Lichtung

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SFスタディーズ:コンパニオン・ハンドブックリスト

はじめに

SFスタディーズの英語文献のハンドブックやコンパニオンをリストにしています。じぶんの勉強用でもあり、また、SFを研究したいと思うひとの参考になれば。

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Seed, D. ed. 2008. A Companion to Science Fiction (Blackwell Companions to Literature and Culture Series). Wiley-Blackwell

  • 第一部:分野をサーベイする
  • 第二部:トピックと論争
  • 第三部:ジャンルと運動
  • 第四部:サイエンスフィクションと映画
  • 第五部:国際的なシーン
  • 第六部:キーとなる著者
  • 第七部:読解

632頁。メディアとしては、映画がとくに注目されている。他のコンパニオンにはみられない著者ごとの項目がある(ウェルズからグレッグ・イーガンまでの9人)。また、さいごに各作品の読解の項目がある。

James, E. and Mendlesohn, F. eds. 2003. The Cambridge Companion to Science Fiction (Cambridge Companions to Literature), Cambridge University Press.

The Cambridge Companion to Science Fiction (Cambridge Companions to Literature)

The Cambridge Companion to Science Fiction (Cambridge Companions to Literature)

  • 発売日: 2003/11/20
  • メディア: ペーパーバック
 
  • 第一部:歴史
  • 第二部:批評的アプローチ
  • 第三部:サブジャンルとテーマ

328頁。歴史の項目が目立つ。サブジャンルの項目が10項目、平均10頁ほどあり充実している。

Bould, M., Butler, A. M., Roberts, A. and Vint, S. eds. 2009. The Routledge Companion to Science Fiction (Routledge Literature Companions), Routledge

  • 第一部:歴史
  • 第二部:理論
  • 第三部:問題と挑戦
  • 第四部:サブジャンル

576頁。歴史の項では、小説としてのSFのみならず、テレビやマンガ、映画の歴史も論じられている。理論の項では、批評理論に限らず、ファンスタディーズなど幅広い。第三部は第二部と重なる部分もありそうだが、環境主義やアニマル・スタディーズ、音楽など、メディア論と交差する研究領域からのアプローチが見られる。サブジャンルでは、コンパクトな紹介で、どのような作品や歴史があるのかを概観できる。

Latham, R. ed. 2014. The Oxford Handbook of Science Fiction (Oxford Handbooks), OUP.

  • 第一部:ジャンルとしてのサイエンスフィクション
  • 第二部:メディウムとしてのサイエンスフィクション
  • 第三部:文化としてのサイエンスフィクション
  • 第四部:世界観としてのサイエンスフィクション

620頁。ブラックウェルのコンパニオンと並んで最大のもの。第一部のジャンルの紹介は、「市場」「文学運動」などが入り、ラウトリッジのやケンブリッジのものがより網羅的か。第二部の様々な表現形式についての紹介の網羅性と量は有用だろう。第三部、第四部は、サイエントロジーカウンターカルチャー、レトロフューチャリズムといった文化、そして、啓蒙思想ダーウィニズム、アフロフューチャリズムなど、世界観という切り口でひじょうに興味深い。

おわりに

SFスタディーズは、英米圏でかなりの発展を遂げているようだ。日本においてもゆたかなSF文化を整理し、諸外国に向けてアピールするひとつの経路としてアカデミックな回路は重要になるだろう。じぶんの専門は美学であり、じつのところSFスタディーズにおいては、それほど目立った研究領域ではなさそうに見える。逆に言えば研究しがいのあるアプローチだ。じぶんは美学と哲学のアプローチから、文学研究・映画研究・メディア研究・科学史を専攻しているひとびととともに日本におけるSFスタディーズを盛り上げていければと思う。

文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか

文学の哲学は、存在論、認識論、倫理学心の哲学、そして美学から、哲学的に文学を考察する研究ジャンルである。

物語とは何か、物語は人生の何を教えてくれるのか、作者とは誰か、詩的想像力とは何か、フィクションとは何か、詩の深遠さとは何か、キャラクタになぜ惹かれるのか、文学作品はどんな存在なのか、そして、文学とは何か。

本稿は、The Routledge Companion to Philosophy of Literature*1 を参照しながら、主に英米圏における文学の哲学の主要な32のトピックを紹介する。文学の哲学について関心のあるひとがさらに学びを深めるために、あるいは、美学や文学の研究者の方が研究の手がかりとするために役立てばと思う。計三万字強あるので、頭から読んでいただくのもうれしいが、気になるところからすきな順番で読んでもらえればと思う*2

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定義とジャンル

1. 文学の概念

・文学という表現形式は新聞や論文、メモとどう違うのだろうか。文学の概念によって引かれる文学とそうでないもののラインを見つけ出すことはできるのだろうか。たとえば、歴史は文学作品なのだろうか。哲学は文学に属するのだろうか。もし属するとしたら、それはどのような文学の概念で、それは、わたしたちの直観を拾うものなのか、有用な概念なのだろうか。つまり、あるものが文学という表現形式に属する条件はなんだろうか。

・文学という表現形式に属するとされる、小説、詩、戯曲、ポピュラーフィクションたちに、ことばを使った表現であること以外の共通する何かはあるのだろうか。

  • 文学の概念を考えることで、何が文学と呼ばれるのか、呼ぶべきなのか、文学という実践に組み込まれている価値観にはどのようなものがあるのか、何が文学ではないものとして排除され、その理由は何なのかを考える手がかりを得ることができるだろう。

【読書案内】

・ロバート・ステッカー、2013年『分析美学入門』森功次訳、勁草書房

分析美学入門

分析美学入門

 

・芸術の概念もまた、文学の概念に似て、音楽・絵画・文学・建築といった、どのような基準でまとめられているのかが考えてみればあいまいな基準によって様々な表現形式をまとめ上げる概念である。文学の概念を考える際には、芸術の概念を手がかりにすることもできる。とくに第五章「芸術とは何か」を参照のこと。

2. 小説

 ・小説は、同じ物語映画や物語的なアニメーションとはどう異なるのだろうか。これらは特定の物語、キャラクタ、パースペクティブなどを有している。だが、小説は、他の視覚的・音響的な表現形式とは異なり、形、色、運動や音楽をもたない。キャラクタの声は聞こえないし、身振りは見えない。すべては言語を介して述べられる。これは小説の鑑賞経験をどのように特徴づけているのだろうか。

・さらに、映像的物語においては、小説におけるようなはっきりした人称性の有無が問題になる。小説においては、一人称的な語りがふつうにありえるが、映像的物語において、こうした語りはナレーションの形で類似物を見出せるものの、すべての視点が一人称視点からの映像はかなり少数だろうし、それらはビデオカメラだったりして、小説の一人称視点に厳密に対応するような語りの視点を映像表現に見出すことは難しい。また、小説の一人称視点のみならず、三人称視点からも、ごくしぜんに、キャラクタたちの心理が言語的に表現されうる。こうした、語りのなめらかさから小説を再考することで、どのような小説ならではの特徴を見出せるだろうか。

・「文学理論」においてその典型例としては小説が扱われてきたと言える。だが、文学は詩、戯曲、口伝のお伽話をはじめ、様々な実践がある。なぜ小説が文学の典型とみなされがちなのだろうか。それにはどのような社会的・文化的・政治的背景があるのだろうか。

  • 文学において小説はその典型的な例として扱われてきた。だが、小説は、その物語的特徴、フィクションとしての特徴、印刷形態、鑑賞のされ方を含め、特殊な文学の一つである。文学一般からではなく、小説を小説として分析することは、思ったよりも様々な問いと課題が潜んでいるだろう。

【読書案内】

・小説の読書経験と、ビデオゲームのプレイ経験はどう違うのだろうか。比較できるはずがない? それでは、ビデオゲームのプレイ経験を小説に組み込もうとすれば、それはどのような鑑賞経験(読書-プレイ経験?)になるのだろうか。創元SF文庫における次のゲームSFアンソロジーはそのような新しい実験を行う小説たちを収録している。

・D・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編、2018年『スタートボタンを押してください』中原尚哉・古沢嘉通訳、早川書房

・Thomson‐Jones, K. (2009). Cinematic Narrators. Philosophy Compass, 4(2), 296-311. 

・映像の語り手についての議論のサーベイ。直接小説を扱っているわけではないが、同じ物語的表現形式の中での違いを語り手から考えることで様々な発見を行いうるだろう。

3. 詩

・詩とは何だろうか。それは定義できるのだろうか。短歌、俳句、自由律詩俳句、長歌、音楽の歌詞、シェイクスピアソネット。これらはまとめて詩と呼べるが、その共通性よりも多様性に目が向けられる。いったい、何かが詩である条件を、そして、詩以外はもたないような特徴を取り上げることはできるのだろうか。

・詩の翻訳からこぼれ落ちるものとは何だろうか。しばしば外国の詩の翻訳は、小説の翻訳よりも、より致命的に、何か重要な詩の表現の要素を取りこぼしてしまうと言われる。逆に、わたしたちが松尾芭蕉の俳句や詠い手たちの短歌の英語翻訳を読むとき、元の作品とはほとんど別物と言ってよい鑑賞経験を行うことがある。いったい詩の何が翻訳不可能なのか。

・詩の深遠さとは何だろうか。プラトンは『国家』において、詩人が正しい知識を伝達してはいないとして非難したとされ、ハイデガーは、後期になるにつれ、哲学と詩の結びつきを強調し、詩なのか哲学なのかそのどちらでもあるのか判別しがたい文字を残した。詩は他の表現形式よりもいっそう、不思議と真理や洞察と結びつけられる。それは勝手な神秘化に過ぎないのか。それとも、詩はほんとうに深遠なのか。

  • 詩の定義、翻訳不可能性、深遠さについて考えることは、詩のさらなる可能性、詩の特有の美的のみならず認知的な価値、その謎めいたあり方へと迫る手助けになる。詩の特徴について哲学的に、とくに明晰なことばづかいで迫ろうとする試みは、反-詩的で、滑稽にもみえる。だが、詩の難解さにうろたえたり、過度な神秘化を避けながら、詩をさらに味わい、ひとびとといっしょに語るためには意義のある試みである。

【読書案内】

・たとえば、つぎの笹井宏之の詩は、わたしに風景とわたしの自己のイメージの確かさへの触覚を研ぎ澄ましてくれる。

少しずつ海を覚えてゆくゆうべ  私という積み荷がほどかれる(134)

海が夕べに染まっていくのではない。夕べが、海にふれていく。藍色へと変わっていく。そして、私もまた、おそらくは船上の私もまた、夕べの大きな手に触れながら、その外形を夕べに浸し解かれていく。詩とふれることで、わたしもまた色を浸され、わたしの輪郭を確かめようとする。

・笹井宏之、2019年『えーえんとくちから』筑摩書房

えーえんとくちから (ちくま文庫)

えーえんとくちから (ちくま文庫)

  • 作者:笹井 宏之
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 文庫
 

・難波優輝、2019年「詩の哲学入門」 Lichtung 

第一に、定義論とその意義に触れ、第二に、翻訳不可能性、形式と内容の統一性について、第三に、詩における「わたし」とは誰なのかを考察し、第四に、真理と深遠さに関する議論を概観する。第五に、詩の哲学の意義をあらためてまとめ、さいごに、短歌、現代詩、歌詞といった詩と関係する様々な対象に関する研究の展望を述べている。

・Simecek, K. (2019). New directions for the philosophy of poetry. Philosophy Compass, 14(6), e12593.

こちらはまとまったサーベイ。議論の様も紹介していておすすめ。

4. 戯曲

・戯曲はそれじたいで文学作品でありうるのだろうか。アリストテレスによる悲劇論『詩学』において、悲劇はその演出を鑑賞することよりもそれを読むことが重視された。だが、この想定は適切なのだろうか。

・戯曲の価値は、その上演のよしあしによって決定されるのだろうか。もし『マクベス』のすべての上演がわたしたちのいる世界よりもより美的・芸術的にそれほどよくない上演しかない世界でも『マクベス』の価値はわたしたちの世界の『マクベス』と同じなのだろうか。

・戯曲と上演の関係は、楽譜と演奏の関係に似ている。だが、戯曲は多くのひとがそれじたいで読めるし、また、多くのひとにとって、楽譜と異なり、より作品に近いものに思える。戯曲と楽譜とはどのように異なるのだろうか。

・よい戯曲とは何だろうか。詳細なト書きや背景が書かれた戯曲がよい戯曲なのだろうか。戯曲というジャンルに属する作品は、小説や詩とは異なる価値の基準をもっているのだろうか。

【読書案内】

・Feagin, S. L. (2016). Reading Plays as Literature (pp. 185-197). The Routledge Companion to Philosophy of Literature. 戯曲の哲学についてのサーベイ

5. ポピュラーフィクション

・ハイアート、ローアートといった、「高級」 / 「低級」な表現という言い方はいったいどのような作品を指しており、それはどういう意味の区分なのか。

・高級な芸術と、ポピュラーな表現の間にはどのような価値の違いがありうるのだろうか。芸術作品はそれだけで何らの価値があるのだろうか、ポピュラーな表現はそれだけで何らかの価値に欠けているのだろうか。ポピュラー作品であることによって、いわゆるハイアートに属する芸術作品では達成できない価値を達成することもできるかもしれない。

・わたしたちは、結末が容易に予想できるようなロマンスや冒険の物語をなぜたのしめるのだろうか。たとえば、なろう小説やいくつかのライトノベルは、あらかじめ主人公とヒロインのハッピーエンドが約束されている(もちろん、とくに近年のライトノベルのいくつかでは、予定調和を逸脱するような挑戦的な作品を見出せる)。これは、ノエル・キャロルによって「ジャンクフィクションのパラドクス」と呼ばれている。このパラドクスを解くことはできるだろうか。

  • ポピュラーなものについて再考することは、「高級な」芸術対ポピュラー作品という区別を問い直すことにつながる。わたしたちは「高級な」作品はもちろん、しかし、機会と回数を考えると、ポピュラーな作品により多くふれている。そうしたわたしたちの日常にある作品を再考することは、わたしたちの美的なあり方を再興することにもつながるだろう。むろん、その近さゆえに、わたしたちはポピュラーな作品への批判的なまなざしを忘れてしまいがちである。だが、距離を離し、近くなかで、ポピュラーなものを通じても人文学的に価値のある試みがなされうるだろう。

【読書案内】

・Meskin, A. “Popular Fiction,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 117-126.

