Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

詩の哲学入門

はじめに

詩(poetry)とは何か、詩は翻訳できないのか、詩の形式と内容とはどう関係しているのか、詩における「わたし」とは誰か、詩の真理と深遠さとは何か、歌詞、詩、短歌、これらのジャンルにはどのような特徴があるのか。こうした問いを哲学的に問う学問領域は近年、「詩の哲学(Philosophy of Poetry)」として、活発な広がりをみせている。

本稿では、詩の哲学において問われている問いを提示することでこの分野の輪郭を描くとともに、その意義を示すことで、詩について哲学的に考えるおもしろさを伝えることを試みる。

本稿の構成は以下の通り。第一に、定義論とその意義に触れ、第二に、翻訳不可能性、形式と内容の統一性について、第三に、詩における「わたし」とは誰なのかを考察し、第四に、真理と深遠さに関する議論を概観する。第五に、詩の哲学の意義をあらためてまとめ、さいごに、短歌、現代詩、歌詞といった詩と関係する様々な対象に関する研究の展望を述べる*1

文学研究、表象文化論言語哲学などに取り組んでいる様々な方に、なにより、実際に詩作を行い、詩を批評する方々にも、この興味深いトピックに関心を持って頂き、様々な活動において役立てて頂ければ、実践のための概念を組み立てているひとりの分析美学研究者として非常にうれしく思う。分析美学における詩の哲学は、詩の古さと普遍性にもかかわらず、近年生まれたばかりである。いっしょにこの分野を盛り上げていけたら、この分野に魅了された者としては幸いである。

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1. 詩とは何か、それを問う意義はあるのか?

哲学者たちは、しばしば問い難い問いを問う。「詩とは何か、それはどのように定義できるのか」。

この問いはすぐさま暗礁に乗り上げる。シェイクスピアソネット藤原俊成の歌、ゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、北園克衛の視覚的な詩、これらに共通する語彙も、語法も、韻律も形式も見あたらない。つまり、「この要素や特徴があれば、必ずこれは詩である」と認めうるような「十分条件」は存在しないように思われる。のみならず、「少なくとも、この要素や特徴を持つものは詩でありうる」と認めうるような「必要条件」も有意義なものとしては見あたらないように思われる。とすると、「この要素や特徴があれば必ずこれは詩であり、かつこの要素や特徴を持つときに限りこれは詩である」と認めうるような「必要十分条件」を提示することはできず、十分条件、必要条件、必要十分条件のいずれのレベルでの詩の定義も不可能となる。

とはいえ、哲学者は難題にこそ惹かれ続ける。定義論はいまだ終わっていない。

定義を与える試みの最近の例に、アンナ・クリスティーナ・リベイロの「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(RIbeiro 2007)がある。彼女は、詩を特定の形式そのものというよりも、その形式への詩人の意図から定義する作戦をとった。すなわち、

ある詩は、次のどちらかである。すなわち、(1)詩的伝統を特徴づけてきた反復の技術に従うか、あるいは変形させるか、あるいは拒否することによって、関係的に、あるいは本質的に詩的伝統に属することを意図した言語的対象(素朴でない詩)、あるいは、(2)本質的に反復の枠組みの使用と関与することを意図した言語的対象(素朴な詩)(Ribeiro 2007, 193)

ここで、詩的伝統とは、特定の文化や時代における反復の伝統のことである。たとえば、漢詩、特に、唐の近体詩においては、平仄に代表される韻律が高度に発達していたり、あるいは、ソネット、日本の短歌や俳句の典型例は、行数あるいは字数という形式が、その詩的伝統を特徴づける反復の技術である。したがって、ある制作者は、既存の伝統との距離を測りながら、その伝統を引き継いだり、革新させたりする中で詩を作る(ibid., 192-193)。

この定義の特徴は、形式的な要素(韻律、語彙、語法)というよりも、そうした要素への制作者の意図に基づいて詩を特徴づけている点である。それゆえ、典型例以外の作品もまた詩として適切に理解できる。たとえば、自由律詩俳句は、詩的伝統を特徴づけてきた俳句の形式を大きく変形/拒否することによって、その形式には伝統との目立った隔たりがあるものの、伝統に位置づけられることを意図しているという意味で、なお、詩であり、かつ、自由律詩「俳句」である*2

