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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 目次及びPDF

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加えて、目次をまとめました。

目次

PDF見本

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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第13章 どうして聴かなければならないのだろう

第13章 どうして聴かなければならないのだろう

この章では、なぜわたしたちは音楽を聴くのか、という根本的な問いを問う。

ショーペンハウアーの音楽理解が参照されつつ、キヴィの自説が述べられる。

Introduction to a Philosophy of Music

なぜ聴くのだろう

この章では、音楽を聴くよろこびをなぜ選び取るのだろうか?(Why should you want this kind of pleasure or satisfaction instead of some other kind? )問いを扱う。(p.252, par.2)
キヴィはこの問いに答えるために、ショーペンハウアーの主張を参考する。
ショーペンハウアーは、音楽の特質を主張するために〈充足理由律〉(Principal of Sufficient Reason)を扱った。
これは、ライプニッツ(Gottfried Willhelm von Leibniz, 1646-1716)が「なにものも因果なしに発生しない」(nothing happens withoit reason)と述べたように、すべてのできごとにはかならずその因果的な理由があるという法則のことである。(p.252)
ショーペンハウアーにとって、こうした充足理由律は、わたしたちを動機付けさせ、行為へと仕向け、わたしたちに変化していってしまう時空間的の中で生きることを強制し、あれを行なったならばこれを行うことができないように論理的な限定を加え、果てしない因果の連続のなかに引き摺り込むものと考えた。(p.253)
そして、ショーペンハウアーは、芸術を、上記のようにわたしたちを時空間的に、因果律的に、論理的に、行為的に拘束している充足理由律からわたしたちを解放するものだと考えた。そして音楽をその最上のものと考えたのである。(p.254)
キヴィはこのショーペンハウアーの説を発展させ、音楽は、〈解放する〉(liberating)芸術である、と述べる。
他の芸術はすべてのなんらかのできごとを表象している。例えば物語は登場人物たちの選択を提示することで、それを享受するわたしたちに、わたしたち自身がいかに生きるべきか、という現実的な問いを投げかける。
しかし、音楽はそうした物語的内容を持たない。キヴィはその無内容性を「音楽は、毎日の生活からわたしたちを解放する唯一の芸術である」(Music, alone of the fine arts, makes us free of the world of our everyday lives.)として評価する。(p.257)
そして、キヴィは、以下のように主張する。

わたしは、絶対音楽を聴くことは、とりわけ、わたしたちの住むこの試練と苦難とあいまいさに満ちた世界から脱して、わたしたちの世界の描写の表象として解釈する必要がなく、その言葉そのものによってのみ鑑賞できるがゆえに、苛烈な痛みの解消とも正当に類比できるような解放の感覚を与えるような、純粋な音構造の世界へと誘うことだと述べているのだ。この解放の感覚は、痛みからの解放のようにポジティブなものであり、ネガティヴな感覚ではないということを強調しておく。それは単になにかしら悪いものから自由になることであるというよりも、明白な喜びや満足であるのだ。

I am arguing, then, that listening to absolute music is, among other things, the experience of going from our world, with all of its trials, tribulations, and ambiguities, to another world, a world of pure sonic structure, that, because it need to not be interpreted as a representation of a description of our world, but can be appreciated on its own terms alone, gives us the sense of liberation that I have found appropriate to analogize with the pleasurable experience we get in the process of going from the state of intense pain to its cessation. I have emphasized that this feeling of liberation, like that liberation from pain, is a positive rather than a negative feeling: that it is a palpable pleasure or satisfaction rather than simply a release from something bad.(p.260)

さいごに

キヴィはこの本の最後に、読者に向けた言葉を書き残している。この本は読者が、これから音楽に関する問いを問うてゆく助けになるように書かれたのであり、なんらかの定まった真実を教えるために書かれたのではないということを強調する。
「わたしが書いたことのすべてを信じてはいけない」(Don't believe anything I have written.)。とキヴィは明記する。そして、この本の〔そしてこの読書ノートの〕冒頭に掲げられたソクラテスの言葉をキヴィはもう一度繰り返す。

すべての議論に対してそのつど、ぼくの言うことが正しい、ともし君が思ったのなら、ぼくに賛成して欲しい。そしてもし思わなかったのならそのつど反対して欲しい。じぶんじしんをも、君をも決して偽りたくないというぼくの思いと、さらに、ぼくが去ったあとも、蜂のように、君のもとに針を残しておきたいというぼくの切望を思いやって欲しいのだ。

If you think that what I say is true, agree with me; if not, oppose it with every argument and take care that in my eagerness I do not deceive myself and you and, like a bee, leave my sting in you when I go.
(p.263)

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第12章 そして演奏について

第12章 そして演奏について

この章では前章で軽く触れるにとどまった演奏と楽譜の関係について分析する。

第1節では、歴史的な楽譜の変化に触れつつ、楽譜と演奏の関係を、第2節では、作曲家と演奏家の関係を、歴史的に真正な演奏という言葉を軸に分析する。

Introduction to a Philosophy of Music

1. 演奏と楽譜

音楽作品がどのような存在かという問いに対して、前章ではみっつの回答を紹介した。すなわち、楽譜のコンプライアンス・クラス(score compliance class)説、創られたタイプ(created type)説、そして発見されたタイプ(discovered type)説のみっつである。(p.224)
そのどの説においても、演奏はなんらかの形で楽譜に従っている(comply)と考えられている。ところで、楽譜に従うとは、いったいどのような行為を意味するのだろうか?(p.225, par.2)
この問いに答えるために、キヴィはよっつの譜例を提示する。
ひとつめは中世初期の聖歌の譜面である。

f:id:lichtung:20170713194816j:image*1

The Introit Gaudeamus omnes, scripted in square notation in the 14th–15th century Graduale Aboense, honors Henry, patron saint of Finland
この譜面には音高関係が示されてはいるが、それぞれの音の絶対的な基準が示されていないという点で現在用いられる譜面とは大きく異なっている。
ここから推測されるのは、いかなる譜面も、その時代や環境の背景知識なしには読み取ることができないという事実である。(p.228)
次にキヴィはバッハの《フルートとチェンバロのためのソナタ》(BWV1034)の譜例を用いる。ここでは、同時代のパーセルの譜例を用いよう。(p.229)

f:id:lichtung:20170713194812p:image*2
Melody from the opening of Henry Purcell's "Thy Hand, Belinda", Dido and Aeneas (1689) with figured bass below
譜面上段は主旋律を、下段はチェンバロの左手バスのみを記している。そのバスのさらに下には変化記号と数字が付されている。これらの記号と数字が付されていることにより、この楽譜は〈数字付き低音〉(figured bass)と呼ばれる。
この数字は、書かれていないものの奏者が演奏するべき音を示している。記された音から何度離れているか、どのような和音を奏するべきかが指示されているのだ。
この次にキヴィは通常の楽譜と、数字付き低音の《フルートとチェンバロのためのソナタ》(BWV1034)を譜面化した例をあげている。(p.233)
数字付き低音の場合は、通常の譜面に比べて高い自由度を持っていると考えられている。なぜなら、数字付き低音は、演奏者がその譜面の指示内でその都度自由に和音を選択し演奏することができるからだ。しかし、現代に一般的な楽譜においても、演奏者はそこに記載されている音のみならず、どのように音量を変化させるか、どれほどの音の長さを選ぶか、どのような音色を奏でるかということを考慮し、その都度演奏しているという点で、バッハの時代の演奏者に劣らず演奏しつつ〈作曲〉(compose)していると言える。(p.236-237)

