Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか

文学の哲学は、存在論、認識論、倫理学心の哲学、そして美学から、哲学的に文学を考察する研究ジャンルである。

物語とは何か、物語は人生の何を教えてくれるのか、作者とは誰か、詩的想像力とは何か、フィクションとは何か、詩の深遠さとは何か、キャラクタになぜ惹かれるのか、文学作品はどんな存在なのか、そして、文学とは何か。

本稿は、The Routledge Companion to Philosophy of Literature*1 を参照しながら、主に英米圏における文学の哲学の主要な32のトピックを紹介する。文学の哲学について関心のあるひとがさらに学びを深めるために、あるいは、美学や文学の研究者の方が研究の手がかりとするために役立てばと思う。計三万字強あるので、頭から読んでいただくのもうれしいが、気になるところからすきな順番で読んでもらえればと思う*2

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定義とジャンル

1. 文学の概念

・文学という表現形式は新聞や論文、メモとどう違うのだろうか。文学の概念によって引かれる文学とそうでないもののラインを見つけ出すことはできるのだろうか。たとえば、歴史は文学作品なのだろうか。哲学は文学に属するのだろうか。もし属するとしたら、それはどのような文学の概念で、それは、わたしたちの直観を拾うものなのか、有用な概念なのだろうか。つまり、あるものが文学という表現形式に属する条件はなんだろうか。

・文学という表現形式に属するとされる、小説、詩、戯曲、ポピュラーフィクションたちに、ことばを使った表現であること以外の共通する何かはあるのだろうか。

  • 文学の概念を考えることで、何が文学と呼ばれるのか、呼ぶべきなのか、文学という実践に組み込まれている価値観にはどのようなものがあるのか、何が文学ではないものとして排除され、その理由は何なのかを考える手がかりを得ることができるだろう。

【読書案内】

・ロバート・ステッカー、2013年『分析美学入門』森功次訳、勁草書房

分析美学入門

分析美学入門

 

・芸術の概念もまた、文学の概念に似て、音楽・絵画・文学・建築といった、どのような基準でまとめられているのかが考えてみればあいまいな基準によって様々な表現形式をまとめ上げる概念である。文学の概念を考える際には、芸術の概念を手がかりにすることもできる。とくに第五章「芸術とは何か」を参照のこと。

2. 小説

 ・小説は、同じ物語映画や物語的なアニメーションとはどう異なるのだろうか。これらは特定の物語、キャラクタ、パースペクティブなどを有している。だが、小説は、他の視覚的・音響的な表現形式とは異なり、形、色、運動や音楽をもたない。キャラクタの声は聞こえないし、身振りは見えない。すべては言語を介して述べられる。これは小説の鑑賞経験をどのように特徴づけているのだろうか。

・さらに、映像的物語においては、小説におけるようなはっきりした人称性の有無が問題になる。小説においては、一人称的な語りがふつうにありえるが、映像的物語において、こうした語りはナレーションの形で類似物を見出せるものの、すべての視点が一人称視点からの映像はかなり少数だろうし、それらはビデオカメラだったりして、小説の一人称視点に厳密に対応するような語りの視点を映像表現に見出すことは難しい。また、小説の一人称視点のみならず、三人称視点からも、ごくしぜんに、キャラクタたちの心理が言語的に表現されうる。こうした、語りのなめらかさから小説を再考することで、どのような小説ならではの特徴を見出せるだろうか。

・「文学理論」においてその典型例としては小説が扱われてきたと言える。だが、文学は詩、戯曲、口伝のお伽話をはじめ、様々な実践がある。なぜ小説が文学の典型とみなされがちなのだろうか。それにはどのような社会的・文化的・政治的背景があるのだろうか。

  • 文学において小説はその典型的な例として扱われてきた。だが、小説は、その物語的特徴、フィクションとしての特徴、印刷形態、鑑賞のされ方を含め、特殊な文学の一つである。文学一般からではなく、小説を小説として分析することは、思ったよりも様々な問いと課題が潜んでいるだろう。

【読書案内】

・小説の読書経験と、ビデオゲームのプレイ経験はどう違うのだろうか。比較できるはずがない? それでは、ビデオゲームのプレイ経験を小説に組み込もうとすれば、それはどのような鑑賞経験(読書-プレイ経験?)になるのだろうか。創元SF文庫における次のゲームSFアンソロジーはそのような新しい実験を行う小説たちを収録している。

・D・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編、2018年『スタートボタンを押してください』中原尚哉・古沢嘉通訳、早川書房

・Thomson‐Jones, K. (2009). Cinematic Narrators. Philosophy Compass, 4(2), 296-311. 

・映像の語り手についての議論のサーベイ。直接小説を扱っているわけではないが、同じ物語的表現形式の中での違いを語り手から考えることで様々な発見を行いうるだろう。

3. 詩

・詩とは何だろうか。それは定義できるのだろうか。短歌、俳句、自由律詩俳句、長歌、音楽の歌詞、シェイクスピアソネット。これらはまとめて詩と呼べるが、その共通性よりも多様性に目が向けられる。いったい、何かが詩である条件を、そして、詩以外はもたないような特徴を取り上げることはできるのだろうか。

・詩の翻訳からこぼれ落ちるものとは何だろうか。しばしば外国の詩の翻訳は、小説の翻訳よりも、より致命的に、何か重要な詩の表現の要素を取りこぼしてしまうと言われる。逆に、わたしたちが松尾芭蕉の俳句や詠い手たちの短歌の英語翻訳を読むとき、元の作品とはほとんど別物と言ってよい鑑賞経験を行うことがある。いったい詩の何が翻訳不可能なのか。

・詩の深遠さとは何だろうか。プラトンは『国家』において、詩人が正しい知識を伝達してはいないとして非難したとされ、ハイデガーは、後期になるにつれ、哲学と詩の結びつきを強調し、詩なのか哲学なのかそのどちらでもあるのか判別しがたい文字を残した。詩は他の表現形式よりもいっそう、不思議と真理や洞察と結びつけられる。それは勝手な神秘化に過ぎないのか。それとも、詩はほんとうに深遠なのか。

  • 詩の定義、翻訳不可能性、深遠さについて考えることは、詩のさらなる可能性、詩の特有の美的のみならず認知的な価値、その謎めいたあり方へと迫る手助けになる。詩の特徴について哲学的に、とくに明晰なことばづかいで迫ろうとする試みは、反-詩的で、滑稽にもみえる。だが、詩の難解さにうろたえたり、過度な神秘化を避けながら、詩をさらに味わい、ひとびとといっしょに語るためには意義のある試みである。

【読書案内】

・たとえば、つぎの笹井宏之の詩は、わたしに風景とわたしの自己のイメージの確かさへの触覚を研ぎ澄ましてくれる。

少しずつ海を覚えてゆくゆうべ  私という積み荷がほどかれる(134)

海が夕べに染まっていくのではない。夕べが、海にふれていく。藍色へと変わっていく。そして、私もまた、おそらくは船上の私もまた、夕べの大きな手に触れながら、その外形を夕べに浸し解かれていく。詩とふれることで、わたしもまた色を浸され、わたしの輪郭を確かめようとする。

・笹井宏之、2019年『えーえんとくちから』筑摩書房

えーえんとくちから (ちくま文庫)

えーえんとくちから (ちくま文庫)

  • 作者:笹井 宏之
  • 発売日: 2019/01/10
  • メディア: 文庫
 

・難波優輝、2019年「詩の哲学入門」 Lichtung 

第一に、定義論とその意義に触れ、第二に、翻訳不可能性、形式と内容の統一性について、第三に、詩における「わたし」とは誰なのかを考察し、第四に、真理と深遠さに関する議論を概観する。第五に、詩の哲学の意義をあらためてまとめ、さいごに、短歌、現代詩、歌詞といった詩と関係する様々な対象に関する研究の展望を述べている。

・Simecek, K. (2019). New directions for the philosophy of poetry. Philosophy Compass, 14(6), e12593.

