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ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

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ナンバユウキ

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プロフィール

英語圏における美学と芸術の哲学、いわゆる分析美学を手がかりとして、フィクション、批評、そして芸術と倫理との関係を研究しています。
また、実際の批評に美学の道具立てを応用する試みを行なっています。

研究キーワード

美学、分析美学、音楽哲学、芸術の概念、フィクション、批評の哲学、芸術と倫理、ポルノグラフィ、装いと演じ

研究分野

芸術学 / 美学・芸術諸学 / 

1. 芸術の概念

卒業論文では、芸術の概念とそれを問う方法論について議論しました。

分析美学における芸術の定義論を取り上げ、その成果から、必要十分条件の探索に加えて、芸術の概念史を追う必要を主張しました。

主には、P. O. クリステラーの古典的著作「近代的な諸芸術の体系」にある、「芸術の体系すなわち、詩・絵画・彫刻・音楽・舞踊という五つの代表的な芸術形式を要素とする一つのグループが18世紀に始めて誕生した」とする主張を、それが依拠するアリストテレスプラトンの言説を精査する限りでは根拠不十分であることを示し、さらなる概念史の研究の必要性を主張しました。

2. 美学の批評への応用

分析美学における道具立てを批評に応用することを試みています。もう一つのブログ『Lichtung Criticism』において、とくに勃興初期のジャンルに注目して、その鑑賞実践や作品についての分析を行っています。

これまで、バーチャルYouTuberと呼ばれる2017年末ごろから急激に成長し始めた文化に焦点を当てて、批評を行なっています。

3. 取り組んでいるテーマ

  1. フィクションはわたしたちに現実についての知識を与えるか
  2. 芸術的価値はどのように判断されうるのか
  3. ポルノグラフィを鑑賞するときわたしたちはどのようにそれを行なっているのか
  4. ファンはどのように作品を受容し鑑賞しているのか
  5. ある文化における批評はどのような意義をもちうるのか
  6. 演じたり、装ったりする文化の比較美学

4. 取り組んでいる批評

現在は、先ごろ公開された『リズと青い鳥』をその音響的側面から考察しています。

活動

造形

高津宮アートギャザリング2016 出展『勢力のデッサン』:自作解説:"勢力のデッサン" - Lichtung

グルッポ・イッテン『にく展』出展。ギャラリー・パサージュ。2017年2月19日〜2月26日:グルッポ・イッテン『にく展』 於:ギャラリー・パサージュ 2017年2月19日〜2月26日 出展作品 - Lichtung

研究関連

『音楽哲学入門』読書ノート:ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 目次及びPDF - Lichtung

『現代存在論講義Ⅰ』まとめノート:現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート0 目次 - Lichtung

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ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、存在論、価値

近年、ソーシャルVRと言われる『VRChat』のサービス開始(2017年2月〜)や、VRヘッドセットやVR技術の漸進的な普及、そして、VRのアイコンといえるVirtualYoutuber(Vtuber, VTuber)らの登場で、ヴァーチャルリアリティの世界は一段と盛り上がりをみせている。それらはコミュニケーションのあり方を変え、新たなゲームプレイやエンターテイメントの可能性もたらすとともに、哲学的にもさまざまな魅力的な問いをわたしたちに投げかけている。

たとえば、なんとなくわかったような気がしている、ヴァーチャルリアリティとは何だろうか。それはどうヴァーチャルなのだろう。ヴァーチャルな世界は現実世界とは違うのだろうか。さらにそれは、さまざまな物語のなかの虚構世界とは違うのだろうか。もしそれらが互いに異なるとしたら、それはどのようにしてだろうか。また、VRはMR(複合現実)やAR(拡張現実)とはどう違うのだろうか。ヴァーチャルな世界における体験は現実のそれと同じ価値をもつのだろうか。そもそも、リアリティといって、ヴァーチャルリアリティは真の意味でリアルなのだろうか。そうではないとしたらなぜなのか。

本稿ではこうした問いに取り組み、ヴァーチャルリアリティの定義、存在論、価値を論じたチャーマーズ(2017)の論文をまとめている。この項では、当該の論文の前半部分でなされるヴァーチャルリアリティの定義に関する議論をまとめている。

なお、ヴァーチャルリアリティの定義や関連する概念の整理に興味がある方は目次にあるヴァーチャルリアリティの定義のセクションから読んでいただければと思う。

・Chalmers, David J. "The virtual and the real." Disputatio 9.46 (2017): 309-352.*1

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概要

筆者のチャーマーズは、ヴァーチャルリアリティ(Virtual Reality: VR)はある種の真正な現実(reality)の一つであることを主張する。そのために、ヴァーチャルな対象(virtual object)は虚構的対象(fictional object)であるとするヴァーチャル虚構主義(virtual fictionalism)を退け、ヴァーチャルな対象は現実的なデジタルな対象であるとするヴァーチャルデジタリズム(virtual digitalism)を擁護する。そして、ヴァーチャルな対象が現実的対象であることと、ヴァーチャルリアリティにおける知覚が必ずしも幻覚ではないこと、さらにヴァーチャル世界における生活が非ヴァーチャルなそれとおおむね同じ種類の価値をもちうることを主張する*2

チャーマーズの主張:ヴァーチャルデジタリズム

筆者であるチャーマーズが主張したいのは、まず、ヴァーチャルリアリティはある種の真正な現実そのものであるという主張だ。そしてこの主張をサポートするためにチャーマーズはつぎの三つを明らかにしようとしている。

  • ヴァーチャルな対象は現実的対象であり、
  • ヴァーチャルリアリティ内で起こるイヴェントはほんとうに現実であって、
  • ヴァーチャルリアリティにおける体験は非ヴァーチャルリアリティにおける経験と同じだけの価値をもつ。

これを論証するためにはここで用いられる語彙を整理する必要がある。そこで以下上記の主張に対応して次の四つの問いが問われる。

  1. ヴァーチャルな対象は現実的対象か虚構的対象か。
  2. ヴァーチャルなイヴェントは現実のイヴェントか。
  3. ヴァーチャル世界の知覚は幻想か現実の知覚か。
  4. ヴァーチャル世界の経験の価値は非ヴァーチャル世界における経験の価値と同じか。

ここで筆者はヴァーチャルリアリティが現実であることに賛成する立場と競合する立場を提示する。

ヴァーチャル実在論|Virtual Realism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在する。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きている。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は非幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がある。

ヴァーチャル非実在論|Virtual Irrealism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在しない。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きていない。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がない。

ヴァーチャル非実在論はいっけんパワフルだ。あなたがヴァーチャルリアリティ環境でヴァーチャルな猫を飼っても、それはほんとうに存在するはずがないし、それはほんとうに鳴くわけではないし、その鳴き声はほんものではないし、ヴァーチャルな猫である彼女を飼った経験とじっさいの猫を飼った経験とは同じ価値があるとは考えづらい。

だが、チャーマーズは前者の実在論路線をとる。じっさい、チャーマーズは以前『マトリックス』のような完全なヴァーチャルリアリティ世界についてのヴァーチャル実在論を擁護した*3。そのような理想的なヴァーチャルリアリティにおいて「そこにテーブルがある」というわたしたちの信念は正しいものだろう。そしてもし、わたしたちがじっさいにマトリックス世界にいるとしたら、わたしたちは目の前のテーブルをみながら「そこにはテーブルはない」とは言わない。むしろ、「そこには、ビットでつくられたデジタルな対象であるテーブルがある」と言うだろう。ここで、チャーマーズはヴァーチャル実在論の改訂版を提案する。

ヴァーチャルデジタリズム|Virtual Digitalism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在し、それらはデジタルな対象である。
  2. ヴァーチャル世界におけるイヴェントはおおむねデジタルなイヴェントであり、それらはほんとうに起きている。

以上が前述の論文で議論されたことであり、これらに加えて、

  • ヴァーチャルリアリティにおける経験はデジタル世界の非幻覚的な知覚を含んでいる。
  • デジタル世界におけるヴァーチャルな経験は非デジタル世界の非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値をもちうる。

これらについて、現在VR技術によって可能になっている、より不完全なヴァーチャルリアリティに関しても論証する。そのためには、ヴァーチャル非実在論をとる論者にも受け入れられるような議論の土台を組み立てる必要がある。

ヴァーチャルリアリティの定義

まず、議論を設定するためにヴァーチャルリアリティに関する定義を行う。はじめに、一般的に英語話者にとって、ヴァーチャルという言葉は大きく二つの意味をもつとされる。

ヴァーチャルの二つの意味|実質と仮想
  • 実質的なもの:あるXのようであるがXではない。
  • コンピュータに基づいたもの:コンピュータ上の情報処理を通してつくられたX。

