Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動

はじめに

予想しなかったほど多くの方の目にふれることになり、さらに幸いなことに、幾人かの方から理解にかかわる貴重なご指摘をいただいた。改めて感謝を記しておきたいと思う。

今回で3回目になる。キヴィの文体にもようやく慣れてきたところだ。

それでは、ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第3章を読んでいこう。

Introduction to a Philosophy of Music

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

訳語の訂正 'analogy'〈類推〉→〈類比〉・〈類比関係〉

5月28日、訳語についてのご指摘をいただきました。

わたしははじめ、'analogy' を〈類推〉と訳していました。しかし、プロセスを指しているわけではないため、analogyの訳語は類推より類比、あるいは類比関係のほうがよい。とのご指摘をいただきました。

自分自身、anologyの訳語に納得がいっておらず(はじめ考えていた〈類似〉では表象説に近づいていくため、〈類推〉としていました)アドバイスの通りだと考え、訂正しておきました。ご指摘ありがとうございます。

第3章 音楽における情動  Emotions in the Music

この章では、音楽がどのようにして情動をもつのかという問いに対する応答として、汎心論的説明音楽と情動の関係〈輪郭説〉の大きく3つのトピックが扱われる。

まず、わたしたちの一般的な直観についてふれながら、ハーツホーンの汎心論を検討する。次に、音楽と情動の関係(複合的・創発的・潜在下にあること)に注意を向け、それからキヴィが支持している'contour theory'〈輪郭説〉による音楽と情動の関係についての3つの説明が述べられる。この説がうまく説明できない和音と関係する情動については、西洋音楽の和声システムに基づく説明を取り入れることで補強する。最後に〈輪郭説〉の検討が行われる。

ここで、やや煩雑ではあるが、作成した目次をあげておく。議論の整理に役立てていただければ幸いである。

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予備的考察

ハンスリックの否定にもかかわらず、わたしたちは往々にして、音楽は月並みな、あるいはその他の基本的な情動を表現すると考えている。

一般的に、わたしたちが、「この音楽の楽節がある情動である(この音楽の楽節は悲しい)」というとき、そのような情動をわたしたちに惹き起こすような音楽の傾向性を記述しているわけではなく、そのような知覚された情動の原因を、わたしたちにではなく、音楽それ自身に帰属させている。こうした考え方を、アメリカの哲学者ブーウスマ(O. K. Bouwsma)が'the emotion is more like the redness to the apple than like the burp to the cider'(情動は、りんごに対する赤性のようなものであり、サイダーに対するげっぷのようなものではない)とうまく表している(p.32)。

しかしこの見方は、どのように情動が音楽のうちに存在しうるのかについては何も答えてはいない。

悲しいニュース」について考えてみよう。それは、それを聞いたひとを悲しくさせる。
この意味は、悲しさが、ひとびとを悲しくさせるそのニュースの単なる傾向性という意味で、ニュースのうちにあるということだ。ここに形而上学的問題はない。
また、「悲しんでいるひと」のことを考えてみよう。そのひとは、じぶんじしんが悲しい気分にあると意識的に知覚している。それゆえ、わたしたちは「そのひとは悲しい(そのひとは悲しんでいる状態にある)」と述べることができる。しかし、発言者が必ずしも悲しさという情動を感じているわけではない。 ここにも形而上学的問題はない。

けれども、音楽それ自身は、悲しんでいるひとのようには悲しさを経験しない(音楽はじぶんじしんを知覚しない)。かつまた、最初に述べたようなわたしたちの理解に従って、音楽が傾向性や、表象としては悲しさをもたないのだとしたら、それはいったいどのようにして悲しさをもつのだろうか?ブーウスマの言葉通りにであろうか? しかし、この考えは答えになっていない。赤性がりんごにどのように内在するかについてのすぐれた理解を、わたしたちがもっていたとしても情動が音楽にどのように内在するかのついてのすぐれた理解を、わたしたちがもっているわけではない。

さて、哲学者は、問題的な事例と問題のない事例のあいだに類比関係を見つけることで、問題を扱うことがある。ならば、現在扱っている問題について、そうしたやり方をとってみよう。すなわち、通常の経験のうちで、知覚的な情動の要素の観念が物体に属していると認められる場合を考えてみよう。

第1節 汎心論

ハーツホーンの汎心論的な説明とその穏健な説について(pp.32-34)