こちらはまとまったサーベイ。議論の様も紹介していておすすめ。

4. 戯曲

・戯曲はそれじたいで文学作品でありうるのだろうか。アリストテレスによる悲劇論『詩学』において、悲劇はその演出を鑑賞することよりもそれを読むことが重視された。だが、この想定は適切なのだろうか。

・戯曲の価値は、その上演のよしあしによって決定されるのだろうか。もし『マクベス』のすべての上演がわたしたちのいる世界よりもより美的・芸術的にそれほどよくない上演しかない世界でも『マクベス』の価値はわたしたちの世界の『マクベス』と同じなのだろうか。

・戯曲と上演の関係は、楽譜と演奏の関係に似ている。だが、戯曲は多くのひとがそれじたいで読めるし、また、多くのひとにとって、楽譜と異なり、より作品に近いものに思える。戯曲と楽譜とはどのように異なるのだろうか。

・よい戯曲とは何だろうか。詳細なト書きや背景が書かれた戯曲がよい戯曲なのだろうか。戯曲というジャンルに属する作品は、小説や詩とは異なる価値の基準をもっているのだろうか。

【読書案内】

・Feagin, S. L. (2016). Reading Plays as Literature (pp. 185-197). The Routledge Companion to Philosophy of Literature. 戯曲の哲学についてのサーベイ

5. ポピュラーフィクション

・ハイアート、ローアートといった、「高級」 / 「低級」な表現という言い方はいったいどのような作品を指しており、それはどういう意味の区分なのか。

・高級な芸術と、ポピュラーな表現の間にはどのような価値の違いがありうるのだろうか。芸術作品はそれだけで何らの価値があるのだろうか、ポピュラーな表現はそれだけで何らかの価値に欠けているのだろうか。ポピュラー作品であることによって、いわゆるハイアートに属する芸術作品では達成できない価値を達成することもできるかもしれない。

・わたしたちは、結末が容易に予想できるようなロマンスや冒険の物語をなぜたのしめるのだろうか。たとえば、なろう小説やいくつかのライトノベルは、あらかじめ主人公とヒロインのハッピーエンドが約束されている(もちろん、とくに近年のライトノベルのいくつかでは、予定調和を逸脱するような挑戦的な作品を見出せる)。これは、ノエル・キャロルによって「ジャンクフィクションのパラドクス」と呼ばれている。このパラドクスを解くことはできるだろうか。

  • ポピュラーなものについて再考することは、「高級な」芸術対ポピュラー作品という区別を問い直すことにつながる。わたしたちは「高級な」作品はもちろん、しかし、機会と回数を考えると、ポピュラーな作品により多くふれている。そうしたわたしたちの日常にある作品を再考することは、わたしたちの美的なあり方を再興することにもつながるだろう。むろん、その近さゆえに、わたしたちはポピュラーな作品への批判的なまなざしを忘れてしまいがちである。だが、距離を離し、近くなかで、ポピュラーなものを通じても人文学的に価値のある試みがなされうるだろう。

【読書案内】

・Meskin, A. “Popular Fiction,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 117-126.

・松永伸司、2018年『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版。

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 

・文学作品ではないが、ポピュラー文化におけるビデオゲームという表現形式についての著作として、ポピュラーフィクションへのアプローチの事例として参考できる。伝統的な意味での芸術形式とはみなされない場合もあるようなビデオゲームという表現形式はなぜ芸術形式だと言えるのか、そして、ビデオゲームならではの特徴とはどのようなものか。ポピュラーフィクションもまた、芸術形式でありえるのか、それは他の芸術的だとされる文学作品とどのような異同をもつのか。

6. 映画脚本

 ・映画脚本は文学か。脚本は映画撮影のためのひとつの材料に過ぎないのか。

・よい脚本とは何だろうか。それは、それじたいで鑑賞することができるようなものなのだろうか。

・戯曲の哲学よりもさらに新しく、そして、様々な議論の発展可能性がある。

【読書案内】

・“Screenplays,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 127-136.

・映画脚本が文学でありうるかについての議論のイントロダクション。

7. 進化論的アプローチ

・なぜホモ・サピエンスは物語を語るのだろうか。それは何かしらの適応的な進化の副産物なのだろうか

・物語、お伽話、詩を語ることで、ホモ・サピエンスは様々な自然理解や社会的な制度や共同体を形成してきた。物語がホモ・サピエンスの適応度を上げたのだろうか。物語はひとびとに自然現象の理解を促し、神話によって共同体意識を発達させ、さらには、物語によって同じホモ・サピエンスの他者をよりよく理解できるようになったと言えるのだろうか。

・クジラが歌うように、鳥たちが歌うように、ホモ・サピエンスによる文学的活動は配偶者を求めて競争する性淘汰とどのようなしかたで関わるのだろうか。もし関わるのだとすれば、どのように他の生物種と異なった実践を行っているのだろうか。

・エボクリティシズム、進化批評の営みがある。進化論的心理学を参照しながら、様々な作品のキャラクタのふるまいを分析したり、解釈する批評である。これは一方で、進化によって獲得された心的なふるまいのあり方という一般的な心の理論から物語を分析するために、過度な一般化の批判を受けている。他方で、これまでの精神分析的批評、マルクス主義的といった様々な批評アプローチと並んで、あらたな文学作品の解釈の可能性を提示しうる。

  • 文学実践を生物としてのホモ・サピエンスの実践として捉えることは、わたしたちのあり方を他の生物種と比較したり、マクロなタイムスケールからわたしたちの歴史を再考することにつながる。いわゆる文系的な学問とみなされがちな文学の哲学は、しかし、哲学であることは科学を排除することをすぐさま帰結はしないだろう。わたしたちという、クジラたちや鳥たちと同じくらいユニークな生物種と物語、詩、言葉を用いた表現の独特な営みを分析することは「人文学」という呼び名にふさわしく、わたしたちの存在のあり方の理解を深めてくれるだろう。

【読書案内】

・Davies, S. (2014). Art and aesthetic behaviors as possible expressions of our biologically evolved human nature. Philosophy Compass, 9(6), 361-367. デイヴィスの短かなサーベイ

8. カノンと伝統

・「名作」とはいったい何だろうか。ある作品が名作であれば、自動的に、その作品は芸術的に優れていることになるのだろうか。名作と呼ばれているのに、芸術的に優れていない作品は存在しうるのだろうか。もしそうだとしたら、ある作品が「名作」と呼ばれるようになるプロセスは何らかの意味で不適切なものとされるのだろうか。

・「伝統」とは何だろうか。ある作品ジャンル、たとえば、SFの伝統に基づいて新しく著された作品は「革新的」だと言われたりする。このとき、伝統はSF作品の価値づけのための何らかの基準となっているように思える。しかし、それはなぜなのだろうか。

【読書案内】

Olsen, S. H. “Canon and Tradition,” in The Routledge Companion to Philosophy of Literature, ed. Noel Carroll and John Gibson. Routledge, 2016: 147-160.

谷川流、2003年『涼宮ハルヒの憂鬱角川書店

・「涼宮ハルヒ」シリーズは、過去のSF作品、推理小説、学園もの、ライトノベルへのオマージュに満ちた、ある意味で伝統を意識した小説であり、他方で、この作品じたいがライトノベルのひとつのカノンとなっている。わたしたちはいまでも「涼宮ハルヒ」シリーズをひとつのランドマークとしてライトノベルを評価しているのだろうか。それとも、この作品は、有名ではあるが、現在のライトノベルの評価軸としては異質なものとなった作品なのだろうか。

美学

9. 文学的創造性

・創造性とは何か。しばしば、文学的創造性は(1)新しさ、(2)価値の二つの結びつきから特徴づけられる。創造性とはどのような意味なのだろうか。まったく新しい作品でなければ創造的ではないのだろうか。それとも、組み合わせに創造性を見出せるのだろうか。ある作品が創造的であると言ったり、そうでないと言ったりしているとき、わたしたちは何をしているのだろうか。
・創造性は、伝統との関わりからも議論される。ある作品が創造的であるのは、まったくの無からではなく、様々な表現の蓄積からの距離の取り方によってそうである、という指摘は、重要な何かを言い表しているようにも思える。あるジャンルの「カノン」、規範的であり、そのジャンルのよさの物差しを与えるような作品と、創造的な作品とはどのような関係を結んでいるのだろうか。
・天才、狂気、精神障害と創造性はしばしば関連づけられる。創造性は、一方でそのひとの傾向性や創造的徳として特徴づけられるが、他方で、創造性は、道徳的徳とは相反するものでもありうる。創造性は、わたしたちの美徳と悪徳とどんなふうに関わっているのだろうか。

人工知能がつくりだすさまざまな物語は、異様な展開と奇妙な味わいをもっている。それらは創造的なのだろうか。それとも、創造性は、わたしたちのような生物にしか発揮できないようなものなのだろうか。
・創造性とは、そもそもそれ自体で価値があるものなのだろうか。創造性は芸術的価値とどう関わるのか。創造性のない芸術作品は芸術的価値を失ってしまうのだろうか。

  • 創造性がどのような価値を持つのか、それがわたしたちの病いや生とどう関わるのかを考えることで、わたしたちが自然と重きをおいている創造性の概念が社会において担っている役割を再考する機会をもたらす。人工的な知能が発展した先に、創造性は人間のものではなくなるのか。それとも、わたしたちだけが創造性を占有し続けられるのか。創造性の概念を考えることは、案外にわたしたちじしんの価値を問うことにもつながる。

【読書案内】
・Gaut, B. (2010). The philosophy of creativity. Philosophy Compass, 5(12), 1034-1046.

