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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第9章 はじめに言葉ありき、しかして音楽ありき

第9章 はじめに言葉ありき、しかして音楽ありき

この章では、言葉と音楽をめぐる問題オペラ楽劇の歴史を通して検討する。

第1節ではオペラ以前の歴史を宗教改革との関連から記述し、第2節ではオペラの問題をその形成とともに述べ、第3節では音楽と言葉へのまなざしの変化を情動理論の変化とともに探り、第4節ではオペラと楽劇の相違点を指摘する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 言葉と音楽の問題

これまでの章では、言葉を伴わない音楽を扱ってきた。というのも、それが音楽の哲学から見て、とくに情動に関してさまざまな問いを引き起こすからである。けれども、何度か指摘したように、そういった言葉を持たない音楽は、音楽のなかで中心的な位置を占めてきたわけではない。むしろ、言葉を伴う音楽の方が、歴史的にも、そして現在においても、音楽のなかで存在感を示してきたし、いまなお示し続けている。ゆえに、音楽哲学においても、言葉を伴う音楽を等閑視するわけにはいかないし、実際、それは際立ったかたちでわたしたちに問いを投げかけてくるのである。(p.160, par.1, 2)
けれども、それだけ時空間的に広範囲に存在している言葉を伴う音楽を、やみくもに問うてゆくわけにはいかない。わたしたちは問いの範囲を限定しなければ途方にくれてしまうだろう。そのため、現代的な哲学において問われる、主に西洋音楽史における言葉と音楽をめぐる問いに限定することにして、この章、そして続く章でも問いを問うてゆくこととする

第1 音楽的劇と対抗宗教改革

この問いの出発点となる次のふたつの出来事、すなわち、〈音楽的劇〉(musical drama*1より一般的な言葉に言い換えるなら〈オペラ〉(opera)の発明、そして〈対抗宗教改革〉(Counter-Reformation)をこれから扱う。これらは16世紀後半、ルネサンスの終末と〈近代〉(modern era)のはじまりの出来事である。(par.3)

対抗宗教改革〉とは、プロテスタントによる宗教改革への対抗としての、あるいはそれ以前から継続していた一連のカトリック教会内における改革運動のことである。(p.161, par.1)
その改革は1554年から1563年にかけて行われた〈トリエント公会議〉(Council of Trent, (羅)Concilium Tridentinum)において極まった。ここでは、カトリックの儀式、哲学、神学などさまざまなものがあらためて確認、そして刷新された。そのなかでも、音楽についての論争に注目しよう。

そこで問題となっていたのは教会音楽における歌詞の理解であった。ある者たちは、あまりに複雑化した音楽のせいで、肝心の歌詞が聴き取れず、理解できなくなっていることを指摘した。(par.2)

その非難の正否を検討する前に、そうした非難の的になった当時の音楽がどのようなものであったのだろうか、これを確認しよう。

第2 ポリフォニー

中世から16世紀中期・後期ルネサンスにかけて、典礼音楽は複雑化し、〈ポリフォニック〉(polyphonic)なものになっていた。ポリフォニックとは何か、すこし説明を加えよう。(par.3)

ポリフォニックな音楽、すなわち〈ポリフォニー〉(polyphony)には広義の意味と狭義の意味とがある。
広義のポリフォニーとは、メロディーとその以外の音が同時に鳴っている音楽のことである(any music where there are more tones sounded simultaneously than simply those of the melody)。例えば、メロディーとその他にシンプルな和音のみを伴う民謡なども広義のポリフォニーである。(p.162, par.1)
そして、狭義のポリフォニーとは、2つかそれ以上のメロディーが同時に演奏される音楽のことである(music consisting of two, three, four, or even more separate melodies, sung or played (or both) simultaneously)。かつまた各々のメロディーは美しく、互いに調和的でなければならない。(par.2)

そして中世の終わり頃からカトリックの教会音楽は、狭義のポリフォニーであった。そして、各声部がそれぞれの歌詞を歌い、その内容を聴き取ることは難しかった。宗教的な意味は音楽の喜びのために消し去られてしまっていた(The religious message was being obliteratedh in the interest of musical pleasure.)。ゆえにトリエント公会議では、音楽そのものの楽しみとと言葉の理解可能性との折り合いをいかにつけるかが争われた。(par.3)

ひとつの案として、ポリフォニー音楽を完全に廃止し、グレゴリオ聖歌のような単旋律(monodic)音楽に回帰することが提案された。(p.163, par.1)
しかし、一時は真剣に検討されたこの案は、音楽の愛好者によって差し止められ、替わりに、作曲者たちに、ポリフォニー音楽を簡素化すること、通常の発話のリズムやペースにより一致させることを命じるかたちで決着がついた(The composers were directed to simplify their polyphony, and be more faithful to the rythm and pace of ordinary speech.)。(par.2)
こうした解決法は、教会とは別に、第2章で触れたカメラータ(camerata)が希求した解決法にも通ずる点がある。というのも、彼らも、音楽に歌詞を加えつつ、いかにしてその歌詞を聞き取れるものにするかという問題に取り組んでいたからだ。(par.3)
ここで、カメラータについて触れよう。

彼らもまた、カトリック教会とは別の観点からポリフォニー音楽を批判していた。というのも、彼らはギリシア音楽が聴衆に深い情動的な衝撃を与え得たと信じており、それは、ポリフォニー音楽のように異なるメロディを混濁(garble)させてしまう方法ではなく、ひとりの歌手が、和声的な伴奏とともに単旋律を理解可能な情動の〈メッセージ〉(message)として演奏することで実現されうると考えた(a lone singer, a single melody, a completely intelligible emotive 'message')。(par.4)
こうした考えから彼らは後のオペラにつながる最初の音楽劇〈音楽のための劇〉(drama per musica)を創り出した。(p.164, par.1)

第2節 オペラの問題

さて、第2節ではオペラについて、特にそれが孕む問題について考えよう。

オペラには、音楽とテキストの関係における問題が潜んでいる。(par.2, p.165, par.1, 2)
音楽は、オペラ内の曲でも同様に、〈循環的〉(cyclic)な形式を持つ。しかし、ナラティヴフィクションは〈直線的〉(linear)な形式持つ。もちろん、ナラティヴフィクションも回想(flashback)を行なったり、物語の途中から開始されることもある。しかし、本筋はゴールへと向かう一方通行の形式をしている。こうした流れる方向の違いが〈オペラの問題〉(problem of opera)を生むのだ。どういうことか。もうすこし議論を見てゆこう。(p.165, par.3, 4, 5)

オペラ・セリア

17世紀のはじめ、最初期のオペラは〈音による会話〉(conversations in tones)、あるいは〈舞台様式〉(stile rappresentativo)によって構成されていた。当時のオペラは言葉を主とし、音楽を従とするもので、短い歌や合唱、器楽、が含まれていたものの、それらは周縁的なものに過ぎなかった。(p.166, par.1)

そうした状況下で、さきほど軽く触れた、音楽の循環性とドラマの直線性というオペラの問題を調停するために様々な提案がなされてきた。その中で特に満足できうる解決を図ったものを2つ検討しよう。(par.2)

1 オペラ小史

それをオペラの歴史を辿りながらその解決策を検討する。
舞台様式を含むような最初のオペラは17世紀のはじめに現れた。その最初の実践者は著名なイタリアの作曲家モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi 1567-1643)であった。彼の著名な作品《オルフェオ》(orfeo)は偉大ではあるが、しかし、オペラの問題を解決するにはいたっていない。やはり〈音楽的会話〉(musical speech)に止まるものだった。つまり十分に音楽的な循環的形式とドラマの直線的形式とが統合されているわけではなかった。(par.3)
その後また、別の発展が18世紀の最初の30年間でなされた。
英国で活躍したドイツの作曲家ヘンデル(Georg Frideric Handel 1685-1759)は〈オペラ・セリア〉(opera seria)という形式のオペラを創り上げ、音楽と劇との調停を図った。(p.167, par.1)
オペラ・セリアは〈番号オペラ〉(number opera)でもあった。これはひとりの歌手にオーケストラが伴う〈アリア〉(aria)という音楽的な部分と、およびその他の部分ほとんど通常の発話に近い〈セッコ・レチタティーヴォ乾いた叙唱)〉(secco recitativo)とにはっきりと分かれており、初めから順に番号のついているオペラの形式である。
セッコ・レチタティーヴォは、聴衆に何が起こっているのかを説明したり、登場人物のモノローグやダイアローグが展開される際に用いられる。他方アリアは、劇中の出来事に対して登場人物が自分の情動を表現する際に用いられるものである。セッコ・レチタティーヴォが直線的に物語を語るのとは対照的に、アリアはA-B-Aという音楽の反復のパターンを持っていた。こうして、オペラにおける劇と音楽の調停が、演劇的なセッコ・レチタティーヴォと、音楽的なアリアの結合によって図られたのだ。(par.2)

2 ダ・カーポアリア

しかし、これはオペラの問題の完璧な解決とは言えない。なぜならアリアにおいて、次の問題が生まれているからだ。(p.168, par.1)
オペラセリアに含まれるアリアの多くは〈ダ・カーポアリア〉(da capo aria)として知られている。これは、さきほどA-B-Aの形式として触れたように、楽譜において、ひとつめのセクションAが演奏され、次にふたつめのセクションBに移った後、Bの最後にダ・カーポ(はじめから)の指示が記載されており、ふたたびAを演奏して終わる、という形式である。たとえば、ある女性の登場人物が愛を歌い、そして嫉妬を歌い、最後にふたたび愛を歌う。(par.2)
ダ・カーポアリアはその循環的な形式ゆえ音楽的には優れている。とはいえ、ドラマ的リアリズムからは疑問の余地がある。というのも、普通わたしたちは感情をA-B-Aの形式で表現するわけではない。つまり繰り返して表現することはない。言ってみれば、ダ・カーポアリアは情動をくよくよと悩んでいるが、実生活の感情は抑えることなしに突き進んでゆく(The da capo aria dwells on emotions; in life emotions rush on unchecked.)。これが実情である。とキヴィは述べる。(p.169, par.1)

第3節 情動理論の変化

けれども実のところ、当時、ヘンデルのオペラセリアという形式に以上のような批判が向けられることはなかった。というのも、18世紀前半のダ・カーポアリアは当時の哲学的な情動理論と整合的であったし、当時のオペラにおいて一般的であったキャラクター(character)とも合致していたのだ。

その訳を詳述しよう。

当時の情動理論は第2章でも触れたように、1649年に出版されたデカルトの『情念論』によって打ち出された理論が一般的であった。情動は静的なもので、数も限られており、ちょうどダ・カーポアリアで表現される情動と合致していた。

それに加えて、当時のオペラにおけるキャラクターは類型化され、強迫的に情動に取り憑かれ、反復的にその情動を表現する存在だった。(par.2)

ゆえに、ダ・カーポアリアの形式は時の状況にうまく適合していたのだ。
けれども、18世紀後半、情動理論の変化が音楽の嗜好の変化とともに起こった。(par.3)
まず、イギリスで新たな情動理論が生まれた。それは〈観念連合主義〉(associationism)と呼ばれるものである。これは、ひとが思いつくすべての観念は、それ以前の観念との〈連合〉(association)によって生まれるとするものである。よって、観念連合主義者は、情動が生得的(innate)なものであるというよりは、獲得された(acquired)ものだと考える。そしてデカルト的な情動説とは異なり、情動は曖昧で、個人的で、移ろいやすいものだと考えた。(p.170, par.1, 2, 3-p.171, par.1, 2, 3)

ソナタ形式

デカルト的な情動説を採用する者からすれば、ダ・カーポアリアは現実に即したものだったが、観念連合主義者はダ・カーポアリアを現実にそぐわないものとみなす。
デカルト的情動主義者においては、ダ・カーポアリアのA-B-Aというそれぞれの部分は、それぞれの情動を表し、ひとつずつで完結していること、そしてそれゆえに、繰り返しの部分が存在しても、それらが互いに閉じているがために、不自然ではないと考えられていたのだった。他方、徐々に存在感を増していった観念連合主義者にとってはこうした情動の表現の形式は不合理なものに思えた。(par.4, p.172, par.1)
それでは、この新しい情動説に適合するような音楽の形式はいったいいかなるものだろうか?
それは、観念連合説と時を同じくして現れた〈ソナタ形式〉(sonata form)である、とキヴィは述べる。(par.2)
ソナタ形式は、18世紀後期から19世紀にかけて、すべてではないにせよ多くの器楽曲に採用された楽曲形式である。ダ・カーポアリアはひとつのセクションにひとつのテーマ(monothematic)しか持っていなかった、すなわち〈単-情動的〉(mono-emotive)であった。しかしソナタ形式はこれとはおおきく異なる。その詳細をみてゆこう。(par.3)
以前触れたように*2ソナタ形式には3つのセクションがあった。ひとつはその楽章のテーマを提示する〈提示部〉(exposition)、次に、そのテーマが変奏される〈展開部〉(development)。最後に〈再現部〉(recapitulation)でははじめのテーマが調を変えてふたたび現れ、そして曲が閉じる。(p.173, par.1)
このソナタ形式の構造とダ・カーポアリアの構造とは、おおきく言えばA-B-Aという同一の構造である。しかし、両者には大きな違いがある、とキヴィは指摘する。(par.2)
ソナタ形式ダ・カーポアリアとは異なり、さまざまなテーマを用いる。まず提示部では3つ以上のテーマが提示され、展開部では、ちょうど観念連合主義者の描く情動のように、テーマが変奏されることで、提示された情動が変化してゆくのだ。(par.3)
こうした観念連合主義者とソナタ形式の同時代的な出現がオペラを新たな方向へ導いた。(par.4)

けれども、依然としてオペラには問題があった。オペラにおいて物語の進展はセッコ・レチタティーヴォによって担われ、ダ・カーポアリアが挿入されると物語の進展は止まってしまう。すなわち、動きのあるところには音楽がなく、音楽があるところに動きがない(The paradox is that where there is action there is no music, and where there is music there is no action.)という問題があった。(p.174, par.1)

これに対して、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Morzart 1756-1791)は今日〈ドラマティックアンサンブル〉(dramatic ensemble)として知られる技法を用いた。(par.2, 3)
モーツァルト喜歌劇(comic opera)においては、セッコ・レチタティーヴォによって音楽の流れが中断されることなく、音楽的な対話(musical dialogue)によってプロットが進行してゆく。(par.4)
この代表例は1786年初演《フィガロの結婚》(Le Nozze di Figaro)の第4幕第2場にみられる。ここでは総勢8名の登場人物を伴って939小節にわたる切れ目ない音楽が披露される。この音楽は厳密な意味ではソナタ形式ではないが、アメリカのピアニストで音楽学者のローゼン(Charls Rosen 1927-2012)が〈ソナタの原理〉(sonata principle)と呼んだ形式がみられる。(par.5)

第4節 オペラと楽劇

さて、以上オペラの問題について検討してきたが、ここからさらにオペラという形式そのものの問題について扱う。

そこでキヴィは〈オペラ〉(opera)と〈楽劇〉(music drama)の区分を導入する。(p.175, par.2)
オペラという語でキヴィが意味するのは、音楽の循環的な形式を保ちつつも、ある程度許容できるような劇的な、特に情動的な点での真実味を保とうとするような演劇的な作品のことである(By 'opera' I shall mean those kinds of musical theater in which an attempt is made to preserve the closed musical forms and still maintain some acceptable degree of dramatic and (especially) emotive verisimilitude: dramatic and emotive 'realism.')。(par.3)

オペラにはある〈不条理〉(absurdities)があると指摘する者もいる。それは、そもそも、全ての出来事は、歌う暇もなければ、歌うことが不可能であるはずなのに、ダ・カーポアリアやセッコ・レチタティーヴォによってプロットが動機付けられているという点である(all of the events that there is no time to sing, or can't be sung, that motivate the plot)。(p.176, par.1)

第1 ジングシュピール

この不条理に作曲家はふたつの方法で対応した。ひとつは、オペラ的な形式を修繕してこの問題の解決を図る方法、もうひとつは、そもそも、〈オペラの問題〉(problem of opera)を拒否する方法である。前者の方法は、〈ジングシュピール〉(Singspiel)と呼ばれるもので、おおすじではダ・カーポアリアとの違いはないものの、登場人物の対話の場面においては〈レチタティーヴォ(叙唱)〉(recitativo)を用いるのではなく、ストレートに言葉を用いたものである。(par.2)
この形式はギルバート(William Schwenck Gilbert 1836-1911)とサリヴァン(Arthur Seymour Sullivan 1842-1900)コンビによる〈オペレッタ喜歌劇)〉(operetta)に、また、ベートーヴェンの『フィデリオ』といったシリアスなオペラにも採用された。(par.3)
けれども、この方法も、問題含みである。セッコ・レチタティーヴォ及びダ・カーポアリアの両者によって構成される、延々と歌い続けるオペラの形式と、ジングシュピールのような時に歌い、時に歌わない形式のどちらがより不条理でないか、という考え方こそが疑問である。(par.4)