こうした議論を進展させたアメリカの哲学者、ハーツホーン(Charls Hartshorne)の著作、The Philosophy and Psychology of Sensation(1934)がある。
彼は、黄色が「快活な」色だと言われるとき、それは、「黄色がわたしたちを快活にさせるからではなく、その快活さが、知覚された性質の一部分であり、それ自身の黄色さから分離できないものであるがゆえに、そう言われる」のだと主張した。そして同じことは音にも言える、と述べる。
それではなぜ、黄色いものがわたしたちにある情動を与えうるのだろうか?
ここで言われているハーツホーンの説明は、それほど明らかではない。
キヴィは、彼の説は汎心論的なものであり、すべてのものは、生命のないものも含め、なにがしかの感覚をもつ、とするものだと説明している。
間違っているかもしれないが、わたしが解釈するところでは、黄色いものに対してわたしたちが快活さを感じるのは、おそらく、「悲しいひと」と同じように、「黄色いもの」が「快活さを感じている」ためだ、と彼は説明しようとしているのだ。これは受け入れがたいが、傾向性説をとらないのであれば、論理的な道筋と言えるかもしれない。

しかし、彼の議論に反対する者は、音楽がどのようにして知覚的性質として情動をもつのかという問題を、音楽以外の色といった例に訴えて説明しようとしても、依然として解決されてはいないとする。それどころか、色と情動の関係そのものについてもなんら説明がなされていないとすれば、問題がふたつに増えたようなものだ、とすら述べる。

加えて、彼の哲学は、すべてのものは、生命のないものも含め、なにがしかの感覚をもつ、と結論づけるものであり、受け入れるには大きな飛躍が必要になってしまう。

こうした彼の説を穏健な形に言い換えたとしても、依然として、音楽がどのようにして知覚的性質として情動をもつのかという問いをうまく扱えているようにはみえない。

よって、ここで、傾向性説以外の音楽の情動の理論についてはいったん掘り下げることをやめ、次に、音楽と情動にはどのような関係があるかを考えていく。

第2節 音楽と情動 複合的・創発的・潜在下にあること

さて、この節では、以前の議論を直接には引き継がず、新しい論点を扱う。
まず、「単純なsimple)」情動と「複合的なcomplex)」情動を比較しよう。
たとえば、あるひとが「この布は黄色い」と述べ、べつのひとが「いやこの布はオレンジだ」と反論したとき、はじめのひとが彼自身の主張を擁護するために「いや、かくかくしかじかにより、この布は黄色いのだ」と述べることはできない。そうではなく「これは黄色い。なぜなら黄色いから」としか答えようがない。
同様に、黄色は、ほかの知覚された質(quality)によって快活なのではなく、ただ、黄色さによって快活であるとしか言えない。よって、黄色における快活さは「単純な」要素なのだ。
しかし、これに対して、音楽が快活である、あるいは憂鬱であると主張するとき、わたしたちはさまざまな要素を列挙して、その主張を弁護することができる。
たとえば「はやいテンポ、明るい長調の響き、概しておおきな音量、跳ねるような主題」によって音楽が「快活である」と主張することができる。
この意味で、あらゆる音楽の情動的な質は「複合的」なものであると言える。黄色の快活さといったような単純なものではない。

次にキヴィは、音楽の情動が「創発emergent)」なものであると述べる。
音楽の快活さは、明るい長調の響きや、はやいテンポや、大音量といった諸要素の結合によって、新たに生み出された質である。つまり、創発的な質は、それを生み出す諸要素とはべつに、区別されたそれ自身の質をもっているのだ。
言い換えれば、これは、ケチャのリズムがそうであるように、ひとつひとつの要素が組み合わさって、はじめて全体として新しいリズムが生まれる現象に似ている。

最後に、キヴィは、ある情動を知覚している聴き手が、音楽の複合的な質の諸要素をひとつひとつ明確に意識している必要はないと述べる。特に術語として定義されているわけではないが、理解のために、こうしたキヴィの指摘に基づいて、複合的な質は「潜在下」に知覚される、とまとめておこう。

この節では、音楽の情動は、複合的(complex)であり、創発的(emergent)であり、潜在下で知覚されるものだと述べられた。

第3節 contour theory 〈輪郭説〉

第1項 予備的考察

音楽が表現する情動と、人間の表現との類比関係(pp.36-37)

前節で確認された音楽についての分析を一歩進めて、キヴィは次の問いを発する。
わたしたちは、なぜ、暗い短調の響き、抑えられたダイナミクス、遅くためらうようなテンポ、弱々しいメロディーを聴くだけではなく、これらに加えて憂鬱を聴くのだろうか?

