Lichtung

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グッドマンの世界制作論とバージョンの衝突について+スタンフォード哲学百科の部分訳

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グッドマンの世界制作論について

米国哲学者、ネルソン・グッドマンの知名度は、哲学研究者、しかも、プラグマティズム研究者や分析哲学研究者以外(特に科学哲学と美学)にはものすごく低いだろう。

しかし、彼の「世界制作」論、それと関連する「記号システム」論は、わたしたちにさらなる高解像度の世界理解を可能にさせうるような、いまなお非常に魅力的な哲学的な世界理解であり、さらなる研究や紹介が待たれる。

ここでは、世界制作論のモチベーションを紹介しよう。グッドマンの主張は、世界はたくさんある、というものだ。どういうことだろう?

わたしたちの多くはこう考えているだろう。

👩🏻‍💼 わたしたち わたしたちの見ている世界はわたしたちのヒト種の感覚やものの見方によって切り取られた世界に過ぎない。犬やコウモリならそれはそれで別様の世界を見ている。ユクスキュルの「環世界論」然り。しかし、そうしたもろもろの世界の先には、本当に実在する世界=THE 実在があり、その世界に対して正しいか正しくないかでその世界理解の正確さが決まる。

そこからわたしたちは次のように喧嘩をすることができる。

👩🏽‍🔬 物理学者 わたしたちの見ている世界ではなく、物理学的な世界観こそがより真なる実在を描いている! 机などは存在せず、机上に並ぶ分子、いや、さらに細かい素粒子たちだけが存在するのだ!

💁‍♂️ 宗教家 わたしたちの見ている世界ではなく、〇〇教□□派の世界観こそが正しい! わたしたちは悪しきものに欺かれているのだが、信仰と直観により、わたしたちは新なる実在に近づける!

 👩🏿‍🏭 普通のヒト 物理学的な世界観でもある宗派の世界観でもなく、わたしたちの見ている常識的な世界観こそが正しい! わたしたちは常識的に見えている世界こそが世界の実在と対応している!

さて、誰が一番正しいのだろうか? たしかに物理学は学問として大成功しており、宇宙に行けるのもGPSも物理学の成果による。しかし、宗教的な直観もわたしたちは手放せない(腹痛のあの痛みの存在など、悪しき者の存在以外、何を考えられようか?)。そしてもちろん、机があろうがなかろうが、わたしたちは「机を運んで」と他の人に頼まざるをえない。

グッドマンが彼らと出会ったなら、「いや、みんなはそれぞれに正しさを持っているが、みんなの正しさの基準は間違っているよ」と言うだろう。

彼らはみな同じ思考に属する。それは、「真なる実在との一致による世界観の正しさ」という基準に。しかし、グッドマンはそれとは違う世界観の正しさについて論じる。それが「世界制作」論である。それがどういうものかというと……以下スタンフォード哲学百科の「ネルソン・グッドマン」の項の部分訳を紹介しよう。以下は次の訳である。

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

6.非実在論と世界制作

6.1 非実在

グッドマンは自らの立場を「非実在論(irrealism)」と名付けている。非実在論とは、ざっくり言えば、世界は諸々のバージョンに溶け込むという主張である。グッドマンの非実在論は、彼の哲学の中でも最も議論を呼ぶ部分であることは間違いない。

二つの議論の流れにグッドマンの著作を分けることができる(Dudau 2002)。第一に、グッドマンは、単一の世界のバージョン内では調停しきれない相反する言明が存在すると主張する。つまり、いくつかの真理は対立する(WW, 109-16; MM, 30-44)。もしそうだとすれば、矛盾する言明を調停し、真理の標準的な対応説(言明の真理は世界と対応していることである)と一致させるために、もしあるなら、多くの世界が必要となる。第二の主張は、多くの世界が必要なのであれば、世界〔そのもの〕は必要ないというものである。もし各バージョンに世界が必要なら、なぜバージョンを超えてさらに世界〔そのもの〕を仮定するのか。