ベリズ・ガウトによる「創造性」のサーベイ論文。

10. 作者性と作者

・ある文学作品の作者とは誰か。ふつうはそれを書いたある特定のひとである。だが、編集者と作家の緊密なやりとりは珍しくない。だとすれば、ある作品の生産に因果的に関わった者たちではなく、書き手だけが作者になるのはなぜだろうか。

・作者は死んだ、と言われる。もちろん、作品の書き手は死んでいない(寿命や病気や不慮の事故や自裁によって死んでいくが)。ここで死んだとされるのは「作者機能」と呼べるような、ある作品と関わって、作品の解釈に意図によって規律を与えたり、経済-法的システムの中で印税を獲得し、著作権をもつ、ブルジョワイデオロギーが構築した作者機能である。だが、そもそも、西洋に限ってもギリシア、ローマの頃から、作者機能は存在し、現在とよく似た仕方で作者には経済的-法的な利益や権利が与えられていたともされる。ならば、作者はつねに生き続けて来たのであり、また、まだ死なないのではないか。

・日本SF史に『虐殺器官』『ハーモニー』を残した伊藤計劃は、癌によって早世した。とくに『ハーモニー』において、健康によって世界が覆われ、窒息していく世界に争うキャラクタたちが描かれる。わたしたちは、伊藤のあり方と物語との結びつけて語ることができる。だが、病に苦しんだ作者の書いた病に関する物語は、作者に結びつけて鑑賞されるべきなのか。それとも、作者と作品とは切り離して鑑賞され、鑑賞されるべきなのか。

・とくに、詩において、日本においては短歌や俳句において、作品のなかの「わたし」と作者とは深い結びつきをもって扱われてきた。それは短歌においてしばしば議論される「私性(わたくしせい)」ということばからもみて取れる。作者と作品はどのような関係をもつのだろうか。

  • 作者について語ることはもはや古くなった話題、ではない。わたしたちはどうしても作者について語らざるをえず、ならば、どのように語っているのかを再考することからはじめなければならない。たとえそれが亡霊であったとしても、それがある限りわたしたちは語れるし、語る価値はいまだに秘められている。

【読書案内】

伊藤計劃、2010年『ハーモニー』早川書房

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:伊藤計劃
  • 発売日: 2014/08/08
  • メディア: 文庫
 

・ひとびとはどこまでも健康であれるユートピアで生きている。そのなかで、窒息する優しさに満ちた社会に対して餓死してみせることで抵抗を試みた三人の少女。生き残った少女霧慧トァンは、突然自殺するひとびとが連続した事件を追ううちに、死んだはずの友人の影をみる。健康であること、幸福であること、人間の自由意志をめぐる物語。

・Lamarque, P. (1990). The death of the author: An analytical autopsy. The British Journal of Aesthetics, 30(4), 319-331. 作者の死についてのバルトやフーコーらの言説を分析し、それが整合的には理解しにくい部分があることを検証する。

・Livingston, P. (2016). Authorship. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature, 174-183. Routledge. 作者の機能と作者概念の分析と提案を行う。

・Holliday, J. (2018). Emotional Intimacy in Literature BSA Prize Essay, 2016. The British Journal of Aesthetics, 58(1), 1-16.

・上記二つが作者の機能の外形を議論しているとすれば、こちらは解釈や批評に関わるような作者とのわたしたちの結びつきを論じている。英国美学雑誌の2016年の英国美学雑誌賞を受賞。

11. 情動の表出

・文学作品において表出されている情動は誰の情動なのだろうか。ロマン主義的な見方では、文学作品を通じて読者は作者の情動にふれ、ときには深い情動的なつながりを覚えられるとされる。だが、文学作品の作者はそれが物語であれ、詩であれ、じぶんが思っていないことを書くことはできるし、独特な意味で読者を「裏切る」、たとえば、繊細な物語の書き手が驚くほど粗雑な性格をしていたり、はちゃめちゃな物語の書き手が、ひじょうに物腰の柔らかい人間であったりする。他方で、文学作品は「真摯な」表現でありうる。読者であるわたしたちは様々なキャラクタ、語り、物語、ことばの選択のひとつひとつに作者の細かなこだわりや横顔や世界へのまなざしを確かに見出したことがある。文学作品と作者の情動の関係はどのようなものなのだろうか。

  • 文学作品の表出は、分析美学における画像の表出、音楽の表出と並び、様々な表象や表現が情動を提示できるという興味深いあり方の議論と結びついている。加えて、文学作品においてはいっそう、作者と作品との情動的つながりが、そして、読者と作者の「真正な」つながりが重視されてきた。こうした実践をたんにロマン主義的なものと葬ることも、また、自明のものとして受け入れることも、文学作品の情動をめぐる謎に真に驚くことを忘れてしまう身振りだ。わたしたちは文学作品との情動的つながりを経験を捨てることなく、その構造を分析することで、文学についてさらによりよく理解できるようになるだろう。

【読書案内】

・ロバート・ステッカー、2013年『分析美学入門』森功次訳、勁草書房。第10章「音楽・詩における表現性」。

・源河亨、2019年『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学慶應技術大学出版。

悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学

悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学

  • 作者:源河 亨
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 単行本
 

・音楽についてではあるが、最先端の情動と表出に関する議論を行っており、議論のひとつのあり方としてひじょうに参考になる。

・Matravers, D. (2007). Musical expressiveness. Philosophy Compass, 2(3), 373-379. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2007.00078.x?casa_token=HqzxobLsoEYAAAAA%3AtLWYYtoPm_2FBI5iwKen1ZcrVNbKg5bmDaAT9zTsFfdHeNfxaGklmF2FDXnpHkeN7ELJMqlp2OQSNBoufQ

・音楽の情動表出についての議論のまとめ。

12. 文学的様式・スタイル

・ある文学作品が属する様式とは何か。たとえば「小説家になろう」というweb小説投稿サイトは、ラブコメディ、SF、異世界ファンタジーといった様々なジャンルを含みつつ、やはり「なろう系」というよく呼ばれる呼び名で示されるような、何らかの文体的特徴、キャラクタの造形、物語的構造において「なろう様式」とでも呼べるような共通した特徴をもっているように思える。同時に、なろう系にも様々なバリエーションがあり、それらは一見したところ以上の相互参照によって独特の様式のネットワークを形づくっている。文学的様式概念はこうした独立した作品ではなく、作品群がつくりだすスタイルをとらえるのに役立つかもしれない。

・他方で、ある個別的な作品や作品群が、特定の作者のスタイルを示す、と呼ばれることがある。言い換えれば、作品には何らかの「作者らしさ」が見出されることがよくある。これらはまず文体的特徴であったり、物語の構造的特徴であったりするが、さらに、そのスタイルが「発展」したりすることが価値づけられたり、これまでの作者のスタイルをがらりと変える作品が「挑戦的」と評価されたりする。こうした個別的なスタイルの概念でわたしたちが評価する独特な「スタイル」という何かをうまく捉えられるかもしれない。

  • 個人にとどまらない文学作品の実践に関する一般的な様式、そして、個人の時間的変化も含めた個別的スタイル、これらの概念がどれほどわたしたちの文学的実践の分析に用いられるのか、そこからこれらの概念についての考察を行うことも重要だろう。また、実際に、わたしたちは「なろう系」「セカイ系」といったおそらくは様式的概念を用いている。こうした営みをさらに詳細にどのように分析できるのか、様式概念の可能性はまだ完全には明らかにはなっていないだろう。

【読書案内】
・Robinson, J. M. (1985). Style and personality in the literary work. The Philosophical Review, 94(2), 227-247. https://www.jstor.org/stable/2185429

・クラシックとなったジェニファー・ロビンソンの論文。いまなお読むとおもしろい。

・松永伸司、2020年「様式とは何か」9bit. . 様式概念のコアを掴むならこのブログ記事を読むとよい。

・松永伸司、2020年「ピクセルアートの美学 第2回 ピクセルアートと様式」『メディア芸術カレントコンテンツ』

・様式概念を使って、ピクセルアートを考えられるよ。という様式概念を実際に使ってみる論考。
・難波優輝、2019年「おしゃれの美学––––パフォーマンスとスタイル」『vanitas 006』138-156. アダチプレス。

vanitas No. 006

vanitas No. 006

  • 発売日: 2019/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・ジャンルや集団の様式ではなく、あるひと個人の様式としての個別的スタイルを工学することで「おしゃれ」という美的行為を概念工学してみる論文。

秋山瑞人、2000年『猫の地球儀メディアワークス

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)

 

秋山瑞人は、その特異な文体と何かに賭ける存在者たち(人間のみならず、機械、そして、猫)を描き続けることで、ライトノベルジャンルのなかで特異な位置にあり続けている。猫たちが剣呑なロボットたちとともに暮らし、ギャングや宗教的な強権が入り混じるトルク世界ではるか宇宙の向こうにあるという「地球儀」と呼ばれる場所を目がける「スカイウォーカー」たる猫と、最強を目指すべつの猫とのそれぞれの人生のプロジェクトを賭けた物語。本作もまた、秋山らしい文体が書き連なり、キャラクタたちの行動原理が描かれる。秋山のスタイルとはどのような特徴を持っているのだろうか。それは彼の作品の価値とどう関わっているのだろうか。

