Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

SFの7つの美:魅力的なSFのレシピのために

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イスタヴァン・チチェリー-ロナイ・ジュニア(Istvan Csicsery-Ronay JR.)による『SFの7つの美(The Seven Beauties of Science Fiction)』は、SFジャンルに特徴的な7つの魅力を星座を辿るように論じていくSFスタディーズの重要書である。

SFを好んで書き、読んでいるならチェックして損はない本だ。

とはいえ、原著も英語でアクセスしにくい。そこで、7つの項目を簡単に紹介しよう*1

以下は「SF性」=サイエンス・フィクショナリティを形成し、魅力を与えている7つのカテゴリだ。

Beauty 01. 虚構的新語

Fictive neology––––SFには、「タイム・マシン」「亜光速ドライブ」「ロボット」「時雨」「無限不可能性ドライブ」のような新語がほぼ必ずと言っていいほど現れる。音のかっこよさや魅惑はもちろん、その語が発話される世界を予感させ、新しい世界の生成を支える力も持っている。

ちなみにこの点については、Stockwellという別のSF研究者の『SFの詩学』にも詳しい。

lichtung.hatenablog.com

Beauty 02. 虚構的ノーヴム

Fictive novums––––「ソラリスの海」「季節ごとに性が変化する知的生命体」「火星人」「フランケンシュタインのつくった怪物」といった現実世界には存在しない(か一般的に実装されたりはしていない)技術・生物・人工物・出来事などであり、SFの世界と物語をドライブさせる新事象=ノーヴム。しばしば新語が指示する対象。ダルコ・スーヴィン曰く、SFであるための必要条件であり、認知的異化をもたらすSFのコア。

ちなみに日本で読める解説としては自著のものもおすすめ。

lichtung.hatenablog.com

Beauty 03. 未来史

Future history––––近年、ビジネスや組織で未来を考えるために用いられる手法であるSFプロトタイピングの主題がそうであるように、SFは、現在と関係する未来を描くことによって、現時点から未来を様々に想像することを可能にするジャンルである。その際には、単に未来が想像されるのではなく、必ず現時点からどんな未来たちが可能かが想像されることで、未来から見た現時点が再考されたりする。未来を想像する意味については、自著も参考。

unleashmag.com

Beauty 04. イマジナリー・サイエンス

Imaginary science––––存在しない、あるいは存在する科学技術を社会と絡み合わせることで、その科学技術のポジティブ/ネガティブな価値を語れるようになる。上のSFプロトタイピングはまさにその効果を用いている。SFがSFらしさとして重要なのは、単なる科学技術の未来を記述するだけではなく(それはおそらくたんなる説明書やスペックカタログになるだろう)それが人間社会に与える価値も再考する点にある。

日立製作所と協働で行ったSFプロトタイピングは、こうしたイマジナリー・サイエンス+テクノロジーの観点から、すぐ未来の実装されつつある科学技術をSF的に思考しようとしたものだと再定義できる。

medium.com

Beauty 05. SF的崇高

Science-fictional sublime––––壮大なグランドキャニオン、打ち捨てられた巨大な共産主義圏の遺構を見た時に感じる、感嘆と慄きの入り混じった経験。それが崇高だ。SF的な崇高は銀河サイズの脳を持った生命体であったり、超巨大な建築物であったり、ガンマ線バーストのような宇宙スケールの災害であったり、ともかく巨大で、多いものであり、私達を圧倒するものだ。

この点についてはSF作家の草野原々がインタビューで「とにかくデカいオブジェクトがあること」を良いSFの特徴として挙げていたことが思い出される。

youtu.be

Beauty 06. SF的グロテスク

Science-fictional grotesque––––『鋼の錬金術師』に出てくる、人を利用したキマイラ、屍体をつなぎ合わせて作った蠢く『フランケンシュタイン』の子ども、『メイドインアビス』のボンボルド卿がつくりだす、生命を利用したおぞましいテクノロジー。人と人でない生き物、生と死、そうした存在論的に交わってはいけないものを越境させるとき、私達はおぞましさを感じる。こうした汚濁の産物が科学技術によって生成されるとき、私達はSF的グロテスクの美を感じる。

日本SF・ファンタジーはSF的グロテスクの宝庫だが、SF的崇高も含めて言えば、近年では草野原々がSF的崇高とグロテスクの旗手である。

lichtung.hateblo.jp

Beauty 07. テクノロジャイド

Technologiade––––最後に挙げられるのは、テクノロジャイド。科学技術による人間社会の変容を描くことで、現在地点での私達を取り巻く科学技術のあり方を私達に理解させ、あるいは、科学技術を親しんだ文化やサブカルチャーの価値体系へと引き込む作用だ。

