Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

移民ユートピアを求めて:Aimee Bahng(エイミー・バン)『Migrant Futures(移民的未来)』の紹介

概要

金融投機や経済発展の物語に翻弄されるのではなく、そこから解放される道があると、サンフランシスコ州立大学のエイミー・バンは主張している。

バンは、People of colorの作家たちによるスペキュラティブ・フィクションこそが、新しい未来を切り拓く鍵なのだと説く。バンが『Migrant Futures』で分析するのは、1990年代以降に書かれた作品群だ。これらの作品は、SF的な設定を通して、植民地時代の負の遺産や、科学技術が生み出した負の側面を鋭く指摘している。そうすることで、近代の進歩的な神話に異を唱え、西洋中心主義を解体しようとしている。

Duke University Press - Migrant Futures

たとえば、カレン・テイ・ヤマシタの『熱帯雨林の彼方へ』は、フォード自動車がブラジルに造ろうとしたゴム農園の失敗を描いている。この作品から、環境破壊や人権侵害に満ちた企業活動の実態が浮かび上がってくる。

一方のナロ・ホプキンソン『真夜中の強盗』は、近未来の世界を舞台に、身体が変異したキャラクターたちの冒険を描き出し、生物学的な境界を越え、新しい「家族」のあり方を示唆している。これらのフィクション作品が描くのは、従来の発展の物語からは見えてこない世界。移民やPeople of color、クィア/トランスを生きる人々の生き様が、新しい未来観を提示している。

たしかに資本主義社会は日々、発展と成長を約束し、金融投機(financial speculation)で未来を商品化しようとする。しかしそこには、権力から追放された人々の視点が欠落している。

グローバル資本主義に翻弄されるなかで、未来を金融的に投機する=スペキュレイトするのではなく、フィクション空間の中で思弁する=スペキュレイトすること。バンが描くのは、別の賭け=スペキュレーションの可能性だ。

各章について

Chapter 1: インペリアル・ラバーの投機の流れ カレン・テイ・ヤマシタの熱帯雨林の未来

カレン・テイ・ヤマシタのフィクション『熱帯雨林の彼方へ』は、アマゾン熱帯雨林における歴史的かつ新植民地主義的な搾取、特にゴム採取に焦点を当てている。本章では、この作品とフォードの物語を通して、帝国主義、資本主義、環境・社会への影響を批判的に検証し、事実の歴史とスペキュレイティブな要素を交錯させ、開発と搾取の物語に挑戦する。

Chapter 2: 祖国の未来

本章では、スペキュレイティブ・フィクションと国境安全保障戦略の交錯を検討する。アメリカの国土安全保障省がSF作家と未来の脅威を想像するコラボレーションを行う中で、フィクションが軍事・治安戦略に与える影響が浮き彫りになる。メキシコとの国境での監視と治安強化を助長するこれらのシナリオを批判し、未来の国境の姿をめぐるメディアの描写を分析する。

Chapter 3: 投機と膣鏡

投機的経済と生殖技術のなかでPeople of colorの女性が被るインターセクショナルな苦境を扱う。代理出産や生殖労働のナラティブを通じて、商業的代理出産産業、特にグローバル南の女性の搾取が論じられる。ディストピア的未来の描写を批判し、生殖技術、帝国主義、資本主義に関わる言説を批判する。

Chapter 4: アジアの世紀の残酷な楽観主義

シンガポールや中国による太平洋での大規模な土地造成計画とその地政学的、経済的、環境的影響が考察される。シンガポールの変容と中国の南シナ海における領土主張の背後にある島々の開発に着目し、これらを「アジアの世紀」、投機的経済成長、アジア台頭に伴う周縁化された集団の課題といった広範なテーマと関連づける。

Chapter 5: ソルト・フィッシュ・フューチャーズ:照射された太平洋とヒトゲノム計画の金融化

太平洋での核実験の環境的・生物学的・社会政治的影響と、遺伝子研究の商品化を論じる。マーシャル諸島における米国の核実験の影響を検証し、遺伝学の金融化へのシフトを追う。ラリッサ・ライの「ソルトフィッシュガール」を手がかりに、新自由主義的未来主義を批判し、核実験と遺伝子実験の歴史的トラウマを認識した上での公正でインクルーシブな未来観を提示する。

エピローグ: 言説としての投機、豊穣としての思弁

サミュエル・ディレニーとミシェル・フーコーに基づき、言説が未来理解をいかに形作るかを探る。支配的パラダイムに挑戦し、特にマージナルな視点から別の未来を想像するSFの役割を強調する。ここでは、グローバル資本主義の枠組みを超え、関係性、経済、存在の在り方を新たに構想するSFの可能性が強調され、「移民的未来」は抵抗と創造性の実践として位置づけられている。

 

バーチャルYouTuberというフィクションをスポイルする鑑賞を愛していることについて

バーチャルYouTuberを視聴するとき、私がまなざす対象の一つは、そのアバターである。アバターが動いている。もう一つ、私が耳を向ける対象は声である。動画内の、あるいは歌声の。あるいはさらにしばしばバーチャルYouTuberはゲームプレイをしているので、ゲーム中のプレイアブルキャラクタたちもまた私の目を捉える。あるいは、配信を離れて、XやInstagramといったSNSのテキストを読む。

アバター、歌/声、プレイヤブルキャラクタ、テキスト。これら様々な現れと関わることで、私はバーチャルYouTuberを鑑賞していることになる。これらの現れを、私は「ペルソナ」と呼ぶ。

だが、私は、その先について何かを感じている。つまり、アバター、歌/声、プレイアブルキャラクタ、テキストの先にある何かに対して関心を向ける。その関心の先にある対象。

もちろん、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、その先に何の関心もない人がいるかもしれない。たとえば、哲学者の山野弘樹の論考をみると、山野はバーチャルYouTuberの先には関心がなさそうである。あくまでバーチャルYouTuberとは、それ自体独立した存在であり、独自の人生の物語を生きている、と考えているように思われる(山野 2022)。

たしかに、バーチャルYouTuberの先にある人の人生を考えないことが、バーチャルYouTuberの鑑賞にあたってもっとも適切だと道徳的に結論されるかもしれない。山野のような態度は、バーチャルYouTuberを鑑賞する、という態度として、文化内的にかなり適切な態度に私には思える。バーチャルYouTuberとして配信をする人々にとっても嬉しいだろう。

だが、そうした人々が大勢だとすれば、バーチャルYouTuberに対する誹謗中傷は起こり得ないし、彼らの実名やバーチャルYouTuberとしての労働を始める前の姿を暴こうとやっきになったりする人々はいないだろう。実際は、私たちは、バーチャルYouTuberの先の何かを気にかけ、愛し、憎んでいる。

こうしたバーチャルYouTuberの先の対象をパーソンと呼ぼう。パーソンとは、とりあえずは、バーチャルYouTuberの中の人と呼ばれるような、この世界に生きている、現実の人物であり、多くの場合に戸籍に登録されており、税金を払ったり、国民保険料を払ったり、食事をしたり、病気になったり、誰かに恋をしたり、しなかったり、バーチャルYouTuberとして労働し、その労働にときに苦しみ、喜び、あるいは趣味としてバーチャルYouTuberとして配信することを楽しんでいるような、私たちとよく似た人間である。