13. テーマ

・ある作品のテーマとは何か。それは物語のトピックでもなく、結末でもなく、常に明確に書かれているわけでもない。だとすれば、作品のテーマとはどこに見出せるどのような対象なのだろうか。

・『源氏物語』を貫くテーマ、『罪と罰』を流れるテーマ。これらのテーマを指摘することは、物語の理解やより深い鑑賞とどう関わっているのだろうか。わたしたちは作品のテーマをなぜ考えなければならないのだろうか。

・テーマを考えることは、便利な解釈や批評のツールとして役立つ。ある作品のテーマを仮に設定することで、その作品を読見直す指針を与えたり、価値づけの基準となったりする。それ以外に、作品のテーマを考えることに意義があるのだろうか。

【読書案内】

・廣野由美子、2005年『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』中央公論社

・『フランケンシュタイン』を取り上げ、様々な批評理論から、テーマを取り出し批評理論的批評を例示する。そのテーマの切り口の可能性の広さに驚きとともに、文学批評の解釈の多元性に気づくことができる。

14. キャラクタと性格

キャラクタをめぐっては、大きく三つの議論ができる。

  1. 性格とは何か
  2. 小説における / 虚構的キャラクタとは何か
  3. キャラクタの価値 

・第一に、キャラクタのもう一つの意味である「性格」にはさまざまな謎が見出される。性格は、一般に、最小限の仕方では、ある特定の人間の心的な一定の傾向性と特徴づけられる。まず、こうした傾向性とはそもそも存在するのだろうか。わたしたちは、日々、さまざまな欲求をもち、情動や気分のうちに生きて、異なるひとびとと付き合う。職場では鬼のようなひとも、友人のあいだでは気さくな笑顔を見せたり、去年はあれほどふさぎ込んでいた知人は、今やすっかり明るく活動的になった。じぶんじしんを振り返っても、性格が変わらないことはなかっただろうし、ときに劇的な変化を起こすこともないわけではない。わたしたちの傾向的なあり方が状況、情動によってさまざまに変化しうるのだとしたら、一定の傾向性はあるのだろうか。性格をどのように判断できるのか。よい性格とわるい性格とは? なぜ特定の性格を好み、他を好まないのか?
・第二に、虚構的なキャラクタとは何か。それは、どのような存在なのか、そして、わたしたちはそれらとどのように関わるのか。まず、キャラクタは、水やコップと同じようには存在していない。それらは具体的な場所をふつうもたない。たとえフィギュアがあったとしても、そのフィギュアを「キャラクタそのものだ」と言うひとはそれほど多くはないだろう(もちろん、そう言うことは可能だし、完全に不合理ではない)。こうした「キャラクタの存在論」は分析哲学において問われ続け、今なおその議論は続いている。そして、キャラクタとわたしたちはどう違うのだろうか? キャラクタはわたしたちとどのような関係を結びうるのだろうか。
・第三に、第一の論点と関係して、もし性格があやふやなものだとしたら、キャラクタを用いる物語とは、はっきりとは存在しないものを用いているために、世界のあり方を正しく表してはいない、という問題をもつかもしれない。その著しい場合であれば、ハリウッド映画やポピュラー文化において、戯画化された性格をもった「黒人」「女性」「同性愛者」が描かれ、人種・ジェンダーセクシャリティに関する差別的なステレオタイプを再生産する装置として物語が機能する可能性もあるし、こうしたキャラクタたちの一面的で偏見に満ちた描かれ方は批判の対象となる。わたしたちは、キャラクタの性格をどうやって描くべきだろうか。そして、ほんとうに「リアルな」性格とは何なのだろうか? キャラクタの認知的、美的、倫理的価値が問われうる。関連して、キャラクタへの共感や同情とはどのようなもので、どのようにしてなされるのかが問われうる。この点については次の項目も参照のこと。

【読書案内】
・第二のキャラクタの存在論については、次の倉田の著作が参考になる。
・倉田剛、2019年『日常世界の哲学––––存在論からのアプローチ』光文社。

・第6章「キャラクターの存在と同一性」が二次創作も含めどこまでがキャラクタなのかを論じている。関連して、同じ著者の次の著作にあるさまざまな存在論との関わりの内での議論は、より学びたいときには勧められる:

・倉田剛、2017年『現代存在論講義』I・II巻。とくに第I巻の第二講義第三節「非クワイン的なメタ存在論」、第II巻の第四講義「虚構的対象」。

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・草野原々、2019年『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房。キャラクタの哲学の三つの論点を重ねつつ「キャラクタとは何か」という問いをめぐって展開する小説。わたしは解説「キャラクタの前で」を掲載している。難波優輝、2019年「キャラクタの前で」

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

大絶滅恐竜タイムウォーズ (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:草野 原々
  • 発売日: 2019/12/19
  • メディア: 文庫
 

・キャラクタ以外に焦点を当てた批評はこちらに掲載している。

・難波優輝、2020年「草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズと絶滅の意志』」Lichtung Criticism,

・また、アニメーションにおいて、キャラクタの居場所、その表現の可能性を問うている大内りえ子作品についての批評を書いている
・難波優輝、2019年「向こうのないわたし(たち)––––大内りえ子の思索するアニメーション」tampen.jp.
・加えて、キャラクタとアイドルや配信者の「キャラクタ」との微妙な重なりを用いた文化に「バーチャルYouTuber」文化がある。
・難波優輝、2018年「バーチャルYouTuberの三つの身体––––パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』特集=バーチャルYouTuber青土社

・難波優輝、2018年「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism.

15. 情動的エンゲージメント

・キャラクタは、わたしたちの心を奪い、尊敬や思慕を集め、ときに熱狂的に「キャラクタに恋をする」こともできる。これらはおかしなことではない。だが、なぜキャラクタに恋できるのか、深い情動的つながりを感じうるのか。

・キャラクタがわたしたちとつくる情動的なつながり=情動的エンゲージメントをうまくデザインする方法はあるのか。あるとすれば、それはジャンルごとに同じなのか、違うのか。具体的にどのようにすれば、キャラクタへの共感や同情をうまく惹き起こせるのか。

・なぜ現実では到底共感できないような殺人鬼や悪党にさえ、わたしたちは深い共感や同情を行いうるのか。

【読書案内】
・難波優輝、2019年「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学––––配信のシステムとデザイン」『ヱクリヲ vo. 10』44-64. ヱクリヲ編集部.

バーチャルYouTuberというキャラクタ文化とアイドル文化の重なった文化は視聴者からの情動的エンゲージメント高め、深化させることで、人気を、そして投げ銭などで収益を得る。そうした情動的エンゲージメントがどのようにデザインされているかを配信の構造やバーチャルYouTuberの構造から分析している。

・難波優輝、2020年「ゲームプレイ / ヤの美学––––プレイ、プレイヤ、ペルソナ」Replaying Japan Vol.2. 

近日ウェブで公開。ゲーム実況における、プレイヤ、そしてプレイヤが操るキャラクタとの情動的な関わりについて議論している。

・ふたたび、草野原々、2019年『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房

16. フィクションのパラドクス

・なぜ存在しないものに様々な情動を抱くことができるのだろうか。それは不合理ではないか。たとえば、わたしたちが友人から心が痛むような話をされた後「実は嘘だったんだ」と言われたなら、これまでの情動は一挙に消えてしまう。また、ほんとうにフィクションに恐怖を抱いていたら、映画館から逃げ出すのが合理的だが、そんなことはしない。わたしたちは存在しないと分かっているものに涙を流し、恐怖できる。だが、それはいかにしてか?

・より明確な形でフィクションのパラドクスの一定式化が行える。すなわち、

  1. フィクションだと分かっている虚構のキャラクタや状況に情動を抱く。
  2. 対象に対する情動は、論理的には、その対象の存在とその対象の特徴に対する信念を前提とする。
  3. 虚構であるとわかっているものの存在や特徴についての信念はもたない。

これらはそれぞれは正しそうだが、三つともは成り立たない。たとえば、(2)情動は信念を前提とする、(3)虚構に信念をもたない、は(1)虚構に情動を抱く、と相容れない。どれを否定したものか、という議論がある。

【読書案内】

戸田山和久、2016年『恐怖の哲学』筑摩書房

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

 

森功次、2010年「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」『美学藝術学研究』(29), 43-83.