2.歴史的に真正な演奏

以上のような作曲家としての側面を持った演奏家という考えと対立する考えがある。第2節では、〈歴史的に真正な演奏〉(historically authentic performance)という考えを扱い、反駁を加える。(p.240)
この立場は、過去の音楽作品の演奏に際して、その時代の楽器や演奏習慣を可能な限り再現することを重要視する立場である。作曲家が意図した音楽作品を再現するために、作曲家が指定した楽器や彼の時代で受け入れられていた演奏方法に基づく必要があると考えるのだ。キヴィはこの立場を「考古学的な再建」(archeological reconstruction)と表現している。(p.244)この立場に立てば、バッハの作品を現代のピアノで演奏することや、弦楽器による演奏の際、ビブラートを加えることは作曲家の意図に反していることになる。果たしてこの主張は正しいのだろうか。

ふたつの意図

キヴィはこの主張を反駁するために、アメリカの哲学者ディパート(Randall Dipert)の議論を用いる。ディパートは、作者の意図にはふたつのレヴェル(level)があると主張した。ひとつは、作曲者が望む音楽的効果を達成するための〈高次〉(high-order)の意図(intention to achieve the musical effect he wants)であり、もうひとつは、その効果を達成するための特定の手段に関する〈低次〉(low-order)の意図(intention to achieve the effect with a certain means)である。(p.247)
歴史的に真正な演奏を重要視するものは、単に作曲者の低次の意図を遵守することに注力してしまい、作曲者の高次の意図を再現することができていない、とキヴィは述べる。作曲者の〈反事実的条件の意図〉(counterfactual intention)を想像することができない。もし、作曲家がいまどのように演奏を求めるのか想像することができない。もうすこしこの論点を詳しく述べよう。(p.247)

物理的な音と音楽的な音

バッハの作品を当時の楽器や演奏習慣に従って演奏することで、確かに当時の〈物理的な音〉(physical sound)を再現することができるだろう。しかしそれはバッハの同時代人たちが聴いたバッハの演奏そのものを再現することにはならない。なぜなら物理的な音が同じであったとしても、それを聴くわたしたちがバッハの同時代人異なっている限り、その音は彼らが聴いたようには聴こえない。つまり〈音楽的な音〉(musical sound)を再現したことにはならないのだ。(p.248)

それでは歴史的に真正な演奏は廃止されるべきか? キヴィはそんなことはないと述べる。これまで論駁したのは、「もっともよい演奏」が存在するといった主張を批判するためであった。ゆえに、すぐれた演奏ならば、歴史的に真正な演奏であろうと、そうでない演奏であろうと、同時に存在しうるし、それらはともどもに音楽として享受できるのだ。(p.249)

"Overdose of Joy" Flashback music

   東加古川を中心に活動しているレーベルfastcut recordsの10周年記念ライヴイヴェント"Overdose of Joy"*1
   曽我部恵一Lamp、Four Pens、Pictured Resort、Sheeprintの5組が出演。

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   加古川駅からシャトルバスで20分ほど揺られ、到着する。
   会場は加古川ウェルネスパーク内にある加古川アラベスクホール。ウェルネスパークは広い公園やプール、ジムや多目的ホールなどを含む1997年竣工の市の総合施設。年6万人ほどの利用で推移している*2
   心地よい風を感じながらホールに向かって敷地を歩いていると、週末とあってか、家族連れを多く見かける。屋外プールもあり子供たちがはしゃいでいる。満員というわけではないが、活気があり、週に一千人の利用と計算するとこんなものかと腑に落ちる*3
   ひんやりとした建物に入り、リノリウムのやわらかい感触を足裏に感じながら歩いていると、鼻につく古いコンクリートの匂いに一瞬、フラッシュバックを起こす。

   あの90年代の、バブルの残り香をまとった90年代的としか言えないような雰囲気をそのままパッケージングしたような建築と風景に、仄暗い思い出が立ち上ってきたのだった。

   建物を通り過ぎて、最後に辿り着いたアラベスクホールは木組みの梁が特徴的な室内楽向けの小ホール。ステージから客席に至るまで、どれも丁寧に作られた印象があった。

   前方に見つけた席に深く腰掛け、開演までしばらく待つ。訪れた観客たちは20歳中頃から60代と見えるひとまでさまざまだった。30代はじめから中頃のひとびとがいちばん多い。

   オープニングもなく、静かにライヴははじまった。ライヴがはじまり終わるまでの4時間、丁寧な演奏に身を委ねながら、わたしはずっとフラッシュバックを起こしていた。

   出演のアーティストは、みな、過去の音楽を意識的に取り入れつつ、ルーツの新たな可能性を開拓する音楽性を持っていた。
   曽我部恵一は70年代の日本とアメリカのポップスとロックのオルタナティヴを、Lampは70年代のブラジル、ミナス系音楽の発展を、台湾出身のFour PensはClammbonを代表とする90年代日本のポップスを、Pictured Resortは佐藤博を髣髴とさせる80年代のポップ、フュージョン、Sheerprintは70年代の大貫妙子松任谷由実のメロディーセンスと電子音の融合を。

   それぞれの音楽はルーツを聴き手に意識させながら、同時にありえたかもしれないルーツの先の音楽を幻聴させる。ルーツが辿った正史とは違う歴史を創造することでルーツそのものを再生させようとしている。

   ライヴはSheeprintの演奏からはじまった。たゆたうギターのアルペジオが空間を満たして、深いバスの音が現れ遠ざかり、ときおりするどいドラムの音が亀裂を入れる。その空間にささやくような声がいつの間にか混じり、会場のすべてを包む音響効果を生んでいる。

   つぎにPictured Resortが登場する。ベースとカホン奏者が目配せをし、曲がはじまる。カホンのタイトな刻みとギターのカッティングがとてもリズミックで思わず揺れているひとびとが目に入る。キーボード、ギターボーカル、カホンサイドギター、ベースの5人編成。

   三つ目のグループは、台湾から訪れたという3人組のFour Pens。ボーカルの伸びやかな高音と、ギターや鍵盤ハーモニカのサウンドが、やわらかい印象を与える。台湾語の響きがとても心地よい。

   四つ目はLamp。今回はメンバーの三人ともうひとりの4人編成。本人たちもしばしばライヴで言及するが、肉体的で技術を誇るような演奏を得意とするタイプではない。その中で「冷たい夜の光」の演奏はとくによくまとまっていた。新曲が多く聴けてそれだけで満足だった。

   最後の曽我部恵一の演奏が群を抜いてよかった。アコースティックギター一本。自身の声量と表現力を生かした演奏だった。彼がじしんの娘に向けた歌〈大人になんかならないで〉を歌っているとき、赤児の声が客席からして、コールアンドレスポンスのように聴こえた。

   ライヴが終わり再びバスに揺られる。むっとするような夕方の市バスの匂い。
   鉄塔と水田が延々とつづく加古川の風景を窓越しに眺めながら、地方都市のルーツとその再生を想像しようとしたが、うまく思い描けなかった。

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ウェルネバークから平荘湖方面を望む

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第11章 作品

第11章 作品

この章では音楽作品の存在論をその演奏との関係から展開する。

第1節では楽譜と演奏の関係、第2節では実在論の解説、第3節では極端なプラトニズムに対する4つの反論を検討する。

Introduction to a Philosophy of Music

1. 楽譜と演奏

まずこの章で問われるのは、音楽作品(work)とはどんな存在か、という問いである。
手始めにキヴィはこんな例え話を提示する。

ある日あなたが新聞を開くと、一面に〈ダヴィンチのモナ・リザ盗まれる〉と見出しがあった。あなたは驚き、犯人の大胆さに舌を巻く。驚きはすれども事態自体には当然なんの疑問もない。可能性は低いがあり得ることである。
別の日、あなたが新聞を開くと、一面に〈ベートーヴェン交響曲第5番盗難。警察は犯人を捜索中〉とある。あなたは驚くよりも先に訝しむ。どうやってベートーヴェンの第5番を盗み取ることができるのだろうか?そもそも第5番はどこかからどこかへ持ち去ることができるようなものなのだろうか? これはありえないことではないだろうか?(p.202, par.1-3)
もちろん、ベートーヴェンの自筆譜や、バーンスタインのスコアを盗み出すことはできる。しかしそうしたとしても、依然として第5番の演奏は聴けるだろうし、楽譜を購入することもできる。ベートーヴェンの第5番そのものを盗むことはできない。(par.4)
ここから、モナリザベートーヴェンの第5番とは異なる存在であると考えられる。それでは、いったいそれはどのような存在なのだろうか?(p.203, par.1, 2)

