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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義

第6章 強化された形式主義

この章では、音楽における情動をうまく扱うために、強化された形式主義についての議論とそれに対する反論を概観してゆく。
まず第1節で、伝統的な形式主義について確認し、第2節では強化された形式主義統語論な要素、そしてその要素と情動的な要素との関係から組み立ててゆき、同時にそれらに対する反論に応答する。第3節では、強化された形式主義に対する〈歴史主義的要因〉〈機能的要因〉〈社会環境的要因〉、以上の三つの要因からの反論を検討する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 伝統的な形式主義について

まず、伝統的な形式主義(traditional formalism)が音楽の情動についていかなる主張をしていたかをかんたんに振り返ろう。

以前みたように、ハンスリック、ガーナーそしてその系列の形式主義は、音楽が情動的な言葉によって記述されることを否定した。たとえば、ハンスリックは〈傾向性〉(disposition)ならびに〈表象〉(representation)を否定した。(p.88, par.1)
また、ガーナーはハンスリックほど厳格に情動そのものを否定したわけではないものの、音楽に関して情動的な言葉を用いることは、その音楽の美的な(aesthetic)構造や特徴とはなんの関わりもないと主張した。(par.2)
以上のように、伝統的な形式主義においては、情動は厳しく排除されており、キヴィはこうした事態を「もし形式主義の友であるなら、情動の敵である」(If you were a friend of formalism, you were an enemy to the emotions.)とまとめている。(par.3)

しかし、音楽を聴いたとき、わたしたちがある情動を抱くことはかんたんには否定しがたい。そのことをハンスリックのように偶然性に帰することは無理筋ではないとはいえ、わたしたちの経験にうまくそぐわない。形式主義に反しないで、音楽が情動を持つことを主張できないだろうか?

第2節 強化された形式主義

そこでキヴィは、音楽がある〈情動的な要素〉(emotive properties)を〈聴かれた要素〉(heard properties)として持つことと考えることを提案する。(p.89, par.1)

このように、音楽が情動の要素を聴かれた(heard)ものとして持つことを認める形式主義を、哲学者アルパーソン(Philip Alperson)は〈強化された形式主義〉(enhanced formalism)と呼んだ。この章ではこの強化された形式主義がどんな議論を展開しているかをみてゆく。(p.90, par.1)

第1 統語論的説明

1 音楽の構造

まず取り組むのは、情動的な要素が音楽の構造のうちでどのようなはたらきをしているのかという問いである。(what role or roles emotive properties might play in musical structure)(par.2)

情動的な要素を傾向性や表象説によって説明することは可能だが、聴かれた要素としてどのように説明することができるのだろうか?(par.3-4)

ここで基本的なことを確認しておく。音楽の情動的な要素や、関連する芸術的な要素は、本来的に興味深い要素(interesting properties)である。そしてこれらの要素は美的な要素(aesthetic properties)であり、かつ〈反復〉(repetition)・〈対比〉(contrast)であるとキヴィは述べる。(p.91, par.1)

そしてこれらの情動的な要素は基本的に、音楽の構造、つまり音のパターン(sonic patterns)によって説明しうる。と主張する。(par.2)

以上の問題意識から、絶対音楽における情動的な要素の役割を、パターンと対比という用語や、ほかの〈表層的〉(surface)特徴のみを用いて説明するのではなく、音楽の統語論や深い構造によって説明してゆく。(p.92, par.3)

2 カデンツ

西洋音楽においてもっとも際だった統語論的な特徴とは〈解決〉(resolution)である。これは安定した状態からはじまり、緊張を経て、その緊張が解かれ、最後にふたたび安定にいたる動きを意味する。(moves from moments of rest, to moments of tension, or instability, and then resolves tension or instability into stability or rest)(p.93, par.1)
こうした緊張から安定にいたる解決を〈ケイデンス〉(cadence)と呼ぶ(日本においてはドイツ語のKadenz, カデンツのほうが一般的である。)。
具体的には、不協和(dissonance)な音を含む和音から、協和音(consonance)へといたる進行を言う。(par.2)
たとえば、G7からCへと進行するとき、G7は、BとFという増四度の不協和な音程を含んでいるため、緊張感を持っている。それがそれぞれ半音上行・下降することでCとEという協和な短六度(展開すると長3度)の安定した音程に解決する*1。(par.3)

