Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第8章 形式主義の敵たち

第8章 形式主義の敵たち

この章では、絶対音楽がなんらかの内容を持つとする非形式主義者の議論を検討、批判する。

第1節では、非形式主義者の議論の動機を確認し、第2節では非形式主義代表例として、絶対音楽に対するふたつの解釈を扱う。まず、第1弱いナラティヴな解釈としてのプロットアーキタイプ説を検討し、第2にMcClaryとSchloederの強いナラティヴな解釈を批判する。最後に第3節では絶対音楽の特徴として反復内容のあり方を指摘する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 非形式主義

第1 絶対音楽とナラティヴフィクション

絶対音楽〉(absolute music)は〈視覚的表象〉(visual representation)と〈ナラティヴフィクション〉(narrative fiction)とはっきりとした対照をなしている。(p.135, par.1)
厳密には、視覚的表象とナラティヴフィクションは、完全に区分できるものではない。けれども便宜上ここでは区分できるものとする。(par.2)
さて、形式主義とは相反する形で〈形式主義〉(non-formalist)は、絶対音楽をナラティヴフィクションに基づいて解釈してきた。というのも、両者とも〈時間的〉(temporal)に展開(unfold)されるものであるからだ。(par.3)絵画や彫刻の経験は時間を要する。小説、演劇、映画、そして交響曲の体験は厳密に順序決められた時間の経験を要する(The experience of paintings and statuary take time. The experience of novels, plays, movies, and symphonies takes strictly ordered time.)。後者の類似性に非形式主義者は絶対音楽の解釈の手がかりを求める。(p.136, par.1)

第2 非形式主義

こうした点からはじめて、非形式主義的な説明がなされる。その前に、なぜ多くのひとびとが絶対音楽に対する形式主義的、強化された形式主義的解釈に満足していないのかを見てゆこう。(par.2)
形式主義者にとって形式主義的説明は、音楽を意味のないノイズ(meaningless noise)であると述べているように感じられる。(p.137, par.1, 2)というのも、形式主義者は音楽は言葉のように、話者の何かしらの意図を伝える意味(meaning)のあるものだと感じているからだ。
たとえば、自転車や帽子のような人工物に意味がない、と述べても誰も何も思わないだろうが、音楽に意味がない、と言われると彼らは違和感を覚える。(par.2)
こうした考えを持つひとにとって形式主義は、繰り返せば、音楽を音の壁紙(sonic wallpaper)のようなものとして扱っているように見える。(par.3)そして、形式主義的解釈は、〈人間性〉(humanities)とは関係のないものにしてしまう、と彼らは感じている。(par.4)
ゆえに形式主義者は、音楽が物語(storyline)や内容(content)を持つと主張する。それらは意味を持つからである。(p.138, par.1)

第3 ナラティヴフィクションの重要性について

けれども、なぜ物語を伝えること、そしてそれを聴くことが重要でなければならないのかは、なぜ純粋に形式的な音のパターンが物語を伝え、それを聴くことが重要なのか、という問いと同じくらい厄介な問題である。(par.2)
この問いに対して、非形式主義者のなかには、ナラティヴフィクションは、いかに生きるべきか(how to live)という知識の重要な源であるがゆえに重要なのだ、と主張する者もいる。(par.3, 4)
けれども、こうした非形式主義者のように、意味や物語をすべての芸術に求める必要はないはずだ。
というのも、人間にとっての重要性という点では、ナラティヴアートも純粋なデザインのアートも、たがいを支え合っているからだ(in regard to importance for human beings--narrative art and the arts of pure design may well be on all fours with one another)。(p.139, par.1, 2)
ここで、キヴィは次のことを認める。あるナラティヴフィクションの重要な特徴のひとつは重要な知識の主張である(one of the important features of some narrative fiction is the expression of important knowledge claims)。しかしこうした知識供給の機能(knowledge-providing function)は、すべてのナラティヴフィクションに求められるべきではもちろんない。そして、仮に、絶対音楽にこうした知識供給の機能があったとしても、それですべてが説明できるわけではない。(p.140, par.1)