私は、バーチャルYouTuberの現れと同じくらい、その向こうのパーソンのことが気になっている。それも、彼らがバーチャルYouTuberとして配信をしたり動画を撮ったりSNSに投稿したりしている以外の瞬間のありようが気になっている。パーソンが事務所に所属している場合には労働者としてより適切な地位と労働条件で働けることを陰ながら願ったり、個人の趣味として生きたり、自分の様々なアイデンティティを試行する場としてバーチャルYouTuberという枠組みを利用していることを遠くから祝福したりするようなとき、私は、バーチャルYouTuberとしてのペルソナだけでなく、その向こうの、バーチャルYouTuberとして現れていないその人そのもの、パーソンのことを志向している。

私は、バーチャルYouTuberを「バーチャルYouTuberを見ている」というフィクション内においては、山野の言うような穏健な独立説で描かれるような、パーソンでもなく、キャラクタでもないような独立した存在者として眺めることは非常に適切であると考える。

しかし、私は、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、フィクション内にのみ留まって鑑賞することは、一つの鑑賞のあり方ではあるが、すべてを尽くすものではないだろうと考える。私が提示したいのは、山野のように、配信上のフィクションを支えている経験を明示化し、それを典型的なものとして描く言説ではない。

私が説明したいのは、人々が、バーチャルYouTuberに対して誹謗中傷をし、バーチャルYouTuberとして働く前の姿を暴こうとするような、バーチャルYouTuberを適切に鑑賞するわけではない、不適切で、不愉快で、下世話で、バーチャルYouTuberというフィクションを破壊するような、スポイル的鑑賞についてである。それは同時に、バーチャルYouTuberの労使関係を議論したり、労働について批判したりできるような、フィクションから漏れるようなバーチャルYouTuberとの関係性である。

そうした関係性を語りたいと思うのは、私がバーチャルYouTuberを単体で愛しているというよりは、バーチャルYouTuberを鑑賞するコミュニティの運動、うねり、情念に対して強く惹かれていることが主な理由だろう。そこには、少なからず性的欲求や、承認欲求や、商売っ気や、差別的な雰囲気が渦巻いており、その奇妙な情念のバザールに私は惹かれ続けている。そういうわけで、私はバーチャルYouTuberのファンではないだろう。バーチャルYouTuberのファンの愛好家といったところだろうか。

こうした態度になるのは、私が哲学者ではなく、美学者だからかもしれない(と言うと美学者仲間にそれは違う、と言われそうではある)。

参考文献

山野弘樹. (2022). 「バーチャル YouTuber」 とは誰を指し示すのか?. フィルカル: philosophy & culture: 分析哲学と文化をつなぐ, 7(2), 226-263.

ジュディス・バトラーのパフォーマティビティ概念とメタ/クィア批評の意味について

パフォーマティビティとは何か?

発語内行為や発語媒介行為を発語行為以外にも拡張可能だ。レイ・ラングトンが論じるポルノグラフィの言語行為論的分析は、画像提示内行為や画像提示媒介行為と理解できる(cf. Langton 1993)*1

一般化し「表現内行為」「表現媒介行為」を考えよう(難波 2019)*2

表現内行為、表現媒介行為は、もちろん、特定の状況で成功したり不発だったり効力を発揮しなかったりする。あるポルノグラフィを分析のために学術的に引用するとき、それがもし女性をモノ化する表現内行為/表現媒介行為を元の文脈で発揮できていたとしても、その力は剥ぎ取られうる。

特定のジェンダーを割り当てられた者が、それに反した割り当てを自らに行い、逸脱して振る舞い・おしゃれ・香りを漂わせるとき、それは確かにバトラーの言うようなタイプの「不適切な文脈での不発に終わる・効力のない表現内行為/表現媒介行為」を行為することができる。

それによって、「その当人がジェンダー割り当てを行う権威を持つべきだ」という表現内行為を成立させることはかなり多くの場合できるだろう。「抗議」「抵抗」「非難」といった行為だ。

しかし、その表現行為が周囲の人間に、当人が望んだような表現媒介行為を成立させるかどうかはかなり文脈と当人の行為次第である。たとえば、ジェンダー割り当ての権威を当人に与えるべきだと周囲が信じたり、当人をサポートしたり、集合的に行為し始めたりするかどうかは、時と場合による。

ゆえに、撹乱的な表現行為がどのような政治的帰結をもたらすかは、かなり具体的な状況によって変わる。すなわち、バトラー的なパフォーマンスが成立しても、それが社会を撹乱できているかどうかは具体的に分析する必要がある。たとえば、規範のどこに効いたのか、どういう信念を変容させたか。

クィア批評を分析する

クィア批評がある行為をパフォーマティビティを指摘することには意味がある。どのような表現内行為、表現媒介行為が行われているのかを辿ることは非常に価値がある。しかし、パフォーマティビティの存在が即社会の撹乱を実際に遂行したかどうかはつねに議論が必要なところになる。

クィア批評は、表現内行為、表現媒介行為が成功したか、どのように失敗したのかを分析することで、より政治的な運動に資するものになるように思われる。しかし、これはメタクィア批評的であり、クィア批評そのものが、表現内行為/表現媒介行為を遂行しようとしていることが多いだろう。

メタ/クィア批評を両方とも遂行することで、私たちは、バトラー的なパフォーマティビティの概念を、より社会批判に資するものとして活用できるだろう。その際には、オーソドックスなオースティンを始めとする言語行為論とその現在も活発に議論されている系譜を参照することが有益だろう。

つまり、クィア批評の目的は、少なくとも以下の三つである。

(1)異性愛規範や健常規範を始めとする、何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為をパフォーマンス、作品、歴史に見出し、どのように成功し、失敗しているかを特定すること。

(2)そのかなり広い意味での発語媒介行為がもたらした影響を特定すること。の2つがまず挙げられるだろう。
さらに、

(3)上記を遂行することで、クィア批評をするという行為自体が何らかのマイノリティ抑圧的な規範に対する何らかのかなり広い意味での発語内行為/発語媒介行為を成立させる。

以上のように整理すると、クィア批評がいったい何を目指しているのか、部分的にせよ、それを行っていない人にも伝わるように思われる。

参考文献

Langton, Rae, 1993,“ Speech Acts and Unspeakable Acts”, Philosophy and Public
Affairs, Vol. 22, No. 4, Fall.

Boucher, Geoff (2006). The politics of performativity: A critique of Judith Butler. Parrhesia 1:112-141.

