Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

芸術と倫理、倫理的批評

芸術の倫理と倫理的批評に関するサーベイ論文を読んだのでまとめました。「倫理的批評って可能なの?」「芸術作品と倫理はどう関わるの?」といった疑問を抱いている方はご一読ください。

・Giovannelli, Alessandro. "The ethical criticism of art: A new mapping of the territory." Philosophia 35.2 (2007): 117-127.

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倫理的批評とはなにか

芸術は倫理的に批評しうるか、という問いは、20世紀の後半にはいってふたたび分析美学のまじめな問いとして見直されることとなった。それに伴い、分析美学において芸術とその倫理的批評に関するさまざまな立場が現れた。この論文では、そうした立場を実践に沿うようなかたちで整理する。

筆者は芸術に対する倫理的批評についてのさまざまな立場を包括的に、そして実践に沿うようにマッピングすることを目指す。というのも、現行のさまざまな立場の包括的な理解はなされておらず、議論にもやや混乱がみられるからだ。そこで、マッピングのために、どの立場からも受け入れられるような前提を提示することが第一の目標とされる。
まずは、倫理的批評とはなにかという確認をする。

  • 倫理的批評(ethical criticism):ある芸術作品に対する芸術的価値の価値づけに際して、その作品の倫理的ステータスや倫理的価値を考慮する芸術批評の実践。

倫理的批評はふつうに行われている。たとえば、リーフェンシュタール『意志の勝利』について、そのナチズムのプロパガンダ映画としての地位がその芸術的価値を損なうとする批評がそれだ。ある作品が芸術的価値をもっていても、その価値を倫理的な欠陥が損ないうるものだという考えじたいは突飛ではない。しかし、倫理的な欠陥はどの程度芸術的価値を損なうのか、倫理的な欠陥が指摘されるのは芸術作品に関するどの側面なのか(すなわち、その制作過程なのか、その作品がひとびとに与えた影響なのか)といった疑問ははいまひとつ明らかではない。

そこで、手はじめに、どのような立場を取るにせよ共有できるような一般的な原則について確認する。

三つの原則

  1. 倫理的価値づけ可能性:芸術作品は倫理的価値づけの対象になりうる。
  2. 基本的な価値の多元主義:芸術作品は、すくなくとも見かけ上は異なってみえるような、さまざまな価値づけの対象である。
  3. 倫理的側面への関与性:芸術作品のどのような倫理的側面が芸術的価値に影響しているのかは、個別に決定される。

以上は倫理的批評に関するいずれの立場をとるにせよ、議論の前提としてじゅうぶん認められうる原則である。
というのも、倫理的価値が芸術的価値に影響する(すなわち倫理的価値のあり方が芸術的価値に影響し、後者を減じさせたり増やしたりする)かしないかはべつにして、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になっていることを否定することはむずかしいし、芸術作品がその芸術的価値のみ(あるいは経済的価値、倫理的価値)に基づいてその価値づけがなされるとみなすにせよ、芸術作品が見かけ上は異なるさまざまな価値づけの対象になっていることは疑いようがないし、芸術作品のさまざまな倫理的側面(すなわち、その制作過程の倫理的問題、埋め込まれた主張内容の道徳性、あるいは鑑賞者に与える道徳的な影響)のうちで、どれがじっさいに芸術的価値と関与しているのかについてはさまざまな立場を取ることができるだろう(これについてはのちほど具体例をあげる)。

こうしたいっけん当たり前にもみえる原則の明確化は重要だと筆者は主張する。

というのも、こうした明確化によって、じっさいには存在しないような立場を考慮しないで済むようになり、無用な混乱なく議論を行えるからだ。たとえば、こうした原則を否定するような極端な立場にも倫理的批評のひとつの立場としての名前が与えられているが、しかし、そうした立場をじっさいにとる論者はほとんどいない*1。にも関わらずありうる立場として名を与えられているために混乱を招いている。しかし、存在しない立場を設定することによる不必要な議論の複雑化は避けるべきだろう。なので、じっさいに共有されうるだろう前提を設定して、そのうちでのおのおのの立場を整理することが重要なのだ。

つぎに、筆者は以上の原則に基づき、さらにいくつかの要素を導入し、さまざまな論者がじっさいにとっているだろう立場を分類する。

新しい分類法

  • 過激な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。しかし、倫理的価値は芸術的価値に何ら影響しない。
  • 穏健な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。そして、芸術作品の倫理的ステータスは、ある場合において、その芸術的価値に影響する。しかし、その影響関係はつねに非規則的(unsystematic)なかたちでしかありえない。
  • 過激な道徳主義:芸術作品の、倫理的価値はその芸術的価値に規則的(systematic)に影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。
  • 過激な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に(in a reverse manner)影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。

以上は筆者の分類を整理し直したものである。

この六つの分類に際して、筆者によってあたらしい要素が導入されている。それは、「規則的/非規則的」および「芸術種や芸術ジャンル」という要素である。かんたんに説明を加えておこう。

  • 規則的(systematic)/非規則的(unsystematic):いっぽうの価値の多寡がたほうの価値の多寡と規則的に対応している/していない。(例:経済的価値と芸術的価値はふつう非規則的にしか関係していないと考えられている。すぐれて芸術的価値のある作品が必ずしも経済的価値をもつわけではなく、経済的価値をもつ作品が必ずしも芸術的価値をもつとは限らない。)
  • 芸術種・芸術ジャンル:芸術種は「絵画」や「音楽」といった芸術のカテゴリ。後者はさらにきめの細かい「印象派」や「ダブステップ」といったジャンル。

ここで反比例的に影響するとはどういうことか。議論において指摘されているのは、道徳主義においてはポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響すること、逆に、不道徳主義においては、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響するとされているということだ。

さて、こうした分類はどのていどきめが細かいのだろうか? 筆者はとくに穏健な立場に関して多くのヴァリエーションがあることを指摘し、こうしたヴァリエーションをうまく分類に含み込んでいることを主張する。

ヴァリエーション

穏健な立場(そして過激な道徳主義と過激な不道徳主義の立場)にはさまざまなヴァリエーションがありうる。ここで筆者の指摘を三つにまとめることができる。

  1. 倫理的側面の多元性
  2. 影響関係の強弱
  3. 芸術種と芸術ジャンル

作品のどの倫理的側面が芸術的価値に影響するかについて、そしてどの程度影響するかについて、さらにそのような影響がどの芸術種やジャンルには認められるかについて、同じ立場をとるひとであってもとうぜん異なりうる。たとえば、倫理的な主張は芸術的価値に規則的に影響すると同時に、その制作手段の倫理性は、非規則的なしかたでしか芸術的価値に影響しないとする立場(主張の道徳主義+制作手段の自律主義の立場)もありうる。

つぎに筆者があげているわけではないが、理解のために具体例をあげやや詳しく議論してみよう。筆者のまとめじたいに興味があるかたもざっと見ていただければと思う。

地獄変」のケース

たとえば、芥川龍之介の「地獄変」にみられる架空の屏風絵『地獄変』について考えてみよう。これは、娘が火に呑まれるさまを実の父良秀が活写した末に出来上がった逸品とされる。さて、いまあなたの目の前に、「これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映え」の地獄絵の屏風が鎮座している。この作品の芸術的価値はその制作過程の倫理性によって影響を受けるだろうか。それとも、登場人物が最終的に受け入れているように、制作過程がどうであれ、芸術作品としての価値は揺るぎないものなのだろうか。

多くのひとはこの作品の制作過程が「倫理的にわるい」ものだと判断するだろう*2。しかし、幾人かはその倫理的なわるさにもかかわらず、芸術的価値は損なわれないとするだろう。さらに、そうしたひとびとのうちには、作品の制作過程に関しては過激な自律主義的な立場をとり、その作品の内容は、ひとの悪行の行きつく先を余すところなく示しているとして、ゆえに倫理的によく、その内容の倫理性と芸術的価値に関しては道徳主義をとるものもいるかもしれない。

だが他のひとはその制作過程における「倫理的なわるさ」ゆえに、その芸術的価値がはっきり損なわれていると判断するかもしれない。この場合、制作過程において道徳主義的な立場をとることになる。

あるいは、その作品が制作過程における倫理性にかかわりなく芸術的価値をもつとされることで、すぐれた芸術的価値をもつ作品をつくるためならばひとに危害をくわえてもよいとする価値観が社会において認められてしまうかもしれず、そのことが帰結として「倫理的にわるい」ために、その作品の芸術的価値は、その倫理的価値に影響されるだと考えるひとがいるかもしれない。このようなひとは、作品の制作過程や内容に関してはべつの立場をとるにせよ、作品が帰結的にひとびとに与える影響に関して道徳主義的な立場を採用したいと思うだろう*3

マッピングの利点

こうしたマッピングによって三つの利点がえられると筆者は主張する。

  1. 包括的かつ明晰:さまざまな論者の立場をもれなく整理できる*4
  2. 普遍的かつ実践的:実践的な批評に即した分類である。
  3. なにが有効な反例となるのかが判明となる:典型的な立場に対してどのような反例が弱点となるのかを整理できる。

これらのうち、さいごの利点について解説する。

ここで、

W:その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品

を考えよう。

第一に、これは過激な自律主義と過激な道徳主義に対する反例となりうる。なぜなら、倫理的地位がたしかに芸術的価値に影響しているからであり、ふたつの価値は規則的なしかし反比例的な影響関係にあるからである。

しかし、第二に、後者の道徳主義に対する反例となるためにはさらなる条件が必要である。ある道徳主義者が注目している倫理的側面がWの不道徳性が帰属される倫理的側面と等しくなければ反例にはならない。たとえば、その制作過程の不道徳性がWの芸術的価値の達成に関係している場合に、ある作品の制作過程ではなく、ある作品が社会に与えうる影響について道徳主義的な立場をとっているのだとすれば、Wは彼女の立場に対する反例にはならない。

また、第三に、加えて、Wが穏健な道徳主義の反例となるのは、その論者が参照する芸術種やジャンルにWが属するときのみである。

そして最後に、Wが道徳主義に対する反例として提示された場合彼女は二つの応答を行うことができる。

第一に、Wであるとされた作品は、たまたま不道徳ではあるが芸術的価値をもつだけかもしれない、ゆえに、道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