作品と演奏の存在論

まず、音楽に関する対象には、ふたつの〈物質的対象〉(physical object)と呼べるものがある。それらは〈楽譜〉(musical score)と〈演奏〉(musical performance)である。(p.203, par.3)
西洋音楽の歴史の中で、はじめ、楽譜は作品(work)そのものというよりも、〈即興〉(improvising)のための覚え書き(reminder)として存在していた。(p.204, par.1)
楽譜は演奏者への〈指示〉(instruction)である。(p.204, par.3)
つぎに演奏について用語法を確定させておく。〈演奏〉(musical performance)はここでは〈プロダクト(=演奏)〉(product)を指し、〈行為(=演奏行為)〉(act)としては用いないことにする。(p.205, par.2)

次に作品と演奏の関係を、20世紀の偉大な哲学者グッドマン(Nelson Goodman 1906-1998)の主張を頼りに考えてみよう。
彼は作品と音楽の関係について次のように述べた。
(The compliants of a score are performances and the compliance class is a work)(p.206, par.3)
ここで〈クラス〉(class)とはある規則や事実に従って集められたメンバーの集合である。
そして、作品はそのすべての演奏を含むクラスである(the work, just is the class that comprises all of its performnaces)。(par.5)

しかし、とキヴィはある思考実験を持ち出す。作曲されたものの一度も演奏される機会のない作品も存在しうる(musical works that never have a been, and never will be, performed)。すなわちいかなる演奏のクラス、コンプライアンスクラスも持たない作品がありうる。グッドマンの主張に従えばこうした作品は存在しないが、しかし実際に存在しうる。(p.208, par.1)
そしてまた、これまでなされた演奏がすべてのよくないものだったとしても、その作品がよくないものであるわけではない、という場合もありうる。(par.2)

こうした問題に直接取り組むのではなく、ここで、いったん、日常の言葉(ordinary language)から問題を再検討してみよう。
キヴィは、すばらしく想像力豊かな子供向けのテレビシリーズ《セサミ・ストリート》の中のある物語を例にとる。(p.209, par.2)
ある目つきの悪い怪しげな男が現れる。その男は数字の2the number two)を騙されやすそうな別のキャラクターに売ろうとする。彼はトレンチコートからけばけばしい色の数字の2の形をしたプレートa number two)を取り出し、あたかも危険な取引人のようにあたりを伺いながら、数字の2(the number two)を買わないかとキャラクターにこっそり耳打ちするのだ。
このお話は、数字の2(the number two)と2という数字の形をしたプレート(a number two)との違いを子供に教えるものだ。(par.3)
数字の2そのものは売ったり買ったりできるものではない。確かに、ベートーヴェン交響曲第5番は、その出版権(right)を売買することはできるし、実際にベートーヴェンは出版社に第5番をうることができるのだが、しかしそれは、交響曲そのものを売買しているわけではない。(par.4)

2.実在論

ここでこうした存在のあり方に関する問題を扱うために、どういったものが存在しているかについての立場に関する述語を導入しよう。
先ほどあげた数字の2(the number two)のようなものが存在していると考える立場を〈実在論〉(realism)あるいは〈プラトニズム〉(platonism)と呼ぶ*1。(p.210, par.3)
より詳細な定義のために、アメリカの哲学者パース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)の述語を援用しよう。
数字の2(the number two)というとき、これを〈タイプ〉(type)と呼び、その実例を〈トーク〉(token)と呼ぶ。例えば、セサミ・ストリートで男が売りつけようとしたのは、タイプではなく、2という数字の形をしたプレート、すなわちトークンである。(p.211, par.1)

タイプ

それではタイプとはいかなる存在だろうか?
タイプは時空間に位置を持たず、消えることがなく、わたしたちの世界とは関係を持たないような存在である。
こうした存在を認める立場は、1や2、さらには定理といった数学的な存在はタイプでああるとする。ゆえに、数学とはそうした存在を〈発見する〉(discover)営みであり、〈作り上げる〉(make)ような営みではないとされる。(p.212, par.1, 2)
こうした立場を援用すれば、タイプ/トークンの関係と作品/演奏の関係とを類比的に考えることができる。つまり、個々の演奏はある作品のトークンであると考えることができるのだ。(par.3)
このように数字の2のような存在として作品を捉える立場を〈〉(extreme platonism)と呼ぶ。加えて、すべての演奏はタイプのトークンではあるが、すべてのトークンが演奏ではない可能性もある、とキヴィは付け加えている。(p.213, par.2)

3.極端なプラトニズムへの反論

ここで、極端なプラトニズムに対する4つの反論を検討してゆこう。キヴィはその全てに対して十全な再反論を行うことはできない、とあらかじめ断っている。どんな議論が行われているかを調べてゆこう。(par.3)
ひとつめは、作品をタイプにみなすことについての反論である:タイプは数学の定理のように発見されるものであるが、作品は作り上げられるものである。ゆえに作品はタイプではないのではないか
ふたつめ、作品がタイプであるとするなら、それは純粋な音の構造(pure structure)であるように思われる。しかし、そうした構造もさることながら、どんな楽器を用いるかということも実際の演奏においては重要になる。それをいかに扱うのか。
みっつめ、タイプの発見は〈非個人的〉(impersonal)なものに思える。しかし音楽作品には、個人的(personal)な〈表現〉(expression)が刻まれているように思われる。こうした点をどう説明するのか。
最後に、タイプは無時間的で破壊不可能なものである。しかし音楽作品は散逸することもありうる。こうした事実をどう説明するのか。

発見か創造か

まずひとつめの反論を検討しよう。
キヴィはベートーヴェンの草稿を例に出す。多数の草稿から、彼がいかにして作品の完成へと進んでいったのかを確認できる。そしてその過程は〈発見〉(find)の過程であろう、と主張する。(p.214, par.2,3)
けれども、極端なプラトニズムを主張するものは、音楽作品の作曲過程において〈創造〉(creation)という重要な行為がなされうることを否定する必要はない。この主張に関してキヴィはアメリカの数学哲学、言語哲学者であるカッツ(Jerrold Katz 1932-2002)の〈ファースト-トークニング〉(first-tokening)という概念を紹介する。これは作曲家が発見した抽象的なタイプを具体的な最初のトークンにする創造行為のことである。(p.215, par.1)
カッツの主張に従えば、作曲という過程にはまずタイプの発見があり、そしてそのタイプをはじめてトークンにするという創造がある。すなわち、作曲は発見と創造の二重の過程なのだ(Composing, then, turns out to be a dual process of discovery and creation)。(par.2, 3)

音の構造と音色

つぎに極端なプラトニズムは、純粋な音の構造(pure sonic structure)が鳴っている限り、それは作品の演奏である、と考えがちである。しかし、どのような楽器で作品が演奏されるかは作品の一部をなしているように思われる。(p.216, par.1)
極端なプラトニズムのこの考えが正しいかどうかは簡単には白黒つけることができない。というのも、演奏に対する作曲家の態度は時代によって異なるからだ。ある時代には楽器の指定は厳格ではないが、17世紀中期から現在に至る時代は、作曲家が楽器をかなり厳格にしている。(par.2, 3)
ここで、以前詳しく扱った形式主義を思い出そう。形式主義は音の構造のみならず〈音色〉(tone color)も形式として扱っていた。ここから、極端なプラトニズムにおいても、音の構造のみならず、音色もまた作曲家が発見し、はじめにトークンにする作品のタイプとしてみなせる。こうしてふたつめ反論はきちんと対処することができる。(par.4, p.217, par.1)