この問いに対して、キヴィは、わたしたちの一般的な認識を指摘することで、回答のヒントを示す。

... there seems to be a direct analogy between how people look and sound when they express the garden variety emotions... and how music sounds or is described when it is perceived as expressive of those same emotions.

...ひとびとが月並みな情動を表現しているときに彼らがどのように見えるか、聞こえるか、ということと、同様の情動を表現していると音楽が知覚される際に、音楽がどのように聴こえ、記述されるかということのあいだには直接的な類比がみられる(p.37)

キヴィは、彼の1980年の著作The Corded Shell(のちにSound Sentimentに改訂)において、次のように主張した。音楽の表現性は、音楽の表現性と人間の表現とのあいだにおける類比関係に基づいている、と。以下、この主張の詳細をみていこう。

セントバーナードの顔(p.37)

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セントバーナードの顔を思い浮かべてみよう。その表情はいかにも悲しそうにみえる。
しかし、セントバーナードの顔は悲しさを表現しているわけではない。喜んでいても、セントバーナードは悲しい表情をしているようにみえる。その顔は、むしろ、悲しさについて表現的であると言える。
セントバーナードの顔について考えることが、音楽の情動についての理解の助けになるのは、以下のふたつの理由からだ。まず、その顔における悲しさは、黄色さにおける快活さに似ている。次に、その顔は知覚における、音楽と同様な複合的な対象である。
さて、それではどうしてセントバーナードの顔は私たちに悲しさを惹き起こすのだろうか?
それは、その顔が、わたしたち人間が悲しんでいるときの顔のある種のカリカチュアとしてみえることによる。悲しげな目、シワのよった額、垂れ下がった口や耳、喉袋…こういったものたちが、悲しげな人間の顔の誇張された反映にみえるのだ。

第2項 〈輪郭説〉

第1 音楽の3つの特徴

こうした議論から、音楽の表現性について考える手がかりが得られたところで、わたしたちがこれから扱っていかなければならないだろう、3つの音楽の特徴を取り上げておこう。

  1. 音楽は、人間が自身の情動を表現する音に「似たように響く」
  2. 音楽は、人間の視覚的な表現的ふるまいと類比関係がある
  3. メジャー・マイナー・ディミニッシュコードから、それぞれわたしたちはある情動を受けるが、これらは人間的な声やふるまいには似ていない。

まず最初のふたつについて考えてみよう。最後のものについては、後ほど扱う。

1.音楽は、人間が自身の情動を表現する音に「似たように響く」

音楽における音と、人間の表現における音との間には類比関係があるように思われる。
たとえば、憂鬱なひとは、ちいさく、低く、抑制された声をしており、ゆっくりと、ためらいがちに話す。同様に、憂鬱な音楽は低い音域で、遅く、抑制されたテンポやダイナミクスである。

2.音楽は、人間の視覚的な表現的ふるまいと類比関係がある

聴かれた音楽の要素と、視覚的な人間のふるまいのあいだにも類比関係があると思われる。
たとえば、音楽のフレーズについて、喜びで跳ねるような、うなだれるような、 よろめくような、といった表現がなされる。

第2 〈輪郭説〉

以上のような音楽の表現性についての経験から組み立てた説を、キヴィはThe Corded Shellのなかで、'contour theory'〈輪郭説〉と名付けた。というのも、以上のような説は音楽の音型、すなわち音楽の輪郭を、人間の聴覚的、視覚的な情動表現への類比の基礎としているからである。

これは表象説ではないことに注意しよう。ある像(表象)を認知して、それからわたしたちは情動をもつというわけではない。わたしたちは音楽を聴くと、すぐさま(immediately)に、そして、音楽の各要素を個別に意識するのではなく、無意識(unware)に、音楽に情動を聴きとるのだ。

第3 〈輪郭説〉の擁護

この主張には、さらなる説明を要する。以下いくつか議論をしておこう。

・なぜ他でもなく人間の声やふるまいを聴くのか
・なぜ潜在下で情動が聴かれるのか

キヴィはこの問いに対して、視覚における誤認の例をあげる。

f:id:lichtung:20170526040530j:imageこれは何に見えてしまうだろうか? (わたしには鍵の部分がアヒルに見える)

When presented the with ambiguous figures, we tend to see them as animate rather than inanimate forms: as leaving rather than non-leaving entities. 

