introduction to a Philosophy of Music

 

 第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 (完成) - Lichtung

第1章 …の哲学

さて、本文に入っていこう。第1章は、Philosophy of...と銘打たれている。そのまま「...の哲学」と訳した。
この章では、大きく二つの話題を扱っている。
ひとつめの話題として、音楽の哲学についての本格的な導入の前に、そもそも「哲学」とわたしたちが呼ぶようなものとは何か、という問いを立て、それに対して、三つの特徴を述べている。加えて、ふたつめの話題として「音楽哲学」という研究分野が学問として問うに値するような意味を持っているか、という問いを立て、価値はあることを音楽の扱いに関する簡単な歴史にふれつつ示している。
それぞれ、詳しくみていこう。

1.哲学とは何か

キヴィは、野球における格言をひいている。バッターがどこにボールを打つべきか、という問いに 'Hit'em where they ain't'〈誰もいないとこに打て〉と答えた人物の話を紹介する。この格言は、言ってみれば「野球の哲学」の第一公理に置かれるべきようなことがらだ。
これは、一見したところ内容のない自明なことにのように思えるし、あまりに自明なので、あえてはっきりと述べる必要がないもののようにも思える。しかし、とキヴィは言う。この格言は、野球という実践を基礎づけているような最も基本的なことを言い表しているのだ、と。
これだけではよく分からないので、次に彼は「結果主義」の例をあげる。結果主義とは倫理学における主義のひとつで、'Do what will turn out to be best.'〈最良の結果をもたらすことを為せ〉という命題を基礎としている。
これも、'Hit'em where they ain't'と同じく一見無意味なもののように思える。しかし、次のような例をあげるとどうだろう:真実を言うことは良いことだ。痛みを与えることはもっとも悪いことだ。
→しかし、真実を言うことで痛みを与えてしまう場合はどうすればよいか?
このとき、結果主義者は'Do what will turn out to be best.'という原理にしたがって、真実をいわないことを選択することができる。
キヴィはこの例で、一見無意味な言葉が、わたしたちの実践を基礎づけている前提を言い当てたものだということを示している。
ここから彼はわたしたちが「哲学」と呼ぶものの特徴をまとめる。

  • 1.一見したところ内容のない自明なことにのように思える
  • 2.あまりに自明なので、あえてはっきりと述べる必要がないもののようにも思える。
  • 3.しかし、よく考えると、それらの言葉は、暗黙のうちにある、実践の基礎に光をあてる

以上がひとつめの話題である。

2. 音楽の哲学は問うに値するのか?

次にキヴィは、哲学として成立するものとそうでないものとの違いについて述べる。
彼はまず、哲学が成立したりしなかったりするものだということを述べる。
プラトンにおいては、「体操の哲学」というものが考えられていた。なぜなら、彼の思想のなかでは、身体の運動と精神的なものとがいまのわたしたちがふつう思い描くよりも強く結びついていたためだ。いってみれば、プラトンにとっては、身体の運動が、人間存在の根本的な条件を成していると考えられていたために「体操の哲学」が成立していた。けれども、今は成立していない(ように思える)。なぜなら、体操は人間存在の根底を成すとは思われなくなっているからだ。
音楽の哲学もキヴィたち以前には成立していなかった。なぜなら、以前の思想家においては、音楽は人間存在の根底を成すとは思われていなかったからだ。
たとえば、もう一度プラトンに例を取ると、彼は音楽の実践を靴製作や陶器作りと同様の活動とみなしており、詩文や演劇とは異なるカテゴリーに割り当てていた。
時代が下って18世紀に至って、音楽は詩文や演劇と同じ「芸術」というカテゴリーに参入することができたが、依然として思想家たちは散発的にしか音楽を扱わなかった。ようやくキヴィらの時代にあって、音楽は哲学的に扱われるようになってきた。音楽の哲学の興隆は遅れてきたものだったが、決して偶然に起こったものではないとキヴィは考える。なぜなら、キヴィは音楽と人間の関係を非常に深いものと考えるからだ。

Surely music, like art itself, stretches back into the dim prehistory of the race, and spreads over the entire globe. In other words, there never has been, anywhere, a culture without its music; and that music penetrates to our blood and bones hardly, I think, needs argument.

疑いようもなく音楽は、芸術そのものと同様、人間という種の仄暗い前史にまで遡り、そして地球全体に広がっている。つまり、みずからの音楽をもたない文化はどこにも存在しなかったのだ。そして音楽がわたしたちの血と骨に深く入り込んでいることは、思うに、まったく議論の余地がない。本書p.9より(斜体は下線部)

 

音楽と人間の関係の深さは直観のみならず、18世紀以降の音楽学によっても示されてきた、とキヴィは述べる。

It is historical musicology and ethno-musicology that have made us keenly aware of what has always been so: that music is a deep and abiding force in the human family, no matter when or where that family has flourished.