まず、第一の議論について詳しくみてみよう。地球は静止している。かつ、太陽の周りを公転している。同時に複数の経路を同時に運動している。しかし、静止している間は何ものも動きはしない。グッドマンが認めるように、これに自然に対応するのは、次のような文章である。

(S1)地球は静止している。

(S2)地球は動いている。

は、次の省略形と理解すべきである。

(S1′)天動説によれば、地球は静止している。

(S2′)地動説によれば、地球は動いている。

しかし、グッドマンによれば、これは誤りである(WW, 112)。次の二つの歴史学的文章を考えてみよう。「スパルタの王たちは二票を持っていた」と「スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。最初の文はヘロドトスによる報告の一部であり、二番目の文はトゥキディデスによる報告の一部である。これらの文を次のような省略として理解したくなる。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」そして「トゥキディデスによれば、スパルタの王たちは一票しか持っていなかった」。しかし、明らかにこの後者の二つの文はスパルタについて何も語ってはいない。これらは、ヘロドトストゥキディデスがスパルタについて語ったことしか伝えてくれないのだ。「ヘロドトスによれば、スパルタの王たちは二票を持っていた」というのは、たとえスパルタたちが実際には一票ももっていなかったとしても三票持っていたとしても、真である。地動説と天動説の相対化も同じだ。天動説によれば地球が静止しているのは事実だが、このことは世界についてわたしたちに何も知らせてはくれない。このように、(S1)と(S2)が両方とも正しいと仮定した場合、文字通り同じ一つの世界について正しいとすると、矛盾が生じることになる。もし、文字通り真ではなく、省略であり、暗黙のうちに相対化されているとするならば、どの世界についての真理でもない二つの真理が存在することになる。少なくとも、わたしたちが関心を寄せている世界の部分については、そうではないことになる。この二つの真理は、バージョンについての真理ではあるが、惑星たちについての真理ではないことが判明する。グッドマンが選んだ解決策は、この二つの真理は二つの異なる世界についての真理であると主張することだった。どちらもある世界についての文字通りの真理を述べているが、同じ世界についての真理ではないだけなのである。

グッドマンの議論にとって重要なのは、(S1)と(S2)の対立において、(a) 言明の間での実際の対立があり、かつ、(b) その対立を解決する他の方法(例えば、恣意的でないやり方で二つの発言の少なくとも一方を否定するなど)がない、ということである。もちろん、グッドマンと同時代のクワインやカルナップも、経験だけでは理論選択を決定することはできないという問題を考えていた。しかし、彼ら〔クワインとカルナップ〕は、プラグマティックな基準によって、長期的にはすべてを包含する一貫した一つの世界のバージョンに到達することができると信じていたのである。クワイン(Quine 1981)とカルナップ(Carnap 1932)の哲学では、これは物理的なバージョンであると仮定されている。しかし、グッドマンは物理主義的な還元主義を信じていない。まず、現在のところ、すべての真理が物理学に還元可能であるという説得力のある証拠はないだろうし(心的真理を物理的真理に還元する問題を考えればよい)、第二に、物理学自体が一貫した体系を形成しているとも思えないからだ(WW, 5)。それゆえ、グッドマンからすれば、わたしたちは、真だと考える世界のバージョンが相反することで行き詰まってしまうことになる。先に見たように、相対主義はグッドマンにとってオプションではない。なぜなら、相対主義は、真の記述をバージョンについてだけ真にすることになるからである。ここでわたしたちはグッドマンの多元主義に行き着く。相反する真なるバージョンは、別々の世界に対応しているのだというのだ。

グッドマンの著作に見られる第二の議論は、正しいバージョンが対応する世界は存在しない、あるいは少なくともそのような世界は必要ないという考えをもてあそぶものである。世界のバージョンで十分であり、とにかく直接アクセスできるものはそれしかないのだ。バージョンは多くの目的のために、世界として扱うことができる(WW, 4 and 96; cmp. MM, 30-33)。