第2 メロドラマと伴奏付レチタティーヴォ

次に、〈オペラの問題〉(problem of opera)そのものを拒否する方法について取り上げる。
これについて、キヴィはさきほど取り上げた〈楽劇〉(music drama)が採用したふたつの実験(experiment)を検討してゆく。
ひとつは、〈メロドラマ〉(melodrama)という形式の発明である。オペラの問題が登場人物の語りや歌唱の混合であるなら、そもそも歌唱を取りやめ、語りのみにし、かつ、キャラクターの発話を補強するような音楽を伴わせようとしたものである。これは音楽そのものの魅力を減退させてしまったが、オペラセリアを補強する形で採用された。また、バックグラウンドミュージックという点から、現代の映画音楽にも通じていると言える。(p.177, par.1, 2)

ふたつ目の実験はドイツの作曲グルック(Christoph Willibald (von) Gluck 1714-1787)によって行われた。彼はイタリアのオペラセリア(opera seria)を〈改革〉(reform)したと言われる。(par.3)
その改革の代表例は《オルフェオとエウリディーチェ》(Oefeo ed Euridice)(1762年初演)であると言われるが、もっとも良い例は《アウリスのイフィゲニア》(Iphigénie en Aulide)《タウリスのイフィゲニア》(Iphigénie en Tauride)にみられる。これらふたつの作品は、形式的にはメロドラマの手法を用いているが、その内容は革命的であったと言える。(par.4, p.178, par.1)
グルックの改革のひとつはセッコ・レチタティーヴォ(secco recitative)を排除したことである。チェンバロを伴い、早口の〈音楽的な発話〉(tone-talk)であるセッコ・レチタティーヴォグルックは、〈伴奏付レチタティーヴォ〉(accompanied recitative)へと置換することでオペラの改革を行った。これは、セッコ・レチタティーヴォとアリアとの間にあると言えるもので、セッコ・レチタティーヴォよりはずっと複雑で洗練されたオーケストラによる伴奏を従え、しかし語りの要素を含むようなものであった。(par.2)

この改革には3つの利点がある。
まず、この改革はオーケストラ伴奏によるアリアと、チェンバロを伴うセッコ・レチタティーヴォとの不連続性を解消した。伴奏付レチタティーヴォの採用によってオーケストラは切れ目なく奏され、いわば〈ギリシャのコーラス〉(Greek chorus)のように、劇的な出来事の〈コメンテーター〉(comentater)になったと言える。(par.3)
ふたつに、チェンバロからオーケストラに伴奏を変更したことによって、より劇的な、情動的な点を強調できるようになった。(p.179, par.1)
最後に、伴奏付レチタティーヴォ音楽そのものの価値を楽劇に付加できるようになった。(par.2)
また、グルックのふたつ目の改革として、彼はダ・カーポアリアの長さを一般的な歌の長さに切り詰め、劇の進行速度を落とさずに済むようにした。これにより、グルックの最後の作品は、ほとんど人間が話すペースと同じものになった。(par.3)
以上の点から、グルックのふたつのイフィゲニアは〈通作歌曲形式〉(through-composed)の楽劇と呼ばれる。というのも、外的・内的な繰り返しがなく、詩に伴って音楽が途切れなく展開して行くためにこう呼ばれた。さらには、音楽の切れ目としての解決も引き伸ばされている。こうした形式のもっとも際立った使い手は偉大なドイツの作曲家ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)である。(par.4)

第3 ワーグナー

彼の作品のなかにまったく繰り返しがないといえば誇張になる。しかし、彼はアリアやそのほかの繰り返しのある形式を完全に排除していることは確かである。その代わりに、彼は〈ライトモティーフ〉(Leitmotiv)を導入している。これは、特定のキャラクターや観念、プロットの中の出来事と結びついているフレーズやメロディーの断片のことである。このライトモティーフは変化しながら繰り返され、楽劇の各場面を結びつけ劇的な効果を生み出している。(p.180, par.1)
ワーグナーによる音楽と言葉、そして視覚的な芸術の統合の欲望は、おそらくは、それらのあいだの断絶によるものだろう、とキヴィは述べる。この章ではオペラを通して言葉と音楽のあいだの断絶や調停を概観してきたが、さらに次の章でその断絶を詳しく見てゆこう。(par.2, p.181, par.1, 2)

脚註

*1:ワーグナーの生み出した〈楽劇〉(music drama, (独)Musikdrama)を参照。

*2:第3章参照。

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第8章 形式主義の敵たち

第8章 形式主義の敵たち

この章では、絶対音楽がなんらかの内容を持つとする非形式主義者の議論を検討、批判する。

第1節では、非形式主義者の議論の動機を確認し、第2節では非形式主義代表例として、絶対音楽に対するふたつの解釈を扱う。まず、第1弱いナラティヴな解釈としてのプロットアーキタイプ説を検討し、第2にMcClaryとSchloederの強いナラティヴな解釈を批判する。最後に第3節では絶対音楽の特徴として反復内容のあり方を指摘する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 非形式主義

第1 絶対音楽とナラティヴフィクション

絶対音楽〉(absolute music)は〈視覚的表象〉(visual representation)と〈ナラティヴフィクション〉(narrative fiction)とはっきりとした対照をなしている。(p.135, par.1)
厳密には、視覚的表象とナラティヴフィクションは、完全に区分できるものではない。けれども便宜上ここでは区分できるものとする。(par.2)
さて、形式主義とは相反する形で〈形式主義〉(non-formalist)は、絶対音楽をナラティヴフィクションに基づいて解釈してきた。というのも、両者とも〈時間的〉(temporal)に展開(unfold)されるものであるからだ。(par.3)絵画や彫刻の経験は時間を要する。小説、演劇、映画、そして交響曲の体験は厳密に順序決められた時間の経験を要する(The experience of paintings and statuary take time. The experience of novels, plays, movies, and symphonies takes strictly ordered time.)。後者の類似性に非形式主義者は絶対音楽の解釈の手がかりを求める。(p.136, par.1)

第2 非形式主義

こうした点からはじめて、非形式主義的な説明がなされる。その前に、なぜ多くのひとびとが絶対音楽に対する形式主義的、強化された形式主義的解釈に満足していないのかを見てゆこう。(par.2)
形式主義者にとって形式主義的説明は、音楽を意味のないノイズ(meaningless noise)であると述べているように感じられる。(p.137, par.1, 2)というのも、形式主義者は音楽は言葉のように、話者の何かしらの意図を伝える意味(meaning)のあるものだと感じているからだ。
たとえば、自転車や帽子のような人工物に意味がない、と述べても誰も何も思わないだろうが、音楽に意味がない、と言われると彼らは違和感を覚える。(par.2)
こうした考えを持つひとにとって形式主義は、繰り返せば、音楽を音の壁紙(sonic wallpaper)のようなものとして扱っているように見える。(par.3)そして、形式主義的解釈は、〈人間性〉(humanities)とは関係のないものにしてしまう、と彼らは感じている。(par.4)
ゆえに形式主義者は、音楽が物語(storyline)や内容(content)を持つと主張する。それらは意味を持つからである。(p.138, par.1)

第3 ナラティヴフィクションの重要性について

けれども、なぜ物語を伝えること、そしてそれを聴くことが重要でなければならないのかは、なぜ純粋に形式的な音のパターンが物語を伝え、それを聴くことが重要なのか、という問いと同じくらい厄介な問題である。(par.2)
この問いに対して、非形式主義者のなかには、ナラティヴフィクションは、いかに生きるべきか(how to live)という知識の重要な源であるがゆえに重要なのだ、と主張する者もいる。(par.3, 4)
けれども、こうした非形式主義者のように、意味や物語をすべての芸術に求める必要はないはずだ。
というのも、人間にとっての重要性という点では、ナラティヴアートも純粋なデザインのアートも、たがいを支え合っているからだ(in regard to importance for human beings--narrative art and the arts of pure design may well be on all fours with one another)。(p.139, par.1, 2)
ここで、キヴィは次のことを認める。あるナラティヴフィクションの重要な特徴のひとつは重要な知識の主張である(one of the important features of some narrative fiction is the expression of important knowledge claims)。しかしこうした知識供給の機能(knowledge-providing function)は、すべてのナラティヴフィクションに求められるべきではもちろんない。そして、仮に、絶対音楽にこうした知識供給の機能があったとしても、それですべてが説明できるわけではない。(p.140, par.1)

第2節 非形式主義者の主張

第1 非形式主義者による三つの解釈

さて、非形式主義者の議論の動機を確認したところで、実際に彼らの解釈を検討してゆこう。

形式主義者による絶対音楽に対する解釈には、次の三つがある。

まず、ひとつは、絶対音楽ナラティヴフィクションとして扱うことができ、語り(narration)を通して、明確な知識の主張や仮説を表現する〉(express)(as narrative fictions...through their narrations, 'express, significant knowledge claims or hypotheses)とするものである。

次にふたつには、絶対音楽を、フィクショナルなナラティヴを経ずに知識の主張や仮説を表現できるとする〈ディスコース〉(discourses)として捉えるもの('discourse' that express such knowledge claims or hypotheses directly, without the use of fictional narrative)。

最後に、絶対音楽はナラティヴフィクションではあるが、その〈エンターテイメント〉(entertainment)としての価値を越えた重要性は持たない、とするもの(as fictional narratives that have no further significance beyond their 'entertainment' value as fictional narratives)。(p.141, par.2)

以下では上のふたつを批判することにしよう。というのも、非形式主義者の動機に基づけば最後のものはそれほど重要ではないからだ。

第2 強いナラティヴな解釈と弱いナラティヴな解釈

上の3つの区分に加えて、絶対音楽がどの程度詳細な内容やナラティヴを持つと主張するかに基づいて、〈弱いナラティヴな解釈〉(weak narrative interpretation)と〈強いナラティヴな解釈〉(strong narrative interpretation)とに大別することができる。

1弱いナラティヴな解釈 プロットアーキタイプ

まず、ひとつめの〈弱いナラティヴな解釈〉から検討しよう。弱いナラティヴな解釈の代表例は〈プロットアーキタイプ〉(plot archetypes)説である。これは絶対音楽に対するプロットを用いた過度に詳細な解釈を避ける考え方である(This… is a strategy that is supposed to avoid the extreme of overly detailed interpretations.)。(p.142, par.1)
たとえば、『オデュッセイア』(The Odyssey)と『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz)とを比べてみよう。
オデッセウスは、満ち足りた故郷を離れ、戦いに赴き、そして、さまざまな苦難を乗り越え、ふたたび故郷に戻って妻とともに幸福な人生を送る。
また、オズの魔法使いの主人公ドロシーは、家ごと台風に飲まれ、オズの魔法の国へと飛ばされ、いくつもの試練を乗り越え、最後には故郷のカンザスへと辿り着く。(par.2)
この両者を比較すると、これらはプロット(plot)においてはひじょうに異なっている。しかしそうした差異を取り払えば、「故郷への長い旅」(the long voyage home)というプロットの構造(plot structure)、すなわち〈プロットアーキタイプ〉は同一であると言える。(par.3)
キヴィは続いて、「素晴らしい休日」(Holiday)と「赤ちゃん教育」(Bringing Up Baby)というふたつのコメディ映画の例をあげ、これらも、主人公にそぐわない女性からぴったりの女性へ(wrong girl-ight girl)というプロットアーキタイプをもつと述べる。(par.4, p.143, par.1, 2)
そして、弱いナラティヴな解釈では、音楽的な解釈において、絶対音楽はプロットを持たないが、プロットアーキタイプを持つ、と主張する(The idea for musical interpretation is that works of absolute music do not have plots, but plot archetypes)。
例えば、ベートーヴェン交響曲第5番は、逆境-闘争-勝利(struggle-through-adversity-to-ultimate-triumph)というプロットアーキタイプを持つと言われる。(par.3)
はじめ、Cマイナーの重く暗い響きからはじまり、終局のコーダではかがやかしいCメジャーのファンファーレで終わる。と解釈される。この「力強い5番」(Mighty Fifth)というプロットアーキタイプは、ブラームス交響曲第1番(Cマイナーから喜びのテーマで終わる)や、メンデルスゾーン交響曲第3番(Aマイナーから、Aメジャーへ)といった例に見ることができる。(par.4)

しかし、キヴィはこのプロットアーキタイプ説を論理的に空虚なものとして退ける。(p.144, par.3)
というのも、わたしたちは、プロットからプロットアーキタイプを抽象する('abstract' from plot to plot archetype)のであって、逆ではないからだ。(par.4)
さらに、あとで扱うように、わたしたちは強化された形式主義を用いて、ベートーヴェンの第5番のある部分が闘争を表現しており、別の部分が勝利を表現していることを述べることができる。ゆえに、プロットアーキタイプを持ち出す必要はない。(p.145, par.2)

2 強いナラティヴな解釈

つぎに、絶対音楽はプロットを持つ、すなわちナラティヴフィクションとしての細部を持つ(works of absolute music do have plots, details and all)。と主張する強いナラティヴな解釈を取り上げよう。(par.3)
代表的な論者として、アメリカの音楽学マクラーリー(Susan McClary)の主張を検討する。(par.4)
彼女のチャイコフスキー交響曲第4番についての解釈を取り上げよう。
彼女によれば、この第4番以前のチャイコフスキー交響曲はみな冒険と獲得(adventure and conquest)という図式に沿ったものだった。しかしこの作品はそれらとは異なる。
この曲はある男についての物語(narrative)なのだ。父親の期待と、女性に掛けられた罠のせいで、真の自己を発展させることを妨げられる男の物語なのである。父親は、男に異性愛的な関係を持つことを期待することで、男の真の自己、すなわち同性愛的な在り方を阻害しているのだ。(p.146, par.1)
もちろん、この説明にはさまざまな疑問が寄せられる。絶対音楽はこのような物語を伝えることができるのか?(Can a work of absolute music really tell such a story?)もしそうだとしても、いかなる基準によってさまざまな物語を判別できるのか? (If it can, what criteria are there for determing whether it tells this story or some other story?)ほんとうにチャイコフスキーはこのような物語を意図したのか?(Could Tchaikovsky really have intended he symphony to tell this story?) もしそうでないとしたら、いったいどんな物語を交響曲は伝えるのか? (If he didn't ...couldn't ...intended it to tell this story, could it tell this story anyway?)この解釈が正しいとして、この解釈はわたしたちが鑑賞している当のものなのだろうか?(And, if the symphony does tell this story, can it really much matter to our appreciation of it?)(par.2)
これらの疑問は批評や解釈の哲学の中核的な問題に触れているため、解答するのは難しい。そのためすぐさまに応えるのではなく、先に例示した反形式主義的な別の解釈の方法を検討することにしよう。(par.3)
もうひとつの絶対音楽の解釈とは、〈哲学的ディスコース〉(philosophycal discourse)である。(par.4)
代表的な論者であるアメリカの音楽学シュローダー(David P. Schroeder)によるハイドン交響曲第83番の第1楽章の解釈を検討しよう。彼は、ハイドン交響曲は18世紀の啓蒙思想のうちにある寛容(tolerance)を表現しているとみなす。人間は争いを避けえないが、意見の異なるものを抑圧したり、教義を打ち立てることではなく、寛容を通して解決(resolve)する必要がある、というテーマをハイドンのこの曲は主張しているのだ、と彼は述べる。(p.147, par.1)
この解釈も、マクラーリーのものと同じく、さまざまな疑問を向けることができる。(par.2)

第3 意図

ここで、どちらの解釈にも、作者の意図(auther's intention)が持ち出されている。この点についてすこし考えよう。作者の意図、そして作品の意味(meaning)については半世紀以上議論が続いている。〈反意図主義者〉(anti-intentionalist)は、制作室を離れた芸術作品は厳密に〈公共的な対象〉(public object)であり、それが意図している意味に関わらず、批評家が、そしてわたしたちが、思うように理解することができる(the work of art leaves the workshop, it is a 'public object' of scrutiny that the critic can make of what he will (as can the rest of us), regardless of the intended meaning)と主張する。(par.3)
これに対して〈意図主義者〉(intentionalist)は、キャロル(Noel Carroll)が述べるように、聴取者と芸術的作品との相互作用がアーティストとの〈会話〉(conversation)を構成する。そして会話はそれぞれの参加者が他の参加者が自分たちの言葉で伝えようとする意図を知ることにかかっている。もし他人の意図を誤解してしまったなら、コミュニケーションは壊れてしまう。コミュニケーションこそが肝心なのだ(the interaction of the audience with the work of art constitutes a 'conversation' with the artist, and conversation depends upon each of the participants knowing what the other intends to convey by his or her words. If one mistakes the intentention of the other, communication has broken down: and communication is the whole point.)。
(par.4)
ゆえに、意図主義者は、作者が意図を込め間違いうることを指摘する。(p.148, par.1)