「はっきりと形がわからないものを提示されたとき、わたしたちはそれを無生物としてではなく、生物として見がちである」(p.41)

たとえば、雲や、壁のシミや、森に潜む影にわたしたちは生物のすがたをみる。これは、おそらくは、自然淘汰の働きによって獲得され、わたしたち人間に実装されている性質のように思われる。棒だと思って蛇に噛まれるよりは、蛇だと思って棒を恐れるほうが生存には理に適っているというわけだ。
さて、こうしたわたしたち人間の傾向は、聴覚にもまた及んでいるのではないだろうか。とキヴィは仮説を立てる。無生物によって鳴らされた音に、生物の声を聴くのは、ない話ではない。確かに、わたしたちは、茂みがガサゴソと音を立てるのを聞いたとき、風以外の理由を見つけようとするだろう。

・なぜ表現的に聴くのか
わたしたちは、音楽のさまざまな要素、和音やメロディーを、それぞれ個別に聴くだけで、それに加えてべつに情動を聴きとる必要はないように思われる。これに対してキヴィは、前の議論を引き継ぎ「情動を生じさせることで、すぐさま行動に移ることができ、それは生存に役立っている」からではないかと予想する。

・なぜ像そのものを知覚しないのか
音楽を聴くと、わたしたちは、表現的な要素を意識する、すなわち情動を意識する。しかしながら、わたしたちは、人間の声やふるまいそのものを、音楽の輪郭から聴きとるわけではない
これに対して、キヴィは、聴覚は視覚に劣位であることによって応えようとする。
自然淘汰のうちで、わたしたちは徐々に視覚優位の知覚を獲得するに至った。そのため、視覚においては、誤認の際にはある程度はっきりと、棒を蛇だと意識するようなことは起こるが、聴覚においては、その知覚が人間においてはある種の退化を起こしているがゆえに、そういったはっきりとした意識は発生しない(キヴィがここであげているわけではないが、犬と比べると確かに、わたしたちは視覚を重視していることはわかる)。

さて、いささか込み入った議論がなされたので、ここでいったん、〈輪郭説〉についてまとめよう。

 第4 〈輪郭説〉まとめ

Here, then, is one theory of how music comes to embody expressive qualities like melancholy and cheerfulness. It is agreed on all hands that music is melancholy, and cheerful, and so on, in virtue of certain standardly accepted features. It is perennially remarked on that these features bear analogy to the expression behavior, bodily, gestual, vocal, linguistic, of human beings. One can construct an evolutionary story of how and why we might be subconsciously, subliminally aware of this analogy and that this should cause us to perceive the music as melancholy or cheerful or the like as we perceive the sadness of the St Bernard's face. Ihave named this theory the contour theory of musical expressiveness.
(p.43)

ここでは、憂鬱や快活さといった表現的な質が、音楽にいかにして備わるのかについての、ひとつの説を示した。特定の一般的に受け入れられた特徴によって、音楽が憂鬱、あるいは快活であると言うことは、反論の余地なく合意されている。そうした音楽の特徴は、人間の身体的、身振り的、発声的、言語的な表現的ふるまいとの類比によって支持されているということは、つねに言及されている。どのようにして、そしてなぜ、この類推を意識下・潜在下で知覚するのかということの、そして、そうした類比が、セントバーナードの顔に悲しさを知覚するように、音楽を憂鬱、あるいは快活なものとしてわたしたちが知覚することについての、進化論的な物語を組み立てることができる。

第5 和音と情動
1 問題について。輪郭説に基づく説明

さて、ここで、答えられずにおいた、音楽の特徴についての3つ目の記述をキヴィは扱う。
3.メジャー・マイナー・ディミニッシュコードから、それぞれわたしたちはある情動を受けるが、これらは人間的な声やふるまいには似ていない。

まず、キヴィはこうした音楽の要素に対する説明の難しさを述べる。「メジャー、マイナーコードのあいだにおける情動的な質の違いに対する広く認められたような説明は存在しない」(pp.43-44)

