Lichtung

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

IEP:概念の古典理論

はじめに

 「概念には定義が存在する」と主張する概念に関する「古典理論」についての記事のまとめノートです。

元の記事:インターネット哲学大百科「概念の古典理論」http://www.iep.utm.edu/conc-cl/

「概念はどうすれば明らかになるんだろう」「定義は便利よね。だけれど、すべての概念は定義できるような性質の存在者なのかしら」と思い悩んでいる方のヒントになればと思います。

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イントロダクション

古典理論とは、概念に関する以下に挙げる5つの主要な理論のうちのひとつ。

  1. 古典理論(Classical theory)
  2. プロトタイプ理論(prototype theories)/典型例理論(exemplar theories)
  3. 原子理論(atomistic theories)
  4. 理論理論(theory-theories)
  5. 新古典理論(neoclassical theories)

ここで、古典理論と古典的分析は以下のように定式化される。

  • 古典理論:すべての複雑な概念に古典的分析(classical analysis)が存在することを主張する理論。
  • 古典的分析:可能世界にまたがってある外延に含まれる形而上的に必要かつ連言的に十分な条件をその概念に与えるような命題。

こうした古典説は、概念の定義が必要かつ連言的に十分な条件によって与えられることから、「概念の定義説」や「定義主義(definitionism)」とも呼ばれる*1

1 歴史的背景と古典説の利点

歴史:古典説は、その出自をプラトンによって描かれたソクラテスが行なっていた、ある概念の本質を探求する営みへと遡ることができる。その後、アリストテレスデカルト、ロック、ヒューム、そしてフレーゲラッセル、ムーアによっても行われた。
利点:⑴古典説は本性や本質を思考する哲学的な問いへの正統的な答えがあるという前提によくフィットする。⑵議論の批判的評価に役立つ。議論において概念の定義が重要であるような場合に威力を発揮する。例えば、人工中絶の論争における胎児の人間としての地位の定義など。
現代の代表的な論者:J. J. Katz, Frank Jackson, Christopher Peacockeなどが代表的な論者としてあげられる。
現代では、第4節でみるようにさまざまな批判にさらされている。

2 概念についての概説

概念はいったい何か。それに対してさまざまな観点が存在する。ここでは、5つの観点を紹介する。

a. 意味論的値としての概念

意味論的値(semantic values)として、概念は、述語や形容詞、動詞や副詞といった文部分的(sub-sententional)な言語表現の内包や意味であるとされる。
「太陽は恒星である」は、太陽が恒星であるという命題を示し、述語である「恒星である」は、恒星であることの概念を表現している。文の内包や意味は命題であり、多くの文部分的要素の内包や意味は概念である*2

b. 普遍者としての概念

概念はしばしば普遍者として考えられる。その理由は以下の3つ。

3つの理由

  1. ある概念は、異なる言語表現をもちいても表現可能である。
  2. 異なるエージェントが同じ概念を所有、把握、理解しうるが、そのような所有には程度の差がある。
  3. 概念は、概して、複数の例示するもの(exemplifications)や例化するもの(instantiation)をもつ。さらに、異なる概念がまったく同じインスタンスをもちうる。

このように、概念が普遍者であるとみなすと、それをどのような存在者として扱うかによって、さまざまな立場が存在しうる。

  • 概念に関する実在論(Realism about concepts):概念はそのインスタンスとは異なる。
  • 概念に関する唯名論(Nominalism about concepts):概念はそのインスタンス以上のものではなく、インスタンスと異なるものではない。
  • ものに先立つ実在論Ante rem realism)(またはプラトニズム):概念がその概念に先立って存在論的に存在する。すなわち、インスタンスが存在するかどうかにかかわらず概念が存在する。
  • もののうちの実在論In re realism):概念はある意味ではそのインスタンスの中にあり、したがってそのインスタンスより先立っては存在論的に存在しない。
  • 概念に関する概念主義(Conceptualism with respect to concepts):概念が心的存在者であり、心の中に一種の観念として、完全に思考の構成要素として、あるいは何らかの形でその存在を精神に依存している(おそらく行為者によって所有されるか、行為者によって所有可能である)。
  • 言語的唯名論(Linguistic nominalism):それらを表現するために用いられる言語表現を用いて概念を識別する。
  • タイプ言語的唯名論(Type linguistic nominalism):言語表現のタイプによって概念を識別する。