・松永伸司、2018年『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版。

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 

・文学作品ではないが、ポピュラー文化におけるビデオゲームという表現形式についての著作として、ポピュラーフィクションへのアプローチの事例として参考できる。伝統的な意味での芸術形式とはみなされない場合もあるようなビデオゲームという表現形式はなぜ芸術形式だと言えるのか、そして、ビデオゲームならではの特徴とはどのようなものか。ポピュラーフィクションもまた、芸術形式でありえるのか、それは他の芸術的だとされる文学作品とどのような異同をもつのか。

6. 映画脚本

 ・映画脚本は文学か。脚本は映画撮影のためのひとつの材料に過ぎないのか。

・よい脚本とは何だろうか。それは、それじたいで鑑賞することができるようなものなのだろうか。

・戯曲の哲学よりもさらに新しく、そして、様々な議論の発展可能性がある。

【読書案内】

・“Screenplays,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 127-136.

・映画脚本が文学でありうるかについての議論のイントロダクション。

7. 進化論的アプローチ

・なぜホモ・サピエンスは物語を語るのだろうか。それは何かしらの適応的な進化の副産物なのだろうか

・物語、お伽話、詩を語ることで、ホモ・サピエンスは様々な自然理解や社会的な制度や共同体を形成してきた。物語がホモ・サピエンスの適応度を上げたのだろうか。物語はひとびとに自然現象の理解を促し、神話によって共同体意識を発達させ、さらには、物語によって同じホモ・サピエンスの他者をよりよく理解できるようになったと言えるのだろうか。

・クジラが歌うように、鳥たちが歌うように、ホモ・サピエンスによる文学的活動は配偶者を求めて競争する性淘汰とどのようなしかたで関わるのだろうか。もし関わるのだとすれば、どのように他の生物種と異なった実践を行っているのだろうか。

・エボクリティシズム、進化批評の営みがある。進化論的心理学を参照しながら、様々な作品のキャラクタのふるまいを分析したり、解釈する批評である。これは一方で、進化によって獲得された心的なふるまいのあり方という一般的な心の理論から物語を分析するために、過度な一般化の批判を受けている。他方で、これまでの精神分析的批評、マルクス主義的といった様々な批評アプローチと並んで、あらたな文学作品の解釈の可能性を提示しうる。

  • 文学実践を生物としてのホモ・サピエンスの実践として捉えることは、わたしたちのあり方を他の生物種と比較したり、マクロなタイムスケールからわたしたちの歴史を再考することにつながる。いわゆる文系的な学問とみなされがちな文学の哲学は、しかし、哲学であることは科学を排除することをすぐさま帰結はしないだろう。わたしたちという、クジラたちや鳥たちと同じくらいユニークな生物種と物語、詩、言葉を用いた表現の独特な営みを分析することは「人文学」という呼び名にふさわしく、わたしたちの存在のあり方の理解を深めてくれるだろう。

【読書案内】

・Davies, S. (2014). Art and aesthetic behaviors as possible expressions of our biologically evolved human nature. Philosophy Compass, 9(6), 361-367. デイヴィスの短かなサーベイ

8. カノンと伝統

・「名作」とはいったい何だろうか。ある作品が名作であれば、自動的に、その作品は芸術的に優れていることになるのだろうか。名作と呼ばれているのに、芸術的に優れていない作品は存在しうるのだろうか。もしそうだとしたら、ある作品が「名作」と呼ばれるようになるプロセスは何らかの意味で不適切なものとされるのだろうか。

・「伝統」とは何だろうか。ある作品ジャンル、たとえば、SFの伝統に基づいて新しく著された作品は「革新的」だと言われたりする。このとき、伝統はSF作品の価値づけのための何らかの基準となっているように思える。しかし、それはなぜなのだろうか。

【読書案内】

Olsen, S. H. “Canon and Tradition,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 147-160.

谷川流、2003年『涼宮ハルヒの憂鬱角川書店

・「涼宮ハルヒ」シリーズは、過去のSF作品、推理小説、学園もの、ライトノベルへのオマージュに満ちた、ある意味で伝統を意識した小説であり、他方で、この作品じたいがライトノベルのひとつのカノンとなっている。わたしたちはいまでも「涼宮ハルヒ」シリーズをひとつのランドマークとしてライトノベルを評価しているのだろうか。それとも、この作品は、有名ではあるが、現在のライトノベルの評価軸としては異質なものとなった作品なのだろうか。

美学

9. 文学的創造性

・創造性とは何か。しばしば、文学的創造性は(1)新しさ、(2)価値の二つの結びつきから特徴づけられる。創造性とはどのような意味なのだろうか。まったく新しい作品でなければ創造的ではないのだろうか。それとも、組み合わせに創造性を見出せるのだろうか。ある作品が創造的であると言ったり、そうでないと言ったりしているとき、わたしたちは何をしているのだろうか。
・創造性は、伝統との関わりからも議論される。ある作品が創造的であるのは、まったくの無からではなく、様々な表現の蓄積からの距離の取り方によってそうである、という指摘は、重要な何かを言い表しているようにも思える。あるジャンルの「カノン」、規範的であり、そのジャンルのよさの物差しを与えるような作品と、創造的な作品とはどのような関係を結んでいるのだろうか。
・天才、狂気、精神障害と創造性はしばしば関連づけられる。創造性は、一方でそのひとの傾向性や創造的徳として特徴づけられるが、他方で、創造性は、道徳的徳とは相反するものでもありうる。創造性は、わたしたちの美徳と悪徳とどんなふうに関わっているのだろうか。

人工知能がつくりだすさまざまな物語は、異様な展開と奇妙な味わいをもっている。それらは創造的なのだろうか。それとも、創造性は、わたしたちのような生物にしか発揮できないようなものなのだろうか。
・創造性とは、そもそもそれ自体で価値があるものなのだろうか。創造性は芸術的価値とどう関わるのか。創造性のない芸術作品は芸術的価値を失ってしまうのだろうか。

  • 創造性がどのような価値を持つのか、それがわたしたちの病いや生とどう関わるのかを考えることで、わたしたちが自然と重きをおいている創造性の概念が社会において担っている役割を再考する機会をもたらす。人工的な知能が発展した先に、創造性は人間のものではなくなるのか。それとも、わたしたちだけが創造性を占有し続けられるのか。創造性の概念を考えることは、案外にわたしたちじしんの価値を問うことにもつながる。

【読書案内】
・Gaut, B. (2010). The philosophy of creativity. Philosophy Compass, 5(12), 1034-1046.

ベリズ・ガウトによる「創造性」のサーベイ論文。

10. 作者性と作者

・ある文学作品の作者とは誰か。ふつうはそれを書いたある特定のひとである。だが、編集者と作家の緊密なやりとりは珍しくない。だとすれば、ある作品の生産に因果的に関わった者たちではなく、書き手だけが作者になるのはなぜだろうか。

・作者は死んだ、と言われる。もちろん、作品の書き手は死んでいない(寿命や病気や不慮の事故や自裁によって死んでいくが)。ここで死んだとされるのは「作者機能」と呼べるような、ある作品と関わって、作品の解釈に意図によって規律を与えたり、経済-法的システムの中で印税を獲得し、著作権をもつ、ブルジョワイデオロギーが構築した作者機能である。だが、そもそも、西洋に限ってもギリシア、ローマの頃から、作者機能は存在し、現在とよく似た仕方で作者には経済的-法的な利益や権利が与えられていたともされる。ならば、作者はつねに生き続けて来たのであり、また、まだ死なないのではないか。

・日本SF史に『虐殺器官』『ハーモニー』を残した伊藤計劃は、癌によって早世した。とくに『ハーモニー』において、健康によって世界が覆われ、窒息していく世界に争うキャラクタたちが描かれる。わたしたちは、伊藤のあり方と物語との結びつけて語ることができる。だが、病に苦しんだ作者の書いた病に関する物語は、作者に結びつけて鑑賞されるべきなのか。それとも、作者と作品とは切り離して鑑賞され、鑑賞されるべきなのか。

・とくに、詩において、日本においては短歌や俳句において、作品のなかの「わたし」と作者とは深い結びつきをもって扱われてきた。それは短歌においてしばしば議論される「私性(わたくしせい)」ということばからもみて取れる。作者と作品はどのような関係をもつのだろうか。

  • 作者について語ることはもはや古くなった話題、ではない。わたしたちはどうしても作者について語らざるをえず、ならば、どのように語っているのかを再考することからはじめなければならない。たとえそれが亡霊であったとしても、それがある限りわたしたちは語れるし、語る価値はいまだに秘められている。

【読書案内】

伊藤計劃、2010年『ハーモニー』早川書房

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:伊藤計劃
  • 発売日: 2014/08/08
  • メディア: 文庫
 

・ひとびとはどこまでも健康であれるユートピアで生きている。そのなかで、窒息する優しさに満ちた社会に対して餓死してみせることで抵抗を試みた三人の少女。生き残った少女霧慧トァンは、突然自殺するひとびとが連続した事件を追ううちに、死んだはずの友人の影をみる。健康であること、幸福であること、人間の自由意志をめぐる物語。

・Lamarque, P. (1990). The death of the author: An analytical autopsy. The British Journal of Aesthetics, 30(4), 319-331. 作者の死についてのバルトやフーコーらの言説を分析し、それが整合的には理解しにくい部分があることを検証する。

・Livingston, P. (2016). Authorship. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature, 174-183. Routledge. 作者の機能と作者概念の分析と提案を行う。

・Holliday, J. (2018). Emotional Intimacy in Literature BSA Prize Essay, 2016. The British Journal of Aesthetics, 58(1), 1-16.

・上記二つが作者の機能の外形を議論しているとすれば、こちらは解釈や批評に関わるような作者とのわたしたちの結びつきを論じている。英国美学雑誌の2016年の英国美学雑誌賞を受賞。

11. 情動の表出

・文学作品において表出されている情動は誰の情動なのだろうか。ロマン主義的な見方では、文学作品を通じて読者は作者の情動にふれ、ときには深い情動的なつながりを覚えられるとされる。だが、文学作品の作者はそれが物語であれ、詩であれ、じぶんが思っていないことを書くことはできるし、独特な意味で読者を「裏切る」、たとえば、繊細な物語の書き手が驚くほど粗雑な性格をしていたり、はちゃめちゃな物語の書き手が、ひじょうに物腰の柔らかい人間であったりする。他方で、文学作品は「真摯な」表現でありうる。読者であるわたしたちは様々なキャラクタ、語り、物語、ことばの選択のひとつひとつに作者の細かなこだわりや横顔や世界へのまなざしを確かに見出したことがある。文学作品と作者の情動の関係はどのようなものなのだろうか。

  • 文学作品の表出は、分析美学における画像の表出、音楽の表出と並び、様々な表象や表現が情動を提示できるという興味深いあり方の議論と結びついている。加えて、文学作品においてはいっそう、作者と作品との情動的つながりが、そして、読者と作者の「真正な」つながりが重視されてきた。こうした実践をたんにロマン主義的なものと葬ることも、また、自明のものとして受け入れることも、文学作品の情動をめぐる謎に真に驚くことを忘れてしまう身振りだ。わたしたちは文学作品との情動的つながりを経験を捨てることなく、その構造を分析することで、文学についてさらによりよく理解できるようになるだろう。

【読書案内】

・ロバート・ステッカー、2013年『分析美学入門』森功次訳、勁草書房。第10章「音楽・詩における表現性」。

・源河亨、2019年『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学慶應技術大学出版。

悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学

悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学

  • 作者:源河 亨
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 単行本
 

・音楽についてではあるが、最先端の情動と表出に関する議論を行っており、議論のひとつのあり方としてひじょうに参考になる。

・Matravers, D. (2007). Musical expressiveness. Philosophy Compass, 2(3), 373-379. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2007.00078.x?casa_token=HqzxobLsoEYAAAAA%3AtLWYYtoPm_2FBI5iwKen1ZcrVNbKg5bmDaAT9zTsFfdHeNfxaGklmF2FDXnpHkeN7ELJMqlp2OQSNBoufQ

・音楽の情動表出についての議論のまとめ。

12. 文学的様式・スタイル

・ある文学作品が属する様式とは何か。たとえば「小説家になろう」というweb小説投稿サイトは、ラブコメディ、SF、異世界ファンタジーといった様々なジャンルを含みつつ、やはり「なろう系」というよく呼ばれる呼び名で示されるような、何らかの文体的特徴、キャラクタの造形、物語的構造において「なろう様式」とでも呼べるような共通した特徴をもっているように思える。同時に、なろう系にも様々なバリエーションがあり、それらは一見したところ以上の相互参照によって独特の様式のネットワークを形づくっている。文学的様式概念はこうした独立した作品ではなく、作品群がつくりだすスタイルをとらえるのに役立つかもしれない。

・他方で、ある個別的な作品や作品群が、特定の作者のスタイルを示す、と呼ばれることがある。言い換えれば、作品には何らかの「作者らしさ」が見出されることがよくある。これらはまず文体的特徴であったり、物語の構造的特徴であったりするが、さらに、そのスタイルが「発展」したりすることが価値づけられたり、これまでの作者のスタイルをがらりと変える作品が「挑戦的」と評価されたりする。こうした個別的なスタイルの概念でわたしたちが評価する独特な「スタイル」という何かをうまく捉えられるかもしれない。

  • 個人にとどまらない文学作品の実践に関する一般的な様式、そして、個人の時間的変化も含めた個別的スタイル、これらの概念がどれほどわたしたちの文学的実践の分析に用いられるのか、そこからこれらの概念についての考察を行うことも重要だろう。また、実際に、わたしたちは「なろう系」「セカイ系」といったおそらくは様式的概念を用いている。こうした営みをさらに詳細にどのように分析できるのか、様式概念の可能性はまだ完全には明らかにはなっていないだろう。

【読書案内】
・Robinson, J. M. (1985). Style and personality in the literary work. The Philosophical Review, 94(2), 227-247. https://www.jstor.org/stable/2185429

・クラシックとなったジェニファー・ロビンソンの論文。いまなお読むとおもしろい。

・松永伸司、2020年「様式とは何か」9bit. . 様式概念のコアを掴むならこのブログ記事を読むとよい。

・松永伸司、2020年「ピクセルアートの美学 第2回 ピクセルアートと様式」『メディア芸術カレントコンテンツ』

・様式概念を使って、ピクセルアートを考えられるよ。という様式概念を実際に使ってみる論考。
・難波優輝、2019年「おしゃれの美学––––パフォーマンスとスタイル」『vanitas 006』138-156. アダチプレス。

vanitas No. 006

vanitas No. 006

  • 発売日: 2019/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・ジャンルや集団の様式ではなく、あるひと個人の様式としての個別的スタイルを工学することで「おしゃれ」という美的行為を概念工学してみる論文。

秋山瑞人、2000年『猫の地球儀メディアワークス

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

 