こうした定義は、なるほど、様々な境界例を含めて、詩かそうでないかを判別、整理できるという意味で役立つ。しかし、それ以外に、詩を定義することに何の意味があるのだろうか。それは、よく言って、知的な遊戯に過ぎず、それどころか、詩のあり方を狭め、実践者たちの創造性を阻害するのではないか。こうした想定反論に対しては、恣意的で一面的な定義を批判するという、哲学的な定義が持つ重要な役割に注目することで応答できる。

たとえば、詩はなんらかの真理や深遠さと関わるものであるとする特徴づけは、なるほど、あるコミュニティにおいて「優れた詩」はそのような特徴を持っているだろうが、それが詩一般の必要条件かつまたは十分条件の提示いずれを意図したものであったとしても明らかに不十分であるし、また、特定の形式の有無についても、自由律詩俳句やコンクリート・ポエトリーの誕生にみられるように必ずしも包括的な特徴づけにはならない。

詩の定義は、こうした問題の整理を行い、しばしば直観的に、提唱者が見知っている限りのあるいは好んでいる詩の特徴をもって、すべての詩の特徴づけとして過度な一般化を行うことを明晰に批判し、詩の多元性をそのままにしておくことができる。これは消極的ではあるものの、詩の可能性を開かれたままにしておくという意味で、詩の実践においてもひじょうに重要な役割を担っている。すなわち、こうした定義は、わたしたちが詩の特徴にあたって最低限共有できるだろう枠組みを提示することで、詩の一面的な理解を退け、詩のさらなる可能性を開いておくことができる。ゆえに、詩のあり方を狭める姿勢に抵抗するための武器となりうるために、詩の定義には意味がある*3

2. 詩の翻訳からこぼれ落ちるものとは何か?

詩の翻訳からこぼれ落ちるものとはなんだろうか。こうした問いは、より一般的に、書かれた同じ言語において、詩を別の表現によって言い換えることができるか、すなわち、「詩の言い換え(不)可能性((un)paraphrasability)」の問題として取り上げられてきた。

だが、ある言葉を他の言葉で言い換えたとき、必ず何かがこぼれ落ちるというのは、あまりにありふれたことのように思える。それでは、いったい、特に際だって、詩の言い換えから失われるものとは何だろうか。

これに対し、その問いを形式と内容の統一性に関する議論から応答するアプローチがみられる。ラフェ・マクレガーは「詩的厚み(poetic thickness)」において、同名の概念を用いて詩における形式と内容の統一性を整理した(McGregor 2014)。

詩的厚みとは、作品の同一性(identity)を損なうことなしには、形式も内容も分離できないといった、詩作品の経験における詩的形式と詩的内容の分離不可能性のことである。詩的厚みとは、テクストの性質というよりも作品によって満足される要求(demand)であり、ある作品が詩作品であるときにそれが応えるだろう詩に特有な要求である。(ibid., 56)*4

すなわち、詩は、生の事実として(テクストの性質として)言い換え不可能であるわけではない。形式と内容が統一的であるような言い換え不可能な経験において詩が鑑賞されているのであり、そうした経験をもたらすことを詩はしばしば要求される。たとえば、

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む(柿本人麿)

という有名な短歌は、その文法的構造や、詩の構造を取り出して論じることも、その内容を逐語訳することもまとめることもできる。その意味で、この詩は「言い換え可能」である。しかし、この詩を経験するときには、詩的形式と詩的内容とは一体となって経験される。あしびきの……と読み進めている時、鑑賞者はその長い枕詞とそれを受ける言葉とを延々と読み、あるいは口ずさみ、ひとり寝る夜の長さを再現するように、形式と内容とを同時に経験しながらこの作品を味わう。詩の鑑賞経験は、こうした厚みのある経験によって特徴づけられる。そしてこの経験をその実質を損なうことなしには言い換えることはできない。ゆえに、詩は、より正確には詩の経験は言い換え不可能である。