松本大輝、2015年「フィクション鑑賞における情動のパラドクス––––シミュレーション説による解決の検討––––」『哲学の探究』42, 61-80. http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/42/42_04_matsumoto.pdf

17. ネガティブな情動のパラドクス

・‪経験するのが苦痛であるような情動を喚起する作品を鑑賞して、なぜわたしたちは快を得るのか?‬‪ 例えば、米澤穂信のミステリ短編集『儚い羊たちの祝宴』において、それぞれの謎の解決は、苦く、ときにグロテスクな光景とともに終わる。その描写、結末はまちがいなくネガティブな情動と結びついている。だが、わたしは結末にたどり着くたび、おののきながらそれでしか味わえないような独特な快を感じる。なぜいやなものを介して快が得られるのだろうか。

・同様に、悲劇のパラドクス:悲劇は苦痛を喚起するのに、なぜ独特の快さをもたらすのか、あるいは、ホラーのパラドクス:なぜ恐怖を楽しめるのか、といったいくつかのパラドクスとも関わる。総称して「ネガティブな情動のパラドクス」と呼べる問題がある。

・SCPと呼ばれる、ひとびとによって作られる、ホラー・怪奇的物語の集積は、おぞましさや奇妙な不安を覚えさせ、物語を十分に理解できないままに放り出される。これらは、ネガティブな情動を惹き起こすにもかかわらず、なぜそれゆえにおもしろいのだろうか。

【読書案内】
米澤穂信、2011年『儚い羊たちの祝宴』新潮社。

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2011/06/26
  • メディア: 文庫
 

・SCP財団 http://scp-jp.wikidot.com/.

・ふたたび、戸田山和久、2016年『恐怖の哲学』筑摩書房

以下の二つのサーベイ論文がひじょうに有用。

・Smuts, A. (2009). Art and negative affect. Philosophy Compass, 4(1), 39-55. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2008.00199.x?casa_token=XJ97w-887iEAAAAA%3A3ZMYGETam6dFZTG2qihdbCNKBuTcRpdRbfT4KrYvZ87kWABNrv1W5FBM3RUSRpMSJMAQTE-WzjdudD049A

・Strohl, M. (2019). Art and painful emotion. Philosophy Compass, 14(1), e12558. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/phc3.12558

18. 神経美学

・文学を文学たらしめている特徴とは何だろうか。そして、それは、わたしたちの脳の活動のあり方から特徴づけられるのだろうか。

神経美学とは、特に脳の活動を計測することで、定性的で測り難いような問題(美や美的経験のあり方)を、定量的に扱うことを目指す神経科学の一つのジャンルである。

・特に文学の神経美学は、わたしたちが文学作品のテキストを読んでいるとき、どのような理解の処理を行っているのか、それを分析し、あるいは、文学作品の制作において、どのような表現の戦略を制作者が選択しているのかを研究する。

・人文系のひとつの代表例と言えるだろう芸術の哲学や美学においても、自然科学的アプローチを無視することはできないし、もったいない。神経美学をはじめとする自然科学的研究とともに美学や文学の哲学はさらに興味深い問題に取り組めるだろうし、決着のつかない問題にある程度の指針が与えられるかもしれない。

【読書案内】

石津智大、2019年『神経美学––––美と芸術の脳科学共立出版

神経美学の入門として読みやすい本。美学のアプローチはひとつきりではないことを示すとともに、哲学的なアプローチへの反省を迫りもする魅力的な一冊。

意味と解釈

19. 物語

・物語とは何か。それは出来事のたんなるリストや事実だけを列挙した年代記とは異なるようだ。では、これらと区別されるような物語とは何だろうか。

・ときに歴史は物語になぞらえて語られる。過去の蓄積そのものではなく、歴史という言語表現について考えてみよう。歴史の語りはたんなる事実の年代順の羅列ではなく、何らかのつながりをもち、特定のテーマをもつような言語的な表現である。小説を代表とする物語もまた、歴史とよく似た構造をもつ。それでは、物語は歴史とは異なるのだろうか。歴史は物語でもあるが、歴史ならではの特徴をもつのだろうか。

・物語はいつ終わるのだろうか。完結した作品に次々に続編や外伝が描かれることをよく思わない読者もいる。そうした続編は物語の続きなのだろうか。それとも別の物語のはじまりなのだろうか。物語はいつ終わるのだろうか。同様に人生における物語の終わりは死かもしれないが、物語は終わり続けているのかもしれない。あらためて、物語とはなんだろうか。それはどんなはじまりと終わりをもつのだろうか。

庵野秀明監督によるエヴァンゲリオンシリーズには、TV版や劇場版における様々な結末や物語的内容の異なる作品がある。これらは同じひとつの物語なのだろうか。それとも異なるのか。また、しばしばキャラクタの同一性を破壊すると言われるほど性格の異なるキャラクタが登場するゲーム版もある。これらは、同じ物語に属するのだろうか。同じ物語の異なる結末なのだろうか。

・人生は物語に例えられる。だが、人生は物語のように何らかの語り手はいないし、選択された区切りのいい結末はない。また、わたしたちは物語の中のキャラクタたちのように、確固たる性格をもっていないかもしれないし、明確な目的をもっていないかもしれない。それでも、人生を物語に例えることに何らかの真理や意義はあるのだろうか。対して、人生を物語として捉えてしまうと、過去の出来事や選択やじしんのあり方に過度に囚われかねない。物語を介して人生を理解することは、ほんとうによいことなのだろうか、そして、それはわたしたちのあり方をうまく捉えられているのだろうか。

  • 物語の特徴やその構造を問うことは、わたしたちの物語概念へと迫ろうとする試みだ。それは文学における具体的な物語の議論を少し離れて、様々に用いられる「物語」ということばを手がかりに、そして、その使用のあり方を手がかりに、物語を考える試みだ。その哲学的価値は明らかだが、実際の鑑賞や制作、さらにはわたしたちの自己理解や人生のイメージにも物語の概念が関わることを考えれば、物語の哲学をめぐる考察がわたしたちの人生全体にもたらす影響も見逃すことはできないだろう。

【読書案内】

・高田敦史、2017年「ストーリーはどのような存在者か」『科学基礎論研究』44(1-2), 35-53.

ストーリーの存在論を論じる中で、よりクリアな物語とストーリーの捉え方を提案する。同時に、ある作品の映像化や別のメディアへの翻訳もうまく捉えられるような概念を作りだす。

20. 物語的理解

・物語的理解(narrative understanding)と呼ばれる他者の行為の理由の理解のひとつのモードがある。これは、科学的理解とは異なり、単に因果関係からのみではなく、特定の人物がどのような欲求や信念、動機や目的を伴って行為したのかを説明する。たとえば、じぶんにとって大切なひとが自裁をしたとき、わたしたちは、そのひとが何らかの脳機能や神経系の不調、脳内物質のバランスについての説明のみからそのひとの行為を理解することはないだろう。わたしたちは、そのひとがなぜその行為をしたのか、その理由を、そのひとの手記、置かれた状況、これまでの人生、選択、人間関係、そのひとが大事にしていたものなどから理解しようとするだろう。そのとき、わたしたちは物語的理解のモードにおいて、他者の行為の理由を理解しようとしている。

・それでは物語的理解とはそもそもどのような理解のモードなのか。それは、物語とはそもそも何か、そして、どのような理解のモードなのかを認知科学心の哲学から考察するといった哲学的・科学的の両方の研究領域にまたがった研究を必要とする。

・物語的理解は、しかし、正しい理解なのだろうか。しばしば、わたしたちは、どこかで聞いた物語に他者の行為の理由を当てはめることで、他者を理解した気になれる。物語的理解は当然間違うこともありえる。だとすれば、科学的理解のように、その間違いを分析し訂正可能な理解のモードではなさそうな物語的理解のモードは、ほんとうに他者の理解のしかたとして適切なのだろうか。さらに、物語的理解によって自己を理解することも行われているが、それはほんとうに適切な自己理解のモードなのだろうか。

  • 文学における実践のみならず、わたしたちが生きている日常のなかで用いるかにみえる物語的を考えることは、わたしたちの他者のイメージ、そして、自己をいったいどのようなものとして理解しているのかを再考することにつながる。わたしたちは、物語的な理解を他者にしてよいのか、それは、他者の無理解でしかないのか。わたしたちは物語を生きているのか、あるいはそれは物語的な世界観の不当な適用なのか。倫理学とも関わり、わたしたちの実存を分析する手がかりとなるトピック。

【読書案内】

・Hutto, D. D. (2015). Narrative understanding. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature (pp. 291-301). Routledge.

・よくまとまったチャプター。

21. 解釈

・「物語の解釈は読み手ごとにある」ということばは、いっけん正しいように思える。読み手はそれぞれに異なる態度で物語に関わり、それぞれの物語を読み取るだろう。だが「物語の適切な解釈は存在しない」とすれば、これは議論の的になる。いったい、解釈に正しさはあるのだろうか。そして、その解釈の正しさは何によって決定されうるのだろうか。

・「作者の意図」は哲学のなかで様々に批判されてきた。だが、日常のコミュニケーションにおいてわたしたちは他者の意図を重視する。ならば、なぜ芸術という人間の表現においてそれが重視されないということがあるのか。もし、作者の意図が重視されないとすれば、それはなぜなのだろうか。

・解釈とはそもそも何なのだろうか。わたしたちは「解釈」ということばをかなりひろい意味で用いている。一方で、特定のことばや表現の意味を明らかにすることを解釈と呼んだり、他方で、物語全体の構成のねらいやテーマの意味の理解のことをも解釈と呼ぶ。これらの様々な解釈の意味は何かひとつの根本的な意味に還元できるのだろうか。それとも、これらはまったくべつの行為なのか。解釈に唯一の目的はあるのだろうか。それとも、解釈という営みは思われている以上に多様な種類があるのだろうか。

  • 文学理論、哲学において宣告され続けているものの、しかし、作者の意図、解釈の適切さをめぐる問いはまったく死んではいない。少なくとも、文学の哲学、分析美学において、解釈とはどのようなものか、のみならず、正しい解釈はありうるのか、そして、作者の意図を作品の解釈にどれほど影響させ、作者の意図をどのように理解すべきなのかをめぐってこれまでも、そしてこれからも様々な問いが問われてきたし、問われ続けている。

【読書案内】

・Irvin, Sherri, 2006, “Authors, Intentions, and Literary Meaning,” Philosophy Compass, 1 (2), 114-128.