*1:これは私が修論で論じた点である。

lichtung.hatenablog.com

*2:これについては以下のブログ記事が元になっている。

lichtung.hateblo.jp

「可能性の地平線:ニューロクィア理論に関する若干のメモ」を紹介する

日本ではそれほど十全に紹介されていないクリップ理論(身体的・認知的インペアメント、ディスアビリティの解釈、分析を通して、健常性規範に挑戦する枠組み)の中で、とりわけ、ニューロクィア(neuroqueer)という概念は、じわじわと、確実に広がっている。

そもそもクリップ理論のなかで、身体的なインペアメントやディスアビリティが注目されてきた、という歴史がある。そのなかで認知的インペアメント、ディスアビリティ、すなわち、自閉症ADHD、LDなどを始めとするあり様について人文学的、クィア理論的解釈はまだ十分に試みられているとは言えないようだ。

その中で、ニック・ウォーカーは認知的インペアメント、ディスアビリティの議論で頻出する「ニューロクィア」概念を提示した一人であり、Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities に収録の「可能性の地平線」というテクストの中で、、ニューロクィアという概念を紹介している。この概念は、クィア理論と神経多様性の交差点から生まれ、神経認知行動をめぐる社会規範に挑戦している。

本記事では、ニューロクィア概念についてこのテクストをまとめながらかんたんに紹介する。

Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities

https://amzn.to/3S55Ccy

書誌情報:Walker, A. 2021. Horizon of Possibility: Some Notes on Neuroqueer Theory. Neuroqueer Heresies, in Neuroqueer Heresies: Notes on the Neurodiversity Paradigm, Autistic Empowerment, and Postnormal Possibilities. Fort Worth, TX: Autonomous Press.

クィア理論とニューロクィア理論

ウォーカーは、ヘテロ規範に対するクィア理論の挑戦を、ニューロクィア理論がニューロ規範に投げかける挑戦と結びつけている。彼女は、ジェンダーセクシュアリティが固有のものではなく、社会的に構築されたパフォーマンスであるように、ニューロ認知的な行動もまた、社会的期待によって形成されたパフォーマンスとして理解することができると主張している。

もしジェンダーが特定の行為を習慣的に行うことによって維持されるのであれば、ヘテロ規範とヘテロ規範的なジェンダーの役割は、ヘテロ規範的なパフォーマンスから創造的に逸脱し、ヘテロ規範的なパフォーマンスとファックするような実践に携わることによって、破壊され、変容し、修正され、緩められ、逃れられ、そして/またはより流動的にすることができる。そのような実践に従事することは、一般的にクィアリングと呼ばれている。……後天的に身についた神経型パフォーマンスの習慣から自分を解放し、ニューロダイバージェンスを体現させる過程は、ニューロ規範をクィアリングする過程と言えるのかもしれない。(Walker 2021)

神経本質主義とその限界

彼女は、ニューロダイバーシティを厳格な二元論で捉えるニューロ本質主義を批判している。ウォーカーは、より包括的で流動的なアプローチを提案し、そこでは神経多様性は、自然と育ちの両方によって形成されたさまざまな経験を包含する。

実践とアイデンティティとしてのニューロクィア

ニューロクィアは動詞であり、そしてアイデンティティでもある。ニューロクィアリングに取り組むということは、神経規範的な行動から積極的に逸脱し、社会規範に挑戦することを意味する。ウォーカーは、「ニューロクィアとは、神経規範と異性愛規範の両方を積極的に破壊することである」と強調する。「ニューロクィアとは、規範的なパフォーマンスの要求に意図的に従わないことである」と。

ニューロクィアが何よりもまず動詞であることを強調し、破壊的で変容的な実践の創発的配列としてニューロクィアリングに焦点を当てる理由は、私の最優先事項が、創造性、幸福、そして美しい奇妙さに対する人間の潜在能力の育成であり、そのような潜在能力を実現に導く能力は、究極的にはアイデンティティのラベルの選択ではなく、実践の選択にかかっているからである。しかしもちろん、新しいアイデンティティや名前、ラベルを戦略的に採用すること自体が、変革的な実践として機能することもある。(Walker 2021)

パフォーマンスと素質

この理論は、神経的認知的行動における生得的要因の役割を認めると同時に、社会的条件付けの重要な影響を強調する。ウォーカーは、純粋な本質主義や社会構築主義的な見方に反対し、個人の独自性を認めるハイブリッドな理解を提唱する。

私のニューロクィア理論の概念に影響を与えている私自身の立場は、本質主義モデルも社会構築主義モデルも、それだけで捉えると過度に還元主義的だというものだ。私が好むのは、両方のモデルの要素を取り入れた、より複雑なハイブリッド理解であり、おそらく80%が社会構築主義、20%が本質主義といったところだろう。このハイブリッドな理解は、ジェンダーの役割やジェンダー・パフォーマンスのルールは社会的に構築され、植えつけられたものであるが、人間個々人もまた、多かれ少なかれ生まれつきの傾向や可能性(その人の性器の形や、いわゆる「生物学的性別」とはまったく関係のない傾向や可能性)を持っているという前提に基づいている。(Walker 2021)

ニューロクィアリングの実践

ウォーカーは、抑制された自閉症の手の動きを取り戻すなど、ニューロクィアリングの例を示す。彼は、このような実践が社会規範に対する反抗行為であるだけでなく、個人の信頼性と創造性への道でもあることを強調する。

自閉症者は生来、手を使って刺激を与える傾向がある。この刺激は、程度の差こそあれ、規範的な演技の規則に違反するさまざまな形をとることがある(例えば、手をばたつかせる、風になびく木の枝のように宙を舞う、空間のパターンをなぞる指の曲がりくねった動き、手や指をこすり合わせる、手や指が表面を探ったり、なでたり、たたいたりする)。
      
応用行動分析学(ABA)は、虐待的でトラウマを誘発する転換「療法」の一形態であり、神経多様性のある子どもたちに規範的なパフォーマンスを強制することを目的としている。ABAの加害者は、被害者の手をコントロールすること、特に手に関連する刺激を抑制することに、不気味なほど、時には執拗なまでに、大きな焦点を当てることが多い。このような文脈でABA実践者が「手を静かに!」という命令を使うことから、自閉症解放のスローガンのひとつとして「大声の手(loud hands)」というフレーズが採用されるようになった。ニューロダイヴァーシティのボディマインドを服従させるための戦争、そしてその服従に対するニューロクィアの抵抗において、私たちの手は、身体的・象徴的レベルの両方において、特に重要な争いの場となっている。(Walker 2021)

アイデンティティ・ポリティクスを超えて

ニューロクィア理論は伝統的なアイデンティティポリティクスを超え、アイデンティティを流動的でカスタマイズ可能なものとみなす。ニューロクィア理論では、神経的認知の出発点に関係なく、誰もがニューロクィアに関わることができるという考えを推進している。ウォーカーはこうまとめる。

ニューロクィアは、アイデンティティを流動的でカスタマイズ可能なものとして扱うだけでなく、根本的に包括的であることによっても、本質主義的なアイデンティティ政治を超越している。

結論

「可能性の地平線」は、ニューロクィア理論のレンズを通して、ニューロダイバーシティを受け入れ、ニューロノーマティビティに挑戦することを呼びかけるテクストだ。神経認知体験をより広く、より包括的に理解することを提唱し、社会規範を覆す実践に携わることを個人に促している。