グッドマンはもちろん、バージョンと世界の違いを認識している。バージョンは英語であり、語で構成されている。世界は英語でも語でも構成されてもいない。しかし、あるバージョンが世界に対して真であるためには、その世界は何らかの形でそれに対応していなければならない。例えば、(S1)に「対応する」世界とは、惑星と時空を持ち、惑星の一つである地球がその中で静止しているように配置された世界である。しかし、「惑星」「時空」「静止」などは、バージョンに依存した現実の分類方法である。これらの述語は、まさにこのバージョンで選ばれたものである。このバージョンが構築される以前には、これらの述語に対応して順序付けられた世界は存在しない。むしろ、そのバージョンが作られたときに、その構造を持つ世界が作られたからこそ、世界は(S1)で表現されるバージョンに対応するのである。

しかし、世界は何でできているのだろうか? 少なくとも、大文字の実在(Reality)は、生地がクッキーカッターで構造化できるように、別のバージョンで構造化できるような、ある種のものであると仮定すべきではないだろうか? わたしたちのバージョンが構造を投影するための、何らかの物質が必要ではないだろうか?グッドマンによれば、複数の世界が根底にある唯一の大文字の実在のバージョンでありうる、とする「寛容な実在論説」もまた、不要な追加に過ぎない。世界の根底にある実在は、構造化されておらず、中立的なものでなければならず、したがって何の役にも立たない。もし、互いに両立不能だが、等しく満足できる世界が多数存在するならば、「中立的な大文字の実在」が存在する余地はあまり残されていない。大文字の実在には、惑星も運動も時空も関係も点も構造もまったくないことになる。そのようなものがあると仮定することはできる、とグッドマンは認めているようだが、それは議論に値しない(あるいは、反対するにも値しない)。もし、根底にある大文字の実在のようなものを仮定せずに、世界の真なるバージョンと偽なるバージョンを見分け、かつ、あるものは真なるバージョンで、あるものは偽なるバージョンである理由を説明できるのなら、なぜそれを仮定するのだろうか。倹約性を考慮すれば、そうしたものを仮定することは控えるべきだろう。

6.2 世界制作

グッドマンは「あるとすれば、多くの世界がある」(MM, 127; MM, 31参照)と主張するが、グッドマンの世界を可能世界と混同してはならない。グッドマン世界には可能世界というものはまったく存在せず、すべて実際(actual)の世界である(WW, 94, 104; MM, 31)。世界は正しいバージョンに対応することによって「作られる」のであり、偽のバージョンに対応する(単に可能な)世界は存在しない。というのがグッドマンの見解である。ここで重要なのは、この見解が非合理主義やポストモダン思想家が好む空想的な文化相対主義には陥らないということである。真なるバージョンを作るのは簡単なことではない。驚くことではないが、実在論者にとっての真のバージョンを作ることよりも簡単ではない。どのようにして真なるバージョンを作るかは、どちらの説でも全く同じである。違いは、真のバージョンを作るときに何をするかという点だけである(議論は、WWとMcCormik 1996を参照)。

世界制作に対する制約は厳しい。わたしたちは、さっと物事を作ることはできない。述語は確立されていなければならず、以前のバージョンとの密接な連続性がなければならない。単純性は、わたしたちはゼロから新しいものを作らないようさせる、一貫性は、わたしたちが初期に持っている信憑性が高い信念と相反するものを作らないようさせる。さまざまな制約がある。

世界は、世界のバージョンを作ることによって作られる。だから、グッドマンによれば、世界のバージョンを作ることこそが理解されなければならないのである。すでに述べたようにカルナップの「アウフバウ」は世界のバージョンを提示しているし、〔グッドマンの著作〕『質の研究』や『現れの構造』のシステムも世界のバージョンであり、科学理論もそうである。天動説や地動説は比較的原始的な世界のバージョンであり、アインシュタイン一般相対性理論はより洗練された世界のバージョンである。しかし、世界のバージョンは形式的な言語で構成される必要はない。それどころか、形式的であれ非形式的であれ、言語である必要は全くない。例えば、絵画のような芸術で使われる記号システムも、世界制作のプロセスに利用することができる。哲学、科学、芸術のすべてが認識論的に重要であり、私たちの理解に貢献している。これらはすべて世界の創造を助けるのだ。