・松永伸司、2013年「作者の意図と作品の解釈」9bit. Game Studies & Aesthetics,

22. 批評

・批評とは何か。それはまず、たんなる非難とは異なる。批評はネガティブな指摘や評価を行うことがあるにせよ、それに尽くされず、なぜある作品がよいのか、あるいはどのような解釈ができるのかといった様々な営みを含みうる。それでは、批評とは何かひとつの本質的要素から成る営みなのか、それとも、様々な種類の批評的な行為によってゆるく結びついているような営みなのだろうか。

・批評のひとつの代表的な特徴は、それがネガティブ・ポジティブな作品の価値づけ・評価である点にある。このときの評価とは、しかし、個人の好みの表明とはどう違うのか。批評は、たんに批評家の好みを修辞的にうまいこといったものに過ぎないのか、それとも、それが適切な評価である限り、何らかの説得的な理由や、推論、論証や目的がありうるのだろうか。

・ノエル・キャロルは批評とは「理由に基づいた価値づけ」であるとして、様々な作品の達成を価値づける営みであり、一定の適切さや正当化が可能なものだとした。さらに、こうした営みこそが正当に批評と呼ばれるべきものである、とまで主張する。キャロルの主張は正しいのだろうか。それとも、何か重要な批評の営みを見落としているのだろうか?

  • 批評について考えることは、たんに批評家にとって重要であるのみならず、批評される側であったとしても、批評にはどんな意味があるのか、それを次の作品に活かせるのかといった問いと関わるだろうし、読む側にとっても、なぜこの批評がよいのか、そしてよくないのかをあらためて考えるための出発点となる。批評の哲学は美学の源流のひとつであり、これからさらなる議論の予感がするジャンルである。わたしじしん、批評についてはまずひとつの論考を書いたが、これからも批評を行い、読むことを好む人間として、哲学的考察を加えていきたい。

【読書案内】

・Carroll, N. 2009. On criticism. Routledge.(『批評について––––芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年)

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

現代美学における批評の哲学のもっとも重要な著作のひとつ。その議論は、美学の理想的な議論のあり方の典型例をみせてくれる。主張はひじょうに論争的で、読み手は、キャロルの議論に納得しつつ、彼の議論に立ち向かい批判することで、いっそうこの著作を味わえるだろう。

・難波優輝、2019年「批評の新しい地図––––目的、理由、推論」『フィルカル』4 (3), 260-301. ミュー.

現代美学における批評の哲学の全体像を描き出すことを試み、様々な批評と呼ばれる営みを包括的に扱いうる「新しい批評の地図」をつくりだすことを目指す。批評の哲学の出発点のひとつとして役立てていただければうれしい。

23. 詩的想像力

・詩的想像力(poetic imagination)とは、わたしたちの側での詩を鑑賞する際の態度を意味する。たとえば、wikipediaから五・七・五・七・七の文字列を見つけて、それをあたかも短歌であるかのように鑑賞するときにも詩的想像力は行使されている。

・詩的想像力とは、しかし、どのような態度なのか。この態度は詩を鑑賞する際に重要な能力なのだろうか。

・何かが「詩的」であるとは、見て取れるような形式的な特徴(体言止め、特定の用語の使用)からそう言われるのか、それは特定可能なのだろうか。

  • 詩とは何か、をめぐっては、その形式的な定義や歴史的な分析がなされうる。だが、べつのアプローチも可能で、それが、詩的想像力から考える道である。たとえば、詩的想像力を誘うような「詩的」な詩を考えることで、そもそも詩とはどのような表現形式なのかがわかるかもしれない。詩的なものとのわたしたちの関わり方を分析することで、詩的なものの特徴づけを目指そうとするアプローチは、ある意味でクラシックな美学的アプローチであり、しかし、まだまだ発展の可能性を秘めた魅力的な対象への近づき方でもある。

【読書案内】

岩倉文也、2018年『傾いた空の下』青土社

傾いた夜空の下で

傾いた夜空の下で

  • 作者:岩倉文也
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

・詩とはどのように読まれるのか。岩倉文也はツイッターにおいて、様々なツイートをしている。それを読むとき、わたしたちは、詩を読むモードになっているように思える。だとすれば、詩的想像力はツイッターにおいても発揮されうるのだろうか。詩的想像力の限界や意義とはなんだろうか。

24. メタファー

・メタファーとは何だろうか。一般的にあるものを別のもので喩えることがメタファーと呼ばれる。だが「喩える」とはどのような行為なのだろうか。「ジュリエットは太陽だ!」とロミオが叫ぶとき、彼はいったい何を行なっているのだろうか? ジュリエットはもちろん人間であり、人間は太陽ではない。だが、わたしたちは、メタファーを多くの場合適切に理解できる。ロミオにとってジュリエットは太陽のように明るく、暖かく、それなしでは暗闇に落ちるような存在なのだと、こうした解説を抜きに理解できる。

・メタファーのなかで、より困難なメタファーがある。「土星のようにあなたは眠る」と言われたとき、いったい、あなたの眠りは土星とどのような関係にあるのだろうか? わたしたちはどのようにメタファーを理解しているのか。

・メタファーは、詩的な表現に頻出するが、それは何を目的としているのだろうか。また、メタファーが不用意に使われるとき「ポエム」の謗りを受ける。メタファーはつねに使ってよいものではないのか。そして、よいメタファーとわるいメタファーがあるのだろうか。

  • メタファーじたいは狭義の文学作品のみならずあらゆる文章や表現に見出しうる。だが、文学作品が言語的なメタファーの使用によって「文学作品らしく」なっていることは疑いえないだろう。文学とメタファーには深い結びつきがあり、偶然的ではなく、文学のイメージはメタファーに彩られている。メタファーについての哲学は、文学の哲学のみならず、わたしたちの認知的機能の側面からも分析されており、さらなる発展可能性と議論の必要性が見られるトピックである。

【読書案内】

・グラント「隠喩と批評」

メタファーに関するミニマルモデルを提示している。決定版ではないが、メタファーをよりよく理解し使うために、発展性が見出せる理論だろう。一読を勧める。

形而上学、認識論、倫理

25. 文学作品の存在論

・文学作品はどこにあるのだろうか。この質問はおかしな質問に思える。本棚に向かってあなたは好きな小説をとってわたしに見せてくれるだろう。「これが文学作品です」。だが、わたしが「文学作品を印刷したものであり、文学作品そのものではないのではないでしょうか」と答えたとしたら、あなたはどんな顔をするだろうか。確かに、と納得するか、おかしなことを言っていると顔をしかめるか。だが、たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』をあなたが間違って2冊買ったとき、あなたは2冊の『涼宮ハルヒの憂鬱』が印刷された本を持っているが『涼宮ハルヒの憂鬱』という文学作品をひとつしかもっていないはずだ。どれが『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品なのだろうか? この作品はいったいどこにあるのだろうか。

・文学作品の存在論はひとつなのだろうか。それとも、小説、詩、戯曲などにより異なる存在論を組み立てる必要があるのだろうか。

存在論をどのように組み立てるか、それを議論する「メタ存在論」という領域がある。そもそも文学作品の存在論を組み立てる目的とは何か。それはわたしたちの実践を記述するためのものなのだろうか、それとも、より一般的な形而上学に文学作品の存在論を描き込むための作業なのか、それとも「真の」存在論を組み立て、わたしたちの実践に指針を与えるプロジェクトなのだろうか。文学作品の存在論は、芸術作品の存在論と同様、水や自然現象といった対象ではなく、人間が構成あるいは発見する人工物であるために、わたしたちの文化的実践との距離をつねに考える必要がある。

  • 存在論はいっけんわたしたちの実践からは遠く、また、直接作品の批評や価値づけには関わらないかのようにみえる。それゆえその「形而上学」の名称の一般的な使用のひとつのように、机上の議論とみなされがちだ。確かに、存在論は、他の美学における議論と比較しても抽象度と一般性が高くとっつきづらい(とわたしは感じる)し、初学者に勧めにくいと思うときもある。だが、たとえば、コンセプチュアル・アートといった作品と文学作品の交差領域を考えるとき、いったいどこまでが作品なのか、どのような部分が鑑賞されているのか、といった具体的な議論をする際には、存在論的なアプローチが有益である場合もある。存在論は思わぬ場面で役立つために、関心のあるひとの興味深い研究をいつか見たい。