秋山瑞人は、その特異な文体と何かに賭ける存在者たち(人間のみならず、機械、そして、猫)を描き続けることで、ライトノベルジャンルのなかで特異な位置にあり続けている。猫たちが剣呑なロボットたちとともに暮らし、ギャングや宗教的な強権が入り混じるトルク世界ではるか宇宙の向こうにあるという「地球儀」と呼ばれる場所を目がける「スカイウォーカー」たる猫と、最強を目指すべつの猫とのそれぞれの人生のプロジェクトを賭けた物語。本作もまた、秋山らしい文体が書き連なり、キャラクタたちの行動原理が描かれる。秋山のスタイルとはどのような特徴を持っているのだろうか。それは彼の作品の価値とどう関わっているのだろうか。

13. テーマ

・ある作品のテーマとは何か。それは物語のトピックでもなく、結末でもなく、常に明確に書かれているわけでもない。だとすれば、作品のテーマとはどこに見出せるどのような対象なのだろうか。

・『源氏物語』を貫くテーマ、『罪と罰』を流れるテーマ。これらのテーマを指摘することは、物語の理解やより深い鑑賞とどう関わっているのだろうか。わたしたちは作品のテーマをなぜ考えなければならないのだろうか。

・テーマを考えることは、便利な解釈や批評のツールとして役立つ。ある作品のテーマを仮に設定することで、その作品を読見直す指針を与えたり、価値づけの基準となったりする。それ以外に、作品のテーマを考えることに意義があるのだろうか。

【読書案内】

・廣野由美子、2005年『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』中央公論社

・『フランケンシュタイン』を取り上げ、様々な批評理論から、テーマを取り出し批評理論的批評を例示する。そのテーマの切り口の可能性の広さに驚きとともに、文学批評の解釈の多元性に気づくことができる。

14. キャラクタと性格

キャラクタをめぐっては、大きく三つの議論ができる。

  1. 性格とは何か
  2. 小説における / 虚構的キャラクタとは何か
  3. キャラクタの価値 

・第一に、キャラクタのもう一つの意味である「性格」にはさまざまな謎が見出される。性格は、一般に、最小限の仕方では、ある特定の人間の心的な一定の傾向性と特徴づけられる。まず、こうした傾向性とはそもそも存在するのだろうか。わたしたちは、日々、さまざまな欲求をもち、情動や気分のうちに生きて、異なるひとびとと付き合う。職場では鬼のようなひとも、友人のあいだでは気さくな笑顔を見せたり、去年はあれほどふさぎ込んでいた知人は、今やすっかり明るく活動的になった。じぶんじしんを振り返っても、性格が変わらないことはなかっただろうし、ときに劇的な変化を起こすこともないわけではない。わたしたちの傾向的なあり方が状況、情動によってさまざまに変化しうるのだとしたら、一定の傾向性はあるのだろうか。性格をどのように判断できるのか。よい性格とわるい性格とは? なぜ特定の性格を好み、他を好まないのか?
・第二に、虚構的なキャラクタとは何か。それは、どのような存在なのか、そして、わたしたちはそれらとどのように関わるのか。まず、キャラクタは、水やコップと同じようには存在していない。それらは具体的な場所をふつうもたない。たとえフィギュアがあったとしても、そのフィギュアを「キャラクタそのものだ」と言うひとはそれほど多くはないだろう(もちろん、そう言うことは可能だし、完全に不合理ではない)。こうした「キャラクタの存在論」は分析哲学において問われ続け、今なおその議論は続いている。そして、キャラクタとわたしたちはどう違うのだろうか? キャラクタはわたしたちとどのような関係を結びうるのだろうか。
・第三に、第一の論点と関係して、もし性格があやふやなものだとしたら、キャラクタを用いる物語とは、はっきりとは存在しないものを用いているために、世界のあり方を正しく表してはいない、という問題をもつかもしれない。その著しい場合であれば、ハリウッド映画やポピュラー文化において、戯画化された性格をもった「黒人」「女性」「同性愛者」が描かれ、人種・ジェンダーセクシャリティに関する差別的なステレオタイプを再生産する装置として物語が機能する可能性もあるし、こうしたキャラクタたちの一面的で偏見に満ちた描かれ方は批判の対象となる。わたしたちは、キャラクタの性格をどうやって描くべきだろうか。そして、ほんとうに「リアルな」性格とは何なのだろうか? キャラクタの認知的、美的、倫理的価値が問われうる。関連して、キャラクタへの共感や同情とはどのようなもので、どのようにしてなされるのかが問われうる。この点については次の項目も参照のこと。

【読書案内】
・第二のキャラクタの存在論については、次の倉田の著作が参考になる。
・倉田剛、2019年『日常世界の哲学––––存在論からのアプローチ』光文社。

・第6章「キャラクターの存在と同一性」が二次創作も含めどこまでがキャラクタなのかを論じている。関連して、同じ著者の次の著作にあるさまざまな存在論との関わりの内での議論は、より学びたいときには勧められる:

・倉田剛、2017年『現代存在論講義』I・II巻。とくに第I巻の第二講義第三節「非クワイン的なメタ存在論」、第II巻の第四講義「虚構的対象」。

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・草野原々、2019年『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房。キャラクタの哲学の三つの論点を重ねつつ「キャラクタとは何か」という問いをめぐって展開する小説。わたしは解説「キャラクタの前で」を掲載している。難波優輝、2019年「キャラクタの前で」

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:草野 原々
  • 発売日: 2019/12/19
  • メディア: 文庫
 

・キャラクタ以外に焦点を当てた批評はこちらに掲載している。

・難波優輝、2020年「草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズと絶滅の意志』」Lichtung Criticism,

・また、アニメーションにおいて、キャラクタの居場所、その表現の可能性を問うている大内りえ子作品についての批評を書いている
・難波優輝、2019年「向こうのないわたし(たち)––––大内りえ子の思索するアニメーション」tampen.jp.
・加えて、キャラクタとアイドルや配信者の「キャラクタ」との微妙な重なりを用いた文化に「バーチャルYouTuber」文化がある。
・難波優輝、2018年「バーチャルYouTuberの三つの身体––––パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』特集=バーチャルYouTuber青土社

・難波優輝、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism.

15. 情動的エンゲージメント

・キャラクタは、わたしたちの心を奪い、尊敬や思慕を集め、ときに熱狂的に「キャラクタに恋をする」こともできる。これらはおかしなことではない。だが、なぜキャラクタに恋できるのか、深い情動的つながりを感じうるのか。

・キャラクタがわたしたちとつくる情動的なつながり=情動的エンゲージメントをうまくデザインする方法はあるのか。あるとすれば、それはジャンルごとに同じなのか、違うのか。具体的にどのようにすれば、キャラクタへの共感や同情をうまく惹き起こせるのか。

・なぜ現実では到底共感できないような殺人鬼や悪党にさえ、わたしたちは深い共感や同情を行いうるのか。

【読書案内】
・難波優輝、2019年「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学––––配信のシステムとデザイン」『ヱクリヲ vo. 10』44-64. ヱクリヲ編集部.

バーチャルYouTuberというキャラクタ文化とアイドル文化の重なった文化は視聴者からの情動的エンゲージメント高め、深化させることで、人気を、そして投げ銭などで収益を得る。そうした情動的エンゲージメントがどのようにデザインされているかを配信の構造やバーチャルYouTuberの構造から分析している。

・難波優輝、2020年「ゲームプレイ / ヤの美学––––プレイ、プレイヤ、ペルソナ」Replaying Japan Vol.2. 

近日ウェブで公開。ゲーム実況における、プレイヤ、そしてプレイヤが操るキャラクタとの情動的な関わりについて議論している。

・ふたたび、草野原々、2019年『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房

16. フィクションのパラドクス

・なぜ存在しないものに様々な情動を抱くことができるのだろうか。それは不合理ではないか。たとえば、わたしたちが友人から心が痛むような話をされた後「実は嘘だったんだ」と言われたなら、これまでの情動は一挙に消えてしまう。また、ほんとうにフィクションに恐怖を抱いていたら、映画館から逃げ出すのが合理的だが、そんなことはしない。わたしたちは存在しないと分かっているものに涙を流し、恐怖できる。だが、それはいかにしてか?

・より明確な形でフィクションのパラドクスの一定式化が行える。すなわち、

  1. フィクションだと分かっている虚構のキャラクタや状況に情動を抱く。
  2. 対象に対する情動は、論理的には、その対象の存在とその対象の特徴に対する信念を前提とする。
  3. 虚構であるとわかっているものの存在や特徴についての信念はもたない。

これらはそれぞれは正しそうだが、三つともは成り立たない。たとえば、(2)情動は信念を前提とする、(3)虚構に信念をもたない、は(1)虚構に情動を抱く、と相容れない。どれを否定したものか、という議論がある。

【読書案内】

戸田山和久、2016年『恐怖の哲学』筑摩書房

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

 

森功次、2010年「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」『美学藝術学研究』(29), 43-83.

松本大輝、2015年「フィクション鑑賞における情動のパラドクス––––シミュレーション説による解決の検討––––」『哲学の探究』42, 61-80. http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/42/42_04_matsumoto.pdf

17. ネガティブな情動のパラドクス

・‪経験するのが苦痛であるような情動を喚起する作品を鑑賞して、なぜわたしたちは快を得るのか?‬‪ 例えば、米澤穂信のミステリ短編集『儚い羊たちの祝宴』において、それぞれの謎の解決は、苦く、ときにグロテスクな光景とともに終わる。その描写、結末はまちがいなくネガティブな情動と結びついている。だが、わたしは結末にたどり着くたび、おののきながらそれでしか味わえないような独特な快を感じる。なぜいやなものを介して快が得られるのだろうか。

・同様に、悲劇のパラドクス:悲劇は苦痛を喚起するのに、なぜ独特の快さをもたらすのか、あるいは、ホラーのパラドクス:なぜ恐怖を楽しめるのか、といったいくつかのパラドクスとも関わる。総称して「ネガティブな情動のパラドクス」と呼べる問題がある。

・SCPと呼ばれる、ひとびとによって作られる、ホラー・怪奇的物語の集積は、おぞましさや奇妙な不安を覚えさせ、物語を十分に理解できないままに放り出される。これらは、ネガティブな情動を惹き起こすにもかかわらず、なぜそれゆえにおもしろいのだろうか。

【読書案内】
米澤穂信、2011年『儚い羊たちの祝宴』新潮社。

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2011/06/26
  • メディア: 文庫
 

・SCP財団 http://scp-jp.wikidot.com/.

・ふたたび、戸田山和久、2016年『恐怖の哲学』筑摩書房

以下の二つのサーベイ論文がひじょうに有用。

・Smuts, A. (2009). Art and negative affect. Philosophy Compass, 4(1), 39-55. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2008.00199.x?casa_token=XJ97w-887iEAAAAA%3A3ZMYGETam6dFZTG2qihdbCNKBuTcRpdRbfT4KrYvZ87kWABNrv1W5FBM3RUSRpMSJMAQTE-WzjdudD049A

・Strohl, M. (2019). Art and painful emotion. Philosophy Compass, 14(1), e12558. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/phc3.12558

18. 神経美学

・文学を文学たらしめている特徴とは何だろうか。そして、それは、わたしたちの脳の活動のあり方から特徴づけられるのだろうか。

神経美学とは、特に脳の活動を計測することで、定性的で測り難いような問題(美や美的経験のあり方)を、定量的に扱うことを目指す神経科学の一つのジャンルである。

・特に文学の神経美学は、わたしたちが文学作品のテキストを読んでいるとき、どのような理解の処理を行っているのか、それを分析し、あるいは、文学作品の制作において、どのような表現の戦略を制作者が選択しているのかを研究する。

・人文系のひとつの代表例と言えるだろう芸術の哲学や美学においても、自然科学的アプローチを無視することはできないし、もったいない。神経美学をはじめとする自然科学的研究とともに美学や文学の哲学はさらに興味深い問題に取り組めるだろうし、決着のつかない問題にある程度の指針が与えられるかもしれない。

【読書案内】

石津智大、2019年『神経美学––––美と芸術の脳科学共立出版

神経美学の入門として読みやすい本。美学のアプローチはひとつきりではないことを示すとともに、哲学的なアプローチへの反省を迫りもする魅力的な一冊。

意味と解釈

19. 物語

・物語とは何か。それは出来事のたんなるリストや事実だけを列挙した年代記とは異なるようだ。では、これらと区別されるような物語とは何だろうか。

・ときに歴史は物語になぞらえて語られる。過去の蓄積そのものではなく、歴史という言語表現について考えてみよう。歴史の語りはたんなる事実の年代順の羅列ではなく、何らかのつながりをもち、特定のテーマをもつような言語的な表現である。小説を代表とする物語もまた、歴史とよく似た構造をもつ。それでは、物語は歴史とは異なるのだろうか。歴史は物語でもあるが、歴史ならではの特徴をもつのだろうか。

・物語はいつ終わるのだろうか。完結した作品に次々に続編や外伝が描かれることをよく思わない読者もいる。そうした続編は物語の続きなのだろうか。それとも別の物語のはじまりなのだろうか。物語はいつ終わるのだろうか。同様に人生における物語の終わりは死かもしれないが、物語は終わり続けているのかもしれない。あらためて、物語とはなんだろうか。それはどんなはじまりと終わりをもつのだろうか。

庵野秀明監督によるエヴァンゲリオンシリーズには、TV版や劇場版における様々な結末や物語的内容の異なる作品がある。これらは同じひとつの物語なのだろうか。それとも異なるのか。また、しばしばキャラクタの同一性を破壊すると言われるほど性格の異なるキャラクタが登場するゲーム版もある。これらは、同じ物語に属するのだろうか。同じ物語の異なる結末なのだろうか。

・人生は物語に例えられる。だが、人生は物語のように何らかの語り手はいないし、選択された区切りのいい結末はない。また、わたしたちは物語の中のキャラクタたちのように、確固たる性格をもっていないかもしれないし、明確な目的をもっていないかもしれない。それでも、人生を物語に例えることに何らかの真理や意義はあるのだろうか。対して、人生を物語として捉えてしまうと、過去の出来事や選択やじしんのあり方に過度に囚われかねない。物語を介して人生を理解することは、ほんとうによいことなのだろうか、そして、それはわたしたちのあり方をうまく捉えられているのだろうか。

  • 物語の特徴やその構造を問うことは、わたしたちの物語概念へと迫ろうとする試みだ。それは文学における具体的な物語の議論を少し離れて、様々に用いられる「物語」ということばを手がかりに、そして、その使用のあり方を手がかりに、物語を考える試みだ。その哲学的価値は明らかだが、実際の鑑賞や制作、さらにはわたしたちの自己理解や人生のイメージにも物語の概念が関わることを考えれば、物語の哲学をめぐる考察がわたしたちの人生全体にもたらす影響も見逃すことはできないだろう。

【読書案内】

・高田敦史、2017年「ストーリーはどのような存在者か」『科学基礎論研究』44(1-2), 35-53.