前者の意味で考えれば、ヴァーチャル実在論は棄却される。だが、わたしたちが2018年にヴァーチャルリアリティという言葉で指示しているのは、後者の意味でのことだろう。こちらの意味で考えれば、実在論非実在論のどちらが正しいかは開かれた問いのままになる。チャーマーズは後者の意味で考えたさい、ヴァーチャルリアリティの核となる三つの要素を指摘する。

ヴァーチャルリアリティの三つの要素|没入、インタラクション、コンピュータによる生成
  • ヴァーチャルリアリティ環境virtual reality environment):ヴァーチャルリアリティ環境とは、没入的で、インタラクティヴで、コンピュータによって生成された環境のことである。

コンピュータによって生成された環境は前述のとおり、コンピュータ上の情報処理を通してつくられたものであるために、まさしくヴァーチャルなものであるといえる。そして、その環境が没入的でインタラクティヴな環境であることによってリアリティに近づくといえよう*4。それでは、これら三つの没入、インタラクション、そしてコンピュータによる生成とは正確にはどのような意味をもつのだろうか。

  1. 没入(immersion):没入的環境とは、その環境内でのパースペクティブにおいて、ユーザに「現前性(presence)」の感覚(すなわち、ユーザにそのパースペクティブにおいて[じしんが]ほんとうに現前しているという感覚)を与えるような、その環境における知覚的経験を生成する環境のことである。
  2. インタラクション(interaction):インタラクティヴな環境とは、ユーザによる行為が、その環境で起こることに重大な変化をもたらすような環境のことである。
  3. コンピュータによる生成(computer generation):コンピュータによって生成された環境とは、ユーザの感覚器官によって処理されるような出力を生成する、コンピュータシミュレーションのようなコンピュータ処理に基づく環境のことである。

没入的環境は、典型的には、三次元空間における立体的な視覚体験を可能にするVRヘッドセット、そしてヘッドフォンのような聴覚的な装置によってもたらされている。インタラクティヴな環境は、体の各部位のトラッカーやコントローラ、あるいはキーボードを通してユーザの行為が入力されることでVR環境に変化がもたらされることで可能になっており、コンピュータによって生成された環境は、デスクトップコンピュータや、あるいはスマートフォンによって可能になっている。こうした三つの条件によるヴァーチャルリアリティの特徴づけは、あとで行うように「VRらしい」さまざまなものごとをよく整理できる点ですぐれている。

さまざまな用法

VRの狭い意味での二つの用法|環境と技術

VR周辺を整理する前に、英語において、次の二つの意味で使われていることに注意したい。

  • 可算名詞としてのVR:個別のヴァーチャルリアリティ環境。
  • 不可算名詞としてのVR:VR環境一般あるいはVR技術。

日本語でも、VRといったとき、可算名詞的に、個別のヴァーチャルリアリティ環境を指す場合もあれば、不可算名詞的に、複数のヴァーチャルリアリティ環境のぜんたいや、VR技術のことを指す場合もあるだろう。本稿ではVRといったとき、おおむねVR環境一般を指し、VR技術は指示しない。

また、ここで、

  • VR技術:ヴァーチャルリアリティ環境を維持する技術の総称(e.g. VRヘッドセット、それに同期する聴覚的機器やトラッカー、コンピュータなど)。

とする。

VRの広い意味での用法|VRプロパー

まず、もっともげんみつなVRについて定義しよう。

  • VRプロパー:上記の⑴没入的環境、⑵インタラクティヴな環境、⑶コンピュータによって生成された環境の条件をすべてみたすようなヴァーチャルリアリティ。

VRプロパーな環境とは、わたしたちがヘッドセットとヘッドフォンを被り、トラッカーを装着し、コントローラを握り、アクセスする環境、没入し、画面上に刻々と描画される他者と交流する環境のことである(e.g. 『VRChat』)。

つぎに、予告したように、「VRっぽい」さまざまなものごとを整理しよう。これは、⑴から⑶の条件のどれかが欠如しているものごとに分類できる。

一つの条件の欠如|非没入、非インタラクティヴ、非コンピュータ生成
  1. 非没入的VR:⑴没入の否定。非没入的だが、インタラクティヴでありコンピュータによって生成された環境(e.g. 家庭用ビデオゲーム)。
  2. 非インタラクティヴVR:⑵インタラクションの否定。没入的だが、非インタラクティヴであり、コンピュータ生成された環境(e.g. ヘッドマウントディスプレイに映し出されるコンピュータによって生成された映画)。
  3. 非コンピュータ生成VR:⑶コンピュータによる生成の否定。没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ロボットアームを操作することによる遠隔医療手術)。

例示したように、⑴から⑶のどれか一つの条件を満たしていなくてもVRと呼ばれるものがある。さらに、これらのひとつしか満たしていなくても、VRと呼ばれるものもある。

二つの条件の欠如|VR的なもの
  1. 没入のみのVR:没入的だが、非インタラクティヴで、非コンピュータ生成環境(e.g. VRヘッドマウントディスプレイ上に映し出されるグーグルストリートビューのような360°映像)。
  2. インタラクションのみのVR:非没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出された映像に基づく遠隔地のロボット操作やドローンの操作)。
  3. コンピュータ生成のみのVR:非没入的で、非インタラクティヴであるが、コンピュータによって生成された環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出されるVtuber映像のようなコンピュータ生成の映像)。

これらはVRプロパーからはかなり隔たっているが、やはりVR的なものと言われるものである。

このようにして、チャーマーズは⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の条件によって、VRプロパーからより広い意味でのVRっぽいものをもうまく分類している。じつのところこれからの議論で取り扱うぶんには、VRプロパーの定義でじゅうぶんであるように思えるが、この部分単体でもひじょうに有益な整理であると思われる。

VRのヴァリエーション|MR、AR

さて、さらに、VRと関連して語られるつぎの二つのについても整理しておこう。

  • ミクストリアリティ|複合現実(Mixed Reality: MR):ミクストリアリティ環境とは、⑴没入かつ⑵インタラクションの条件をみたし、かつ、部分的に⑶コンピュータによって生成され、また部分的にコンピュータによって生成されていない、すなわち物理的であるような環境である。
  • オーギュメンテッドリアリティ|拡張現実(Argumented Reality: AR):拡張現実的環境とは、複合現実の代表例であって、ふつうの物理的環境にヴァーチャルな対象が付け加えられたような環境である(e.g. 『Pokemon GO』)。

こう考えると、VRからMR、そしてR(リアリティ)という三者を、コンピュータによる生成と物理的環境との二つの要素によって位置づけることができる。つまり。いっぽうの極は純粋にコンピュータによって生成された環境のVR、他方の極には、まったくコンピュータによって生成されておらず、物理的環境としてあるような現実、その中間に、部分的にコンピュータによって生成され、部分的に物理的な環境としてのMRがある。

ヴァーチャルな世界とヴァーチャルな対象

本稿のさいごに、これまで何気なく使ってきた二つの概念を定義して終わることとする。

  • ヴァーチャルな世界|仮想世界(virtual world):VR技術を用いることで、そこにわたしたちが滞在している(ように感じられる)インタラクティヴなコンピュータによって生成された世界(e.g. 『ワールドオブウォークラフトWorld of Warcraft)』)。
  • ヴァーチャルな対象|仮想的対象(virtual object):ヴァーチャル世界のなかに含まれており、VR技術を用いることで、そこでわたしたちが知覚しインタラクトしている(ように感じられる)対象(e.g. ヴァーチャルな身体、ヴァーチャルな建物、ヴァーチャルな武器など)。

ヴァーチャルな世界に関して、『ワールドオブウォークラフト』はVRプロパーではない。しかしヴァーチャル世界を含んでいるといえる。というのも、VRの条件の一つである⑴没入条件はこれから議論したいヴァーチャルな対象の存在論的問題には関係がないため含まれておらず、ヴァーチャルな世界を定義するにあたって考慮しなくともよいとされるからだ。

これらふたつの定義はヴァーチャル世界やヴァーチャルな対象が現実的なもので非現実的なものでも適用できる。そのため、これらふたつの定義に至るまで、これまでながながと定義してきたものは特定の実在論非実在論と直接関わっていないためどちらの論者にも受け入れられるだろう。よって、以上の定義は冒頭で述べたように、議論の土台として有用な諸定義であるといえる。