ここで、21世紀に登場した電子音楽について触れておく。シンセサイザーによって楽器音を模倣して、ベートーヴェンの第5番の演奏をすることができる。それはキヴィの用いる意味での演奏ではない。というのも、演奏は〈行為〉(act)による〈プロダクト〉(product)である、と定義されているためである。(par.3, 4)
ゆえにすべてのトークンが演奏であるわけではない、とキヴィは主張する。(p.218, par.1)
さらに楽譜に記されていないもののその作品のトークンと言えるものがあるとキヴィは指摘する。それは視覚的なパフォーマンス(visual performance)が作品の核をなす場合、例えばオペラのための音楽作品の場合である。(par.2)

個人的なものと非個人的なもの

音楽作品は発見さるものだとするならそれはニュートンの『プリンキピア』のように、非個人的なものであるはずだが、そうではなく、作曲家の個人的な表現が刻まれている、という主張を検討しよう。カッツは発見したのちにどのように〈ファースト-トークニング〉を行うか、これは作曲家の個人的な表現が刻まれうるものである、と主張した。(p.219, par.2, 3, 4, 5)

散逸するタイプ

最後の議論に移ろう。タイプは無時間的で破壊不可能なものである。しかし音楽作品は散逸することもありうる。こうした事実をどう説明するのかという問いに対して、レヴィンソンの〈条件付きのプラトニズム〉(qualified platonism)という主張を紹介する。(p.220, par.3)
音楽作品は〈創られたタイプ〉(initiated type)であるとレヴィンソンは主張する。(p.220, p.2, 3)ちょうどコインの鋳造型が創られたタイプであり、各々のコインがそのトークンであるのと同様に、音楽作品と演奏の関係を考えた。(p.221, par.1)
かつまた、こうした創られたタイプはこの世界から記憶が失われても存在し続ける、と主張した。(par.2, 3)

まとめ

以上で音楽作品と演奏に関する存在論を駆け足で扱った。次に演奏についてさらに詳しく見てゆこう。

 

 

*1:それに対して、そうした非物質的な存在者の存在を認めない立場を〈唯名論〉(nominalism)と呼ぶ

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第10章 語りと表象

第10章 語りと表象

この章では、テキストと音楽の関係、そして表象と音楽の関係を詳しく分析してゆく。
第1節では表象のさまざまな区分を導入する。第2節では標題音楽を頼りに、テキストと音楽の関係や作用を分析する。

Introduction to a Philosophy of Music

1.音楽的表象

前章ではオペラのテキストにおける音楽の表現的要素(music's expressive properties)の役割について詳しく見てきた。(p.182, par.1)
音楽の表現的要素はテキストとうまく適合させることができる。モーツァルトの《フィガロの結婚》を例に考えてみよう。(par.2, p.183, par.1)
フィガロの結婚》は仲違いしたカップルたちが最後には一緒になる物語である。その最後の場面、仲直りの解決(resolution)の場面で、モーツァルトはGメジャーではじまったこの曲をDメジャーで終わらせている、つまり、音楽を解決(resolution)させている。これは仲直りを音楽によって〈表象〉(represent)していると言われる。しかし、それはどのような意味での表象なのだろうか?(par.2)

絵画的表象と構造的表象

表象という言葉をより詳細に定義するため、ふたつの区別を導入する。ひとつは〈絵画的表象〉(pictorial representation)でありもうひとつは〈構造的表象〉(structural representation)である。前者の例はダヴィンチの《モナ・リザ》(Mona Lisa)であり、後者は《フィガロの結婚》におけるGからDへの解決である。(par.3)
絵画的表象においては、イギリスの哲学者ウルハイム(Richard Wollheim 1923-2003)の用語を借りれば、わたしたちは絵画の中に女性の顔を〈見出す〉(see in)のだ。
音楽においては〈聞き取る〉(hearing in)。しかし、わたしたちはモーツアルトの作品のティーメジャーへの解決に仲違いしたカップルたちの仲直りを聞き取るのだろうか。もちろん仲直りは聞こえない。音(sound)がするわけでもないし音楽の中に聞く(heard)こともできない。ここで、わたしたちは音楽の構造とカップルたちの仲直りとの間の類比を聞きそして知覚しているのだ。これが構造的表象である。この構造的表象において言葉や劇的な設定がなければわたしたちは音楽的な構造をカップルたちの仲直りとして解釈することはできないに違いない。(par.4)

補助された・補助なしの表象

この議論から絵画的表象においてさらなるふたつの区分を設けることができる。それは〈補助された〉(aided)あるいは〈補助なしの〉(unaided)の絵画的表象である。
わたしたちはダヴィンチのモナリザの中に補助なしに絵画的表象を見出すことができる。しかしターナー(J. M. W. Turner 1775-1851)の《湖に沈む夕陽》(Sunset over Lake)に関して言えば、確かにわたしたちはこの絵に湖に沈む夕日を見出すけれども、しかしそれはわたしたちがこの作品の題名を知って初めてそうすることができるのだ。これを補助された絵画的表象とする。(p.184, par.1)
この補助の有無の区別は構造的表象に関しても用いることができる。音楽は補助された構造的表象をしか持つことができない。それでは、音楽は絵画的表象が可能なのであろうか、そして可能だとするならば、それは補助されたものなのか、あるいは補助なしのものなのか。つぎに、この問いを検討しよう。(par.2)
音楽における絵画的表象はつねに〈〉(sound) の表象としてしかありえない。絵画の絵画的表象がつねに〈視覚〉(sight)に関する表象であるのと同様である。もちろん音楽も絵画も音や視覚に関するもの以外を表彰することはできるが、それは〈絵画的に〉(pictorially)ではない。(par.3)
音楽における補助なしの絵画的表象は明白なものとしてしかありえない。鳥の声や、オネゲル(Arthur Honegger 1892-1995)による、蒸気機関車の駆動音を表象した《パシフィック231》(Pacific 231)のような作品以外ではありえないのだ。そしてこうした例は、音楽の美的な可能性のレパートリーに入れるには稀にすぎる(unaided pictorial representation in music is, if possible at all, too rare a phenomenon to be counted as belonging to music's repertoire of aesthetic possibilities)。(p.185, par.1)
次に補助された音楽の絵画的表象について考えよう。
ここでもふたつの区別を導入する。ひとつは〈音楽以外の音の表象〉、もうひとつは〈音楽の表象〉である。(par.2)
ひとつめの事例は数え切れないほどある。ドラやドラムロールを用いてなされる雷の表象や、弦楽のたゆたうような旋律による、穏やかな川の流れの表象などがあげられる。(par.3)
また、ふたつめの音楽の表象はワーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に見られる。教会で礼拝客たちが聖歌を歌い出す場面で、ワーグナーは教会音楽そのものを表象している。(p.186, par.1)

ふたつの問い

いまあげた例に関してふたつの反論がある。ひとつは表象と表象されるものの区別に関する問い(a distinction between representation and the thing represented)、もうひとつはそこで表象されている何をわたしたちは見出し、聞き取ることができるのか(we be able to 'see in, or (in this case) 'hear in' the pictorial representation what is represented there)、という問いである。(par.2)
ひとつめの問いに関して、イギリスの哲学者スクルートン(Roger Scruton 1944-)の議論を検討しよう。彼は、あるものを表象していると誤ってみなされている音楽は、表象ではなく、あるものそのものである(the music just is what it is (mistakenly) described as representation)と主張する。すなわち、ワーグナーは作中で教会音楽を表象しているのではなく、教会音楽そのものを取り込んでいるだけなのだ。(par.3)
ふたつめの問いに関して、アメリカの哲学者ロビンソン(Jenefer Robinson)は、端的に、わたしたちは表象を聞き取ることができない、と答える。(par.4)

