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難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)書評*機能についての不明点と研究態度へのコメント

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)は、「本書は、今日のVTuber文化の中で活躍するVTuberの典型的な特徴を抽出し、その特徴をある統一的な観点から体系的に解釈することを試みる著作であ」り(i)、その目論見に従って、全5章にわたりバーチャルYouTuberというアバターをまとった配信者文化についての研究を行うものだ。

本書評は、山野の議論の中核をなすVTuberの定義と、山野の研究態度についての批判を行う。

山野弘樹『VTuberの哲学』(2024、春秋社)

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「彼女/彼/彼らをVTuberとする!」と私たちは宣言しているのだろうか?

山野は、VTuberをこう定義している。

我々は、「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる(23)

ここで私はいきなり分からないのだが、「我々は「〜」という事態を、そう宣言することで成立させる」という「我々」はなんなのだろうか。ここでは、ジョン・サールによる制度的対象についての議論を参照しており、前項には、国王という制度的対象を創り出す地位機能宣言について説明している。

なるほど、国王、あるいは貨幣については、「我々」つまり、あなたや私を含めた人々がその地位機能宣言に渋々、あるいは熱狂的に関わっている、というのがサールの見立てである。

しかし、山野が言うように、私たちは、誰かをVTuberにしたりしなかったりしているのだろうか?

「我々」である私たちは、「「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させ」ているのだろうか? 

私たちはそもそもVTuberを地位機能としてはみていないように思われる。

なぜなら、私たちは、VTuberに対して、国王や貨幣のような制度的対象が持つ独特の「機能」、例えば、法を制定したり、物品交換のために使用できるパワーをほとんど認めていないように思われるからだ。

VTuberにはサール的な意味でのいかなる機能もないように思われる。VTuberはたんに表現者あるいは表現物であり、VTuberに政治家のような不逮捕特権を認めてもいないし、VTuberが貨幣を作ることもできない*1

いったい山野の言う機能とは何だろうか?

VTuberアイデンティティを保持しているだけで機能を果たしているのだろうか?

もちろん、山野は「機能」について解説してくれている。

「「VTuberとして活動する」(言い換えれば「一般に「VTuber」として受容されるような活動を行う」)」こと機能と呼んでいる箇所が注にある(注34, 52)。そして、「VTuberとして活動する」は「VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことだという(43)。

そうすると、VTuberの定義はこうなる。

我々は、「VTuberとしてデビューし、VTuberとして活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる」こと。

だが、VTuberの機能が「VTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことだ、というのはよく分からない。

例えば、国王の機能は国を統治したり戦争を終わらせることにあるのではなく、「国王としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」というのはピンとこない。

もちろん、「国王としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にある」ということは国王の「ごく普通の意味での機能」の一つではあるが、国王をはじめとして、教師や親や子どもといった他のあらゆる人間が素材となるタイプが持つごく普通の意味での機能であり、サール的な社会存在論の枠組みにおける機能というにはあまりにも社会的な力を持たない。

山野はこう反論するかもしれない。第一章では、アイデンティティの中身を身体的/倫理的/物語的アイデンティティとして特定することでVTuberの機能を具体化しようとしている。そうすることで、「アイデンティティを保持しながら活動状態にある」ことに独自性を与えているのだ、と。実際、山野は最終的に次の定義を提示している。

我々は、「身体的・倫理的・物語的なアイデンティティの結びつきによって生じるVTuberとしてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという条件を満たす任意の配信者が、VTuber文化において「VTuber」という地位を有し、VTuberとしての機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる(43)

しかし、そうやってアイデンティティに中身を与えても、VTuberが持つとされるのは「ごく普通の意味での機能」であって、社会存在論的な枠組みにおける制度的対象と関わるタイプの機能と言う必要がない。

例えば、もしもアイデンティティを保持しながら活動状態にあることがVTuberの機能なのだとしたら、例えばその活動が長く頻繁だとVTuberとしての高評価になるのだろうか? もちろん活動が長ければ褒められるかもしれないし、頻繁ならファンは嬉しいだろうが、VTuberとしての評価とは言えない。

