Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

人間の4つの実存方略――物語的自己、ゲーム的自己、おもちゃ的自己、ギャンブル的自己

人間の生き方には4種類ある*1

  1. 物語的自己:なんでも物語にしてしまう。「動機は?」「意味は?」「つながりは?」
  2. ゲーム的自己:なんでもゲームにしてしまう。「どっちが強い?」「いま効率的?」
  3. おもちゃ的自己:なんでもおもちゃにしてしまう。「どんな反応する?」「どう遊ぼう?」
  4. ギャンブル的自己:なんでもギャンブルにしてしまう。「どこまで賭けられる?」「何が起こる?」

§1

これまで哲学、特に倫理学では物語的自己(narrative self)の議論がなされてきた。その研究は分厚く、門外漢の私には触れ得ないほどにあるが、傍で見ているだけでも価値のある研究がなされ、物語的自己の分析が進んでいるように思われる。

しかし、物語的に自己を組み立て世界を理解している人は世の中にそんなにいない。なのに、物語的自己がここまで深く倫理学的に考察されているのはなぜか。それは、物語的自己の人とは、主に倫理学に関心のある人だからだ、と憶測する。

私はまったく物語的自己ではない。私は人の動機について考えたり、自分の動機について考えたり、自分の過去と現在のつながりをあまり考えたりしない。

物語的自己は、おそらく、近代において小説の誕生や書籍形式での物語小説の一般化によってメジャーになった近代的な自己了解であろう。物語的自己はレトロスペクティブな過去を編集する自己である。彼女のセルフケアは、セラピーである。哲学者で言えば、ウィリアムズ、テイラーであろう。

§2

現代は、ゲーム的自己の時代である。ゲーム的自己(gamic self)*2とは、「人生ハゲームデアル」というメタファーで生きている。周りの人と自分の達成を比べ、これからのキャリアアップを考え、自己の修練を欠かさず、目標に向かって最適な効率を見つけ出そうとする。

このメタファーは、しばしば成長物語の形式と組み合わせられる。ゲームというメタファーは「段階ごとの成長」という性質を人生に照射する(難波 2021)。例えば、『弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、ガガガ文庫講談社、2016年〜)という人気ライトノベルはゲーム的自己の物語である。主人公友崎はある時出会った「リア充」である日南葵からレッスンを受け、友崎は見た目や姿勢や喋り方を変えていく。「クラスメイトに話しかける」「何かを頼む」といったステップごとの課題をクリアしていく。あくまで人生は単線的でステージとレベルと成長の観点から捉えられる。

ゲーム的自己はプロスペクティブな未来に投企する自己である。彼女のセルフケアは、ストラテジー(未来への処方)である。哲学者は、カント、ヘア、アリストテレスマクダウェル大庭健ピーター・シンガーであろう。

§3

おもちゃ的自己(toyic self)は、自分をおもちゃとして考える。そして、他人に遊ばれることを喜ぶ*3

西村清和は『遊びの現象学』において「玩具の玩具性とは、遊びの隙、遊びの場所を遊び手に提供し、そこで、あるいはそれに即して、遊び関係が、遊動の同調の輪がひとつにむすばれるように遊び手にそそのかす、いわば「相即性」とでもいうべき存在性格にある」(西村 1989, 153)と主張する。

西村の言う遊びとは「ある特定の活動であるよりも、ひとつの関係であり、この関係に立つものの、ある独特のありかた、存在様態であり、存在状況である。それは、ものとわたしのあいだで、いずれが主体とも客体ともわかちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつする遊動のパトス的関係である」とされ、「この独特の存在関係」が「遊戯関係」すなわち遊び関係とされる(ibid., 31-32)。おもちゃは意識を持たない。しかし、私たちは意識を持ったおもちゃでありえて、遊戯関係を生み出し、相手に遊びをそそのかすことができる。