キヴィはまず、スクルートンの主張に反論する。
ワーグナーのオペラ《ニュルンベルクのマイスタージンガー》において演奏される教会音楽はもともと16世紀に作られたものだが、ワーグナーはそれを彼の作曲した弦楽によるアレンジを挟みながら演奏するように作曲している。つまり、19世紀のワーグナーの音楽形式に基づいて16世紀の教会音楽が演奏されている。これはやはり絵画的な表象である、とキヴィは述べる。(p.187, par.1)
また鳥の声や雷といった非音楽的なものを表象する際にも、スクルートンのようにあるものそのものと考える必要はない。それらは音楽的な楽器によって模倣されるのであり、模倣する対象そのものではないことは明らかである。(par.2)
つまり、音楽の絵画的表象において表象されている対象と表象する媒体とが識別できないとする理由はない(there seems no reason to think that, in pictorial representations in music, medium cannot clearly be distinguished from the object represented)。(par.3)

次に、ロビンソンの主張を検討しよう。
そのためにまず、〈見出す〉(seeing in)ことと〈錯覚〉(illusion)とを区別を導入する。
わたしたちは《モナ・リザ》という作品のキャンバスに女性の姿を見出すのであり、そこに女性がいると錯覚するわけではない。(p.188, par.1)
音楽の絵画的表象においても同様に、わたしたちはシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の《糸を紡ぐグレートヒェン》(Gretchen am Spinnrade)において表象されている紡ぎ車を、紡ぎ車そのものが回っているとは勘違いしない*1
もちろん、見出すことの生々しさ(vividness)に比較すると、聞き取ることの生々しさは劣る。とキヴィは経験から述べる。加えて、見出すことはふつう補助なしで行われうるが、聞き取ることはそうではない('Seeing in' is usually unaided. 'Hearing in' probably never is.)と述べる。(par.3, p.189, par.1)

構造的表象

それではつぎに構造的表象について検討しよう。音以外のものや音の出来事(sound events)を音楽で表象することは西洋音楽の伝統のひとつである。ルネサンス期にはじまり、1600年から1750年にかけて、すなわちバロック時代に頂点に達した。この伝統のもっとも熱烈な賛同者はバッハ(Johan Sebastian Bach 1685-1750)である。しばしばバッハの〈トーン・ペインティング〉(tone painting)と呼ばれるものは、彼が用いた宗教的な概念やイメージを〈反映〉(reflect)し、あるいは〈描いた〉(illustrate)ものである。(p.189, par.1, 2)
彼は聖書や同時代の宗教的なテキストを元に作曲をした。例えば、聖書の十戒を、10回繰り返されるテーマによって表象しようとしたり、キリストの教えと、それを反復する信徒の様子を同一のテーマの繰り返しと変奏からなる〈カノン〉(cannon)によって表象することを試みた。(par.3)
これらはテキストに対応している音楽の構造であるがゆえに、キヴィは構造的表象と定義する。(p.190, par.1, 2)
上にあげた表象の例は音を表象している訳ではないし、音の出来事を表象しているわけでもない。見ることはできるが聞くことはできないような物事や概念を表象している。ここでひとは、音の構造を聞き、テキストを理解し、そしてそれらの構造的な類比を知覚・認識するのだ。(par.3)
ここで重要なことは、音楽における絵画的表象と構造的表象はともに補助されたものであるということだ。8章でも扱ったように、音楽はなんらかのテキストなしでは表象を行うことができない。(par.4)

2. 標題音楽

音楽は少なくとも以下の3つのやり方でテキストと整合的に知覚されうる。
ひとつは、テキストが表現するのと同じ情動を音楽が表現する場合。
ふたつ目は、テキストの中で言及、描写、暗示されている音の出来事を、音の絵画(sound picture)として描く場合。
みっつ目は、テキストのうちの出来事・イメージ・概念を構造的な類比として表象する場合。(p.191, par.1)
ひとつ目は前章で見たように、オペラにおいてさかんに取り上げられた。残りふたつは19世紀、〈標題交響曲〉(programmatic symphony)と〈交響詩〉(tone opera)において探求された。以下、このふたつを取り扱ってゆく。(par.2)
19世紀は、〈ロマン派音楽〉(Romantic Music)の時代であった。そして有名な著述家ペイター(Walter Pater 1839-1894)の、すべての芸術は音楽に憧れる(All art constanly aspires towards the condition of music.)という言葉は、ロマン主義における音楽と文芸の関係を示している。
同時に、19世紀に〈文学的作曲家〉(literary composer)がはじめて登場した。シューマン(Robert Schuman 1810-1856)、ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-1863)、ワーグナー(Richard Wagner)の3人がその代表である。シューマンベルリオーズは音楽批評において、ワーグナーは音楽の哲学的省察において偉大な作品を残した。(par.3)
19世紀には器楽曲に文学的内容を込めようという試みがなされたが、その試みの哲学的な原点を探ることは難しい。19世紀に頻繁に参照された偉大な哲学者ヘーゲル(G. W. F. Hegel 1770-1831)を例にとると、音楽が芸術であるためにはそれは内容を持たなければならない、と主張していることはわかる。(p.192, par.1)
そしてまた、オペラにおけるテキストと音楽の統合も別の道を辿りながら解決が図られようとしたのもこの時代であった。(par.2)

幻想交響曲

標題音楽〉(program music)は〈標題交響曲〉(programmatic symphony)と〈交響詩〉(symphonic tone poem)とに分類されうる。このどちらも〈音楽外的〉(extramusical)な概念が含まれている。音楽外的な内容を補強するためにテキストを伴っているのだ。
交響詩はひとつの楽章、標題交響曲は複数の楽章からなり、その〈標題〉(program)はたんなるタイトルから完全な物語までさまざまなものがある。(par.3)
まずタイトルのみを伴う標題音楽の例としてブラームスJohannes Brahms 1833-1897)の《悲劇的序曲》(Tragische Ouvertüre)を取り上げよう。(p.193, par.1)
そのタイトルから、わたしたちはこの曲を表象的な側面から鑑賞することができる。けれども、ブラームスがそれをつよく希望したというわけではない。(par.2)
次に、この曲よりもずっと詳しいテキストを伴う標題音楽の例として、ベルリオーズの《幻想交響曲》(Symphonie fantastique)を取り上げよう。(par.3)
この曲は5楽章からなり、それぞれに標題がつけられており〈夢、情熱〉〈舞踏会〉〈野の風景〉〈断頭台への行進〉〈魔女の夜宴の夢〉、加えて作曲家自身による数行の文章を伴う。(par.4)
こうした物語を音楽が伝えているわけではない、とキヴィは主張する。音楽はテキストを伴わなければこのような物語を伝えることはできない。(p.194, par.1, 2, 3, 4)
そしてキヴィは、幻想交響曲のような標題音楽がテキストなしでも、その音楽自体で鑑賞できることに注意を向ける。そしてこのことを標題音楽に対する哲学的な反論の根拠としてあげている。(p.195, par.1)
スクルートンも同様のことを述べている。(par.2)
もちろん、標題音楽をその音楽のみから〈十全に〉(fully)に享受することはできないだろう。というのも、標題を知らなければ意味の通らない(doesn't make sense)音楽的要素がありうるからである。(par.3)
たとえばリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の《ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》は、ロンド形式、すなわちテーマが幾度となく繰り返されると音楽形式を持ち、この曲ではそのテーマは主人公たるティルを表象しているのだが、音楽的にはいささか唐突にティルのテーマが挿入される。これは標題を知らなければ理解しがたいであろう、とキヴィは述べる。(p.196, par.1)
同じことはベルリオーズ幻想交響曲にも言える。(par.3, 4)
ここで〈十全に鑑賞する〉(appreciate fully)という言葉に注意しよう。ベルリオーズ標題音楽をその音楽的側面のみから、ベートーヴェンと比較することは、彼の作品を十全に鑑賞することにはならない。(par.2)