第2節 非形式主義者の主張

第1 非形式主義者による三つの解釈

さて、非形式主義者の議論の動機を確認したところで、実際に彼らの解釈を検討してゆこう。

形式主義者による絶対音楽に対する解釈には、次の三つがある。

まず、ひとつは、絶対音楽ナラティヴフィクションとして扱うことができ、語り(narration)を通して、明確な知識の主張や仮説を表現する〉(express)(as narrative fictions...through their narrations, 'express, significant knowledge claims or hypotheses)とするものである。

次にふたつには、絶対音楽を、フィクショナルなナラティヴを経ずに知識の主張や仮説を表現できるとする〈ディスコース〉(discourses)として捉えるもの('discourse' that express such knowledge claims or hypotheses directly, without the use of fictional narrative)。

最後に、絶対音楽はナラティヴフィクションではあるが、その〈エンターテイメント〉(entertainment)としての価値を越えた重要性は持たない、とするもの(as fictional narratives that have no further significance beyond their 'entertainment' value as fictional narratives)。(p.141, par.2)

以下では上のふたつを批判することにしよう。というのも、非形式主義者の動機に基づけば最後のものはそれほど重要ではないからだ。

第2 強いナラティヴな解釈と弱いナラティヴな解釈

上の3つの区分に加えて、絶対音楽がどの程度詳細な内容やナラティヴを持つと主張するかに基づいて、〈弱いナラティヴな解釈〉(weak narrative interpretation)と〈強いナラティヴな解釈〉(strong narrative interpretation)とに大別することができる。

1弱いナラティヴな解釈 プロットアーキタイプ

まず、ひとつめの〈弱いナラティヴな解釈〉から検討しよう。弱いナラティヴな解釈の代表例は〈プロットアーキタイプ〉(plot archetypes)説である。これは絶対音楽に対するプロットを用いた過度に詳細な解釈を避ける考え方である(This… is a strategy that is supposed to avoid the extreme of overly detailed interpretations.)。(p.142, par.1)
たとえば、『オデュッセイア』(The Odyssey)と『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz)とを比べてみよう。
オデッセウスは、満ち足りた故郷を離れ、戦いに赴き、そして、さまざまな苦難を乗り越え、ふたたび故郷に戻って妻とともに幸福な人生を送る。
また、オズの魔法使いの主人公ドロシーは、家ごと台風に飲まれ、オズの魔法の国へと飛ばされ、いくつもの試練を乗り越え、最後には故郷のカンザスへと辿り着く。(par.2)
この両者を比較すると、これらはプロット(plot)においてはひじょうに異なっている。しかしそうした差異を取り払えば、「故郷への長い旅」(the long voyage home)というプロットの構造(plot structure)、すなわち〈プロットアーキタイプ〉は同一であると言える。(par.3)
キヴィは続いて、「素晴らしい休日」(Holiday)と「赤ちゃん教育」(Bringing Up Baby)というふたつのコメディ映画の例をあげ、これらも、主人公にそぐわない女性からぴったりの女性へ(wrong girl-ight girl)というプロットアーキタイプをもつと述べる。(par.4, p.143, par.1, 2)
そして、弱いナラティヴな解釈では、音楽的な解釈において、絶対音楽はプロットを持たないが、プロットアーキタイプを持つ、と主張する(The idea for musical interpretation is that works of absolute music do not have plots, but plot archetypes)。
例えば、ベートーヴェン交響曲第5番は、逆境-闘争-勝利(struggle-through-adversity-to-ultimate-triumph)というプロットアーキタイプを持つと言われる。(par.3)
はじめ、Cマイナーの重く暗い響きからはじまり、終局のコーダではかがやかしいCメジャーのファンファーレで終わる。と解釈される。この「力強い5番」(Mighty Fifth)というプロットアーキタイプは、ブラームス交響曲第1番(Cマイナーから喜びのテーマで終わる)や、メンデルスゾーン交響曲第3番(Aマイナーから、Aメジャーへ)といった例に見ることができる。(par.4)