ストーリーの存在論を論じる中で、よりクリアな物語とストーリーの捉え方を提案する。同時に、ある作品の映像化や別のメディアへの翻訳もうまく捉えられるような概念を作りだす。

20. 物語的理解

・物語的理解(narrative understanding)と呼ばれる他者の行為の理由の理解のひとつのモードがある。これは、科学的理解とは異なり、単に因果関係からのみではなく、特定の人物がどのような欲求や信念、動機や目的を伴って行為したのかを説明する。たとえば、じぶんにとって大切なひとが自裁をしたとき、わたしたちは、そのひとが何らかの脳機能や神経系の不調、脳内物質のバランスについての説明のみからそのひとの行為を理解することはないだろう。わたしたちは、そのひとがなぜその行為をしたのか、その理由を、そのひとの手記、置かれた状況、これまでの人生、選択、人間関係、そのひとが大事にしていたものなどから理解しようとするだろう。そのとき、わたしたちは物語的理解のモードにおいて、他者の行為の理由を理解しようとしている。

・それでは物語的理解とはそもそもどのような理解のモードなのか。それは、物語とはそもそも何か、そして、どのような理解のモードなのかを認知科学心の哲学から考察するといった哲学的・科学的の両方の研究領域にまたがった研究を必要とする。

・物語的理解は、しかし、正しい理解なのだろうか。しばしば、わたしたちは、どこかで聞いた物語に他者の行為の理由を当てはめることで、他者を理解した気になれる。物語的理解は当然間違うこともありえる。だとすれば、科学的理解のように、その間違いを分析し訂正可能な理解のモードではなさそうな物語的理解のモードは、ほんとうに他者の理解のしかたとして適切なのだろうか。さらに、物語的理解によって自己を理解することも行われているが、それはほんとうに適切な自己理解のモードなのだろうか。

  • 文学における実践のみならず、わたしたちが生きている日常のなかで用いるかにみえる物語的を考えることは、わたしたちの他者のイメージ、そして、自己をいったいどのようなものとして理解しているのかを再考することにつながる。わたしたちは、物語的な理解を他者にしてよいのか、それは、他者の無理解でしかないのか。わたしたちは物語を生きているのか、あるいはそれは物語的な世界観の不当な適用なのか。倫理学とも関わり、わたしたちの実存を分析する手がかりとなるトピック。

【読書案内】

・Hutto, D. D. (2015). Narrative understanding. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature (pp. 291-301). Routledge.

・よくまとまったチャプター。

21. 解釈

・「物語の解釈は読み手ごとにある」ということばは、いっけん正しいように思える。読み手はそれぞれに異なる態度で物語に関わり、それぞれの物語を読み取るだろう。だが「物語の適切な解釈は存在しない」とすれば、これは議論の的になる。いったい、解釈に正しさはあるのだろうか。そして、その解釈の正しさは何によって決定されうるのだろうか。

・「作者の意図」は哲学のなかで様々に批判されてきた。だが、日常のコミュニケーションにおいてわたしたちは他者の意図を重視する。ならば、なぜ芸術という人間の表現においてそれが重視されないということがあるのか。もし、作者の意図が重視されないとすれば、それはなぜなのだろうか。

・解釈とはそもそも何なのだろうか。わたしたちは「解釈」ということばをかなりひろい意味で用いている。一方で、特定のことばや表現の意味を明らかにすることを解釈と呼んだり、他方で、物語全体の構成のねらいやテーマの意味の理解のことをも解釈と呼ぶ。これらの様々な解釈の意味は何かひとつの根本的な意味に還元できるのだろうか。それとも、これらはまったくべつの行為なのか。解釈に唯一の目的はあるのだろうか。それとも、解釈という営みは思われている以上に多様な種類があるのだろうか。

  • 文学理論、哲学において宣告され続けているものの、しかし、作者の意図、解釈の適切さをめぐる問いはまったく死んではいない。少なくとも、文学の哲学、分析美学において、解釈とはどのようなものか、のみならず、正しい解釈はありうるのか、そして、作者の意図を作品の解釈にどれほど影響させ、作者の意図をどのように理解すべきなのかをめぐってこれまでも、そしてこれからも様々な問いが問われてきたし、問われ続けている。

【読書案内】

・Irvin, Sherri, 2006, “Authors, Intentions, and Literary Meaning,” Philosophy Compass, 1 (2), 114-128.

・松永伸司、2013年「作者の意図と作品の解釈」9bit. Game Studies & Aesthetics,

22. 批評

・批評とは何か。それはまず、たんなる非難とは異なる。批評はネガティブな指摘や評価を行うことがあるにせよ、それに尽くされず、なぜある作品がよいのか、あるいはどのような解釈ができるのかといった様々な営みを含みうる。それでは、批評とは何かひとつの本質的要素から成る営みなのか、それとも、様々な種類の批評的な行為によってゆるく結びついているような営みなのだろうか。

・批評のひとつの代表的な特徴は、それがネガティブ・ポジティブな作品の価値づけ・評価である点にある。このときの評価とは、しかし、個人の好みの表明とはどう違うのか。批評は、たんに批評家の好みを修辞的にうまいこといったものに過ぎないのか、それとも、それが適切な評価である限り、何らかの説得的な理由や、推論、論証や目的がありうるのだろうか。

・ノエル・キャロルは批評とは「理由に基づいた価値づけ」であるとして、様々な作品の達成を価値づける営みであり、一定の適切さや正当化が可能なものだとした。さらに、こうした営みこそが正当に批評と呼ばれるべきものである、とまで主張する。キャロルの主張は正しいのだろうか。それとも、何か重要な批評の営みを見落としているのだろうか?

  • 批評について考えることは、たんに批評家にとって重要であるのみならず、批評される側であったとしても、批評にはどんな意味があるのか、それを次の作品に活かせるのかといった問いと関わるだろうし、読む側にとっても、なぜこの批評がよいのか、そしてよくないのかをあらためて考えるための出発点となる。批評の哲学は美学の源流のひとつであり、これからさらなる議論の予感がするジャンルである。わたしじしん、批評についてはまずひとつの論考を書いたが、これからも批評を行い、読むことを好む人間として、哲学的考察を加えていきたい。

【読書案内】

・Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.(『批評について––––芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年)

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

現代美学における批評の哲学のもっとも重要な著作のひとつ。その議論は、美学の理想的な議論のあり方の典型例をみせてくれる。主張はひじょうに論争的で、読み手は、キャロルの議論に納得しつつ、彼の議論に立ち向かい批判することで、いっそうこの著作を味わえるだろう。

・難波優輝、2019年「批評の新しい地図––––目的、理由、推論」『フィルカル』4 (3), 260-301. ミュー.

現代美学における批評の哲学の全体像を描き出すことを試み、様々な批評と呼ばれる営みを包括的に扱いうる「新しい批評の地図」をつくりだすことを目指す。批評の哲学の出発点のひとつとして役立てていただければうれしい。

23. 詩的想像力

・詩的想像力(poetic imagination)とは、わたしたちの側での詩を鑑賞する際の態度を意味する。たとえば、wikipediaから五・七・五・七・七の文字列を見つけて、それをあたかも短歌であるかのように鑑賞するときにも詩的想像力は行使されている。

・詩的想像力とは、しかし、どのような態度なのか。この態度は詩を鑑賞する際に重要な能力なのだろうか。

・何かが「詩的」であるとは、見て取れるような形式的な特徴(体言止め、特定の用語の使用)からそう言われるのか、それは特定可能なのだろうか。

  • 詩とは何か、をめぐっては、その形式的な定義や歴史的な分析がなされうる。だが、べつのアプローチも可能で、それが、詩的想像力から考える道である。たとえば、詩的想像力を誘うような「詩的」な詩を考えることで、そもそも詩とはどのような表現形式なのかがわかるかもしれない。詩的なものとのわたしたちの関わり方を分析することで、詩的なものの特徴づけを目指そうとするアプローチは、ある意味でクラシックな美学的アプローチであり、しかし、まだまだ発展の可能性を秘めた魅力的な対象への近づき方でもある。

【読書案内】

岩倉文也、2018年『傾いた空の下』青土社

傾いた夜空の下で

傾いた夜空の下で

  • 作者:岩倉文也
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・詩とはどのように読まれるのか。岩倉文也はツイッターにおいて、様々なツイートをしている。それを読むとき、わたしたちは、詩を読むモードになっているように思える。だとすれば、詩的想像力はツイッターにおいても発揮されうるのだろうか。詩的想像力の限界や意義とはなんだろうか。

24. メタファー

・メタファーとは何だろうか。一般的にあるものを別のもので喩えることがメタファーと呼ばれる。だが「喩える」とはどのような行為なのだろうか。「ジュリエットは太陽だ!」とロミオが叫ぶとき、彼はいったい何を行なっているのだろうか? ジュリエットはもちろん人間であり、人間は太陽ではない。だが、わたしたちは、メタファーを多くの場合適切に理解できる。ロミオにとってジュリエットは太陽のように明るく、暖かく、それなしでは暗闇に落ちるような存在なのだと、こうした解説を抜きに理解できる。

・メタファーのなかで、より困難なメタファーがある。「土星のようにあなたは眠る」と言われたとき、いったい、あなたの眠りは土星とどのような関係にあるのだろうか? わたしたちはどのようにメタファーを理解しているのか。

・メタファーは、詩的な表現に頻出するが、それは何を目的としているのだろうか。また、メタファーが不用意に使われるとき「ポエム」の謗りを受ける。メタファーはつねに使ってよいものではないのか。そして、よいメタファーとわるいメタファーがあるのだろうか。

  • メタファーじたいは狭義の文学作品のみならずあらゆる文章や表現に見出しうる。だが、文学作品が言語的なメタファーの使用によって「文学作品らしく」なっていることは疑いえないだろう。文学とメタファーには深い結びつきがあり、偶然的ではなく、文学のイメージはメタファーに彩られている。メタファーについての哲学は、文学の哲学のみならず、わたしたちの認知的機能の側面からも分析されており、さらなる発展可能性と議論の必要性が見られるトピックである。

【読書案内】

・グラント「隠喩と批評」

メタファーに関するミニマルモデルを提示している。決定版ではないが、メタファーをよりよく理解し使うために、発展性が見出せる理論だろう。一読を勧める。

形而上学、認識論、倫理

25. 文学作品の存在論

・文学作品はどこにあるのだろうか。この質問はおかしな質問に思える。本棚に向かってあなたは好きな小説をとってわたしに見せてくれるだろう。「これが文学作品です」。だが、わたしが「文学作品を印刷したものであり、文学作品そのものではないのではないでしょうか」と答えたとしたら、あなたはどんな顔をするだろうか。確かに、と納得するか、おかしなことを言っていると顔をしかめるか。だが、たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』をあなたが間違って2冊買ったとき、あなたは2冊の『涼宮ハルヒの憂鬱』が印刷された本を持っているが『涼宮ハルヒの憂鬱』という文学作品をひとつしかもっていないはずだ。どれが『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品なのだろうか? この作品はいったいどこにあるのだろうか。

・文学作品の存在論はひとつなのだろうか。それとも、小説、詩、戯曲などにより異なる存在論を組み立てる必要があるのだろうか。

存在論をどのように組み立てるか、それを議論する「メタ存在論」という領域がある。そもそも文学作品の存在論を組み立てる目的とは何か。それはわたしたちの実践を記述するためのものなのだろうか、それとも、より一般的な形而上学に文学作品の存在論を描き込むための作業なのか、それとも「真の」存在論を組み立て、わたしたちの実践に指針を与えるプロジェクトなのだろうか。文学作品の存在論は、芸術作品の存在論と同様、水や自然現象といった対象ではなく、人間が構成あるいは発見する人工物であるために、わたしたちの文化的実践との距離をつねに考える必要がある。

  • 存在論はいっけんわたしたちの実践からは遠く、また、直接作品の批評や価値づけには関わらないかのようにみえる。それゆえその「形而上学」の名称の一般的な使用のひとつのように、机上の議論とみなされがちだ。確かに、存在論は、他の美学における議論と比較しても抽象度と一般性が高くとっつきづらい(とわたしは感じる)し、初学者に勧めにくいと思うときもある。だが、たとえば、コンセプチュアル・アートといった作品と文学作品の交差領域を考えるとき、いったいどこまでが作品なのか、どのような部分が鑑賞されているのか、といった具体的な議論をする際には、存在論的なアプローチが有益である場合もある。存在論は思わぬ場面で役立つために、関心のあるひとの興味深い研究をいつか見たい。

【読書案内】

・倉田剛、2017年『現代存在論講義』

・Thomasson, A. L. (2006). Debates about the ontology of art: what are we doing here?. Philosophy Compass, 1(3), 245-255. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2006.00021.x?casa_token=8Xd1fkfQHEcAAAAA%3ASDfJsQ7fW_aPFMsmBPTMVsbvgBcH-xhhTwS9sI5_CoMM71U_ThnlFi6KszjpkpZrb48z0QxBJDihbNElPQ

・エイミー・トマソンサーベイ存在論は哲学の中でとくにその方法論が議論されているトピックのひとつ。芸術の存在論全体の議論を行なっているが、文学作品の存在論とも関わるトピックである。

26. フィクション

・フィクションはノンフィクションとどのように区別できるのか。嘘とどう違うのか。

・フィクションが何であるのかは、デイヴィッド・ルイスの可能世界論、ジョン・サールらの言語行為論的アプローチ、ケンダル・ウォルトンのメイクビリーブ説、グライス的なコミュニケーションの理論アプローチなどが提案されてきた。さらには、2000年、10年代においても、フィクションはスーパー・ジャンルであるとするステイシー・フレンドの説をはじめ、議論はなお続いている。

  • 現代美学、文学の哲学におけるフィクション論は、フィクションとそうでないものの区別のみならず、フィクションがわたしたちの認識や道徳とどのように関わるかといった議論も行っている。フィクションとフィクションでないものの区別に限定しても、そこにはフェイクニュースの本性や、嘘の本性をめぐってまだまだ考えるべきこと、哲学的・実践的に価値ある問いが眠っている。

【読書案内】

清塚邦彦、2017年、『フィクションの哲学』勁草書房

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

 

何がフィクションで何がそうでないのか、これまでの議論を紹介した上で、清塚じしんの説を提示する。日本語で読めるフィクションの哲学として。

27. 虚構的真理とフィクションを介した真理

・文学についてではなくキャラクタの画像を例に挙げてみたい。たとえば蒼樹うめによる日本の4コマ漫画『ひだまりスケッチ』(芳文社)の画風はひじょうにおおきな目のキャラクタに代表される。では、この目の大きさは虚構的真理なのか、つまり『ひだまりスケッチ』の虚構世界では、この目の大きさをした存在が生きていて、この目の大きさに対応した眼科や生物学があるのだろうか。この問いは一見ばかばかしいが、何が虚構的真理か、何がそうでないのかは哲学的に非常に興味深いことが共有できるだろう。

・さらにしばしば「日本のアニメーションやポピュラー文化のキャラクタの絵は『白人』を描いている」という議論もこの虚構的真理の議論に関わるだろう。

・フィクションの物語はたんなる嘘ではない。そう言える理由のひとつに、フィクションにおいて正しいことと正しくないことがあるからだ。たとえば、シャーロックホームズが人間であることはフィクションにおいて真だが、モンスターであることはフィクションにおいて真ではないだろう。だが、フィクションにおいて真、言い換えれば、虚構的真理はどうやって決められるのだろうか。たとえば、信頼できない語り手が妄想を語っている、という体裁の物語を読むとき、わたしたちはどこかのタイミングでこれまでの語りが虚構的真理ではない、ということを理解できる。だが、それはいかにしてだろうか。

・シャーロックホームズ虚構において何が真か。

  • 虚構的真理をめぐる議論は、かなり「哲学的」で、興味のあるなしはおおきくわかれるかもしれない。だが、メタフィクションといったフィクションそのもののあり方を考察する作品の鑑賞、批評、制作にあたって、直接ではないにせよ、なんらかのヒントにはなりそうだ。

【読書案内】

・高田敦史、2017年、「図像的フィクショナルキャラクターの問題」Contemporary and Applied Philosophy Vol. 6 https://repository.kulib.kyoto-ac.jp/dspace/handle/2433/226263

冒頭の『ひだまりスケッチ』ケースなどを取り上げながら、画像のフィクションにおける虚構的真理とそうではないはずの情報とのずれと重なりあいを議論している。虚構的真理一般の哲学的おもしろさを体感するのにうってつけの論文。

・高田の議論を受け、いくつかの議論が展開している。この議論の流れを追うと、分析美学の議論好きな雰囲気のひとつを感じ取れるかもしれない。

・高田敦史、2017年「フィクションの中の哲学」『フィルカル』2 (1), 92-131.