さて、こうした整理を経て、改めて上にあげたふたりの非形式主義者マクラーリーやシュローダーの解釈を眺めると、ともに意図主義的な説明をしていることに気づく。(par.3)
マクラーリーはその解釈の正当性について、チャイコフスキーが同性愛者であったという伝記的事実を根拠にしている。(par.4)そして同様に、シュローダーは、自説を補強するために、ハイドンが同時代の哲学書に親しんでいたということを示そうとしている。(p.149, par.1)

けれどもどちらの場合も、問題は、もし作者が自分の意図を意味付けようとしたとして、それが成功するのかどうか、である。(par.2)
マクラーリーの解釈には、女性や、父親、男性性や女性性などさまざまな概念が現れるが、絶対音楽はそれを表現することはできるだろうか?(p.150, par.1)
たとえ視覚的な表象であったとしても、その解釈は時代や地域によって異なってしまう。(par.3)

けれども、考えると、わたしたちはあらかじめ対応関係を取り決めておくことで、暗号のように単なる数字の並びにも意味を込めることができる。そうすると、作曲家が音の並びに意味を込めることは可能かもしれない。なので、ここで、意味という言葉について明らかにする。

まず、ここでは、〈ナラティヴな意味〉(narrative meaning)はふつうの話し手や読み手の広い聴き手によって理解できるもの(narrative meaning to be: understandable by a wide audience of ordinary speakers and readers)と考えよう。(p.151, par.1)

次に、ナラティヴな意味を以下の3つに区分する。明白で単純な意味(meaning plain and simple)、私的な意味、あるいは暗号(privete meaning or code)、伏せられた意味、あるいはプログラム(suppressed meaning or program)(par.2)

暗号としての意味は次のようなものである。

歴史的研究によって、作曲家のなかには、仲間内にだけ伝わるメッセージを作品のなかに忍び込ませていた。しかし、これは作曲家が作品のうちに込めた意味ではないし、わたしたちが知るところでもない(not part of the work as the composer intended it and as we possess it)。つまり、私的な意味は作品の意図とは関係がない。(par.3)

次に、伏せられた(suppressed)意味について考えよう。
そこで、ショスタコーヴィッチ(Domitri Shostakovich 1906-1975)作品を例に取り上げる。私的な文書から、彼の作品には、当時のマルクス主義-レーニン主義への痛烈な批判が込められていたことが分かっている。(p.152, par.1)
わたしたちはショスタコーヴィッチが作品に込めたこの批判を、彼の作品に正統に属するものとして扱うことができる*1。(par.2)
こうした整理を通して、わたしたちはマクラーリー及びシュローダーの解釈は、それを裏付けるような文書や記述が発見された場合には正統なものとみなすことができるだろう。(par.3, 4-p.153, par.1)

第3節 さらなる論駁

第1 反復性

以上で、強いナラティヴな解釈への反論を一通り終えた。けれども、まだ議論されていない点、しかも、ナラティヴな解釈に対するいっそう深い反論となるだろう点を取り上げたい。それは〈反復〉(repetition)である。反復は音楽的形式にはなくてはならない部分(integral part of musical form)である。とキヴィは述べる。そして、その反復は〈内的な反復〉(internal repetition)と〈外的な反復〉(external repetition)とのふたつに分けることができる。(p.153, par.2)
前者の内的な反復とは、繰り返される音楽的な存在者のことである(repeated musical entities)。すなわち、旋律、旋律の断片、さらにちいさな音楽的な〈モチーフ〉(motives)である(melodies, melody fragments, or smaller musical 'motives')。(par.3)
そして後者の外的な反復とは、音楽の構造的な反復のことである。すなわち、ソナタ形式における再現部のような繰り返しのことである。(par.4)
さて上のような音楽には基本的に備わっている反復を確認した上で、あるナラティヴの形式、例えば演劇と音楽とを比較してみよう。もし、シェイクスピアハムレットにおいて、毎分ごとに「なすべきかなさざるべきか…」(To be, or not tobe...)と繰り返していたら奇妙に違いない。あるいは、劇が終わった途端にまた城壁の上での兵隊の会話が始まったとしたら、驚いてしまう。加えてこうした内的なあるいは外的な反復は、一般的なナラティヴフィクションにおいては音楽のようには頻繁にみられない。(p.154, par.1, 2)
ここから、反復は絶対音楽特有のものであり、ナラティヴフィクションにはみられないことが確認される。そして、ゆえに、絶対音楽はナラティヴフィクションではないのだ。(par.3)

第2 絶対音楽とその他の芸術とのふたつの違い

以下ではさらに絶対音楽がいかに言語的な、図像的な芸術とは異なるかを、ふたつの重要な点から説明しよう。
まずひとつめの点を思考実験(thought experiment)を行うことで説明する。(p.155, par.1)
ある3人の人物がいる。それぞれをモーとラリーとカリーとしよう。
モーはルネサンス絵画をなによりも愛していて、大量のコレクションを抱えている。しかし、彼は珍しい知覚的な障碍を抱えている。彼は表象を知覚することができない。けれども、ルネサンス絵画の美しいパターンや色彩を楽しんでいる。
次に、ラリーはドイツ詩のマニアである。詩の朗読のレコードやCDを数多く所蔵している。けれども、彼はドイツ語の一単語も知らない。しかし彼は意味なしにドイツ語の音を楽しんでいるのだ。
最後に、カリーはクラシック音楽の愛好者で、とくに器楽曲を好んで聴いている。彼は音楽のハーモニーやリズム、メロディや楽器の音色を楽しんでいるが、いかなるナラティヴな、哲学的な、あるいはその他のいかなる〈内容〉(content)も知覚することはない。(par.2, 3, 4)
さて、この3人のなかで奇妙に感じるのは誰であろうか? 一般的に言って、モーやラリーはルネサンス絵画やドイツ語を鑑賞しているとは言わない。けれども、カリーの場合はごくごく一般的な聴取の態度である。この点がまずひとつめに指摘されるべき音楽と他の芸術との違いである。(par.5)

次に、ふたつめの点について考えよう。
冒頭でも触れたように、意味のないノイズを誰が聴くのか? という問いに非形式主義者は答えようとして、例えばマクラーリーやシュローダーのような解釈を持ち出して、音楽には意味があるのだ(music with significance)と主張した。(p.156, par.1, 2)
しかしこれらの主張は、絶対音楽がわたしたちに与えてくる深い満足や、それがわたしたちに喚起するような愛や傾倒の説明になっているのだろうか?(an 'explanation' for the deep satisfaction absolute music gives, or for the love and devotion it inspires?)(par.3)
さらに、マクラーリーが持ち出すようなナラティヴフィクションにおいてわたしたちが享受するのは、たんにナラティヴの内容だけではなく、その中の数々の出来事や、会話や記述やキャラクター造形といったものだ。そしてマクラーリーの解釈にはそうしたものは伴いえない。ゆえに、その解釈は空虚なものでしかありえない。(p.157, par.1)
さらに、シュローダーのように哲学的ディスコースを持ち出しても、そもそも哲学的な主張のみでは、いかなる哲学的な満足も価値も聴く者に与えない。どんな哲学的主張も、その後に続く長い論述を伴ってこそ価値を持つからだ。(par.3) 

おわりに

次の章ではこれまで取り上げなかったテクストを伴う音楽、歌詞がある音楽について主題的に扱おう。(par.2,3-p.159)

脚注

*1:しかしどこからどこまでが作者の正統な作品なのか、そして特に演奏家にとってどこまで作者を取り巻く社会環境や作者の伝記的事実を作品解釈に組み込んでいいのか、という問題は依然として存在する。こうした問題については、前章でも触れられたように、キヴィは後の章で議論するとしている。

音楽学のディシプリン 音楽学の誕生からニュー・ミュージコロジーへ、そしてそれ以後

はじめに

本稿は音楽学ディシプリンを扱っている文献をごく簡単な著者紹介とともに数点列挙したものである*1

主として自分の備忘録として書かれている。副次的に、音楽学という学問じたいに興味があるひと、すなわち、「音楽学は音楽にどう関わるのか」「音楽学者の学問的態度はどう批判されるべきか」「作曲や演奏、批評を実践するのに音楽学はどんな役に立つのか」といった問いを抱いているひとになんらかの益があればと思う*2

f:id:lichtung:20170619220030j:image

 1 音楽学のはじまり*3

1. Adler, Guido (1885). Umfang, Methode und Ziel der Musikwissenschaft. Vierteljahresschrift für Musikwissenschaft.

はじめて体系的な音楽学を打ち立たのは、グイド・アドラー(Guido Adler 1855-1941)であった。彼はウィーン大学の講師として就任した翌年1884年に『季刊音楽学』(Vierteljahresschrift für Musikwissenschaft)を発刊する。そして1885年に"Umfang, Methode und Ziel der Musikwissenschaft"(「音楽学の範囲、方法及び目標」)を当該の雑誌に寄稿した。さらに翌年プラハ大学の音楽史教授に就任。

音楽学の範囲、方法及び目標」で、アドラー音楽学を、「歴史的音楽学」(historische Musikwissenschaft )と「体系的音楽学」(systematische Musikwissenschaft)とに分類し、さらに後者の体系的音楽学には、 後に民族音楽学(ethnomusicology)につながる「比較音楽学」(vergleichende Musikwissenschaft)を含めた。これは、初めて主題的に音楽の研究方法を批判的に検討した論文である。

なお1898年にはエドゥアルト・ハンスリックの後任としてウィーン大学の教授に就任し、以後ヨーロッパにおける音楽学研究の中心的存在となり、さまざまな作曲家や研究者を育てた。加えて、マーラーGustav Mahler 1860-1911)との交流もあり、さらにシェーンベルク(Arnold Schönberg 1874-1951)を評価していたと言われるように、同時代の音楽にも関心を持っていた*4

英訳と解説は以下の論文に掲載されている。

Mugglestone, E., & Adler, G. (1981). Guido adler's" the scope, method, and aim of musicology"(1885): An english translation with an historico-analytical commentary. Yearbook for Traditional Music, 13, 1-21.
ISO 690

2. Dahlhaus, Carl. (1977). Grundlagen der Musikgeschichte (= Musik-Taschen-Bücher. Theoretica. Bd. 15 = Musik-Taschenbücher 268). Gerig, Köln.『音楽史の基礎概念』角倉一朗訳、白水社、2004年
音楽史の基礎概念

音楽史の基礎概念

 

ドイツの著名な音楽学カール・ダールハウス(Carl Dahlhaus 1928-1989)の著作。

ダールハウスは、作品史と音楽美学、及び音楽理論の総合的研究を目指した。

1966年に「和声的調性の起源に関する研究」("Studies on the Origin of Harmonic Tonality")にて音楽学の教授資格を得た後、ベルリン工科大学に音楽学の教授として就任し、それ以後任期を全うした*5

本書の全体はフランクフルト学派の批判理論、アナール派の歴史理論、さらにマルクス主義歴史観との取り組みによって、音楽史における歴史理論的に根本的な反省が行われている。

2 ニュー・ミュージコロジーの出現

3. Kerman, Joseph (1986). Contemplating Music: Challenges to Musicology. Harvard University Press.

ニュー・ミュージコロジーの打ち立て役とされるジョセフ・カーマン(Joseph Kerman 1924-2014)の著作。

カーマンは1924年ロンドン生まれ、のち1951年にカリフォルニア大学の教授に就任。ちょうどダールハウスと同世代である。

1980年の論文において、カーマンは音楽学における実証主義を批判し、「学問的な音楽批判の新たなる広がりと柔軟性」 ("a new breadth and flexibility in academic music criticism" )を求めた*6。カーマン以前の実証主義においては、「事実をして語らしめる」ことを目標としていたが、その実、作家像や作品研究において、研究者たちが既存のパブリックイメージに引き摺られた解釈を無意識に施していることをカーマンは批判した。そして、ポスト構造主義記号論、ポスト・コロニアル批評、フェミニスト批評、ジェンダー論など幅広い領域の知見を応用しながら、音楽を記述する音楽学者の態度そのものを問い直すことの必要性を訴えた*7

Contemplating Music: Challenges to Musicology

Contemplating Music: Challenges to Musicology

 
4. 福中冬子(編)(2013). 『ニュー・ミュージコロジー: 音楽作品を「読む」批評理論』, 慶應義塾大学出版会.
ニュー・ミュージコロジー: 音楽作品を「読む」批評理論

ニュー・ミュージコロジー: 音楽作品を「読む」批評理論

  • 作者: 福中冬子,ジョゼフ・カーマン,キャロリン・アバテ,ジャン= ジャック・ナティエ,ニコラス・クック,ローズ・ローゼンガード・サボトニック,リチャード・タラスキン,リディア・ゲーア,ピーター・キヴィー,スーザン・カウラリー,フィリップ・ブレッド,スザンヌ・キュージック
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2013/04/28
  • メディア: 単行本
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論文集。邦訳と解説。

3. ニュー・ミュージコロジー以後

5. K. Bergeron and P. V. Bohlmand, eds. (1996). Disciplining Music: Musicology and Its Canons. University Of Chicago Press.
Disciplining Music: Musicology and Its Canons

Disciplining Music: Musicology and Its Canons

 

論文集。 バージェロン(Katherine Bergeron 1958- )はコネチカット大学所属。Decadent Enchantments: The Revival of Gregorian Chant at Solesmes. Berkeleyなどの著作がある。

ボールマン(P. V. Bohlman 1952-)はアメリカの民族音楽学者。現在シカゴ大学所属。女性、弱者、権利を持たない人々といった「他者」の音楽へと向き合う必要を主張している*8

6. Cook, Nicholas and Mark Everist, eds. (1999). Rethinking Music. Oxford University Press.
Rethinking Music

Rethinking Music

 

  論文集。民族音楽学関連の論考が含まれている。 

クック(Nicholas Cook 1950-)はケンブリッジ大学所属。音楽の美学から、音楽心理学ポップカルチャーまで幅広い研究を行っている*9

エヴェリスト(Mark Everist 1956-)はサウサンプトン大学所属。13世紀及び19世紀フランス音楽の研究を行っている*10

7. Alastair, Williams  (2001). Constructing Musicology. Routledge.

単著。現代の批評理論を含めた解説。著者のアラステア(Alastair, Williams)はキール大学所属。19世紀以降のオーストリア-ドイツ音楽におけるモダニティとモダニズムの研究を行っている*11

Constructing Musicology (Routledge Revivals)

Constructing Musicology (Routledge Revivals)

 
8. Korsyn, Kevin (2003). Decentering Music: A Critique of Contemporary Research. Oxford University Press.

単著。音楽学の研究手法や対象についての論考。コーシュン(Korsyn, Kevin)はミシガン大学所属、音楽理論を専攻している。作曲家でピアニストでもある。シェンカー分析に関する論考を発表している(“Schenker and Kantian Epistemology”)*12

Decentering Music: A Critique Of Contemporary Musical Research

Decentering Music: A Critique Of Contemporary Musical Research

 

 脚注

*1:より包括的な文献リスト→Musicology Must-Reads | The Taruskin Challenge

*2:ごくごく個人的に、1. 音楽学の歴史を整理すること。2. 音楽史の語り方や整理における問題点を史学史一般との比較からまとめること。3. 音楽学と音楽哲学とのディシプリンのちがいを整理すること。の3つに興味がある。ここであげる文献は主に1.に関するものである。

*3:それ以前→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

*4:https://www.britannica.com/biography/Guido-Adler

*5:TU Berlin - The shoulders on which we stand - Festschrift zur 125-Jahr-Feier der TU Berlin

*6:Kerman, J. (1980). How we got into analysis, and how to get out. Critical Inquiry, 7(2), 311-331.