言い換えれば、これは科学技術を私達の文化的な想像力へと参入させるような働きだ。SFは、科学技術が私達にもたらす経験を語るための水路を引こうとする。例えば、『ゴジラ』が原子力のイメージを怪物へと転嫁させるように、ウイルスがゾンビたちに転嫁されるように、そのままでは受け止められない衝撃や生活を変える科学技術たちを知解可能なものへと変容させる営み。

おわりに

自分で書いていても、SFを読み、書く時に非常に役立つ7つの項目だと感じた。ぜひ原著も含めて読んでほしいし、SFスタディーズ、おもしろそうじゃないかと思っていただけたらさいわいだ。

宣伝だが、SFプロトタイピングの地図を描いた共編著『SFプロトタイピング』

異常論文というフォーマットで、SFの可能性を探求する『異常論文』どちらもぜひ読んでください。

*1:わたしはまだ数章しか読めていない

家父長制を批判する三つのやり方

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「家父長制(patriarchy)」とは何か*1

縁談が家名の下に進められる。役所の手続きで夫婦同姓を強制される。男性において称賛される勇敢・自由・自律といった振る舞いを女性が行うと非難される。避妊用ピル/緊急避妊薬の販売や流通許可の決定権を男性が持っている。総じて女性の自己決定や自由の権利が脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

男性に勇敢・自由・自律といった振る舞いが強制的に奨励される。経済的自立を促される。労働能力の欠如を非難される。総じて男性の自己決定や自由の権利が脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

性別二元論にはおさまらない人々が、典型的な家父長制の期待には答えない生き方の中で自己決定や自由の権利を脅かされるとき、脅かす行為は「家父長的」だと言われる。

家父長制的制度をこんなふうに捉えてみる。疑問が浮かぶ。では、人々の生活の質を下げるならなぜこのようなものが存在するのか? なぜ家父長制は存続し続けているのだろうか? 一部の人には利益を与えるかもしれないが、多くの人に不利益を与える非機能的にみえる制度が?

家父長制的制度を批判する三つの方法

制度は特定の問題を解決するために設計された人々の協調ルールである。家父長制的制度が制度なら、それは何らかの問題解決のために設計されている。男性同士の配偶者獲得をめぐる闘争を避けるための調整かもしれないし、結婚と家族の制度と結びついた特定の集団の存続のための制度かもしれないし、資本主義的な再生産奨励をドライブさせるためのパーツかもしれない。設計とはいっても、デザイナーがいるというより、自然的要因と集合的な人間の意図によって編み上げられたものだろう。

そう考えると、わたしたちが家父長制的制度を批判するとき、わたしたちが行える3つの戦略があると分かる。

  1. 家父長制的制度によって解決されていた問題を別の仕方で解決可能だと示すこと。
  2. 家父長制的制度によって解決されると思われていた問題は実は家父長制では解決されていないこと。
  3. 家父長制的制度によって解決されなければならない問題が家父長制によって生まれていると示すこと。

戦略1:家父長制的制度を使わなくても問題解決できる

これまで人間が生成する少なくない社会の中で家父長制的制度が設計されているようにみえる*2。偶然でないなら、家父長制的制度による問題解決を人類が何らかの意味で選び取りがちだということになる。普遍的に問題解決の仕方は無数にあるが、なぜよりによって「家父長制」と名指される制度が用いられるのか?

おそらく、人類の生得的な傾向性、認知バイアス、情報の偏り、競争原理、性淘汰、人類を取り巻く環境、集合的な行為の際の意思決定の仕組み、などが初期人類から現在まで、人類が家父長制的制度を採用しがちな理由を作っている。

こうした初期条件は現在のテクノロジーや文化的装置、別の制度の発達によって変更可能かもしれない。家父長制的制度のオルタナティヴの提示は、家父長制的制度が解決しようとしていた問題を特定し、それが実は別の制度によっても解決可能であることを示すことにある。

たとえば、人工の社会をシミュレートし、どのようにな条件設定をすれば家父長制的制度が発生するかを計算することで、家父長制的制度を生み出すパラメータを特定できるかもしれない。すると、そのパラメータをうまく変更してやれば家父長制的制度以外の問題解決ルールが誕生するかもしれない。

家父長制的制度とは、ローカルな局所解にいたってしまった状態だと言える。奴隷制がそうだったり、厳格な階級社会がそうだったりする。問題解決を行うルールではあるが、よりよいオルタナティブがあるかもしれない。ちょうど遺伝子アルゴリズムが局所的に適応度の高い解を見つけて、そこに嵌ってしまうように、家父長制的制度も人類の制度探索アルゴリズム最適化問題においての憂うべき局所解なのだ。その解を揺らしてやる必要がある。ちょうど金属に焼きを入れて邪魔な結晶を取り除き純度を高める「焼きなまし(アニーリング)」のように。必要なのは、制度アニーリングなのだ。社会批判は焼きなましなのである。社会に焼きを入れること。