ヴァーチャルリアリティをめぐる定義

それでは以上をまとめてみよう。

  • VR(ヴァーチャルリアリティ)は⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の三つの条件を満たすある特定の環境である。ときに、よりゆるやかな意味で、こうしたVR環境とVR技術の両方を指す総称としても用いられる。さらにより広い意味で、以上の三つの条件のどれか一つを満たさないような環境を、また、一つだけを満たすような環境を指すこともある。加えて、VRを構成する三要素のうち、⑶コンピュータによる生成の条件に注目して、VRと関連する環境について、コンピュータによってのみ生成された環境としてのVR、部分的にコンピュータによる生成と物理的環境が複合したMR・AR、そして純粋に物理的環境である現実とを整理することもなされうる。

*1:オープンアクセスになっており、こちらから入手できる。https://www.degruyter.com/view/j/disp.2017.9.issue-46/disp-2017-0009/disp-2017-0009.xml

*2:本稿では「Virtual」を「ヴァーチャル」と音訳する。ふつうヴァーチャルリアリティは「仮想現実」と訳されているが、そのニュアンスは込み入っており、それらのニュアンスに関して比較的中立的な音訳でいくことにした。強いて音訳以外で訳さなければならないとしたら、わたしは本稿で扱うチャーマーズの議論に乗っ取って、いくつかありうる訳語のなかでは「仮想的」の訳語を選択するだろう。もし必要ならば、わたしは、ヴァーチャルリアリティ、ヴァーチャルな対象、ヴァーチャルな世界などを、仮想現実、仮想的対象、仮想世界と訳すだろう。

*3:Chalmers, D.J. 2003. The matrix as metaphysics. Online at thematrix.com. Published in print in Philosophers Explore the Matrix, ed. by C. Grau. Oxford University Press, 2005. チャーマーズじしんのウェブサイトにも掲載されている。http://consc.net/papers/matrix.html

*4:チャーマーズはこの三つの要素をHeimのものと比較している。Heimはほぼ同様な三要素を提示したが、環境ではなくそれをもたらすヴァーチャルリアリティシステムについての定義を試みた。cf.Heim, M. 1993. The Metaphysics of Virtual Reality. Oxford University Press.

芸術と倫理、倫理的批評

芸術の倫理と倫理的批評に関するサーベイ論文を読んだのでまとめました。「倫理的批評って可能なの?」「芸術作品と倫理はどう関わるの?」といった疑問を抱いている方はご一読ください。

・Giovannelli, Alessandro. "The ethical criticism of art: A new mapping of the territory." Philosophia 35.2 (2007): 117-127.

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倫理的批評とはなにか

芸術は倫理的に批評しうるか、という問いは、20世紀の後半にはいってふたたび分析美学のまじめな問いとして見直されることとなった。それに伴い、分析美学において芸術とその倫理的批評に関するさまざまな立場が現れた。この論文では、そうした立場を実践に沿うようなかたちで整理する。

筆者は芸術に対する倫理的批評についてのさまざまな立場を包括的に、そして実践に沿うようにマッピングすることを目指す。というのも、現行のさまざまな立場の包括的な理解はなされておらず、議論にもやや混乱がみられるからだ。そこで、マッピングのために、どの立場からも受け入れられるような前提を提示することが第一の目標とされる。
まずは、倫理的批評とはなにかという確認をする。

  • 倫理的批評(ethical criticism):ある芸術作品に対する芸術的価値の価値づけに際して、その作品の倫理的ステータスや倫理的価値を考慮する芸術批評の実践。

倫理的批評はふつうに行われている。たとえば、リーフェンシュタール『意志の勝利』について、そのナチズムのプロパガンダ映画としての地位がその芸術的価値を損なうとする批評がそれだ。ある作品が芸術的価値をもっていても、その価値を倫理的な欠陥が損ないうるものだという考えじたいは突飛ではない。しかし、倫理的な欠陥はどの程度芸術的価値を損なうのか、倫理的な欠陥が指摘されるのは芸術作品に関するどの側面なのか(すなわち、その制作過程なのか、その作品がひとびとに与えた影響なのか)といった疑問ははいまひとつ明らかではない。

そこで、手はじめに、どのような立場を取るにせよ共有できるような一般的な原則について確認する。

三つの原則

  1. 倫理的価値づけ可能性:芸術作品は倫理的価値づけの対象になりうる。
  2. 基本的な価値の多元主義:芸術作品は、すくなくとも見かけ上は異なってみえるような、さまざまな価値づけの対象である。
  3. 倫理的側面への関与性:芸術作品のどのような倫理的側面が芸術的価値に影響しているのかは、個別に決定される。

以上は倫理的批評に関するいずれの立場をとるにせよ、議論の前提としてじゅうぶん認められうる原則である。
というのも、倫理的価値が芸術的価値に影響する(すなわち倫理的価値のあり方が芸術的価値に影響し、後者を減じさせたり増やしたりする)かしないかはべつにして、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になっていることを否定することはむずかしいし、芸術作品がその芸術的価値のみ(あるいは経済的価値、倫理的価値)に基づいてその価値づけがなされるとみなすにせよ、芸術作品が見かけ上は異なるさまざまな価値づけの対象になっていることは疑いようがないし、芸術作品のさまざまな倫理的側面(すなわち、その制作過程の倫理的問題、埋め込まれた主張内容の道徳性、あるいは鑑賞者に与える道徳的な影響)のうちで、どれがじっさいに芸術的価値と関与しているのかについてはさまざまな立場を取ることができるだろう(これについてはのちほど具体例をあげる)。

こうしたいっけん当たり前にもみえる原則の明確化は重要だと筆者は主張する。

というのも、こうした明確化によって、じっさいには存在しないような立場を考慮しないで済むようになり、無用な混乱なく議論を行えるからだ。たとえば、こうした原則を否定するような極端な立場にも倫理的批評のひとつの立場としての名前が与えられているが、しかし、そうした立場をじっさいにとる論者はほとんどいない*1。にも関わらずありうる立場として名を与えられているために混乱を招いている。しかし、存在しない立場を設定することによる不必要な議論の複雑化は避けるべきだろう。なので、じっさいに共有されうるだろう前提を設定して、そのうちでのおのおのの立場を整理することが重要なのだ。

つぎに、筆者は以上の原則に基づき、さらにいくつかの要素を導入し、さまざまな論者がじっさいにとっているだろう立場を分類する。

新しい分類法

  • 過激な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。しかし、倫理的価値は芸術的価値に何ら影響しない。
  • 穏健な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。そして、芸術作品の倫理的ステータスは、ある場合において、その芸術的価値に影響する。しかし、その影響関係はつねに非規則的(unsystematic)なかたちでしかありえない。
  • 過激な道徳主義:芸術作品の、倫理的価値はその芸術的価値に規則的(systematic)に影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。
  • 過激な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に(in a reverse manner)影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。

以上は筆者の分類を整理し直したものである。

この六つの分類に際して、筆者によってあたらしい要素が導入されている。それは、「規則的/非規則的」および「芸術種や芸術ジャンル」という要素である。かんたんに説明を加えておこう。

  • 規則的(systematic)/非規則的(unsystematic):いっぽうの価値の多寡がたほうの価値の多寡と規則的に対応している/していない。(例:経済的価値と芸術的価値はふつう非規則的にしか関係していないと考えられている。すぐれて芸術的価値のある作品が必ずしも経済的価値をもつわけではなく、経済的価値をもつ作品が必ずしも芸術的価値をもつとは限らない。)
  • 芸術種・芸術ジャンル:芸術種は「絵画」や「音楽」といった芸術のカテゴリ。後者はさらにきめの細かい「印象派」や「ダブステップ」といったジャンル。

ここで反比例的に影響するとはどういうことか。議論において指摘されているのは、道徳主義においてはポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響すること、逆に、不道徳主義においては、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響するとされているということだ。

さて、こうした分類はどのていどきめが細かいのだろうか? 筆者はとくに穏健な立場に関して多くのヴァリエーションがあることを指摘し、こうしたヴァリエーションをうまく分類に含み込んでいることを主張する。

ヴァリエーション

穏健な立場(そして過激な道徳主義と過激な不道徳主義の立場)にはさまざまなヴァリエーションがありうる。ここで筆者の指摘を三つにまとめることができる。

  1. 倫理的側面の多元性
  2. 影響関係の強弱
  3. 芸術種と芸術ジャンル

作品のどの倫理的側面が芸術的価値に影響するかについて、そしてどの程度影響するかについて、さらにそのような影響がどの芸術種やジャンルには認められるかについて、同じ立場をとるひとであってもとうぜん異なりうる。たとえば、倫理的な主張は芸術的価値に規則的に影響すると同時に、その制作手段の倫理性は、非規則的なしかたでしか芸術的価値に影響しないとする立場(主張の道徳主義+制作手段の自律主義の立場)もありうる。