*7:Professor Joseph Kerman (1924–2014) | Oxford University Faculty of Music

*8:Philip V. Bohlman | Department of Music | The University of Chicago

*9:Prof Nicholas Cook — Faculty of Music

*10:Professor Mark Everist | Music | University of Southampton

*11:Alastair Williams - Keele University

*12:UM School of Music, Theatre & Dance - Faculty & Staff Biography

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第7章 あなたのうちにある情動

はじめに

ページを数えるとようやく半分を過ぎたところ。運がよければ夏が来る前に読み終えられそうだ。あせらず、疑問を持ちながら読み進めていきたい。

第7章 あなたのうちにある情動

この章では、音楽がいかにして情動を持つのか、そしてどのようにわたしたちに情動を惹き起こすのかという問いに答えることを試みる。

まず第1節では、音楽と情動に関する問いを確認する。次に第2節では、ペルソナ説性向説というふたつの惹起説の検討をする。最後に第3節では、もし音楽がわたしたちに不快な情動を惹き起こすなら、なぜわたしたちはその音楽を聴くのか、という問いを検討する。そのなかで、キヴィの自説が展開される。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 音楽と情動に関する問い

第1 音楽と情動をめぐるふたつの問い

音楽と情動めぐってふたつの問いがあった。
それは、音楽の表現性(expressiceness of music)と音楽がわたしたちを情動的に動かす力(music's power to move us emotionally)とに関する問いである。
(p.110, par.1)
単純な惹起説(arousal theory)では、これらふたつの問いを、傾向性(disposition)を用いて説明する。(par.2)
けれども、わたしたちが前章で見てきたように、現在はこうした単純な惹起説は一般的ではない。そのため、傾向性を用いた説明は十全ではないのだ。

いま現在、わたしたちは、音楽が持つ情動を認知するのであり、それを感じるわけではない、という考え方が一般的である。しかしそうであるなら、日常でみられるように、音楽がわたしたちを情動的に動かしているように思われ、決してたんに認知しているわけではないように思える場合をどう説明できるだろうか?(p.111, par.1)

第2偶然性

こうした日常的な体験において、音楽が月並みな情動を惹き起こす理由を、ハンスリックは音楽の〈病的な〉(pathological)効果によるものだと説明した。この表現がうまく内容にそぐわないとして、キヴィはこれを〈わたしたちの歌〉(our-song)効果と言い換える。この効果は、わたしたちがある特定の情動の状態(emotional state)において、また、特定の環境(circumstance)において音楽を聴くことで生じる。(par.2)
それぞれについて例をあげつつ説明しよう。
まず、情動の状態について。キヴィはつぎの例を挙げる。
3年の長い軍役生活から帰郷したひとりのアメリカ人が、船から降り、故郷の土を踏んだ。そのとき彼の耳に飛び込んできたのは、軍楽隊が奏でる《星条旗》(The Star-Spangled Banner)だった。彼は涙し、そして激情に呑まれた。帰郷の喜び、友との死別、そのほかの情動の激流に呑まれたのだ。
ひとりのアメリカ人の特定の情動の状態で聴かれた《星条旗》はこのように、確かに彼の情動を動かす。(par.3)
つぎに環境による情動惹起の例をあげる。
映画〈カサブランカ〉において、バーを経営する主役のリックは、友人のピアノ弾きのサムに《時の過ぎ行くままに》(As Time Goes By)を演奏することを禁じている。なぜならその曲は彼が昔別れた女性のことを思い出させるからであった。その旋律を聴くと、リックは深い哀しみ、そして怒りの情念を覚えてしまうのだ。(p.112, par.1)
こうした状態と環境において、ひとは音楽の情動を認知するのではなく、ある情動を確かに感じるのだ。

以上のふたつの例はひじょうに説得的である。しかし、これらは音楽の美的に、芸術的に重要な特徴(aesthetically or artistically significant features)とは関係を持っていない。《星条旗》は勇壮な歌であり、《時の過ぎ行くままに》はセンチメンタルな愛の歌であるが、それらと聴き手の情動とは関係していない。(par.2)

第2節 ふたつの惹起説 ペルソナ説と性向説

ここからすすんで、情動は偶然感じられるのではなく、わたしたちが音楽が持つ聴かれた要素(heard properties)を認知し、そしてそのことによって惹き起こされる、と考えることはできないだろうか? とキヴィは問いかける。(par.3)

第2節では、こうした問題意識を持ちふたつの惹起説、〈ペルソナ説〉と〈性向説〉とを紹介し、それらを検討する。

第1 ペルソナ説

1 概説

まずひとつめは、〈ペルソナ説〉(persona theory)である。

この説は、わたしたちが音楽作品を人間の発話として聴くということを主張する(The persona theory has it that we hear a piece of music as a human utterance.)。(p.113, par.3)
どういうことだろうか? 順を追って見てゆこう。

わたしたちは、例えば交響曲を聴くとき、ある情動を受ける。その交響曲の情動は、ペルソナが、つまり、虚構のキャラクター(fictional character)が表現している情動なのだ。とペルソナ説は述べる。(p.114, par.1)
そして次に、そのペルソナが表現している情動にちょうど〈共感〉(empathize)することで、わたしたちは音楽作品を聴く際に情動を惹き起こされるという訳なのだ。

あたかも、友人が泣いていることから彼女が悲しんでいることに気づき、彼女に同情するようにして、とキヴィは説明する(par.2)
しかし、現実の人間に対しては彼が感じている情動に共感することはあり得ようが、虚構のキャラクターに対して同じように共感するだろうか?(par.3)
けれども、わたしたちが小説や演劇、映画に触れている際、実際に、虚構のキャラクターの悲しみや喜びに共感していることは経験から確かだ。(p.115, par.1)
むろん、とキヴィは指摘する。虚構のキャラクターがいかにしてわたしたちに現実の情動を発生させるかは問題である。として、この問題についてはこの章の後半で扱う。(par.2)

2 3つの検討

さて、ペルソナ説についてひと通り述べたところで、この説を3つの観点から検討し、その疑問点を取り上げておこう。(par.3)

まずひとつに、経験から言って、わたしは音楽的ペルソナがそれ自身の情動を表現しているとはまったく気づくことなしに、音楽に深く感動する(music moves me deeply without my being aware at all of musical personae expressing their emotive states)。これはペルソナ説を知る以前も、そしていまもそうである。(par.4)
これに対して、ペルソナ説に賛同する者は、ペルソナに意識的に気づくことなしに、ペルソナが表現している情動はわたしに効果をもたらす、と述べる。
しかしこれに対してキヴィは疑念を呈する。彼らの主張はあたかも、わたしがアンナ・カレーニナに共感することで、不幸な気分になる際に、別段、アンナ・カレーニナの不幸に意識的に気づくかなくともよい、と述べているようだ。これは受け入れがたい。(p.116, par.1)
けれどもこの点をこれ以上深掘りすることはしない。というのも、この点に対してはレヴィンソン(Jerrold Levinson)の有力な反論があるためだ。(par.2)

第二に、ペルソナ説は、音楽的なペルソナ(musical persona)とフィクションの物語(narrative fiction)のキャラクターとのあいだの類比(analogy)に立脚している。しかしこれは成り立たない。(par.3)
というのも、音楽的なペルソナとはいったいどんな存在なのか、いかなる性かもわからないような、ひじょうにあいまい(vague)な存在なのだ。なんとなれば、小説、劇や映画のなかでさえ、それがよくない作品であれば、キャラクターが浅い(shallow)と言われたりする。それにも増して音楽的なペルソナとははっきりしない存在なのだ。(par.4)

このあいまいさの理由はかんたんで、小説や演劇ではキャラクターは言葉を持ち、そして描写された姿を持っていけれども、ひるがえって音楽的ペルソナはそうした要素を持ち得ないからだ。言ってみれば、ピーター・ラビットのほうがよっぽど〈パーソナリティ〉(personality)を持っている、とキヴィは述べる。(p.117, par.1)

最後に、ペルソナ説は、しばしばあやまった情動をたどってしまう(the theory...tracks the wrong emotion)。ゆえに成り立たない。(par.2)
実生活から考えてみよう。

生活において、他のひとの情動表現に対するわたしたちの反応は単純ではない。わたしがどんな情動を感じるかは、わたしが反応するそのひとがどんなひとか、わたしにとってどんなひとか、どんな状況下であるかによって影響される。
たとえば、あなたが怒っているとき、わたしは怒りではなく、恐れや怯えを感じるかもしれない。わたしの敵が不幸であるとき、わたしは喜びを感じるかもしれないのだ。
ときおりわたしはあなたと〈自身を同一化〉し、あなたの情動を感じるが、けれどもつねにではないし、ましてや原則としてではないSometimes I may 'identify' with you, and feel your emotions. But not always, or even as a rule.)。(par.3)
もちろん虚構のキャラクターに対しても同じである。(p.118, par.1)

それゆえ、ペルソナ説は音楽と情動の関係をうまく説明できない。

以上の検討に対して、ペルソナ説の擁護者は、ふたつの反論をする。

まずひとつに、彼らは、音楽的ペルソナにおいてのみ、つねにそのペルソナが表現する情動とそれに対するひとが抱く情動とは一定にある。と主張する。しかし、それではなぜ音楽においてのみそうした一定の関係が成り立つのかについて説明しなければならない。(par.1)

さらに再反論として、音楽的ペルソナが位置するのはつねに一定の状況下(circumstances)である。とする。しかしその状況下とは何かが答えられていない点では納得しがたい、とキヴィは述べる。(par2)

そしてふたつに、擁護者は、実生活やフィクションの物語と同じように、わたしたちは状況下ごとに、ある特定のペルソナが表現する情動に対しても、そのつど異なる情動を抱く。と主張しうる。しかしこれは、ペルソナ説の根本をひっくり返してしまう反論であり認められない。(par.3)

以上からキヴィは、ペルソナ説は音楽と情動の関係を説明するには不十分であるとして退ける。

第2 性向説

1 概説

それでは次に、ふたつめの説、〈性向説〉(tendency theory)を検討しよう。(p.119, par.1)

まずは一般的な〈性向〉(tendency)について考える。

一般に黄色は快活な色、そして黒は陰鬱な色だとされている。そしてわたしたちは色そのものに快活さや陰鬱さを知覚する。これらは色の知覚された質(perceived quality)の部分を成している。そして、〈常識〉(common sense)に基づけば議論の余地なく、黄色はひとびとに快活にする〈性向〉を持っている、と言える。(par.2)
さらに性向説論者は、同じく〈常識〉に基づいて、以上の議論を音楽の表現的な要素にも適応する。
そして、ある音楽の表現的な要素がこうした情動を惹き起こす性向を持つなら、ときおり、わたしたちにその情動を惹き起こす、と結論する。アスピリンが頭痛に効かない場合があるにせよ、頭痛を癒すようなある性向性を持っているのと同じように。(par.3)
性向説の論者であるデイビス(Stephen Davies)は次のような比喩を使って説明する。
あなたが演劇用の、とくに悲劇用の、憂鬱を表現しているような仮面を作る工場で働いているとする。1日8時間、週に5日、周りをぐるりとその悲劇的な仮面に囲まれて仕事をする。

そうすると、とデイビスは結論づける。あなたはきっと憂鬱な情動を抱くだろう。憂鬱を生み出す仮面の性向は、最終的にあなたに影響するのだ。そしてこれは憂鬱な音楽にも成り立つ。このように性向説は主張する。(p.120, par.1)

2 反論

それではキヴィによる反論を見てゆこう。

キヴィはまず、〈常識〉を用いることを疑う。議論の手法として常識を多用することは得策ではない、とする*1

そしてこの性向説、すなわち、すべての表現的な要素は、特に、音楽の表現的な要素は、みずからが表現している情動を受け手に生じさせる性向を持っている(all expressive properties, and, in particular, the expressive properties of music, have a tendency to produce in the perceivernthe emotions they are expressive of)、とする説に反論する。(par.2)

まず、一般に、性向のうちには、発揮されない性向もあり得るということを指摘する。例えば、時速90マイルで走るとハンドルを切らなくても左に曲がってしまうという性向を持った車は、もちろん、時速90マイル以下ではその性向を発揮しない。(par.3)

それでは、音楽についてはどうか。ある音楽の情動を惹き起こす性向は、実現されるのだろうか?(Does this tendency ever get cashed out?)それとも車の例のように、発揮されないままなのだろうか?(does it remain unfulfilled)(p.121, par.1)

デイビスの例を取るなら、憂鬱な音楽はどれぐらい聴けば聴き手を憂鬱にさせるのか?
憂鬱な仮面と同じく、1日8時間、週に5日聴けばいいのか?

こうした問題について性向説は答えていない。ゆえに、性向があるという証拠は存在しないし、もし存在していたとしても、以上のような効果を持っているかどうかも定かではない(Nor is there any evidence that these tendencies, if they exist, have any such effect.)。したがって、性向に訴える議論はうまくいかない、とキヴィは結論づける。

さてこれらふたつのペルソナ説、性向説に対する批判を加えたところで、より一般的に、惹起説全体に対する批判を行う。そしてその議論をしつつ、キヴィの持論へとつないでゆく。

第3節 音楽と情動

まずそもそもの前提から考える。

もし音楽が月並みな情動を惹き起こすことができるなら、おおくの音楽は不快なものになってしまう。すなわち、憂鬱な音楽は憂鬱を惹き起こし、怒りの音楽は怒りを惹き起こすなら、ひとびとはなぜわざわざそれを聴くのか? 選択の問題として、いったい誰が無償で憂鬱や怒りや恐れの体験をしたいのか?(Who would gratuitously, as a matter of choice, undergo the experience of melancholy, anger, fear?)(par.2)

この基本的な疑問に対してさまざまな応答がある。ここでは代表的ななものを扱う。(p.123, par.1-2)

第1 教育説

おおくの論者は、本来的に不快な情動は快いものに変えることができ、なおかつ受け入れられなかった当の情動は残り続ける(an emotion inherently unpleasant can be 'made' pleasant and still remain the emotion that it was unacceptable)。という考えをおよそばかばかしいものとみなす。そして、不快な情動は、より深い道徳的、心理学的教育のために役立つ(serve some deep purpose of moral or psychological education)と考える。(par.3)

たしかに、すべてではないにせよ、ある種の小説や映画、劇〔あるいは、伝承の民話や寓話〕は不快であるが、教訓を与えるものとしてある。けれども、音楽作品に対してはこの説明は的外れである。
たとえば、ベートーヴェン交響曲第5番がわたしたちにいかなる教訓を教えてくれるのだろうか? そしてわたしたちが交響曲に教訓を求めることは正当だろうか?

そうした要求は不当であり、過剰な解釈(over-interprets)である、とキヴィは批判する。(p.124, par.1)

第2 対象・信念・感じ

第1で述べたような説に反対して、キヴィは次のように主張する。
すなわち、わたしたちが憂鬱や恐れといった不快な情動を惹き起こされているという前提そのものを否定する。
わたしたちはなぜ音楽がわたしたちを動かす不快な月並みな情動を享受しているのか、という問いに答える必要はない。というのも、音楽は快、不快のどちらにしても、わたしたちに月並みな情動を与えないのだ(We do not have to explain why we enjoy those of the garden-variety emotions that music moves us to, that are unplaesant, because it does not move us to the garden-variety emotions at all, either the pleasant or the unpleasant ones.)。とキヴィは述べる。(par.2)

この説を説明するために、情動がいかにして惹き起こされるのかについて基礎的な確認をしよう。(p.125, par.1)

1 対象・信念・感じについて

わたしたちが情動を経験するとき、そこには、その情動に関する〈対象〉(object)とその情動を生じさせる〈信念〉(belief)そしてその情動から惹き起こされる〈感じ〉(feeling)が存在している(there is an object of the emotion, a belief or set of beliefs that causes the emotion, and causes it to have the object it does, and a certain feeling aroused in the one experiencing the emotion)。(p.126, par.3)

例えば、あなたがポーカーをしていて、友人のイカサマに気づき、腹を立て怒ったとしよう。このとき、あなたの怒りという情動の対象は友人であり、信念は友人がイカサマをした、ということであり、そして感じは腹立ちである*2(p.126, par.2)
(p.125, par.2-p.126, par.1, 2, 3)

こうした整理を経て、まずペルソナ説、性向説を含む惹起説一般の議論の前提にキヴィは問いを投げかける。
惹起説は、月並みな情動を表現しない音楽は、わたしたちの情動を動かすことはない(music not expressive of the garden-variety emotions cannot be deeply moving: cannnot move us emotionally)と述べている。(p.127, par.1-2)
しかし、14世紀後期、15世紀、16世紀はじめにおける作曲家の作品のおおくは、清廉な(serene)な音楽であり、月並みな情動とは関わりのないものである。(p.128, par.1)
また、合唱曲、とくに児童合唱は水晶のように透明で、情念のない、天上の声(cystal-clear, almost passionless, ethereal voices)であると言われる。(par.3)
こうした音楽は、怒りや恐れといった月並みな情動をなんら表現していない。にもかかわらず、ひじょうに感動的な音楽である。これらは清廉さや静謐な美しさ(tranquil beauty)といった月並みな情動では表現できないものによってわたしたちを感動させる。(p.129, par.1)
(p.127, par.3, p.128, par.1, 2, 3, p.129, par.1, 2)

ゆえに、情動が惹き起こされるか否かとその音楽が感動的であるかどうかとは、関わりがない。この点からキヴィは持論を展開していく。

2 音楽への適用

さて、それではいよいよ〈対象〉〈信念〉〈感じ〉の3つの観点から、わたしたちが音楽に対するときどのような情動があらわれるのかを考えよう。

まず、わたしたちが〈音楽的情動〉(musical emotion)を感じる際に〈対象〉としているのは、もちろん〈音楽〉(music)である。より正確に言えば、わたしたちが対象としているのは、聴き手が美しいと、見事であると、あるいはそのほか、かなりの程度、美的に賞賛できると信じているような、音楽のうちにある特徴のセットである(the set of features in the music that the listener believes are beautiful, magnificent, or in some other ways aesthetically admirable to a high degree)。(par.2)

つぎにわたしたちが抱く〈信念〉とは聴き手が、音楽にどのような美しさや美的な要素があるかについて抱いている信念そのものである(listener's belief that the music she is listening to)。(p.129, par.3)
ゆえに、信念が変わることで、同じひとつの音楽から受ける情動が変化することがある。以前はある音楽に感動していたものの、その単純な仕組みを知ったことで、感動しなくなる、ということもありえる。(p.130, par.1, 2)

最後に、わたしたちが感じる〈感じ〉どのようなものだろうか。
音楽を聴いたときにわたしたちが感じる感じは、興奮(excitement)、陽気さ(exhilaration)、驚き(wonder)、畏敬(awe)、熱狂(enthusiasm)といったなにかしら高揚した(high)ものである、とキヴィは述べる*3
そして、情動の対象は、その情動がなにかではなく、それがどのように感じられるかを定義したり決定することを助ける(it is the object of the emotion that helps define or determine not just what the emotion is, but how it feels)。たとえば、どのように愛が感じられるかは、なにが愛されているかを参照することでもっともよく説明される(how...love 'feels'...is best described with reference to what it is that is...loved)。
あるいは、あなたが息子を愛するとき、飼い犬を愛するとき、そしてヴァイオリンを愛するときは、みな愛の情動と言える。けれどもその感じはそれぞれに異なって感じられるのだ。とキヴィは説明する。ゆえに、感じはその対象を名指すことなしにはその違いを説明することができない。(par.3, 4)

第3 まとめ

以上の3つの要素をまとめよう。

The object of the emotion is, in a word, the beauty of the music; the belief is that the music is beautiful; the feeling is the kind of excitement or exhilaration or awe or wonder...that such beauty customarily arouses.