そして、キヴィは輪郭説に基づいて、なぜC-E-Gといったメジャーコードが明るく、そして、C-E♭-Gといったマイナーコードが暗く響くのかを説明する。彼によれば、後者のコードは前者に比べ、第三音のEが半音下がっている。これは、憂鬱なひとの声が暗く、沈んだ調子であることに類似している。よって、これらふたつのコードにわたしたちは異なる情動を聴くのだと言う。

これは彼自身も認めるように、十分に説得的ではない。そこでキヴィは、マイナー・メジャーコードがわたしたちに与える情動についての原因を、西洋音楽の調性システムに求める。

2 西洋音楽の和声システム

 ここでキヴィは、ディミニッシュコードの進行、そしてマイナーコードによる終止の例をあげているが、もっとも一般的な、コード進行の例に置き換えて説明してみよう。

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G7-Cという進行を考えてみる。G7は、いま、G-F-B(ソ-ファ-ミ)からなる三和音と考えよう。そして、CはC-E-C(ド-ミ-ド)からなる。G7を構成する音のうち、F-Bは+4th、増4度のインターバルをつくっており、これは不協和な音程である。このふたつの音が、それぞれ半音上行・下降することで、Cという、非常に安定した響きになる。こうしたことは、西洋音楽の和声システムのうちでの取り決めであり、(何百年にもわたる)→〔5月28日訂正:ここまでは言っていない。キヴィは、期間については明示してはいない〕ある種の取り決めによって知覚されるようになった情動だとキヴィは述べる。

It is restless, so to say, in its musical function; when it occurs in a compositional structure, at least until fairly recently in the history of the Western harmonic system, it imparts that the restlessness to the coutour of the melody it accompanies. From its 'syntactic' or 'grammatical' role in music it gains, by association, as it were, even when alone, its restless, 'anxious' amotive tone.

いわば、その音楽的機能によって、それ〔キヴィの例では、ディミニッシュコード。音楽理論的には違う性質をもっているが、この場合においては、いま議論しているドミナントとしてのG7と同じように考えていいだろう〕は落ち着かないのだ。すなわち、それが曲の中の構造のうちに現れたときーー西洋音楽の和声システムの歴史のなかで、少なくともごく最近まではーーそれはそれと同時に響いているメロディの輪郭に自身の落ち着かなさを加えているのだ。それは、〔メロディなどと〕連携することで、あるいは、〔それ〕単体であったとしても、その落ち着かなさを、すなわち「不安な」情動的な音色を、音楽のなかでの自身の「統語論的」「文法的」な役割から手に入れているのだ。(p.45)〔5月28日追加〕

5月28日:'harmonic system'「調性システム」と訳していたものを「和声システム」として改訳。

第4節 〈輪郭説〉問題点の検討

さて、この章の最後に、以上で述べてきた輪郭説の問題を検討していこう。

まず、そもそも、音楽と、人間の表現の「かたち(shape)」との類推はほんとうに成り立っているのか。すなわち、音楽の響きと人間のふるまいという異なる感覚のあいだに類比がほんとうに成り立つのかどうかはまだはっきりしていない。

次に、〈輪郭説〉において用いられた心理学的な説明は推測の域を超えていない

最後に、用いられたような進化論的(進化論そのものではないような)説明は、実際の検証を経ていない机上のものであるに過ぎない。

まとめ

さて、この章では、音楽がどのようにして情動をもつのかという問いに対する応答として、汎心論的説明・音楽と情動の関係・〈輪郭説〉の大きく3つのトピックが扱われたが、結局決定的な答えを導くことはできなかった。このままこの問題に留まるのではなく、いったん置いておいて、後続の章では、この章では触れられていなかった情動惹起の〈プロセス〉について扱われるだろう。その前に、次の章ではもう少し基礎的な話題が取り扱われる。

 

注記

セントバーナードの画像の引用は

https://pixabay.com/ja/犬-セント-・-バーナード-ペット-アート-要約-ビンテージ-2327757/

より行なった。他は筆者撮影。

・視覚の誤認の興味深い例は以下を参照

アヒル→こまつたかし・十三夜 on Twitter: "以前、トイレのこいつはアヒルではないかと気になってる、とのツイートをしたが、最近はこの“空に憧れるウサギ”のことも気になってる。 https://t.co/payuTS8tsU"

犬にみえる木の板→Koo on Twitter: "犬さんだね・・・・ https://t.co/eOsM6ipV9s"

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung
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