しかし、この立場は、統一性を持たない詩をただしく評価できるのだろうか。形式と内容の統一によって評価される伝統的な反復の形式に基づいた詩もあれば、そうした形式からの意図的な離反、否定、あるいは変形によって特定の価値を持つ詩もある(第一節参照)。後者について、形式と内容の統一性、詩的厚みが詩的な価値をもたらすとする立場はどのように応答できるだろうか。

この点について、オウェン・フラットは、詩的伝統における反復の形式から離反するような詩は、そうした伝統的な詩とは異なるかたちで、形式と内容の関係から独自の価値をもたらしているとする(Hulatt 2016)。すなわち、こうした詩は、詩自身が詩の形式自体に反省的に言及しており、形式それ自体が内容となっているために、詩的な価値を持つと指摘している(ibid.,  54)。形式に対して批評的な詩は、伝統的な反復の形式によってかたちづくられた詩的な歴史を前提として、それに対する批評によってそれ特有の意味を伝え、ゆえに価値を持つ(ibid., 57)。

言い換えをめぐる問い、そして、形式と内容の関係をめぐる問いは、詩が持つ特有な意味と価値の謎へとわたしたちを誘う。この問いを問うことで、わたしたちは具体的なマニュアルを得られるわけではない。だが、わたしたちは、抽象的で、それゆえ様々な場面で応用可能な詩の構造へのまなざしを得る。すなわち、詩作や鑑賞の際に、どのように詩と向き合えるのか、どのような点に注目できるのかを再考する機会を得る。したがって、言い換え可能性と形式と内容をめぐる問いは実践に寄与するだろう。

3. 詩における「わたし」は詩人自身なのか?

詩は誰の言葉なのだろうか。詩はしばしば一人称で書かれ、あるいは一人称を補って読まれる。だが、それは誰の一人称なのだろうか。詩における「わたし」とは誰なのだろうか。そして読み手はそうした「わたし」とどのような関係を結ぶのだろうか。ここに例をあげて考えてみよう。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい(笹井 2019, 5)

ちょうど十年前、早逝した詩人、笹井宏之のこの詩は、誰の言葉なのだろうか。彼が患っていた病、「病名は、重度の身体表現性障害。自分以外のすべてのものが、ぼくの意識とは関係なく、毒であるような状態です。テレビ、本、音楽、街の風景、誰かとの談話、木々のそよぎ。/どんな心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます」(笹井 2011, 102)と語られる、その重い病から、この歌における語り手を笹井と重ね合わせる解釈がある。

口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。(穂村 2019, 193)

この詩の言葉を語るある対象、これを「詩的ペルソナ(poetic persona)」と呼ぼう(cf. Ribeiro 2009, 69-70)*5。こうした詩的ペルソナは、「えーえん」と「くちから」泣くような切ない状況の中から、しかし毅然として、果てない祈りをかけることができる、傷つきやすさと同時に潰えないつよさを持つ誰か(あるいは何か)である。笹井の一連の詩を読むうちに、だんだんと笹井宏之という人物の横顔を浮かび上がってくる、その横顔と、詩的ペルソナとを重ね合わせることは不合理ではない。

だが、他方で、詩的ペルソナは、必ずしもその読み手とは完全に一致しない。読み手は、怒りながら優しい詩を書き、憎しみを持ちながら希望の詩を書くこともできる。あるいは、それは読み手そのものでもなく、しかし特定のキャラクタでもない独特な存在であることもある。

外へ出た瞬間にかんじる、終わってゆく春の匂いが、驚くほど故郷のそれと似ていて、コンビニへの道を歩きながら、これは救いだろうか、それとも地獄なのだろうかと思案している内に、コンビニを過ぎ、駅を過ぎ、まっくらな海辺にたどり着いて、そのままざぶざぶ沖へ歩いてゆくと、お月様がきれいだった。(岩倉 2018, 102)

この岩倉文也の詩において、春の匂いを感じ、歩き、思案し、頭上の、あるいは水面の月を見るのは誰なのだろうか。ここに具体的な地名や人名は現われず、鑑賞者は、どのような故郷をも、どのようなコンビニをも思い浮かべることができる。その意味で、この詩における詩的ペルソナは特定のキャラクタとしてみなすことができるというよりは十分抽象的な誰かである。また、岩倉文也と呼ばれる誰かの手記として読むことは不可能ではないが、それは決定的ではない。