記譜すると以下のようになる(譜例1)。

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はじめの和音は、下からG-F-BからなるG7、次の和音はC-E-CからなるC。

キヴィがあげているのはつぎの例である。(譜例2 一部改変)

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長三度、長二度、それから短三度、最後に解決する。(p.94, par.1-2)

もちろん、こうした響きが解決へと向かうように聴こえるのは、自然言語と同じように、歴史的に変化してきた統語論的なものである。(par.3)
こうした安定-緊張-安定の動きは、18世紀、19世紀における西洋音楽を支配している重要なものなのだ。(p.95, par.1)

第2 第1の統語論的説明への反論 :音楽のはたらきとしての緊張と情動としての緊張

以上、まずわたしたちが注目しようとしている音楽の統語論的な要素のあらましを述べた。次に、この時点で予想できる反論を紹介し、それに対して応答を加えてゆく。まず、前述の音楽の緊張と解決に関する反論がひとつ。それから、音楽の統語論的要素と情動とに関する議論をしたあと、それに関する反論を取り上げる。

不協和な音程は緊張の状態にあるというとき、それを聴くわたしたちはどういう状態にあるのだろうか。ある論者たちは、わたしたちが音楽の動きを緊張の動きと述べる際、音楽はわたしたちを緊張させており、同様に動きを、解決や解放の動きであると述べるとき、音楽はわたしたちを弛緩させているのだ。と主張する。(we describe moments of music as moments of tension when the music makes us feel tense, and we describe moments in music as moments of resolution or release when our tensions, which the music has excited, the music now dissipates, or, as the musical term would suggest, 'resolves')(par.2)
キヴィはこれに対し、緊張や安定は、月並みな情動と同じく、聴き手の側にではなく、音楽のうちにある、と反論する。(like the garden-variety emotions, they are in the music, not in the listener)(par.3)
さらに詳細をみよう。
緊張にはたとえば、歯を抜く前や舞台でスピーチをするときのような緊張があるが、しかし、こういった緊張と音楽に緊張を聴く際のわたしたちの態度とは異なるはずだ。とキヴィは述べる。(p.96, par.1)
これに対する再反論として、前章で扱った仮設ゲームに訴える議論がある。わたしたちが予想をしているということは、その予想が外れることや的中することに関して緊張しているのではないか、というものだ。(par.2)
キヴィはこれに対し、すべての予想が緊張を伴うわけではないとして退ける。
肘掛け椅子に座り、歯の治療を待っているときと、友人がお土産を持って訪ねて来るのを待っているときでは、どちらも予想をしているとはいえ、両方が緊張を伴っているわけではない。(par.3)

第3 月並みな情動と統語論的要素の関係

次にいったんべつの話題として、月並みな情動と統語論的要素とがどのような関係にあるかを、解決において考えよう。(p.97, par.1)キヴィはつぎのふたつを指摘する。

まずひとつに、緊張や解放、解決が人間の精神的な状態として起こるとき、月並みな情動もそれに伴って起こる、ということを指摘する。(when tension, release, and resolution occur as mental states in human beings, the garden-variety emotions occur along with them)(par.2)
〔ここでキヴィが言いたいのは、音楽の動きとしての緊張が直接的にわたしたちの緊張の情動を惹き起こすというわけではなく、ある情動がおさまったり、逆に高まったりする動きと音楽の緊張-解放とが連動しているということである。〕
ここで述べているのは、たとえば、怒りの情動が惹き起こされたあとで、音楽の動きが緊張から解放へと向かうなら、その怒りの情動は解決する、すなわち解消される、といったことである。

そしてふたつに、月並みな情動は、メジャー・マイナーといった調性と深く結びついているということである。(p.98, par.1)
歴史的に短調の音楽はマイナーコードでは終わらず、必ずメジャーコードで終止していた。(par.2)
そして、この動きは暗い響きの短調から明るい響きの長調への劇的な変化を感じさせる。(par.3)
さらに言えば、こうした劇的な動きは、たんなる不協和音から協和音への進行よりもより強い解決であると言える。(par.4)
以上の二点から見えて来るように、西洋音楽の中心は、緊張と解決の統語論である、と言える。(the most central one in Western music, which is to say, the syntax of tension and resolution)(p.99, par.1)