・フィクションにおいて哲学することは可能なのか。だとしたらそれはいかにしてか。高田は『ウルトラQ』のエピソード「バルンガ」を題材に、物語がテーマとさまざまな物語ならではの特徴を介してある種の哲学を行っていることを論ずる。文学作品の例ではないが、テーマをどのように考えるか、そのヒントの一つになるだろう。

28. 文学的認知主義

・文学作品は、それが名作と言われるものであれば、しばしば「人間の真実」「人生のなんたるか」を教えてくれると言う。だが、物語は虚構であり、哲学的議論や学術的研究がもつような適切なエビデンスや議論が盛り込まれているわけではない。だとすれば、文学はいったい何を教えてくれるのだろうか。

・文学作品を読むことで、何らかの知識が獲得されうるとする立場は「文学的認知主義」と呼ばれる。だが、文学作品は、どんな知識をどのようにして伝達しうるのか。

・とくに文学作品はわたしたちの人生に関わる道徳的な知識を教えてくれると言われることがある。だが、道徳的知識とは伝達できるような普遍性を持っているのだろうか。それは、そもそも知識なのか。メタ倫理学における道徳的知識の存在と不在をめぐる議論と関係して、そもそも道徳的な知識や真理をどのように捉えるかとも文学的認知主義をめぐる議論は関係する。

・文学作品は逆に、間違った情報や誤った考え方を伝達しうるのではないか。たとえば、人生を物語になぞらえる語りはしばしばみられるが、それは人生の理解として適切なのか。あるいは、わたしたちはキャラクタを典型として、人間に性格をしばしば見出したり当てはめたりする。だが、それは人間の適切な理解なのだろうか。

  • 文学の擁護として、文学が何か大切なことを教えてくれるとする主張は、研究者であろうとなかろうと、文学を好んでいるひとの口からしばしば言われる。だが、それを擁護するためには一筋縄ではいかない反論に立ち向かい、説得的な議論と信頼できる証拠を集める必要がある。それはかなりたいへんな仕事だが、しかし、美学的なたいへんさに満ちたわくわくするような挑戦だ。日本でも、わたしを含め数人の美学者がこの問いに関心をもっており、新たな美学者の登場を心待ちにしている。

【読書案内】

難波優輝、2019年「物語は何を教えてくれるのか」瀬戸内哲学研究会、広島大学

・物語の認識的メリットが文学作品としての価値にいかに関わるのか、という問いを整理するためのマッピングを行なっている発表。まだ論文化にはアイデアが足りないので、発展させていきたい。

・佐藤岳詩、2018年『メタ倫理学入門』勁草書房

メタ倫理学入門

メタ倫理学入門

 

・美学や文学の哲学ではないが、文学の認知的、あるいは道徳的価値に関わる議論として、そもそも道徳的な事実や知識はありえるのか、だとすればどのようなものなのか、といった議論を含むメタ倫理学の入門書としてこちらが勧められる。

29. 想像力

・想像力はどのような能力なのか。それは現実ではまだ実現しないことを思い描いたり、何かをシミュレーションする能力として特徴づけられることがある。これらの特徴づけは適切なのだろうか。

・物語を読んでいるとき、わたしたちはどのような想像をしているのだろうか。第一に、わたしたちは物語に書いてある通りに、たとえば「アキは毒ベビに咬まれた」という記述をみたとき、その通りの事態を想像する。だが、それだけではなく、想像においてアキが毒ヘビに咬まれたとき、わたしたちはその続きを容易に想像できる。つまり、アキをそのままにしていては毒が回って死んでしまうことをほぼ自動的に想像する。その意味で、想像の際にはわたしたちは現実の知識や推論を用いている。また、想像は現実の行為や信念とは隔離されている。いまアキについての状況を読んで、わたしたちは誰か現実のヒトが毒ヘビに咬まれたと、救急車を呼ぶわけではない。加えて、物語において、あるジャンルでは現実からはかけ離れたことも想像できる。コメディにおいては研究所が爆発してもチリチリに爆発した博士は生きているし、学園ものでは急激な恋心の成長も異様なものではなく自然なものとして想像される。こうした特徴から想像は、現実の信念や推論といった認知的な活動とは異なるどのような独特な性質の活動だと特徴づけられるだろうか。

・わたしたちは現実では道徳的に許されないような事態を想像したり、あまつさえ、現実には犯罪者であったり、到底許されないような行動をするダークなキャラクタに感情移入し、それをクールだと感じたりもする。想像においてわたしたちはいったいどのような倫理的な判断を行なっているのだろうか。想像と現実の信念とはまったく隔離されているのだろうか。同時に、わたしたちは底意地のわるいキャラクタを演じている演者のことを嫌いになることさえある。想像と信念の微妙な相互作用について、どのような哲学的考察が可能なのか。

  • 想像をめぐるトピックは、近年、心理学、心の哲学神経科学の知見も借りつつ、これまでの哲学的な実証なしの研究からおおいに様変わりし、科学的研究が哲学的研究に対して様々な魅力的な謎や挑戦を投げかけている。想像力という人間の(あるいはいくつかの人間を含む動物種の)能力はどのように分析できるのか、そして、とくに、フィクションにおいて想像力がどのように発揮され、どのような認知的活動を可能にしているのか、学際的で発展的な魅力にあふれるトピックである。

【読書案内】

・Stock, K. (2013). Imagining and fiction: some issues. Philosophy Compass, 8(10), 887-896. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/phc3.12068?casa_token=KPJ4Wkt_4zgAAAAA%3AcZhSwHIA_csbRgIc8Ezr7GbARyRKO1eHgTxbBIeFXxjPvdt6RLXSkQA0hQyVVh45ZhNn40FHWXGjsHa0WQ

・フィクションとの関係に注目した想像力に関するサーベイ

・Liao, Shen-yi and Gendler, Tamar, "Imagination", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2019 Edition), Edward N. Zalta (ed.),

https://stanford.library.sydney.edu.au/entries/imagination/

・より包括的なサーベイ

30. 想像的抵抗

・想像的抵抗(imaginative resistence)とは、他の物語やフィクションを鑑賞している際には、それなりにうまく想像的活動できるひとが、特定の物語やフィクションの場面において促された想像的活動(主に道徳的価値や美的価値などの価値評価を含んだ想像)をうまく行えないときに起こる。

・たとえば「嬰児殺しは善だ」ということが成り立ってしまっている物語の中の状況があったとして「嬰児殺しは善だ」と発言しているキャラクタがいること、どうやらこの物語の世界ではそういうルールが成立していることは想像できるが「嬰児殺しは善だ」という価値評価を含んだ想像を活き活きと行うことが難しい、というとき、想像的抵抗が起こっている。

  • 想像的抵抗を考えることは、フィクション鑑賞の際でも、わたしたちはどのようなことをもヴィヴィッドに想像できるのではなく、なんらかの現実的な信念や道徳的なものを含んだ価値評価を持ち込んでいる、あるいは、その信念や価値評価を考慮に入れていることが示唆される。さらに、想像的抵抗は、わたしたちの認知のアーキテクチャがどのような構造をしているのかを探る手がかりになったり、道徳的判断がどの程度わたしたちに埋め込まれているのかをめぐるメタ倫理的な議論とのかかわり、何より、フィクション作品の道徳的な側面とわたしたちがどのような関係にあるのかを再考する手立てとなりうる。認知科学心の哲学と連動しながらさらなる謎が提示されているトピック。

【読書案内】

・Tuna, Emine Hande, "Imaginative Resistance", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/imaginative-resistance/

スタンフォード哲学大百科にある想像的抵抗の記事。抵抗の理解についての「可能説」「欲求説」「消去説」の区別など整理に役立つだろう。

31. 心の理論

・心の理論(theory of mind)とは、他者の心を何らかの枠組みを用いて推測し、理解する能力である。たとえば、ポーカーゲームのプロが意識的に他者を騙すことができるのは、他者がどのような心理的な動きをみせるかを理解した上で、その動きの裏をかくような行為を選択できるからであり、その際には心の理論と呼ばれるような、何らかの認知的な能力が必要になると考えられている。

・文学作品を読む動機や価値は心の理論から説明できるだろうか。進化論的なアプローチから、はるか昔から物語を語ることによって、わたしたちホモ・サピエンスは他人の心をよりうまく読めるようになり、より適応的になったからは、という仮説が提示されている。ゆえに、物語を求めるのは、それが適応度を高めるためであり、合理的だ、というわけだ。しかし、物語を読むことで適応度が上がる、というのはどれくらいありそうなことなのだろうか、また、それほど劇的な変化は起こりうるのだろうか。また、文学作品を読む動機は、適応度とは関わりなく、むしろ、他人の心を推測する能力の副産物として、推測それじたいの楽しみのために物語があるのではないか、という仮説の候補もある。進化論的なアプローチから、わたしたちが物語を読む意義を説明できるだろうか。

・文学作品を読むことで、他人の心をよりよく理解できるようになるのだろうか。こちらは、進化論的というよりは、実際にいま、わたしたちが文学作品を使って、心を読むスキルを上げられるかどうかを問うている。近年、心理学的実験を含め、経験的な研究が行われており、この問いに肯定的に答えるものもみられる。だが、哲学者からは、そうした実験の多くは、不十分な議論と実験結果の解釈に基づいており、文学作品が心の理論の発展に寄与するというつよい主張を支持するにはいたっていないと批判されている。

  • わたしたちは他人の心を読むことで生活を営み、さらには、物語やフィクション作品においてまでも、他人の心に関心をもち、それが解釈され、操作され、変動する様をたのしんでいる。文学作品のすべてではないにせよ、多くの作品に共通する、主人公やキャラクタたちの心理の動きと読み合い、駆け引きにわたしたちはなぜこれほど惹かれるのだろうか。直観のみならず、進化論や認知と心の科学、さらには人間の発達科学とともに問われるべき興味深い謎であり続けている。

【読書案内】

・Currie, G. (2015). Literature and Theory of Mind. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature (pp. 419-429 Routledge.

・心の理論と文学、フィクションの関わりを説明するチャプター。

32. 道徳性

・文学作品は道徳的に批判された事例は数多くある。たとえば「わいせつ」であるか否かをめぐるD・H・ロレンスチャタレイ夫人の恋人』の日本語訳をめぐる「チャタレー事件」は、文学作品による表現の自由が、その道徳性をめぐって公共の福祉によって制限できるかどうかをめぐる法的な議論であったと解するなら、文学作品の道徳性は、シリアスな議論になりうることが示唆される。だが、文学作品の道徳性とはいかなるものなのだろうか。同じひとつの作品がもたらす解釈や影響は前もって判定などできないはずなら、文学作品がそもそも定まった道徳的なメッセージや価値を持つと考えることはできるのか。

・文学作品の価値にその作品の道徳的価値は関与するのだろうか。道徳的ではないとされる作品はそれゆえに作品の美的な / 芸術的な価値を下げてしまうのだろうか。逆に、道徳的に問題があるがゆえに、既存の価値観を踏み越える挑戦を行うような作品もありうるのではないだろうか。その際には、道徳的なネガティブな価値ゆえに美的価値かつまたは芸術的価値を高める事態すらあり得るのではないか。

  • 文学作品の道徳性について考えることは、旧態依然とした文学観のたんなる繰り返しにはならないだろう。わたしたちは、やはり文学作品に何らかの道徳的なヒントや観点を見出し、それを高く評価したり、批判したりする。そうであれば、文学の哲学は、重要な問いとして、文学の道徳性とは何か、それはどのような価値を持つのかを問う必要があるだろうし、そこにはおおきな価値と魅力が潜んでいる。

【読書案内】

難波優輝、2019年「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」2019年度哲学若手研究者フォーラム、<https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/293105/ec83452b99a0bd2d1c797d40d5240ae4?frame_id=603867>.

・文学作品ではないが、ある表現が倫理的に問題があるとはそもそもどのような指摘なのかについてわたしは修士研究で取り組んでおり、表現の倫理的問題がもっともはっきりと議論の的になる「ポルノグラフィ」表現について扱っている。リンクの発表論考は「わるさフロー」を提示し表現の「わるさ」がひとつきりではなく、様々な対象と理由から指摘される倫理的問題であることを指摘、整理している。

難波優輝、2018年「芸術と倫理、倫理的批評」Lichtung.