ふたたび芥川の小説にあらわれる『地獄変』を例にとろう。この作品はその制作過程において倫理的な欠陥を抱えているとみなすことができる。さて、この作品はその制作過程の不道徳性ゆえに芸術的価値をもつのだろうか? そうではないだろう。その不道徳性にもかかわらずある芸術的価値をもつと言えるだろう。道徳主義が認めているのは、「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する」ということのみである。それに対する反例は、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」であって、「その不道徳性にもかかわらず芸術的価値を達成している芸術作品」ではない。たとえば、娘の死なしで済んだ『クリーンな地獄変』と小説の中の『ダーティな地獄変』が同時に存在したとしよう。前者は絵師が想像のうちで描きあげることができた作品で、後者は娘の悲劇的な最期なしでは描きあげられなかった作品であるとする。このとき、ほかの条件がまったく同一ならば、前者のほうが後者よりは倫理的価値をもつだろう。そしてまた、芸術的価値に関しては、どちらも変わらないか、前者のほうがより価値があるだろう。いずれにせよ、すくなくとも、いまの前提において、後者のほうが価値があると述べるものはかなりすくないだろう。ということは、いずれの『地獄変』も、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」ではないといえる。ゆえに、道徳主義の反例にはならない。ある作品がその不道徳性ゆえに芸術的価値をもつことが示されるまでは、その作品は反例にはならない。

第二に、その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品は、その芸術的価値も同時に損なわれているために道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

たとえば、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を達成しているジョークは、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を損なうだろう。ここでも「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響」しているのであり、道徳主義的な立場に対する反例にはなりえないとする*5

*1:たとえば⑴を否定し、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になり得ないとする立場にはキャロル(2000)によって「(キャロル的な言葉づかいで)過激な自律主義」の名前が与えられている。だが、このような立場をとるものはほとんどいないだろう。ゆえに、このような立場に対する呼び名は不必要だ。文献については後の注を参照のこと。

*2:もちろん、制作過程における倫理的わるさというのも通りいっぺんに判断できるものではないだろう。作中の描写のように娘が捕られ、屈強な武士がそばに控えている状態では、良秀はただみるほかなかったかもしれない。すると、事故現場をカメラにおさめるカメラマンの倫理的責任がふつう問われないように、良秀に倫理的責任はなく、制作過程において、その絵もまた倫理的にわるい光景を写しているものの、その制作過程のわるさは作品に帰属させるべきではないかもしれない。

*3:このような立場はキャロル(2000)によって「帰結主義」と呼ばれ、その反論が検討されている。なお、この論文は倫理的批評におけるさまざまな立場の分類に関しては筆者によって批判されており、その批判は正当なものであろうが、倫理的批評の見取り図としてはいぜん有用だと思われる。Carroll, Noël (2000). Art and ethical criticism: An overview of recent directions of research. Ethics 110 (2):350-387.

*4:筆者は、Anderson and Dean(1998)を過激な自律主義に、Jacobson (1997)を穏健な自律主義に、Kieran(2003)を穏健な自律主義かつ穏健な不道徳主義に、Carroll(1996, 1998)を穏健な道徳主義に分類している。Anderson, J., & Dean, J. (1998). Moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 150–166. Carroll, N. (1996). Moderate moralism. The British Journal of Aesthetics, 36, 223–238. Carroll, N. (1998). Moderate moralism versus moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 419–424. Jacobson, D. (1997). In praise of immoral art. Philosophical Topics, 25, 155–199. Kieran, M. (1996). Art, imagination, and the cultivation of morals. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 54, 337–351. Kieran, M. (2003). Forbidden knowledge: The challenge of immoralism. In J. L. Bermúdez & S. Gardner (Eds.), Art and morality. London: Routledge.

*5:この議論はやや理解しづらい。不道徳主義的立場と道徳主義的立場は同時にとることができるようなものなのだろうか。この主張のみをきくと不可能にも思えるが、倫理的側面に注目することで可能であるように思われる。たとえば不道徳な内容ゆえに芸術的価値を達成しているジョークも、その内容が鑑賞者に与える影響の倫理的わるさゆえに芸術的価値を損なうとするならば、道徳主義への反例とはなっていないことが理解できるだろう。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか?」PART II

PRT I→http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/03/17/215144の続きです。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

メイル・ゲイズ

前エントリの紹介までで、イートンの分析によって、視覚芸術が性的モノ化を行うことが示され、これにより、 女性のヌード作品の 第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。すなわち、女性のヌード作品が女性の性的モノ化をエロス化していることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードがエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化はただのモノ化でしかないからだ。どういうことか?
たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。さらに、物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びで笑いはしゃぐだけだろう。すなわち、モノ化を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

その見方は「メイル・ゲイズ(male gaze)」と呼ばれる*1

「メイル・ゲイズ」は規範的なものとして理解されなければならず、 当該の作品がそうすることを誘惑する 、性的モノ化を行う「ものの見方」……を指している。ある作品がメイル・ゲイズを体現していると言うとき、それはある作品がオーディエンスに、表象されている女性を -この場合衣服を着ていない女性の体を-第一義的に性的なモノとして(字義通りであれ比喩的であれ) 「みる」ことを求めているということを意味する。(強調は引用者)(p. 293)

ここで、あまりに多くの混乱が見られるために注記しておかなければならないことがある。それは、女性を性的なモノとしてみる見方のすべてがメイル・ゲイズではないということだ。女性を性的なモノとしてみる見方はわたしたちの一般的な知覚の一つの在り方でしかなく、それじたいいいものでもわるいものでもない。

そうではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方がメイル・ゲイズである。ここで第一義的であるということが重要だ。人間はいかなるジェンダーを問わず、性的なモノである以前にそれぞれにユニークなキャラクタと自律的な意志をもつ。にも関わらず、そうした人間的な特徴に注目せずに、性的なモノとしてのみみなすことが問題とされる。もちろん、親密な関係においてはあるいは合意のうえでは、ひとは性的なモノとして扱われることをみずから望む場合もあり、それは異常な状況であるわけでもない。だが、望みもしないのに第一義的に性的なモノとしてみなされるとすれば、彼や彼女の自己決定権を侵害していることになり、それは多くの場合問題視されるであろう。

女性はこうしたメイル・ゲイズのもとで生きざるを得ない、とイートンは指摘する。メイル・ゲイズは男性のみならず女性のうちにも内在化される。たんに男性が女性をそのようにみるだけではなく、女性がその見方のうちで自らの第一義的な魅力を性的なモノの魅力として読み取る。女性はメイル・ゲイズを内在化し、その見方を通して、「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如をみずからの性的魅力とみなして自己理解を行なってゆく」。これは女性の従属をエロス化してしまうために、さまざまなジェンダーにおける平等を重視する立場からは問題であるとされる。

イートンによれば、女性のヌードはこうしたメイル・ゲイズを強調する文化形式、すなわち、「ほかのあらゆる性格よりも女性の見た目や性的魅力を強調する」文化形式であり、「女性にみずからのアイデンティティ理解の理想型」をもたらしているとされる。まとめよう。

  • 女性の性的モノ化の表象は、女性を「第一義的に性的なモノとしてみる」メイル・ゲイズによって性的に魅力的なものとして鑑賞される。女性の性的モノ化の表象である女性のヌード作品は、鑑賞にあたってメイル・ゲイズを必要とする。鑑賞者が女性のヌード作品に魅力を感じることによって、内在化されたメイル・ゲイズが強化、維持される。そうすることによって、男女問わずメイル・ゲイズを内在化したひとびとにおいて、女性を第一義的にその見た目や性的魅力がほかのどの性格よりも重視されてしまうような性的なモノとしてみなす見方が強化、維持される。すなわち「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如」が女性の性的魅力であり、その性的魅力と女性としてのアイデンティティとが同一視されてゆく。これは男女のあいだに支配と従属という不平等な関係をつくりだす原因のひとつとなるがゆえに問題があるとされる。
  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-メイル・ゲイズ-女性のヌード-性的モノ化-女性

個体と一般

ここで、女性のヌードは女性一般をモノ化していると言えるのか? というのも実際の絵画においては個体としての女性が描かれており、ゆえに、女性一般をモノ化しているわけではないのではないか?
この問いに対してイートンは女性のヌードがいかにして女性一般のモノ化の表象でありうるのかについて二つの回答を提出する。

一つ目は女性のヌード表象が総称的(generic)であることによって。女性は同じポーズ、そして同じ顔や肌の色や身体的特徴をもつ識別できないようなものとして描かれる。こうして、女性の表象は総称的なものとして描かれうる。二つ目は理想的(ideal)であることによって。女性はしわや体毛などまったくなく、つねにつるつるとした理想的な体型の女性が描かれる。反して、男性たちはそれぞれの作家に特徴のある個別的な容貌をしている。こうして、個別の女性ではなく、女性一般を表象することができるとイートンは主張する。これらの理由として、イートンは、ピンナップ機能と規範的機能をあげる。総称的で理想的な女性の姿は男性たちのファンタジーに適しており、そしてそれは男女問わず、規範的な女性像として機能する。こうして、西洋における女性のヌードジャンルに属する視覚的表象は女性一般を描きそれを性的モノとして表象することができる。

性的モノ化の何が問題なのか?

これまで女性のヌードのみを扱ってきたために反論があるかもしれない。「男性のヌード」はなぜ問題ではないのか? 男性のヌードもまた性的モノ化の表象ではないか? それを看過しているフェミニストダブルスタンダードではないのか?

イートンはこうしたダブルスタンダード説を否定する。フェミニスト批評は性的モノ化それじたいを批判しているわけではない。そうではなく、西洋の美術史における女性のヌードという視覚的表象のジャンルがもたらす問題を批判しているという。

それでは、性的モノ化はどのようにして問題になるのか。この問いに答えるために、イートンは女性のヌードを巨視的な視点から分析することを試みる。すなわち、おのおのの作品のみに注目するのではなく、諸々の作品が全体としておかれる歴史的な文脈に焦点をあてる。ここで彼女は四つの問題点をあげている。

1. 衣服を着た男性、服を脱いだ女性

女性のヌード作品において、しばしば男性も描かれる。だが、両者ははっきりと非対称的である。同じ画面の中にいる男性は服を着ており、女性だけがはだけており性的モノ化されている。それだけではなく、男性は何かしら芸術的なあるいは知的な活動に従事している。イートンの例の一部を紹介しよう。

マネ『草上の昼食』 1862年1863年、 油彩、カンヴァス、 208 cm × 265.5 cm 、 オルセー美術館、パリ*2

テツィアーノ『ヴィーナスと音楽家と子犬』1550年、油彩、カンヴァス、138 cm × 222.4cm、プラド美術館マドリード*3

アルブレヒト・デューラー『測定法教則』より「横たわる女性を素描する人」1525年、ドレスデン国立美術館*4

だが、反対に、男性がはだけており、女性だけが服を着ている絵画はほぼみられない、とイートンは述べる。こうした非対称性は、女性の性的側面のみを強調する女性のヌードというジャンルに特徴的であるとイートンは指摘する。

2. 膨大な女性のヌード

 男性のヌード作品と比べて、女性のヌード作品は圧倒的に数が多い。それを傍証するように、芸術において、「ヌード」と言えばふつう女性のヌードを指す。こうした大量の女性のヌード作品によって、「性的なモノとしての女性」という女性のステレオタイプ化が行われている可能性をイートンは指摘する。