同じように、国王も在位期間が長いと、いい感じがするかもしれない。けれど、国王としての機能はそこにはないだろう、という感じがする。調印をしたり、議会を開いたり閉じたり、外交したりするのが国王の機能であり、こうした特定の目的に向けられた機能の遂行で国王は評価される。

閑話休題:山野のVTuberの定義は天皇の定義に使えるので良い

ちなみに、山野のこの特徴づけは興味深く、「アイデンティティを保持しながら活動状態にある」こと自体が社会的な力を持つ顕著な事例が日本にただ一つある。それは、日本における国家の象徴として生きる「天皇」という制度的対象の定義としてはよく出来ている。

我々は、「身体的・倫理的・物語的なアイデンティティの結びつきによって生じる天皇としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという条件を満たす任意の人間が、日本文化において「天皇」という地位を有し、天皇としてのアイデンティティを保持しながら活動状態にあるという機能を遂行する」という事態を、そう宣言することで成立させる。

これはかなりいい天皇の定義である。天皇が行うのは国事行為であり、天皇は活動状態にあるということこそが機能だからだ。そのため、山野のこの定義は「天皇の哲学」をする際にはかなり役立つだろう。日本のナショナリティを考察するうえで重要な文献となることは間違いない。

機能の別の活かし方がある

話を戻そう。山野のVTuberの機能に基づく特徴づけはうまくいっていない。「VTuberを制度的存在者」とするメリットはない。

しかし、山野の主張を改善する方策はある。後の章で、山野はVTuberを芸術作品だと言っている。そこで、VTuberの機能というからには、VTuberの中核的価値が評価されるような基準にその機能の成否が関わっているように定義してやればよい。

しかしもちろん、身体的/倫理的/物語的アイデンティティを保持しながら活動状態にあること自体はVTuberの中核的評価にはあまり関わらないだろうから、それは一旦脇に置くとよいだろう。

なので、山野が、あるいは山野のラインに共感する読者がVTuberの定義で機能を使うなら、山野が第五章でステッカーの『分析美学入門』を引いて批判している芸術の定義における(美的)機能主義的説明の方が馴染みがよさそうに思える。IsemingerやZangwillなど興味深い論者がいるこちらで頑張ってみる方がよさそうだ。

文献を紹介しておこう。まず、芸術の機能主義的定義については、サイモン・フォクトの次の論文が簡便にまとまっていてよい。

Fokt, S. (2015). A critique of functionalist definitions of art. Kultura-Społeczeństwo-Edukacja8(2), 27-46.

それから、スティーブン・デイヴィスの論文集に収録されている機能主義と制度主義の対立の整理も役に立つだろう。

Davies, S. (2007). Philosophical perspectives on art. Clarendon Press.

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ザングウィルの次のものもしばしば論じられる。

Zangwill, N. (2007). Aesthetic creation. OUP Oxford.

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芸術の機能主義はやや人気のない立場だが、自分はこういう一点突破で頑張る研究はカッコよくて好きなので、ぜひこちらで研究していただきたい。

研究態度についての批判

私がもっとも違和感があるのは、第五章「生きた芸術作品としてのVTuber」で、松永伸司『ビデオゲームの美学』の議論を参照し、VTuberが「芸術作品」「芸術形式」だと言う部分である。

VTuberとは芸術作品を生み出す「芸術家」であると同時に、自らが「芸術作品」そのものである二重の身分を持つ存在である。(245)

ここで、引用元の松永が強調するように、松永が用いる「芸術」は一つの理論的な立場込みの表現であり、(松永はやや否定しているが)ラーメンや日用品のデザインもまたその意味で「芸術」となりうるような概念である。だが、山野は松永のこの留保を書き写しておらず、読者に対してあまり親切ではない。