つぎに筆者があげているわけではないが、理解のために具体例をあげやや詳しく議論してみよう。筆者のまとめじたいに興味があるかたもざっと見ていただければと思う。

地獄変」のケース

たとえば、芥川龍之介の「地獄変」にみられる架空の屏風絵『地獄変』について考えてみよう。これは、娘が火に呑まれるさまを実の父良秀が活写した末に出来上がった逸品とされる。さて、いまあなたの目の前に、「これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映え」の地獄絵の屏風が鎮座している。この作品の芸術的価値はその制作過程の倫理性によって影響を受けるだろうか。それとも、登場人物が最終的に受け入れているように、制作過程がどうであれ、芸術作品としての価値は揺るぎないものなのだろうか。

多くのひとはこの作品の制作過程が「倫理的にわるい」ものだと判断するだろう*2。しかし、幾人かはその倫理的なわるさにもかかわらず、芸術的価値は損なわれないとするだろう。さらに、そうしたひとびとのうちには、作品の制作過程に関しては過激な自律主義的な立場をとり、その作品の内容は、ひとの悪行の行きつく先を余すところなく示しているとして、ゆえに倫理的によく、その内容の倫理性と芸術的価値に関しては道徳主義をとるものもいるかもしれない。

だが他のひとはその制作過程における「倫理的なわるさ」ゆえに、その芸術的価値がはっきり損なわれていると判断するかもしれない。この場合、制作過程において道徳主義的な立場をとることになる。

あるいは、その作品が制作過程における倫理性にかかわりなく芸術的価値をもつとされることで、すぐれた芸術的価値をもつ作品をつくるためならばひとに危害をくわえてもよいとする価値観が社会において認められてしまうかもしれず、そのことが帰結として「倫理的にわるい」ために、その作品の芸術的価値は、その倫理的価値に影響されるだと考えるひとがいるかもしれない。このようなひとは、作品の制作過程や内容に関してはべつの立場をとるにせよ、作品が帰結的にひとびとに与える影響に関して道徳主義的な立場を採用したいと思うだろう*3

マッピングの利点

こうしたマッピングによって三つの利点がえられると筆者は主張する。

  1. 包括的かつ明晰:さまざまな論者の立場をもれなく整理できる*4
  2. 普遍的かつ実践的:実践的な批評に即した分類である。
  3. なにが有効な反例となるのかが判明となる:典型的な立場に対してどのような反例が弱点となるのかを整理できる。

これらのうち、さいごの利点について解説する。

ここで、

W:その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品

を考えよう。

第一に、これは過激な自律主義と過激な道徳主義に対する反例となりうる。なぜなら、倫理的地位がたしかに芸術的価値に影響しているからであり、ふたつの価値は規則的なしかし反比例的な影響関係にあるからである。

しかし、第二に、後者の道徳主義に対する反例となるためにはさらなる条件が必要である。ある道徳主義者が注目している倫理的側面がWの不道徳性が帰属される倫理的側面と等しくなければ反例にはならない。たとえば、その制作過程の不道徳性がWの芸術的価値の達成に関係している場合に、ある作品の制作過程ではなく、ある作品が社会に与えうる影響について道徳主義的な立場をとっているのだとすれば、Wは彼女の立場に対する反例にはならない。

また、第三に、加えて、Wが穏健な道徳主義の反例となるのは、その論者が参照する芸術種やジャンルにWが属するときのみである。

そして最後に、Wが道徳主義に対する反例として提示された場合彼女は二つの応答を行うことができる。

第一に、Wであるとされた作品は、たまたま不道徳ではあるが芸術的価値をもつだけかもしれない、ゆえに、道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

ふたたび芥川の小説にあらわれる『地獄変』を例にとろう。この作品はその制作過程において倫理的な欠陥を抱えているとみなすことができる。さて、この作品はその制作過程の不道徳性ゆえに芸術的価値をもつのだろうか? そうではないだろう。その不道徳性にもかかわらずある芸術的価値をもつと言えるだろう。道徳主義が認めているのは、「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する」ということのみである。それに対する反例は、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」であって、「その不道徳性にもかかわらず芸術的価値を達成している芸術作品」ではない。たとえば、娘の死なしで済んだ『クリーンな地獄変』と小説の中の『ダーティな地獄変』が同時に存在したとしよう。前者は絵師が想像のうちで描きあげることができた作品で、後者は娘の悲劇的な最期なしでは描きあげられなかった作品であるとする。このとき、ほかの条件がまったく同一ならば、前者のほうが後者よりは倫理的価値をもつだろう。そしてまた、芸術的価値に関しては、どちらも変わらないか、前者のほうがより価値があるだろう。いずれにせよ、すくなくとも、いまの前提において、後者のほうが価値があると述べるものはかなりすくないだろう。ということは、いずれの『地獄変』も、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」ではないといえる。ゆえに、道徳主義の反例にはならない。ある作品がその不道徳性ゆえに芸術的価値をもつことが示されるまでは、その作品は反例にはならない。

第二に、その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品は、その芸術的価値も同時に損なわれているために道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

たとえば、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を達成しているジョークは、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を損なうだろう。ここでも「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響」しているのであり、道徳主義的な立場に対する反例にはなりえないとする*5

*1:たとえば⑴を否定し、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になり得ないとする立場にはキャロル(2000)によって「(キャロル的な言葉づかいで)過激な自律主義」の名前が与えられている。だが、このような立場をとるものはほとんどいないだろう。ゆえに、このような立場に対する呼び名は不必要だ。文献については後の注を参照のこと。

*2:もちろん、制作過程における倫理的わるさというのも通りいっぺんに判断できるものではないだろう。作中の描写のように娘が捕られ、屈強な武士がそばに控えている状態では、良秀はただみるほかなかったかもしれない。すると、事故現場をカメラにおさめるカメラマンの倫理的責任がふつう問われないように、良秀に倫理的責任はなく、制作過程において、その絵もまた倫理的にわるい光景を写しているものの、その制作過程のわるさは作品に帰属させるべきではないかもしれない。

*3:このような立場はキャロル(2000)によって「帰結主義」と呼ばれ、その反論が検討されている。なお、この論文は倫理的批評におけるさまざまな立場の分類に関しては筆者によって批判されており、その批判は正当なものであろうが、倫理的批評の見取り図としてはいぜん有用だと思われる。Carroll, Noël (2000). Art and ethical criticism: An overview of recent directions of research. Ethics 110 (2):350-387.

*4:筆者は、Anderson and Dean(1998)を過激な自律主義に、Jacobson (1997)を穏健な自律主義に、Kieran(2003)を穏健な自律主義かつ穏健な不道徳主義に、Carroll(1996, 1998)を穏健な道徳主義に分類している。Anderson, J., & Dean, J. (1998). Moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 150–166. Carroll, N. (1996). Moderate moralism. The British Journal of Aesthetics, 36, 223–238. Carroll, N. (1998). Moderate moralism versus moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 419–424. Jacobson, D. (1997). In praise of immoral art. Philosophical Topics, 25, 155–199. Kieran, M. (1996). Art, imagination, and the cultivation of morals. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 54, 337–351. Kieran, M. (2003). Forbidden knowledge: The challenge of immoralism. In J. L. Bermúdez & S. Gardner (Eds.), Art and morality. London: Routledge.