世界のバージョンを作るのは難しい。夥しい数のものを認めても、それが簡単になるわけではない。例えば、先人たちの問題を克服し、単純で、よく確立された述語を使い、あるいは新しい述語にうまく置き換え(これはさらに難しい)、有用な予測を可能にするような構成システムを作ることは大変な仕事である。グッドマンにとって、科学者、芸術家、哲学者は、この点で類似した問題に直面しているのである。

グッドマンの主張は、わたしたちが世界を作るのはそのバージョンを作るときであり、世界について語ることをバージョンについて語ることに置き換えたほうがよいというものだが、それが、真のバージョンを作ることは非常に難しいということを認めるだけでは解決しない問題を生み出している。バージョンを作ることと、そのバージョンが対象としているものを作ることは、明らかに異なる作業である。イズラエル・シェフラーが「グッドマンのすばらしい世界」の概要で書いているように。

グッドマンが駆り立てる世界制作というものは、つかみどころがない。世界は(真の)世界のバージョンと同定されるべきものなのか、それともむしろそのようなバージョンによって参照されるものを構成するものなのか。[『世界制作の方法』]の様々な箇所が一つの答えを示唆し、様々な箇所が別の答えを示唆している。バージョンが作られたものであることは容易に受け入れられるが、バージョンが参照するものが同様に作られたものであることは、私には受け入れられない。(Scheffler 1979, 618)

シェフラーは、グッドマンが「世界」と「世界制作」をバージョン的な意味と客観的な意味の両方で混同して使っていると論じている。先に述べたように、グッドマンの主張は、わたしたちはバージョンを作ることによって、客観的な意味での世界を作るというものである。この主張は、すべての真なるバージョンが対応する世界の唯一の構造は独立して存在するのではなく、むしろ、わたしたちの概念化によって、この構造を世界に投影するからこそ見出される、という彼の信念に基づいている。彼のお気に入りの例は、「北斗七星」として知られる星座である。確かに、わたしたちは任意の星の配置を一つ選び出し、それに名前をつけることで北斗七星を「作った」のである(より正確には、北斗七星はおおぐま座の一部なのだが、要旨は同じだ)。 北斗七星を構成する天体の配置は、純粋に慣習的なものであり、ゆえに我々の概念的なものでしかないのである。ヒラリー・パトナム(1992a)は、この考えは北斗七星についてはある程度妥当かもしれないが、例えば北斗七星を構成する星については当てはまらないことを示唆している。確かに、「星」は一部慣習的な境界を持つ概念であるが、「星」という概念が慣習的な要素を持つからといって、「星」を何に適応させるかは慣習の問題にはならない(したがって、単に世界のバージョン制作に関する問題である)。

(難波優輝訳)

Cohnitz, Daniel and Marcus Rossberg, "Nelson Goodman", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/goodman/.

つまりどういうことだろうか?

さて、以上、グッドマンの解説を紹介した。つまり、グッドマンは何を言いたいのだろうか?

まず、グッドマンは、真理の対応説、言明の真理は世界と対応していることである、を受け入れている、と解説されている(ここはちょっと調べておきたい)。

そうすると、世界が一つしかないと、互いのどちらかしか少なくとも真にはならないような言明が生まれることがある。しかし、このどちらもを真にしたくなる気分のときがある。これはわたしがよく使う例を紹介しよう。

ここに二枚の『モナ・リザ』がある。物理的組成はまったく同じであるとする。本当に同じである。しかし、片一方はレオナルド・ダ・ヴィンチがつくった確かに本物の『モナ・リザ』であり、もう一方は超高性能な複製技術による複製である。