情動の〈対象〉は、ひとことで言えば、音楽の美である。そして〈信念〉はその音楽が美しいということであり、〈感じ〉は、ある種の興奮や陽気さや崇高や驚きである。……これらが、このような美を習慣的に惹き起こすのだ。(p.131, par.1)

第4 具体例への適用

それでは、キヴィのこの説を具体例を通して確認しよう。

試みにベートーヴェン交響曲第7番の第2楽章を聴いてみよう。ここには、さまざまな音楽的要素(musical properties)が含まれている。そのうちで、たとえば悲しく憂鬱な要素がわたしたちを深く感動させたとしよう。(par.2)

このときわたしたちは悲しく憂鬱な情動にさせられたのではなく(not to be moved to funeral melancholy)、音楽のうちにある悲しく憂鬱な情動によって心を動かされ、それによって興奮や喜びの情動へと動かされるのだ(But to be moved by funeral melancholy to excitement and enthusiasm and joy over its musical beauty is, on the contrary, to be moved to an emotion devoutly to be wished.)。
わたしたちはその音楽的な美に感動する(We are moved by their musical beauty.)。もしそれが憂鬱なものなら、それがどれほど美しく憂鬱(beautifully melansholy)であるかに感動するのだ。
音楽はそれ自身の美によって、あるいはほかのはっきりとした美的な質によってわたしたちを感動させ、情動的に高揚させる(They move us by their beauty, or other positive aesthetic qualities, to an emotional high over the music.)*4。(p.132, par.1)

第5 補論

以上でキヴィの自説の説明はなされた。以下では、補論として、つぎのふたつを取り上げておく。(par.2)

1 準-情動

この章の第2節で扱ったふたつの情動説において、わたしたちに惹き起こされる情動は情動そのものではなく、〈準-情動〉(quasi-emotions)であると述べられている。というのも、音楽が惹き起こすような恐怖や怒りといった情動はじっさいにわたしたちをある行動へ駆り立てることはないからだ。(par.3)
そう考えると、第3節で展開した説においても、美しく憂鬱な音楽がわたしに惹き起こす音楽的な情動は、憂鬱ではないにせよ、その対象として憂鬱さを持っている(the musical emotion that beautifully melancholy music arouses in me , though not melancholy, has melancholy as its object)おり、それゆえに、準-情動と言えるかもしれない、とキヴィは言い添えている。(p.133, par.1, 2)

2 情動の勘違いについて

キヴィの説が正しいとすれば、なぜ、ひとびとは音楽がかれこれの情動を惹き起こす、と主張するのだろうか。キヴィは、はっきりとした証拠はないものの、次のように述べる。
高揚した情動の興奮(high state of emotional excitement)は恐れや怒りを伴っている。しかし、ひとびとは、前者と後者のセットを、後者のみと誤解しているのではないか。(p.133, par.3)

おわりに

さて、この章では、音楽がいかにして情動を持つのか、そしてどのようにわたしたちに情動を惹き起こすのかという問いに答えることが試みられた。
まず第1節では、音楽と情動に関する問いを確認し、つづく第2節では、ペルソナ説と性向説というふたつの惹起説の検討をした。最後に第3節では、もし音楽がわたしたちに不快な情動を惹き起こすなら、なぜわたしたちはその音楽を聴くのか、という問いを検討し、そのなかで、キヴィの自説が展開された。

キヴィの説はわたしたちが音楽にある情動を認知し、そこで終わるのではなく、さらにポジティヴな感じを感じる、ということを主張しようとしている*5

つぎの章では、強化された形式主義を用いて絶対音楽の輪郭を描くこと、そして強化された形式主義を反論から擁護することを試みる。(p.134, par.1, 2)

 脚注

*1:ここでキヴィが言いたいのは、すべての予断を排除せよ、と言うものではない。情動に関する議論において、わたしたちの感覚に照らし合わせることは重要な論拠や説得感を生む場合が多々あるが、流布されている説に従うことは賢明ではない、ということだ。

*2:ここで感じの扱いを確認しておきたい。怒りというのは一般的な情動である。しかし、つねに同じ怒りをわたしたちは感じているわけではない(not...I feel same way)。ときどきに爆発的な怒りや、くすぶるような怒りを感じている。とキヴィは説明する(p.126, par.2)。こうしたそれぞれの感じ(feeling)は、情動とは区別される。

*3:〈ハイ〉な感じ(high)と訳したほうが分かりやすいかもしれない。けれどもそれだとあまりに多義的だと考え、まだしも意味が狭い〈高揚〉と訳した。

*4:キヴィのこの説明はわたしにとっては十全でない。例をあげて考えてみよう。わたしたちは音楽を対象として、そこに陰鬱な美があるという信念を抱く。そしてその陰鬱さそのものを認知することで、畏敬や驚きの高揚感を得る。とすると、わたしたちは陰鬱さそのものの認知を楽しむことができる、ということだろうか? なるほど、惹起説が説明するように、わたしたちが陰鬱な情動をじっさいに抱いてしまうなら、それを楽しむことはできない。陰鬱な曲にちょうど陰鬱なエピソードが付随してしまっている場合、わたしたちは陰鬱な情動を抱くため、その曲を楽しめない。以上のようにわたしは解釈した。

*5:ここには指摘したいことが3つある。
まず、認知と感じは直結するのかどうか、ていねいな議論が必要だということ。つぎに、情動と感じの正確な区分が必要であるということ。最後に、とくに指摘しておきたいのは、〈高揚〉(high)な感じと指摘したからと言って、その感じはそれほどあきらかではないこと。
すなわち、highという表現はあまりに汎用的で、説明としては現時点では怪しいということ。言ってしまえば、好物を食べるときもわたしはハイな感じを感じるだろうし、花の香りにうっとりするときにもハイな感じを感じるだろう。音楽に関する感じの説明としては、あまりに漠然としているとわたしは考える。

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義

第6章 強化された形式主義

この章では、音楽における情動をうまく扱うために、強化された形式主義についての議論とそれに対する反論を概観してゆく。
まず第1節で、伝統的な形式主義について確認し、第2節では強化された形式主義統語論な要素、そしてその要素と情動的な要素との関係から組み立ててゆき、同時にそれらに対する反論に応答する。第3節では、強化された形式主義に対する〈歴史主義的要因〉〈機能的要因〉〈社会環境的要因〉、以上の三つの要因からの反論を検討する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 伝統的な形式主義について

まず、伝統的な形式主義(traditional formalism)が音楽の情動についていかなる主張をしていたかをかんたんに振り返ろう。

以前みたように、ハンスリック、ガーナーそしてその系列の形式主義は、音楽が情動的な言葉によって記述されることを否定した。たとえば、ハンスリックは〈傾向性〉(disposition)ならびに〈表象〉(representation)を否定した。(p.88, par.1)
また、ガーナーはハンスリックほど厳格に情動そのものを否定したわけではないものの、音楽に関して情動的な言葉を用いることは、その音楽の美的な(aesthetic)構造や特徴とはなんの関わりもないと主張した。(par.2)
以上のように、伝統的な形式主義においては、情動は厳しく排除されており、キヴィはこうした事態を「もし形式主義の友であるなら、情動の敵である」(If you were a friend of formalism, you were an enemy to the emotions.)とまとめている。(par.3)

しかし、音楽を聴いたとき、わたしたちがある情動を抱くことはかんたんには否定しがたい。そのことをハンスリックのように偶然性に帰することは無理筋ではないとはいえ、わたしたちの経験にうまくそぐわない。形式主義に反しないで、音楽が情動を持つことを主張できないだろうか?

第2節 強化された形式主義

そこでキヴィは、音楽がある〈情動的な要素〉(emotive properties)を〈聴かれた要素〉(heard properties)として持つことと考えることを提案する。(p.89, par.1)

このように、音楽が情動の要素を聴かれた(heard)ものとして持つことを認める形式主義を、哲学者アルパーソン(Philip Alperson)は〈強化された形式主義〉(enhanced formalism)と呼んだ。この章ではこの強化された形式主義がどんな議論を展開しているかをみてゆく。(p.90, par.1)

第1 統語論的説明

1 音楽の構造

まず取り組むのは、情動的な要素が音楽の構造のうちでどのようなはたらきをしているのかという問いである。(what role or roles emotive properties might play in musical structure)(par.2)

情動的な要素を傾向性や表象説によって説明することは可能だが、聴かれた要素としてどのように説明することができるのだろうか?(par.3-4)

ここで基本的なことを確認しておく。音楽の情動的な要素や、関連する芸術的な要素は、本来的に興味深い要素(interesting properties)である。そしてこれらの要素は美的な要素(aesthetic properties)であり、かつ〈反復〉(repetition)・〈対比〉(contrast)であるとキヴィは述べる。(p.91, par.1)

そしてこれらの情動的な要素は基本的に、音楽の構造、つまり音のパターン(sonic patterns)によって説明しうる。と主張する。(par.2)

以上の問題意識から、絶対音楽における情動的な要素の役割を、パターンと対比という用語や、ほかの〈表層的〉(surface)特徴のみを用いて説明するのではなく、音楽の統語論や深い構造によって説明してゆく。(p.92, par.3)

2 カデンツ

西洋音楽においてもっとも際だった統語論的な特徴とは〈解決〉(resolution)である。これは安定した状態からはじまり、緊張を経て、その緊張が解かれ、最後にふたたび安定にいたる動きを意味する。(moves from moments of rest, to moments of tension, or instability, and then resolves tension or instability into stability or rest)(p.93, par.1)
こうした緊張から安定にいたる解決を〈ケイデンス〉(cadence)と呼ぶ(日本においてはドイツ語のKadenz, カデンツのほうが一般的である。)。
具体的には、不協和(dissonance)な音を含む和音から、協和音(consonance)へといたる進行を言う。(par.2)
たとえば、G7からCへと進行するとき、G7は、BとFという増四度の不協和な音程を含んでいるため、緊張感を持っている。それがそれぞれ半音上行・下降することでCとEという協和な短六度(展開すると長3度)の安定した音程に解決する*1。(par.3)

記譜すると以下のようになる(譜例1)。

f:id:lichtung:20170612012841j:image

はじめの和音は、下からG-F-BからなるG7、次の和音はC-E-CからなるC。

キヴィがあげているのはつぎの例である。(譜例2 一部改変)

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長三度、長二度、それから短三度、最後に解決する。(p.94, par.1-2)

もちろん、こうした響きが解決へと向かうように聴こえるのは、自然言語と同じように、歴史的に変化してきた統語論的なものである。(par.3)
こうした安定-緊張-安定の動きは、18世紀、19世紀における西洋音楽を支配している重要なものなのだ。(p.95, par.1)

第2 第1の統語論的説明への反論 :音楽のはたらきとしての緊張と情動としての緊張

以上、まずわたしたちが注目しようとしている音楽の統語論的な要素のあらましを述べた。次に、この時点で予想できる反論を紹介し、それに対して応答を加えてゆく。まず、前述の音楽の緊張と解決に関する反論がひとつ。それから、音楽の統語論的要素と情動とに関する議論をしたあと、それに関する反論を取り上げる。

不協和な音程は緊張の状態にあるというとき、それを聴くわたしたちはどういう状態にあるのだろうか。ある論者たちは、わたしたちが音楽の動きを緊張の動きと述べる際、音楽はわたしたちを緊張させており、同様に動きを、解決や解放の動きであると述べるとき、音楽はわたしたちを弛緩させているのだ。と主張する。(we describe moments of music as moments of tension when the music makes us feel tense, and we describe moments in music as moments of resolution or release when our tensions, which the music has excited, the music now dissipates, or, as the musical term would suggest, 'resolves')(par.2)
キヴィはこれに対し、緊張や安定は、月並みな情動と同じく、聴き手の側にではなく、音楽のうちにある、と反論する。(like the garden-variety emotions, they are in the music, not in the listener)(par.3)
さらに詳細をみよう。
緊張にはたとえば、歯を抜く前や舞台でスピーチをするときのような緊張があるが、しかし、こういった緊張と音楽に緊張を聴く際のわたしたちの態度とは異なるはずだ。とキヴィは述べる。(p.96, par.1)
これに対する再反論として、前章で扱った仮設ゲームに訴える議論がある。わたしたちが予想をしているということは、その予想が外れることや的中することに関して緊張しているのではないか、というものだ。(par.2)
キヴィはこれに対し、すべての予想が緊張を伴うわけではないとして退ける。
肘掛け椅子に座り、歯の治療を待っているときと、友人がお土産を持って訪ねて来るのを待っているときでは、どちらも予想をしているとはいえ、両方が緊張を伴っているわけではない。(par.3)

第3 月並みな情動と統語論的要素の関係

次にいったんべつの話題として、月並みな情動と統語論的要素とがどのような関係にあるかを、解決において考えよう。(p.97, par.1)キヴィはつぎのふたつを指摘する。

まずひとつに、緊張や解放、解決が人間の精神的な状態として起こるとき、月並みな情動もそれに伴って起こる、ということを指摘する。(when tension, release, and resolution occur as mental states in human beings, the garden-variety emotions occur along with them)(par.2)
〔ここでキヴィが言いたいのは、音楽の動きとしての緊張が直接的にわたしたちの緊張の情動を惹き起こすというわけではなく、ある情動がおさまったり、逆に高まったりする動きと音楽の緊張-解放とが連動しているということである。〕
ここで述べているのは、たとえば、怒りの情動が惹き起こされたあとで、音楽の動きが緊張から解放へと向かうなら、その怒りの情動は解決する、すなわち解消される、といったことである。

そしてふたつに、月並みな情動は、メジャー・マイナーといった調性と深く結びついているということである。(p.98, par.1)
歴史的に短調の音楽はマイナーコードでは終わらず、必ずメジャーコードで終止していた。(par.2)
そして、この動きは暗い響きの短調から明るい響きの長調への劇的な変化を感じさせる。(par.3)
さらに言えば、こうした劇的な動きは、たんなる不協和音から協和音への進行よりもより強い解決であると言える。(par.4)
以上の二点から見えて来るように、西洋音楽の中心は、緊張と解決の統語論である、と言える。(the most central one in Western music, which is to say, the syntax of tension and resolution)(p.99, par.1)

第4 第3の関係性への反論:音楽と内容

ここでもうひとつの反論を取り上げよう。
いままで議論では、強化された形式主義の枠組みのうちで、情動の要素を統語論的要素を用いて説明しようとしてきた。しかし、これに対して、次のような反論がみられる。
「もし音楽が情動的な言葉を用いて記述されるのなら、すくなくとも、最小限の意味論的な内容(minimal semantic content)を持っていることになる。しかし、形式主義は意味論的な内容を完全に否定している。これをどのように正当化するのか?」(if music is (emotional), then it has at least minimal semantic; and musical formalism denies semantic content absolutely.)(p.99, par.2)
この議論は次のように展開する。
まず、論者たちは言語学的な指摘をする。
言葉や表現のもっとも基本的な意味論的な内容は〈指示〉(reference)である。これは、指示的な言葉や表現がなにかを指し示すはたらきである。
そして、憂鬱な音楽は、必ず憂鬱を指示している(Music that is melancholy must refer to melancholy.)。つまり、ある音楽が憂鬱だと言われるのは、その音楽が「憂鬱」という漢字二文字と同じように、憂鬱を指し示している、と主張しているのだ。
そして、こうした情動的な要素を扱う強化された形式主義は、最小限の内容を扱ってしまっている、と主張する。(par.3)
これに対してキヴィはふたつの点で反論を加える。
まず、わたしたちは音楽を情動以外の要素で記述することがある。たとえば、「激しい川のような」「甘い」「快活な子供のような」。しかし、音楽がそうした対象を指示しているとはにわかには信じがたい。(p.100, par.2)
これに対して、次の再反論が考えられる。
そうであれば、音楽が指示しているというよりも、〈関している〉(be about)のだと主張する。(par.3)
しかし、これは無意味な主張に過ぎないとキヴィは述べる。たとえ、こういった主張が万が一真だとしても、音楽の興味深さを生み出しているのは、強化された形式主義が認識している非-意味論的な特徴なのであり(those non-semantic features that enhanced formalism recognizes)、この特徴を取り扱わないことは無益であるとする。(par.4)