*5:この議論はやや理解しづらい。不道徳主義的立場と道徳主義的立場は同時にとることができるようなものなのだろうか。この主張のみをきくと不可能にも思えるが、倫理的側面に注目することで可能であるように思われる。たとえば不道徳な内容ゆえに芸術的価値を達成しているジョークも、その内容が鑑賞者に与える影響の倫理的わるさゆえに芸術的価値を損なうとするならば、道徳主義への反例とはなっていないことが理解できるだろう。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか?」PART II

PRT I→http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/03/17/215144の続きです。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

メイル・ゲイズ

前エントリの紹介までで、イートンの分析によって、視覚芸術が性的モノ化を行うことが示され、これにより、 女性のヌード作品の 第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。すなわち、女性のヌード作品が女性の性的モノ化をエロス化していることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードがエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化はただのモノ化でしかないからだ。どういうことか?
たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。さらに、物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びで笑いはしゃぐだけだろう。すなわち、モノ化を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

その見方は「メイル・ゲイズ(male gaze)」と呼ばれる*1

「メイル・ゲイズ」は規範的なものとして理解されなければならず、 当該の作品がそうすることを誘惑する 、性的モノ化を行う「ものの見方」……を指している。ある作品がメイル・ゲイズを体現していると言うとき、それはある作品がオーディエンスに、表象されている女性を -この場合衣服を着ていない女性の体を-第一義的に性的なモノとして(字義通りであれ比喩的であれ) 「みる」ことを求めているということを意味する。(強調は引用者)(p. 293)

ここで、あまりに多くの混乱が見られるために注記しておかなければならないことがある。それは、女性を性的なモノとしてみる見方のすべてがメイル・ゲイズではないということだ。女性を性的なモノとしてみる見方はわたしたちの一般的な知覚の一つの在り方でしかなく、それじたいいいものでもわるいものでもない。

そうではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方がメイル・ゲイズである。ここで第一義的であるということが重要だ。人間はいかなるジェンダーを問わず、性的なモノである以前にそれぞれにユニークなキャラクタと自律的な意志をもつ。にも関わらず、そうした人間的な特徴に注目せずに、性的なモノとしてのみみなすことが問題とされる。もちろん、親密な関係においてはあるいは合意のうえでは、ひとは性的なモノとして扱われることをみずから望む場合もあり、それは異常な状況であるわけでもない。だが、望みもしないのに第一義的に性的なモノとしてみなされるとすれば、彼や彼女の自己決定権を侵害していることになり、それは多くの場合問題視されるであろう。

女性はこうしたメイル・ゲイズのもとで生きざるを得ない、とイートンは指摘する。メイル・ゲイズは男性のみならず女性のうちにも内在化される。たんに男性が女性をそのようにみるだけではなく、女性がその見方のうちで自らの第一義的な魅力を性的なモノの魅力として読み取る。女性はメイル・ゲイズを内在化し、その見方を通して、「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如をみずからの性的魅力とみなして自己理解を行なってゆく」。これは女性の従属をエロス化してしまうために、さまざまなジェンダーにおける平等を重視する立場からは問題であるとされる。

イートンによれば、女性のヌードはこうしたメイル・ゲイズを強調する文化形式、すなわち、「ほかのあらゆる性格よりも女性の見た目や性的魅力を強調する」文化形式であり、「女性にみずからのアイデンティティ理解の理想型」をもたらしているとされる。まとめよう。

  • 女性の性的モノ化の表象は、女性を「第一義的に性的なモノとしてみる」メイル・ゲイズによって性的に魅力的なものとして鑑賞される。女性の性的モノ化の表象である女性のヌード作品は、鑑賞にあたってメイル・ゲイズを必要とする。鑑賞者が女性のヌード作品に魅力を感じることによって、内在化されたメイル・ゲイズが強化、維持される。そうすることによって、男女問わずメイル・ゲイズを内在化したひとびとにおいて、女性を第一義的にその見た目や性的魅力がほかのどの性格よりも重視されてしまうような性的なモノとしてみなす見方が強化、維持される。すなわち「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如」が女性の性的魅力であり、その性的魅力と女性としてのアイデンティティとが同一視されてゆく。これは男女のあいだに支配と従属という不平等な関係をつくりだす原因のひとつとなるがゆえに問題があるとされる。
  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-メイル・ゲイズ-女性のヌード-性的モノ化-女性

個体と一般

ここで、女性のヌードは女性一般をモノ化していると言えるのか? というのも実際の絵画においては個体としての女性が描かれており、ゆえに、女性一般をモノ化しているわけではないのではないか?
この問いに対してイートンは女性のヌードがいかにして女性一般のモノ化の表象でありうるのかについて二つの回答を提出する。

一つ目は女性のヌード表象が総称的(generic)であることによって。女性は同じポーズ、そして同じ顔や肌の色や身体的特徴をもつ識別できないようなものとして描かれる。こうして、女性の表象は総称的なものとして描かれうる。二つ目は理想的(ideal)であることによって。女性はしわや体毛などまったくなく、つねにつるつるとした理想的な体型の女性が描かれる。反して、男性たちはそれぞれの作家に特徴のある個別的な容貌をしている。こうして、個別の女性ではなく、女性一般を表象することができるとイートンは主張する。これらの理由として、イートンは、ピンナップ機能と規範的機能をあげる。総称的で理想的な女性の姿は男性たちのファンタジーに適しており、そしてそれは男女問わず、規範的な女性像として機能する。こうして、西洋における女性のヌードジャンルに属する視覚的表象は女性一般を描きそれを性的モノとして表象することができる。

性的モノ化の何が問題なのか?

これまで女性のヌードのみを扱ってきたために反論があるかもしれない。「男性のヌード」はなぜ問題ではないのか? 男性のヌードもまた性的モノ化の表象ではないか? それを看過しているフェミニストダブルスタンダードではないのか?

イートンはこうしたダブルスタンダード説を否定する。フェミニスト批評は性的モノ化それじたいを批判しているわけではない。そうではなく、西洋の美術史における女性のヌードという視覚的表象のジャンルがもたらす問題を批判しているという。

それでは、性的モノ化はどのようにして問題になるのか。この問いに答えるために、イートンは女性のヌードを巨視的な視点から分析することを試みる。すなわち、おのおのの作品のみに注目するのではなく、諸々の作品が全体としておかれる歴史的な文脈に焦点をあてる。ここで彼女は四つの問題点をあげている。

1. 衣服を着た男性、服を脱いだ女性

女性のヌード作品において、しばしば男性も描かれる。だが、両者ははっきりと非対称的である。同じ画面の中にいる男性は服を着ており、女性だけがはだけており性的モノ化されている。それだけではなく、男性は何かしら芸術的なあるいは知的な活動に従事している。イートンの例の一部を紹介しよう。

マネ『草上の昼食』 1862年1863年、 油彩、カンヴァス、 208 cm × 265.5 cm 、 オルセー美術館、パリ*2

テツィアーノ『ヴィーナスと音楽家と子犬』1550年、油彩、カンヴァス、138 cm × 222.4cm、プラド美術館マドリード*3

アルブレヒト・デューラー『測定法教則』より「横たわる女性を素描する人」1525年、ドレスデン国立美術館*4

だが、反対に、男性がはだけており、女性だけが服を着ている絵画はほぼみられない、とイートンは述べる。こうした非対称性は、女性の性的側面のみを強調する女性のヌードというジャンルに特徴的であるとイートンは指摘する。

2. 膨大な女性のヌード

 男性のヌード作品と比べて、女性のヌード作品は圧倒的に数が多い。それを傍証するように、芸術において、「ヌード」と言えばふつう女性のヌードを指す。こうした大量の女性のヌード作品によって、「性的なモノとしての女性」という女性のステレオタイプ化が行われている可能性をイートンは指摘する。

3. ヌードのマナー

男性のヌード作品もまた多く存在する。しかし、それらは性的モノ化されるような描写の仕方では描かれてはいない。イートンの例をみてみよう。

アントニオ・ポッライオーロ『Battle of the Nude Men』1465–75年、42.4 x 60.9 cm*5

ドミニク・アングル『Oedipus and the Sphinx』1808–27年、油彩、カンヴァス、189 x 144 cm、ルーヴル美術館*6 

オーギュスト・ロダン『考える人』1902年、ロダン美術館、パリ*7

女性のヌードは伝統的に描かれた女性を性的モノ化してきた、これに対して、男性のヌードは性的モノ化されていない。活動的で、強靭で、知的なものとして描かれている。

4. 女性芸術家の排除

ここで、イートンは、個別の表象ではなく、芸術を取り巻く環境に注意を向ける。彼女は、こうした女性の肉体の表象の豊富さと裏腹に、女性が芸術から排除されている点を指摘する。まず第一に、イートンは女性芸術家の排除を指摘する。近代や現代の女性芸術家の作品が芸術作品の正典としてあげられることはほとんどない。第二に、彼女が指摘するのは伝統的に女性によって作り出されてきた服飾やキルト、針仕事、陶器といった人工物はこれまで真剣に芸術作品として扱われてはこなかったことである。

こうした現象は直接個別の女性のヌードと関連するわけではない。しかし、「偉大な美術館に足を踏み入れたとき、芸術史の教科書を開いたとき、女性はクリエイターとしてではなく、たんに身体とのみ結びつけられており、そこから男性がマスターピースをつくりだすような生の素材として結びつけられている」とイートンは語る。こうした点から、女性芸術家は、芸術から排除されているとイートンは主張する。