しばしば詩においてわたしたちが出会うのは、読み手と深く結びつきつつも、読み手そのものでもない誰か、あるいは何かである。印字された、あるいはディスプレイの上の文字であり、それは、読み手の言葉でもあり、しかし読み手の言葉そのものでもない詩的ペルソナである。

リベイロは、鑑賞者は、こうした詩的ペルソナと同一化を行うことで、それを自身が思考したものとして鑑賞すると指摘する(RIbeiro 2009, 69-72)*6。すなわち、鑑賞者は詩的ペルソナに成り代わって、(想像の中で)えーえんと口からつぶやき、あるいは「ざぶざぶ沖へ歩いていく」。

とはいえ、詩的ペルソナとの同一化とはいったいどのような事態なのか、それは同一化という概念で説明できるのか。それはどのようにして可能なのかについてはさらなる議論が必要である*7

4. 詩とは見せかけの深遠さに過ぎないのか?

詩はときに深遠な響く。そして、ときに詩は真理のイメージと結びついている。しかし、詩は健全な推論を行なっているわけでも十分な経験的データを検証しているわけでもない。だとすれば詩は真理の響きをもたらすのみであり、その実、それは騙りに過ぎないのだろうか

こうした点についてピーター・ラマルクは、「詩と抽象的思考」において、詩は哲学とは異なった仕方で真理や深遠な洞察と関わるとした(Lamarque 2009)。彼は、詩は、哲学と同様、抽象的思考(具体的な「この犬」や「この怒り」ではなく、「犬一般」「怒り一般」あるいは「情動一般」)と関わるが、哲学とは異なり、具体的なパースペクティブ、そして題材(特定の場面や特定の対象)を用いてそれを行う。ゆえに、詩は、真なる命題の提示の能力によって価値づけられるというより、その具体的表現を介して抽象的思考を扱うプロセスが鑑賞されるものであると指摘した。

たとえば、李白のつぎの詩を見てみよう。

静夜思 李白
牀前 月光を看る
疑うらくは是れ 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低れて 故鄕を思う

この詩において、語り手は、あまりに静かな夜、寝台の前の手元の白い光を見、それを霜かと思う。と、それが月の光と気づくと、しぜん、光のやって来る方へ頭をあげて、月を見、それが山にかかるのを遠く眺める。遠い風景へと思いを向けているうち、その頭は、無意識のうちにだろうか、いつの間にうなだれてゆき、はるか遠い故郷を思う。手元の光、一瞬、霜かと思うそぶり、顔を上げて、山月を遠く眺める動作、そして、うなだれて望郷の念にひたるまで、一連の行為の流れ、心的状態の変遷が余すところなく描写されている*8

このとき、鑑賞者は、具体的なパースペクティブから、様々な特定の場面や出来事、ものを介して、想像的に行為し、思案し、情動を抱き、山月を眺め、そして郷里に思いを馳せる。具体的で特定的な描写を介して、一般的な情動や行為、そして、情動の流れや行為のプロセスが説得力を持って語られている。ラマルクの指摘は、こうした詩の表現力、すなわち、具体性を介して、鑑賞者たちが共有できるような抽象的な思考を表現する能力を指摘したものだと言える。彼の指摘は詩の経験の価値をも指摘するような射程の広い議論である。しかし、抽象的思考はほんとうにこのような特徴づけでよいのか、そもそも、こうした特徴づけは真理や概念に関するあいまいな理解に基づいているのではないか。詩と真理の関係については、このように様々な問いを立てることができる。