第5 まとめ

ここまでの議論をいったんまとめよう。

I have a presented, in the preceding pages, a version of what I have been calling 'enhanced formalism': the doctorine that absolute music is a sound structure without semantic or representational content, but, nevertheless, a sound structure that sometimes importantly possesses the garden-variety emotions as heard qualities of that structure --an enhancement, in effect, of formalism as it has traditionally been understood. I have, furthermore, tried to defend enhanced formalism against the charge that, in allowing absolute music to be describable in emotive terms, I have gone beyond the bounds of formalism property so-called, because, if music is describable in a emotive terms, then it must, ipso facto, denote emotions, be 'about' them, and, by consequence, have a semantic content.(p.101, par.1

これまで、強化された形式主義について紹介した。強化された形式主義とは、絶対音楽は意味論的、表象的内容を持たないが、聴かれた要素として月並みな情動をときおり、部分的に持ちうるような音の構造であるとするドクトリンである。すなわち、伝統的に理解された形式主義を後者の点で強化している。

そして次に、絶対音楽を情動的な言葉で記述することは、形式主義の範囲を越えている、なぜなら、音楽が情動的に記述されるということは、それが意味論的な内容を持っており、何かを指示することを意味してしまっている、との反論に対して再反論を加えた。

第3節 3つの反論

さらに以下では三つの反論を取り上げる。
歴史主義的要因〉(historicist factors)〈機能的要因〉(functional factors)〈社会環境の要因〉(factors of 'social setting')(p.101, par.2)。

第1 〈歴史主義的要因〉からの反論

ときおり、形式主義は〈非-歴史的〉(a-historical)なドクトリンであると言われる。しかしその主張は間違っている。(par.3)
まず、形式主義の主たる対象である絶対音楽は歴史的なものであるし、形式主義が注目する形式にしても同様である。キヴィは、音楽の形式に関して、次のふたつの歴史的な側面を提示する。(p.102, par.1)
まずひとつに、音楽の形式的構造は芸術-歴史的な特徴をあらわしている(a formal structure may exhibit art-historical features)。たとえば、ベートーヴェンピアノソナタにおけるソナタ形式は、彼以前のハイドンモーツァルトが作り上げた形式に拠っている。(par.2)

ここでキヴィはすこし本筋から離れ、芸術-歴史的な特徴は、〈歴史的な出来事〉(historical events)として捉えられるべきなのか、〈美的要素〉(aesthetical properties)として捉えられるべきなのか、議論がいまなお行われていることを言い添えている。(par.3)

次に、キヴィは、イギリスの音楽学者ベント(Margaret Bent)が指摘した事例、ある中世の音楽の動きを、現在の和声システムにおける基本的な出来事として〈聴き間違える〉(mishear)事例をあげる。(譜例3 一部改変)

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これはへ長調における和音の進行で、ふつうわたしたちはGからCへの進行、とくにドミナントからトニックへの、つまり緊張から安定への動きとみなす。つまり終止を聴く。(p.103, par.1)
しかし、中世、および初期ルネサンス期においてこの音型は、継続するもの(continuing)として聴かれていた。(p.104, par.1)
このように音楽の形式は、歴史のうちで異なるものとして認識されるのであり、当然、形式主義もその変化に注意を払っているのである。強化された形式主義は、音楽の形式が無時間的、非-歴史的であるとは主張しない。(There is nothing about enhanced formalism implying that musical form is a timeless or ahistorical thing.)

第2 〈機能的要因〉〈社会環境の要因〉からの反論

つぎに〈機能的要因〉(functional factors)〈社会環境の要因〉(factors of 'social setting')に基づくふたつの反論をみていこう。これらふたつは関連し合っているので同時に扱ってゆく。(p.104, par.2)
まずこれらの反論の前提となっている、歴史的な事実を確認しよう。
18世紀以前は、器楽曲はさまざまな社会的、さまざまな状況で聞かれた。家庭や領主の館、宮殿や教会、あるいは式典といった状況で聴かれたのだ。(par.3)
けれども、18世紀中頃に〈コンサート〉(public concert)が誕生することで状況は一変した。(p.105, par.1)
コンサートホール(concert hall)において、主に絶対音楽が、傾注し美的な注意を払って聴かれるようになった。そして、この環境下において、そのほかの過去の社会環境的、機能的な要素は排除されてしまった(In this setting, all its other past social settings and functions have been obliterated)。(par.2)
ここから、器楽曲はコンサートの誕生以前に長い歴史を持っていたことがわかる。(par.3)
そして、コンサートの誕生以前、器楽曲は機能的な面で美的な満足をひとびとに与えていた(functions themselves provide aesthetic satisfaction in functional works of art)。
そして、形式主義はこうした美的な要素を扱うことができない、と反論される。(par.4-p.106, par.1)
キヴィはこの反論に対してふたつの応答をする。
まず、形式主義が扱う音楽の構造については、コンサートホールの誕生以前の音楽にももちろん適用できる。そのため、この点では形式主義に問題はない。(par.2)
しかし、コンサートホールの誕生以前に音楽に伴っていた形式以外の要素については、確かに、形式主義が扱えていない部分である、と認める。(par.3)
そして、形式主義がうまく扱えないような機能的、社会的な要素については後続の章で議論をすることとして保留する。たとえば、〈歴史的に正統的な〉〈historically authentic〉演奏に関する問題ものちにふれることにする。(p.107, par.1-2)

第4節 さらなる問題

以上のことをまとめると、強化された形式主義は、月並みな情動を聴き手から音楽へと移動させた(Enhanced formalism has, however, moved the garden-variety emotions from the listener into the music.)、と言える。(p.109, par.1)
この考え方から言えば、情動は感じられる(felt)のではなく、〈認知される〉(cognized)と言える。ゆえにこれを〈情動の認知主義〉(emotive cognitivism)と呼ぶ。これに対して次の反論がある。
もし情動の認知主義が正しいのなら、わたしたちは音楽によって情動的に動かされているわけではないことになる。けれども、わたしたちは音楽によって情動的に動かされている。ゆえに、認知主義は誤りである。(par.2)
次の章ではこの反論を扱ってゆく。(par.3)

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung
第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung
第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung
第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

 

*1:ここでキヴィは、G7はFとGという長二度の音程を含んでいるゆえに不協和であると述べている。しかしこの場合強調したいことは解決の動きであるので、ここでは属七の和音から主和音に解決するさいに注目される、以上述べたような増四度の音程を取り上げている。

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義

はじめに

読み進めるほどにあちこちに、これから学ぶべきものが見えてくる。

さまざまな本をひらきつつ、聞き知ったことがらを関連させていければと思う。

それでは、ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第5章を読んでいきたい。

Introduction to a Philosophy of Music

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung

第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

第5章 形式主義

この章では、形式主義について検討するために以下の3つのトピックを扱う。まずformalismという表現について、次にMeyerの情報理論。最後に音楽理解について扱う。

第1節では、formalismという表現が生むふたつの誤解について注意を促し、第2節ではメイヤー(Leonard B. Meyer)の〈情報理論〉(information theory)によってわたしたちの音楽享受のあり方を〈出来事〉(event)〈予想〉(expectation)のふたつの側面から説明する。第3節では、音楽理解についての条件を〈志向的対象〉(intentional object)と〈音楽理論〉(music theory)にふれつつ検討し、最後に第4節では扱えない問いとして、ゲームの楽しさと個々の音楽要素の美そのものについてふれる。

第1節 Formalism:不適切な言葉

まず、今回取り扱う形式主義・フォーマリズムという言葉そのものについて注意を向けよう。〈形式主義〉(formalism)は、実のところ、音楽の形式主義について定義するためには不適切な言葉なのだ。この言葉は以下のふたつの点で不適切であるといえる。(p.67, par.1)

第1 音楽の純粋主義

まず第一に、フォーマリズムは、音楽について、その評価に関係するただ一つの側面が、形式のみであると提案している。この観点は、カント、ハンスリック、ガーナーにおいては正しいかもしれない。しかし、以下で見直すような、現在提案されているようなフォーマリズムに関してはあてはまらない。(p.67, par.2)
フォーマリズムは、まず否定的な言葉によって定義される。すなわち、音楽が何ではないかという言葉によって。絶対音楽は意味論的、あるいは表象的な内容を持たない。そして音楽は〈純粋〉(pure)な音の構造である。それゆえに、フォーマリズムというドクトリンは、音楽の〈純粋主義〉(purism)であると呼ばれることがある。(p.67, par.3)
しかし、もちろん、音楽にはその形式のみならず、その他にも芸術的な面白さがある。それは個別の音や和音、さまざまな楽器による音色といったもので、これらはまたそれぞれの魅力を持っている。(p.68, par.1)
なので、カントやハンスリックのような形式主義ではなく、ここで扱う形式主義においては、わたしたちは音楽的に、音楽作品における〈感覚的〉(sensous)な要素を享受(enjoy)していると考えよう。最も重要なものであるにせよ、形式もそのひとつなのだ。(p.68, par.2)

第2 空間的・時間的

第二に、形式主義という言葉は、もっぱら視覚的な形式、静的で空間的な諸形式(static spatial forms)を示唆してしまう。けれども、もちろん、音楽の〈形式〉は時間的(temporal)なものだ。そのため、言い換えの案として〈時間的パターン主義〉(temporal patternism)のほうがより適切かもしれない。けれども、形式主義は長らく使われてきたものなので、いまここで変更してしまうと誤解を生むかもしれない。(par.3)なので、あえて変更はせずにおく。
以上の二点の不適切な点に注意しつつ、ここでは形式主義という表現を用いることにしよう。

第2節 情報理論

第1 情報理論

キーワードの確認を終えたところで、いよいよ形式主義に基づいて、音楽の哲学的な問題に取り組んでゆこう。
さて、まず第一に、絶対音楽に関する形式主義者の問いとは次のようなものである:音楽の構造を把握する際、わたしたちは何を享受しているのだろうか?(What do we enjoy in our apprehension of musical structure?)(par.4)
この問いに直接答える前に、次の予備的な問いを考えてみよう。
わたしたちは小説を読むとき、あるいは映画を観ているとき、何を享受しているのだろうか?
まず指摘できるのは、わたしたちは小説や映画が展開するフィクショナルな出来事(fictional event)を享受しているはずだということだ。そしてまた、文字を用いた作品なら、言葉の美しさを、映画ならば画面の構成を楽しんでいるだろう。加えて、話の筋の構成や、作品が提示する哲学的、倫理的な問いに楽しみを見出すかもしれない。
いずれにせよ、主としては、物語(story)を享受しているといえる。(p.69, par.1)

それでは、わたしたちは絶対音楽の形式的、感覚的な要素を聴いているとき、何を享受しているのだろうか?(What is it we enjoy in listening to the formal and a sensual properties of absolute music unfold in our listening space?)
もし形式主義者なら、わたしたちが享受しているのは、フィクショナルな出来事ではなく、純粋に音楽的な出来事、すなわち、音の〈出来事〉(sound 'event')、これを享受していると答えるだろう。(par.2)
ここで予備的な問いに注意を向けよう。

音楽的な出来事(musical event)の知覚、そして享受と、フィクショナルな物語(fictional narratives)の理解、享受とのあいだには、共通の性質があるということ。大まかに言って、どちらの場合においても、わたしたちはただ筋を追っているのではなく、考えているthink)のだ。(par.3)
フィクショナルな物語、たとえば小説をはじめて読むとき、わたしたちは受動的な鑑賞者(passive spectator)ではなく、何が起こるのかを考えているのだ。
つまり、わたしたちがフィクショナルな物語に心を向けているとき、わたしたちは、言ってみれば、問いと答えのゲーム(question-and-answer game)に興じているのだ。フィクショナルな物語はこうしたわたしたちの問いに対して、当然あるべき予想を裏切ったり、異なる結論に達して困惑させたりする。(par.4)

次に、わたしたちの〈予想〉(expectation)について考えよう。

すこし考えれば気づくことだが、わたしたちの〈予想〉はそれまでにどんなジャンルの物語をわたしたちが読んだかによって条件づけられている。わたしたちは読んだことのないジャンルの読み方が分からなかったり、次にどんな展開が訪れるのかをまったく予想できなかったりする。すなわち、わたしたちの予想は、つねに流動的な状態にあり、かつ、わたしたちがどんな思考態度(mindset)を持ち込むかによってその予想は変化するのだ。(p.70, par.1)

物語との比較で気づくように、音楽作品はプロット(plot)を持っている。もちろん、物語の登場人物の行動によるものではなく、純粋に音楽的なプロットをである。音の出来事は以前ハンスリックが述べたように、音楽的な〈論理〉(logic)もしくは〈意味〉(sense)の連結によって起こるのだ。
わたしたちがこの音楽的なプロットを追うときの態度は、フィクショナルな物語を追うのとほとんど同じをものだと言える。(p.70, par.3)

次に、こうした分析を踏まえて、音楽の構造を把握するとき、わたしたちは何を享受しているのかを、 メイヤー(Leonard B. Meyer )の Emotion and Meaning in Music (1956)を援用して分析してみよう。(p.71, par.1)
メイヤーは〈情報理論〉(information theory)に基づいて音楽の分析を行っている。まずこの情報理論について概略を確認しよう。
まず、情報理論において〈情報を伝える〉(inform)とは、誰かに、そのひとが知らないことを伝えることを意味している。(par.2)
そして、〈出来事〉(event)は、完全に予想できるものから、まったく予想できないものにいたるまで、連続的に(それぞれの値をもって)存在する。ある出来事が予想可能なものであるほど、それはすこししか情報を持っていない。逆の場合も同じである。すなわち、予想だにしない出来事は情報が多い(highly informed)のだ。(p.72, par.1 )

第2 統合論的出来事と形式的出来事

こうした情報理論をメイヤーは音楽的な出来事に援用する。
その際、音楽的な出来事のカテゴリーを区分することでより詳細な議論を行っている。以下、見ていこう。
まず、音楽的な出来事を〈統合論的出来事〉(syntactical event)〈形式的出来事〉(formal event)のふたつに区分する。(par.2)
はじめの〈統合論的出来事〉(syntactical event)とは、音楽的な文法の規則(rules)に基づく出来事である。すなわち、和音の進行、解決といった音楽理論的な規則に基づく出来事のことである。(par.3)
形式的出来事〉(formal event)とは、さまざまな音楽の形式に基づく出来事である。統合論的出来事よりすこしおおきな枠組みでの形式のことである。(par.4 )
たとえば、ソナタ形式において楽曲はおおきく、提示部(exposition)・展開部(development)・再現部(recapitulation)に分かれている。
提示部では主題が提示され、その主題は展開部においてさまざまに変奏される。そして最後に再現部において主題が反復され終わる。このような形式を形式的出来事と呼ぶ。(p.73, par.1)下図参考(https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Simple_sonata_form.png

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第3 音楽的な出来事の予想 外的、 内的

それでは、出来事そのものについての確認を終えたところで、わたしたちの予想について考えよう。わたしたちの予想はいったいどこから発生するのだろうか?(From whence do these expectations arise?)(par.2)

まず、音楽的な出来事に対する予想は次のふたつに分類することができる。〈外的な予想〉(external expectation)と〈内的な予想〉(internal expectation)とである。
前者は、ある特定の音楽環境において育つことで無意識のうちに獲得される予想のことである(The former are the expectations one acquires quite naturally, without being aware of it, in growing up in a specific musical environment.)。たとえば、わたしたちは、すでに無意識のうちに西洋音楽的な和声感を身につけてしまっている。(par.3)
後者は聴取者が心を向けている特定の音楽作品の内的なはたらきによって惹き起こされる予想である(The latter expectations, the internal ones, are aroused and frustrated or confirmed by the inner workings of the particular musical work itself that the listener may be attending to.)。(p.74, par.1)

第4 情報理論による音楽の説明

以上をふまえて、〈よい〉(good)音楽とはなにかを考えてみよう。
メイヤーによれば、よい音楽とは、予想と予想外の中間をゆくものでなければならない。完全に予想できるものは情報を持っておらず、退屈であり、まったく予想できないものは情報過多であり、それに対するわたしたちは混乱に陥ってしまう。
たとえば、地理的にあるいは時間的に離れた諸民族の奏でる音楽を聴く際、わたしたちはそれらのひとつひとつがもつ響きの多様性にしばしば戸惑う。その訳はこの情報理論に基づいても説明できる。

それらは、わたしたちの外的な予想の外にあり、それゆえ、そのよしあしを判断できるだけの経験をもっていないのだ。そして、あまりに情報過多であるがゆえに、正当な判断ができない。(p.74, par.2)