ニューロクィアの理論と実践を理解し、それに参加しようとする人々のためのガイドとして、広く読まれることを望んでいる。最後にウォーカーの最後の文を引用して終わる。

神経規範と異性愛規範は、要するに、人間の可能性を人為的に制限するシステムである。その性質上、私たちの可能性を制限している。ニューロクィアとは、そうした制限に縛られることを拒否することである。強制的神経規範や強制的異性愛規範という制限的な慣習が存在するところには、何らかの方法でそれらの慣習をクィア化することによって、創造的な可能性の新たな地平を開く可能性も存在する。ニューロクィアの実践の可能な形態と地平は、事実上無限である。結局のところ、クローゼットの外の空間の広さは、クローゼットの中の空間の広さよりも常に無限に大きいのだ。(Walker 2021)

難波

人間の4つの実存方略――物語的自己、ゲーム的自己、おもちゃ的自己、ギャンブル的自己

人間の生き方には4種類ある*1

  1. 物語的自己:なんでも物語にしてしまう。「動機は?」「意味は?」「つながりは?」
  2. ゲーム的自己:なんでもゲームにしてしまう。「どっちが強い?」「いま効率的?」
  3. おもちゃ的自己:なんでもおもちゃにしてしまう。「どんな反応する?」「どう遊ぼう?」
  4. ギャンブル的自己:なんでもギャンブルにしてしまう。「どこまで賭けられる?」「何が起こる?」

§1

これまで哲学、特に倫理学では物語的自己(narrative self)の議論がなされてきた。その研究は分厚く、門外漢の私には触れ得ないほどにあるが、傍で見ているだけでも価値のある研究がなされ、物語的自己の分析が進んでいるように思われる。

しかし、物語的に自己を組み立て世界を理解している人は世の中にそんなにいない。なのに、物語的自己がここまで深く倫理学的に考察されているのはなぜか。それは、物語的自己の人とは、主に倫理学に関心のある人だからだ、と憶測する。

私はまったく物語的自己ではない。私は人の動機について考えたり、自分の動機について考えたり、自分の過去と現在のつながりをあまり考えたりしない。

物語的自己は、おそらく、近代において小説の誕生や書籍形式での物語小説の一般化によってメジャーになった近代的な自己了解であろう。物語的自己はレトロスペクティブな過去を編集する自己である。彼女のセルフケアは、セラピーである。哲学者で言えば、ウィリアムズ、テイラーであろう。

§2

現代は、ゲーム的自己の時代である。ゲーム的自己(gamic self)*2とは、「人生ハゲームデアル」というメタファーで生きている。周りの人と自分の達成を比べ、これからのキャリアアップを考え、自己の修練を欠かさず、目標に向かって最適な効率を見つけ出そうとする。

このメタファーは、しばしば成長物語の形式と組み合わせられる。ゲームというメタファーは「段階ごとの成長」という性質を人生に照射する(難波 2021)。例えば、『弱キャラ友崎くん』(屋久ユウキ著、ガガガ文庫講談社、2016年〜)という人気ライトノベルはゲーム的自己の物語である。主人公友崎はある時出会った「リア充」である日南葵からレッスンを受け、友崎は見た目や姿勢や喋り方を変えていく。「クラスメイトに話しかける」「何かを頼む」といったステップごとの課題をクリアしていく。あくまで人生は単線的でステージとレベルと成長の観点から捉えられる。

ゲーム的自己はプロスペクティブな未来に投企する自己である。彼女のセルフケアは、ストラテジー(未来への処方)である。哲学者は、カント、ヘア、アリストテレスマクダウェル大庭健ピーター・シンガーであろう。

§3

おもちゃ的自己(toyic self)は、自分をおもちゃとして考える。そして、他人に遊ばれることを喜ぶ*3

西村清和は『遊びの現象学』において「玩具の玩具性とは、遊びの隙、遊びの場所を遊び手に提供し、そこで、あるいはそれに即して、遊び関係が、遊動の同調の輪がひとつにむすばれるように遊び手にそそのかす、いわば「相即性」とでもいうべき存在性格にある」(西村 1989, 153)と主張する。

西村の言う遊びとは「ある特定の活動であるよりも、ひとつの関係であり、この関係に立つものの、ある独特のありかた、存在様態であり、存在状況である。それは、ものとわたしのあいだで、いずれが主体とも客体ともわかちがたく、つかずはなれずゆきつもどりつする遊動のパトス的関係である」とされ、「この独特の存在関係」が「遊戯関係」すなわち遊び関係とされる(ibid., 31-32)。おもちゃは意識を持たない。しかし、私たちは意識を持ったおもちゃでありえて、遊戯関係を生み出し、相手に遊びをそそのかすことができる。

おもちゃ的自己はもっとも古い自己である。それは古代の自己了解にみえる。おもちゃ的自己は現在的で、未来にも過去にも目を向けていない、祝祭的な自己である。おもちゃ的自己のセルフケアは、応答である。哲学者で言えば、ニーチェラッセル、グッドマン、ドゥルーズである。

§4

ギャンブル的自己(gambling self)は、自己を運に賭けることで、超越を目指す。自己破壊的な傾向があり、自己の意識流も賭けに負けた後と勝った後で分断される。蛹のような瞬間、つまり、組織化以前の世界に触れることを望んでいる。ギャンブル的自己はあまり見たことがない。該当する哲学者はスピノザパスカルパーフィットウィトゲンシュタインだろうか。あまり自信はない。

§5

これらのいずれも病理的ではない。私たちはこれらの4つの方略を組み合わせて自己の人生を理解可能なものにしている。しかし、次に述べるいずれかの「化」が行き過ぎると機能不全が発生する(これらの質問調査票をつくるのもおもしろそうである)。

§6

興味深いのは、これらは自己化であるが、他人化と対になっている。すなわち、

  1. 他人の物語化(フィクション化、Narrative-Other):物語のキャラクターとして他人をまなざす。精神分析的関わり。動機を問う。
  2. 他人のゲーム化(ルール化、Gamic-Other):NPCやプレイヤーとして他人をまなざす。業績的関わり。機能を問う。対戦相手(勝手にライバル視)。勝利のため、承認欲求の充足ために相手を使う。NPC
  3. 他人のおもちゃ化(Toyful-Other):おもちゃとして他人をまなざす。デュオニソス的関わり。遊びがいを問う。
  4. 他者ギャンブル|他者がそもそもいない

§7

これは性的モノ化をより詳細に分類することもできる。

  1. 性的物語化:独りよがりな妄想の投射。
  2. 性的ゲーム化:勝ち負けとしての性愛関係。
  3. 性的おもちゃ化:限定的な自律性しかもたない存在として扱う。
  4. 性的ギャンブル化:危険な性愛関係への投入。

§8

トイ・ストーリー』を4つの実存方略から分析してみよう。

  1. ウッディは最初「おもちゃとしての自分」をゲーム的・物語的にアイデンティティ形成している。しかし自分がおもちゃであること、実存的に不安定であることを知ってしまっている。
  2. そこにバズ・ライトイヤーが現れる。彼は実存の不安を持たない。強固に物語化・ゲーム化されている。おもちゃであることを知らない。
  3. ウッディはバズの登場でアイデンティティの危険を感じる。
    1.  道中のリトルグリーンメンは物語化の一形態である宗教化で守られている。
  4. バズ・ライトイヤーは実存の不安に直面する「私はおもちゃなのだ」。
  5. ウッディとバズは究極まで他人におもちゃ化されたシドのおもちゃたちに出会う。物語化もゲーム化も剥ぎ取られた存在者である。
  6. ウッディは「究極までおもちゃ化されることへの不正さ」も理解する
  7. 最後、ウッディは、おもちゃであること、つねに他のおもちゃの登場によって自己が脅かされることを受け入れる。
  8. ゲーム化、物語化、おもちゃ化の中庸にウッディとバズはそれぞれの割合でいったん落ち着く。

参考文献

Sicart, M. 2022. Playthings. Games and Culture, 17(1), 140-155.

