Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ジュディス・バトラーのパフォーマティビティ概念とメタ/クィア批評の意味について

パフォーマティビティとは何か?

発語内行為や発語媒介行為を発語行為以外にも拡張可能だ。レイ・ラングトンが論じるポルノグラフィの言語行為論的分析は、画像提示内行為や画像提示媒介行為と理解できる(cf. Langton 1993)*1

一般化し「表現内行為」「表現媒介行為」を考えよう(難波 2019)*2

表現内行為、表現媒介行為は、もちろん、特定の状況で成功したり不発だったり効力を発揮しなかったりする。あるポルノグラフィを分析のために学術的に引用するとき、それがもし女性をモノ化する表現内行為/表現媒介行為を元の文脈で発揮できていたとしても、その力は剥ぎ取られうる。

特定のジェンダーを割り当てられた者が、それに反した割り当てを自らに行い、逸脱して振る舞い・おしゃれ・香りを漂わせるとき、それは確かにバトラーの言うようなタイプの「不適切な文脈での不発に終わる・効力のない表現内行為/表現媒介行為」を行為することができる。

それによって、「その当人がジェンダー割り当てを行う権威を持つべきだ」という表現内行為を成立させることはかなり多くの場合できるだろう。「抗議」「抵抗」「非難」といった行為だ。

しかし、その表現行為が周囲の人間に、当人が望んだような表現媒介行為を成立させるかどうかはかなり文脈と当人の行為次第である。たとえば、ジェンダー割り当ての権威を当人に与えるべきだと周囲が信じたり、当人をサポートしたり、集合的に行為し始めたりするかどうかは、時と場合による。

ゆえに、撹乱的な表現行為がどのような政治的帰結をもたらすかは、かなり具体的な状況によって変わる。すなわち、バトラー的なパフォーマンスが成立しても、それが社会を撹乱できているかどうかは具体的に分析する必要がある。たとえば、規範のどこに効いたのか、どういう信念を変容させたか。

クィア批評を分析する

クィア批評がある行為をパフォーマティビティを指摘することには意味がある。どのような表現内行為、表現媒介行為が行われているのかを辿ることは非常に価値がある。しかし、パフォーマティビティの存在が即社会の撹乱を実際に遂行したかどうかはつねに議論が必要なところになる。

クィア批評は、表現内行為、表現媒介行為が成功したか、どのように失敗したのかを分析することで、より政治的な運動に資するものになるように思われる。しかし、これはメタクィア批評的であり、クィア批評そのものが、表現内行為/表現媒介行為を遂行しようとしていることが多いだろう。

メタ/クィア批評を両方とも遂行することで、私たちは、バトラー的なパフォーマティビティの概念を、より社会批判に資するものとして活用できるだろう。その際には、オーソドックスなオースティンを始めとする言語行為論とその現在も活発に議論されている系譜を参照することが有益だろう。

つまり、クィア批評の目的は、少なくとも以下の三つである。

(1)異性愛規範や健常規範を始めとする、何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為をパフォーマンス、作品、歴史に見出し、どのように成功し、失敗しているかを特定すること。

(2)そのかなり広い意味での発語媒介行為がもたらした影響を特定すること。の2つがまず挙げられるだろう。
さらに、

(3)上記を遂行することで、クィア批評をするという行為自体が何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為を成立させる。

以上のように整理すると、クィア批評がいったい何を目指しているのか、部分的にせよ、それを行っていない人にも伝わるように思われる。

参考文献

Langton, Rae, 1993,“ Speech Acts and Unspeakable Acts”, Philosophy and Public
Affairs, Vol. 22, No. 4, Fall.

Boucher, Geoff (2006). The politics of performativity: A critique of Judith Butler. Parrhesia 1:112-141.

*1:これは私が修論で論じた点である。

lichtung.hatenablog.com

*2:これについては以下のブログ記事が元になっている。

lichtung.hateblo.jp