・倫理的批評についてのサーベイ論文のまとめ。ある作品の芸術的価値と倫理的価値をめぐる議論の概観として参考になるだろう。

おわりに

文学の哲学は、様々な現代美学のトピックが交錯し、のみならず、倫理学形而上学心の哲学、知覚の哲学といった他の哲学ジャンルと関わり、心理学や認知科学、進化論とも連続する多彩なアプローチと問いにあふれた魅力的なジャンルである。

小説、詩、戯曲など様々な文学の表現のおかげで、これまで様々な経験をしてきたという個人的な経験から、文学の価値や意義、その魅力や特異性をいっそう明らかにできるような研究をしていければと思う。それにはもちろん、文学の哲学を研究してくれる / 関心をもってくれるひとびとの存在が必要であり、すこしでもそうしたひとびとを惹きつけることができればと思う。

難波優輝(現代美学・批評)

引用例

難波優輝、2020年「文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか」Lichtung、<http://lichtung.hatenablog.com/entry/philosohy.literature>

*1:

*2:双子の記事は「音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか」。音楽の哲学についてはこちらもチェックしていただければ。

フェミニスト哲学についての小さなメモ帳

はじめに

ラウトリッジコンパニオンの『フェミニスト哲学』*1の第二部と第三部の各章と関連する事項についてのメモを記載している。

f:id:lichtung:20200427155141j:image

I. 身体、精神、世界

1. セックスとジェンダーの社会的構築

Haslanger, S. (2017). The sex/gender distinction and the social construction of reality. 157-167.

ハスランガーによる、ジェンダーとセックスの社会的構成の複数の意味の整理。「社会-歴史的プロセスの産物」という意味での「普通の意味での社会的構成」からはじまり、概念の変遷を追う系譜学から、概念の当たり前さは歴史的であり、概念は制度・ものによって現実化されていること、そして、概念は選択可能であり、批判可能であることを述べる。

次に、概念がつくりものだとしても、それは実際的な効果を持つことを指摘し、社会的に構成されるのは、概念のみならず、特定の一連の実践であることを指摘する。さいごに、概念ではなく、社会種が因果的 / 構成的に構成されるしかたについての議論を紹介する。

まとめれば、ジェンダーとセックスの社会的構成を語るとき、二つの概念とうまく付き合う必要がある。一方でジェンダーとセックスを概念や理念として考えるのか、実践と結びついた対象として考えるのか、社会種として考えるのか、人工物ではあるが、しかし、どのような実際的な効力をもつとみなすのか。

ジェンダーやセックスが社会的につくられている、と言われるとき、それはいったい何を言い表しているのだろうか。概念の構成を単なる社会-歴史的プロセスと考えるのか、より人為的な選択のプロセスとみなすのか、対象の構成を理念と実践の相互作用の中で考えるのか、種の構成を因果的 / 構成的な構成として考えるのか。つまり、X is constructed by Y のXとYの項と constructed の意味が問われる。

一方で、つくられるところのジェンダーやセックスとは、概念や理念なのか、それとも、ひとびとの具体的なそのつどのふるまい方なのか、それとも、「女性」や「男性」という種なのか。他方で、社会的につくられる、とはいったいどのような働きなのだろうか。それは、ひとびとの関わりのなかで、歴史的な時間のなかでつくられる、というふつうの意味なのか、それとも、社会的につくられるとは、特別なプロセスやメカニズムによってなのだろうか。「社会構築主義(social constructionism)」において、あるXがYによって社会的に構築される、の意味とメカニズムについてはさまざまな議論が行われている。

日本語文献では、哲学者倉田剛による『日常世界を哲学する』が社会存在論の視座から、社会的構築についての入門を提供している。

英米圏における存在論の教科書としては、同じく倉田によるつぎの二冊の『現代存在論講義』を勧める*2

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

  • 作者:倉田 剛
  • 発売日: 2017/10/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

フェミニスト哲学においては、サリー・ハスランガーが社会的構築の議論を数多く行っており、ハスランガーの論文集『現実に抵抗する』には、いくつかの重要な論考が納められている。

Resisting Reality: Social Construction And Social Critique

Resisting Reality: Social Construction And Social Critique

  • 作者:Haslanger, Sally
  • 発売日: 2012/10/11
  • メディア: ペーパーバック
 

だが、ハスランガーの議論にいきなり参加するのはわたしには難しかった。個人的には、つぎのスタンフォード哲学大百科事典の記事が参考になった。

Mallon, Ron, "Naturalistic Approaches to Social Construction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.)

訂正すべき点が多いがまとめ記事も参照のこと。

ジェンダーセクシャリティ・人種の哲学は、分析系哲学においては「社会存在論(social ontology)」の視座からも活発に議論されている。存在論という一見すると抽象的でわたしたちの実践には関わりのないようにみえる議論が、わたしたちのあり方そのもののありようを分析するための道具へと役立てられている。その方法論も含め批判も現れており、発展的な分野である。

2. ジェンダー反 / 本質主義

Mikkola, M. (2017). Gender essentialism and anti-essentialism. 168-179.
複数のジェンダー反 / 本質主義フェミニズム理論における五つの本質主義レパートリと本質主義をめぐる議論の意義と課題について。

フェミニスト理論家は集団としての「女性」の名のもとに話し、政治的要請を行う。だが、さまざまな時代と環境において一貫した「女性」集団が存在しうるのか。一方で「女性」という何らかのまとまりはフェミニズムの議論の前提をなすようにみえ、他方で統一的な「女性」の存在には疑問が付されている。

(1)生物学的本質主義:生物学的特徴、(2)分類的ジェンダー本質主義:社会的特徴、(3)分割可能-アイデンティティ本質主義:独立に定義可能なアイデンティティ、(4)規範的本質主義:女性の利害を代表するフェミニストの生産物、(5)個体本質主義ジェンダーはひとが個体としての存在に必要。

反 / 本質主義形而上学的議論の評価については、真偽の記述的なレベルとは関係しつつ、別の問題として、政治的目的に寄与するかどうかからも実践的に評価される点についての議論もなされている。

ミッコラによるこちらの記事も参考になる。

ごく簡単なわたしのまとめはつぎの記事にある。

3. 身体性

Heinämaa, S. (2017). Embodiment and feminist philosophy. 180-193 

身体性(embodiment)をめぐって、現象学的アプローチを中心に紹介する。17世紀のデカルトとの書簡で交わされたエリザベトの印象的な問いを紹介しながら、現象学的な身体性の議論を紹介し、じぶんじしんの生きられた身体を道具として客体化を交えつつ、いかに用い、それによってどのようにひとびととコミュニケートしているのかが紹介される。

わたしたちは、抽象的ではなく、具体的な身体を伴って存在している。わたしたちはそれぞれの身体を介して世界とひとびとに関わる。それぞれの身体を道具としつつ、感情を表出したり、触れたりする。そして、その姿は見せたり、見られたりする。経験の構造を問う現象学において、身体は、そして、身体をもっていること、身体を介して何かをすることは重要なテーマであり続けている。明確に定義されているわけではないが、身体性(embodiment)とは、身体を介しては考えることができないことがらを考えるときに必要となる概念だろう。

現代現象学の入門については『ワードマップ 現代現象学入門』が勧められる。

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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  • 発売日: 2017/08/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

現象学の歴史的展開を心理学や認知心理学との関わりからコンパクトに記述した『現象学入門』には、ごく簡単にではあるが、フェミニスト現象学についての紹介もある。

現象学のブックリストは次のブックフェア いまこそ事象そのものへ! が有益だ。

4. 物質性

Colebrook, C. (2017). Materiality: Sex, Gender, and What Lies Beneath. 194-206.

唯物論(new materialism)の思想家の流れの紹介。ジュディス・バトラーとの関係を示しつつ。

思想家の流れが主で「新唯物論」が何かはこの章ではわからなかった。二分法における一方をたんに取り上げるのではなく、精神 / ものの対置を批判する、という特徴づけにおいて、それまでの唯物論的なものを説明項として重要視するアプローチとは異なる、ということはなんとなく共有できた。

5. 境界のアイデンティティ

Barvosa, E. (2017). Feminism and Borderlands Identities. 207-217.

境界線上アイデンティティborderlands identities)の議論の動機、議論のはじまり、交差するアイデンティティと形成 / 変異を紹介する。

境界線上アイデンティティ:容易には / 典型的には組み合わせられない社会的に構築されたふたつ以上のアイデンティティを含む自己のうちの多様性の配置。たとえば、Lennard Davis が語る耳の聞こえない親に育てられた耳の聞こえる子どもであるといった、複数の境界線上にあるアイデンティティ

議論のはじまりは、Chicanaの詩人、活動家、インデペンデントなフェミニスト研究者であるGloria E. Anzaldúaの研究からなり、人種、エスニシティジェンダー、ディスアビリティといったさまざまな複数のアイデンティティの境界線上で見出されるアイデンティティに焦点が当てられる。

境界線上のアイデンティティを思考する際には、アイデンティティ一般がそもそもどのような構造をして、それを使ったりしてわたしたちが何をしているのかが問われる。

6. パーソナルアイデンティティと関係的な自己たち

Brison, S. J. (2017). Personal Identity and Relational Selves. 218-230.

他者と切り離されて自律する自己という概念の男性的なバイアスを指摘しつつ、関係的な自己の概念の意義を紹介していく。

ケアの倫理、拡張された認知、トラウマによって変貌せざるを得ない自己の生きられた経験、物語的自己と社会的構築の議論を取り上げながら、他者と出来事のうちで形成される関係的な自己を描く。

関係的な自己(relational self):切り離された   

7. 精神分析と主体

Oliver, K. (2017). Psychoanalysis, Subjectivity, and Feminism. 231-240

他者に応答できる、行為者である感覚:主体性(subjectivity)の発達、抑圧、解放を説明するための重要なアプローチとしての精神分析理論を紹介する。

主体性(subjectivity)が行為し応答できる主体の感覚である一方、他方、歴史的、社会的に位置づけられた地位としての「主体のポジション(subject position)」があり、両者の緊張のうちで「主体(subject)」がダイナミックでかつ安定的な構造をもつ。

フロイトに連なる精神分析において、主体性の形成に焦点が当てられ、主体のポジションの形成が主体性に与える影響を十分扱ってこなかったために、女性の主体性の形成が抑圧され、病理化されがちな問題の説明できなさを指摘し、主体のポジションを含む社会理論と組み合わされた分析の必要性を主張する。

II. 知識、言語、科学

8. 合理性と客観性

Rooney, P. (2017). Rationality and Objectivity in Feminist Philosophy. 243-255.

合理性と客観性という知識と深く結びついた概念が暗黙のうちに、男性性、階級、人種に限定され、バイアスを加えられてきた歴史と分析の紹介。第一に、合理性と客観性が哲学と科学において男性的なものと結びつけられてきた歴史と科学におけるジェンダーバイアス、第二に、さまざまな実験によって明示化されるジェンダーバイアスと分析、さいごに、合理性と客観性はどこまで批判されうるか、それは廃棄されるべきかをめぐる議論を紹介する。

9. 信頼と証言

Grasswick, H. (2017). Trust and Testimony in Feminist Epistemology. 256-267.

フェミニスト認識論における信頼(trust)と証言(testimony)のの倫理的・社会的・制度的側面の議論。わたしたちはさまざまな証言を交換する。それぞれの社会的ポジション「誰が言ったことか」と引き合わせながら。その際、白人や男性であることが社会的により信頼性を持つとされる社会であれば、非白人であること、女性であることで、同じ証言だとしても低く見積もられてしまいうる。これらアイデンティティに関する偏見によって信頼性を低く見積もられるという「証言的不正義」をはじめとする、個人に限定されず、社会的なジェンダーエスニシティ、人種に関する不平等の構造と結びついた認識的な不正義についての議論がフェミニスト認識論の主要なトピックの一つとなっている。

10. 認知的不正義、無知、トランス経験

Fricker, M., & Jenkins, K. (2017). Epistemic Injustice, Ignorance, and Trans Experiences. 268-278.

トランスジェンダー経験を証言しようとする際に起こりうる様々な認識的不正義の議論について。証言的不正義(testimonial injustice):様々な偏見によって、特定のひとびとがその信頼性の度合いを削減される不正義、解釈的不正義(hermeneutical injustice):重要な社会的経験を理解可能なものにする試みを不成功におわらされる不正義を紹介し、認識的不正義とその対抗を紹介する。

11. 発話と消音

Maitra, I. (2017). Speech and Silencing. 279-291.
レイ・ラングトンがキャサリン・マキノンによるポルノグラフィ批判をオースティンの言語行為論から解釈するひとつのアプローチとして、提示した「消音(silencing)」の議論。消音には、発話そのもの、発話を介して引き起こす行為、発話において行われる行為;同意なく迫ってきた他者に対して「やめろ!」という発話、その発話を介して相手の行為を静止させる行為、そして、拒否という行為のそれぞれについて、それらを失敗させたり、不成立にするような状況や態度が関わる。にはポルノグラフィ論との関わりで、ポルノグラフィが女性の拒否をはじめとする言語行為を消音し、社会的不正義を可能にしているとの批判をめぐる反論と応答が紹介される。消音をはじめとして、ポルノグラフィと言語行為論的分析はかなりの蓄積があり、じぶんも追っているトピック。

12. 言語と書記

Postl, G. (2017). Language, Writing, and Gender Differences. 292-302.
言語の性差別性を指摘し、新たな言語の可能性を示唆したリュス・イリガライ、エレーヌ・シクスー、ジュリア・クリステヴァらの試みと意義とを紹介する。

13. 科学哲学

Kourany, J. A. (2017). Philosophy of Science and the Feminist Legacy. 303-313.
女性科学者の参加をはじめ、バイアスを取り除き、合理性を再検討することでこそ科学の発展が促進されうる、というアプローチを主に議論する。ウィーン学団とそのフォロワーたちは、科学的な世界把握を発展を社会改良のプログラムとともに考えていた。だが、科学哲学はディシプリンの確立とともに、政治性を薄めていく。フェミニスト科学哲学は、ある意味で、科学哲学の最初の動機の再現である。とする冒頭の説明が興味深い。

14. 生物科学

Weaver, S., & Fehr, C. (2017). Values, practices, and metaphysical assumptions in the biological sciences.
生物学における性差別的バイアスがデータ解釈のみならず研究テーマ選択や方法論、形而上学的前提に与えた影響の一般的な紹介と、特に神経科学、進化生物学を取り上げた分析。

科学における合理性や客観性の概念を直接批判するというよりも、そうした概念を批判対象と共有しつつ、性差別的バイアスがかかっているために、科学として現実の現象を救えていない、という批判を行う実践の多くの紹介。フェミニスト科学哲学には前者のようなより根本的批判のスタイルもある。

15. 社会科学

Alison Wylie 2017 Feminist Philosophy of Social Science. 328-340.

社会科学のフェミニスト哲学の方法論とスタンドポイント理論の紹介。

*1:Garry, A., Khader, S. J., & Stone, A. (Eds.). (2017). The Routledge companion to feminist philosophy.