この戦略は難しい。なぜなら家父長制的制度が何らかの問題を解決してしまっているとしたら、とりあえずわたしたちはそれを使い続けてしまうからだ。それ以外の問題解決の方法を開発し、それが実装可能であることを示さなければならない。不可能ではない。わたしたちは未来を設計しなければならないということだ。

戦略2:家父長制的制度ではそもそも解決していない

家父長制的制度を仕方なく採用しているとしても、そもそも家父長制的制度が問題を解決していないことはありそうだ。たとえば出生率の維持のために家父長制的制度があるのだ、とか夫婦同姓は家庭の絆を高めるのだ、といった主張に対応する戦略である。この場合は家父長制的制度が問題を解決していないことを示すという事実のレベルで争える。

戦略3:家父長制的制度のマッチポンプ

家父長制的制度が解決している問題が家父長制的制度によって生まれているマッチポンプのケースでは、家父長制的制度をやめれば問題が消失する。

このケースでは、家父長制的制度が解決している問題がどのように生成されているのかを分析し、それがよりのっぴきならない外的要因によるというより家父長制的制度そのものが生み出すものであることを示せばよい。

制度をデザインするために

家父長制批判のモチベーションは簡単で、うまくいっていない制度を改訂したい、というシンプルな欲求だ。それは非機能的なレガシープログラムを社会が運用し続けていることからくるわたしたちの生活の質の低減というコストへの批判だ。わたしたちの権利の誤った分配の問題だ。わたしたちがそれぞれに権利を支払わなければならない燃費の悪い制度があれば、しかもそれが不平等な形でコストが分配されている制度があれば、それを変えたいという願いだ。

制度設計のレベルで家父長制批判を行う、家父長制をサービス終了し、よりよい制度を始めること。家父長制を採用したい人はもしかしたらその批判者と同じ問題を解決したいのかもしれない。あるいは、問題点そのものを見逃しているのかもしれない。制度のデザインのレベルではわたしたちはたとえ敵対していたとしても、データによって議論できる。それを拒否するなら、どこかでイデオロギー闘争にはなるかもしれないが、その手前で話せることはかなり多くあるだろう。

古い制度のデザインを使い続けたいという気持ちは誰にもある。よく知っているし使い方が分かる。だが、わたしたちは世界をデザインしよりよいものに変えてきた。プロダクトだけではなく、制度もまたデザインできる。制度は自然ではない。だからわたしたちの手で変えられる。よりよい世界のためにわたしたちにできることはかなりある。

*1:この文章は『不平等の進化的起源』を読む前のエッセイだ。ゲーム理論の道具を何も持たずに直観で議論するとこういうことが言えるという事例として参考にして欲しい。しかし三つの分類はそれなりに有用だとも思われる。

*2:むろんわたしの知らないオルタナティブは無数にあるだろうし、家父長制的制度を採用していなかった社会の方が多いのかもしれない。

「人間の美学」に向けて

生の有意味性の哲学を読み、人間の美学の構想が生まれた。

人間の美学(Aesthetics of Human Beings):人間が人生の中で展開する、道徳的価値や美的価値や認識的価値といった枢要な価値や達成をはじめとする価値を下支えしそれを芳醇にする生の有意味性という価値を感受し・制作し・評価する実践に関する美学。

前段

『生の有意味性の哲学』伊集院利明、2021年、晃洋書房。人生の中での意味(Meaning In Life)は生実現形成:現実世界で多元的な価値を目指し自己と生を作り上げていき、生を生きる活動の充実度により決まるとする説を提示し、Well-BeingやMeaning Of Life との関係も統一的に説明する。おもしろい。

人間のナラデハの価値

おそらく動物たちもまた美的価値を創出・感受できているようには思う(ニワシドリの美的なあずまや)。人生の有意味性が自己像を持つ人間のナラデハ価値になると考えると、人生の意味の哲学とは、人間アートの哲学とも呼べるような、美学と倫理学が入り混じった価値の哲学の分野になるのだろう。

芸術的価値を支えるもの

さる美学者と話していたとき、もしポップアートに対しハイアートがどうしても意図的にナラデハの価値を提示したいとするなら、作品単体だけではなく作家の人間としての徳とか深みで勝負しなければいけないのでは? という話になったのをMeaning in Lifeと諸価値の下支えの議論で思い出した。

人間の美学の範例としてのアイドル美学

アイドルファンとは、もしかするとアイドルの生の有意味性の創造に伴走することで生の有意味性を獲得するような営みであり、だからこそアイドルの愛がファンにつねに第一に向けられているという確約を欲しているのかもしれない。だからファンは見知らぬ恋人の出現に怯える。推すこととMeaning in Life。

