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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第11章 作品

第11章 作品

この章では音楽作品の存在論をその演奏との関係から展開する。

第1節では楽譜と演奏の関係、第2節では実在論の解説、第3節では極端なプラトニズムに対する4つの反論を検討する。

Introduction to a Philosophy of Music

1. 楽譜と演奏

まずこの章で問われるのは、音楽作品(work)とはどんな存在か、という問いである。
手始めにキヴィはこんな例え話を提示する。

ある日あなたが新聞を開くと、一面に〈ダヴィンチのモナ・リザ盗まれる〉と見出しがあった。あなたは驚き、犯人の大胆さに舌を巻く。驚きはすれども事態自体には当然なんの疑問もない。可能性は低いがあり得ることである。
別の日、あなたが新聞を開くと、一面に〈ベートーヴェン交響曲第5番盗難。警察は犯人を捜索中〉とある。あなたは驚くよりも先に訝しむ。どうやってベートーヴェンの第5番を盗み取ることができるのだろうか?そもそも第5番はどこかからどこかへ持ち去ることができるようなものなのだろうか? これはありえないことではないだろうか?(p.202, par.1-3)
もちろん、ベートーヴェンの自筆譜や、バーンスタインのスコアを盗み出すことはできる。しかしそうしたとしても、依然として第5番の演奏は聴けるだろうし、楽譜を購入することもできる。ベートーヴェンの第5番そのものを盗むことはできない。(par.4)
ここから、モナリザベートーヴェンの第5番とは異なる存在であると考えられる。それでは、いったいそれはどのような存在なのだろうか?(p.203, par.1, 2)

作品と演奏の存在論

まず、音楽に関する対象には、ふたつの〈物質的対象〉(physical object)と呼べるものがある。それらは〈楽譜〉(musical score)と〈演奏〉(musical performance)である。(p.203, par.3)
西洋音楽の歴史の中で、はじめ、楽譜は作品(work)そのものというよりも、〈即興〉(improvising)のための覚え書き(reminder)として存在していた。(p.204, par.1)
楽譜は演奏者への〈指示〉(instruction)である。(p.204, par.3)
つぎに演奏について用語法を確定させておく。〈演奏〉(musical performance)はここでは〈プロダクト(=演奏)〉(product)を指し、〈行為(=演奏行為)〉(act)としては用いないことにする。(p.205, par.2)

次に作品と演奏の関係を、20世紀の偉大な哲学者グッドマン(Nelson Goodman 1906-1998)の主張を頼りに考えてみよう。
彼は作品と音楽の関係について次のように述べた。
(The compliants of a score are performances and the compliance class is a work)(p.206, par.3)
ここで〈クラス〉(class)とはある規則や事実に従って集められたメンバーの集合である。
そして、作品はそのすべての演奏を含むクラスである(the work, just is the class that comprises all of its performnaces)。(par.5)

しかし、とキヴィはある思考実験を持ち出す。作曲されたものの一度も演奏される機会のない作品も存在しうる(musical works that never have a been, and never will be, performed)。すなわちいかなる演奏のクラス、コンプライアンスクラスも持たない作品がありうる。グッドマンの主張に従えばこうした作品は存在しないが、しかし実際に存在しうる。(p.208, par.1)
そしてまた、これまでなされた演奏がすべてのよくないものだったとしても、その作品がよくないものであるわけではない、という場合もありうる。(par.2)

こうした問題に直接取り組むのではなく、ここで、いったん、日常の言葉(ordinary language)から問題を再検討してみよう。
キヴィは、すばらしく想像力豊かな子供向けのテレビシリーズ《セサミ・ストリート》の中のある物語を例にとる。(p.209, par.2)
ある目つきの悪い怪しげな男が現れる。その男は数字の2the number two)を騙されやすそうな別のキャラクターに売ろうとする。彼はトレンチコートからけばけばしい色の数字の2の形をしたプレートa number two)を取り出し、あたかも危険な取引人のようにあたりを伺いながら、数字の2(the number two)を買わないかとキャラクターにこっそり耳打ちするのだ。
このお話は、数字の2(the number two)と2という数字の形をしたプレート(a number two)との違いを子供に教えるものだ。(par.3)
数字の2そのものは売ったり買ったりできるものではない。確かに、ベートーヴェン交響曲第5番は、その出版権(right)を売買することはできるし、実際にベートーヴェンは出版社に第5番をうることができるのだが、しかしそれは、交響曲そのものを売買しているわけではない。(par.4)

2.実在論

ここでこうした存在のあり方に関する問題を扱うために、どういったものが存在しているかについての立場に関する述語を導入しよう。
先ほどあげた数字の2(the number two)のようなものが存在していると考える立場を〈実在論〉(realism)あるいは〈プラトニズム〉(platonism)と呼ぶ*1。(p.210, par.3)
より詳細な定義のために、アメリカの哲学者パース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)の述語を援用しよう。
数字の2(the number two)というとき、これを〈タイプ〉(type)と呼び、その実例を〈トーク〉(token)と呼ぶ。例えば、セサミ・ストリートで男が売りつけようとしたのは、タイプではなく、2という数字の形をしたプレート、すなわちトークンである。(p.211, par.1)

タイプ

それではタイプとはいかなる存在だろうか?
タイプは時空間に位置を持たず、消えることがなく、わたしたちの世界とは関係を持たないような存在である。
こうした存在を認める立場は、1や2、さらには定理といった数学的な存在はタイプでああるとする。ゆえに、数学とはそうした存在を〈発見する〉(discover)営みであり、〈作り上げる〉(make)ような営みではないとされる。(p.212, par.1, 2)
こうした立場を援用すれば、タイプ/トークンの関係と作品/演奏の関係とを類比的に考えることができる。つまり、個々の演奏はある作品のトークンであると考えることができるのだ。(par.3)
このように数字の2のような存在として作品を捉える立場を〈〉(extreme platonism)と呼ぶ。加えて、すべての演奏はタイプのトークンではあるが、すべてのトークンが演奏ではない可能性もある、とキヴィは付け加えている。(p.213, par.2)