3. ヌードのマナー

男性のヌード作品もまた多く存在する。しかし、それらは性的モノ化されるような描写の仕方では描かれてはいない。イートンの例をみてみよう。

アントニオ・ポッライオーロ『Battle of the Nude Men』1465–75年、42.4 x 60.9 cm*5

ドミニク・アングル『Oedipus and the Sphinx』1808–27年、油彩、カンヴァス、189 x 144 cm、ルーヴル美術館*6 

オーギュスト・ロダン『考える人』1902年、ロダン美術館、パリ*7

女性のヌードは伝統的に描かれた女性を性的モノ化してきた、これに対して、男性のヌードは性的モノ化されていない。活動的で、強靭で、知的なものとして描かれている。

4. 女性芸術家の排除

ここで、イートンは、個別の表象ではなく、芸術を取り巻く環境に注意を向ける。彼女は、こうした女性の肉体の表象の豊富さと裏腹に、女性が芸術から排除されている点を指摘する。まず第一に、イートンは女性芸術家の排除を指摘する。近代や現代の女性芸術家の作品が芸術作品の正典としてあげられることはほとんどない。第二に、彼女が指摘するのは伝統的に女性によって作り出されてきた服飾やキルト、針仕事、陶器といった人工物はこれまで真剣に芸術作品として扱われてはこなかったことである。

こうした現象は直接個別の女性のヌードと関連するわけではない。しかし、「偉大な美術館に足を踏み入れたとき、芸術史の教科書を開いたとき、女性はクリエイターとしてではなく、たんに身体とのみ結びつけられており、そこから男性がマスターピースをつくりだすような生の素材として結びつけられている」とイートンは語る。こうした点から、女性芸術家は、芸術から排除されているとイートンは主張する。

まとめ

女性のモノ化の表象は女性のヌードと呼ばれる。女性のヌードは、男性のヌードと比較して、つねに女性を主体性がなく、受動的なモノとして描いている。このモノ化は、女性を第一義的に性的なモノとしてみなすメイル・ゲイズを通して、魅力的なものとして鑑賞される。西洋における女性のヌードの伝統は繰り返されることで、メイル・ゲイズを強化し、ステレオタイプな女性像を作り上げてゆく。そして男性の支配と女性の従属はエロス化される。このことによって、女性の従属がもたらされる。イートンがこれまで解説してきたのはこうした関係性である。翻って、ここで、女性の従属は道徳的に問題があるとされたとき、女性の従属をもたらす原因のひとつである男性の支配と女性の従属はエロス化は問題があることになる。そして男性の支配と女性の従属のエロス化をもたらすメイル・ゲイズには問題があり、さらに、メイル・ゲイズを強化する女性のヌード作品には問題がある。以上が女性のヌードがフェミニズム批評において問題視されている理由だ。

イートンは「あらゆる女性の裸体の表象=わるい」と言ってるわけではなく「西洋の芸術史のうちの女性のヌードという視覚的表象のジャンル」は男性の支配と女性の従属という関係を芸術の名のもとに美化してしまうために問題があるとする。こうしてフェミニズム批評の問題意識が決して不条理ではないことを示そうとしている‬。

疑問

イートンは時折、「女性のヌードは女性をモノ化する」と述べているが、この表現はイートンの主張をぼやけさせてしまうおそれがある。モノ化はつねに行為者とモノ化される対象のあいだで起こるために、女性をモノ化しうるのは特定の芸術家であって、女性ヌード作品ではないはずだ。ある表象がある女性をモノ化するという表現は、あたかもある表象が人格をもち、女性に対してモノ化を行なっているようだが、それはイートンの主張との関係では適切でない表現のように思える。なぜなら、女性のヌードが女性をモノ化するという表現は、女性のモノ化が自動的に起こるという印象を与えてしまうからだ。イートンが結論としてあげているように、女性のヌードが女性をモノ化することそれじたいに問題があるのではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方との関係において問題視されていることに注意を払う必要がある。

メイル・ゲイズについて疑問がある。たしかに、「女性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」が存在していること、そして、反対にこうした見方と比べれば「男性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」はそれほど普遍的な見方でもなければ、男性のアイデンティティを形成する見方でもないだろうことは、統計的事実というより日常的な常識としては確認できる。しかし、こうした無意識の意図をあぶり出すような指摘は、ときにどんな対象にも適用できるような恣意的な道具となるかもしれない。ゆえに、イートンが行ったように、こうしたメイル・ゲイズという枠組みが突飛なものでも恣意的なものでもないことを確認すること、そしてどのような限界や批判がありうるのかを調査していくことを今後のわたしの課題としたいと思う。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」PART I

 芸術的価値の周辺を探索しています。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

 『芸術とポルノグラフィ』に収録のA. W. イートンの「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」*1

裸婦画に代表される「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」としての「女性のヌード(作品)」の問題を扱っている。
この論文の目的は、こうした「女性のヌード」がなぜフェミニズム批評のなかで問題となってきたのかを、フェミニズム研究のうちでの暗黙の了解を前提とせずに説明することだ。
著者のイートンはこう語る。

残念ながら、女性のヌードに関するフェミニスト研究は、「釈迦に説法」のかたちをとりがちである。つまり、既にその考えを受け入れる気になっているフェミニストに向けて言葉が発せられがちである。(279)

そこでイートンは、ヌスバウムのモノ化の記述を参照して具体的な芸術作品を分析し、女性のヌードがなぜ問題になるのかを説得的に描き出そうと試みている。

なぜ問題なのか:ヌードと従属

前半では、まずフェミニスト批評の問題設定を説明し、つぎに、そうした問題設定は誤りであるとする反論に答えている。ここでは問題設定を取り上げよう。イートンが取り上げるのは、「女性の従属(subordination)」の問題だ。「従属」概念の説明は文中にないため、説明を補っておく。

「女性の従属」という用語は、女性の劣勢な地位、 [社会的]資源や意思決定へのアクセスの乏しさ……を指す。したがって、女性の従属とは、女性の男性に対する劣勢な地位を意味する。無力感、差別、制限された自尊心と自信の経験は、組み合わさることによって女性の従属をつくりだす。したがって、女性の従属は、権力関係が存在し、男性が女性を支配する状況のことだ。*2

こうした女性の従属がもしほんとうに女性を取り巻く状況を言い当てているなら、そして、性別に関する不平等を問題視するなら、女性の従属は是正すべき問題として設定できる。じっさい、わたしたちは女性に対する男性の支配的なあり方が、その逆の場合と比較した場合、いかにありふれているのかを日常経験的には確認できるだろうし、性別に関する不平等は是正すべきだと考えるはずだ。

イートンは女性の従属をつくりだしている主要な原因のひとつとして「男性の支配と女性の従属」の「エロス化(eroticization)」をあげる。エロス化とは、イートンによる説明から考えるに、「あるものを性的に魅力的なものとすること」だ。これは何が問題なのか?

問題は、不平等性だ。男性が女性の従属を性的に魅力的なものとみなすように、女性もまた従属をじしんの女性としての性的魅力として自己理解する。女性は、男性への従属という不平等な関係のなかで女性としてのアイデンティティを形成する。女性の従属を問題視するならば、それ引き起こす一つの原因である「男性の支配と女性の従属」の「エロス化」も問題視すべきだろう。

「 男性の支配と女性の従属のエロス化」はどのようにして行われるのか。イートンはその主要な原因のひとつとして「女性のヌード」を取り上げている。ここで「女性のヌード」は「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」を意味する。イートンは「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」のエロス化の重要な原因のひとつであるためにフェミニスト批評の対象となると主張する*3

イートンの主張を説得的に示すためには、次の二項関係に関する問いを明らかにする必要がある。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属-女性のヌード
  • 問い:女性のヌードはいかにして男性の支配と女性の従属をエロス化するのか?

 この問いに取り組むため、イートンは「性的モノ化」という概念を導入する。イートンは、女性と女性のヌードのあいだに性的モノ化の契機を見出す。

性的モノ化について

イートンヌスバウムのモノ化の議論を紹介する。

「モノ化」とは「ほんとうはモノではないものをたんなるモノとして扱う」ことである。マーサ・ヌスバウムは、概念的に異なるモノ化の意味を指摘した。彼女によれば、モノでないひとをモノとしてとりあつかう(treating person as an object)ということには、次のような異なる意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。*4

そして、Rae Langtonの三つのモノ化の意味が加えられる。

  1. 体への還元(Reduction to body)。体や体の部分と同一のものとして扱う。
  2. 見た目への還元(Reduction to appearance)。第一義的に感覚に対してどのように見えるかという観点から扱う。
  3. 沈黙化(Silencing)。沈黙したもの、話す能力が欠落したものとして扱う。*5

そしてイートンによれば「あるまとまりの絵画や他の表象的な作品はモノではないものをモノであるかのように、とくに、性的な(sexual)モノであるかのように表象する」とされる。しかしどのようにして視覚的表象は女性をモノとして表象するのか?こうしたモノ化の表象は実際にどのようなものなのか。ここではイートンによる分析の一部を取り上げよう*6。まずイートンはジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』(1510)を例にとる。

ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』(1510)油彩、カンヴァス、108.5 cm × 175 cm、アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン*7

ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』は横たわったヌードのすべての伝統のプロトタイプである。人物の体の態勢は眠りによっては説明できない注目すべき脆弱性とアクセス可能性にによって特徴づけられる。むしろ、このポーズの機能は脆弱性を強調し、性的に敏感な部分への最大限の視覚的なアクセスをもたらすことにある。……彼女の主体性は彼女の意識の欠落が完全な受動性と脆弱性を強調するに限って重要であるに過ぎない。

イートンの記述に基づけば、こうした人物はただ彼女の性的な器官の強調によって、「見た目」や「体への還元」が行われ、「主体性は最小化されるかその痕跡も消去されている」ために、「自律性の否定」や「不活性」の強調、さらには「主観の否定」が行われている。

あるいは、女性のヌードが画題に関係なくごく単純に眼を愉しませるためだけに用いられている例がある、とイートンは指摘する。

ティツィアーノ『The Bacchanal of the Andrians』(1523–1526)油彩、カンヴァス、175 cm × 193 cm 、プラド美術館マドリード*8 

 お馴染みの脆弱で露わなポーズが目に入ってくるが、物語世界の出来事のなかで何の役割も果たしていないし、コンポジションのなかに明らかに統一されてもいない。このジャンルにおける多くの作品のようにヌードは性的な目の保養(sexual eye candy)以外の何物でもない。

このように、絵画における女性のヌード作品のいくつかは⑴女性の性的モノ化の表象であり、そして、それによって⑵鑑賞者に視覚的な性的快を供給するものであることが示された。

以上、モノ化概念の導入によってはじめの二項関係では明らかではなかった新たな関係が明示された。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-女性のヌード
  • 性的モノ化関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

性的モノ化を読み取る

分析によって、いくつかの女性のヌード作品は、性的モノ化の表象であることが示され、これにより、 女性のヌード作品の第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードが鑑賞者にエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化の表象はただのモノ化の表象でしかないからだ。

たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びではしゃぐだけだろう。性的モノ化の表象を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

つまり、次の関係が暗示される。

  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-読み取り-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

前半の紹介でこのエントリを終える。次のエントリでは読み取りを可能にする見方について紹介されるだろう。

*1:Eaton, Anne W. "What’s Wrong with the (Female) Nude?." Art and Pornography: Philosophical Essays (2012)

*2: Sultana, Abeda. "Patriarchy and Women s Subordination: A Theoretical Analysis." Arts Faculty Journal 4 (2012): 1-18.