人間の美学とキャラクタの美学

キャラクタへの愛とは、特定の美的価値の鑑賞にとどまるものではなく、虚構的な生の有意味性に対する鑑賞実践である。それは、現実の人間に対するのとアナロジカルに、創造された生の有意味性に対する真正な尊敬をキャラクタに対してなす人々や、キャラクタの生き方を生の範例とする人がいるように、フィクションに対する態度と真正な現実的態度の混合した独特な実践である。

人間の美学とバーチャルYouTuberの美学

アバターの出現により、人々はルッキズムを超えられたわけではない。しかし、見た目に並ぶ人の人生の有意味性への感受性がいっそう純化され始める兆候が見られなくもない。それはこれまでも小説や自伝やノンフィクション作品の中で味わわれてきたが、YouTubeという生配信も可能にするプラットフォームと合体し、リアルタイムでの生の有意味性パフォーマンスアートが発達し始めている。

廃墟はなぜ魅了するのか?『摩耶観光ホテル』に行って廃墟を美学する。第13回応用哲学会発表「廃墟とペルソナ」資料公開

廃墟はなぜわたしたちを魅了するのかについての美学研究をしました。美学者の難波です。

2021/05/22に第13回応用哲学会のワークショップ「廃墟と亡霊たち」にて、広島工業大学萬屋博喜さん(ヒューム・哲学)と京都大学の松永伸司さん(ゲーム研究・美学)と共同発表してきました。オンライン開催、休みのお昼下がりに70名ほど来ていただいて、とてもうれしかったです。

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廃墟の亡霊

廃墟に行ったときに感じる、あのいわく言い難い寂寥感、しかし安心した感じ、どこか後ろめたい仄暗い快楽……とは何なのか。こうした疑問から、わたしは廃墟に行くことで感じられる美的経験を分析することにしました。

まずは文献を読み、廃墟の美学小史をつくりました。ちょっと並べてみましょう。

  • 1961:ポール・ザッカー「廃墟––––美的ハイブリッド」。歴史的な廃墟鑑賞態度を絵画作品から読み解き、18世紀において廃墟は自然に侵食されながらも建築家の目指したものを幾分か保持し、オリジナルな作品のよさも含め鑑賞されていたとする。
  • 1982:フロレンス・M・ヘツラー「廃墟の美学:存在の新たなカテゴリ」。自然と人工物、そしてそれを鑑賞するわたしたちが作り上げる新しい種類の「廃墟美」をもたらす対象として廃墟を特徴づける。
  • 1983:ドナルド・クロフォード「自然と芸術:弁証法的関係」。廃墟を自然と人工物が「弁証法的」に作り上げる「ハイブリッドオブジェクト」として特徴づける。廃墟の他にランドアートの話もメイン。スカブローの「古典」「ロマン主義」の区別の参照元
  • 2001:クリストファー・ウッドワード『廃墟論』。物語作品を手がかりに廃墟のイメージを探求。歴史的な話。
  • 2004:ロバート・ギンズバーグ『廃墟の美学』詩も含めた多岐にわたる廃墟イメージの分析。
  • 2009:グレン・パーソンズ&アレン・カールソン『機能的美』。機能をうまく果たしているものが機能美を持つとする立場から、機能を果たしていない廃墟は非機能的な面は美的欠陥だが、その表出的価値によって欠陥は見逃されるとする。
  • 2014:ジェニファー・ジュドキンス「もうそこにはないものについて」。既に失われたものを失われている場所で鑑賞する経験について。真正性や場所の感覚との関係を指摘。
  • 2014:ジャネット・ビックネル「建築的幽霊」。「建築的幽霊」と呼ばれる痕跡から過去の創造的に再建される建物について、設計図だけの建築や写真から想像される建築などと比較。建築の身体経験との差異、喚起される情動について。
  • 2014:キャロライン・コースマイヤー「時の勝利:ロマン主義の再来」。歴史的価値と、美的価値に関与する歳月的価値を区別。時間経過を重視して廃墟を特徴づけ「崇高」などの経験を廃墟経験に結びつける。
  • 2014:エリザベス・スカブロー「想像されざる美」。ジュドキンス、ビックネル、コースマイヤーの説を批判。
  • 2015:エリザベス・スカブロー「廃墟の美学」スライド中に詳細。

どれもけっこうおもしろみがあるので気になった方は読んでみてください。

それに加えて、廃墟についての語りを分析してみました。すると「面影」「人の気配」といった人間的な要素が廃墟の良さとして指摘されていたんですね。

軍艦島は昔栄えていたけれど、廃れていって、廃墟化してそのまま荒れるにまかせるようになっている。死んでいるまちだけれど、まちには人の生きている気配がある。人の息吹をいまだに感じるという部分があったんですね。自分のいとこは死んでしまったけれど、彼女の存在というものはどこかで感じている。そういうところと重なったのがきっかけで、廃墟を求めて縦横無尽にうろうろして、写真を撮るようになったというわけです。(西川&山崎 2021, 3、強調は筆者)