【読書案内】

・倉田剛、2017年『現代存在論講義』

・Thomasson, A. L. (2006). Debates about the ontology of art: what are we doing here?. Philosophy Compass, 1(3), 245-255. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1747-9991.2006.00021.x?casa_token=8Xd1fkfQHEcAAAAA%3ASDfJsQ7fW_aPFMsmBPTMVsbvgBcH-xhhTwS9sI5_CoMM71U_ThnlFi6KszjpkpZrb48z0QxBJDihbNElPQ

・エイミー・トマソンサーベイ存在論は哲学の中でとくにその方法論が議論されているトピックのひとつ。芸術の存在論全体の議論を行なっているが、文学作品の存在論とも関わるトピックである。

26. フィクション

・フィクションはノンフィクションとどのように区別できるのか。嘘とどう違うのか。

・フィクションが何であるのかは、デイヴィッド・ルイスの可能世界論、ジョン・サールらの言語行為論的アプローチ、ケンダル・ウォルトンのメイクビリーブ説、グライス的なコミュニケーションの理論アプローチなどが提案されてきた。さらには、2000年、10年代においても、フィクションはスーパー・ジャンルであるとするステイシー・フレンドの説をはじめ、議論はなお続いている。

  • 現代美学、文学の哲学におけるフィクション論は、フィクションとそうでないものの区別のみならず、フィクションがわたしたちの認識や道徳とどのように関わるかといった議論も行っている。フィクションとフィクションでないものの区別に限定しても、そこにはフェイクニュースの本性や、嘘の本性をめぐってまだまだ考えるべきこと、哲学的・実践的に価値ある問いが眠っている。

【読書案内】

清塚邦彦、2017年、『フィクションの哲学』勁草書房

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

 

何がフィクションで何がそうでないのか、これまでの議論を紹介した上で、清塚じしんの説を提示する。日本語で読めるフィクションの哲学として。

27. 虚構的真理とフィクションを介した真理

・文学についてではなくキャラクタの画像を例に挙げてみたい。たとえば蒼樹うめによる日本の4コマ漫画『ひだまりスケッチ』(芳文社)の画風はひじょうにおおきな目のキャラクタに代表される。では、この目の大きさは虚構的真理なのか、つまり『ひだまりスケッチ』の虚構世界では、この目の大きさをした存在が生きていて、この目の大きさに対応した眼科や生物学があるのだろうか。この問いは一見ばかばかしいが、何が虚構的真理か、何がそうでないのかは哲学的に非常に興味深いことが共有できるだろう。

・さらにしばしば「日本のアニメーションやポピュラー文化のキャラクタの絵は『白人』を描いている」という議論もこの虚構的真理の議論に関わるだろう。

・フィクションの物語はたんなる嘘ではない。そう言える理由のひとつに、フィクションにおいて正しいことと正しくないことがあるからだ。たとえば、シャーロックホームズが人間であることはフィクションにおいて真だが、モンスターであることはフィクションにおいて真ではないだろう。だが、フィクションにおいて真、言い換えれば、虚構的真理はどうやって決められるのだろうか。たとえば、信頼できない語り手が妄想を語っている、という体裁の物語を読むとき、わたしたちはどこかのタイミングでこれまでの語りが虚構的真理ではない、ということを理解できる。だが、それはいかにしてだろうか。

・シャーロックホームズ虚構において何が真か。

  • 虚構的真理をめぐる議論は、かなり「哲学的」で、興味のあるなしはおおきくわかれるかもしれない。だが、メタフィクションといったフィクションそのもののあり方を考察する作品の鑑賞、批評、制作にあたって、直接ではないにせよ、なんらかのヒントにはなりそうだ。

【読書案内】

・高田敦史、2017年、「図像的フィクショナルキャラクターの問題」Contemporary and Applied Philosophy Vol. 6 https://repository.kulib.kyoto-ac.jp/dspace/handle/2433/226263

冒頭の『ひだまりスケッチ』ケースなどを取り上げながら、画像のフィクションにおける虚構的真理とそうではないはずの情報とのずれと重なりあいを議論している。虚構的真理一般の哲学的おもしろさを体感するのにうってつけの論文。

・高田の議論を受け、いくつかの議論が展開している。この議論の流れを追うと、分析美学の議論好きな雰囲気のひとつを感じ取れるかもしれない。

・高田敦史、2017年「フィクションの中の哲学」『フィルカル』2 (1), 92-131.

・フィクションにおいて哲学することは可能なのか。だとしたらそれはいかにしてか。高田は『ウルトラQ』のエピソード「バルンガ」を題材に、物語がテーマとさまざまな物語ならではの特徴を介してある種の哲学を行っていることを論ずる。文学作品の例ではないが、テーマをどのように考えるか、そのヒントの一つになるだろう。

28. 文学的認知主義

・文学作品は、それが名作と言われるものであれば、しばしば「人間の真実」「人生のなんたるか」を教えてくれると言う。だが、物語は虚構であり、哲学的議論や学術的研究がもつような適切なエビデンスや議論が盛り込まれているわけではない。だとすれば、文学はいったい何を教えてくれるのだろうか。

・文学作品を読むことで、何らかの知識が獲得されうるとする立場は「文学的認知主義」と呼ばれる。だが、文学作品は、どんな知識をどのようにして伝達しうるのか。

・とくに文学作品はわたしたちの人生に関わる道徳的な知識を教えてくれると言われることがある。だが、道徳的知識とは伝達できるような普遍性を持っているのだろうか。それは、そもそも知識なのか。メタ倫理学における道徳的知識の存在と不在をめぐる議論と関係して、そもそも道徳的な知識や真理をどのように捉えるかとも文学的認知主義をめぐる議論は関係する。

・文学作品は逆に、間違った情報や誤った考え方を伝達しうるのではないか。たとえば、人生を物語になぞらえる語りはしばしばみられるが、それは人生の理解として適切なのか。あるいは、わたしたちはキャラクタを典型として、人間に性格をしばしば見出したり当てはめたりする。だが、それは人間の適切な理解なのだろうか。

  • 文学の擁護として、文学が何か大切なことを教えてくれるとする主張は、研究者であろうとなかろうと、文学を好んでいるひとの口からしばしば言われる。だが、それを擁護するためには一筋縄ではいかない反論に立ち向かい、説得的な議論と信頼できる証拠を集める必要がある。それはかなりたいへんな仕事だが、しかし、美学的なたいへんさに満ちたわくわくするような挑戦だ。日本でも、わたしを含め数人の美学者がこの問いに関心をもっており、新たな美学者の登場を心待ちにしている。

【読書案内】

難波優輝、2019年「物語は何を教えてくれるのか」瀬戸内哲学研究会、広島大学

・物語の認識的メリットが文学作品としての価値にいかに関わるのか、という問いを整理するためのマッピングを行なっている発表。まだ論文化にはアイデアが足りないので、発展させていきたい。

・佐藤岳詩、2018年『メタ倫理学入門』勁草書房

メタ倫理学入門

メタ倫理学入門

 

・美学や文学の哲学ではないが、文学の認知的、あるいは道徳的価値に関わる議論として、そもそも道徳的な事実や知識はありえるのか、だとすればどのようなものなのか、といった議論を含むメタ倫理学の入門書としてこちらが勧められる。

29. 想像力

・想像力はどのような能力なのか。それは現実ではまだ実現しないことを思い描いたり、何かをシミュレーションする能力として特徴づけられることがある。これらの特徴づけは適切なのだろうか。

・物語を読んでいるとき、わたしたちはどのような想像をしているのだろうか。第一に、わたしたちは物語に書いてある通りに、たとえば「アキは毒ベビに咬まれた」という記述をみたとき、その通りの事態を想像する。だが、それだけではなく、想像においてアキが毒ヘビに咬まれたとき、わたしたちはその続きを容易に想像できる。つまり、アキをそのままにしていては毒が回って死んでしまうことをほぼ自動的に想像する。その意味で、想像の際にはわたしたちは現実の知識や推論を用いている。また、想像は現実の行為や信念とは隔離されている。いまアキについての状況を読んで、わたしたちは誰か現実のヒトが毒ヘビに咬まれたと、救急車を呼ぶわけではない。加えて、物語において、あるジャンルでは現実からはかけ離れたことも想像できる。コメディにおいては研究所が爆発してもチリチリに爆発した博士は生きているし、学園ものでは急激な恋心の成長も異様なものではなく自然なものとして想像される。こうした特徴から想像は、現実の信念や推論といった認知的な活動とは異なるどのような独特な性質の活動だと特徴づけられるだろうか。

・わたしたちは現実では道徳的に許されないような事態を想像したり、あまつさえ、現実には犯罪者であったり、到底許されないような行動をするダークなキャラクタに感情移入し、それをクールだと感じたりもする。想像においてわたしたちはいったいどのような倫理的な判断を行なっているのだろうか。想像と現実の信念とはまったく隔離されているのだろうか。同時に、わたしたちは底意地のわるいキャラクタを演じている演者のことを嫌いになることさえある。想像と信念の微妙な相互作用について、どのような哲学的考察が可能なのか。