*3:この主張に対する反論のひとつをイートンは紹介している:「 「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」の重要な原因のひとつではない。なぜなら男性の支配性と女性の従属性のエロス化は文化ではなく、適応進化によるものだからだ」とする反論である。曰く、わたしたちの先祖は支配的な男性を選好した。なぜなら支配的な男性と従属的な女性のペアは 生存に有利だったからだ。ゆえに、「男性の支配と女性の従属」のエロス化は支配的な男性と従属的な女性のペアをつくりだすために生存戦略上有益であり、今もなおわたしたちの脳に刻み込まれている生理学的かつ心理学的なセットアップだ。つまりわたしたちは遺伝的に性的に平等ではないのであり、その道徳性は云々できない。かつまた、 「男性の支配と女性の従属」 という構造は遺伝的にそう振る舞うように定まっているためにそれを女性のヌードがつくりだすわけではない。ゆえに女性のヌードは問題にはならない。こうした反論に対し、イートンは応答する。仮にわたしたちの性的選好が確かにそのように形成され深く刻まれているとしよう。だからといって、それが「道徳的に正しい」とは言えない。遺伝的に定められていようといまいと女性の従属化は道徳的に問題がある。さらに遺伝は人間の振る舞いの唯一の決定要因ではない。文化的な観念、価値、趣味などが複合的に振る舞いをつくりあげる。ゆえに、 「男性の支配と女性の従属」のエロス化は道徳的に問題があり、さらにその原因である 「女性のヌード(作品)」もまた問題がある。

*4:翻訳は、江口聡「性的モノ化と性の倫理学」『現代社会研究』第9 (2006): 135-150.)を参照。

*5:Langton, Rae (2009) “Autonomy Denial in Objectification,” ch. 10 in Rae Langton, Sexual Solipsism (New York: Oxford University Press), pp. 223-40.

*6:イートンは計15作品を取り上げ分析している。

*7:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Giorgione_-_Sleeping_Venus_-_Google_Art_Project_2.jpg#mw-jump-to-license

*8:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Bacanal_de_los_andrios.jpg#mw-jump-to-license

J. グラント「隠喩と批評」

キャロル『批評について』に触発され批評の周辺を探索しています。

 

取り上げるのは、ジェームス・グラントの論文「隠喩と批評」(2011)。

この論文では、なぜ芸術批評においてしばしば隠喩が用いられるのか、批評家は隠喩によって何を達成しているのかが問われる。

前半ではまず分析のための道具を準備する。隠喩の性質に関してグラントが提唱する「ミニマル・テーゼ」が取り上げられる。いくつかの批判に応答することで、その理論を批評の分析に用いてもよいことを示す。後半では批評家が隠喩を用いて何をしているのかを実際の例を挙げて記述しつつ前半で擁護したミニマル・テーゼを用いて分析する。

似ている性と似させるもの

まず、隠喩一般を説明するミニマル・テーゼ(Minimal Thesis)とは次のような主張だ*1。 

  • 例外をのぞいて、隠喩の対象隠喩的要素によってもっていると特徴づけられるそれぞれの性質は、(i) 隠喩的要素によって指摘される似ている性、あるいは(ii) 隠喩的要素によって指摘される似ている性についての似させるものである*2

 ロミオが「ジュリエット! 明るく、美しい君は太陽だ!」と述べたとしよう。このとき、隠喩の対象(subject)は「ジュリエット」、隠喩的要素(element)とは「太陽」である。そして、隠喩的要素によって指摘される似ている性(likeness)とは、「太陽に似ている性」である。最後に似させるもの(likeness-maker)とはある隠喩の対象に対して似ている性を与える要素のことである。ここでは、「太陽に似ている性」をもたらすジュリエットの「明るさや美しさ」といった性質のことであるとされる。以後の批評の分析においてこの似ている性と似させるものの区別が活躍する。まとめれば、似させるものが似ている性をもたらす

次にグラントはこのミニマル・テーゼを擁護する。「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とするシブリー、スクルートンを取り上げ、彼らをグラントのミニマル・テーゼに批判的な立場になりうる隠喩に関する非実在論者とみなして応答する*3。だが、隠喩が実在するなんらかの性質を隠喩的対象に帰属させているかいないか、どちらの立場をとるにせよ、ミニマル・テーゼは成立しうるとされる。

隠喩の二つの種類:似ている性と経験

後半では、ミニマル・テーゼを用いて批評家がなぜ隠喩を用いるのかが分析される。分析のためにグラントは詳細な例をいくつも挙げておりそれぞれ魅力的なのだが、ここではそのすべてを紹介することはできない。彼の結論をまず提示しよう。

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞者に与える経験を知覚、想像、想起させるため
  1. 批評家は、作品を記述するにあたって、しばしば諸性質を帰属させる。なぜなら対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれているからだ。翻って、鑑賞は、しばしば特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えることを知覚・認識することを伴う。批評は、隠喩を用いることで、 特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えていることをわたしたちに理解させることができる。これが批評家がしばしば隠喩を用いる理由の一つである。
  2. 批評家は、読み手に、対象がもつ特定の諸性質の知覚、認識を引き起こすことを欲する。 それは、対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれている場合、すなわち、この経験[知覚・認識することそれじたい]を正確に想像したり想起することが 鑑賞のなかに含まれている場合である。だから、批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起してもらうことを欲する。隠喩を用いること、とくに新しい隠喩を用いることは、これらの狙いを達成する効果的なやり方である。このような隠喩を理解するには、当該の対象を知覚し、知覚を想像したり想起させたりすることなしでは困難なことが多い。したがって、こうした隠喩を用いることで、批評家は、彼女が望むものを知覚、想像、または想起させるよう読み手に対して促すことができる。さらに、隠喩は非常に特定的(specific)なものであるために、読者がこの経験を非常に正確に想起したり想像したりすることを保証しうる。

まず 1について説明しよう。これは隠喩のオーソドックスな使い方である。「似ている性を指摘する隠喩」と言える。

たとえば、グラントも例示しているように、ベルニーニ設計によるサン・ピエトロ広場の石柱(下図)について考えよう。これはしばしば巡礼者をかき抱く両腕に似ていると指摘される。批評家が「サン・ピエトロ広場は敬虔な巡礼者たちをつつむ大いなる手である」と隠喩を用いたならば、それは、サン・ピエトロ広場がもつ「楕円形」や「大きさ」といった似させるものが、巡礼者たちをかき抱く両腕に似ている性をもたらしていることを指摘しているのだとされる。そして、サン・ピエトロ広場を鑑賞するにあたり、こうした似ている性を知覚することがたしかに必要なのだ。

サン・ピエトロ広場*4

次に2について説明しよう。これは「経験を指摘する隠喩」といえよう。たとえばグラントはクラークによるラファエロ作品評を紹介している。

リズミックなカデンツが全体の構成を貫いている。上昇し、下降し、止まり、解放される、完璧に構成されたヘンデルのメロディのように。右から左へと……[エンジンに炭を注ぐ]火夫のような「川の神」が、英雄的な漁師たちの一群[覗き込む二人の漁師]へとわたしたちを突き入れる。彼ら一群の複雑な動きは、力の発条を巻き上げる。立っている使徒との巧みなつながりが現れる。彼の左手はとなりの漁師のはためくドロープの後ろにある。そして聖アンドレ[四人目]は句切れを、一連の流れのクライマックスを形成し、わたしたちの推進力を弱めることなく引き留める。と、最後に、驚くべき加速、聖ペテロの情熱的な動き。すべての装置はこのための準備だった。最後に、キリストの慰めの姿。聖ペテロの思いを確かめそして受け入れる手*5

ラファエロ『奇跡の漁り』(1515-1516)(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)*6

このクラークの批評は、絵画を鑑賞した際に体験される流れるような動きと静止のリズムの経験を読み手に与えるために隠喩が用いられる実例である。まず冒頭から、カデンツ(安定した響きから緊張した響きに移行し、最後にふたたび安定した元の響きに戻るという音楽的な流れ)を隠喩的要素として用いている。なるほど、漁師たちの動きが作り出す輪郭はまるでメロディのように上下している。はじめ火夫と隠喩された男から徐々に上昇してゆき、聖アンドレが一瞬進行を止める。次の瞬間、聖ペテロの祈りの姿勢へと下降しそのキリストへの祈りが強調される。このようにわたしたちがこの絵画を経験することを狙って、クラークは全体を音楽的な隠喩で覆っていることがわかる。

また、グラントによれば、クラークは、1. のように、ラファエロのこの絵画が音楽的であること自体が鑑賞に含まれているためにこのような隠喩を用いているのではなく、あくまで、ラファエロの絵画が鑑賞者にもたらす経験を指摘するために、その資源として隠喩を用いているという。「音楽的な進行」や「メロディ」といったよりわたしたちに馴染み深く了解可能な表現、すなわち、明白で特定的(specific)な記述を隠喩として用いることによって、より伝達が難しい「奇跡の漁りを鑑賞することによる経験」をうまく指摘することができるのだ。

グラントはこうした隠喩によって、「批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起」することを達成していると指摘する。

まとめと疑問

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞に与える経験を知覚、想像、想起させるため

はじめに隠喩の概念を明示することで、統一のある分析を行っており、なおかつ具体例を豊富に扱っているために、説得力のある魅力的な論文となっている。彼の分析は、批評文を書く際に行われている行為を整理することによって、批評実践の理解にも寄与していると言えるだろう。

だが、疑問もある。グラントがあげた例は、「行儀のよい隠喩」のみであるように思われる。その意味は時間をかければ理解できるし、あいまいさもそれほどみられないような隠喩である。わたしたちが当惑するとともに魅入られるような理解しがたい「不思議な隠喩」もある。これはたんに「行儀のよくない隠喩」なのだろうか。それともこうした隠喩でしか達成できないような目的があるのだろうか。それは、似ている性の指摘や、鑑賞がもたらす経験の指摘以上のものなのだろうか。このような芸術批評における「不思議な隠喩」が何を意図して用いられているのかについての分析が必要だろう。