第5 ふたつのゲーム

以上までで、情報理論に基づき、出来事、予想のふたつの要素についての音楽享受の分析がなされた。次に情報理論による説明に関して、さらにふたつの問いを取り上げよう。
ひとつは、予想し、そして驚きや満足を得るプロセスにおいて、どの程度まで意識的に、どの程度まで無意識的になされるのかという問いであり、ふたつには、何度も聴いた音楽に、つまりすでに展開を知ってしまっている作品にも予想のプロセスを適用できるのか?という問いである。(p.74, par.3)

1 仮設ゲーム

まずひとつめの問いについては、意識的でも無意識的でもありうる(both consciously and unconsciously)と答えることができる。ことの詳細を見てゆこう。
音楽の聴取者は、音楽を用いて〈仮設ゲーム〉(hypothesis game)を行っている。とキヴィは説明する。聴取者は、音楽を聴きながら、次になにが起こるのかについてのじぶんの仮説を組み立て、その結果、その予想に対する驚きや確証を得る。(p.75, par.1)

こうした予想と驚きのゲーム、情報理論に基づいて言い換えれば、新たな情報を手に入れていく遊びによって音楽の構造を享受しているのだと、仮設ゲームは言わんとしている。

ここで注意しておきたいことがある。あるひとはこの仮設ゲームを行いながら、自分が仮設ゲームを行なっていることを自覚していることがある。けれども、仮設ゲームを行っているものがみなこうした自覚(self-sonsciousness)を持っているというわけではない。
仮設ゲーム説に反論する者が、音楽の聴取は自覚的な行為ではないと主張するとき、彼らは仮設ゲームそのものを批判しているというよりは、「仮設ゲームをしているという自覚を持つ」ということについて何らかの批判を加えているのだ。(par.2)こうした区別は重要である。

また、この説は音楽の聴取をいたずらに知的な活動に仕立て上げているわけではない。(par.3)
そうではなく、BGMとして聴くのではなく、真剣に、注意して音楽を聴いているひとならば、みなこの仮設ゲームを行なっているのだ。(p.76, par.1)とキヴィは主張する。
以上より、ここでは、音楽聴取においてわたしたちは無意識的に仮設ゲームを行なっているし、あるいはまた、仮設ゲームを行なっていることを自覚していることもある。と主張されている。

2 かくれんぼ

次に、第二の問い、すなわち、何度も聴いた音楽を聴取する際、わたしたちはどのように仮設ゲームを行っているのかを考えよう。(par.2)
この問題は音楽再聴問題(problem of rehearing music)と呼ぶことがある。(par.3)
まず、絶対音楽は、フィクションと同じように、〈錯覚の持続性〉(the persistence of illusion)と呼ばれる性質を持っている。(p.77, par.1)
たとえば誰かが自分を殴るふりをしたとき、それがふりだとわかっていても、わたしたちは身構えからだをこわばらせてしまう。こういった染み込んだ反応をわたしたちはしてしまう、とキヴィは述べている。同じように、何度も聴いた曲でも、急激なテンポの変化や、ダイナミクスの変化にわたしたちは毎度驚いたり感動したりできるというわけである。

けれども、たしかに、錯覚の持続性は、すぐれて音楽特有の性質というわけではない。そこで、キヴィは音楽特有の性質を取り上げるために〈かくれんぼ〉(hide and seek)というキーワードを用いる。(par.2)
西洋古典音楽において、19世紀の終わり頃から、旋律はさまざまに変形、変奏されて楽曲に埋め込まれるようになった。そしてそうした変形され隠された旋律を探し当てることが聴取者の音楽享受のひとつの要素となったのだ。(p.78, par.1-par.2)
組み立てられた音楽的な構築物から主要な旋律を認識することが聴取者の課題となった。同時に、旋律を多様化させ、隠し、変化させ分割し、聴取者に解くためのパズルを与えることが作曲家の課題となった。(p.78, par.3)
その手掛かりとして、絶対音楽は主題を何度も循環(recurrence)させる(par.4)

こうしたいとなみを、作曲家が埋め込み、楽曲のうちに隠れている旋律と、それを聴き取ろうとする聴取者との、そのあいだでのかくれんぼになぞらえることができる。

第6 まとめ

それではここで以上をまとめよう。

We can now put together the two processes of musical listening, the hypothesis game, and the game of hide and seek, into a plausible account of what we enjoy in our encounters with absolute music (and a music with texts as well). What both of these games suggest is a kind of puzzle play, much like, as I suggested earlier, the kind of thing that goes on when we take in a fictional narrative, whether read (as in novel) or seen (as in plays and movies). In a story we are held captive because we want to know what is going to happen: how things will turn out. But we are not completely passive observers of the fictional proceedings: not intellectually passive, that is. A great deal of our pleasure in the experience of fictional narrative is the treasure we take in wondering what is going to happen, making conjectures about what is going to happen, and, of course, finding out what is going to happen: finding out if our conjectures on the money or not. Narratives pose riddles we try to solve.(par.5)

 絶対音楽(あるいはテクストを伴った音楽)と向き合うとき、わたしたちが何を享受しているのか。わたしたちは、この問いに対する説得的な説明を、仮設ゲームとかくれんぼという、音楽聴取のふたつのプロセスを用いて組み立てることができる。これらのゲームが示唆しているのはある種のパズル遊びである。そしてこれらのパズル遊びにおいて起こっていることは、先に述べたように、小説を読んでいるときに起こっていること、あるいは、劇や映画を観ているときに起こっていること、そうしたフィクショナルな物語に没入するときに起こっていることにとてもよく似ている。物語のうちに、わたしたちがとりこになっているのは、何がこれから起こるのかを、すなわち、どんなふうにものごとが進展するのかをわたしたちが知りたがっているからなのだ。しかし、フィクショナルな物語が進行する際、わたしたちはまったく受動的な鑑賞者であるのではない。知的には受動的であるわけではないのだ。というのも、フィクショナルな物語の体験をする際のわたしたちの喜びのかなりは、何が起きるのかいぶかしむこと、何が起きるのかについて推測すること、そしてもちろん、何が起こるのかを見つけ出すこと:たとえその推測が適切であろうとなかろうと……こうしたいとなみによって掘り出す宝物にあるからだ。物語はわたしたちが解こうとする謎を提出するのである。

The forms of absolute music are plots without content. Or, if you like, they are purely musical stories.(p.79, par.1)

絶対音楽の形式とは、内容のないプロットである。あるいは、純粋に音楽的な物語であると言ってもいい。

第7 音楽の反復性

ここで、いったん、後に8章でも扱うことになる音楽の特徴について触れておこう。
音楽がフィクショナルな物語と異なる点は、それが非常に〈反復的〉(repetitive)なのもであるという点である。(par.2)

旋律は変奏されながら何度も繰り返される。さらに、形式的な構造としても、響きは繰り返される。

この点をふまえると、仮設ゲームは物語的なものと音楽的なものとに共通しており、かくれんぼは文学的であるというより、音楽的であると特徴付けることができる。
むろん、物語においても、言葉や比喩の反復性は重要な役割を果たしており、そうした反復を見つけ出すことが文学作品の楽しみにもなってはいる。けれども、こうしたテクストを持つものは、反復性そのものよりもむしろ論述の構造が作品の主題探求の手がかりに寄与している。そして内容を持たず、プロットのみを持つ絶対音楽においてこそ、反復性が重要になる。
加えて、テーマの回帰が見られるような作品がしばしば「音楽的」であると言われるのは、まさにこの音楽の特徴を謂ったものである、とキヴィは述べている。(par.3)

第3節 音楽を理解すること

さて、次に、わたしたちは音楽の何を理解しているのかについて考えよう。
ここでも、まず、物語との類比から考えよう。

フィクショナルな物語を理解するとは、その物語のなかで何が起こっているのかを把握することである。(p.80, par.1)
たとえば、オースティンの『高慢と偏見』を子供が読んでもその全体を理解することは難しいだろう。なぜなら物語を理解するために必要な経験を、彼あるいは彼女は持ち合わせてはいないからだ。(p.80, par.2)
しかし、それでは、音楽を聴く者は何を理解しているのだろうか?(p.80, par.3)
もちろん、まったく無意識に、夢見心地で、音に浸かるようにして音楽を聴くという態度もありうるだろう。しかし、それはここで探求しようとする態度ではない、とキヴィは述べる。(p.80, par.4)

第1 志向的対象

ここで、キヴィは、音楽理解の深さを記述するために〈志向的対象〉(intentional object)という言葉を導入する。
たとえば、あなたと友人の前にある男が現れる。あなたはその男がハムレットで有名な役者であることを知っており、友人は何も知らない。このとき、あなたの志向的対象は、「背が高く、格好の良い、ハムレットの演技で有名な役者」というものになるが、友人の志向的対象は「背が高くて格好の良い男」というものになる。つまり、あなたと友人は同じ男を目の前にしているが、異なる志向的対象と向き合っているのだ。(p.81, par.1)
音楽も同様に、聴き手の音楽的な知識や経験によって異なる志向的対象として記述される。音楽的な知識や経験が多いほど、おおきな志向的対象となるであろうし、音楽について知るほどに、より手の込んだ記述ができるようになるだろう。(p.81, par.2)

第2 音楽理論の扱い

さて、上述したこととの関係で、〈音楽理論〉(music theory)について考えよう。音楽理論は音楽的な出来事についての技術的で精巧な記述であり、ほかの芸術分野には類比的なものが見られないようなものである。(p.82, par.1)
まず注意しておきたいのは、音楽理論の知識は豊かな音楽鑑賞の必要条件(requirement)ではないということである。(p.82, par.2)
しかし他方、音楽理論の知識は音楽享受にはなんら寄与しないという結論も避けなければならない。とキヴィは述べる。(p.82, par.3)
音楽の記述には音楽理論の知識は有用であり、それによって志向的対象が拡大する。加えて、誰にでも学べるものであり、絶対音楽以外の音楽を鑑賞する際にも有用だと述べる。(p.83, par.1-2)

第4節 扱えない問い

以上でこの章の本題は終わった。次に、キヴィは、それ以上はここでは扱うことのできないふたつの問いを取り上げる。ひとつめは、なぜ、いかにしてゲームは楽しいのか(How, why, are these games enjoyable?)という問い。(p.83, par.4)ふたつめは個々の音楽要素のそのものについて(concept of beauty itself)の問いである。(p.84, par.4)

第1 なぜゲームは楽しいのか

キヴィは、なぜ、いかにしてゲームは楽しいのか、という問いに答えるためには、心理学的、生理学的な研究が必要になると述べる。そしてこの問いは哲学者が扱える範囲を超えているとも述べる。(Perhaps it goes beyond even what the philosopher of anything can or is obligated to explain. )(p.84, par.3)

第2 美しさ

音楽の美そのものについては、わたしの問いではない、とキヴィは述べている。(The question of musical beauty is someone else's question, not mine.)(p.86, par.2)

ただし、個別の事例においては、それらの事例がなぜ美しいか説明をすることは可能であると付け加えている。(p.86, par.3-4)

まとめ

以上、第5章では形式主義について検討した。もう一度内容をまとめておく。

Summary

  1. Formalism:不適切な言葉
  2. メイヤーの情報理論
  3. 音楽理解について
  4. 扱えない問い

第1節では、formalismという表現が生むふたつの誤解について注意し、第2節ではメイヤー(Leonard B. Meyer)の〈情報理論〉(information theory)によってわたしたちの音楽享受のあり方を、〈出来事〉(event)〈予想〉(expectation)のふたつの側面から説明した。第3節では、音楽理解についての条件を〈志向的対象〉(intentional object)と〈音楽理論〉(musical theory)にふれつつ検討し、最後に第4節では扱えない問いとして、ゲームの楽しさと個々の音楽要素の美そのものについてふれた。

続く第6章では、形式主義について、さらに詳細な議論を展開していく。

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を

はじめに

 断片的だった知識がひとつの流れとして立ち現れる、そうしたことを歴史叙述は行う力があるのだと、キヴィの整理を読んでいると気づかされる。

ピーター・キヴィの『音楽哲学入門』今回で4回目となった。全13章の三分の一の少し手前、まだまだ長いが一行ずつ読んでいきたい。

Introduction to a Philosophy of Music

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung

第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

6/2 訳語訂正:the arts, fine arts, form, understanding

訳語についてご指摘をいただきました。

the arts 技芸、技術→(諸)芸術。fine arts 芸術→美しい技術。

form 形式・かたち→形式に統一。understanding 理解力→知性。

第4章 もうすこし歴史の話を A Little More History

第4章では、18世紀後半から19世紀末にかけて、表象説とは別のしかたで、音楽がいかなる存在だと考えられえたのかを、〈形式formをキーワードに、カントハンスリックガーニーの3名の思想家の思索を辿ることで概観する。

まず、18世紀後半に至る、声楽から器楽への流れに目をやり、音楽が芸術においてどんな位置を占めていたかを、〈美しい技術〉というカテゴリーの誕生と〈表象〉というパスワードを軸に確認する。そして18世紀末、音楽哲学的問題をはじめてとりあげたカントの音楽観をまとめ、次に、19世紀中期、カントの問題設定を継承したE. ハンスリックの議論を「非-意味論的・統語論的」な音楽論として捉え直し、最後に、ハンスリックの影響を受けたであろう、19世紀末におけるE. ガーニー「メロディーの形式主義という説明を追う。この章では上記の5つのトピックを扱う。 

1. 声楽から器楽へ 〈18世紀へ〉

わたしたちがいま扱っているのは主に絶対音楽、つまり歌詞を持たない器楽曲である。しかし、現在この世界に住むひとびとのおおくにとっては、むしろ音楽とは歌われるものを意味する( 'music' means sung music)。かつまた、人類の歴史を紐解いてみても、ひとびとが耳を傾けてきたのは歌われる音楽だった。(p.49, par.1)
第2章では、音楽と情動の問題を扱う音楽の哲学が長きにわたって、すこしずつしか深まっていかないさまが概観されたが、それは、ゆえのないことではない。音楽が言葉とつよく結びついているあいだは、音楽と情動をめぐる問題は表立ったものにはならなかった。わたしたちが問うている問題の発生と、純粋な器楽曲の誕生とは深く関連したできごとなのだ。情動を表現しているわけではないように思える絶対音楽の出現こそが、音楽と情動をめぐる問いを可能にした

この事態を「現代の「音楽の問題」は純粋器楽曲、すなわち絶対音楽、〈音楽だけの音楽〉が産んだ子どもである」(The modem 'problem of music' is the child of a pure instrumental music: absolute music; music alone.)という言葉でまとめておこう。(p.49, par.2)

2. 〈美しい技術〉というカテゴリーの誕生、表象というパスワード  〈18世紀後半〉

第2節の内容
  • 器楽曲の前史
  • 〈美しい技術〉というカテゴリーの誕生
  • 表象というパスワード
器楽曲の前史

それでは、器楽曲はどのような状況のなかで誕生し、わたしたちが問うている問題はその誕生とどう関わっているのだろうか。
18世紀以前、中世、ルネサンス期、そして17世紀において、作曲家の人生のほとんどすべては声楽曲(vocal music)の作曲のために捧げられていた。教会、世俗的な行事、そして、後にはオペラハウスや、国家的な行事のために作曲をしていたのだった。(p.49, par.3)
このような状況のなかで、純粋な器楽曲は、声楽曲を編曲したものに限られ、演奏される楽器もオルガン、ハープシコードリュートといったいくつかが見受けられる程度だった。
しかし、18世紀の後半、器楽曲におけるなにかが大きく変わった。その「社会的地位」は上昇し、作曲家の人生において、彼らの創造の時間は器楽曲のために費やされるようになった。(p.49, par.4)

〈美しい技術〉というカテゴリーの誕生

18世紀まで、詩や絵画、建築や舞踊といった表現のカテゴリーをまとめ上げるような概念は存在しなかった。けれども、18世紀になってはじめて〈現代的な(諸)芸術のシステム〉(modern system of the arts)すなわち〈美しい技術〉〈ファインアート〉(fine arts)というカテゴリーが登場した。そしてその〈ファインアート〉というカテゴリーには、いままで「工芸」だとみなされていた数々の活動が分類されうることにひとびとは気づいたのだ。(p.50, par.1)

詩や絵画、彫刻といった活動がつぎつぎにファインアートへと編入されていくなかで、そのカテゴリーに入ることになった最後のものは、もっとも問題含みのもの、つまり、音楽だった。(par.2)
音楽のいったいなにが問題なのか。実のところ、その問題こそは、わたしたちがここまで問うてきた問題なのだ。回答を急がず、いますこし歴史を辿っていこう。

はじめにみたような状況からも分かるように、プラトンから18世紀中期にいたるまで、声楽曲(vocal music)こそが「音楽」を意味していた。そして、プラトンから18世紀中期にいたるまで、音楽は人間の話し声を表象するために〈表象的な〉(representational)活動である、という見方が支配的だったのだ。表象説は、声楽曲をもっとも説得的に記述するために生まれたのだ。(par.3)

しかし、器楽曲をうまく説明できないことにひとびとは不満を覚えなかったのだろうか?