Sicart, M. 2023. Playing Software. MIT press.

難波優輝. 2021. 「自己啓発するライトノベル弱キャラ友崎くん』とゲームとしての人生」Lichtung Criticism. https://lichtung.hateblo.jp/entry/2021/01/14/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8E%E5%BC%B1%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E5%8F%8B%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%80%8F.

西村清和. 1989. 『遊びの現象学勁草書房

*1:本稿は松永伸司、萬屋博喜との議論に多くを負っている。

*2:このような英語表現はあまり一般的ではなさそうだ。関連する概念を論じている論者がいればぜひ学びたい。

*3:ミゲル・シカールのおもちゃは流用をメインにしており、おもちゃ的自己のより細かい種であろう(Sicart 2022: 2023)。

Problems and Projects-ネルソン・グッドマン『問題と企画』目次

『問題と企画』(1972)は、米哲学者ネルソン・グッドマンによる論文集である。彼の『現象の構造』(1951)、『事実・虚構・予言』(1955)、『芸術の言語』(1968)に続いて、4冊目の出版物である。以前の著作を再録したり、著作で扱った問題を論じていたり、続く『世界制作の方法』(1978)における世界制作論の萌芽が見られたりする。全体としては、460ページほどあり、色々なトピックに関心のあるグッドマンらしい論文集の趣がある。邦訳は、何かしらの偶然が重なれば実現するだろう。しかし、グッドマンの読者はまだそれほど多くはないので、まずは読者を増やさなければならない。

インターネットに転がってはいなかったので、目次とその翻訳を載せておく。少しでも関心を惹いたなら幸いである。

ちなみに、各章には、それぞれの論文についての説明や発表当時の状況、他のグッドマンの論文へのリンクなどが記載されている。自著解説は往々にしてそうだが、グッドマンの哲学理解にわりあい役立つような内容になっている。

それを受けて、目次の訳のところで、難波の方でざっくりと内容を書いている。概ね適当なことを書いているので、つねに改訂される。

f:id:lichtung:20220224232931j:plain

『問題と企画』ネルソン・グッドマン

I 哲学

  1. 哲学の改訂
  2. 世界のありよう
  3. システム理論についての省察
  4. アームソンの『哲学的分析』のレビュー
  5. 哲学者としてのデカルト
  6. 定義とドグマ

グッドマンの哲学観を紹介するパート。2. は後の『世界制作の方法』を予感させる。特に5. 6. は、第二次大戦を終えた憂鬱な雰囲気があり、文章では軽快なダジャレばかりを言うグッドマンにしては意外な感じがする。

II 起源

  1. センスと確からし

  2. 認識論的議論

  3. 皇帝の新しいアイデア

  4. アームストロング『バークリーの視覚理論』レビュー

1. は『芸術の言語』で取り扱われるようなシンボル論の序章となる論文であるという意味で起源であり、前半二つは彼に先行する哲学者のレクチャーで、後半二つは彼の生徒であったノーム・チョムスキーについての批判をしているという意味で「起源」に関わる。

III 芸術

  1. 芸術と真正性

  2. 芸術と探求

  3. 手段としてのメリット

  4. 『芸術の言語』注記

  5. さらなる注記

  6. ゴンブリッチ『芸術と幻影』のレビュー

1. は『芸術の言語』からの再録。その他は、『芸術の言語』の注記や発展する話題など。

IV 個体

  1. 個体たちの世界
  2. 構成的唯名論へのステップ (W・V・クワインとの共著)
  3. 『現象の構造』改訂

グッドマンの分析哲学らしさのある個体(individual)についてのテクニカルな議論が詰まっている。私はグッドマン研究を行うつもりだが、まだ全然分からない。こわグッドマン。

V. 意味

  1. 時間の話

  2. 意味の類似性について

  3. 意味のいくつかの差異について

  4. 翻訳の疑似テストについて

1. は『現象の構造』のアレンジ版。意味について論じている。何を論じているか意味はよく分からない。

VI 関連性

  1. について
  2. 「について」の誤り

何かしら「A is about B」に関わるような話をしているようだが、私には今の所、何についての話をしているのか分からない。レベルを上げてから訪れるタイプのダンジョンだろう。

VII 単純さ

  1. 単純さのテスト
  2. 単純さ理論の近年の発展
  3. 凝縮化 対 単純化
  4. クレイグ「補助的表現の置換」レビュー
  5. 論理外公理の消去(W・V・クワインと共著)
  6. 安全さ、強さ、単純さ
  7. 科学と単純さ
  8. 統一性と単純さ

『世界制作の方法』でも重要概念として現れる「単純さ(simplicity)」についての議論がまとまっているもの。ここもテクニカルな議論がちらほらあり、恐怖を覚える。しかし、単純さは正しいバージョンの重要な要素のひとつなので、怖がってばかりもいられないだろう。

VIII 帰納

  1. 確証についての問い合わせ

  2. 確証説の欠点

  3. 帰納の新しい謎

  4. 投射可能性理論における改訂 (with Robert Schwartz and Israel Scheffler)

  5. 帰納的翻訳

  6. 『事実、虚構、予言』へのコメントへの応答

  7. ライヘンバッハ『記号論理の要素』レビュー

  8. 雪片とごみ箱

3. は『事実、虚構、予言』からの抜粋。愛される「グルーのパラドクス」に関わる話が目白押しである。リストの内容から予測すると、帰納について話しているようだが、私の予想が正しいのかは判明でない。

IX 類似性

  1. 無関心からの順序
  2. 類縁性への7つの非難

類似性(similarity)も、批判込みで、グッドマンの中で重要な位置を占める概念。確かワインバーグ『科学とモデル』で2. は引用されていた気がする。

X パズル

真実の語り手と嘘つき

実はグッドマンは論文を発表する以前に有名になっていた––––匿名で1931年に『ボストン・ポスト』に投稿したある論理パズルによって。中身を聴けば、「ああ、あれか!」となるようなタイプのパズルである。これを論文集の最後に収録するユーモアのセンスは、まさにグッドマンという感じである。

Ploblems and Projects, Nelson Goodman

Introduction

I Philosophy

  1. The Revision of Philosophy
  2. The Way the World Is
  3. Some Reflections on the Theory of Systems
  4. Reviews of Urmson’s Philosophical Analysis
  5. Descartes as Philosopher
  6. Definition and Dogma