まとめ

女性のモノ化の表象は女性のヌードと呼ばれる。女性のヌードは、男性のヌードと比較して、つねに女性を主体性がなく、受動的なモノとして描いている。このモノ化は、女性を第一義的に性的なモノとしてみなすメイル・ゲイズを通して、魅力的なものとして鑑賞される。西洋における女性のヌードの伝統は繰り返されることで、メイル・ゲイズを強化し、ステレオタイプな女性像を作り上げてゆく。そして男性の支配と女性の従属はエロス化される。このことによって、女性の従属がもたらされる。イートンがこれまで解説してきたのはこうした関係性である。翻って、ここで、女性の従属は道徳的に問題があるとされたとき、女性の従属をもたらす原因のひとつである男性の支配と女性の従属はエロス化は問題があることになる。そして男性の支配と女性の従属のエロス化をもたらすメイル・ゲイズには問題があり、さらに、メイル・ゲイズを強化する女性のヌード作品には問題がある。以上が女性のヌードがフェミニズム批評において問題視されている理由だ。

イートンは「あらゆる女性の裸体の表象=わるい」と言ってるわけではなく「西洋の芸術史のうちの女性のヌードという視覚的表象のジャンル」は男性の支配と女性の従属という関係を芸術の名のもとに美化してしまうために問題があるとする。こうしてフェミニズム批評の問題意識が決して不条理ではないことを示そうとしている‬。

疑問

イートンは時折、「女性のヌードは女性をモノ化する」と述べているが、この表現はイートンの主張をぼやけさせてしまうおそれがある。モノ化はつねに行為者とモノ化される対象のあいだで起こるために、女性をモノ化しうるのは特定の芸術家であって、女性ヌード作品ではないはずだ。ある表象がある女性をモノ化するという表現は、あたかもある表象が人格をもち、女性に対してモノ化を行なっているようだが、それはイートンの主張との関係では適切でない表現のように思える。なぜなら、女性のヌードが女性をモノ化するという表現は、女性のモノ化が自動的に起こるという印象を与えてしまうからだ。イートンが結論としてあげているように、女性のヌードが女性をモノ化することそれじたいに問題があるのではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方との関係において問題視されていることに注意を払う必要がある。

メイル・ゲイズについて疑問がある。たしかに、「女性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」が存在していること、そして、反対にこうした見方と比べれば「男性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」はそれほど普遍的な見方でもなければ、男性のアイデンティティを形成する見方でもないだろうことは、統計的事実というより日常的な常識としては確認できる。しかし、こうした無意識の意図をあぶり出すような指摘は、ときにどんな対象にも適用できるような恣意的な道具となるかもしれない。ゆえに、イートンが行ったように、こうしたメイル・ゲイズという枠組みが突飛なものでも恣意的なものでもないことを確認すること、そしてどのような限界や批判がありうるのかを調査していくことを今後のわたしの課題としたいと思う。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」PART I

 芸術的価値の周辺を探索しています。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

 『芸術とポルノグラフィ』に収録のA. W. イートンの「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」*1

裸婦画に代表される「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」としての「女性のヌード(作品)」の問題を扱っている。
この論文の目的は、こうした「女性のヌード」がなぜフェミニズム批評のなかで問題となってきたのかを、フェミニズム研究のうちでの暗黙の了解を前提とせずに説明することだ。
著者のイートンはこう語る。

残念ながら、女性のヌードに関するフェミニスト研究は、「釈迦に説法」のかたちをとりがちである。つまり、既にその考えを受け入れる気になっているフェミニストに向けて言葉が発せられがちである。(279)

そこでイートンは、ヌスバウムのモノ化の記述を参照して具体的な芸術作品を分析し、女性のヌードがなぜ問題になるのかを説得的に描き出そうと試みている。

なぜ問題なのか:ヌードと従属

前半では、まずフェミニスト批評の問題設定を説明し、つぎに、そうした問題設定は誤りであるとする反論に答えている。ここでは問題設定を取り上げよう。イートンが取り上げるのは、「女性の従属(subordination)」の問題だ。「従属」概念の説明は文中にないため、説明を補っておく。

「女性の従属」という用語は、女性の劣勢な地位、 [社会的]資源や意思決定へのアクセスの乏しさ……を指す。したがって、女性の従属とは、女性の男性に対する劣勢な地位を意味する。無力感、差別、制限された自尊心と自信の経験は、組み合わさることによって女性の従属をつくりだす。したがって、女性の従属は、権力関係が存在し、男性が女性を支配する状況のことだ。*2

こうした女性の従属がもしほんとうに女性を取り巻く状況を言い当てているなら、そして、性別に関する不平等を問題視するなら、女性の従属は是正すべき問題として設定できる。じっさい、わたしたちは女性に対する男性の支配的なあり方が、その逆の場合と比較した場合、いかにありふれているのかを日常経験的には確認できるだろうし、性別に関する不平等は是正すべきだと考えるはずだ。

イートンは女性の従属をつくりだしている主要な原因のひとつとして「男性の支配と女性の従属」の「エロス化(eroticization)」をあげる。エロス化とは、イートンによる説明から考えるに、「あるものを性的に魅力的なものとすること」だ。これは何が問題なのか?

問題は、不平等性だ。男性が女性の従属を性的に魅力的なものとみなすように、女性もまた従属をじしんの女性としての性的魅力として自己理解する。女性は、男性への従属という不平等な関係のなかで女性としてのアイデンティティを形成する。女性の従属を問題視するならば、それ引き起こす一つの原因である「男性の支配と女性の従属」の「エロス化」も問題視すべきだろう。

「 男性の支配と女性の従属のエロス化」はどのようにして行われるのか。イートンはその主要な原因のひとつとして「女性のヌード」を取り上げている。ここで「女性のヌード」は「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」を意味する。イートンは「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」のエロス化の重要な原因のひとつであるためにフェミニスト批評の対象となると主張する*3

イートンの主張を説得的に示すためには、次の二項関係に関する問いを明らかにする必要がある。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属-女性のヌード
  • 問い:女性のヌードはいかにして男性の支配と女性の従属をエロス化するのか?

 この問いに取り組むため、イートンは「性的モノ化」という概念を導入する。イートンは、女性と女性のヌードのあいだに性的モノ化の契機を見出す。

性的モノ化について

イートンヌスバウムのモノ化の議論を紹介する。

「モノ化」とは「ほんとうはモノではないものをたんなるモノとして扱う」ことである。マーサ・ヌスバウムは、概念的に異なるモノ化の意味を指摘した。彼女によれば、モノでないひとをモノとしてとりあつかう(treating person as an object)ということには、次のような異なる意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。*4

そして、Rae Langtonの三つのモノ化の意味が加えられる。

  1. 体への還元(Reduction to body)。体や体の部分と同一のものとして扱う。
  2. 見た目への還元(Reduction to appearance)。第一義的に感覚に対してどのように見えるかという観点から扱う。
  3. 沈黙化(Silencing)。沈黙したもの、話す能力が欠落したものとして扱う。*5

そしてイートンによれば「あるまとまりの絵画や他の表象的な作品はモノではないものをモノであるかのように、とくに、性的な(sexual)モノであるかのように表象する」とされる。しかしどのようにして視覚的表象は女性をモノとして表象するのか?こうしたモノ化の表象は実際にどのようなものなのか。ここではイートンによる分析の一部を取り上げよう*6。まずイートンはジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』(1510)を例にとる。

ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』(1510)油彩、カンヴァス、108.5 cm × 175 cm、アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン*7

ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』は横たわったヌードのすべての伝統のプロトタイプである。人物の体の態勢は眠りによっては説明できない注目すべき脆弱性とアクセス可能性にによって特徴づけられる。むしろ、このポーズの機能は脆弱性を強調し、性的に敏感な部分への最大限の視覚的なアクセスをもたらすことにある。……彼女の主体性は彼女の意識の欠落が完全な受動性と脆弱性を強調するに限って重要であるに過ぎない。

イートンの記述に基づけば、こうした人物はただ彼女の性的な器官の強調によって、「見た目」や「体への還元」が行われ、「主体性は最小化されるかその痕跡も消去されている」ために、「自律性の否定」や「不活性」の強調、さらには「主観の否定」が行われている。

あるいは、女性のヌードが画題に関係なくごく単純に眼を愉しませるためだけに用いられている例がある、とイートンは指摘する。

ティツィアーノ『The Bacchanal of the Andrians』(1523–1526)油彩、カンヴァス、175 cm × 193 cm 、プラド美術館マドリード*8 

 お馴染みの脆弱で露わなポーズが目に入ってくるが、物語世界の出来事のなかで何の役割も果たしていないし、コンポジションのなかに明らかに統一されてもいない。このジャンルにおける多くの作品のようにヌードは性的な目の保養(sexual eye candy)以外の何物でもない。

このように、絵画における女性のヌード作品のいくつかは⑴女性の性的モノ化の表象であり、そして、それによって⑵鑑賞者に視覚的な性的快を供給するものであることが示された。

以上、モノ化概念の導入によってはじめの二項関係では明らかではなかった新たな関係が明示された。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-女性のヌード
  • 性的モノ化関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

性的モノ化を読み取る

分析によって、いくつかの女性のヌード作品は、性的モノ化の表象であることが示され、これにより、 女性のヌード作品の第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードが鑑賞者にエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化の表象はただのモノ化の表象でしかないからだ。

たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びではしゃぐだけだろう。性的モノ化の表象を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

つまり、次の関係が暗示される。

  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-読み取り-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

前半の紹介でこのエントリを終える。次のエントリでは読み取りを可能にする見方について紹介されるだろう。

*1:Eaton, Anne W. "What’s Wrong with the (Female) Nude?." Art and Pornography: Philosophical Essays (2012)

*2: Sultana, Abeda. "Patriarchy and Women s Subordination: A Theoretical Analysis." Arts Faculty Journal 4 (2012): 1-18.