第4 第3の関係性への反論:音楽と内容

ここでもうひとつの反論を取り上げよう。
いままで議論では、強化された形式主義の枠組みのうちで、情動の要素を統語論的要素を用いて説明しようとしてきた。しかし、これに対して、次のような反論がみられる。
「もし音楽が情動的な言葉を用いて記述されるのなら、すくなくとも、最小限の意味論的な内容(minimal semantic content)を持っていることになる。しかし、形式主義は意味論的な内容を完全に否定している。これをどのように正当化するのか?」(if music is (emotional), then it has at least minimal semantic; and musical formalism denies semantic content absolutely.)(p.99, par.2)
この議論は次のように展開する。
まず、論者たちは言語学的な指摘をする。
言葉や表現のもっとも基本的な意味論的な内容は〈指示〉(reference)である。これは、指示的な言葉や表現がなにかを指し示すはたらきである。
そして、憂鬱な音楽は、必ず憂鬱を指示している(Music that is melancholy must refer to melancholy.)。つまり、ある音楽が憂鬱だと言われるのは、その音楽が「憂鬱」という漢字二文字と同じように、憂鬱を指し示している、と主張しているのだ。
そして、こうした情動的な要素を扱う強化された形式主義は、最小限の内容を扱ってしまっている、と主張する。(par.3)
これに対してキヴィはふたつの点で反論を加える。
まず、わたしたちは音楽を情動以外の要素で記述することがある。たとえば、「激しい川のような」「甘い」「快活な子供のような」。しかし、音楽がそうした対象を指示しているとはにわかには信じがたい。(p.100, par.2)
これに対して、次の再反論が考えられる。
そうであれば、音楽が指示しているというよりも、〈関している〉(be about)のだと主張する。(par.3)
しかし、これは無意味な主張に過ぎないとキヴィは述べる。たとえ、こういった主張が万が一真だとしても、音楽の興味深さを生み出しているのは、強化された形式主義が認識している非-意味論的な特徴なのであり(those non-semantic features that enhanced formalism recognizes)、この特徴を取り扱わないことは無益であるとする。(par.4)

第5 まとめ

ここまでの議論をいったんまとめよう。

I have a presented, in the preceding pages, a version of what I have been calling 'enhanced formalism': the doctorine that absolute music is a sound structure without semantic or representational content, but, nevertheless, a sound structure that sometimes importantly possesses the garden-variety emotions as heard qualities of that structure --an enhancement, in effect, of formalism as it has traditionally been understood. I have, furthermore, tried to defend enhanced formalism against the charge that, in allowing absolute music to be describable in emotive terms, I have gone beyond the bounds of formalism property so-called, because, if music is describable in a emotive terms, then it must, ipso facto, denote emotions, be 'about' them, and, by consequence, have a semantic content.(p.101, par.1

これまで、強化された形式主義について紹介した。強化された形式主義とは、絶対音楽は意味論的、表象的内容を持たないが、聴かれた要素として月並みな情動をときおり、部分的に持ちうるような音の構造であるとするドクトリンである。すなわち、伝統的に理解された形式主義を後者の点で強化している。

そして次に、絶対音楽を情動的な言葉で記述することは、形式主義の範囲を越えている、なぜなら、音楽が情動的に記述されるということは、それが意味論的な内容を持っており、何かを指示することを意味してしまっている、との反論に対して再反論を加えた。

第3節 3つの反論

さらに以下では三つの反論を取り上げる。
歴史主義的要因〉(historicist factors)〈機能的要因〉(functional factors)〈社会環境の要因〉(factors of 'social setting')(p.101, par.2)。

第1 〈歴史主義的要因〉からの反論

ときおり、形式主義は〈非-歴史的〉(a-historical)なドクトリンであると言われる。しかしその主張は間違っている。(par.3)
まず、形式主義の主たる対象である絶対音楽は歴史的なものであるし、形式主義が注目する形式にしても同様である。キヴィは、音楽の形式に関して、次のふたつの歴史的な側面を提示する。(p.102, par.1)
まずひとつに、音楽の形式的構造は芸術-歴史的な特徴をあらわしている(a formal structure may exhibit art-historical features)。たとえば、ベートーヴェンピアノソナタにおけるソナタ形式は、彼以前のハイドンモーツァルトが作り上げた形式に拠っている。(par.2)