ここであなたは二つの『モナ・リザ』のうちどちらかを買うことになった。あえて複製を買いたい人もいるかもしれないし、やはり本物を買いたい人もいるかもしれない。少なくとも、逆に本当にどちらでもいい、と思う人がいるかもしれない。

いずれにせよ、二つの『モナ・リザ』をほとんどの人はふつう区別したくなるのではなかろうか? (ならなくてもいいが)

しかし、もしあなたが物理学的語彙や概念でこの両者を区別せよ、と言われたら困るだろう。この二つの『モナ・リザ』をうまく区別する語彙や概念は物理学にはふつうなさそうだからだ。これは物理学的な世界観が間違っているというのではなく、物理学はふつう物理的組成はまったく同じ芸術作品の弁別には注意を払わないからだ。

逆にあなたが芸術について本当に何も知らず関心もない場合、「どっちも同じ」と言うかも知れない。そのときあなたはそれはそれで特殊な世界観に立っている。芸術に関心のある人の世界観では、明らかに両者の価値は驚くほど異なり、実際に両者は異なるものだとみなされるはずだ。

このように、物理学的な世界観、芸術にまったく関心のない世界観、芸術的な世界観のいずれが「真の実在に基づいて」より正しい、ということはなさそうだ。

これら3つの世界観、グッドマン的にはバージョンは、物事に対してどのような弁別をするか、何に注目するか、のあり方の違いを持つのみで、他の世界に対して別の世界が「真の実在に基づいて」より正しい、と言うことはできない。というか、言って何がおもしろいのか、というのが、より近い感覚かもしれない。

わたしたちは、物理学的な世界観も、芸術的な世界観も(そして時には芸術にはまったく関心のない世界観も)必要である。なぜなら、それぞれのバージョンはそれぞれの世界の理解をわたしたちに与えるからだ。

ゆえに、グッドマンは、「物理学的な世界よりも常識的な世界のほうが正しい」だとか、「物理学的な世界よりも芸術的な世界の方が正しい」などとも主張していないことに注意して欲しい。

しかし同時に、グッドマンが「どんな世界もなんでもありだよ」とも言っていないことも気をつけて欲しい。それぞれの世界のバージョンには、それぞれ簡潔性や一貫性などをどう担保するかの課題を持っており、世界のバージョンたちは日々切磋琢磨のうちに制作されているのだ。

バージョンタイプ間の衝突

これ以上はわたしのアイデアになってしまうが、例えば、道徳的なバージョンも存在する。そのとき、わたしたちは道徳的価値の増減やその種類に気を使う。こうした道徳的なバージョンからすれば、どのような道徳的なバージョンがより適切かが争われうる。功利主義か義務論か徳倫理か。美的なバージョンでも同じだ。言いたいことは、こうした規範的な価値に関わる世界のバージョンも無数に存在し、それらの同一のタイプのバージョン間でも議論が交わされていることを考えると、やはり、グッドマンの世界制作論は単純な相対主義に陥る必要がなくなってくる。

つまりこうなる

 🎨 バージョンタイプ:バージョンには、物理学的な世界のバージョンのような事実に係るようなバージョンと、道徳的な世界のバージョンのような規範に関わるバージョンがある。これらをバージョンタイプの違いから整理できる。

 🎨 規範的バージョン:道徳的価値をめぐるバージョンや美的価値をめぐるバージョン、その他規範的なものをめぐるバージョンがある。

より興味深いのは、道徳的なバージョンと美的なバージョンの対立があったときに、どのバージョンが提示する行為をわたしたちは選択するのか? という問いだ。これは微妙に明言化されていないが、わたしにとって非常に重要な問題だ。わたしたちはどのようにして、バージョンタイプ間の対立を調停するのだろうか? これは、抽象的な問題ではなく、わたしたちの人生において、たとえば、家庭での愛を優先するのか、芸術や仕事での達成を優先するのか、というのは、どのバージョンにコミットするのか、という選択にほかならないように思えるのだ。