*1:以下の似ている性、似させるものという訳は、フォーマルに訳せば「肖似性」、「肖似にするもの」とできるかもしれないし、隠喩に関する議論において定訳が他にあるのかもしれない。

*2:四つの例外が挙げられている。

  • ⑴似ていないことを示す場合。例:「人間は誰も島ではない」
  • ⑵似させるものの所有の仕方が複数の可能性の中でのある一つの仕方である場合。例:「サリーは氷の塊まりだ」においてサリーの情動的な無反応性がサリーに帰属させられている。無反応性は「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」だ。情動的な無反応性は無反応性ではある。しかし、情動的な無反応性はそれじたいでは「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」ではない
  • ⑶ある性質がある仮構の似ている性についての似させるものである場合。例:「バートはゴリラだ」において似させるものはバートの凶暴性であろう。しかしゴリラはそのように信じられてはいるものの、実際には凶暴性をもたない。
  • ⑷隠喩が隠喩の対象に対して、ある種Kについての似させるものを帰属させるが、その似させるもののF性は伝達しない場合。例:「カンディンスキーの絵画のフォルムはすべて動きとともに生き生きとしている」。このとき、「形が生き生きとしている性(あるK)をもつ」と指摘されているものの、その「生き生きとしている性をもたらす性質F性」については言及されていない。

    *3:たとえばスクルートンは、「この音楽は悲しい」という例を取り上げている。彼によれば、これは「彼女は悲しい」という表現と同じように、音楽を人格化して「音楽が悲しんでいる」ことを隠喩的に指摘しているのだとされる。しかし音楽は実際悲しんでなどいない。ゆえに「隠喩は作品にいかなる性質も帰属させてはいない」のであり、「そのように見える」という観点の主張に他ならないとした。しかしグラントによれば、「この音楽は悲しい」という表現が隠喩なのかがそもそも怪しい。この表現は「この音楽はわたしたちを「悲しくさせる」」という因果関係を指摘するものであって隠喩ではないと反論する。ゆえに、「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とする立場には疑問が残るとする。

    *4:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:St_Peter's_Square,_Vatican_City_-_April_2007.jpg#mw-jump-to-license

    *5:Clark, ‘Raphael: The Miraculous Draught of Fishes’, 64–65.

    *6:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:V&A_-_Raphael,_The_Miraculous_Draught_of_Fishes_(1515).jpg

  • ノエル・キャロル『批評について』

    『批評について』について

    アメリカはニューヨーク市立大学に勤めている著名な美学者ノエル・キャロルの著作『批評について』(邦訳:2017年 原著:2009年)は次のひとつの問いを問うています:「批評とは何か、そしてそれはどのようなものであるべきか」。

    批評とは何かを問う彼の意図は、同時代の批評家が作品への価値づけから撤退していることに異を唱え、価値づけに関わっていく批評の、そして批評家のありうべきあり方を説得的に示すことにあります。過剰なレトリックに頼ることなく、印象批判に陥らないよう注意しながら、前提にもとづいて主張し、予想される反論に対して応答し、さらに再反論とぶつかり合うことによって議論が進められ「批評とは、理由にもとづいた価値づけである」との主張が展開されます*1

    四つの主張

    キャロルは、批評について、四章にわたって、おおきく四つの主張を行なっています。

    一つ目は、批評とは理由にもとづいた価値づけであるという主張。批評とは、たんなる主観的な好き嫌いの表明ではなく、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析といった根拠を用いたある種の論証であり、その当否が議論できるような活動なのだということが主張されます。

    二つ目は、批評の対象は、芸術家の行為であるという主張。作者の意図に関係なく、作品が鑑賞者に与えた価値、すなわち「受容価値」ではなく、作者が意図をその作品やパフォーマンスにおいてどのように達成しているか、すなわち「成功価値」が批評において取り扱われるものであるとされます。

    三つ目に、価値づけのための理由を構築する記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析という六つの批評の要素があるとする主張。

    最後に、批評とは、客観性を伴った活動でありうるという主張。「蓼食う虫も好き好き」といった諺のように批評の原則は存在しないとする前提に挑戦し、絵画や映画といった芸術のカテゴリー、あるいはミステリやスラップスティック・コメディといったジャンルに基づいた客観的な批評がありうると主張します。また、芸術のカテゴリー間の比較………たとえばスラップスティック・コメディとクラシック音楽、システィナ礼拝堂と天才執事ジーヴス……の可能性を文化批評とも絡めながら議論しています。

    コメント

    批評家、アーティスト、理論研究、どんな立場から読んでも、各々の活動につながりうる有益なヒントと、じぶんが取り組むべき問題を引き出すことができるでしょう。また、本書で行われる議論のスタイル……主張を提示し、反論にカウンターを行い、相手の急所を突くなかで協同的に議論を洗練させてゆく……といった攻防はなかなかに魅せます。美や芸術といった、感性がものをいうと言われる世界に言葉と論証で切り込んでいく姿は頼もしく、その技を盗みたくなります*2。また、キャロルのあげる作品は多岐にわたり、さらに具体例も豊富で、彼の興味は作品から遊離した空理空論を組み立てることではなく、実践の捉え直しと整理整頓にあることが見てとられます。付言しておけば、本書では冒頭でかるく言及されるにとどまっているものの、美学や芸術の哲学においては、芸術の定義*3、それから芸術という概念の歴史*4について魅力的な論争が見られます。

    On Criticism (Thinking in Action)

    On Criticism (Thinking in Action)

     
    批評について: 芸術批評の哲学

    批評について: 芸術批評の哲学

     

    *1:原著で読みました。邦訳は訳注も充実しています(ちゃんと読みます)。

    *2:あと、相手をむやみに煽ることのない、落ち着いた言葉遣いも真似してみたいと思わされました。キャロルといい音楽哲学で著名なキヴィといい、この世代の方の英語はお洒落で好きですね。

    *3:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/09/30/170505

    *4:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/08/16/215904

    2018年2月の本

    2018年2月よかった本をメモしておきます。

    メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

    メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

     

    『メタ倫理学入門』

    ほうぼうで絶賛されている本。噂に違わぬよさでした。理論のだらっとした羅列ではなく、動機と背景とのくっきりした提示はありがたいですね。各章のまとめとして挿入される立場のチャートが記憶や整理に非常に役立ちます。

    最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

    最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

     

    『最後にして最初のアイドル』

    三作品に共通する主人公の「身体へのこだわりのなさ」に注目したいです。ふつうわたしたちはいまのまま健康であることや身体がそのままであることに気をつかいます。健康や維持自体が目的になっています。健康なほうが嬉しいし、変化がないほうが、なじみがいいですよね。

    でも、この作品では、身体があっけなく改造されていきます。

    その描写に、身体へのこだわりに優先さるべき目的へのこだわりの強さを見て取ることができます。目的とは、ときに、アイドルであることであったり、強大な勢力へのレジスタンスであったり、生き延びることであったりします。

    こうした目的への意志がどれほどにつよいのかが、ふつうわたしたちが気づかうような身体への無頓着さから見て取ることができます。なるほどこれらの意志のすべてに共感するかどうかと言われれば難しいです。しかし、その意志のつよさ自体がわたしには美的なものと思われ心惹かれるのです。

    こうした「つよい意志」が現時点での草野作品に現れていて、わたしはそれをとても好ましく思いました。

    現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

    現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

     

    現代思想 分析哲学

    秋葉剛史、倉田剛、太田紘史、森功次らの論考を読みました。あとは読みかけも読みかけです。

    いいところは、各分野の最新の議論が紹介されていて勉強になるし、それらの魅力的な書きぶりから、じぶんでも考えてみようと思わせられるところですね。森田邦久による時間論を友人と読んでわけわからん……ちょっとわかった……と楽しんだりしました。

    わるいところは、どのテーマもあんまり魅力的で、やるべき作業をほっぽって、つい調べ始めてしまうところですね。

    ただ、わるいばかりでもなく、美学の問題に取り組んでいるものとしても、他分野の議論の道具立ては参考になるものがいっぱいで勉強になるのです。というのも、分析哲学系の各分野では、異なる分野の議論の流れや動機にある程度互換性があり、同時に、流用した道具立ての適用のうまくいかなさから各分野の特殊性や自分野で取り組むとおもしろそうな問題に気づけたりするのです。

    SEP:社会的構成への自然主義的アプローチ

    イントロダクション

    社会的構成(social construction)、構成主義(constructionism)、構築主義(constructivism)は、人文社会科学の分野で幅広く使われている用語であり、感情、性別、人種、性別、ホモ・セクシュアル・ヘテロセクシュアル精神疾患、技術、クォーク、事実、現実、真実といった幅広い対象に関して用いられる。社会構成主義は、おおまかに言えば、こうしたいっけん自然な事実であるようにみえる概念たちが社会的要因によって構成されていることを主張する立場である。このような用語はさまざまな言説においてそれぞれの役割を担っており、そのいくつかは哲学的に興味深いものの、「自然主義的(naturalistic)」なアプローチを採用しているものは少ない。ここで、「自然主義的アプローチ(naturalistic approach)」とは、科学を中心的な、そして(ときおり誤りうるにしても)成功しているような、世界についての知識の源として扱うようなアプローチのことである。対して、社会構成主義の核となるアイデアがあるとするなら、それは、自然要因よりもむしろ社会的または文化的要因によって、ある対象が引き起こされたり制御されたりするというアイデアである。また、社会構成主義的研究のモチベーションがあるとするなら、それは、ある対象は私たちの制御の下にあるか、あるいは制御されていたということ、それらは制御できうるだろうし、できえていただろうということを示すことにあるだろう。
    けれども、こうした社会構成主義において採用されているような考えは、もしそれが正しいならさまざまな対象の由来を明らかにできる点で有用であるように思われるが、決して利点ばかりと言うわけでもない。もし社会構成主義が正しく、それが主張するように、世界についてのわたしたちの表象(representation)(=観念、概念、信念、そして世界についての諸理論)が世界以外の要因やわたしたちの感覚的経験によって決定されるのだとしたら、表象されあるいは突き止められたはずの独立した現象に対する信頼は失われ、どのような表象が正しいのかという事実が存在するという考えも損なわれる。そして、われわれの側の理論によって世界の非表象的な事実が決定されるのだとすれば、認識的活動の成功という考えによって前提されていたはずの表象と現実との間の「適合の方向性」が逆転してしまう。
    これらの理由から、さまざまな対象の偶然性や恣意性を強調する構成主義の支持者と必然性や真理を重視する反対者とは、現代哲学の戦場で、自然主義という主題をめぐる戦いを繰り広げてきたと言える。
    しかし、同時に、社会構成主義者の主題は、自然主義者によって、その社会構成主義的なラディカルな反科学的および反実在論的な論題を避けながらも、構成主義者の手によって記された興味深く重要な文化的現象を、科学的な知見に適合することが試みられてきた。
    本論では、社会構成主義自然主義とを紹介しながら、ある点で対立するふたつの異なるアプローチについて議論し、その後、ふたつのアプローチの統合について若干の議論を行う*1

    f:id:lichtung:20180116031015p:image

    第1章 社会的構成とは何か

    社会的構成(social construction)とはなんだろうか。もっともシンプルに言えばそれは次の二項関係に表せる。

    • XはYを社会的に構成する

    それでは、構成するXとは何か? 構成されるYとは何か? そして構成するとは何か? これらを第1章では順に問うていくことにしよう。

    第1節 何が構成するのか

    これまで哲学者たちは「何が構成されるのか(観念? 知識? 事実? 人間本性?)」という問いについて注意深く考察してきた。しかし、「何が構成するのか」という問いについて同じだけの注意が払われることはなかった。だが、もし自然主義的な立場に立つならば、何が構成するのかも同じだけ重要であるはずだ。ここではまず「構成するX」について考えよう。ここで、Xは作用因(agent)と呼ばれる。作用因はおおきくふたつに分類することができる。

