みなさん、こんにちは。
美学者の難波優輝です。
最近修士論文を提出し、最後の口頭諮問で教授に「ナンバさんはこれまで一番手のかからない院生でした。ほっといても勝手に何かやっているので」と言われました。
当の教授はぼくがラスト院生の一人だったはずなので、「もうちょっと教授にいろいろ訊けばよかったかな……」と思いながら、なんとも言えない微妙にエモいような言うほどエモくないような空気が最後に流れました。なんかよかったです。
公開しているので読んでください。
最近は打って変わって廃墟について関心があり、研究を進めています。
廃墟、いいですよね。廃墟が嫌いな人はいないと思います。
わたしたちの多くはジャパニーズ廃墟オリエンテッドポエムに触れています。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
懐かしいですね。覚えさせられた記憶があります。
祇園精舎は廃墟ではないですが、世界そのものを廃墟的なニュアンスで切り取ったエヴァーグリーンなジャパニーズクラシックリリックです。
かくのごとく廃墟は心に来るとても美的で含蓄深そうなものですが、そのわりにあまり廃墟を真正面から論じた哲学研究は少ないのが悲しいです。
幸い、ちょうど博論を見つけたので読みました。
Scarbrough, E. A. (2015). The Aesthetic Appreciation of Ruins.
目次はこんな感じ。
扱う廃墟を説明して、廃墟をめぐるわれわれの物言いを取り出し、先行研究を調べ、独自の主張を行い、主張をいろいろな廃墟に適用して関連する問題を解決する。
文献レビューと主張がおもしろかったですね。
廃墟をどうやって鑑賞してるのか? がこの博論の問いで、まず筆者は先行する答えを古典説とロマン主義説に分けています。
- 古典説「現在ある廃墟から在りし日の姿を想像的に再建するのが廃墟鑑賞」
- ロマン主義説「廃墟を眺めて色々な考えや感情をたゆたうのが廃墟鑑賞」
古典説は考古学的な目線で想像力を収束させる。ああ、この途切れた階段の向こうには華麗な社交場があったろうな。
ロマン主義説は想像力をいくらか自由に発散させる。夏草や兵どもが夢の跡……。夏草そのものは兵士たちとは直接つながりませんけど、戦場に生えるごわごわした夏草を撫でると、昔の戦を自由に想像するわけです。
どちらも的を外してはいなさそう。ですが、両者に対立的な議論がある。古典説派はロマン主義は歴史的じゃなくてけしからん、ロマン主義説は古典説を縛られた想像だ、と言いそう。
筆者はこのどちらかの立場を取らずに、いいとこ取りをします。
- 多元説:「廃墟を経験しつつ、過去、現在、未来の三つの時間を経験したりしなかったりするのが廃墟鑑賞」
筆者の特徴は、古典説とロマン主義のどちらも廃墟鑑賞の核を捉えていると理解し直すところ。
すなわち、廃墟鑑賞とは、過去を想起し、人の手による偉大な建築がいつかは滅びることを未来に予感し、そして、現在において、半ば壊れ、蔦や草木が繁茂する廃墟と向き合うことなのだ、と言いたいわけです。
古典主義は過去志向、ロマン主義は未来志向、でも両者は廃墟鑑賞のときに入り混じり現れるものです。この経験は最初に引用したジャパニーズクラシックと響き合っていますね。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
盛者必衰の理を知る時、わたしたちは、過去だけではなく、未来から現在を見ている。とともに、鐘の声に聞き入っている。このリリックが響くのは廃墟的経験を凝縮したからにほかならない。
加えて、筆者は、この三組時間論から崇高とメメント・モリについてもおもしろいことを言っています。
廃墟の美学に関心のある向きはチェックして損はないでしょう。