しかし、キヴィはこのプロットアーキタイプ説を論理的に空虚なものとして退ける。(p.144, par.3)
というのも、わたしたちは、プロットからプロットアーキタイプを抽象する('abstract' from plot to plot archetype)のであって、逆ではないからだ。(par.4)
さらに、あとで扱うように、わたしたちは強化された形式主義を用いて、ベートーヴェンの第5番のある部分が闘争を表現しており、別の部分が勝利を表現していることを述べることができる。ゆえに、プロットアーキタイプを持ち出す必要はない。(p.145, par.2)

2 強いナラティヴな解釈

つぎに、絶対音楽はプロットを持つ、すなわちナラティヴフィクションとしての細部を持つ(works of absolute music do have plots, details and all)。と主張する強いナラティヴな解釈を取り上げよう。(par.3)
代表的な論者として、アメリカの音楽学マクラーリー(Susan McClary)の主張を検討する。(par.4)
彼女のチャイコフスキー交響曲第4番についての解釈を取り上げよう。
彼女によれば、この第4番以前のチャイコフスキー交響曲はみな冒険と獲得(adventure and conquest)という図式に沿ったものだった。しかしこの作品はそれらとは異なる。
この曲はある男についての物語(narrative)なのだ。父親の期待と、女性に掛けられた罠のせいで、真の自己を発展させることを妨げられる男の物語なのである。父親は、男に異性愛的な関係を持つことを期待することで、男の真の自己、すなわち同性愛的な在り方を阻害しているのだ。(p.146, par.1)
もちろん、この説明にはさまざまな疑問が寄せられる。絶対音楽はこのような物語を伝えることができるのか?(Can a work of absolute music really tell such a story?)もしそうだとしても、いかなる基準によってさまざまな物語を判別できるのか? (If it can, what criteria are there for determing whether it tells this story or some other story?)ほんとうにチャイコフスキーはこのような物語を意図したのか?(Could Tchaikovsky really have intended he symphony to tell this story?) もしそうでないとしたら、いったいどんな物語を交響曲は伝えるのか? (If he didn't ...couldn't ...intended it to tell this story, could it tell this story anyway?)この解釈が正しいとして、この解釈はわたしたちが鑑賞している当のものなのだろうか?(And, if the symphony does tell this story, can it really much matter to our appreciation of it?)(par.2)
これらの疑問は批評や解釈の哲学の中核的な問題に触れているため、解答するのは難しい。そのためすぐさまに応えるのではなく、先に例示した反形式主義的な別の解釈の方法を検討することにしよう。(par.3)
もうひとつの絶対音楽の解釈とは、〈哲学的ディスコース〉(philosophycal discourse)である。(par.4)
代表的な論者であるアメリカの音楽学シュローダー(David P. Schroeder)によるハイドン交響曲第83番の第1楽章の解釈を検討しよう。彼は、ハイドン交響曲は18世紀の啓蒙思想のうちにある寛容(tolerance)を表現しているとみなす。人間は争いを避けえないが、意見の異なるものを抑圧したり、教義を打ち立てることではなく、寛容を通して解決(resolve)する必要がある、というテーマをハイドンのこの曲は主張しているのだ、と彼は述べる。(p.147, par.1)
この解釈も、マクラーリーのものと同じく、さまざまな疑問を向けることができる。(par.2)

第3 意図

ここで、どちらの解釈にも、作者の意図(auther's intention)が持ち出されている。この点についてすこし考えよう。作者の意図、そして作品の意味(meaning)については半世紀以上議論が続いている。〈反意図主義者〉(anti-intentionalist)は、制作室を離れた芸術作品は厳密に〈公共的な対象〉(public object)であり、それが意図している意味に関わらず、批評家が、そしてわたしたちが、思うように理解することができる(the work of art leaves the workshop, it is a 'public object' of scrutiny that the critic can make of what he will (as can the rest of us), regardless of the intended meaning)と主張する。(par.3)
これに対して〈意図主義者〉(intentionalist)は、キャロル(Noel Carroll)が述べるように、聴取者と芸術的作品との相互作用がアーティストとの〈会話〉(conversation)を構成する。そして会話はそれぞれの参加者が他の参加者が自分たちの言葉で伝えようとする意図を知ることにかかっている。もし他人の意図を誤解してしまったなら、コミュニケーションは壊れてしまう。コミュニケーションこそが肝心なのだ(the interaction of the audience with the work of art constitutes a 'conversation' with the artist, and conversation depends upon each of the participants knowing what the other intends to convey by his or her words. If one mistakes the intentention of the other, communication has broken down: and communication is the whole point.)。
(par.4)
ゆえに、意図主義者は、作者が意図を込め間違いうることを指摘する。(p.148, par.1)