さて、こうした経験をどう概念化するか……? 発表とは名前を変えつつ概念を提示すると*1

人影:人間の生活の痕跡から想像的に再建される人間の仮想的な身体と振る舞い。

人は、廃墟に訪れたとき、そこにある様々な壊れたオブジェクトをただそれとして知覚するだけではない。人は、そのオブジェクトの配置から「ここに住まっていた人々はどのような習慣的なふるまいをしていたのだろうか」と想像し、その想像が高まったときには、その人の横顔さえ想像できるようになる。オブジェクトから想像される存在したかもしれない人々の振る舞い=人影が廃墟から立ち上がることで、わたしたちは廃墟に人の姿を見出し、それを味わっているわけです。

廃墟に行ってみた「摩耶観光ホテル」探訪篇

これだけだと本当にこの概念がいい感じに使えるかわからないので、試すために廃墟に行ってみた、というのが、この発表のおもしろいポイントかなと思います。立ち入り禁止のところ、ご協力をお願いし、保存グループの方にご案内していただきました。写真の一部をご紹介しましょう。

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作為の自由な戯れ

廃墟に行った結果、当初考えていなかった廃墟の美的経験の特徴を発見しました。スライド中では「意図の自由な戯れ」と呼んでいますが、作為の自由な戯れにしようかなと思っています*2

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芸術作品は作為によって作られ、作為を認知する。環境などは作為なしに作られ、しかし作為を認知してしまう。この両者の間に廃墟はあり、作為があるようでないようで、やはりあるように見える……こうした作為の自由な戯れが独特の美的な快楽を生み出しているのでは、というアイデアです。

いずれも生成途中なので、これからもっと発展させていきたいですね。

資料はこちらです。

drive.google.com

 

 

*1:川瀬和也、大岩雄典、銭清弘の指摘による。

*2:銭清弘の指摘による。

廃墟のどこが廃墟らしいのか? Scarbrough『廃墟の美的鑑賞』(2015)

みなさん、こんにちは。

美学者の難波優輝です。

最近修士論文を提出し、最後の口頭諮問で教授に「ナンバさんはこれまで一番手のかからない院生でした。ほっといても勝手に何かやっているので」と言われました。

当の教授はぼくがラスト院生の一人だったはずなので、「もうちょっと教授にいろいろ訊けばよかったかな……」と思いながら、なんとも言えない微妙にエモいような言うほどエモくないような空気が最後に流れました。なんかよかったです。

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修論ではポルノグラフィの倫理学 / 美学をしていました。

lichtung.hatenablog.com

公開しているので読んでください。

最近は打って変わって廃墟について関心があり、研究を進めています。
廃墟、いいですよね。廃墟が嫌いな人はいないと思います。

わたしたちの多くはジャパニーズ廃墟オリエンテッドポエムに触れています。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

平家物語』第一巻「祇園精舎」より

懐かしいですね。覚えさせられた記憶があります。

祇園精舎は廃墟ではないですが、世界そのものを廃墟的なニュアンスで切り取ったエヴァーグリーンなジャパニーズクラシックリリックです。

かくのごとく廃墟は心に来るとても美的で含蓄深そうなものですが、そのわりにあまり廃墟を真正面から論じた哲学研究は少ないのが悲しいです。

幸い、ちょうど博論を見つけたので読みました。

Scarbrough, E. A. (2015). The Aesthetic Appreciation of Ruins.

digital.lib.washington.edu

目次はこんな感じ。

  1. イントロダクションとケーススタディ
  2. 廃墟の存在論
  3. 文献レビュー
  4. 主張
  5. 古い廃墟への適用
  6. 新しい廃墟への適用

扱う廃墟を説明して、廃墟をめぐるわれわれの物言いを取り出し、先行研究を調べ、独自の主張を行い、主張をいろいろな廃墟に適用して関連する問題を解決する。

文献レビューと主張がおもしろかったですね。

廃墟をどうやって鑑賞してるのか? がこの博論の問いで、まず筆者は先行する答えを古典説とロマン主義説に分けています。

  • 古典説「現在ある廃墟から在りし日の姿を想像的に再建するのが廃墟鑑賞」
  • ロマン主義説「廃墟を眺めて色々な考えや感情をたゆたうのが廃墟鑑賞」

古典説は考古学的な目線で想像力を収束させる。ああ、この途切れた階段の向こうには華麗な社交場があったろうな。

ロマン主義説は想像力をいくらか自由に発散させる。夏草や兵どもが夢の跡……。夏草そのものは兵士たちとは直接つながりませんけど、戦場に生えるごわごわした夏草を撫でると、昔の戦を自由に想像するわけです。