音楽とテキストの関係

次にキヴィは、絶対音楽の可能性を指摘する。絶対音楽はテキストや物語をしばしば付け加えうる。(p.198, par.1, 2)
また、キヴィは、音楽は純粋数学のように、それ自体はなにも表象しないが、なにかを表象するために用いることもできるものだと述べている。(par.3)

音楽それ自体は月並みな情動を惹き起こすことはないが、テキストが付け加わるとそれが可能になることは認めてよい。しかし、そもそもなぜフィクションがわたしたちの情動を惹き起こすのかは明らかではない。(par.2, 3, p.200, par.1)

まとめ

さて、これまでとても長い道のりを辿ってきた。いまいちどかんたんに振り返ることにしよう。
まず、音楽と情動に関する理論を概観し、形式主義、そして強化された形式主義を検討し、それを反論から擁護しテキストを伴う音楽を扱った。
次の章では、そもそもわたしたちが扱っているもの、すなわち、音楽作品そのものと演奏について扱ってゆこう。(par.2, 3)

 

*1:この曲では紡ぎ車の回転がピアノの右手による16分音符のオスティナートによって、そして、紡ぎ車を回すペダルの足踏みが左手の低音のリズムによって表象されている。同時に、糸を紡ぐグレートヒェンを声楽歌手が演じ、女性の感情の高ぶりとピアノのテンポ、ダイナミクスとが連動している。こうして、ひじょうに高度なレヴェルで『糸を紡ぐグレートヒェン』そのものが表象されていると言えよう。

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第9章 はじめに言葉ありき、しかして音楽ありき

第9章 はじめに言葉ありき、しかして音楽ありき

この章では、言葉と音楽をめぐる問題オペラ楽劇の歴史を通して検討する。

第1節ではオペラ以前の歴史を宗教改革との関連から記述し、第2節ではオペラの問題をその形成とともに述べ、第3節では音楽と言葉へのまなざしの変化を情動理論の変化とともに探り、第4節ではオペラと楽劇の相違点を指摘する。

Introduction to a Philosophy of Music

第1節 言葉と音楽の問題

これまでの章では、言葉を伴わない音楽を扱ってきた。というのも、それが音楽の哲学から見て、とくに情動に関してさまざまな問いを引き起こすからである。けれども、何度か指摘したように、そういった言葉を持たない音楽は、音楽のなかで中心的な位置を占めてきたわけではない。むしろ、言葉を伴う音楽の方が、歴史的にも、そして現在においても、音楽のなかで存在感を示してきたし、いまなお示し続けている。ゆえに、音楽哲学においても、言葉を伴う音楽を等閑視するわけにはいかないし、実際、それは際立ったかたちでわたしたちに問いを投げかけてくるのである。(p.160, par.1, 2)
けれども、それだけ時空間的に広範囲に存在している言葉を伴う音楽を、やみくもに問うてゆくわけにはいかない。わたしたちは問いの範囲を限定しなければ途方にくれてしまうだろう。そのため、現代的な哲学において問われる、主に西洋音楽史における言葉と音楽をめぐる問いに限定することにして、この章、そして続く章でも問いを問うてゆくこととする

第1 音楽的劇と対抗宗教改革

この問いの出発点となる次のふたつの出来事、すなわち、〈音楽的劇〉(musical drama*1より一般的な言葉に言い換えるなら〈オペラ〉(opera)の発明、そして〈対抗宗教改革〉(Counter-Reformation)をこれから扱う。これらは16世紀後半、ルネサンスの終末と〈近代〉(modern era)のはじまりの出来事である。(par.3)

対抗宗教改革〉とは、プロテスタントによる宗教改革への対抗としての、あるいはそれ以前から継続していた一連のカトリック教会内における改革運動のことである。(p.161, par.1)
その改革は1554年から1563年にかけて行われた〈トリエント公会議〉(Council of Trent, (羅)Concilium Tridentinum)において極まった。ここでは、カトリックの儀式、哲学、神学などさまざまなものがあらためて確認、そして刷新された。そのなかでも、音楽についての論争に注目しよう。

そこで問題となっていたのは教会音楽における歌詞の理解であった。ある者たちは、あまりに複雑化した音楽のせいで、肝心の歌詞が聴き取れず、理解できなくなっていることを指摘した。(par.2)

その非難の正否を検討する前に、そうした非難の的になった当時の音楽がどのようなものであったのだろうか、これを確認しよう。

第2 ポリフォニー

中世から16世紀中期・後期ルネサンスにかけて、典礼音楽は複雑化し、〈ポリフォニック〉(polyphonic)なものになっていた。ポリフォニックとは何か、すこし説明を加えよう。(par.3)

ポリフォニックな音楽、すなわち〈ポリフォニー〉(polyphony)には広義の意味と狭義の意味とがある。
広義のポリフォニーとは、メロディーとその以外の音が同時に鳴っている音楽のことである(any music where there are more tones sounded simultaneously than simply those of the melody)。例えば、メロディーとその他にシンプルな和音のみを伴う民謡なども広義のポリフォニーである。(p.162, par.1)
そして、狭義のポリフォニーとは、2つかそれ以上のメロディーが同時に演奏される音楽のことである(music consisting of two, three, four, or even more separate melodies, sung or played (or both) simultaneously)。かつまた各々のメロディーは美しく、互いに調和的でなければならない。(par.2)

そして中世の終わり頃からカトリックの教会音楽は、狭義のポリフォニーであった。そして、各声部がそれぞれの歌詞を歌い、その内容を聴き取ることは難しかった。宗教的な意味は音楽の喜びのために消し去られてしまっていた(The religious message was being obliteratedh in the interest of musical pleasure.)。ゆえにトリエント公会議では、音楽そのものの楽しみとと言葉の理解可能性との折り合いをいかにつけるかが争われた。(par.3)

ひとつの案として、ポリフォニー音楽を完全に廃止し、グレゴリオ聖歌のような単旋律(monodic)音楽に回帰することが提案された。(p.163, par.1)
しかし、一時は真剣に検討されたこの案は、音楽の愛好者によって差し止められ、替わりに、作曲者たちに、ポリフォニー音楽を簡素化すること、通常の発話のリズムやペースにより一致させることを命じるかたちで決着がついた(The composers were directed to simplify their polyphony, and be more faithful to the rythm and pace of ordinary speech.)。(par.2)
こうした解決法は、教会とは別に、第2章で触れたカメラータ(camerata)が希求した解決法にも通ずる点がある。というのも、彼らも、音楽に歌詞を加えつつ、いかにしてその歌詞を聞き取れるものにするかという問題に取り組んでいたからだ。(par.3)
ここで、カメラータについて触れよう。

彼らもまた、カトリック教会とは別の観点からポリフォニー音楽を批判していた。というのも、彼らはギリシア音楽が聴衆に深い情動的な衝撃を与え得たと信じており、それは、ポリフォニー音楽のように異なるメロディを混濁(garble)させてしまう方法ではなく、ひとりの歌手が、和声的な伴奏とともに単旋律を理解可能な情動の〈メッセージ〉(message)として演奏することで実現されうると考えた(a lone singer, a single melody, a completely intelligible emotive 'message')。(par.4)
こうした考えから彼らは後のオペラにつながる最初の音楽劇〈音楽のための劇〉(drama per musica)を創り出した。(p.164, par.1)