山野の書きぶりは、特殊な意味で定義されている「芸術」ラベルを、ハイアートの芸術ラベルにすり替えることでVTuber文化を殊更高尚に見せようとしているようだ。

VTuberを「芸術家」であると言うとき、一般的な褒め言葉としての「芸術」に寄っている。だが、「芸術家」の定義はこの本のどこにもない。

山野の研究態度に対する批判となるが、美学者たちが芸術の定義を何のために行うのか、その理由に自覚的であろうとしてきたことに無自覚なのが残念だ。

ダントーやディッキーは新たな芸術表現の登場に直面して新たな定義を考察してきた。松永は、ナラデハ特徴とリンクさせるための定義を提示した。

なぜなら、「芸術」というラベルと概念は、ときに破壊的な帰結を引き起こすからだ。ナチズムにおける音楽や映画の芸術利用、そして、芸術化されることで女性のヌードが鑑賞してよいものとしてエロス化される事例など、「芸術」というラベルと概念は魔力を持っており、それを慎重に運用することが研究者には求められる。

対して、山野の議論には、そうした美学的、哲学的に検討された動機づけが書かれていない。慎重さもない。たんにVTuberが芸術的に思えるから芸術かどうか考えてみよう、くらいのものであると私は読み取った。

華美なエフェクトと共に歌い、踊るVTuberたちの姿は、まさに「芸術的」と形容することが可能な存在である。(228)

VTuberの活動の軌跡とも言えるアーカイブのページは、まさに「芸術作品」が展示されている博物館のようにも思えてくる。(228)

こうした、研究対象との距離があまりにも近い記述に私は危惧を覚える。私の読み取りが悪いのかもしれないが、単にVTuberのファンが箔付けのために哲学を利用して、VTuberを「芸術」だと言いたいだけに見える。ここで山野は、研究対象との距離を適切にとりそれらを考察する研究者ではなく、研究対象をまず肯定するファンに見えてしまう。

ポピュラー文化を哲学やアカデミックで箔付けする行為は散々批判されてきた。ここで私は文献を挙げることはできない。

しかし、ポピュラー文化研究をしている人にとって「研究対象のファンであること、愛好者であることは前提かもしれないが、それでもなお、研究対象を批判的に分析すること、その政治性やジェンダー不平等なメカニズムに鋭敏な感覚を向け、鋭く批判すること」は、研究者としての倫理的な態度のスタンダードになっている、と私はかなり確信している。

山野には、あるいは、山野だけではなく、バーチャルYouTuberやポピュラー文化を研究する人には、こうしたポピュラー文化研究の態度について、つねに気にかけて欲しい、と研究者として思う。

山野はこの本で、VTuberを「哲学」というラベルで箔付けようとしているようにわたくしには見える。こういう表現もある。

こうした切り抜き動画の在り様は、さながらある思想家や哲学書の解説書の如きものである。『ハイデガー存在と時間』入門』や『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』といった著作があるように、例えば『月ノ美兎入門』、『兎田ぺこら入門』、『因幡はねる入門』といった「解説書」のようにな役割を切り抜き動画は担っている。(254)

こうした物言いをみると私は深く悲しくなる。なぜ、もともとの動画が『存在と時間』「人間の条件」に喩えられなければならないのか? VTuberの動画を哲学書に喩えることで数多くのものが失われることに私は一人のある程度のVTuber文化の愛好者として苦しみを覚える。切り抜き動画は解説書だと言われて、切り抜き動画を作る者たちの何人が喜ぶのだろうか?

こんな箔付けをわたくしは好まない。

ポピュラー文化研究、表象文化論、美学研究の歴史を見てもらえば、あるいは、今生きている無数の研究者たちの研究態度を眺めてもらえば、彼らはみなこの危険に自覚的であることが分かるだろうと思う。山野だけでなく、私は、ポピュラー文化を箔付けするような態度で接近する哲学研究者のすべてに反省を促したい。

*1:しかも、議論のためにVTuberが制度的対象だとしても「我々」が地位機能を与えるからVTuberとしての地位を有することを成立させられるという事態がいったいどうやって実現しているのかうまく把握できない。