c. 心的依存/心的独立な存在者としての概念

概念は精神の「うち」にあるあるいは、「部分」であると考える立場は、概念を心的依存(mind-dependent)な存在者であるとみなす。これにたいして、概念は精神とは独立した存在者であるとする立場は、概念を心的独立(mind-independent)な存在者であるとみなす。前者は上述の概念主義などと相性がよく、後者はプラトニズムと相性がよい。

d. 分析対象としての概念

《Fとは何か》というかたちの哲学的問いは、さまざまな概念の概念分析を必要とする。けれども、「概念分析とは何か」という問いにもまたさまざまな答え方がある。そこで、ここでは、各理論ごとにどのように概念分析を捉えているかを概観する。

  • 古典説:すべての複雑な概念には古典的分析が存在する。複雑な概念には他の概念による分析が存在する。
  • プロトタイプ説:典型的な特徴(typical featues)に関して、またはプロトタイプ的な・例示的な事例という観点から概念を分析する。例えば、飛行可能な、小型の、といった典型的な特徴という観点から、鳥であるという概念を分析する。
  • 典型説:最も典型的な事例(exemplary case)(例えば、鳥という概念におけるハト)の観点から、鳥であるという概念を分析する。
  • 理論理論:ある概念の外延のメンバーについての内在的に表象された理論の観点から概念を分析する。例えば、ある人が鳥についての包括的な理論をもつとする。この人がその人の「鳥」という概念の用い方に基づいて「鳥」という概念を表現したとしよう。このとき、この人が表現した概念は、[この人において]内在的に表象された理論において概念が果たしている役割という観点から分析される*3
  • 新古典説:古典説の1つの要素、すなわちすべての複雑な概念が形而上的に必要な条件(例えば、未婚であることが独身のために必要であるという条件)をもつという主張を引き継ぐが、形而上的に十分な条件を有するという条件は放棄する。
  • 原子論説:以上で言及された分析の概念をすべて拒絶し、概念には分析が全く存在しないと主張する。

e. 古典説と概念一般について

再度確認すると、古典説は、「すべての複雑な概念には古典的分析が存在する」とのみ主張しているのであり、概念が普遍者であるかどうか、あるいは心的に依存しているか独立かどうかとは、独立である。

3 古典的分析

複雑な概念の分析には2つの構成要素が存在する。

  • 被分析項(Analysandum 英:アナリザンダム):分析されるもの
  • 分析項(Analysand 英:アナリザンド):分析するもの

命題が古典的分析であるためには以下の条件を満たさなければならない:

  • (I)古典的分析は、被分析項の外延のうちにあるための必要かつ連言的に十分な条件の集合を特定しなければならない。
  • (II)古典的分析は、被分析項の論理的構成(logical constitution)を特定しなければならない。

a. 必要かつ十分な条件について

  • 必要条件:Fであるための必要条件とは、Fであるために必ず満たさなければならない条件。
  • 十分条件:Fであるための十分条件とは、もしその条件を満たすならば必ずFであるような条件。
  • 必要十分条件:Fであるために必要かつ十分な条件は、Fであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ずFでなければならないという条件である。
  • 必要かつ連言的に十分な条件:概念Fについて、Fであるために必要かつ連言的に十分な条件とは、それらのすべてを満足することがFであるのに十分であるような一連の必要条件。