どちらも的を外してはいなさそう。ですが、両者に対立的な議論がある。古典説派はロマン主義は歴史的じゃなくてけしからん、ロマン主義説は古典説を縛られた想像だ、と言いそう。

筆者はこのどちらかの立場を取らずに、いいとこ取りをします。

  • 多元説:「廃墟を経験しつつ、過去、現在、未来の三つの時間を経験したりしなかったりするのが廃墟鑑賞」

筆者の特徴は、古典説とロマン主義のどちらも廃墟鑑賞の核を捉えていると理解し直すところ。

すなわち、廃墟鑑賞とは、過去を想起し、人の手による偉大な建築がいつかは滅びることを未来に予感し、そして、現在において、半ば壊れ、蔦や草木が繁茂する廃墟と向き合うことなのだ、と言いたいわけです。

古典主義は過去志向、ロマン主義は未来志向、でも両者は廃墟鑑賞のときに入り混じり現れるものです。この経験は最初に引用したジャパニーズクラシックと響き合っていますね。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

平家物語』第一巻「祇園精舎」より

 盛者必衰の理を知る時、わたしたちは、過去だけではなく、未来から現在を見ている。とともに、鐘の声に聞き入っている。このリリックが響くのは廃墟的経験を凝縮したからにほかならない。

加えて、筆者は、この三組時間論から崇高とメメント・モリについてもおもしろいことを言っています。

廃墟の美学に関心のある向きはチェックして損はないでしょう。

SFの認知詩学:ピーター・ストックウェル『SFの詩学』The poetics of science fiction

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1. 認知詩学とはそもそも何か

ピーター・ストックウェルの『SFの詩学』を読んだ。SFを認知/詩学的に分析する本で非常に魅力的な研究だ。どう魅力的なのか? SFの学術的研究=「SFスタディーズ」そして文学研究に新たな可能性を吹き込むからだ。

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations)

The Poetics of Science Fiction (Textual Explorations)

  • 作者:Stockwell, Peter
  • 発売日: 2000/05/02
  • メディア: ペーパーバック
 

本書は「認知詩学」の系譜にある。日本語では認知詩学のウェブでのまとまった紹介はないのでここで行おう。

そもそもストックウェル自身、1990年代初頭から盛り上がりはじめたこの分野の牽引者になる。彼の別の本『認知詩学入門』や色々を読むと次のようにまとめられる。

認知詩学とは文学作品や物語を対象に日常言語との連続性を意識しつつ、認知心理学認知言語学などの自然科学志向のアプローチと伝統的な人文的文学研究アプローチの両面から様々な読者の読書経験の共通性を明晰に分析しようとする文学研究ジャンル

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認知詩学は概念のインフラ整備と読解過程の明示化を目指す。他の批評理論(精神分析フェミニズム理論・ポストコロニアル理論……)と対立するのではなく、それらの理論がよって立つ地点「そもそもの文章を読む時わたしたちは何を処理し理解しているか」を分析する。

これらのオーソドックスな文学理論研究と対比的なのは差異よりも同一性に焦点を当てる点にある。わたしたち読者がそれぞれに引き出す多様な解釈を発散させる妙が文学理論だとすれば、わたしたちヒトに共通する解釈の処理過程を探ることで、なぜ多様性が生まれるのかを明らかにしようとするのが認知詩学である。

代表的な論者には、ノーム・チョムスキー生成文法論に対置する形で認知言語学の流れを生み出した先駆者としてのジョージ・レイコフ&マーク・ジョンソンの金字塔『Metaphors we live by(生の中の隠喩。邦訳:レトリックと人生)』から始まり、キャサリン・エモット(Catherine Emmott)、ドナルド・フリーマン(Donald Freeman)、マーガレット・フリーマン(Margaret Freeman)デイヴィッド・ハーマン(David Herman)、アラン・リチャードソン(Alan Richardson)エリーナ・セミノー(Elena Semino)、ジョアンナ・ゲイヴァンス(Joanna Gavins)、イェシャヤフ・シェン(Yeshayahu Shen)、ジェラード・スティーン(Gerard Steen)、リサ・ズンシャイン(Lisa Zunshine)、ジル・フォコナー(Gile Fauconnier)、リチャード・ゲーリック(Richard Gerrig)、レイモンド・W・ギブス三世(Raymond Gibbs)、ポール・ワース(Paul Werth)らが挙げられる*1

専門のジャーナルはまだないはず。文学理論系と認知/言語学系と認知心理学に散らばっている印象。論文自体はたくさんある。

論集はいくつか出ており、単著もかなりある。ストックウェルの『認知詩学入門(第二版)』(未邦訳)に2019年時点での便利なブックリストが載っているのでそちらを参照。

