Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

バーチャルYouTuberというフィクションをスポイルする鑑賞を愛していることについて

バーチャルYouTuberを視聴するとき、私がまなざす対象の一つは、そのアバターである。アバターが動いている。もう一つ、私が耳を向ける対象は声である。動画内の、あるいは歌声の。あるいはさらにしばしばバーチャルYouTuberはゲームプレイをしているので、ゲーム中のプレイアブルキャラクタたちもまた私の目を捉える。あるいは、配信を離れて、XやInstagramといったSNSのテキストを読む。

アバター、歌/声、プレイヤブルキャラクタ、テキスト。これら様々な現れと関わることで、私はバーチャルYouTuberを鑑賞していることになる。これらの現れを、私は「ペルソナ」と呼ぶ。

だが、私は、その先について何かを感じている。つまり、アバター、歌/声、プレイアブルキャラクタ、テキストの先にある何かに対して関心を向ける。その関心の先にある対象。

もちろん、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、その先に何の関心もない人がいるかもしれない。たとえば、哲学者の山野弘樹の論考をみると、山野はバーチャルYouTuberの先には関心がなさそうである。あくまでバーチャルYouTuberとは、それ自体独立した存在であり、独自の人生の物語を生きている、と考えているように思われる(山野 2022)。

たしかに、バーチャルYouTuberの先にある人の人生を考えないことが、バーチャルYouTuberの鑑賞にあたってもっとも適切だと道徳的に結論されるかもしれない。山野のような態度は、バーチャルYouTuberを鑑賞する、という態度として、文化内的にかなり適切な態度に私には思える。バーチャルYouTuberとして配信をする人々にとっても嬉しいだろう。

だが、そうした人々が大勢だとすれば、バーチャルYouTuberに対する誹謗中傷は起こり得ないし、彼らの実名やバーチャルYouTuberとしての労働を始める前の姿を暴こうとやっきになったりする人々はいないだろう。実際は、私たちは、バーチャルYouTuberの先の何かを気にかけ、愛し、憎んでいる。

こうしたバーチャルYouTuberの先の対象をパーソンと呼ぼう。パーソンとは、とりあえずは、バーチャルYouTuberの中の人と呼ばれるような、この世界に生きている、現実の人物であり、多くの場合に戸籍に登録されており、税金を払ったり、国民保険料を払ったり、食事をしたり、病気になったり、誰かに恋をしたり、しなかったり、バーチャルYouTuberとして労働し、その労働にときに苦しみ、喜び、あるいは趣味としてバーチャルYouTuberとして配信することを楽しんでいるような、私たちとよく似た人間である。

私は、バーチャルYouTuberの現れと同じくらい、その向こうのパーソンのことが気になっている。それも、彼らがバーチャルYouTuberとして配信をしたり動画を撮ったりSNSに投稿したりしている以外の瞬間のありようが気になっている。パーソンが事務所に所属している場合には労働者としてより適切な地位と労働条件で働けることを陰ながら願ったり、個人の趣味として生きたり、自分の様々なアイデンティティを試行する場としてバーチャルYouTuberという枠組みを利用していることを遠くから祝福したりするようなとき、私は、バーチャルYouTuberとしてのペルソナだけでなく、その向こうの、バーチャルYouTuberとして現れていないその人そのもの、パーソンのことを志向している。

私は、バーチャルYouTuberを「バーチャルYouTuberを見ている」というフィクション内においては、山野の言うような穏健な独立説で描かれるような、パーソンでもなく、キャラクタでもないような独立した存在者として眺めることは非常に適切であると考える。

しかし、私は、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、フィクション内にのみ留まって鑑賞することは、一つの鑑賞のあり方ではあるが、すべてを尽くすものではないだろうと考える。私が提示したいのは、山野のように、配信上のフィクションを支えている経験を明示化し、それを典型的なものとして描く言説ではない。

私が説明したいのは、人々が、バーチャルYouTuberに対して誹謗中傷をし、バーチャルYouTuberとして働く前の姿を暴こうとするような、バーチャルYouTuberを適切に鑑賞するわけではない、不適切で、不愉快で、下世話で、バーチャルYouTuberというフィクションを破壊するような、スポイル的鑑賞についてである。それは同時に、バーチャルYouTuberの労使関係を議論したり、労働について批判したりできるような、フィクションから漏れるようなバーチャルYouTuberとの関係性である。

そうした関係性を語りたいと思うのは、私がバーチャルYouTuberを単体で愛しているというよりは、バーチャルYouTuberを鑑賞するコミュニティの運動、うねり、情念に対して強く惹かれていることが主な理由だろう。そこには、少なからず性的欲求や、承認欲求や、商売っ気や、差別的な雰囲気が渦巻いており、その奇妙な情念のバザールに私は惹かれ続けている。そういうわけで、私はバーチャルYouTuberのファンではないだろう。バーチャルYouTuberのファンの愛好家といったところだろうか。

こうした態度になるのは、私が哲学者ではなく、美学者だからかもしれない(と言うと美学者仲間にそれは違う、と言われそうではある)。

参考文献

山野弘樹. (2022). 「バーチャル YouTuber」 とは誰を指し示すのか?. フィルカル: philosophy & culture: 分析哲学と文化をつなぐ, 7(2), 226-263.