II Origins

  1. Sense and Certainty
  2. The Epistemological Argument
  3. The Emperor’s New Ideas
  4. Reviews of Armstrong’s Berkeley’s Theory of Vision

III Art

  1. Art and Authenticity
  2. Art and Inquiry
  3. Merit as Means
  4. Some Notes on Languages of Art
  5. Further Notes
  6. Reviews of Gombrich’s Art and Illusion

IV Individuals

  1. A World of Individuals
  2. Steps Toward a Constructive Nominalism (with W. V. Quine)
  3. A Revision in The Structure of Appearance

V. Meaning

  1. Talk of Time
  2. On Likeness of Meaning
  3. On Some Differences about Meaning
  4. On a Pseude-Test of Translation

VI Relevance

  1. About
  2. “About” Mistaken

VII Simplicity

  1. The Test of Simplicity
  2. Recent Developments in the Theory of Simplicity
  3. Condensation versus Simplification
  4. Reviews of Craig’s “Replacement of Auxiliary Expressions”
  5. Elimination of Extralogical Postulates (with W. V. Quine)
  6. Safety, Strength, Simplicity
  7. Science and Simplicity
  8. Uniformity and Simplicity

VIII Induction

  1. A Query on Confirmation
  2. On Infirmities of Confirmation-Theory
  3. The New Riddle of Induction
  4. An Improvement in the Theory of Projectability (with Robert Schwartz and Israel Scheffler)
  5. Inductive Translation
  6. Replies to Comments on Fact, Fiction, and Forecast
  7. Review of Reichenbach’s Elements of Symbolic Logic
  8. Snowflakes and Wastebaskets

IX Likeness

  1. Order from Indifference
  2. Seven Strictures on Similarity

X Puzzle

The Truth-Tellers and the Liars

グッドマンの世界制作論とバージョンの衝突について+スタンフォード哲学百科の部分訳

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グッドマンの世界制作論について

米国哲学者、ネルソン・グッドマンの知名度は、哲学研究者、しかも、プラグマティズム研究者や分析哲学研究者以外(特に科学哲学と美学)にはものすごく低いだろう。

しかし、彼の「世界制作」論、それと関連する「記号システム」論は、わたしたちにさらなる高解像度の世界理解を可能にさせうるような、いまなお非常に魅力的な哲学的な世界理解であり、さらなる研究や紹介が待たれる。

ここでは、世界制作論のモチベーションを紹介しよう。グッドマンの主張は、世界はたくさんある、というものだ。どういうことだろう?

わたしたちの多くはこう考えているだろう。

👩🏻‍💼 わたしたち わたしたちの見ている世界はわたしたちのヒト種の感覚やものの見方によって切り取られた世界に過ぎない。犬やコウモリならそれはそれで別様の世界を見ている。ユクスキュルの「環世界論」然り。しかし、そうしたもろもろの世界の先には、本当に実在する世界=THE 実在があり、その世界に対して正しいか正しくないかでその世界理解の正確さが決まる。

そこからわたしたちは次のように喧嘩をすることができる。

👩🏽‍🔬 物理学者 わたしたちの見ている世界ではなく、物理学的な世界観こそがより真なる実在を描いている! 机などは存在せず、机上に並ぶ分子、いや、さらに細かい素粒子たちだけが存在するのだ!

💁‍♂️ 宗教家 わたしたちの見ている世界ではなく、〇〇教□□派の世界観こそが正しい! わたしたちは悪しきものに欺かれているのだが、信仰と直観により、わたしたちは新なる実在に近づける!

 👩🏿‍🏭 普通のヒト 物理学的な世界観でもある宗派の世界観でもなく、わたしたちの見ている常識的な世界観こそが正しい! わたしたちは常識的に見えている世界こそが世界の実在と対応している!

さて、誰が一番正しいのだろうか? たしかに物理学は学問として大成功しており、宇宙に行けるのもGPSも物理学の成果による。しかし、宗教的な直観もわたしたちは手放せない(腹痛のあの痛みの存在など、悪しき者の存在以外、何を考えられようか?)。そしてもちろん、机があろうがなかろうが、わたしたちは「机を運んで」と他の人に頼まざるをえない。

グッドマンが彼らと出会ったなら、「いや、みんなはそれぞれに正しさを持っているが、みんなの正しさの基準は間違っているよ」と言うだろう。

彼らはみな同じ思考に属する。それは、「真なる実在との一致による世界観の正しさ」という基準に。しかし、グッドマンはそれとは違う世界観の正しさについて論じる。それが「世界制作」論である。それがどういうものかというと……以下スタンフォード哲学百科の「ネルソン・グッドマン」の項の部分訳を紹介しよう。以下は次の訳である。

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

6.非実在論と世界制作

6.1 非実在

グッドマンは自らの立場を「非実在論(irrealism)」と名付けている。非実在論とは、ざっくり言えば、世界は諸々のバージョンに溶け込むという主張である。グッドマンの非実在論は、彼の哲学の中でも最も議論を呼ぶ部分であることは間違いない。

二つの議論の流れにグッドマンの著作を分けることができる(Dudau 2002)。第一に、グッドマンは、単一の世界のバージョン内では調停しきれない相反する言明が存在すると主張する。つまり、いくつかの真理は対立する(WW, 109-16; MM, 30-44)。もしそうだとすれば、矛盾する言明を調停し、真理の標準的な対応説(言明の真理は世界と対応していることである)と一致させるために、もしあるなら、多くの世界が必要となる。第二の主張は、多くの世界が必要なのであれば、世界〔そのもの〕は必要ないというものである。もし各バージョンに世界が必要なら、なぜバージョンを超えてさらに世界〔そのもの〕を仮定するのか。

まず、第一の議論について詳しくみてみよう。地球は静止している。かつ、太陽の周りを公転している。同時に複数の経路を同時に運動している。しかし、静止している間は何ものも動きはしない。グッドマンが認めるように、これに自然に対応するのは、次のような文章である。

(S1)地球は静止している。

(S2)地球は動いている。

は、次の省略形と理解すべきである。

(S1′)天動説によれば、地球は静止している。

(S2′)地動説によれば、地球は動いている。

しかし、グッドマンによれば、これは誤りである(WW, 112)。次の二つの歴史学的文章を考えてみよう。「スパルタの王たちは二票を持っていた」と「スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。最初の文はヘロドトスによる報告の一部であり、二番目の文はトゥキディデスによる報告の一部である。これらの文を次のような省略として理解したくなる。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」そして「トゥキディデスによれば、スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。しかし、明らかにこの後者の二つの文はスパルタについて何も語ってはいない。これらは、ヘロドトストゥキディデスがスパルタについて語ったことしか伝えてくれないのだ。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」というのは、たとえスパルタたちが実際には一票ももっていなかったとしても三票持っていたとしても、真である。地動説と天動説の相対化も同じだ。天動説によれば地球が静止しているのは事実だが、このことは世界についてわたしたちに何も知らせてはくれない。このように、(S1)と(S2)が両方とも正しいと仮定した場合、文字通り同じ一つの世界について正しいとすると、矛盾が生じることになる。もし、文字通り真ではなく、省略であり、暗黙のうちに相対化されているとするならば、どの世界についての真理でもない二つの真理が存在することになる。少なくとも、わたしたちが関心を寄せている世界の部分については、そうではないことになる。この二つの真理は、バージョンについての真理ではあるが、惑星たちについての真理ではないことが判明する。グッドマンが選んだ解決策は、この二つの真理は二つの異なる世界についての真理であると主張することだった。どちらもある世界についての文字通りの真理を述べているが、同じ世界についての真理ではないだけなのである。