歴史的な音楽学民族音楽学のおかげで、わたしたちはつねにかわらないことにはっきりと気づくことができた。
音楽は人類のうちにある、深く永続的な力だということ。そして、いつどこで人類が繁栄したとしてもそうであったということを。本書p.9

こうした音楽と人間との深い関わりこそが、音楽の哲学が問うに値する学問であることを証し立てるのだ、とキヴィは主張する。

さて、このノートの最後は、彼自身がまとめた文章を引用して終えよう。

SUMMARY 

The kinds of precepts and propositions we tend to call 'philosophical,' outside the philosopher's study or classroom, tend to have the following three features: they seem, on first reflection, to be vacuous truisms; they seem to be so obvious they tend to remain unstated; on more considered reflection they come to be seen as casting light on, as explanatory of, the practice or discipline for which they are the(frequently) unspoken foundations.
Such precepts, isolated and unsystematic, can occur anywhere, as, for example, in what we only half-seriously call a 'philosophy of baseball.' But where they occur as a part of a true 'philosophy of...' is where they deal with some practice or discipline that lies at the heart of our concsiousness, of our lives as a human beings. And when they do occur there, they form a system of inferences and arguments, not really a loose collection of percepts or aphorisms , like 'Hit'em where they ain't' or 'The best offense is a good defense.'. That is why we mean it with it with full seriousness, not merely half-seriously, when we refer to a philosophy of science, a philosophy of morality, or, as we have now come to see, a philosophy of music.

A philosophy of music, then, will be a system of precepts and propositions, perhaps, on first reflection, vacuous truisms not worthy of being made explicit, but, on reflection, richly illuminating of the practice they underlie, a practice that as far back as we can trace it has been the center of our lives and helped to define us as human beings.

哲学者の研究領域や教室の外で「哲学的だ」と呼ばれがちな、ある種の格言や主張は、次の三つの特徴をもつ傾向にある。・いちばんはじめ、それらのものは、意味のない分かりきったことのようにみえる。・それらはあまりに明白なことなので、述べられずにいる。
・よく考えられた反省において、それらは説明的なものとして、(しばしば)暗黙のうちにある、実践やルールに光をあてるということにわたしたちは気づくようになる。
このような格言は孤立していて、体系立っておらず、たとえば、わたしたちが冗談半分に「野球の哲学」と呼ぶようなかたちで、どこにでもあらわれうる。けれども、真の「…の哲学」の部分としてそれら(格言、そしてそれから一歩進んだ前提や議論 訳者注記)があらわれるところでは、それらは、わたしたちの人間としての生の意識の核心にあるなにかしらの実践やルールを扱っているのだ。そしてそれらがあらわれるとき、それらは「やつらがいないところに打て」や「攻撃は最大の防御」といった、たんなる格言や警句の雑多な集まりではなく、推論や議論の体系を形作るのだ。そういうわけで、科学の哲学や道徳の哲学を、あるいはいまこうして音楽の哲学を参照する際には、そういったこと(つまり、ほんとうの意味での哲学 訳者注)を冗談半分にではなしに、真剣に考えているのだ(ということに注意しよう 訳者 注記)。
したがって、音楽の哲学は、おそらく、はじめは、それは明示的に述べる価値がないような意味のない自明なことにみえるが、けれども、よく考えてみると、それら(音楽の哲学における前提や主張)が基礎づける実践の、すなわち、辿れるかぎりふるくからわたしたちの生の中心を成していたし、かつまた、わたしたちを人間として定義するために役立ってきた実践〔つまり、音楽 訳者注〕の豊かな理解になる前提や主張の体系になるだろう。本書p.12-13

 

第二章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 (完成) - Lichtung

注記

・最後の文を訳すにあたって分からないことがあった。
they underlieのtheyとはなんだろうか。わたしは、precepts and propositonsと解した。
the practiceとa practiceの違いは一体なんだろうか。わたしはa practiceを音楽と訳した。
これらの解釈は正しいのか。これがわからない。

・この本の扉にはこうある。

For my students:

         past, present, and future

キヴィが亡くなったという事実と、七十代に差しかかろうという時期にこの本を書いた彼の心境を勝手に想像してしまい、わたしは感じ入ってしまう。センチメンタリズム極まれりと自分でも思うけれども。