The Routledge Companion to Feminist Philosophy (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Feminist Philosophy (Routledge Philosophy Companions)

  • 発売日: 2019/09/27
  • メディア: ペーパーバック
 

*2:他の哲学者の方も指摘しており、あとがきでも記されているが、書籍内に登場する質問役の学生の言葉づかいは奇妙にジェンダー的役割を強調するようであり、とくに書籍の構成上必然性があるとは思えないので、わたしは不必要だと考える。

「キャラクタの画像の何がわるいのか」と応用美学の試み

はじめに

こんにちは。神戸大学人文学研究科修士課程在籍の難波優輝です。1月25日に大妻女子大学にて開催された「描写の哲学研究会」(松永伸司さん主催)にて発表した「これは人間ではない––––キャラクタの画像の何がわるいのか」のかんたんな解説と資料の公開をします*1。加えて、じぶんが現在構想している「応用美学」のスケッチを共有します。分析美学、描写の哲学、ジェンダー表象、そして、哲学と実践に関心のある方はお読みいただければさいわいです。

f:id:lichtung:20200127041612j:image

「これは人間ではない––––キャラクタの画像の何がわるいのか」

以下、資料のリンクとかんたんな解説を記載します。

資料

・スライド:

・配布まとめ資料:

引用例

難波優輝. 2020. 「これは人間ではない––––キャラクタの画像の何がわるいのか」描写の哲学研究会, 大妻女子大学.

または、難波優輝. 2020. 「これは人間ではない––––キャラクタの画像の何がわるいのか:発表スライド/まとめ」描写の哲学研究会, 大妻女子大学.

解説

本発表はわたしの修士論文+単著『ポルノグラフィの何がわるいのか––––議論のための哲学的マッピング』に収録される予定の「ポルノグラフィと画像の行為」の章の最初の構想です*2

発表説明の前に、この発表の位置づけを紹介します。

現在のわたしのおおきな問題関心は、ポルノグラフィの倫理的問題です。現在、わたしは、ポルノグラフィが倫理的に問題があるとすれば、それはどのようなものかを整理するための枠組みをつくる研究をしています。規制論や道徳的制裁の手前で、わたしたちが適切な議論を行うのに役立つような枠組みをつくることを目指しています。

その第一弾はこちらになります。

第二弾はこちらです。

このような研究の流れの中で第三弾として、「虚構的キャラクタの画像」に関する問題––––虚構的なキャラクタの画像を提示することは、現実の女性/男性についての何らかの主張や行為なのか、虚構的なキャラクタの画像提示の特有の倫理的問題とは何か––––本発表はこの問いに焦点をあてました。

本発表では、キャラクタの画像の何がわるいのか、すなわち、キャラクタの画像の何が倫理的問題となる/ならないのか、を問います。この問いはいろんな問いを含んだものなので、本発表で問われるのは、つぎのようなふたつの問いです。

虚構的なキャラクタの画像を提示する行為の倫理的問題を適切に問うために

(a)重要な要素はどれで、

(b)それらはどのように関わるか

そして、ふたつの答えが次のものです。

答え(a):(1)画像の内容の意味、(2)画像の使用の意味、(3)構成される行為、(4)提示者、(5)意図、(6)文脈、(7)ジャンル

の各要素が重要で、

答え(b):このように関わる、

f:id:lichtung:20200127033527j:image

キャラクタの画像をめぐる倫理的問題に決定的な答えを与えることが目的ではなく、答えを与えるために問われるべき問いを共有する」。これが本発表の目的です。

虚構的キャラクタの倫理的問題を共有する手がかりとして『宇崎ちゃんは遊びたい!』に登場するキャラクタの画像が献血の呼びかけのための広報の一手段として用いられ、様々な議論がなされた例を、分析美学と言語哲学の議論や概念を手がかりに分析しています。

応用美学の構想

本発表で目指すこと、そして、もう少しひろく言ってわたしのしたいことは「応用美学(applied aesthetics)」と呼ぶのがふさわしいとさいきん考えています。

一方で、極端な例では純粋な理論的関心や魅力に従って研究されるような「基礎美学(foundation aesthetics)」(狭義の美的性質の存在論など)があり、他方で、極端な例では、具体的な関心や実践的要請から研究されるような応用美学があると考えています。

基礎的な研究を手がかりとしながら応用的な(言い換えれば具体的な)問題への分析を行なったり、逆に、応用的な(具体的な)問題から基礎的な研究へと問いをもたらしたりするように、基礎美学と応用美学はひと組になりわたしたちの知識を増やしたり、適切な議論の手がかりとなってくれるはずです。

わたしは、ポルノグラフィをはじめとして、虚構的なキャラクタの画像も含めた、セクシャルな、あるいはジェンダーとふかく関わる表象の倫理的問題に関心があり、研究を行なっています。その動機は、一方で、ジェンダー不平等な社会的状況をつくりだしたり、特定のジェンダーに属するひとびとへの倫理的に問題のある行為を適切に批判し、よりよい社会を目指すために哲学者/美学者として活動したいと考えているからであり、他方で、ポルノグラフィをはじめとして虚構的なキャラクタの画像を含めた、セクシャルな、あるいはジェンダーとふかく関わる表象を実際、鑑賞し、価値づけているひとりの鑑賞者として、ポルノグラフィをはじめとして虚構的なキャラクタの画像を含めた、セクシャルな、あるいはジェンダーとふかく関わる表象の制作や鑑賞の問題のある規制や検閲を避けながら、適切な改善の可能性を模索したいと考えているからでもあります。

応用美学は、(わたしの研究トピックで言えば)ポルノグラフィをはじめとする表象の倫理的問題に対する決定的な答えを与えるというより、答えを与えるために問われるべき問いを共有することをはじめ、わたしたちの実践をよりよく理解し、整理し、次の議論をよりよく行うためのインフラを整備することを目的のひとつとします。

むろん、応用美学はポルノグラフィをはじめとする表象の倫理的問題のみに関わる研究実践ではないものと考えています。たとえば、作品の存在論に関する応用美学は、ビデオゲーム作品のアーカイブとは何でありうるか(ゲームソフトだけか、その説明書などを含めるのか、さらには、ゲームプレイ動画も含めるのか、といった問い)や、カバー曲とは何か(どこまでが引用と認められうるのか)といった問いに対して、基礎美学を手がかりとしながら考察するトピックでありえます。わたしが想像していないトピックもまた数多くありうるでしょう。わたしの応用美学の試みの最初のものは、バーチャルYouTuber文化を理解するために、鑑賞者がバーチャルYouTuberをどのように鑑賞しているのかを分析するための枠組みをつくるといったものでした*3

興味深いことに、すでに法学の分野において、わたしの枠組みを用いた議論がなされており、応用美学のひとつのあり方を示唆してくれています原田伸一朗さんの2019年11月のご発表「バーチャル YouTuber の人格権および著作者人格権(情報ネットワーク法学会第19回研究大会)。

・発表原稿リンク:https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=291490

わたしは、こうした作業が価値のあるものだと現在信じており、こうした作業に名前をつけて、その価値をよりよく伝えたいと考え「応用美学」ということばをひろく提示していきます。この営みにどのような価値がありうるのか、どのように実践に寄与しうるのかは、わたしが主張しているだけではもちろん示されえません。実際に様々な研究者、実践者と協同しながら、社会をよりよくするために応用/哲学者/美学者として研究と活動を行なっていきます*4

難波優輝(分析美学と批評、応用美学)

*1:

*2:こちらの本をぜひ出版したいと考えており、編集者さんのお声がけをお待ちしております。ちなみに現時点での章立てと進捗状況は次のようになっています。

*3:「バーチャルユーチューバの三つの身体」記事のブラッシュアップ版については、を参照してください。また、さいきんの議論については、と、を参照していただければさいわいです。

*4:まだ十分な研究を蓄積できていませんが、応用美学の入門書を書くことも目指しています。こちらも出版社さんからのお声がけをお待ちしております。

2019年のおしごとまとめ

こんにちは。分析美学と批評の研究と実践を行なっております難波優輝です*1。2019年のおしごとを執筆したものを中心に振り返ります。おもしろそうなものがあればぜひチェックしていただければハッピーです*2

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おしゃれとペルソナの哲学

vanitas No. 006

おしゃれの美学––––パフォーマンスとスタイル

蘆田裕史・水野大二郎責任編集、ファッションの批評誌『vanitas No.006』(アダチプレス、2019年)所収。

ファッション研究の典型的な主題は、ファッションデザインナーやものとしての衣服、あるいは流行としてのファッション現象に焦点があてられますが、ファッションすること=「おしゃれすること」は哲学や美学の観点からは意外と語られていません。そこで、「おしゃれすること」をファッション研究における「装い」、アーヴィング・ゴフマンの自己呈示の概念、そして、分析美学におけるパフォーマンスとスタイルの議論から、パフォーマンスとしてのおしゃれ、自己表現としてのおしゃれを捉えるための枠組みをつくりました。おしゃれをするひと、語るひと、あるいはおしゃれを批判するひとに向けたツールキットとして、さらに、現実のおしゃれだけではなく、アバターをまとうことを考えるためのヒントとして役立てていただければうれしいです。

ヱクリヲ vol.10 特集I 一〇年代ポピュラー文化――「作者」と「キャラクター」のはざまで 特集II A24 インディペンデント映画スタジオの最先端

バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学––––配信のシステムとデザイン

『ヱクリヲ』Vol.10、一〇年代ポピュラー文化/A24特集(ヱクリヲ、2019年)所収。

分析美学を手がかりに、バーチャルYouTuberとそれをみる鑑賞者との情動的な関わり、すなわち「エンゲージメント」のシステムとデザインを明らかにします。バーチャルYouTuberについて批評や論考を書きたいが、いったいどんな文献があるのかわからないとお悩みの方にもおすすめです。メディア論から分析美学まで、文献表も充実しております。個人的には「配信の美学」の構想に向けた第一歩として、バーチャルYouTuberにとどまらず、実況者やゲーム実況研究の土台のひとつをつくれたように思います。

バーチャルYouTuberの三つの壊れ––––設定、身体、画像

ヱクリヲweb(2019年)所収。

作家の名倉編によるグレアム・ハーマンの四方対象の枠組みを用いたバーチャルYouTuberの構造と魅力の分析、そして作曲家、批評家の灰街令の批評を手がかりに、バーチャルYouTuberの独自性に関わる「三つの壊れ」について分析しました。バーチャルYouTuberの三層理論の発展とその外部での広がりへと進もうとする論考です。バーチャルYouTuber研究と哲学研究の交差をおたのしみください。

アニメーションと音楽の美学

アニメーションの美学––––原形質性から多能性へ

『アニクリ』vol.6s(アニメクリティーク刊行会、2019年)

セルゲイ・エイゼンシュテインによって提示され、アニメーション研究者の土居伸彰によって議論された、アニメーションの特質としての「原形質性」を分析美学の道具立てから再考し「多能性」概念を提示します。原形質性を、多能性、すなわち、アニメーションにおける素材、メディウム、そして内容のレベルにおける様々な自由さとして捉え、描写の哲学における因果性、ネルソン・グッドマン的記号システム論、そしてノエル・キャロルの隠喩の概念からアニメーションならではの特徴を明らかにしています。

『人形のおどり』『惡の華』『リズと青い鳥』『この世界の片隅で』『新世紀エヴァンゲリオン』『かぐや様は告らせたい』の「チカダンス」、『ルクソーJr.』などを取り上げ、概念のインフラストラクチャづくりを目指しました。ここがアニメーションの美学研究のひとつの出発点となることを期待します。

作画崩壊の美学––––崩れとミスピクチャ/ミスの美学––––ミスワーク、作画崩壊、バグ/約束のない壊れ––––「キャラジェクト」の向こうで

『アニクリ』vol.7s(アニメクリティーク刊行会、2019年)

作画崩壊とは何か、その芸術的価値と美的価値とは何か、そして、失敗した作品がもつ美的価値とは何か、さいごに、灰街令の「キャラジェクト論」をキャラクタの存在のあり方から読み直す論考です。アニメーションに潜むもつれの謎が気になる方へ。

アニメーションにとって音/楽とは何か––––一致と残余の音響記号論

『アニクリ』vol. 3.5(アニメクリティーク刊行会、2019年)

アニメーションの音響と画像/映像の内容の響き合いを一致と残余をキーワードに分析しています。アニメーションの美学プロジェクト第2弾です。

向こうのないわたし(たち)––––大内りえ子の思索するアニメーション

短編.jp(2019年)

短編アニメーション作家大内りえ子の諸作品をキャラクタとわたしたちのあり方を思索するアニメーションと解釈し、その思考に応答する批評です。短編/アニメーションのみならず、キャラクタとペルソナの哲学に関心のある方に向けて。

ユリイカ 2019年12月号 特集=Vaporwave ―Oneohtrix Point Never、Vektroidから猫 シ Corp.、ESPRIT 空想、2814まで…WEBを回遊する音楽―

Future Funkとアニメーション––––ふたつの夢の分析

ユリイカ』特集=Vaporwave(青土社、2019年)所収。

サブジャンルFuture Funkに焦点をあて、ジャンルを分析し、古典的なVaporwaveとのちがいを論じ、作品の鑑賞経験を映像と音楽の意味の〈響き合い〉から分析します。図と怒濤の文献リストもチャームポイント。渋めな論考で気に入っています。

批評の哲学とその実践

フィルカル Vol. 4, No. 3―分析哲学と文化をつなぐ―

批評の新しい地図––––目的、理由、推論

『フィルカル』(ミュー、2019年)所収。

批評とはいったいどんな営みなのか。批評の哲学における理由と推論をめぐる議論を手がかりに、批評という多様で複雑な営みを理解し実践するための地図づくりを目指しました。批評を考える/書く/読むひとに向けて。

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

キャラクタの前で

草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』(早川書房、2019年)。

『最後にして最初のアイドル』(早川書房、2018年)で鮮烈なデビューを飾った若手SF作家のなかで強烈な磁場を生み出している草野原々さんの長編第一作『大進化どうぶつデスゲーム』の続刊『大絶滅恐竜タイムウォーズ』の解説です。同時に、草野さんのプロットや草稿をいっしょにお読みしてご相談を手伝う「ノベルドラマトゥルク」として制作を微力ながらお手伝いいたしました。個人的に、草野さんとの会話はたのしくて、いったいつぎの打ち合わせではどんな物語を喋ってくれるのだろう、とわくわくし続けた日々でした。