    1. 非人称的(impersonal)な作用因:非人称的な作用因とは、文化、慣習、直観といった対象である。もっとも影響力のあるものはトマス・クーンによって主張されたような考えである。クーンによれば、ひとがなにを見るのかは、そのひとが「いま見ているものとそれ以前の視覚-概念的経験が見させるもの」の両方に依拠する。また、トマス・ラカーによれば、性によって区分されたふるまいは、生物学的な要素よりも、性の概念の要素に起因するとされる。
    2. 人称的(personal)な作用因:人称的な作用因とは、人間そのものである。これは人間の選択によってなにかが構成される重要性を強調する立場であると言える。たとえば、(a)アンドリュー・ピカリングやイアン・ハッキング。科学理論の選択や実験測定、研究価値の評定における科学者の判断の役割の強調にみられるような立場がこれにあたる。また、(b)批判的構成主義者は、公的に認められた表象の内容を決定する際の人称的な作用因の受益や権力関係を強調した。チャールズ・ミルは、ジム・クロウ法に見られる黒人とそうでない人間との区別を批判し、人間の分類における恣意性を指摘した。そしてその恣意性が権力やひとびとの利益と関係している可能性を示し、人称的な作用因を重視した。

    第2節 何が構成されるのか

    次に「構成されるY」のについて考えよう。大きく3つのものが挙げることができる。

    1. 表象(representation):観念、理論、概念、説明。
    2. 一般の非表象的事実(non-representational facts quite generally):法人、公的なライセンス、パーティ、時計。
    3. 特定の非表象的事実(special sort of non-representational facts):人間の形質(traits)、人間の本性(nature)。

    とくに最後の非表象的事実すなわち、人間の性質(性、情動的ふるまい、精神疾患など)が文化的に構成されるのか、自然的な過程に起因するのかがしばしば問われる。

    ここで、こうした構成されるものに関して、構成主義者がとる立場として大きく2つの選択肢がある。

    • 全体的構成主義(global constructionist):すべての事実が社会的構成物であるとする立場。
    • 部分的構成主義(local constructionist):ある特定の事実が社会構成的であるとする立場。

    前者は社会的構成主義自体の構成すら問題になってしまうため、多くの問題があるとされる。多くの社会的構成主義者はむしろ後者の立場をとっている。本稿でも議論されるのは、後者の部分的構成主義者がほとんどであると言ってよい。さて、ここで、述べられている事実について、さらに、構成されるものについてふたつの区別が指摘されている。

    • 覆いのない構成物(overt constructions):米国議員やドッグトレーナーのライセンス、法人など。
    • 覆われた構成物(covert constructions):精神、情動、人種、ジェンダーなど*2

    前者はそれとして、哲学的な興味を惹くものであり、たとえば法人概念の形成やその哲学的含意についてはさまざまな研究がなされうる*3。しかし本稿では議論になっているのは、後者の覆われた構成物についてである。

    社会的構成主義者はとくに後者の覆われた構成物が社会的に構成されるものとして示そうとする。こうしたものは、あたかも自然的対象のように思えるものの、はっきりと意識されていないような社会的実践によってこっそりと(covertly)構成されると構成主義者は主張する。けれどもその主張に関しては、後述するように自然主義者からの批判が加えられている。

    第3節 構成するとはなにか

    つぎに、構成するとは何かについて考えよう。ふたつの重要な関係があげられる。

    1. 因果的構成(causal construction):Xは次のときかつ次のときにかぎりYを因果的に構成する。XがYを存在させるかあるいは持続させるとき、もしくはXがYの種-典型的(kind-typical)な要素を支配するとき。
    2. 構築的構成(constitutive construction):XはつぎのときかつつぎのときにかぎりYを構築的に構成する。個体yに関して、Xの概念的なあるいは社会的な活動が、yがYであるために形而上的に必然であるとき*4

    前者について言えば、これは特別社会構成主義的ではない。ある家を因果的に構成するのは、さまざまな物理的な材料であり、それを組み立てる行為者たちであり、さまざまな道具や設計図である。こちらに不可解なところはない。しかし、構築的構成とはいかなる構成であろうか?  以下例を参考にしながら考えてゆこう。

    まず、構築的構成の候補としてあげられるのは、社会的事実(social fact)である。

    • 社会的事実:その現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築しているような事実。

    サールは『社会的現実の構築』(1995)のなかで、次のように述べている。

    社会的事実については、わたしたちがこの現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築している……カクテル・パーティーの一員であることはカクテル・パーティーであることである考えられる。戦争の一員であることは戦争であることであると考えられる。これは社会的事実の顕著な特徴である。というのも、それは物理的事実(physical facts)のなかには類をみないからである。 (Searle 1995、33-34)

    サールの観点に基づけば、ある特定の人々の集まりは、集まっている人々がある概念的なそして社会的な認知を伴ってはじめて、カクテル・パーティになりうる。また、例えば、マイケル・ルート(Michael Root)(2000)も次のように述べている。

    Rがそこで人々を区別するために用いられる場合にのみ、ある場所においてある人がRである。このようなところで、Rが人種なのである。

    サールと似て、ルートは、人種という概念が人々を区別するのでなければ、なにも人種としてみなされえないと主張した。こうした理解から構築的構成の謎を明らかにすることができるだろうか。

    ここで、「どのようにして概念的実践(conceptual practice)が事実を構築するのか」のモデルが求められる。その明白なものは以下のようなモデルである。

    • 概念的実践による事実構築モデル:関連する必然性が分析的(analytic)であり、関連する語や概念の意味によって、概念的実践が事実を構築するとするモデル*5

    これはサールの例においては当てはまるように思えるが、社会構成主義が注目している対象の説明に用いることができるのだろうか。このような分析的な構築性のモデルが、社会的構成の対象に関して説明に用いることができるようなもっともらしいモデルかどうかを問う必要がある。

    さて、もう一度サールの例に戻ろう。一方で一般的な社会的事実に関するサールの説明は正しいように思われる。というのも「カクテル・パーティ」のように参加者が自分たちの行為について特定の意図の状態を共有している場合にのみ生み出されるような事例には枚挙に暇がない。他方で、構成主義者が対象とする覆われた構成物は、「カクテル・パーティ」のような覆われていない構成物が伴っているような参加者の意図が存在しない。こうした構成主義者が対象とする概念の特徴は、ある種類の概念のメンバーであるために社会的概念的な認可(imprimatur)を必要とするようなインスタンス(instance)(すなわち「カクテル・パーティ」といった覆われていない構成物でかつ参加者の意図を必要とするもの)は、こっそりと(covertly)構成された一般的な概念の一部には属し得ないということを示している。

    ここから、覆われた構成物についての批判が加えられる。こうした点からの批判のひとつに、Boghossianによる批判がある。

    電子、あるいは山というものの真の意義concept)の一部は、これらのものがわたしたちによってはつくられていないということにあるのではないか? 電子を例にあげよう。このような概念をもつ真の目的の一部は、わたしたちとは独立したものを示すためではないのだろうか?(2006、39)

    彼は、電子という概念について、そのような概念をもつ目的は、わたしたちと独立しているものを識別するためではないかと考えた。これの主張が正しいとすれば、構成を構築的関係とみなす構成主義者は、異なる説明を必要とする。というのも、覆われた構成物の場合、上にあげたような「概念的実践による事実構築モデル」を採用して、概念や言葉の意味から必然性が生じると主張するのは不合理であり、一貫していないだろうから。

    このように、社会構成主義者が取り沙汰するような構築的構成なる概念はこのままでは必ずしも現実をうまく説明できるような概念ではない。もし、構築的構成が正しいものであると主張するならば、構築性についての必然性以外の別の説明が必要になる。

    ここで、構築的構成の説明のヒントとなるようなモデルが紹介される。それは、問題になっている必然性が当該の現象についてのわたしたちの調査によって事後的(ア・ポステリオリ)に明らかにされると考えるモデルである。それはクリプキ(1980)、パトナム(1975)らが擁護するような次の理論である。

    • 指示の因果説(causal theory of reference):いくつかの用語(特に自然種の用語)がその用語の中心的な語法の根底にある何らかの物や本質を指示(reference)している。

    この説において重要なことは、指示関係が外在的であるために、語の熟達した使用者は、その用語が何を指示しているかについて根本的に誤っている可能性があったとしても、依然として首尾よく正しいものを指示することができるということである。たとえば、水の場合、パトナムは、「水」が、わたしたち自身の因果的歴史において、規範的なインスタンスと適切な因果-歴史的関係を持つようなものをピックアップすると述べた。それがどんな種類のものであったかを知らなかったときでも(すなわち、化学構造を知る以前でも)。クリプキ、パトナムらは、「水= H2O」などの命題は必然的であるもののア・ポステリオリな真理であることを強調した。

    こうした指示の因果説は議論の余地があるが、社会構成主義の解釈に寄与すると言える。というのも、たとえば「人種」などの特定の用語が、アポステリオリにのみ社会言語的行動によって生み出される種であると明らかになるのだとしても、そのような種を指示していたのだと主張することができる。

    こうした理論を採用する構築的構成主義者は、たとえば「人種」といったわたしたちの一般的な概念の一部であるとされるような概念が、電子と同じような世界についての独立した自然の事実を指示するような概念だとされていても、さらなる世界についての研究によって、わたしたちの実践の慣習的特徴によってそれが生み出されているのだと主張することができる。