グッドマンの議論にとって重要なのは、(S1)と(S2)の対立において、(a) 言明の間での実際の対立があり、かつ、(b) その対立を解決する他の方法(例えば、恣意的でないやり方で二つの発言の少なくとも一方を否定するなど)がない、ということである。もちろん、グッドマンと同時代のクワインやカルナップも、経験だけでは理論選択を決定することはできないという問題を考えていた。しかし、彼ら〔クワインとカルナップ〕は、プラグマティックな基準によって、長期的にはすべてを包含する一貫した一つの世界のバージョンに到達することができると信じていたのである。クワイン(Quine 1981)とカルナップ(Carnap 1932)の哲学では、これは物理的なバージョンであると仮定されている。しかし、グッドマンは物理主義的な還元主義を信じていない。まず、現在のところ、すべての真理が物理学に還元可能であるという説得力のある証拠はないだろうし(心的真理を物理的真理に還元する問題を考えればよい)、第二に、物理学自体が一貫した体系を形成しているとも思えないからだ(WW, 5)。それゆえ、グッドマンからすれば、わたしたちは、真だと考える世界のバージョンが相反することで行き詰まってしまうことになる。先に見たように、相対主義はグッドマンにとってオプションではない。なぜなら、相対主義は、真の記述をバージョンについてだけ真にすることになるからである。ここでわたしたちはグッドマンの多元主義に行き着く。相反する真なるバージョンは、別々の世界に対応しているのだというのだ。

グッドマンの著作に見られる第二の議論は、正しいバージョンが対応する世界は存在しない、あるいは少なくともそのような世界は必要ないという考えをもてあそぶものである。世界のバージョンで十分であり、とにかく直接アクセスできるものはそれしかないのだ。バージョンは多くの目的のために、世界として扱うことができる(WW, 4 and 96; cmp. MM, 30-33)。

グッドマンはもちろん、バージョンと世界の違いを認識している。バージョンは英語であり、語で構成されている。世界は英語でも語でも構成されてもいない。しかし、あるバージョンが世界に対して真であるためには、その世界は何らかの形でそれに対応していなければならない。例えば、(S1)に「対応する」世界とは、惑星と時空を持ち、惑星の一つである地球がその中で静止しているように配置された世界である。しかし、「惑星」「時空」「静止」などは、バージョンに依存した現実の分類方法である。これらの述語は、まさにこのバージョンで選ばれたものである。このバージョンが構築される以前には、これらの述語に対応して順序付けられた世界は存在しない。むしろ、そのバージョンが作られたときに、その構造を持つ世界が作られたからこそ、世界は(S1)で表現されるバージョンに対応するのである。

しかし、世界は何でできているのだろうか? 少なくとも、大文字の実在(Reality)は、生地がクッキーカッターで構造化できるように、別のバージョンで構造化できるような、ある種のものであると仮定すべきではないだろうか? わたしたちのバージョンが構造を投影するための、何らかの物質が必要ではないだろうか?グッドマンによれば、複数の世界が根底にある唯一の大文字の実在のバージョンでありうる、とする「寛容な実在論説」もまた、不要な追加に過ぎない。世界の根底にある実在は、構造化されておらず、中立的なものでなければならず、したがって何の役にも立たない。もし、互いに両立不能だが、等しく満足できる世界が多数存在するならば、「中立的な大文字の実在」が存在する余地はあまり残されていない。大文字の実在には、惑星も運動も時空も関係も点も構造もまったくないことになる。そのようなものがあると仮定することはできる、とグッドマンは認めているようだが、それは議論に値しない(あるいは、反対するにも値しない)。もし、根底にある大文字の実在のようなものを仮定せずに、世界の真なるバージョンと偽なるバージョンを見分け、かつ、あるものは真なるバージョンで、あるものは偽なるバージョンである理由を説明できるのなら、なぜそれを仮定するのだろうか。倹約性を考慮すれば、そうしたものを仮定することは控えるべきだろう。

6.2 世界制作

グッドマンは「あるとすれば、多くの世界がある」(MM, 127; MM, 31参照)と主張するが、グッドマンの世界を可能世界と混同してはならない。グッドマン世界には可能世界というものはまったく存在せず、すべて実際(actual)の世界である(WW, 94, 104; MM, 31)。世界は正しいバージョンに対応することによって「作られる」のであり、偽のバージョンに対応する(単に可能な)世界は存在しない。というのがグッドマンの見解である。ここで重要なのは、この見解が非合理主義やポストモダン思想家が好む空想的な文化相対主義には陥らないということである。真なるバージョンを作るのは簡単なことではない。驚くことではないが、実在論者にとっての真のバージョンを作ることよりも簡単ではない。どのようにして真なるバージョンを作るかは、どちらの説でも全く同じである。違いは、真のバージョンを作るときに何をするかという点だけである(議論は、WWとMcCormik 1996を参照)。

世界制作に対する制約は厳しい。わたしたちは、さっと物事を作ることはできない。述語は確立されていなければならず、以前のバージョンとの密接な連続性がなければならない。単純性は、わたしたちはゼロから新しいものを作らないようさせる、一貫性は、わたしたちが初期に持っている信憑性が高い信念と相反するものを作らないようさせる。さまざまな制約がある。

世界は、世界のバージョンを作ることによって作られる。だから、グッドマンによれば、世界のバージョンを作ることこそが理解されなければならないのである。すでに述べたようにカルナップの「アウフバウ」は世界のバージョンを提示しているし、〔グッドマンの著作〕『質の研究』や『現れの構造』のシステムも世界のバージョンであり、科学理論もそうである。天動説や地動説は比較的原始的な世界のバージョンであり、アインシュタイン一般相対性理論はより洗練された世界のバージョンである。しかし、世界のバージョンは形式的な言語で構成される必要はない。それどころか、形式的であれ非形式的であれ、言語である必要は全くない。例えば、絵画のような芸術で使われる記号システムも、世界制作のプロセスに利用することができる。哲学、科学、芸術のすべてが認識論的に重要であり、私たちの理解に貢献している。これらはすべて世界の創造を助けるのだ。

世界のバージョンを作るのは難しい。夥しい数のものを認めても、それが簡単になるわけではない。例えば、先人たちの問題を克服し、単純で、よく確立された述語を使い、あるいは新しい述語にうまく置き換え(これはさらに難しい)、有用な予測を可能にするような構成システムを作ることは大変な仕事である。グッドマンにとって、科学者、芸術家、哲学者は、この点で類似した問題に直面しているのである。