日本語では、教科書『認知詩学入門(第一版)』と論集『実践認知詩学』がある。両者とも絶版。

認知詩学入門

認知詩学入門

 
実践認知詩学

実践認知詩学

 
Cognitive Poetics: An Introduction (English Edition)

Cognitive Poetics: An Introduction (English Edition)

 

2. SFスタディーズの理論派

SF研究=SFスタディーズの地図の中でのこの本の位置は特殊だ。引用はかなりされているが、立ち位置が特殊である。

SFスタディーズは英米圏で盛んな、文学・映画・ゲーム・テーマパーク・建築など表現形式をまたいだSFジャンルの総合研究分野である。とはいえ、その多くはやはり文学研究にフォーカスし、批評理論を援用したものが多い。その中で詩学的なデカイ理論を打ち立てた研究はほぼ二つ。すなわち、マルクス主義からSFというジャンルを独自に再定義しSF文学史を作り上げたダーコ・スーヴィン『SFの変容』と本書『SFの詩学』である。

スーヴィンは分析/マルクス主義者であるわたしのフェイバリットSFスタディーズの一つであるが、ミクロな文体分析やSFの詩学的研究を行ったわけではなかった。むしろ、マクロにSFというジャンルを作り上げる壮大な営みである。

ストックウェルの本書はミクロな文章の特徴に焦点を当てながら、スーヴィンの言ったことを明確化しつつ、何よりスーヴィンが行わなかった1900年代中期以降のSFの分析に取り掛かっている点で学術史的にも価値ある研究だ。ぜひ一読を勧める。

ちなみにダーコ・スーヴィンを美学的に分析したわたしの発表論考はこちらにある。

3. 目次と各章紹介

『SFの詩学』は認知詩学を具体的なSFジャンル作品に当てはめて使ってみようという本だ。認知詩学についても紹介があるので、関心のある人はこの本から読み始めても悪くはない。SF好きならこの本を読むとSFならではの文学的特徴を再確認することができて「あ、そうそう! 言われてみればそうだわ!」体験を無限にできる。同時に論争的な部分、納得できない部分も多くあり発展を考えるのも楽しい。

本書の中身について各章私見を交えて簡単なコメントをしておく。

第一章:出発点:方向と地図。

認知言語学、認知詩学からSFジャンルのテクスト分析を行う。「サイエンス・フィクション詩学」のタイトルは、SFの詩学的分析と詩的な側面の分析の二つの意味。SFの定義問題にプロトタイプ理論から答えたり導入だがためになる。

第二章:マクロ:古い未来

ダイクシス/直示表現がSFの「もっともらしさ」をどのように作り出すのか、初期のウェルズ、ステープルドン、中期アシモフブラッドベリ、後のギブスンまで比較する。特に直接法と単純過去に満ちた初期から、時制やモダリティ表現が歴史的に発達していく分析がたのしい。

第三章:ミクロ:フューチャープレイ

言語学SF、SFにおける言語観を概観し、ドキュメンタリー的な複数の語りのコラージュ、ヴァナキュラーな未来の言語、「情動的テーマ化」(言語的技巧による表現くらいの意味か)、ポストモダニズムとSFの関係。言語表現の特殊性からSFを考える興味深さが窺えた。

第四章:マクロ:外宇宙

1920年代よりSFの源流を作ってきた安価なパルプSF雑誌に代表されるパルプSFの詩学的特徴を文体やキャラクタ、語りの特徴などから分析。正統的な文学的価値を否定されがちなパルプSF特有の歴史的・詩学的価値を示す。著者の分析にはSFへの源流への愛にあふれていていい。

第五章:中間点、回顧と予期

社会的交渉の中で形作られるジャンルとしてのSFの特有さ。SF史を問うことが文学史そのものを問う可能性。ポストモダニズムとSFの大きな距離。SFを哲学や文化研究の題材として使う是非など。SFジャンルの生成はSF雑誌研究と連動して非常に面白い文学史研究になるだろう。

第六章:ミクロ:ニュー・ワーズ

SFの特徴である様々な新語(neologism)「ジャックイン」「ユートピア」「エイリアン」がどのようにできるかを言語学から分析。思いもよらずウケる。でも新語造作は概念工学のテーマで、SFのもっともらしさやジャンルを隔てるのは新語で現実にも影響するいいトピック。

第七章:マクロ:ニュー・ワールズ

可能世界論からフィクションの命題を理解するアプローチとその限界、命題ではなく読者が虚構世界をどのように理解しているのかを分析する基礎記憶構造とフレーム理論の紹介とSF特有のフレーム置換の戦略。一番ためになった章の一つ。可能世界の限界を述べててよい。