b. 論理的構成

古典的分析はまた、分析とは、概念をその組成または構成要素に分解することである、というムーアの考えに従って、分析される概念の論理的構成を与える。

c. 古典的分析についてのその他の条件

上述の(I)と(II)とに加えて、他の条件も提案されている。

  • (III)古典的分析は、被分析項を分析項あるいは分析項の部分として含んではならない。
  • (IV)古典的分析は、分析項が被分析項よりも複雑であってはならない*4
  • (V)古典的分析は、いかなる可能的対象であっても、それが、その概念の外延に含まれるか否かを正確に特定するようなかたちで、分析されている概念の正確な外延を特定する。
  • (Ⅵ)古典的分析は、その分析対象またはその分析対象に曖昧な概念を含まない。

 d. 分析候補の検証

正しい分析を探し求める中で、さまざまな分析候補(candidate analyses)について考える必要が生まれる。正しい分析は、可能的反例(possible counterexamplees)をもたない。ここで、可能的反例は、分析候補が広すぎるか狭すぎるかを明らかにしうるものである。

ここで、現実的反例(actual counterexample)のみなず、可能的反例を考慮に入れる必要性は、分析は、必然的真理(necessary truth)に関わるものであるからである。ある概念の分析は、例えば意識のような概念に関して、現実に存在している意識に共有されているのみならず、すべての可能な意識に共有されているものを特定することであるからである。

e. 古典的分析に関するアプリオリ性と分析性

古典的分析は、ア・プリオリ(a priori)で分析的(analytic)であると考えられている。

ア・プリオリ:分析の正当化にいかなる経験的な構成要素も必要とせず、理性によってのみ知られうる。

分析的:分析的命題は「意味のみによって真」であるような命題であるとする分析的命題の大まかな解釈に基づくなら、古典的分析はこのような種類の命題である。分析的命題が、述語表現によって表現されるものが主語表現に表現されるものに「含まれる」命題であるような分析であるゆえに、古典的分析は分析的である。

4 古典理論への反論

その歴史と魅力にもかかわらず、古典理論はさまざまな批判にさらされている。多くの人は、すべての複雑な概念には、上記のような性格の古典的な分析が存在するという主張のに疑問を抱いている。より一般的な意見は、いくつかの(some)複雑な概念は古典的なモデルに従うが、すべて(all)ではないということである。この節では、古典説に対する6つの一般的な異論を紹介する。

a. プラトンの問題

プラトンの問題:長きにわたり哲学的に重要な概念の分析の探求が行われてきたものの、そのような概念の古典的な分析が発見され、事実として広く合意されたことはほとんどないという問題。

反論:すべての複雑な概念に対する古典的分析があるとしよう。今までの努力が費やされたことを考えれば、そのような分析の発見可能性にはは、はるかに高い成功率が見込めるはず。けれども、実際、「学者」や「妹」などのふつうの概念や、論理や数学の概念をのぞいて、哲学的に重要な概念の分析についての合意がみられない。ゆえに、この試みはうまくいっていない、とする。

再反論:このような異論は、あまりにも高い基準を古典説に課しているかもしれない。というのも、科学においても、特定の科学理論に関する普遍的な合意はめったになく、電子やニュートリノといった存在者やビッグバンのような事象の研究はいまなお発展途上にある。そこで、科学的方法に関して、研究調査がいまなお進行中であり、調査段階の科学のさまざまな理論に関して普遍的な合意がないために、何らかの形で欠陥があると考えるのはばかげている。そうであるならば、なぜ哲学的に重要な概念の完全な分析に関して普遍的な合意が欠如しているために、すべての複雑な概念には古典的分析が存在するという仮定に基づいた哲学的分析の方法が何らかの方法で欠陥があると考えるのはおかしい。

再々反論:しかし、特にある科学理論が新しく提案された場合、科学において意見の相違はあるものの、そのような不一致は、哲学のそれほど一般的ではない。哲学においては、哲学における最も基本的な問題についてさえも不一致が存在する。ゆえに、古典的分析の方法論には誤りがあるのかもしれない。

b. 分類からの議論

反論:経験的データに基づく批判:わたしたちは区分や分類分けの際、必要かつ十分な条件の集合を用いてそれ行なっているわけではない。そうではなく、典型的な特徴に基づいて分類を行なっている。
というのも、特定のカテゴリのより典型的なメンバーが、同じカテゴリの典型的でないメンバーよりもすばやくにそのカテゴリに分類されるからである。例えば、ロビンはタカよりも素早く鳥類のカテゴリに分類され、そして、タカはダチョウよりもよりも素早く鳥類のカテゴリに分類される。これが示唆しているのは、概念が分類の際に用いられているとするとき、以上で見たように、分類のすべてにおいて古典的分析を用られていないということである。ゆえに古典説は誤りである。