第2節 オペラの問題

さて、第2節ではオペラについて、特にそれが孕む問題について考えよう。

オペラには、音楽とテキストの関係における問題が潜んでいる。(par.2, p.165, par.1, 2)
音楽は、オペラ内の曲でも同様に、〈循環的〉(cyclic)な形式を持つ。しかし、ナラティヴフィクションは〈直線的〉(linear)な形式持つ。もちろん、ナラティヴフィクションも回想(flashback)を行なったり、物語の途中から開始されることもある。しかし、本筋はゴールへと向かう一方通行の形式をしている。こうした流れる方向の違いが〈オペラの問題〉(problem of opera)を生むのだ。どういうことか。もうすこし議論を見てゆこう。(p.165, par.3, 4, 5)

オペラ・セリア

17世紀のはじめ、最初期のオペラは〈音による会話〉(conversations in tones)、あるいは〈舞台様式〉(stile rappresentativo)によって構成されていた。当時のオペラは言葉を主とし、音楽を従とするもので、短い歌や合唱、器楽、が含まれていたものの、それらは周縁的なものに過ぎなかった。(p.166, par.1)

そうした状況下で、さきほど軽く触れた、音楽の循環性とドラマの直線性というオペラの問題を調停するために様々な提案がなされてきた。その中で特に満足できうる解決を図ったものを2つ検討しよう。(par.2)

1 オペラ小史

それをオペラの歴史を辿りながらその解決策を検討する。
舞台様式を含むような最初のオペラは17世紀のはじめに現れた。その最初の実践者は著名なイタリアの作曲家モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi 1567-1643)であった。彼の著名な作品《オルフェオ》(orfeo)は偉大ではあるが、しかし、オペラの問題を解決するにはいたっていない。やはり〈音楽的会話〉(musical speech)に止まるものだった。つまり十分に音楽的な循環的形式とドラマの直線的形式とが統合されているわけではなかった。(par.3)
その後また、別の発展が18世紀の最初の30年間でなされた。
英国で活躍したドイツの作曲家ヘンデル(Georg Frideric Handel 1685-1759)は〈オペラ・セリア〉(opera seria)という形式のオペラを創り上げ、音楽と劇との調停を図った。(p.167, par.1)
オペラ・セリアは〈番号オペラ〉(number opera)でもあった。これはひとりの歌手にオーケストラが伴う〈アリア〉(aria)という音楽的な部分と、およびその他の部分ほとんど通常の発話に近い〈セッコ・レチタティーヴォ乾いた叙唱)〉(secco recitativo)とにはっきりと分かれており、初めから順に番号のついているオペラの形式である。
セッコ・レチタティーヴォは、聴衆に何が起こっているのかを説明したり、登場人物のモノローグやダイアローグが展開される際に用いられる。他方アリアは、劇中の出来事に対して登場人物が自分の情動を表現する際に用いられるものである。セッコ・レチタティーヴォが直線的に物語を語るのとは対照的に、アリアはA-B-Aという音楽の反復のパターンを持っていた。こうして、オペラにおける劇と音楽の調停が、演劇的なセッコ・レチタティーヴォと、音楽的なアリアの結合によって図られたのだ。(par.2)

2 ダ・カーポアリア

しかし、これはオペラの問題の完璧な解決とは言えない。なぜならアリアにおいて、次の問題が生まれているからだ。(p.168, par.1)
オペラセリアに含まれるアリアの多くは〈ダ・カーポアリア〉(da capo aria)として知られている。これは、さきほどA-B-Aの形式として触れたように、楽譜において、ひとつめのセクションAが演奏され、次にふたつめのセクションBに移った後、Bの最後にダ・カーポ(はじめから)の指示が記載されており、ふたたびAを演奏して終わる、という形式である。たとえば、ある女性の登場人物が愛を歌い、そして嫉妬を歌い、最後にふたたび愛を歌う。(par.2)
ダ・カーポアリアはその循環的な形式ゆえ音楽的には優れている。とはいえ、ドラマ的リアリズムからは疑問の余地がある。というのも、普通わたしたちは感情をA-B-Aの形式で表現するわけではない。つまり繰り返して表現することはない。言ってみれば、ダ・カーポアリアは情動をくよくよと悩んでいるが、実生活の感情は抑えることなしに突き進んでゆく(The da capo aria dwells on emotions; in life emotions rush on unchecked.)。これが実情である。とキヴィは述べる。(p.169, par.1)

第3節 情動理論の変化

けれども実のところ、当時、ヘンデルのオペラセリアという形式に以上のような批判が向けられることはなかった。というのも、18世紀前半のダ・カーポアリアは当時の哲学的な情動理論と整合的であったし、当時のオペラにおいて一般的であったキャラクター(character)とも合致していたのだ。

その訳を詳述しよう。

当時の情動理論は第2章でも触れたように、1649年に出版されたデカルトの『情念論』によって打ち出された理論が一般的であった。情動は静的なもので、数も限られており、ちょうどダ・カーポアリアで表現される情動と合致していた。

それに加えて、当時のオペラにおけるキャラクターは類型化され、強迫的に情動に取り憑かれ、反復的にその情動を表現する存在だった。(par.2)

ゆえに、ダ・カーポアリアの形式は時の状況にうまく適合していたのだ。
けれども、18世紀後半、情動理論の変化が音楽の嗜好の変化とともに起こった。(par.3)
まず、イギリスで新たな情動理論が生まれた。それは〈観念連合主義〉(associationism)と呼ばれるものである。これは、ひとが思いつくすべての観念は、それ以前の観念との〈連合〉(association)によって生まれるとするものである。よって、観念連合主義者は、情動が生得的(innate)なものであるというよりは、獲得された(acquired)ものだと考える。そしてデカルト的な情動説とは異なり、情動は曖昧で、個人的で、移ろいやすいものだと考えた。(p.170, par.1, 2, 3-p.171, par.1, 2, 3)

ソナタ形式

デカルト的な情動説を採用する者からすれば、ダ・カーポアリアは現実に即したものだったが、観念連合主義者はダ・カーポアリアを現実にそぐわないものとみなす。
デカルト的情動主義者においては、ダ・カーポアリアのA-B-Aというそれぞれの部分は、それぞれの情動を表し、ひとつずつで完結していること、そしてそれゆえに、繰り返しの部分が存在しても、それらが互いに閉じているがために、不自然ではないと考えられていたのだった。他方、徐々に存在感を増していった観念連合主義者にとってはこうした情動の表現の形式は不合理なものに思えた。(par.4, p.172, par.1)
それでは、この新しい情動説に適合するような音楽の形式はいったいいかなるものだろうか?
それは、観念連合説と時を同じくして現れた〈ソナタ形式〉(sonata form)である、とキヴィは述べる。(par.2)
ソナタ形式は、18世紀後期から19世紀にかけて、すべてではないにせよ多くの器楽曲に採用された楽曲形式である。ダ・カーポアリアはひとつのセクションにひとつのテーマ(monothematic)しか持っていなかった、すなわち〈単-情動的〉(mono-emotive)であった。しかしソナタ形式はこれとはおおきく異なる。その詳細をみてゆこう。(par.3)
以前触れたように*2ソナタ形式には3つのセクションがあった。ひとつはその楽章のテーマを提示する〈提示部〉(exposition)、次に、そのテーマが変奏される〈展開部〉(development)。最後に〈再現部〉(recapitulation)でははじめのテーマが調を変えてふたたび現れ、そして曲が閉じる。(p.173, par.1)
このソナタ形式の構造とダ・カーポアリアの構造とは、おおきく言えばA-B-Aという同一の構造である。しかし、両者には大きな違いがある、とキヴィは指摘する。(par.2)
ソナタ形式ダ・カーポアリアとは異なり、さまざまなテーマを用いる。まず提示部では3つ以上のテーマが提示され、展開部では、ちょうど観念連合主義者の描く情動のように、テーマが変奏されることで、提示された情動が変化してゆくのだ。(par.3)
こうした観念連合主義者とソナタ形式の同時代的な出現がオペラを新たな方向へ導いた。(par.4)