さて、こうした整理を経て、改めて上にあげたふたりの非形式主義者マクラーリーやシュローダーの解釈を眺めると、ともに意図主義的な説明をしていることに気づく。(par.3)
マクラーリーはその解釈の正当性について、チャイコフスキーが同性愛者であったという伝記的事実を根拠にしている。(par.4)そして同様に、シュローダーは、自説を補強するために、ハイドンが同時代の哲学書に親しんでいたということを示そうとしている。(p.149, par.1)

けれどもどちらの場合も、問題は、もし作者が自分の意図を意味付けようとしたとして、それが成功するのかどうか、である。(par.2)
マクラーリーの解釈には、女性や、父親、男性性や女性性などさまざまな概念が現れるが、絶対音楽はそれを表現することはできるだろうか?(p.150, par.1)
たとえ視覚的な表象であったとしても、その解釈は時代や地域によって異なってしまう。(par.3)

けれども、考えると、わたしたちはあらかじめ対応関係を取り決めておくことで、暗号のように単なる数字の並びにも意味を込めることができる。そうすると、作曲家が音の並びに意味を込めることは可能かもしれない。なので、ここで、意味という言葉について明らかにする。

まず、ここでは、〈ナラティヴな意味〉(narrative meaning)はふつうの話し手や読み手の広い聴き手によって理解できるもの(narrative meaning to be: understandable by a wide audience of ordinary speakers and readers)と考えよう。(p.151, par.1)

次に、ナラティヴな意味を以下の3つに区分する。明白で単純な意味(meaning plain and simple)、私的な意味、あるいは暗号(privete meaning or code)、伏せられた意味、あるいはプログラム(suppressed meaning or program)(par.2)

暗号としての意味は次のようなものである。

歴史的研究によって、作曲家のなかには、仲間内にだけ伝わるメッセージを作品のなかに忍び込ませていた。しかし、これは作曲家が作品のうちに込めた意味ではないし、わたしたちが知るところでもない(not part of the work as the composer intended it and as we possess it)。つまり、私的な意味は作品の意図とは関係がない。(par.3)

次に、伏せられた(suppressed)意味について考えよう。
そこで、ショスタコーヴィッチ(Domitri Shostakovich 1906-1975)作品を例に取り上げる。私的な文書から、彼の作品には、当時のマルクス主義-レーニン主義への痛烈な批判が込められていたことが分かっている。(p.152, par.1)
わたしたちはショスタコーヴィッチが作品に込めたこの批判を、彼の作品に正統に属するものとして扱うことができる*1。(par.2)
こうした整理を通して、わたしたちはマクラーリー及びシュローダーの解釈は、それを裏付けるような文書や記述が発見された場合には正統なものとみなすことができるだろう。(par.3, 4-p.153, par.1)

第3節 さらなる論駁

第1 反復性

以上で、強いナラティヴな解釈への反論を一通り終えた。けれども、まだ議論されていない点、しかも、ナラティヴな解釈に対するいっそう深い反論となるだろう点を取り上げたい。それは〈反復〉(repetition)である。反復は音楽的形式にはなくてはならない部分(integral part of musical form)である。とキヴィは述べる。そして、その反復は〈内的な反復〉(internal repetition)と〈外的な反復〉(external repetition)とのふたつに分けることができる。(p.153, par.2)
前者の内的な反復とは、繰り返される音楽的な存在者のことである(repeated musical entities)。すなわち、旋律、旋律の断片、さらにちいさな音楽的な〈モチーフ〉(motives)である(melodies, melody fragments, or smaller musical 'motives')。(par.3)
そして後者の外的な反復とは、音楽の構造的な反復のことである。すなわち、ソナタ形式における再現部のような繰り返しのことである。(par.4)
さて上のような音楽には基本的に備わっている反復を確認した上で、あるナラティヴの形式、例えば演劇と音楽とを比較してみよう。もし、シェイクスピアハムレットにおいて、毎分ごとに「なすべきかなさざるべきか…」(To be, or not tobe...)と繰り返していたら奇妙に違いない。あるいは、劇が終わった途端にまた城壁の上での兵隊の会話が始まったとしたら、驚いてしまう。加えてこうした内的なあるいは外的な反復は、一般的なナラティヴフィクションにおいては音楽のようには頻繁にみられない。(p.154, par.1, 2)
ここから、反復は絶対音楽特有のものであり、ナラティヴフィクションにはみられないことが確認される。そして、ゆえに、絶対音楽はナラティヴフィクションではないのだ。(par.3)