    • 指示の因果説的な構築的構成:そうした事実がア・ポステリオリによってのみ明らかになるとしても、特定の語は社会-言語的なふるまいによって生み出された種のものをじじつ指示しているかもしれない

    こうした擁護がうまくいっているかはそれとして研究されなければならない。

    第2章 自然主義と社会構成主義

    第1章では社会構成主義の概要を紹介し、その理論的な難点について軽くふれた。以降第3章でそうした社会構成主義への自然主義的なアプローチを紹介する前に、本章では、自然主義とはどのような立場かについて紹介することにしよう。

    現在でも自然主義がどのような立場かについての統一した見解はみられない。しかし、科学に対する批判的な反実在論的態度としばしばセットになっている社会構成主義と科学的方法論を受け入れる自然主義とは、ある種のはっきりとした対立をかたちづくっているように思われる。
    そこで、自然主義を、それと社会構成主義とで争われている点を明確化することを狙って、科学に対する特定の立場として定式化しよう。こうした観点に基づくと、社会構成主義に対置される自然主義に大きく3つの特徴を見いだすことができる。

    1 認識論的基礎主義

    1. 科学との適合(Accomodating Science):あらゆる知識の科学的事実との適合性を必要とする
    2. 経験主義(Empiricism):ア・プリオリではなく、世界の研究によって知識は獲得される
    3. 因果モデル(Causal Modelling):世界は互いに関係する自然法則の集合である。世界を理解しようとするために、さまざまなレヴェルででこれらの関係を理想化する因果モデルをつくる。

    2 形而上的基礎主義

    1. 付随性(Supervenience):存在者には、より基礎的な、あるいはより基礎的でない存在者が存在する。そして、より基礎的でない存在者はより基礎的な存在者に付随している。多くの自然主義者は、基礎的な存在者とは物理的な存在者のことであると考えている。
    2. 還元主義(Reductionism):より基礎的でない存在者が関係している規則性は、そうした規則性が付随しているようなより基礎的な存在者が関係している自然法則によって説明される。

    3 人間的自然主義

    1. 非逸脱主義(Nonanomalism):人間やその生成物は、科学によって説明できるような世界のうちにある自然的対象であり、形而上的な、逸脱したものではない。
    2. 方法論的自然主義(Methodological Naturalism):人間の本性や人間の文化、社会生活を研究するにあたり、自然科学の方法論が採用される。

    第3章 社会的構成を自然化する

    第1章の第3節でみたように、社会的作用因による事実の生成は、その生成が因果的な構成として理解されているかぎり、自然主義者にとっても特別問題はない。けれども、対照的に、構築的構成による事実の生成の説明は、第2章で定式化したような自然主義的な立場からみると不十分な説明であるように思われる。
    こういうわけで、構成された現象に取り組む多くの自然主義者は、既存の科学知識に沿うような仕方で、構成主義者が関心を寄せる問題に因果モデルを与えてしまおうとする。本章では、このような自然主義的アプローチを例示するために、表象と人間本性(human nature)の社会的構築をより詳細に議論する。

    第1節 表象の社会的構成

    まず、「表象」とはなんだろうか。ひとびとが社会的構成の文脈で「表象の構成」について考えているとき、この場合考えられている表象とは、「精神状態、集団の信念、科学理論、そのほか概念や命題を表現するような表象」であるように思われる。事実、多くの論者のみるところ、構成主義者は、まず第一に、何らかの表象が構成されていると主張している点で共通している(例えばAndreasen 1998, Hacking 1999, Haslanger 2012, Mallon 2004)。

    それでは、こうした「表象の構成」について考えるとき、ひとびとは、「構成」についてはどう考えているのだろうか?

    まずは、ある特定の表象の構成について、すなわち社会全体で共有されているわけではない段階での、科学理論の構成について考えてみよう。

    例えば、ピカリング(1984)によってクォークの構成が叙述されるとき、あるいは、ラカー(1990)によって、性が構成されたものであると示唆されるとき、彼らはほとんど直接的に、クォーク理論や性の理論が生み出されるプロセス(構成のプロセス)について語っているように思える。(例えばLatour and Woolgar 1979 Collins and Pinch2012)。

    こうした社会構成主義者による「表象の構成の説明」は、ほんとうに社会的事実の「構成」のメカニズムやプロセスの説明になっているだろうか?

    哲学者の幾人かは、なっていないと答える。彼らにしてみれば、「構成主義者は、構成される対象(つまり構成される事実)そのものついて語る際、その対象に言及すべきときに、その対象を構成する表象のひとつを使って対象ついて語ってしまうという不注意な(あるいは意図的に挑発的な)誤りを犯している」のである。どういうことか。

    例えば、プトレマイオスが2世紀に天動説を提示したことを考えよう。たしかに彼はそのことで何らかの社会構成、すなわち「天動説」に貢献したと言える。こうした表象の構成について、その理論がどのように発生したのか、またその理論がどのように変化したのかについて触れることで説明できる。

    しかし、そうすることで、わたしたちは単にあるひとつの表象(または関連する表象)の発生や変遷についてのみ語っているに過ぎない。もしこれらの主張から飛躍して、「この理論を構成することによって、プトレマイオスが天動説的な宇宙観を「構成」したのだ」とすれば、それは端的に誤りである。なぜなら、プトレマイオスの理論は、ひとつの構成であるとはいえども、そうしたある表象そのものの解釈のみでは、社会的構成の産物として「天動説的宇宙観」が誕生したメカニズムやプロセスを明らかにはできないからである。

    ここで、第1章の第3節の議論が再び問題になる。そもそも社会的に構成するとは、いったいなんなのか? 因果的に構成されるわけでもない構築的な構成とは何か? 物理的事実の表象ではないとしたらいったいどのような対象の表象なのか?

    こうした表象の構成の問題に関して、それでは自然主義者はどのような態度をとっているのだろうか?

    自然主義者は、科学的表象、経験的観察が理論負荷的であり、科学理論はそれじたい数多くの社会的影響を被る対象であるのだとする社会構成主義者側からの批判に対し、「科学は、誤りうるとしても、世界についての知識を獲得するための中心的な方法でありうる」ことを説明しようとする。

    これはある意味で、社会構成主義者の言うような「存在しない物理的事実に関する表象が社会的に構成される」という説明に抗して「存在しないかもしれないとされている物理的事実に関する表象はそれでも自然的に説明されうるような仕方で構成される」ということを示そうとする試みである。

    そこで、社会構成主義的な表象の構成説に対する自然主義的な回答として、文化的につくりだされた認知の3つの標準的な自然主義的説明を紹介する。

    1. 文化的進化(culutural evolution):文化は集団遺伝学(population genetics)との類比によって理解しうる。そして、ある文化種(cultural items)は、人口の拡大の成功という点に基づいて成功の多少が理解されうる。これらの論者のほんの一部だけがじしんの研究を構成主義的研究に結びつけているが、いずれの場合も、そのプロジェクトは形式的に文化プロセスをモデル化し、複雑なプロセスをより単純なものにしたがって理解することである。
    2. 進化認知心理学(evolutionary cognitive psychology):文化を選択圧がはたらく表象のシステムとして考え、そしてこの考えを進化認知心理学に一般的な考えと結びつけようとする。その考えとは、精神は膨大な領域特異的(domain-specific)な心理的メカニズムによって構成されるものであるとする考えである。そして、これらを第一義的な選択のメカニズムとしてはたらく選択的メカニズムとして扱う立場である。
    3. 批判的構成主義の自然化(critical constructionism):批判的構成主義(critical constructionism)の中心的な主張である、判断と理論的活動に対する暗黙の評価の影響を示唆するアプローチを自然主義的に解釈する立場である。例えば、「動機づけられた認知」(Kunda 1999)に関する経験的証拠の増大しつつある研究は、こうしたアプローチが有益な発見をもたらしうることを示唆している。

     第2節 人間の種類と人間の形質の構成

    いかなる種類の人間の形質も社会的構成の対象になりうるが、そのなかでもっとも興味深いもので、かつ争点にもなっているのは、人間の種類(human kinds)を構成する一群の形質である。こうした一群の形質は、思考やふるまいの特定の傾向性としての精神状態と共起し相関するとされる。
    思考と行動の傾向性のセットとしての人間の種類に関する議論は自由意志と社会的規制に関する他の疑問を引き起こすために、人間の種類に関する構成主義をめぐる議論は、セックスやジェンダー、人種、感情、異性愛と同性愛、および精神疾患に関する問いを巻き込みながら、人間の分類に関する社会的、政治的議論の中心となっている。構成主義者は戦略として、文化を含むひじょうに偶発的な要因に訴えることによってこうした形質の構成を説明しようとする、これらの議論における各々の論者は、ある形質または一群の形質が文化的に特異的であるかそれとも文化を越えて見出されるかを問うことが多い。

    第1項 概念的プロジェクト

    これらの問題は、実りよりも論争を多くもたらした。しかし、同時に、哲学者は一般的に、そして自然主義者は部分的に構成主義者のさまざまな立場注意深く分析するという役割を果たした。例えば、文化的な特異性や普遍性に関する議論を反省するなかで、多くの識者は、文化的特異性に関する構成主義者による反論や批判のポイントは、歴史や文化を通して発見された/されなかったようなをめぐる単に経験的な事実に関するさまざまな論者の見解の相違に関するものではなく、現象の個別化に関して、その個別化が、文化的に異なる文脈的特徴に基づいた仕方で行われるのかどうかについての論者の見解の相違に関するものだと指摘した(Mallon and Stich 2000; Boghossian 2006,28; Pinker 2003,38)。たとえば、社会構成主義者は、わたしたちが科学的と呼ぶその活動が文化的に異なる特異な現象の個別化のひとつではないかといった疑問をもつ。この概念的プロジェクトは卓越した哲学的プロジェクトの一つであり、構成主義者の研究に関わっている概念についての問題や経験的な問題の明確化に多大な貢献をしたと言える。

    第2項 社会的役割プロジェクト

    別のプロジェクトとして、自然主義者は、人間の社会言語的行動が社会的役割を生み出すという構成主義的な示唆に基づいて、人間の形質に関する実質的な因果モデルを提案することを試みている(例えばHacking 1995b、1998; Appiah 1996; Griffiths 1997; Mallon 2003; Murphy 2006)

    ここで大きな注目を集めているのがイアン・ハッキングの「人々をつくりだす」(1986、1991、1992、1995a、1995b、1998)ことに関する研究である。一連の論文や書籍では「児童虐待」「多重人格」「逃避」などの「ある人物である新しいやり方」を官僚的、技術的、医療的分類の作成と公布が創造する主張されている(1995b 、p.239)。これは、特定の種類の人間についての概念が広範な社会的反応を形作ると同時に、当該の概念は個人の行動の「パフォーマンス」を、行動の非常に具体的な手段を提案することによって、形づくるとする考えである。