  • 想像をめぐるトピックは、近年、心理学、心の哲学神経科学の知見も借りつつ、これまでの哲学的な実証なしの研究からおおいに様変わりし、科学的研究が哲学的研究に対して様々な魅力的な謎や挑戦を投げかけている。想像力という人間の(あるいはいくつかの人間を含む動物種の)能力はどのように分析できるのか、そして、とくに、フィクションにおいて想像力がどのように発揮され、どのような認知的活動を可能にしているのか、学際的で発展的な魅力にあふれるトピックである。

【読書案内】

・Stock, K. (2013). Imagining and fiction: some issues. Philosophy Compass, 8(10), 887-896. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/phc3.12068?casa_token=KPJ4Wkt_4zgAAAAA%3AcZhSwHIA_csbRgIc8Ezr7GbARyRKO1eHgTxbBIeFXxjPvdt6RLXSkQA0hQyVVh45ZhNn40FHWXGjsHa0WQ

・フィクションとの関係に注目した想像力に関するサーベイ

・Liao, Shen-yi and Gendler, Tamar, "Imagination", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2019 Edition), Edward N. Zalta (ed.),

https://stanford.library.sydney.edu.au/entries/imagination/

・より包括的なサーベイ

30. 想像的抵抗

・想像的抵抗(imaginative resistence)とは、他の物語やフィクションを鑑賞している際には、それなりにうまく想像的活動できるひとが、特定の物語やフィクションの場面において促された想像的活動(主に道徳的価値や美的価値などの価値評価を含んだ想像)をうまく行えないときに起こる。

・たとえば「嬰児殺しは善だ」ということが成り立ってしまっている物語の中の状況があったとして「嬰児殺しは善だ」と発言しているキャラクタがいること、どうやらこの物語の世界ではそういうルールが成立していることは想像できるが「嬰児殺しは善だ」という価値評価を含んだ想像を活き活きと行うことが難しい、というとき、想像的抵抗が起こっている。

  • 想像的抵抗を考えることは、フィクション鑑賞の際でも、わたしたちはどのようなことをもヴィヴィッドに想像できるのではなく、なんらかの現実的な信念や道徳的なものを含んだ価値評価を持ち込んでいる、あるいは、その信念や価値評価を考慮に入れていることが示唆される。さらに、想像的抵抗は、わたしたちの認知のアーキテクチャがどのような構造をしているのかを探る手がかりになったり、道徳的判断がどの程度わたしたちに埋め込まれているのかをめぐるメタ倫理的な議論とのかかわり、何より、フィクション作品の道徳的な側面とわたしたちがどのような関係にあるのかを再考する手立てとなりうる。認知科学心の哲学と連動しながらさらなる謎が提示されているトピック。

【読書案内】

・Tuna, Emine Hande, "Imaginative Resistance", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/imaginative-resistance/

スタンフォード哲学大百科にある想像的抵抗の記事。抵抗の理解についての「可能説」「欲求説」「消去説」の区別など整理に役立つだろう。

31. 心の理論

・心の理論(theory of mind)とは、他者の心を何らかの枠組みを用いて推測し、理解する能力である。たとえば、ポーカーゲームのプロが意識的に他者を騙すことができるのは、他者がどのような心理的な動きをみせるかを理解した上で、その動きの裏をかくような行為を選択できるからであり、その際には心の理論と呼ばれるような、何らかの認知的な能力が必要になると考えられている。

・文学作品を読む動機や価値は心の理論から説明できるだろうか。進化論的なアプローチから、はるか昔から物語を語ることによって、わたしたちホモ・サピエンスは他人の心をよりうまく読めるようになり、より適応的になったからは、という仮説が提示されている。ゆえに、物語を求めるのは、それが適応度を高めるためであり、合理的だ、というわけだ。しかし、物語を読むことで適応度が上がる、というのはどれくらいありそうなことなのだろうか、また、それほど劇的な変化は起こりうるのだろうか。また、文学作品を読む動機は、適応度とは関わりなく、むしろ、他人の心を推測する能力の副産物として、推測それじたいの楽しみのために物語があるのではないか、という仮説の候補もある。進化論的なアプローチから、わたしたちが物語を読む意義を説明できるだろうか。

・文学作品を読むことで、他人の心をよりよく理解できるようになるのだろうか。こちらは、進化論的というよりは、実際にいま、わたしたちが文学作品を使って、心を読むスキルを上げられるかどうかを問うている。近年、心理学的実験を含め、経験的な研究が行われており、この問いに肯定的に答えるものもみられる。だが、哲学者からは、そうした実験の多くは、不十分な議論と実験結果の解釈に基づいており、文学作品が心の理論の発展に寄与するというつよい主張を支持するにはいたっていないと批判されている。

  • わたしたちは他人の心を読むことで生活を営み、さらには、物語やフィクション作品においてまでも、他人の心に関心をもち、それが解釈され、操作され、変動する様をたのしんでいる。文学作品のすべてではないにせよ、多くの作品に共通する、主人公やキャラクタたちの心理の動きと読み合い、駆け引きにわたしたちはなぜこれほど惹かれるのだろうか。直観のみならず、進化論や認知と心の科学、さらには人間の発達科学とともに問われるべき興味深い謎であり続けている。

【読書案内】

・Currie, G. (2015). Literature and Theory of Mind. In The Routledge Companion to Philosophy of Literature (pp. 419-429 Routledge.

・心の理論と文学、フィクションの関わりを説明するチャプター。

32. 道徳性

・文学作品は道徳的に批判された事例は数多くある。たとえば「わいせつ」であるか否かをめぐるD・H・ロレンスチャタレイ夫人の恋人』の日本語訳をめぐる「チャタレー事件」は、文学作品による表現の自由が、その道徳性をめぐって公共の福祉によって制限できるかどうかをめぐる法的な議論であったと解するなら、文学作品の道徳性は、シリアスな議論になりうることが示唆される。だが、文学作品の道徳性とはいかなるものなのだろうか。同じひとつの作品がもたらす解釈や影響は前もって判定などできないはずなら、文学作品がそもそも定まった道徳的なメッセージや価値を持つと考えることはできるのか。

・文学作品の価値にその作品の道徳的価値は関与するのだろうか。道徳的ではないとされる作品はそれゆえに作品の美的な / 芸術的な価値を下げてしまうのだろうか。逆に、道徳的に問題があるがゆえに、既存の価値観を踏み越える挑戦を行うような作品もありうるのではないだろうか。その際には、道徳的なネガティブな価値ゆえに美的価値かつまたは芸術的価値を高める事態すらあり得るのではないか。

  • 文学作品の道徳性について考えることは、旧態依然とした文学観のたんなる繰り返しにはならないだろう。わたしたちは、やはり文学作品に何らかの道徳的なヒントや観点を見出し、それを高く評価したり、批判したりする。そうであれば、文学の哲学は、重要な問いとして、文学の道徳性とは何か、それはどのような価値を持つのかを問う必要があるだろうし、そこにはおおきな価値と魅力が潜んでいる。

【読書案内】

難波優輝、2019年「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」2019年度哲学若手研究者フォーラム、<https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/293105/ec83452b99a0bd2d1c797d40d5240ae4?frame_id=603867>.

・文学作品ではないが、ある表現が倫理的に問題があるとはそもそもどのような指摘なのかについてわたしは修士研究で取り組んでおり、表現の倫理的問題がもっともはっきりと議論の的になる「ポルノグラフィ」表現について扱っている。リンクの発表論考は「わるさフロー」を提示し表現の「わるさ」がひとつきりではなく、様々な対象と理由から指摘される倫理的問題であることを指摘、整理している。

難波優輝、2018年「芸術と倫理、倫理的批評」Lichtung.

・倫理的批評についてのサーベイ論文のまとめ。ある作品の芸術的価値と倫理的価値をめぐる議論の概観として参考になるだろう。

おわりに

文学の哲学は、様々な現代美学のトピックが交錯し、のみならず、倫理学形而上学心の哲学、知覚の哲学といった他の哲学ジャンルと関わり、心理学や認知科学、進化論とも連続する多彩なアプローチと問いにあふれた魅力的なジャンルである。

小説、詩、戯曲など様々な文学の表現のおかげで、これまで様々な経験をしてきたという個人的な経験から、文学の価値や意義、その魅力や特異性をいっそう明らかにできるような研究をしていければと思う。それにはもちろん、文学の哲学を研究してくれる / 関心をもってくれるひとびとの存在が必要であり、すこしでもそうしたひとびとを惹きつけることができればと思う。

難波優輝(現代美学・批評)

引用例

難波優輝、2020年「文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか」Lichtung、<http://lichtung.hatenablog.com/entry/philosohy.literature>

*1:

*2:双子の記事は「音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか」。音楽の哲学についてはこちらもチェックしていただければ。