第2 絶対音楽とその他の芸術とのふたつの違い

以下ではさらに絶対音楽がいかに言語的な、図像的な芸術とは異なるかを、ふたつの重要な点から説明しよう。
まずひとつめの点を思考実験(thought experiment)を行うことで説明する。(p.155, par.1)
ある3人の人物がいる。それぞれをモーとラリーとカリーとしよう。
モーはルネサンス絵画をなによりも愛していて、大量のコレクションを抱えている。しかし、彼は珍しい知覚的な障碍を抱えている。彼は表象を知覚することができない。けれども、ルネサンス絵画の美しいパターンや色彩を楽しんでいる。
次に、ラリーはドイツ詩のマニアである。詩の朗読のレコードやCDを数多く所蔵している。けれども、彼はドイツ語の一単語も知らない。しかし彼は意味なしにドイツ語の音を楽しんでいるのだ。
最後に、カリーはクラシック音楽の愛好者で、とくに器楽曲を好んで聴いている。彼は音楽のハーモニーやリズム、メロディや楽器の音色を楽しんでいるが、いかなるナラティヴな、哲学的な、あるいはその他のいかなる〈内容〉(content)も知覚することはない。(par.2, 3, 4)
さて、この3人のなかで奇妙に感じるのは誰であろうか? 一般的に言って、モーやラリーはルネサンス絵画やドイツ語を鑑賞しているとは言わない。けれども、カリーの場合はごくごく一般的な聴取の態度である。この点がまずひとつめに指摘されるべき音楽と他の芸術との違いである。(par.5)

次に、ふたつめの点について考えよう。
冒頭でも触れたように、意味のないノイズを誰が聴くのか? という問いに非形式主義者は答えようとして、例えばマクラーリーやシュローダーのような解釈を持ち出して、音楽には意味があるのだ(music with significance)と主張した。(p.156, par.1, 2)
しかしこれらの主張は、絶対音楽がわたしたちに与えてくる深い満足や、それがわたしたちに喚起するような愛や傾倒の説明になっているのだろうか?(an 'explanation' for the deep satisfaction absolute music gives, or for the love and devotion it inspires?)(par.3)
さらに、マクラーリーが持ち出すようなナラティヴフィクションにおいてわたしたちが享受するのは、たんにナラティヴの内容だけではなく、その中の数々の出来事や、会話や記述やキャラクター造形といったものだ。そしてマクラーリーの解釈にはそうしたものは伴いえない。ゆえに、その解釈は空虚なものでしかありえない。(p.157, par.1)
さらに、シュローダーのように哲学的ディスコースを持ち出しても、そもそも哲学的な主張のみでは、いかなる哲学的な満足も価値も聴く者に与えない。どんな哲学的主張も、その後に続く長い論述を伴ってこそ価値を持つからだ。(par.3) 

おわりに

次の章ではこれまで取り上げなかったテクストを伴う音楽、歌詞がある音楽について主題的に扱おう。(par.2,3-p.159)

脚注

*1:しかしどこからどこまでが作者の正統な作品なのか、そして特に演奏家にとってどこまで作者を取り巻く社会環境や作者の伝記的事実を作品解釈に組み込んでいいのか、という問題は依然として存在する。こうした問題については、前章でも触れられたように、キヴィは後の章で議論するとしている。