けれども、依然としてオペラには問題があった。オペラにおいて物語の進展はセッコ・レチタティーヴォによって担われ、ダ・カーポアリアが挿入されると物語の進展は止まってしまう。すなわち、動きのあるところには音楽がなく、音楽があるところに動きがない(The paradox is that where there is action there is no music, and where there is music there is no action.)という問題があった。(p.174, par.1)

これに対して、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Morzart 1756-1791)は今日〈ドラマティックアンサンブル〉(dramatic ensemble)として知られる技法を用いた。(par.2, 3)
モーツァルト喜歌劇(comic opera)においては、セッコ・レチタティーヴォによって音楽の流れが中断されることなく、音楽的な対話(musical dialogue)によってプロットが進行してゆく。(par.4)
この代表例は1786年初演《フィガロの結婚》(Le Nozze di Figaro)の第4幕第2場にみられる。ここでは総勢8名の登場人物を伴って939小節にわたる切れ目ない音楽が披露される。この音楽は厳密な意味ではソナタ形式ではないが、アメリカのピアニストで音楽学者のローゼン(Charls Rosen 1927-2012)が〈ソナタの原理〉(sonata principle)と呼んだ形式がみられる。(par.5)

第4節 オペラと楽劇

さて、以上オペラの問題について検討してきたが、ここからさらにオペラという形式そのものの問題について扱う。

そこでキヴィは〈オペラ〉(opera)と〈楽劇〉(music drama)の区分を導入する。(p.175, par.2)
オペラという語でキヴィが意味するのは、音楽の循環的な形式を保ちつつも、ある程度許容できるような劇的な、特に情動的な点での真実味を保とうとするような演劇的な作品のことである(By 'opera' I shall mean those kinds of musical theater in which an attempt is made to preserve the closed musical forms and still maintain some acceptable degree of dramatic and (especially) emotive verisimilitude: dramatic and emotive 'realism.')。(par.3)

オペラにはある〈不条理〉(absurdities)があると指摘する者もいる。それは、そもそも、全ての出来事は、歌う暇もなければ、歌うことが不可能であるはずなのに、ダ・カーポアリアやセッコ・レチタティーヴォによってプロットが動機付けられているという点である(all of the events that there is no time to sing, or can't be sung, that motivate the plot)。(p.176, par.1)

第1 ジングシュピール

この不条理に作曲家はふたつの方法で対応した。ひとつは、オペラ的な形式を修繕してこの問題の解決を図る方法、もうひとつは、そもそも、〈オペラの問題〉(problem of opera)を拒否する方法である。前者の方法は、〈ジングシュピール〉(Singspiel)と呼ばれるもので、おおすじではダ・カーポアリアとの違いはないものの、登場人物の対話の場面においては〈レチタティーヴォ(叙唱)〉(recitativo)を用いるのではなく、ストレートに言葉を用いたものである。(par.2)
この形式はギルバート(William Schwenck Gilbert 1836-1911)とサリヴァン(Arthur Seymour Sullivan 1842-1900)コンビによる〈オペレッタ喜歌劇)〉(operetta)に、また、ベートーヴェンの『フィデリオ』といったシリアスなオペラにも採用された。(par.3)
けれども、この方法も、問題含みである。セッコ・レチタティーヴォ及びダ・カーポアリアの両者によって構成される、延々と歌い続けるオペラの形式と、ジングシュピールのような時に歌い、時に歌わない形式のどちらがより不条理でないか、という考え方こそが疑問である。(par.4)

第2 メロドラマと伴奏付レチタティーヴォ

次に、〈オペラの問題〉(problem of opera)そのものを拒否する方法について取り上げる。
これについて、キヴィはさきほど取り上げた〈楽劇〉(music drama)が採用したふたつの実験(experiment)を検討してゆく。
ひとつは、〈メロドラマ〉(melodrama)という形式の発明である。オペラの問題が登場人物の語りや歌唱の混合であるなら、そもそも歌唱を取りやめ、語りのみにし、かつ、キャラクターの発話を補強するような音楽を伴わせようとしたものである。これは音楽そのものの魅力を減退させてしまったが、オペラセリアを補強する形で採用された。また、バックグラウンドミュージックという点から、現代の映画音楽にも通じていると言える。(p.177, par.1, 2)

ふたつ目の実験はドイツの作曲グルック(Christoph Willibald (von) Gluck 1714-1787)によって行われた。彼はイタリアのオペラセリア(opera seria)を〈改革〉(reform)したと言われる。(par.3)
その改革の代表例は《オルフェオとエウリディーチェ》(Oefeo ed Euridice)(1762年初演)であると言われるが、もっとも良い例は《アウリスのイフィゲニア》(Iphigénie en Aulide)《タウリスのイフィゲニア》(Iphigénie en Tauride)にみられる。これらふたつの作品は、形式的にはメロドラマの手法を用いているが、その内容は革命的であったと言える。(par.4, p.178, par.1)
グルックの改革のひとつはセッコ・レチタティーヴォ(secco recitative)を排除したことである。チェンバロを伴い、早口の〈音楽的な発話〉(tone-talk)であるセッコ・レチタティーヴォグルックは、〈伴奏付レチタティーヴォ〉(accompanied recitative)へと置換することでオペラの改革を行った。これは、セッコ・レチタティーヴォとアリアとの間にあると言えるもので、セッコ・レチタティーヴォよりはずっと複雑で洗練されたオーケストラによる伴奏を従え、しかし語りの要素を含むようなものであった。(par.2)

この改革には3つの利点がある。
まず、この改革はオーケストラ伴奏によるアリアと、チェンバロを伴うセッコ・レチタティーヴォとの不連続性を解消した。伴奏付レチタティーヴォの採用によってオーケストラは切れ目なく奏され、いわば〈ギリシャのコーラス〉(Greek chorus)のように、劇的な出来事の〈コメンテーター〉(comentater)になったと言える。(par.3)
ふたつに、チェンバロからオーケストラに伴奏を変更したことによって、より劇的な、情動的な点を強調できるようになった。(p.179, par.1)
最後に、伴奏付レチタティーヴォ音楽そのものの価値を楽劇に付加できるようになった。(par.2)
また、グルックのふたつ目の改革として、彼はダ・カーポアリアの長さを一般的な歌の長さに切り詰め、劇の進行速度を落とさずに済むようにした。これにより、グルックの最後の作品は、ほとんど人間が話すペースと同じものになった。(par.3)
以上の点から、グルックのふたつのイフィゲニアは〈通作歌曲形式〉(through-composed)の楽劇と呼ばれる。というのも、外的・内的な繰り返しがなく、詩に伴って音楽が途切れなく展開して行くためにこう呼ばれた。さらには、音楽の切れ目としての解決も引き伸ばされている。こうした形式のもっとも際立った使い手は偉大なドイツの作曲家ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)である。(par.4)

第3 ワーグナー

彼の作品のなかにまったく繰り返しがないといえば誇張になる。しかし、彼はアリアやそのほかの繰り返しのある形式を完全に排除していることは確かである。その代わりに、彼は〈ライトモティーフ〉(Leitmotiv)を導入している。これは、特定のキャラクターや観念、プロットの中の出来事と結びついているフレーズやメロディーの断片のことである。このライトモティーフは変化しながら繰り返され、楽劇の各場面を結びつけ劇的な効果を生み出している。(p.180, par.1)
ワーグナーによる音楽と言葉、そして視覚的な芸術の統合の欲望は、おそらくは、それらのあいだの断絶によるものだろう、とキヴィは述べる。この章ではオペラを通して言葉と音楽のあいだの断絶や調停を概観してきたが、さらに次の章でその断絶を詳しく見てゆこう。(par.2, p.181, par.1, 2)

脚註

*1:ワーグナーの生み出した〈楽劇〉(music drama, (独)Musikdrama)を参照。

*2:第3章参照。