おもちゃ的自己はもっとも古い自己である。それは古代の自己了解にみえる。おもちゃ的自己は現在的で、未来にも過去にも目を向けていない、祝祭的な自己である。おもちゃ的自己のセルフケアは、応答である。哲学者で言えば、ニーチェラッセル、グッドマン、ドゥルーズである。

§4

ギャンブル的自己(gambling self)は、自己を運に賭けることで、超越を目指す。自己破壊的な傾向があり、自己の意識流も賭けに負けた後と勝った後で分断される。蛹のような瞬間、つまり、組織化以前の世界に触れることを望んでいる。ギャンブル的自己はあまり見たことがない。該当する哲学者はスピノザパスカルパーフィットウィトゲンシュタインだろうか。あまり自信はない。

§5

これらのいずれも病理的ではない。私たちはこれらの4つの方略を組み合わせて自己の人生を理解可能なものにしている。しかし、次に述べるいずれかの「化」が行き過ぎると機能不全が発生する(これらの質問調査票をつくるのもおもしろそうである)。

§6

興味深いのは、これらは自己化であるが、他人化と対になっている。すなわち、

  1. 他人の物語化(フィクション化、Narrative-Other):物語のキャラクターとして他人をまなざす。精神分析的関わり。動機を問う。
  2. 他人のゲーム化(ルール化、Gamic-Other):NPCやプレイヤーとして他人をまなざす。業績的関わり。機能を問う。対戦相手(勝手にライバル視)。勝利のため、承認欲求の充足ために相手を使う。NPC
  3. 他人のおもちゃ化(Toyful-Other):おもちゃとして他人をまなざす。デュオニソス的関わり。遊びがいを問う。
  4. 他者ギャンブル|他者がそもそもいない

§7

これは性的モノ化をより詳細に分類することもできる。

  1. 性的物語化:独りよがりな妄想の投射。
  2. 性的ゲーム化:勝ち負けとしての性愛関係。
  3. 性的おもちゃ化:限定的な自律性しかもたない存在として扱う。
  4. 性的ギャンブル化:危険な性愛関係への投入。

§8

トイ・ストーリー』を4つの実存方略から分析してみよう。

  1. ウッディは最初「おもちゃとしての自分」をゲーム的・物語的にアイデンティティ形成している。しかし自分がおもちゃであること、実存的に不安定であることを知ってしまっている。
  2. そこにバズ・ライトイヤーが現れる。彼は実存の不安を持たない。強固に物語化・ゲーム化されている。おもちゃであることを知らない。
  3. ウッディはバズの登場でアイデンティティの危険を感じる。
    1.  道中のリトルグリーンメンは物語化の一形態である宗教化で守られている。
  4. バズ・ライトイヤーは実存の不安に直面する「私はおもちゃなのだ」。
  5. ウッディとバズは究極まで他人におもちゃ化されたシドのおもちゃたちに出会う。物語化もゲーム化も剥ぎ取られた存在者である。
  6. ウッディは「究極までおもちゃ化されることへの不正さ」も理解する
  7. 最後、ウッディは、おもちゃであること、つねに他のおもちゃの登場によって自己が脅かされることを受け入れる。
  8. ゲーム化、物語化、おもちゃ化の中庸にウッディとバズはそれぞれの割合でいったん落ち着く。

参考文献

Sicart, M. 2022. Playthings. Games and Culture, 17(1), 140-155.

Sicart, M. 2023. Playing Software. MIT press.

難波優輝. 2021. 「自己啓発するライトノベル弱キャラ友崎くん』とゲームとしての人生」Lichtung Criticism. https://lichtung.hateblo.jp/entry/2021/01/14/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8E%E5%BC%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E5%8F%8B%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%80%8F.

西村清和. 1989. 『遊びの現象学勁草書房

*1:本稿は松永伸司、萬屋博喜との議論に多くを負っている。

*2:このような英語表現はあまり一般的ではなさそうだ。関連する概念を論じている論者がいればぜひ学びたい。

*3:ミゲル・シカールのおもちゃは流用をメインにしており、おもちゃ的自己のより細かい種であろう(Sicart 2022: 2023)。