ここで、さいごまで読んでいただいた方におまけとして、採用することにはいたらなかった解説の草稿を少しお見せします。

『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、時間と空間を横断/切断しながら、語り手を変えながら、物語が異質なものに変わり、キャラクタが破壊されたさきを探ろうとする、物語を破壊しながら、原初の物語の力を思い出させる作品だ。
一方で、本作は物語に読者が期待するたのしみを裏切る––––キャラクタへの「感情移入」のたのしみ、キャラクタの関係性に「エモさ」を感じることに対するメタ的視点の導入、物語への「没入」の快楽を堰き止めるような、くせのあるいくつもの語り手の登場––––。
他方で、本作は、読み手が知っていたはずの、しかし、忘れかけていた「物語の根源的なよろこび」を突き詰める。物語は、まず、誰かによって語られるものなのだ。わたしたちの祖先が焚き火の周りで聞いた神話、旅情の寂寥を慰撫するように、旅籠で耳を傾けた吟遊詩人の語り、そして、親たちが語りかけるお話たち––––。そこには、語り手が紡ぎ出す独特なリズム、荒唐無稽な出来事をつなぐふしぎな理由が次々とつむがれ、説得されるたのしみがある。
このお話は、一方で、物語を破壊する。それにより、読み手に物語への反省的態度を要求する。他方で、このお話は、物語の祖先へと回帰する。それにより、語りを聞く原初的なよろこびをもたらすのだ。
本作は、これまでの草野作品の様々な要素––––メタフィクション、進化、キャラクタ、関係性、理由、心、生と死––––が流れ込み、さらにもう一段、物語の力とゆたかな物語の実験が組み込まれ、うみだされた作品だ。『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、原々文学の最前線だ。

おわりに

2019年は幸運にも様々な方々からお声がけいただき、文章を書く機会をいただけました。のみならず、研究者の方々、周囲の友人の力を借りながら大過なく研究活動を進めることができました。みなさまに感謝いたします。さいごになってしまいましたが、どこかでわたしの文章を読んでいただいたあなたにも、こっそりありがとうとお伝えしたいです。

みなさま、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

よいお年を。

難波優輝(分析美学と批評)

*1:現在神戸大学人文学研究科の博士課程前期課程に所属しております。

*2:松永さんのこの記事を真似ました。宣伝はだいじ。

プロフィール

名前

ナンバユウキ

連絡先

Twitter: @deinotaton

Mail: deinotaton☆gmail.com(☆を@に変えてください)

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プロフィール

分析美学を手がかりとして、フィクション、批評、そして芸術と倫理との関係を研究しています。特に、現在は人間とキャラクタの表象についての理論の構築に関心を持っています。また、批評に美学の道具立てを応用する試みを行なっています。以下、研究関心について説明します。 

1. 芸術とは何か

卒業研究では、「芸術とは何か、そしてそれはどのようにして明らかになるのか」という題のもと、芸術の概念とそれを問う方法論について取り組みました。動機としては、芸術という概念が持つ特有の評価的な含みがどのようにして作り上げられたのかに関心があったからです。
第一に、分析美学における芸術の定義論を取り上げ、その成果から、必要十分条件の探索に加えて、第二に、芸術の概念史を追う必要を主張しました。主には、P. O. クリステラーの古典的著作「近代的な諸芸術の体系」にある、「芸術の体系すなわち、詩・絵画・彫刻・音楽・舞踊という五つの代表的な芸術形式を要素とする一つのグループが18世紀に始めて誕生した」とする主張を、それが依拠するアリストテレスプラトンの言説を精査する限りでは根拠不十分であることを先行する議論を手がかりに示し、芸術の概念史の研究の必要性を主張しました。

2. 芸術から、様々な表現へ

芸術の概念の研究を進める中で、芸術という大きなカテゴリのみならず、絵画や写真、映画や音楽といった様々な形式のそれ自体の特徴に注目する重要性を再確認し、現在では、ファッション、アイドルなどいわゆる伝統的な芸術形式とはみなされないようなポピュラー文化の分析を進めています。
とはいえ、わたしは根っからのアイドルファンでもおしゃれ好きでもありません。しかしだからこそ、こうしたポピュラー文化に興味を持っています。
なぜなら、わたしたちが幼い頃から影響を受けてきた/受け続けているのは、こうしたポピュラー文化における表現であり、ゆえにこそ、生活に織り込まれたポピュラーなものの分析と批判からわたしたちの感性の日常的なあり方が(そしてその倫理的問題が)明らかにされると考えているためです。そこで、特に、わたしたちの身近に存在し、それに深く関わっている表現形式、すなわち、「人間の表象が鑑賞される文化」について取り組んできました。

3. パーソン、ペルソナ、キャラク

具体的には、アイドルやキャラクタをはじめとする人間のあるいは擬人的な表象が鑑賞される文化実践に関心を持ち、これまで、2017年末からネット文化に浸透しはじめたバーチャルYouTuberという、アイドル、YouTuber、そしてキャラクタ文化が重なり合った特徴的な文化について、メディア論、美学、スター研究を手がかりに、パーソン、ペルソナ、そしてフィクショナルキャラクタの三層からなる文化形式についての理論を構築しつつ研究してきました(難波 2018a; ナンバ 2018b)。今後、その美的特徴を明示化しつつ、倫理的問題との関係からも研究を続けていきます。

4. 美学の実践としての批評

こうした理論構築の作業と並行して、分析美学や芸術学において提示された道具立てを批評に応用することを試みています。たとえば、虚構的ポルノグラフィと窃視の倫理性に関する議論を用いた映像批評(難波 2018b)や芸術のカテゴリを用いての(ナンバ 2018a)あるいは、映画の哲学や人形美学の議論を援用した作品批評(ナンバ 2018c)を行っています。
理論と概念は自律的に構築されうるわけではなく、実践や実際の表現を記述、理解するためにあり、逆に、実践と記述は、理論と概念とによって部分的にせよ形作られうると考え、美学研究とその実践としての批評の往復をひとりの実践者として試みています。

研究キーワード
  • 美学、分析美学、芸術の哲学、音楽哲学、批評、フィクション、ポルノグラフィ、パーソン、ペルソナ、キャラク
研究分野
  • 芸術学 / 美学・芸術諸学 / 
書籍など出版物
ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

ユリイカ』2018年7月号(担当:分担執筆、範囲:バーチャルYouTuberの三つの身体––––パーソン、ペルソナ、キャラクタ)

論文

難波優輝. 2018a.「バーチャルYouTuberの三つの身体––––パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』50 (9) 特集バーチャルYouTuber, 青土社, 117-125. [依頼あり]
難波優輝. 2018b. 「鳩羽つぐとまなざし––––虚構的対象を窃視する快楽と倫理」『硝煙画報』第一号, 81-87. [依頼あり]

個人ブログ記事

ナンバユウキ. 2018a. 「鳩羽つぐの不明なカテゴリ––––不明性の生成と系譜」Lichtung Criticismhttp://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/03/25/044503
ナンバユウキ. 2018b. 「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン

ナンバユウキ. 2018c. 「高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/08/10/『高い城のアムフォ』の虚構のリアリズム:虚実

ナンバユウキ. 2019.「『ガールズ ラジオ デイズ』––––周波数を合わせて」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2019/01/16/『ガールズ_ラジオ_デイズ』––––周波数を合わ

電子発行物

ナンバユウキ. 2018a. 『音楽哲学入門読書ノート』Lichtung Mallhttps://lichtung.booth.pm/items/963883
ナンバユウキ. 2018b. 『高い城のアムフォの虚構のリアリズム––––虚実皮膜のオントロジィ』LIchtung Mallhttps://lichtung.booth.pm/items/960935

関連サイト

研究ブログ:Lichtung http://lichtung.hatenablog.com

批評:Lichtung Criticism http://lichtung.hateblo.jp

電子発行物:Lichtung Mall https://lichtung.booth.pm

美学相談〈ソフィスト〉はじめました

はじめに

こんにちは。神戸大学大学院人文学研究科博士課程前期課程所属、難波優輝です。このたび、感性と表現に関する哲学的問いの調査・解決・教育サービス〈ソフィスト〉を本格的に開始します。本記事はそのサービスの紹介、名前の由来、そして、サービスをはじめた理由と展望をご説明いたします。

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ソフィスト〉とはどんなサービスか?

・〈ソフィスト〉とは、「感性と表現に関する哲学的問いの調査・解決・教育サービス」です。主に分析美学を専門とする難波が、クライアントさまのご提案に応じて、感性と表現に関する哲学的問いにまつわる疑問を解決するためのお手伝いをしたり、学習や研究の参考になるような文献をいっしょにお探ししたり、また、原稿などについて添削やアドバイスを行うサービスです。

・たとえば、次のようなサービスが候補にあります。

  • 哲学の文献の読み方をお教えする。
  • テーマの探し方や文献の探し方をお教えする。
  • 文章の制作の仕方を構想からお教えする。
  • わたしが専門として取り組んでいるバーチャルYouTuber、アニメーション、美的なものと倫理的なものの関係、おしゃれ、音楽の哲学などのトピックをお話しする。
  • わたしに美学よもやま相談をしていただきどんな研究があるかをご紹介する。
  • 独学の方法をお教えする。
  • 大学院選びのお手伝いや研究へのご質問にお答えする。
  • 作品制作の際に参考となる美学の議論や概念、枠組みをご紹介する。

なぜ〈ソフィスト〉なのか?

ギリシアにおいて弁論の技術を対価を伴って教えていたというソフィストたちに習って、「美学教育と相談を価値に変える」という文化を作り出そうという野心のもとはじめました。

・昨今、人文系の大学院に所属する、あるいは人文系の大学院を卒業したひとびとには、そのスキルに合致する職業がじゅうぶんにあるとは言えません。そこで、ないならつくってしまおうと思い立ちました。

・研究のスキルを価値に変える、というスタイルは伝統的なイメージの中の、「学究に邁進し、暮らし向きに無頓着な哲学者」というスタイルとは、対立するわけではないものの、すんなりとは馴染まないでしょう。ここで哲学者には避けられてきた「ソフィスト」ということばを自称とするのは、アカデミックな世界での生活の困難な時代がはっきりと姿を現しつつある現時点で、研究に専念し、アカデミックな所属によって生活をつなぐのみの哲学者のモデルから新しい哲学者の生き方のモデルを探そうとする試みのモチーフとして、この言葉がふさわしいと考えるからです。「学究に邁進しつつ、そのスキルをひとびとに提供して生きていく哲学者」という生き方をソフィスト的生き方とだぶらせ、その実現を試みます。

ソフィスト〉とは誰か?

・現在、〈ソフィスト〉のメンバーはわたし難波優輝ひとりです。わたしは、分析美学を手がかりに、ポピュラーカルチャーの分析を行っています。フットワークの軽さや異なる文化に属するひととのコミュニケーションに臆さないことがわたしの武器です。研究者としては駆け出しですが、何にでも興味を持つ能力に関しては誰にも負けないし、誰も足を踏み入れていない地点に飛び込む勇気にかけては、知り合いの研究者の中でも指折りだと自負しています。

・〈ソフィスト〉のサービスにおいて、クライアントの知識は話しながら確認していき、いっさい前提しません。哲学の名を冠している限りは、知らないことを知れることが、そして、知らないことを知らせることができることが価値あることだと思える空間をつくりたいと考えています。ですのでクライアントの方には、安心して「いったい何を言っているの?」「もっと教えて!」と質問していただければさいわいです。

・難波の素性や業績はつぎのresearchmapという研究者用サイトをご覧ください。

・まだ遠い先の話ですが、難波の実践がうまくいけば、継続するなかで、ソフィストのメンバーも増やしていければと考えています。

なぜ〈ソフィスト〉をはじめるのか?

・音楽家にとって演奏会がその活躍の主たる場であるように、論文と発表が学者の舞台です。ですが、それで生きていくのにじゅうぶんなお金は発生しません。

・もちろん、寄稿する雑誌の運営の方は原稿料をくださいます。しかし、生活するためには、論文執筆では十分ではない。なので、論文書きは発表会、演奏会と考えて、それ以外の教育や調査で稼ぐという、演奏家音楽教室スタイルが哲学者の取りうる有力な道のひとつだとわたしは考えています。その音楽教室が過去はアカデミックな就職口、大学の教授、講師でした。ですが、この国の現状をみていると、特に人文系の就職状況に関しては、かなり厳しいものがあります。

・公の野望は、哲学者の個人教室の流行です。哲学者が論文を舞台としつつも、哲学の教室や個人教授で暮らしていけるロールモデルを模索し、わたし自身が実践していきます。

時間と体系

・時間:基本は90分、Skypeやhangoutなどを介して、一対一を基本としています。ご要望により、30分、60分のサービスも可能です。その場合、90分を基準に割って計算いたします。

・90分(30分、60分)のレクチャを一回として、気になったことだけについて一回きりでもまったく構いませんし、継続してご依頼頂くこともできます(とてもありがたいです)。

・おおきくみっつのサービスと対応して違いがあります。2020年2月17日時点でつぎのようになっています。以下は税別です。

  1. 美学や研究全般についての相談(大学院選び、美学よもやま話)、分析美学概論→90分、9000〜
  2. 添削指導や研究、勉強方法の指導→90分、12000〜
  3. 個別のトピックに関するレクチャ→90分、15000〜

・クライアントさまのご要望をわたしが理解したものをご提示し、「こちらの内容ですと、2.になります。そして、60分とのことで、こちらの数字になります」など、先に計算を確認した後にはじめてレクチャの開始となりますのでご安心ください。

・基本的にはレクチャの後に指定の振り込み先をお伝えいたします。

・個別のトピックに関するレクチャやサーベイなど、準備に時間や調査、資料収集が必要な場合は見積もりの額を先にいただきます。

・複数人や長いスパンでのレクチャや指導(原稿執筆の継続的な添削や勉強の長期にわたるアドバイス)などもご相談くださいませ。グループですと割引きもあります。

・現在のところはskype講座外での継続的なサービス(メールでの相談サービス、個別の論文添削サービスなど)は行なっていません。ですがご依頼があれば個別に対応いたします。

申し込みフォーム

Twitterでも受け付けています。

おわりに

・〈ソフィスト〉のような試みは、同時代に行なっているかたを見つけることはできず、完全に手探りの状態です。哲学・美学は決して不必要でも役に立たない学問でもなく、わたしたちがよりよく、よりたのしく生きるにあたって役に立つ学問だと信じています。それゆえ、よりよく、よりたのしく生きることを望むかたがおられる限りは、哲学・美学を必要とするかたがいらっしゃると考え、これから〈ソフィスト〉を運営、発展させてくことはできると考えています。

・より実際的な話として、研究者が生き延びる方法の多様化を目指し、研究者が、アカデミックなポスト以外で、しかし、そのスキルを活かし、研究を続けながらどのように生き延び得るかを、試行錯誤のなかで考えていきます。応援どうぞよろしくお願いいたします*1

難波優輝/ナンバユウキ(分析美学と批評)Twitter: @deinotaton

*1:ちなみに、〈ソフィスト〉のロゴは、ふたりの人間が向かい合うさま、そして、sophistのふたつのsのギリシア文字の大文字のΣをフューチャーしています。