    第4章 社会的構成の新たな方向

    以上、社会構成主義の概要と問題点を第1章で、自然主義の立場を第2章で、そして、社会構成主義を自然化する試みを第3章で議論した。本章では、社会構成主義自然主義とを統合する諸アプローチについて紹介する。

    第1節 構成主義者による説明と統合モデル

    人間の心理に対する進化論的・自然主義的アプローチに共感するもののあいだで、統合的アプローチ(integrative approach)が一般的になっている。

    • 統合的アプローチ:人間の本性の形成に進化論的力が果たす役割に関する知見と、人間の形質と人間の生産物の生産に社会構成的メカニズムが果たす役割への重視を結びつけたアプローチ。

    このような統合的説明を構成しようとする方法は多くみられる。人間の形質(human traits)や種類(human kinds)の社会的構成と表象の説明をともに組み合わせるとき、それは多かれ少なかれ、構成主義者的な立場であると言える。おそらく、人間の特性や種類に関する社会的役割の説明は、社会的役割を構造化する表象の構成主義的説明と対になるだろうし、実際、これは多くの構成主義的研究の読みとして自然だろう。構成主義的研究は、人間の種類と形質に関する理論と、これらを社会的役割に訴えて説明しようとする理論との両方を説明しようとする。例えば、ジェンダーに関するわたしたちがもつ理論と、その理論が構造化する差異化のふるまいとは、ともに社会的構成の産物であるとする。

    ここで、社会的構成主義者の目には、⑴ある人間の形質や種類に関するおそらくは客観的な記述(あるいは理論)と、⑵その記述が構造化(structure)する社会的役割(あるいは社会的なふるまい)とがともに社会的構成の産物であるように見えている。そして⑴はひろく「表象」と言い換えることができる。それは事実を記述するものとして書かれたもの、言われたもの、描かれたもの、としての人間の形質や種類だ。例えば、発達障碍に対する研究論文、治療者からの報告といったものは、おしなべて「ある人間の形質や種類に関する記述」すなわち表象である。さて、こうした表象は、⑵当の表象された人物の社会的役割を構造化してゆく。もう一度例を用いれば、発達障碍に関する表象がその当事者とされる人物じしんの社会的役割を構造化する。こうした⑴表象、⑵構造化、というふたつの現象がともに社会的構成であるとみなしているのが広い意味での社会的構成主義者であると言える。

    こうした社会構成主義的主張のある種の魅力と弱点とはコインの裏表になっている。
    ⑴の表象が「ほんとうに社会的構成物なのか? 表象というものは、むしろ物理的事実をあらためて記述したものではないのか?」と問うことができるし、⑵の「構造化はいったいどのようにしてなされるというのか?」すなわち、「どのような因果的モデルが提案されうるのか?」という疑問にも答えなければならない。そこで、こうした問題に対する自然主義的なアプローチが存在する。

    表象の説明に関心をもつ自然主義者は表象に関する構成主義的な説明と認知的説明とを結びつける統合的説明を提案している。人間の形質に関する社会的役割の説明と結びつけられたとき、この統合的説明は、人間の形質と種類の表象の(部分的に)自然主義的な説明と、表象が社会的役割の生産を通じてつくりあげている人間の特性や人間の種類の完全に構成主義的な説明とを結びつける可能性を提案する

    ここで、先ほどの⑴の表象に関しては自然主義的な立場に立ちつつ、⑵の構造化のアイデアは社会構成主義の眼目とする統合的アプローチについて説明している。このようなアプローチは、先ほどの例でゆくと、発達障碍の理論や研究は客観的で物理的事実の表象であるのだが、それが社会的役割を構造化する点については、社会的構成であると考える立場である*6

    第2節 最遠位的な説明としての社会的構成

    典型的な社会構成主義は、⑴人間の形質は世界の経験から立ち現れる。⑵そのように経験される世界を構造化する文化の役割を強調する。しかし、これは前節でもふれたように、自然主義者の態度とは異なる。そこで、いささか社会構成主義的な色合いが薄まるものの、有用であるかもしれないようなこうした説明に対する自然主義的なアプローチを紹介しよう。

    ここで、社会的に構成されているような現象に関する説明を形成する際、その現象の構成に社会的/文化的影響力が果たす異なる役割に注目して、大きくふたつの説明の仕方があると考えることができる。

    • 近位的説明(proximal)
    • 最遠位的説明(ultimate)

    この場合の遠近は、説明するもの(explanans)と説明されるもの(explanandum)との違いを示している。
    たとえば、「小佐内さんはいちごタルトを食べる」という事象の理由を説明しよう。

    • 近位的説明:おいしい食べ物を食べたいという小佐内さんの欲求であるという説明。
    • 最遠位的説明:その小佐内さんの欲求を生じせしめた選択圧の生産物とする説明

    たとえば、哲学者のフィリップ・キッチャー(1999)は、人種グループに人々を分割するという文化的実践は、そうした文化的実践が重要な生殖的隔離の結果であるような集団において、それじしんで生物学的に重要な分割の結果でありうる。とした。どういうことか。
    キッチャーの主張は、原則として、そのような隔離は、集団間の生物学的な差異を保存し、蓄積することを可能にしているということである。 キッチャーはこれが現実の人種(例えば現代アメリカ人集団における黒人、白人、アジア人など)の中で実際に起こっているかどうかについて懐疑的だが、形質の進化を形作る文化の役割の最遠位的説明としての役割を提案している。

    また、生物が自らとその子孫に利益をもたらす方法で環境を改変するプロセスである「ニッチ構成(niche construction)」に関する近年の研究(Odling-Smee, Laland, Feldman 2003)もあり、この研究においては、自然選択を変化させる文化の役割が示唆されている。
    ニッチ選択の重要な例に基づいて、乳製品生産の文化的な受容など、選択圧を形成する人為的な文化や技術の役割を強調されている(Feldman and Cavalli-Sforza 1989, Holden and Mace 1997)。また、こうしたニッチは、さまざまな種類の人間の概念を含むわたしたちの文化的概念によっても多かれ少なかれ構造化されているとされる*7

    このような仮説は、社会的に構成された人種区分が生産する異文化間の生殖隔離の生物学的重要性に関するキッチャーの示唆と、ニッチ選択主義者による、文化が生物学的適応をもたらす選択圧を生み出すという考えとを結びつけている。キッチャーやニッチ選択主義者、コクランやハーディ、ハーペンディングらが行ったような研究は、ある意味では社会構成主義者的であるという理由から注目に値するが、社会的作用因(social agent)を近位的な要因ではなく最遠位的な要因として重視しているため、社会的構成主義的感覚をもつ多くの人には、違和感を抱かせるものである。

    第5章 結論

    「社会的構成」という隠喩は、ラベリングという点および社会科学と人文科学のさまざまな研究の推進という点で、 非常に柔軟であることが判明した。また、この研究で取り上げられた個人的および文化的因果関係のテーマ自体が[社会的構成における]中心的な関心であった。
    ほとんどの哲学的努力は、とくに、科学の歴史と社会学の研究から生じた社会的構成の挑発的な説明の解釈と反論へと向かいつつあるも、社会構成主義的なテーマは数多くの文脈に出現し、哲学的自然主義者がさまざまな別の方法で構築主義者のテーマに取り組む[機会を]提供している。哲学的自然主義者および科学者は、社会構成主義の仮説を記述するとともに評価するために、哲学と科学の方法を用いることで、この機会を利用し始めている。文化が人間の社会環境、行動、アイデンティティ、そして発達を形成するうえで、強力で中心的な役割を果たすため、社会構成主義のテーマを自然主義的枠組みの中で追求しさらには拡大し続けるための十分な余地がある。

    コメント

    とくに構築的構成の理論的分析に興味をもった。覆われた構成物が社会的に構成されていると言えるためにはどんな証拠を持ってきたらよいのだろうか。この点がこの議論でいちばんよくわからないので気になる。社会的構成という曖昧模糊とした言葉の意味がすこし明らかになるとともに、それだけいっそう影に隠れていたより多くの興味深い問題が見えてきた。

    *1:本記事はスタンフォード哲学百科事典「社会的構成への自然主義的アプローチ」のまとめノートである。Mallon, Ron, "Naturalistic Approaches to Social Construction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/social-construction-naturalistic/>.

    *2:この区分はGriffiths, P. E., 1997. What Emotions Really Are, Chicago: The University of Chicago Press.による。原注5。

    *3:たとえば、倉田剛「社会存在論——分析哲学における新たな社会理論」『現代思想』12月増刊号、89-107。

    *4:こうした区別はHaslanger, S., 1995. “Ontology and Social Construction,” Philosophical Topics, 23(2): 95–125.やKukla, A., 2000. Social constructivism and the philosophy of science, London: Routledge.においてなされている。原注7。

    *5:ここの必然性が分析的の意味がよく分からない。関連するのは「分析/総合の違い」あるいは「参照理論」と言った話題のようなので。調べることにする。Rey, Georges, "The Analytic/Synthetic Distinction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2018/entries/analytic-synthetic/>. Reimer, Marga and Michaelson, Eliot, "Reference", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2017/entries/reference/>.

    *6:ここで、まとめると、⑴の表象がすでに社会的構成であるとする「強い構成主義(strong constructionism)」の立場と、⑴は客観的な記述だけど、⑵は社会的構成だねという「穏健な構成主義(moderate constructionism)」の立場がというふたつの立場が提案されていると言えるかもしれない。

    • 強い構成主義:表象は事実の記述以上のものであり、その記述は社会的役割を構造化する。
    • 穏健な構成主義:表象は自然主義的説明が可能な事実の記述だが、その記述は社会的役割を構造化する。

    もちろん、強い構成主義の立場であるからといって、すべての表象に関して強い立場を取る必要はないだろう。しかし、もし自然主義的な立場を取るなら、すべての表象に関して広義の穏健な構成主義(ある記述が社会的役割を構造化するか否かはべつとして)を取るひとは多そうである。

    *7:論争の的となっている論文として、グレゴリー・コクラン、ジェイソン・ハーディ、ヘンリー・ハーペンディング(Cochran et al. 2006)による研究が紹介されている。この論文ではさまざまな証拠に基づいて、9世紀から17世紀の東ヨーロッパにおいて、ユダヤ人に対する人種区分と差別の文化的実践が作り出した選択圧が、高IQに対してはたらいていたとたこと、そして、それとは異なる事象として、同時期に、特定の遺伝的疾患が高IQの人物、とくにアシュケナージユダヤ人に関係していた (ここからアシュケナージユダヤ人はその時期にこうした文化的実践によって生殖隔離がなされていたのかもしれない)ことが論じられている。Cochran, G., J. Hardy, et al., 2006. “Natural History of Ashkenazi Intelligence,” Journal of Biosocial Science, 38: 659–693.