*3:この主張に対する反論のひとつをイートンは紹介している:「 「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」の重要な原因のひとつではない。なぜなら男性の支配性と女性の従属性のエロス化は文化ではなく、適応進化によるものだからだ」とする反論である。曰く、わたしたちの先祖は支配的な男性を選好した。なぜなら支配的な男性と従属的な女性のペアは 生存に有利だったからだ。ゆえに、「男性の支配と女性の従属」のエロス化は支配的な男性と従属的な女性のペアをつくりだすために生存戦略上有益であり、今もなおわたしたちの脳に刻み込まれている生理学的かつ心理学的なセットアップだ。つまりわたしたちは遺伝的に性的に平等ではないのであり、その道徳性は云々できない。かつまた、 「男性の支配と女性の従属」 という構造は遺伝的にそう振る舞うように定まっているためにそれを女性のヌードがつくりだすわけではない。ゆえに女性のヌードは問題にはならない。こうした反論に対し、イートンは応答する。仮にわたしたちの性的選好が確かにそのように形成され深く刻まれているとしよう。だからといって、それが「道徳的に正しい」とは言えない。遺伝的に定められていようといまいと女性の従属化は道徳的に問題がある。さらに遺伝は人間の振る舞いの唯一の決定要因ではない。文化的な観念、価値、趣味などが複合的に振る舞いをつくりあげる。ゆえに、 「男性の支配と女性の従属」のエロス化は道徳的に問題があり、さらにその原因である 「女性のヌード(作品)」もまた問題がある。

*4:翻訳は、江口聡「性的モノ化と性の倫理学」『現代社会研究』第9 (2006): 135-150.)を参照。

*5:Langton, Rae (2009) “Autonomy Denial in Objectification,” ch. 10 in Rae Langton, Sexual Solipsism (New York: Oxford University Press), pp. 223-40.

*6:イートンは計15作品を取り上げ分析している。

*7:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Giorgione_-_Sleeping_Venus_-_Google_Art_Project_2.jpg#mw-jump-to-license

*8:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Bacanal_de_los_andrios.jpg#mw-jump-to-license

J. グラント「隠喩と批評」

キャロル『批評について』に触発され批評の周辺を探索しています。

 

取り上げるのは、ジェームス・グラントの論文「隠喩と批評」(2011)。

この論文では、なぜ芸術批評においてしばしば隠喩が用いられるのか、批評家は隠喩によって何を達成しているのかが問われる。

前半ではまず分析のための道具を準備する。隠喩の性質に関してグラントが提唱する「ミニマル・テーゼ」が取り上げられる。いくつかの批判に応答することで、その理論を批評の分析に用いてもよいことを示す。後半では批評家が隠喩を用いて何をしているのかを実際の例を挙げて記述しつつ前半で擁護したミニマル・テーゼを用いて分析する。

似ている性と似させるもの

まず、隠喩一般を説明するミニマル・テーゼ(Minimal Thesis)とは次のような主張だ*1。 

  • 例外をのぞいて、隠喩の対象隠喩的要素によってもっていると特徴づけられるそれぞれの性質は、(i) 隠喩的要素によって指摘される似ている性、あるいは(ii) 隠喩的要素によって指摘される似ている性についての似させるものである*2

 ロミオが「ジュリエット! 明るく、美しい君は太陽だ!」と述べたとしよう。このとき、隠喩の対象(subject)は「ジュリエット」、隠喩的要素(element)とは「太陽」である。そして、隠喩的要素によって指摘される似ている性(likeness)とは、「太陽に似ている性」である。最後に似させるもの(likeness-maker)とはある隠喩の対象に対して似ている性を与える要素のことである。ここでは、「太陽に似ている性」をもたらすジュリエットの「明るさや美しさ」といった性質のことであるとされる。以後の批評の分析においてこの似ている性と似させるものの区別が活躍する。まとめれば、似させるものが似ている性をもたらす

次にグラントはこのミニマル・テーゼを擁護する。「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とするシブリー、スクルートンを取り上げ、彼らをグラントのミニマル・テーゼに批判的な立場になりうる隠喩に関する非実在論者とみなして応答する*3。だが、隠喩が実在するなんらかの性質を隠喩的対象に帰属させているかいないか、どちらの立場をとるにせよ、ミニマル・テーゼは成立しうるとされる。

隠喩の二つの種類:似ている性と経験

後半では、ミニマル・テーゼを用いて批評家がなぜ隠喩を用いるのかが分析される。分析のためにグラントは詳細な例をいくつも挙げておりそれぞれ魅力的なのだが、ここではそのすべてを紹介することはできない。彼の結論をまず提示しよう。

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞者に与える経験を知覚、想像、想起させるため
  1. 批評家は、作品を記述するにあたって、しばしば諸性質を帰属させる。なぜなら対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれているからだ。翻って、鑑賞は、しばしば特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えることを知覚・認識することを伴う。批評は、隠喩を用いることで、 特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えていることをわたしたちに理解させることができる。これが批評家がしばしば隠喩を用いる理由の一つである。
  2. 批評家は、読み手に、対象がもつ特定の諸性質の知覚、認識を引き起こすことを欲する。 それは、対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれている場合、すなわち、この経験[知覚・認識することそれじたい]を正確に想像したり想起することが 鑑賞のなかに含まれている場合である。だから、批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起してもらうことを欲する。隠喩を用いること、とくに新しい隠喩を用いることは、これらの狙いを達成する効果的なやり方である。このような隠喩を理解するには、当該の対象を知覚し、知覚を想像したり想起させたりすることなしでは困難なことが多い。したがって、こうした隠喩を用いることで、批評家は、彼女が望むものを知覚、想像、または想起させるよう読み手に対して促すことができる。さらに、隠喩は非常に特定的(specific)なものであるために、読者がこの経験を非常に正確に想起したり想像したりすることを保証しうる。

まず 1について説明しよう。これは隠喩のオーソドックスな使い方である。「似ている性を指摘する隠喩」と言える。

たとえば、グラントも例示しているように、ベルニーニ設計によるサン・ピエトロ広場の石柱(下図)について考えよう。これはしばしば巡礼者をかき抱く両腕に似ていると指摘される。批評家が「サン・ピエトロ広場は敬虔な巡礼者たちをつつむ大いなる手である」と隠喩を用いたならば、それは、サン・ピエトロ広場がもつ「楕円形」や「大きさ」といった似させるものが、巡礼者たちをかき抱く両腕に似ている性をもたらしていることを指摘しているのだとされる。そして、サン・ピエトロ広場を鑑賞するにあたり、こうした似ている性を知覚することがたしかに必要なのだ。

サン・ピエトロ広場*4

次に2について説明しよう。これは「経験を指摘する隠喩」といえよう。たとえばグラントはクラークによるラファエロ作品評を紹介している。

リズミックなカデンツが全体の構成を貫いている。上昇し、下降し、止まり、解放される、完璧に構成されたヘンデルのメロディのように。右から左へと……[エンジンに炭を注ぐ]火夫のような「川の神」が、英雄的な漁師たちの一群[覗き込む二人の漁師]へとわたしたちを突き入れる。彼ら一群の複雑な動きは、力の発条を巻き上げる。立っている使徒との巧みなつながりが現れる。彼の左手はとなりの漁師のはためくドロープの後ろにある。そして聖アンドレ[四人目]は句切れを、一連の流れのクライマックスを形成し、わたしたちの推進力を弱めることなく引き留める。と、最後に、驚くべき加速、聖ペテロの情熱的な動き。すべての装置はこのための準備だった。最後に、キリストの慰めの姿。聖ペテロの思いを確かめそして受け入れる手*5