その時点では、純粋器楽はいまだ周縁的なもの、そしてたんなる余興にとどまっていたため、それに気を煩わせる必要はなかった。声楽曲についてのすぐれた理論があれば、それで事足りたわけである。(par.4)

表象というパスワード

ここで、〈ファインアート〉のカテゴリーと音楽の関係に戻ろう。

新しく生まれた〈ファインアート〉のカテゴリーに入るためには、音楽の全体を包括するような「理論」が必要だった。というのも、現代的な諸芸術のシステムがそれを求めていたからだ。もしそれが〈ファインアート〉なら、それを〈ファインアート〉足らしめるような定義された特徴がなければならなかったのだ(If it were the fine arts, there had to be some defining character...something that made them the fine arts.)。

その条件とは何か?

当時、ファインアートたらんとすれば、表象的でなければならなかった(To be a fine art required being representational)。〈表象〉はパスワードだったのだ。そして、声楽曲はその秘密の言葉を持っていた('Representation' was the password; and vocal music was in on the secret.)。(par.5)

しかしながら、18世紀後期に器楽曲が現れ、すべては変わった。器楽曲は声楽曲に対する「競合相手」となった。とはいえ、声楽曲のように、その素性が明らかであるわけではなかった。器楽曲がなにがしかを表象するのかどうか、議論の余地はあったのだ。すなわち、器楽曲がファインアートかどうかが問われることとなった。(p.51, par.1)

もし器楽曲がファインアートでないとしても、声楽曲から器楽曲を切り離して、声楽曲のみが音楽だとみなすことは難しくなっていた。というのも、当時、器楽作品が周縁的なものとして無視されていたわけではなかった。たとえば、当時の著名な器楽曲の作曲家であるハイドンの作品は、すでに国際的な名声を博していた。(par.2)

こうした現実のなかで、しかしながら、なおも、音楽が〈ファインアート〉かどうかははっきりしていなかった。というのも、問題は、つぎの信頼できる古い定説がまったくうまくいかない、少なくとも、はっきりとわかるかたちではうまくいかなかったことにある:「〈ファインアート〉は、表象の諸芸術である。音楽は情念的な喋り声を表象する。ゆえに、音楽は〈ファインアート〉である」("The fine art are the arts of representation, music is a representation of the passionate speaking voice, so music is one of the fine arts." )(par.2)

3. カント:その思考、その思考の音楽への適用  〈18世紀末〉

第3節の内容
  • その思考
  • 感性的・普遍的な判断
  • 美の判断
  • 無関心性・形式=かたち
  • その思考の芸術作品への適用
  • その思考の音楽への適用
その思考

前節で取り上げたように、18世紀のあいだ、ファインアートに関する哲学者たちの中心的な研究課題は、表象としてのファインアートの基礎を確立することだった。そこで、表象説ではうまく説明することができない絶対音楽、純粋器楽はつまづきの石となっていた。(p.52, par.1)
といっても、18世紀、音楽には表立って哲学的関心が払われていたわけではない。たとえば、リード(Thomas Reid 1710-96)は音楽の協和的な響きはよく整った会話であり、不協和な響きは怒りの表現である。と単純に説明するだけだった。

そうした状況で、音楽の哲学の進展におおきな役割を果たした哲学者がいた。その哲学者とは、イマニュエル・カント(Immanuel Kant 1724-1804)である。(par.2)

ここから、彼が美についてどのように思考したかをたどろう。のちにみるように、彼の思考はその後のハンスリック、ガーニーへと受け継がれていくさまざまな可能性を秘めたアイデアの集まりなのだ。

わたしたちがこれから扱うのはカントの『判断力批判』(Critique of Judgement, Kritik der Urteilskraft)(1790)である。これはふたつの部分から成り立っている。ひとつは「感性的判断力批判」(Critique of Aesthetic Judgment)もうひとつは「目的論的判断力批判」(Critique of Teleological Judgment)である。この章で扱うのは美についての判断を論じた前者のみである。(par.3)

感性的・普遍的な判断

それでは、カントはどのように美についての判断を論じたのか。
彼はまず、判断という行為を〈感性的〉判断と〈普遍的〉判断のふたつに分ける。

まず〈感性的〉(aesthetic)とは判断する者の主観的な感情や信念に基づいた判断のことである。たとえば「このステーキはおいしい」という言葉は「このステーキはわたしにとっておいしい」ということを意味している。
これに対して〈普遍的〉(universal)な判断とは、判断する者の主観的な感情に基づいているのではなく、普遍的に真であるような判断のことを意味する。
たとえば「命題Pは命題Pそれじしんと等しい」と判断を下すとき、ひとは感性的判断のように、「わたしにとって命題Pは命題Pそれじしんと等しい」ということを意味するわけではない。「わたしにとって、かつすべてのひとにとって、ある命題Pは命題Pそれじしんと等しい」という判断を下しているのだ。(p.53, par.1)

美の判断

こうした判断の批判を終えて、次なる主要な課題は、美についての判断(judgment of the beauty)はどのようになされるのかということだった。
「これは美しい」という判断は、食の好みのように単に感性的であるのだろうか? それとも、命題のような普遍的なものなのだろうか?
この問いに対してカントは、美についての判断とは、「感性的に、かつ普遍的になされる(judgments of the beautiful could be both aesthetic and universal)」のだと主張した。p.54par.1
これこそが感性的判断力批判において主題的に扱われた問題である。

無関心性・形式

さて、それではこの主張をするためキヴィはある例を用いる。
あるひとAとべつのひとBとがおなじ夕陽を見た。Aは「なんて美しいんだ。まさに神の栄光を示している」と感嘆し、Bは「ニュージャージー州の大気汚染のせいでこんなふうに光って見えるんだよね」と述べた。
このときどちらもがカントが主張するような美についての判断を下していないと言える。なぜなら、Aは感性的な判断を下しているかもしれないが、それは普遍的な判断ではなく、Bは普遍的な判断を下しているかもしれないが、感性的な判断を下してはいない。
このふたりに共通している判断の態度は、夕陽に対して判断を下すときに、夕陽以外の他の要素を加えて判断を下していることだ。Aはその信仰上の信念、Bはその知識を加えてしまっている。
そこで、カントは主張する。AとBとがともに、こうした個人的な要素をすべて取り除き(removed all of the personal factors)、夕陽の視覚的なかたちそのものに集中したとき、すなわち〈無関心性〉(disinterestedness)のもとで夕陽を見たとき、ふたりは「夕陽が美しい」という判断を同時に下すに違いない、と。(p.55, par.2)

しかし、対象から、対象以外の信念や感情をすべて取り除いたとき何が残るだろうか? 答えはその〈形式〉(form)である。夕陽が美しいと同意するとき、無関心性の態度を持って夕陽に向かうとすれば、そのとき話題にしているのは夕陽の視覚的なあらわれ(visual appearance)のかたちなのである。(par.3)

夕陽がどのような状態で存在していても、夕陽の視覚的なあらわれは変わらないままでいる。そして趣味の純粋判断においてわたしたちが反応しているのは、その〈形式〉なのだ。これがカントの〈形式主義〉( formalism)である。(par.3)

しかし、 もしかすると、わたしたちの美についての判断は、たんにわたしたちが獲得してきた信念や概念(acquired beliefs and concepts)によってではなく、生得的に(inherently)異なっているのかもしれない。つまり、わたしたちが無関心性のもとで夕陽に向かったとしても、生得的な違いによって、異なる判断を下すかもしれない。(p.56, par.1)

こうした疑問を、カントは人間に共通して備わっているとされる能力に訴えることで退ける。
彼によれば、ふたつの共通の基本的な人間の能力がある。すなわち、想像力(定訳は構想力、imagination)と知性understanding)である。このふたつの能力が、無関心性のうちでかたちに向かうとき、それらは〈自由な戯れ〉(free play)の状態におかれる。そしてこの〈調和的〉( harmonious)状態では、想像力と知性とははたらくことなく、ただそれ自身で喜びをもつ。ゆえに、美の判断は感性的でもありかつ普遍的な判断になるのだ。(par.2)

その思考の芸術作品への適用

それではつぎに、芸術作品を美しいと判断するとき、どんな判断がなされているのかを見ていこう。
注意しておかなければならないのは、ファインアートの哲学においては、カントは形式主義者(formalist)ではなかったということだ。形式主義が、ファインアートにはその形式しかないとするものだとすれば。むしろ、カントはファインアートが表象であり、核となる内容(content)と意味(meaning)をもっていると考えていた。(par.4)
それではその内容や意味とはどういうものであるのか。カントは、内容をふたつのレヴェルに分割した。〈明白な内容〉(manifest content)と〈感性的な観念〉(aesthetic ideas)である。(p.57, par.1)

これを説明するためにキヴィは詩の例をあげている。すこし言い換えて説明してみたい。

前者は、たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句の内容の「蛙が古池に飛び込み、それによって水の音がした」というような具体的な内容のことを指す。これは、すぐれた作品でなくとも、多くの作品がもっている性質である。
後者は、芭蕉の句の、たんなる具体的な内容ではなく、芭蕉の句そのものがもつ美である。
こうした天賦の才(genius)だけが作り出し得る〈感性的な観念〉は、汲み尽くしえないような内容(ineffable content)であり、ふれたものに、ゆたかな観念の連合(rich chain of ideas)を惹き起こすものであると言われる。そしてこの〈感性的な思考〉こそが想像力と知性とによる〈調和的〉な〈自由な戯れ〉を生み出しうるとカントは考えた。par.2

そして、カントはフォーマリストではないにせよ、芸術作品にも、それが美しいものであるためには、当然前述したような〈形式〉が必要であると考えた。さらにここで、芸術作品における〈形式〉について議論を深めよう。
カントは、芸術作品における〈美〉(beauty)と〈魅力〉(charm)とをはっきりと区別した。par.3
たとえば油彩画を例にあげてみよう。
油彩画には、〈形式〉としてさまざまな輪郭や物が描かれており、これをわたしたちは〈美〉だと判断しうる。同時に油彩画は、さまざまな「」が見られる。こうした色は、カントにとっては〈形式〉ではなく〈魅力〉であって、〈自由な戯れ〉を惹き起こすことはなく、ただ、物理的な感覚として快い(the pleasure of physical sensation)だけのものだとされる。

それではここまでをまとめよう。

To sum up, then, Kant thinks that works of the fine arts, the works of genius, exhibit two definitive characteristics. They possess beauty of a form; and they possess representational deep content: the power to excite a chain of ineffable ideas, the aesthetic ideas, which, like the beauty of form, engage the harmonious free of the imagination and understanding.(p.58, par.1)

天才による芸術作品は次のふたつの決定的な性格を持つとカントは考えた。すなわち、形式の美しさ、そして表象的な深い内容、つまり汲み尽くしえない観念の連合を惹き起こしうる、感性的な観念である。後者はかたちの美しさと同様、想像力と理解力との調和的な自由な戯れを生むのだ。

その思考の音楽への適用

以上のカントの説に従えば、ある対象が芸術であるためには〈形式美〉(formal beauty)と〈感性的な観念〉(aesthetic idea)を触発するような内容(content)を備えていなければならない。
さて、それでは音楽はカントの芸術の定義を満たすのだろうか。
カント自身の説明によれば、音楽は振動(vibration)という形で形式美を備えている。しかし、音楽は、身体の緊張をほぐしたりすることはでき、また、月並みな情動を惹き起こすものの、精神に対しては関係することがない。つまり、音楽は感性的な観念を触発するような内容を備えていない、とカントはみなす。このため音楽は「形式的には芸術のようなものだが、内容は備わっていない(It is artlike in form, but not in content. p.59)」とされる。

4. E. ハンスリック:非意味論的、統語論的な音楽  〈19世紀中期〉

以上のカントの説は、しかし、音楽を深く聴き、あるいは音楽実践のうちで生まれた思考ではなかったと言える。とくに、彼が音楽は月並みな情動を持つものの、内容を備えていないというとき、それはとくに音楽の実践者にとっては説得的ではないだろう。そこで、カントの説を受け継ぎつつも、みずからの幅広い音楽経験をもとに思索した、E. ハンスリック(Eduard Hanslick 1825-1904)の議論を見ていこう。(p.59, par.1)
ハンスリックは第2章でふれた『音楽美論』のなかで、もうひとつ別の主張をしていた。
彼は、音楽を〈響き動く形式〉(tonally moving forms)と定義した。この詳細を見ていこう。

カントは音楽をギリシャ様式(à la grecque)、すなわち静的な模様のかたちにたとえたが、ハンスリックは音楽を音の万華鏡にたとえた(Music is, for him, the sonic analogue of the kaleidoscope)。(p.60, pa.3, 4)刻々とかたちが変化していく万華鏡との類比は、音楽の動きをうまく言い表したものと言える。
ハンスリックはこうした音楽の動きを指摘すると同時に、カントが音楽を感覚の美しい戯れ(beautiful play of sensations)と表現したことに対抗するかたちで、音楽がたんに耳を喜ばすだけの響きではない(music is not merely 'an ear-pleasing play of tones')ことを主張した。そのことを裏付けるためにハンスリックは音楽をさまざまなかたちで定義する。(p.61, par.1)
音楽は模様ではなく、絵画である。しかしその内容を言い表すことはできない。音楽は意味とは論理をもっている。しかしそれは科学や歴史におけるようなものではなく、ただ音楽においてのみあらわせるようなものである。そして音楽は模様ではなく、言葉である。発話や理解はできるが翻訳することはできないような言葉である。(p.61, par.2)
ハンスリックはこのように、音楽が論理的なものでありつつ、具体的な意味内容を持たないことを認めていた。
こうした論理と意味の関係の比較例をわたしたちは、わたしたちの言語に見つけることができる。わたしたちの言葉は、ある内容をもっている。それは、言葉の並び方、助詞や名詞の正しい配列によって生み出される統語論(syntax)的はたらきと、言葉のひとつひとつが意味論(semantics)的に具体的な、あるいは抽象的な概念との対応を持つことで生み出されている。
以上をふまえると、現代のわたしたちは、彼の主張をこう整理することができる。
ハンスリックは、絶対音楽を、非-意味論的かつ統語論的な音楽(syntax without a semantics)とみなしていた。つまり、具体的な意味を持たないものの、論理的な諸要素の結合によって内容を生み出す力をもった芸術だと考えていたのだ。(p.63, par.2)

5. E. ガーニー:メロディーの形式主義  〈19世紀末〉

以上のようなハンスリックの説は、音楽の形式主義的理解の発展に方向性を示した。次に、ハンスリックの音楽理解の直接的な後継者といえる、E. ガーニー(Edmund Gurney 1847-1888)の1880年の著作 The Power of Sound『音楽の力』を取り上げよう。
ハンスリックの形式主義的理解を受け継いだガーニーは音楽を理解するにあたって、そのメロディーに注目した。この意味で、彼は、メロディーの形式主義(formalism of melody)を唱えたと言える。(p.63, par.1, 2)
彼は、音楽の内容は、メロディーの連結性(connectedness of melody)によって生み出されると主張した。確かに、よくないメロディーを耳にすると、わたしたちは、音が連結していない(disconnected)と感じる。(p.64, par.1)
こうした議論によって、ハンスリックにおいて抽象的であった説明を彼は具体的なメロディーの連結性によって裏付けようとしようとしたのだ。
しかしガーニーのメロディーの形式主義にはふたつの問題がある。
ひとつには、音楽は要素はメロディーだけではないということだ。ガーニーが聴いていただろう音楽、たとえばベートーヴェンの作品からメロディーとそれ以外を切り離して理解することはできない。
ふたつには、ガーニーのメロディーを音楽理解の中心に据える視点から言えば、中世、ルネサンスの音楽は十分にメロディーを重要視していたとは言えないことになってしまう。そうすると、それらの音楽が音楽的に「未発達」だというステレオタイプによって理解されることとなってしまう。(p.64, par.2)
さらに、メロディーの連結性とは一体なんなのかを考えてみると、疑問が生じる。
そこにはなにか法則があるのだろうか? あるいは人間のふるまいや声に範例を求めるなら、たちまちに表象説へと転じることになる。こうした疑問に対して、彼は、理想的な音型(ideal motion)が、わたしたちの一般的な知覚を超えて存在し、わたしたちはそれを、音楽的能力(musical faculty)によってのみ知覚するのだと説明した。
けれどもこうした理想的な音型を仮構することなしに、わたしたちは、さまざまな事例を集めることで彼の理論を補強することができるかもしれない。(p.65, par.1, 2)

まとめ

この章では、18世紀後半から19世紀末にかけて、音楽がいかなる存在だと考えられてきたかを、〈形式〉をキーワードに、カントハンスリックガーニーの3名の思想家の思索を辿ることで概観した。その過程の中で、音楽の形式主義的理解の可能性が浮かび上がってきた。
次の章では形式主義についてさらなる論考をすすめよう。