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A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」PART I

 芸術的価値の周辺を探索しています。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

 『芸術とポルノグラフィ』に収録のA. W. イートンの「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」*1

裸婦画に代表される「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」としての「女性のヌード(作品)」の問題を扱っている。
この論文の目的は、こうした「女性のヌード」がなぜフェミニズム批評のなかで問題となってきたのかを、フェミニズム研究のうちでの暗黙の了解を前提とせずに説明することだ。
著者のイートンはこう語る。

残念ながら、女性のヌードに関するフェミニスト研究は、「釈迦に説法」のかたちをとりがちである。つまり、既にその考えを受け入れる気になっているフェミニストに向けて言葉が発せられがちである。(279)

そこでイートンは、ヌスバウムのモノ化の記述を参照して具体的な芸術作品を分析し、女性のヌードがなぜ問題になるのかを説得的に描き出そうと試みている。

なぜ問題なのか:ヌードと従属

前半では、まずフェミニスト批評の問題設定を説明し、つぎに、そうした問題設定は誤りであるとする反論に答えている。ここでは問題設定を取り上げよう。イートンが取り上げるのは、「女性の従属(subordination)」の問題だ。「従属」概念の説明は文中にないため、説明を補っておく。

「女性の従属」という用語は、女性の劣勢な地位、 [社会的]資源や意思決定へのアクセスの乏しさ……を指す。したがって、女性の従属とは、女性の男性に対する劣勢な地位を意味する。無力感、差別、制限された自尊心と自信の経験は、組み合わさることによって女性の従属をつくりだす。したがって、女性の従属は、権力関係が存在し、男性が女性を支配する状況のことだ。*2

こうした女性の従属がもしほんとうに女性を取り巻く状況を言い当てているなら、そして、性別に関する不平等を問題視するなら、女性の従属は是正すべき問題として設定できる。じっさい、わたしたちは女性に対する男性の支配的なあり方が、その逆の場合と比較した場合、いかにありふれているのかを日常経験的には確認できるだろうし、性別に関する不平等は是正すべきだと考えるはずだ。

イートンは女性の従属をつくりだしている主要な原因のひとつとして「男性の支配と女性の従属」の「エロス化(eroticization)」をあげる。エロス化とは、イートンによる説明から考えるに、「あるものを性的に魅力的なものとすること」だ。これは何が問題なのか?

問題は、不平等性だ。男性が女性の従属を性的に魅力的なものとみなすように、女性もまた従属をじしんの女性としての性的魅力として自己理解する。女性は、男性への従属という不平等な関係のなかで女性としてのアイデンティティを形成する。女性の従属を問題視するならば、それ引き起こす一つの原因である「男性の支配と女性の従属」の「エロス化」も問題視すべきだろう。

「 男性の支配と女性の従属のエロス化」はどのようにして行われるのか。イートンはその主要な原因のひとつとして「女性のヌード」を取り上げている。ここで「女性のヌード」は「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」を意味する。イートンは「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」のエロス化の重要な原因のひとつであるためにフェミニスト批評の対象となると主張する*3

イートンの主張を説得的に示すためには、次の二項関係に関する問いを明らかにする必要がある。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属-女性のヌード
  • 問い:女性のヌードはいかにして男性の支配と女性の従属をエロス化するのか?

 この問いに取り組むため、イートンは「性的モノ化」という概念を導入する。イートンは、女性と女性のヌードのあいだに性的モノ化の契機を見出す。

性的モノ化について

イートンヌスバウムのモノ化の議論を紹介する。

「モノ化」とは「ほんとうはモノではないものをたんなるモノとして扱う」ことである。マーサ・ヌスバウムは、概念的に異なるモノ化の意味を指摘した。彼女によれば、モノでないひとをモノとしてとりあつかう(treating person as an object)ということには、次のような異なる意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。*4

そして、Rae Langtonの三つのモノ化の意味が加えられる。

  1. 体への還元(Reduction to body)。体や体の部分と同一のものとして扱う。
  2. 見た目への還元(Reduction to appearance)。第一義的に感覚に対してどのように見えるかという観点から扱う。
  3. 沈黙化(Silencing)。沈黙したもの、話す能力が欠落したものとして扱う。*5

そしてイートンによれば「あるまとまりの絵画や他の表象的な作品はモノではないものをモノであるかのように、とくに、性的な(sexual)モノであるかのように表象する」とされる。しかしどのようにして視覚的表象は女性をモノとして表象するのか?こうしたモノ化の表象は実際にどのようなものなのか。ここではイートンによる分析の一部を取り上げよう*6。まずイートンはジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』(1510)を例にとる。

ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』(1510)油彩、カンヴァス、108.5 cm × 175 cm、アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン*7

ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』は横たわったヌードのすべての伝統のプロトタイプである。人物の体の態勢は眠りによっては説明できない注目すべき脆弱性とアクセス可能性にによって特徴づけられる。むしろ、このポーズの機能は脆弱性を強調し、性的に敏感な部分への最大限の視覚的なアクセスをもたらすことにある。……彼女の主体性は彼女の意識の欠落が完全な受動性と脆弱性を強調するに限って重要であるに過ぎない。

イートンの記述に基づけば、こうした人物はただ彼女の性的な器官の強調によって、「見た目」や「体への還元」が行われ、「主体性は最小化されるかその痕跡も消去されている」ために、「自律性の否定」や「不活性」の強調、さらには「主観の否定」が行われている。

あるいは、女性のヌードが画題に関係なくごく単純に眼を愉しませるためだけに用いられている例がある、とイートンは指摘する。

ティツィアーノ『The Bacchanal of the Andrians』(1523–1526)油彩、カンヴァス、175 cm × 193 cm 、プラド美術館マドリード*8 

 お馴染みの脆弱で露わなポーズが目に入ってくるが、物語世界の出来事のなかで何の役割も果たしていないし、コンポジションのなかに明らかに統一されてもいない。このジャンルにおける多くの作品のようにヌードは性的な目の保養(sexual eye candy)以外の何物でもない。

このように、絵画における女性のヌード作品のいくつかは⑴女性の性的モノ化の表象であり、そして、それによって⑵鑑賞者に視覚的な性的快を供給するものであることが示された。

以上、モノ化概念の導入によってはじめの二項関係では明らかではなかった新たな関係が明示された。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-女性のヌード
  • 性的モノ化関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

性的モノ化を読み取る

分析によって、いくつかの女性のヌード作品は、性的モノ化の表象であることが示され、これにより、 女性のヌード作品の第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードが鑑賞者にエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化の表象はただのモノ化の表象でしかないからだ。

たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びではしゃぐだけだろう。性的モノ化の表象を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

つまり、次の関係が暗示される。

  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-読み取り-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

前半の紹介でこのエントリを終える。次のエントリでは読み取りを可能にする見方について紹介されるだろう。

*1:Eaton, Anne W. "What’s Wrong with the (Female) Nude?." Art and Pornography: Philosophical Essays (2012)

*2: Sultana, Abeda. "Patriarchy and Women s Subordination: A Theoretical Analysis." Arts Faculty Journal 4 (2012): 1-18.

*3:この主張に対する反論のひとつをイートンは紹介している:「 「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」の重要な原因のひとつではない。なぜなら男性の支配性と女性の従属性のエロス化は文化ではなく、適応進化によるものだからだ」とする反論である。曰く、わたしたちの先祖は支配的な男性を選好した。なぜなら支配的な男性と従属的な女性のペアは 生存に有利だったからだ。ゆえに、「男性の支配と女性の従属」のエロス化は支配的な男性と従属的な女性のペアをつくりだすために生存戦略上有益であり、今もなおわたしたちの脳に刻み込まれている生理学的かつ心理学的なセットアップだ。つまりわたしたちは遺伝的に性的に平等ではないのであり、その道徳性は云々できない。かつまた、 「男性の支配と女性の従属」 という構造は遺伝的にそう振る舞うように定まっているためにそれを女性のヌードがつくりだすわけではない。ゆえに女性のヌードは問題にはならない。こうした反論に対し、イートンは応答する。仮にわたしたちの性的選好が確かにそのように形成され深く刻まれているとしよう。だからといって、それが「道徳的に正しい」とは言えない。遺伝的に定められていようといまいと女性の従属化は道徳的に問題がある。さらに遺伝は人間の振る舞いの唯一の決定要因ではない。文化的な観念、価値、趣味などが複合的に振る舞いをつくりあげる。ゆえに、 「男性の支配と女性の従属」のエロス化は道徳的に問題があり、さらにその原因である 「女性のヌード(作品)」もまた問題がある。

*4:翻訳は、江口聡「性的モノ化と性の倫理学」『現代社会研究』第9 (2006): 135-150.)を参照。

*5:Langton, Rae (2009) “Autonomy Denial in Objectification,” ch. 10 in Rae Langton, Sexual Solipsism (New York: Oxford University Press), pp. 223-40.

*6:イートンは計15作品を取り上げ分析している。

*7:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Giorgione_-_Sleeping_Venus_-_Google_Art_Project_2.jpg#mw-jump-to-license

*8:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Bacanal_de_los_andrios.jpg#mw-jump-to-license