しばしば難解な、そして空疎な表現は「ポエム」と揶揄される。だが、優れた詩の難解さは、「ポエム」の空虚な難解さとは異なるのではないだろうか。詩の難解さは見せかけではなく、その難解さによって読み手に問いを誘う効果を持っているかもしれない。詩が持ちうる力のうちのひとつは、問いを開き、誘惑し、そして問いを問いとして保ち続ける力なのかもしれない。ある種の哲学が、問いを厳密さのうちに問い進め、議論を打ち立ててていく役割を持つのなら、詩とは、そうした議論の場所そのものを開墾し、そしてその土地がふたたび隠れてしまわぬように手入れし、思索者たちを誘惑し、問いを維持し続ける力を持ちうるのかもしれない。より具体的に言えば、詩は読み手の様々な心的状態を生成、すなわち、情動、欲望、信念、意図を生成させることで、読み手に新しい心的状態と、未経験の視座を与え、それによって、これまで問うべきと思ってもみなかった問いへと誘い込むことができるかもしれない。

むろん、こうした問いへの誘いは詩だけに限られない。音楽、文学作品、演劇、絵画、彫刻、映画、そのほか様々な芸術形式と作品は、鑑賞者を問いへと誘う。だが、これらにもまして、詩を読むとき、わたしたちは、そのうちに意味を見出そうとする(Ribeiro 2009, 76)。また、すべての詩がそうした問いへの誘いによって価値づけられるわけでもない。しかし、深遠さと謎めいた表現は、特に詩において、その価値としばしば関わる。そこから、詩と真理、深遠さの関わりは特有の重要性を持っているはずだ。詩の真理と深遠さを問う問いは、詩に特有な価値のひとつへとわたしたちの注目を誘い、わたしたちがあらためて詩の力を再認することを可能にする。

5. そもそも、詩の哲学が何の役に立つのか?

以上の問いを問うことについて次のふたつの想定反論がありうる。

第一に、詩の哲学で触れられている問いは、すでに様々な領域で問われてきたことであり、いまさらあらためて問うことでもない、あるいは、難解な用語によって整理する必要もない。詩の哲学は、遅れてきた哲学者たちによる車輪の再発明に過ぎない

たしかに、詩の哲学が取り組む問いは、これまで、哲学者たちというより、文学研究者、詩作者、批評家によって問われてき古い問いである。詩の哲学者たち、すなわち、分析哲学や分析美学者たちがそうした問いに気づくのが遅かったというのも彼らが認めるところだろう。だが、詩の哲学の意義は、これまで紹介してきた中で示されてきたように、つよい前提や、深遠な思弁的体系を必要とせずに、あくまで最低限共有可能な地点からはじめ、明晰な定義と論証を重要視し、そうした共有可能なステップを踏んだ上で結論に達することを目指す。そのメリットは、様々な立場や思想を異にする者たちの間で、共有可能な前提を探り、互いに批判可能な明晰な議論を行うことで、詩に関する思索をより開かれたものにし、そして、その結論や知見のアクセスしやすさを高める。つまり、詩の哲学は、車輪の再発明かもしれないが、それは、車輪制作を整理し、概念化し、広く理解、共有可能にする、詩の概念に関するインフラストラクチャの構築の役割を果たしうる。したがって、詩の哲学は、問われてきた問いを、あらためて、明晰なかたちで問い、それによって、様々なひとびとを問いに誘い、共有可能な知識を作り出す試みとして意義がある

第二に、なるほど、詩の哲学は、そうした知識の生産としては優れているだろう。しかし、いったい、そのような思索的な作業と理論と概念制作は、詩作、詩の鑑賞といった詩的実践に役立つのだろうか。よく言って、それは優雅ではあるが、無益な知的な戯れにすぎないのではないか。こうした想定反論に対しては、詩の哲学と概念の関わりから応答できる。

詩の哲学は、様々な概念の枠組みを提供し、そして、それは詩的実践のあらゆる場面で役立ちうる。たとえば、詩の定義は、その定義に基づいて、その定義では言い尽くされていないような詩をあらたに作り上げるヒントになるだろうし、一見詩には見えないような現代詩を詩として鑑賞する理由の明晰な理解を可能にし、鑑賞者はこれまではアクセスできなかったその価値に触れることができるようになるだろう。また、詩の翻訳不可能性と形式と内容の統一性に関する議論は、あらためて詩の特徴に注意を向けることを可能にし、詩作者がどのようにじぶんの作品を鑑賞して欲しいのか、鑑賞者は鑑賞すべきなのかを考察する手がかりになるだろうし、真理と深遠さについての問いは、詩に特有な価値のひとつへの注意を払うことを可能にする*9。このように、詩の哲学の議論がもたらす概念的枠組みは、それ基づいて各人が思考を展開しうるような明晰な道具を提供し、そうした思考はあらゆる実践を再考し、よりよいやり方を各人が発明するための役に立つ