ラファエロ『奇跡の漁り』(1515-1516)(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)*6

このクラークの批評は、絵画を鑑賞した際に体験される流れるような動きと静止のリズムの経験を読み手に与えるために隠喩が用いられる実例である。まず冒頭から、カデンツ(安定した響きから緊張した響きに移行し、最後にふたたび安定した元の響きに戻るという音楽的な流れ)を隠喩的要素として用いている。なるほど、漁師たちの動きが作り出す輪郭はまるでメロディのように上下している。はじめ火夫と隠喩された男から徐々に上昇してゆき、聖アンドレが一瞬進行を止める。次の瞬間、聖ペテロの祈りの姿勢へと下降しそのキリストへの祈りが強調される。このようにわたしたちがこの絵画を経験することを狙って、クラークは全体を音楽的な隠喩で覆っていることがわかる。

また、グラントによれば、クラークは、1. のように、ラファエロのこの絵画が音楽的であること自体が鑑賞に含まれているためにこのような隠喩を用いているのではなく、あくまで、ラファエロの絵画が鑑賞者にもたらす経験を指摘するために、その資源として隠喩を用いているという。「音楽的な進行」や「メロディ」といったよりわたしたちに馴染み深く了解可能な表現、すなわち、明白で特定的(specific)な記述を隠喩として用いることによって、より伝達が難しい「奇跡の漁りを鑑賞することによる経験」をうまく指摘することができるのだ。

グラントはこうした隠喩によって、「批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起」することを達成していると指摘する。

まとめと疑問

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞に与える経験を知覚、想像、想起させるため

はじめに隠喩の概念を明示することで、統一のある分析を行っており、なおかつ具体例を豊富に扱っているために、説得力のある魅力的な論文となっている。彼の分析は、批評文を書く際に行われている行為を整理することによって、批評実践の理解にも寄与していると言えるだろう。

だが、疑問もある。グラントがあげた例は、「行儀のよい隠喩」のみであるように思われる。その意味は時間をかければ理解できるし、あいまいさもそれほどみられないような隠喩である。わたしたちが当惑するとともに魅入られるような理解しがたい「不思議な隠喩」もある。これはたんに「行儀のよくない隠喩」なのだろうか。それともこうした隠喩でしか達成できないような目的があるのだろうか。それは、似ている性の指摘や、鑑賞がもたらす経験の指摘以上のものなのだろうか。このような芸術批評における「不思議な隠喩」が何を意図して用いられているのかについての分析が必要だろう。

*1:以下の似ている性、似させるものという訳は、フォーマルに訳せば「肖似性」、「肖似にするもの」とできるかもしれないし、隠喩に関する議論において定訳が他にあるのかもしれない。

*2:四つの例外が挙げられている。

  • ⑴似ていないことを示す場合。例:「人間は誰も島ではない」
  • ⑵似させるものの所有の仕方が複数の可能性の中でのある一つの仕方である場合。例:「サリーは氷の塊まりだ」においてサリーの情動的な無反応性がサリーに帰属させられている。無反応性は「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」だ。情動的な無反応性は無反応性ではある。しかし、情動的な無反応性はそれじたいでは「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」ではない
  • ⑶ある性質がある仮構の似ている性についての似させるものである場合。例:「バートはゴリラだ」において似させるものはバートの凶暴性であろう。しかしゴリラはそのように信じられてはいるものの、実際には凶暴性をもたない。
  • ⑷隠喩が隠喩の対象に対して、ある種Kについての似させるものを帰属させるが、その似させるもののF性は伝達しない場合。例:「カンディンスキーの絵画のフォルムはすべて動きとともに生き生きとしている」。このとき、「形が生き生きとしている性(あるK)をもつ」と指摘されているものの、その「生き生きとしている性をもたらす性質F性」については言及されていない。

    *3:たとえばスクルートンは、「この音楽は悲しい」という例を取り上げている。彼によれば、これは「彼女は悲しい」という表現と同じように、音楽を人格化して「音楽が悲しんでいる」ことを隠喩的に指摘しているのだとされる。しかし音楽は実際悲しんでなどいない。ゆえに「隠喩は作品にいかなる性質も帰属させてはいない」のであり、「そのように見える」という観点の主張に他ならないとした。しかしグラントによれば、「この音楽は悲しい」という表現が隠喩なのかがそもそも怪しい。この表現は「この音楽はわたしたちを「悲しくさせる」」という因果関係を指摘するものであって隠喩ではないと反論する。ゆえに、「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とする立場には疑問が残るとする。

    *4:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:St_Peter's_Square,_Vatican_City_-_April_2007.jpg#mw-jump-to-license

    *5:Clark, ‘Raphael: The Miraculous Draught of Fishes’, 64–65.

    *6:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:V&A_-_Raphael,_The_Miraculous_Draught_of_Fishes_(1515).jpg

  • ノエル・キャロル『批評について』

    『批評について』について

    アメリカはニューヨーク市立大学に勤めている著名な美学者ノエル・キャロルの著作『批評について』(邦訳:2017年 原著:2009年)は次のひとつの問いを問うています:「批評とは何か、そしてそれはどのようなものであるべきか」。

    批評とは何かを問う彼の意図は、同時代の批評家が作品への価値づけから撤退していることに異を唱え、価値づけに関わっていく批評の、そして批評家のありうべきあり方を説得的に示すことにあります。過剰なレトリックに頼ることなく、印象批判に陥らないよう注意しながら、前提にもとづいて主張し、予想される反論に対して応答し、さらに再反論とぶつかり合うことによって議論が進められ「批評とは、理由にもとづいた価値づけである」との主張が展開されます*1

    四つの主張

    キャロルは、批評について、四章にわたって、おおきく四つの主張を行なっています。

    一つ目は、批評とは理由にもとづいた価値づけであるという主張。批評とは、たんなる主観的な好き嫌いの表明ではなく、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析といった根拠を用いたある種の論証であり、その当否が議論できるような活動なのだということが主張されます。

    二つ目は、批評の対象は、芸術家の行為であるという主張。作者の意図に関係なく、作品が鑑賞者に与えた価値、すなわち「受容価値」ではなく、作者が意図をその作品やパフォーマンスにおいてどのように達成しているか、すなわち「成功価値」が批評において取り扱われるものであるとされます。

    三つ目に、価値づけのための理由を構築する記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析という六つの批評の要素があるとする主張。

    最後に、批評とは、客観性を伴った活動でありうるという主張。「蓼食う虫も好き好き」といった諺のように批評の原則は存在しないとする前提に挑戦し、絵画や映画といった芸術のカテゴリー、あるいはミステリやスラップスティック・コメディといったジャンルに基づいた客観的な批評がありうると主張します。また、芸術のカテゴリー間の比較………たとえばスラップスティック・コメディとクラシック音楽、システィナ礼拝堂と天才執事ジーヴス……の可能性を文化批評とも絡めながら議論しています。

    コメント

    批評家、アーティスト、理論研究、どんな立場から読んでも、各々の活動につながりうる有益なヒントと、じぶんが取り組むべき問題を引き出すことができるでしょう。また、本書で行われる議論のスタイル……主張を提示し、反論にカウンターを行い、相手の急所を突くなかで協同的に議論を洗練させてゆく……といった攻防はなかなかに魅せます。美や芸術といった、感性がものをいうと言われる世界に言葉と論証で切り込んでいく姿は頼もしく、その技を盗みたくなります*2。また、キャロルのあげる作品は多岐にわたり、さらに具体例も豊富で、彼の興味は作品から遊離した空理空論を組み立てることではなく、実践の捉え直しと整理整頓にあることが見てとられます。付言しておけば、本書では冒頭でかるく言及されるにとどまっているものの、美学や芸術の哲学においては、芸術の定義*3、それから芸術という概念の歴史*4について魅力的な論争が見られます。

    On Criticism (Thinking in Action)

    On Criticism (Thinking in Action)

     
    批評について: 芸術批評の哲学

    批評について: 芸術批評の哲学

     

    *1:原著で読みました。邦訳は訳注も充実しています(ちゃんと読みます)。

    *2:あと、相手をむやみに煽ることのない、落ち着いた言葉遣いも真似してみたいと思わされました。キャロルといい音楽哲学で著名なキヴィといい、この世代の方の英語はお洒落で好きですね。

    *3:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/09/30/170505

    *4:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/08/16/215904