第八章:ミクロ:詩的平面

統語論的・文法的なメタファの分析。SFの歴史的ジャンル変化とどの種類のメタファを用いるかが連動しているとの指摘。「SFはメタファを字義通り化する」という分析は非常におもしろい。詩的側面から離れたものとされがちなSF特有のメタファ使用が理解された。

第九章:到来:地の終わり

メタファの認知作用の理論からユートピアディストピア/アポカリプスジャンルにおいてSFが読者の現実の認識フレームをどのように解体・再構築するのかを分析する。さらにインタラクティブなSFの可能性について。

おわりに

認知詩学は、文学研究と聞いて多くの(自然科学的アプローチが好きっぽい)ヒトが思いつく謎「そもそも読んでいるとき、どういうことを脳と身体はしているのだろう?」を考えるための理論を作るジャンルであり、関心を持つヒトはきっと多い。自分の専門の分析美学っぽい態度とも共通しており、個人的にはとても魅力的なジャンルであり、一般的にもチャーミングのはず。その応用例である本書『SFの詩学』もとてもチャーミングな本だった。

実利的には物語創作研究に役立ちうる匂いがしており、応用美学を研究しているわたしはこの分野の先駆者にならんとしている。興味があれば共同研究・執筆などお声がけください。SFの認知詩学の最前線を駆け抜けていきたい。

*1:だいたい認知詩学などでググスカる(google scholar検索する)と出てくるいつメン。読み方は分からない。だいたい邦訳『実践認知詩学』を参照した。

ポルノグラフィの何がわるいのか:修士研究公開

『ポルノグラフィの何がわるいのか』という修士論文を書きました。

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間違えられますがバンドの「ポルノグラフィティ」ではなくて。性的な画像とか映像とかのポルノグラフィです。それの何がわるいのか。現代美学と呼ばれる学問からアプローチしました。

この研究を読むとあなたは何ができるようになるのか

わたしは兵庫県は神戸で現代美学・批評を行っている難波優輝です。

なんで美学者がポルノグラフィの何がわるいのかを考える必要があるのか。ポルノグラフィの何がわるいのかをめぐって人々が議論しているからです。

ほんとうにそれだけなら美学者の出番はありませんが、人々の議論はどうもうまくいっていない

なぜうまくいっていないのか? それが修士の二年間でわたしが取り組んだ問いです。

なぜうまくいっていないのかを明らかにすると何がうれしいのか? 課題を明確化することは課題解決につながるからです。

そしてこれからわるさをめぐる言論のルールや議論の仕方の大枠をリデザインするのに役立ちうるからです。

事実:ポルノグラフィの議論が起こっているが、明らかにうまくいっていない
課題:なぜうまくいっていないのかを明らかにする
展望:ポルノグラフィのわるさをめぐる言論空間をリデザインする

なので、この研究を読むとあなたは次のことが分かりはじめます。

  1. ポルノグラフィのわるさをめぐる議論の何がうまくいかないのか
  2. ポルノグラフィにはどのようなわるさがあり、どのようなわるさの理由があるのか
  3. ポルノグラフィのわるさをめぐる議論をうまく行うためには何が必要なのか

たとえば2019年に『宇崎ちゃんは遊びたい!』の宇崎ちゃんを用いた赤十字社のポスターが批判されました。その非難の理由を見ていくと一通りではありません。いくつものポイントがある。批判への応答もありました。それも一通りではない。では、批判と応答は互いに一対一対応していたか? NO。それぞれの論点はすれ違いながら互いを話しの通じない集団として互いに描き出していったとわたしは感じました。これは回避したいでしょう。議論はよいことですが、すれ違った議論は特に何も生まない。

この状況を変える力を、その可能性を美学・哲学は持っています。そう信じているので4万字書きました。

どんな内容か?

「ポルノグラフィの何がわるいのか」では、ポルノグラフィの何がわるいのかを明らかにするための概念のツールキットを作成します。

第一章:ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか
第二章:キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか
第三章:ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか

まず第一章でポルノグラフィのわるさの分析と「わるさフローの作成」をします。第二章で特にヘイトスピーチなどに類されるようなポルノグラフィの「行為のわるさ」を分析し、その確定の難しさを明らかにします。最後に、ポルノグラフィの影響論を倫理的責任と結びつけ、どのようなポルノグラフィ制作の可能性があるのかを描きます。

ポルノグラフィを語ることはいろいろなハードルがあります。わたしたちの感情を掻き立てます。そのハードルにも関わらずわたしたちは語らざるをえない。

ポルノグラフィに反対する人もポルノグラフィを擁護する人も中立の人もすべて読んでください。議論を続けましょう。表現と自由を考え続けるために。

下のリンクからダウンロードできます。

researchmap.j