3.極端なプラトニズムへの反論

ここで、極端なプラトニズムに対する4つの反論を検討してゆこう。キヴィはその全てに対して十全な再反論を行うことはできない、とあらかじめ断っている。どんな議論が行われているかを調べてゆこう。(par.3)
ひとつめは、作品をタイプにみなすことについての反論である:タイプは数学の定理のように発見されるものであるが、作品は作り上げられるものである。ゆえに作品はタイプではないのではないか
ふたつめ、作品がタイプであるとするなら、それは純粋な音の構造(pure structure)であるように思われる。しかし、そうした構造もさることながら、どんな楽器を用いるかということも実際の演奏においては重要になる。それをいかに扱うのか。
みっつめ、タイプの発見は〈非個人的〉(impersonal)なものに思える。しかし音楽作品には、個人的(personal)な〈表現〉(expression)が刻まれているように思われる。こうした点をどう説明するのか。
最後に、タイプは無時間的で破壊不可能なものである。しかし音楽作品は散逸することもありうる。こうした事実をどう説明するのか。

発見か創造か

まずひとつめの反論を検討しよう。
キヴィはベートーヴェンの草稿を例に出す。多数の草稿から、彼がいかにして作品の完成へと進んでいったのかを確認できる。そしてその過程は〈発見〉(find)の過程であろう、と主張する。(p.214, par.2,3)
けれども、極端なプラトニズムを主張するものは、音楽作品の作曲過程において〈創造〉(creation)という重要な行為がなされうることを否定する必要はない。この主張に関してキヴィはアメリカの数学哲学、言語哲学者であるカッツ(Jerrold Katz 1932-2002)の〈ファースト-トークニング〉(first-tokening)という概念を紹介する。これは作曲家が発見した抽象的なタイプを具体的な最初のトークンにする創造行為のことである。(p.215, par.1)
カッツの主張に従えば、作曲という過程にはまずタイプの発見があり、そしてそのタイプをはじめてトークンにするという創造がある。すなわち、作曲は発見と創造の二重の過程なのだ(Composing, then, turns out to be a dual process of discovery and creation)。(par.2, 3)

音の構造と音色

つぎに極端なプラトニズムは、純粋な音の構造(pure sonic structure)が鳴っている限り、それは作品の演奏である、と考えがちである。しかし、どのような楽器で作品が演奏されるかは作品の一部をなしているように思われる。(p.216, par.1)
極端なプラトニズムのこの考えが正しいかどうかは簡単には白黒つけることができない。というのも、演奏に対する作曲家の態度は時代によって異なるからだ。ある時代には楽器の指定は厳格ではないが、17世紀中期から現在に至る時代は、作曲家が楽器をかなり厳格にしている。(par.2, 3)
ここで、以前詳しく扱った形式主義を思い出そう。形式主義は音の構造のみならず〈音色〉(tone color)も形式として扱っていた。ここから、極端なプラトニズムにおいても、音の構造のみならず、音色もまた作曲家が発見し、はじめにトークンにする作品のタイプとしてみなせる。こうしてふたつめ反論はきちんと対処することができる。(par.4, p.217, par.1)

ここで、21世紀に登場した電子音楽について触れておく。シンセサイザーによって楽器音を模倣して、ベートーヴェンの第5番の演奏をすることができる。それはキヴィの用いる意味での演奏ではない。というのも、演奏は〈行為〉(act)による〈プロダクト〉(product)である、と定義されているためである。(par.3, 4)
ゆえにすべてのトークンが演奏であるわけではない、とキヴィは主張する。(p.218, par.1)
さらに楽譜に記されていないもののその作品のトークンと言えるものがあるとキヴィは指摘する。それは視覚的なパフォーマンス(visual performance)が作品の核をなす場合、例えばオペラのための音楽作品の場合である。(par.2)

個人的なものと非個人的なもの

音楽作品は発見さるものだとするならそれはニュートンの『プリンキピア』のように、非個人的なものであるはずだが、そうではなく、作曲家の個人的な表現が刻まれている、という主張を検討しよう。カッツは発見したのちにどのように〈ファースト-トークニング〉を行うか、これは作曲家の個人的な表現が刻まれうるものである、と主張した。(p.219, par.2, 3, 4, 5)

散逸するタイプ

最後の議論に移ろう。タイプは無時間的で破壊不可能なものである。しかし音楽作品は散逸することもありうる。こうした事実をどう説明するのかという問いに対して、レヴィンソンの〈条件付きのプラトニズム〉(qualified platonism)という主張を紹介する。(p.220, par.3)
音楽作品は〈創られたタイプ〉(initiated type)であるとレヴィンソンは主張する。(p.220, p.2, 3)ちょうどコインの鋳造型が創られたタイプであり、各々のコインがそのトークンであるのと同様に、音楽作品と演奏の関係を考えた。(p.221, par.1)
かつまた、こうした創られたタイプはこの世界から記憶が失われても存在し続ける、と主張した。(par.2, 3)

まとめ

以上で音楽作品と演奏に関する存在論を駆け足で扱った。次に演奏についてさらに詳しく見てゆこう。

 

 

*1:それに対して、そうした非物質的な存在者の存在を認めない立場を〈唯名論〉(nominalism)と呼ぶ