6. 様々な詩の哲学へと:短歌、現代詩、歌詞

詩の哲学を日本語で問うなら、豊かな蓄積に目を向けないわけにはいかない。日本語による詩の表現は、古来花開き、異種との遭遇をそのつど繰り返しながら、交わり、変化し、いまなお枯れることはない。そして、特に、現代詩、現代短歌の作品群を読むと、同時代人として、いっそう豊穣な作品にあふれていることに気づかされる。だが、詩の批評において、美学者たちの貢献はその重要性に比すれば十分とは言えない。ゆえに、現代を代表として、様々な時代の作品についての美学的研究が必要だろう。

詩をより深く味わうための概念的枠組み、道具立ては、ときに無粋と言われるかもしれない。だが、わかったふりをして詩の真価を味わわないことや、詩の難解さを前にアクセスすることを諦めるよりかは、理論を駆使してその内実に迫る姿勢は野暮ではあるかもしれないが、真摯であるとわたしは信じる。詩を解釈し、鑑賞し、批評し、あるいは実作の際に様々な枠組みは、後にそれを捨てるにせよあるにこしたことはないだろう。そのために、詩の哲学は重要な意義をもちうるはずだ。

さらにまた、わたしたたちが日頃耳にする歌詞はどのような特徴を持つのか、ラップ、ポップソング、ロック、これらはどのように異なり、どのような価値を持つのか。何より、詩と曲とはどのような関係にあり、どのような美的経験を生み出しているのだろうか。こうした問いもまた、詩の哲学を手がかりに問うていくことができる。このように、詩の哲学には広大な問いの領域が広がっている。

おわりに

本稿の記述は、詩の哲学のスケッチである。他にも紹介に値する様々な問いがあるが、そのすべてに触れることはできなかった。

いくつかの論文で指摘されている主要な問いについては示し、その意義とおもしろさを示すことができれば本稿の目的は達成されたとみてよいだろう。英米圏の分析美学における詩論はいまだはじまったばかりである。そしてまた、日本においてその最新の研究の紹介は今回がほぼ初めてだろう。実作、批評、研究に従事している方、詩を愛する方に、詩の哲学、詩の美学に興味を持って頂き、もっと読みたい、研究してみたいと思って頂ければ幸いである。

また、どこかの媒体で筆者の詩に関する批評あるいは詩の哲学や分析美学に関する記事を依頼される方がおられたら、ぜひお声がけいただければ幸いである。たとえば、本稿のような入門記事のかたちでまだやりたいこと、やるべきことは数多く思いついており(詩人の言語行為論については背景知識の欠乏から取り組めなかったし、言い換え可能性、詩における「わたし」の問題、詩的な真理に関して、まだまだ紹介すべき問いがある)、また、批評や論考については、短歌の美学、歌詞の美学についてもいくつかアイデアをふくらませている。前者は、本稿でも紹介した概念を用いつつ、その特徴を分析するものであり、後者は、音楽哲学との関わりも見出せるスリリングで興味深い問いになるはずだ。

さいごになってしまったが、本稿は、筆者が敬愛する詩人であり、2009年1月24日に逝去され、ちょうど今年、没後十年を迎える笹井宏之が遺した作品の批評のための研究ノートの一環として書かれたことを記しておきたい。現在、彼の詩にいくども勇気づけられたひとりの者として、笹井の豊かな詩作をあらためてより深く味わうために分析美学の観点から批評というかたちで貢献できればと考え、論考を書き進めている。彼の輝きに満ちた詩なしには、詩の可能性に気づくこともできず、こうして詩の哲学に取り組むこともなかっただろう。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献と案内

Coplan, A. 2008. “Empathy and character engagement.” In The Routledge companion to philosophy and film, eds. P. Livingston, & C. Plantinga, 117-130. Routledge.(作品内へのフィクショナルキャラクタへのエンゲージメントのあり方について、同一化、シンパシー、エンパシーなどの様々なあり方を整理し、それらの問題と関係を指摘している。)