グッドマンの主張は、わたしたちが世界を作るのはそのバージョンを作るときであり、世界について語ることをバージョンについて語ることに置き換えたほうがよいというものだが、それが、真のバージョンを作ることは非常に難しいということを認めるだけでは解決しない問題を生み出している。バージョンを作ることと、そのバージョンが対象としているものを作ることは、明らかに異なる作業である。イズラエル・シェフラーが「グッドマンのすばらしい世界」の概要で書いているように。

グッドマンが駆り立てる世界制作というものは、つかみどころがない。世界は(真の)世界のバージョンと同定されるべきものなのか、それともむしろそのようなバージョンによって参照されるものを構成するものなのか。[『世界制作の方法』]の様々な箇所が一つの答えを示唆し、様々な箇所が別の答えを示唆している。バージョンが作られたものであることは容易に受け入れられるが、バージョンが参照するものが同様に作られたものであることは、私には受け入れられない。(Scheffler 1979, 618)

シェフラーは、グッドマンが「世界」と「世界制作」をバージョン的な意味と客観的な意味の両方で混同して使っていると論じている。先に述べたように、グッドマンの主張は、わたしたちはバージョンを作ることによって、客観的な意味での世界を作るというものである。この主張は、すべての真なるバージョンが対応する世界の唯一の構造は独立して存在するのではなく、むしろ、わたしたちの概念化によって、この構造を世界に投影するからこそ見出される、という彼の信念に基づいている。彼のお気に入りの例は、「北斗七星」として知られる星座である。確かに、わたしたちは任意の星の配置を一つ選び出し、それに名前をつけることで北斗七星を「作った」のである(より正確には、北斗七星はおおぐま座の一部なのだが、要旨は同じだ)。 北斗七星を構成する天体の配置は、純粋に慣習的なものであり、ゆえに我々の概念的なものでしかないのである。ヒラリー・パトナム(1992a)は、この考えは北斗七星についてはある程度妥当かもしれないが、例えば北斗七星を構成する星については当てはまらないことを示唆している。確かに、「星」は一部慣習的な境界を持つ概念であるが、「星」という概念が慣習的な要素を持つからといって、「星」を何に適応させるかは慣習の問題にはならない(したがって、単に世界のバージョン制作に関する問題である)。

(難波優輝訳)

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

つまりどういうことだろうか?

さて、以上、グッドマンの解説を紹介した。つまり、グッドマンは何を言いたいのだろうか?

まず、グッドマンは、真理の対応説、言明の真理は世界と対応していることである、を受け入れている、と解説されている(ここはちょっと調べておきたい)。

そうすると、世界が一つしかないと、互いのどちらかしか少なくとも真にはならないような言明が生まれることがある。しかし、このどちらもを真にしたくなる気分のときがある。これはわたしがよく使う例を紹介しよう。

ここに二枚の『モナ・リザ』がある。物理的組成はまったく同じであるとする。本当に同じである。しかし、片一方はレオナルド・ダ・ヴィンチがつくった確かに本物の『モナ・リザ』であり、もう一方は超高性能な複製技術による複製である。

ここであなたは二つの『モナ・リザ』のうちどちらかを買うことになった。あえて複製を買いたい人もいるかもしれないし、やはり本物を買いたい人もいるかもしれない。少なくとも、逆に本当にどちらでもいい、と思う人がいるかもしれない。

いずれにせよ、二つの『モナ・リザ』をほとんどの人はふつう区別したくなるのではなかろうか? (ならなくてもいいが)

しかし、もしあなたが物理学的語彙や概念でこの両者を区別せよ、と言われたら困るだろう。この二つの『モナ・リザ』をうまく区別する語彙や概念は物理学にはふつうなさそうだからだ。これは物理学的な世界観が間違っているというのではなく、物理学はふつう物理的組成はまったく同じ芸術作品の弁別には注意を払わないからだ。

逆にあなたが芸術について本当に何も知らず関心もない場合、「どっちも同じ」と言うかも知れない。そのときあなたはそれはそれで特殊な世界観に立っている。芸術に関心のある人の世界観では、明らかに両者の価値は驚くほど異なり、実際に両者は異なるものだとみなされるはずだ。

このように、物理学的な世界観、芸術にまったく関心のない世界観、芸術的な世界観のいずれが「真の実在に基づいて」より正しい、ということはなさそうだ。

これら3つの世界観、グッドマン的にはバージョンは、物事に対してどのような弁別をするか、何に注目するか、のあり方の違いを持つのみで、他の世界に対して別の世界が「真の実在に基づいて」より正しい、と言うことはできない。というか、言って何がおもしろいのか、というのが、より近い感覚かもしれない。

わたしたちは、物理学的な世界観も、芸術的な世界観も(そして時には芸術にはまったく関心のない世界観も)必要である。なぜなら、それぞれのバージョンはそれぞれの世界の理解をわたしたちに与えるからだ。

ゆえに、グッドマンは、「物理学的な世界よりも常識的な世界のほうが正しい」だとか、「物理学的な世界よりも芸術的な世界の方が正しい」などとも主張していないことに注意して欲しい。

しかし同時に、グッドマンが「どんな世界もなんでもありだよ」とも言っていないことも気をつけて欲しい。それぞれの世界のバージョンには、それぞれ簡潔性や一貫性などをどう担保するかの課題を持っており、世界のバージョンたちは日々切磋琢磨のうちに制作されているのだ。

バージョンタイプ間の衝突

これ以上はわたしのアイデアになってしまうが、例えば、道徳的なバージョンも存在する。そのとき、わたしたちは道徳的価値の増減やその種類に気を使う。こうした道徳的なバージョンからすれば、どのような道徳的なバージョンがより適切かが争われうる。功利主義か義務論か徳倫理か。美的なバージョンでも同じだ。言いたいことは、こうした規範的な価値に関わる世界のバージョンも無数に存在し、それらの同一のタイプのバージョン間でも議論が交わされていることを考えると、やはり、グッドマンの世界制作論は単純な相対主義に陥る必要がなくなってくる。

つまりこうなる

 🎨 バージョンタイプ:バージョンには、物理学的な世界のバージョンのような事実に係るようなバージョンと、道徳的な世界のバージョンのような規範に関わるバージョンがある。これらをバージョンタイプの違いから整理できる。

 🎨 規範的バージョン:道徳的価値をめぐるバージョンや美的価値をめぐるバージョン、その他規範的なものをめぐるバージョンがある。

より興味深いのは、道徳的なバージョンと美的なバージョンの対立があったときに、どのバージョンが提示する行為をわたしたちは選択するのか? という問いだ。これは微妙に明言化されていないが、わたしにとって非常に重要な問題だ。わたしたちはどのようにして、バージョンタイプ間の対立を調停するのだろうか? これは、抽象的な問題ではなく、わたしたちの人生において、たとえば、家庭での愛を優先するのか、芸術や仕事での達成を優先するのか、というのは、どのバージョンにコミットするのか、という選択にほかならないように思えるのだ。