ここでキヴィはすこし本筋から離れ、芸術-歴史的な特徴は、〈歴史的な出来事〉(historical events)として捉えられるべきなのか、〈美的要素〉(aesthetical properties)として捉えられるべきなのか、議論がいまなお行われていることを言い添えている。(par.3)

次に、キヴィは、イギリスの音楽学者ベント(Margaret Bent)が指摘した事例、ある中世の音楽の動きを、現在の和声システムにおける基本的な出来事として〈聴き間違える〉(mishear)事例をあげる。(譜例3 一部改変)

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これはへ長調における和音の進行で、ふつうわたしたちはGからCへの進行、とくにドミナントからトニックへの、つまり緊張から安定への動きとみなす。つまり終止を聴く。(p.103, par.1)
しかし、中世、および初期ルネサンス期においてこの音型は、継続するもの(continuing)として聴かれていた。(p.104, par.1)
このように音楽の形式は、歴史のうちで異なるものとして認識されるのであり、当然、形式主義もその変化に注意を払っているのである。強化された形式主義は、音楽の形式が無時間的、非-歴史的であるとは主張しない。(There is nothing about enhanced formalism implying that musical form is a timeless or ahistorical thing.)

第2 〈機能的要因〉〈社会環境の要因〉からの反論

つぎに〈機能的要因〉(functional factors)〈社会環境の要因〉(factors of 'social setting')に基づくふたつの反論をみていこう。これらふたつは関連し合っているので同時に扱ってゆく。(p.104, par.2)
まずこれらの反論の前提となっている、歴史的な事実を確認しよう。
18世紀以前は、器楽曲はさまざまな社会的、さまざまな状況で聞かれた。家庭や領主の館、宮殿や教会、あるいは式典といった状況で聴かれたのだ。(par.3)
けれども、18世紀中頃に〈コンサート〉(public concert)が誕生することで状況は一変した。(p.105, par.1)
コンサートホール(concert hall)において、主に絶対音楽が、傾注し美的な注意を払って聴かれるようになった。そして、この環境下において、そのほかの過去の社会環境的、機能的な要素は排除されてしまった(In this setting, all its other past social settings and functions have been obliterated)。(par.2)
ここから、器楽曲はコンサートの誕生以前に長い歴史を持っていたことがわかる。(par.3)
そして、コンサートの誕生以前、器楽曲は機能的な面で美的な満足をひとびとに与えていた(functions themselves provide aesthetic satisfaction in functional works of art)。
そして、形式主義はこうした美的な要素を扱うことができない、と反論される。(par.4-p.106, par.1)
キヴィはこの反論に対してふたつの応答をする。
まず、形式主義が扱う音楽の構造については、コンサートホールの誕生以前の音楽にももちろん適用できる。そのため、この点では形式主義に問題はない。(par.2)
しかし、コンサートホールの誕生以前に音楽に伴っていた形式以外の要素については、確かに、形式主義が扱えていない部分である、と認める。(par.3)
そして、形式主義がうまく扱えないような機能的、社会的な要素については後続の章で議論をすることとして保留する。たとえば、〈歴史的に正統的な〉〈historically authentic〉演奏に関する問題ものちにふれることにする。(p.107, par.1-2)

第4節 さらなる問題

以上のことをまとめると、強化された形式主義は、月並みな情動を聴き手から音楽へと移動させた(Enhanced formalism has, however, moved the garden-variety emotions from the listener into the music.)、と言える。(p.109, par.1)
この考え方から言えば、情動は感じられる(felt)のではなく、〈認知される〉(cognized)と言える。ゆえにこれを〈情動の認知主義〉(emotive cognitivism)と呼ぶ。これに対して次の反論がある。
もし情動の認知主義が正しいのなら、わたしたちは音楽によって情動的に動かされているわけではないことになる。けれども、わたしたちは音楽によって情動的に動かされている。ゆえに、認知主義は誤りである。(par.2)
次の章ではこの反論を扱ってゆく。(par.3)

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung
第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung
第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung
第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

 

*1:ここでキヴィは、G7はFとGという長二度の音程を含んでいるゆえに不協和であると述べている。しかしこの場合強調したいことは解決の動きであるので、ここでは属七の和音から主和音に解決するさいに注目される、以上述べたような増四度の音程を取り上げている。