Hulatt, O. 2016. “The Problem of Modernism and Critical Refusal: Bradley and Lamarque on Form/Content Unity.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 74 (1), 47-59.(McGregorの論考とともに、言い換え不可能性、統一性に関する議論に見通しを与えてくれる論文。)

Lamarque, P. 2009. “Poetry and abstract thought.” Midwest Studies in Philosophy, 33 (1), 37-52.(ピーター・ラマルク「詩と抽象的思考」:「抽象的思考」の概念から、詩がたんに個人的で主観的なものにとどまらず、哲学とは違ったかたちで真理や深遠さと関わっていることを明らかにする。詩の価値を考察する上でも重要な文献。こちらはオープンアクセスとなっている(2019年1月26日現在)。)

Lamarque, P. 2013. “Poetry.” In The Routledge companion to aesthetics, eds. B. Gaut & D. M. Lopes, 532-542. Routledge.(勘を得たまとめ。本稿の構成はこちらを踏襲している。)

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.(マクレガー「詩的厚み」:「詩的厚み」の概念を提示し、言い換え不可能性と統一性の定式化に疑問を付すピーター・キヴィの一連の議論に応答し、形式−内容統一性と翻訳不可能性の意味を明らかにする。キヴィ、ラマルクらのあいだで交わされた一連の議論を追うためのガイドとしても有用だろう。)

Ribeiro, A. C. 2007. “Intending to repeat: A definition of poetry.” The Journal of aesthetics and art criticism, 65 (2), 189-201.(アナ・クリスティーナ・リベイロ「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(2007):近年の議論でしばしば引用されるリベイロの論文。)

Ribeiro, A. C.. 2009. “Toward a philosophy of poetry.” Midwest Studies in Philosophy, 33(1), 61-77.(分析美学における詩の哲学の発展に関する問題を指摘し、また、他の芸術形式と比較した際の詩の独自性を、人称、詩的形式、そして、意味と主題の観点から指摘している。)

石川忠久, 編. 2009.『漢詩鑑賞事典』講談社.

岩倉文也. 2018.『傾いた夜空の下で』青土社.

笹井宏之. 2011.『ひとさらい』書肆侃侃房.

笹井宏之. 2019.『えーえんとくちから』筑摩書房.

穂村弘. 2019.「解説」『えーえんとくちから』筑摩書房、所収、189-197項.

*1:トピックの選択はLamarque(2013)から影響を受けている。

*2:ここで、関係的、本質的とは、前者が、特定の作品、あるいは作品群と自身の作品とを関係づけようとする意図であり、後者は、特定の作品群というより、そうした作品が扱われる仕方で鑑賞されようとする意図である(ibid., 189, 193)。

*3:もちろん、定義論を行なうことや、精緻に構築された理論自体が与える知的快楽も、それとして特定のひとびとにとって尊重すべき価値を持つ。

*4:ただし、言い換え不可能性と、形式と内容の統一性とは異なる主張である。後者は前者を支持しうるが、前者が正しくとも後者は成り立たない場合もある(Lamarque 2013, 537)

*5:こうしたペルソナについての概念は、以前議論した、パーソン、ペルソナ、キャラクタの三層理論におけるペルソナとは、その媒体に代表される様々な違いから異なる理解を必要とするだろう(cf. ナンバユウキ. 2018b. 「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン. この点については現在考察を進めている。

*6:もちろん、リベイロが指摘するように、こうした詩的ペルソナとの同一化以外の鑑賞態度もありうる(ibid. 71-72.)。

*7:同一化の概念は、それ自体、ほんとうにその概念で指摘できるような鑑賞経験があるのかどうかを含め、分析美学において議論の的となっている。この点については、たとえば、Coplan(2008)を参照せよ。

*8:書き下し文および解釈は、石川(2011, 192-193)を参照した。

*9:また、狭義の詩のみならず、現代的な哲学、特に、いわゆる大陸哲学の詩的要素についてアプローチする手がかりをもたらすかもしれない。