再反論:ここで、この議論は次を前提としている。「ある人が何かをあるカテゴリに、あるいは、他のカテゴリに分類するとき、ある人は、その課題を遂行するために、概念分析の理解力を用いている」古典説はこの部分を批判する。

典型的な特徴の集合を用いて鳥を分類することができる。しかし、鳥のように見えるものと鳥であるものとの間に違いがある。つまり、分類できるからといって、それが実際の概念の性質を明らかにしているのかどうかとは独立である、と主張する。したがって、概念分析は、たとえ行為者がその概念のインスタンスであるような条件を与え、分類の行為において古典的分析とは異なるような他の何らかの条件を使用しても、概念には分析(古典的またはその他の方法)が存在しうるように思われる*5

分類からの議論に対して、この返答がうまい反駁になっているかどうか不明だが、認知心理学の多くの研究者は、分類の行為からの経験的証拠を古典的見解に対する強い証拠とみなしている。ここで、もうひとつの分類に関する批判を紹介しよう。

プロトタイプ説による批判:プロトタイプ説によれば、概念は、必要かつ連言的に十分な条件ではなく、典型的な特徴のリストによって分析される。ここで、そのような典型的な特徴は、概念のすべてのインスタンスによって共有されるのではなく、それらのほとんどのものによって共有されるようなものである。例えば、典型的な鳥は飛行可能で、比較的小さく、肉食ではない。しかし、これらの特徴はすべての鳥に共通しているわけではない。例えば、ペンギンは飛べないし、タカはかなり大きく、肉食である。プロトタイプ説は、われわれの分類行為に関する事実をうまく説明する。そして、プロトタイプ説の擁護者は古典的見解を拒絶する。

c. あいまいさという観点からの議論

あいまいさも、古典説にとって問題であると考えられている。必要かつ共に十分な条件を特定することによって、古典的分析は分析される概念の正確な外延を特定すると考えられる(このように特定された概念Cはすべてのxに対してxが正確にCの外延、またはCの外延ではないと区分できる)。

反論:しかし、ほとんどの複雑な概念は、そのような正確な外延を持っていないようにみえる 。例えば、「おおげさな」「短い」「古い」のような用語はすべて、その用語が適用されるかどうかが不明確な場合がありうる。ゆえに、それらの用語によって表される概念の外延は不明確であるように思われる。例えば、禿げた人と禿げていない人、背の低い人とそうでない人、そして老人と非老人の間には正確な境界がないようにみえる。多くの概念の外延に正確な境界がないとすると、古典的分析はそのような正確な境界を特定するはずだが、あいまいな用語で表現されているものの古典的分析はできない。ゆえに、古典的分析はうまくいかない。

応答⑴:あいまいさは世界それ自体の一部ではなく、むしろわたしたちの認識論的な欠点の問題であると主張する。さまざまな概念の正確な境界がどこにあるのかわからないため、不明確なケースが見つかるだけであるとする。例えば、禿げた人と禿げていない人の正確な境界があるかもしれないが、その境界がどこにあるのかわからないため、「禿げている」というのはあいまいなままである。ゆえに、古典的分析がうまくいかないのはわたしたち側の問題でしかない。*6

応答⑵:不明確な事例があることを認め、世界それ自体の特徴としてのあいまいさの存在を認めるものの、そのようなあいまいさが漠然とした概念分析に反映されていると主張する。
例えば、黒い猫であるという概念は、たとえ「黒い」と「猫」が両方とも曖昧な用語であっても、「黒」と「猫」の観点から分析することができる。したがって古典理論は、用語の漠然とした性格をこのような方法で分析することができれば、批判を免れることができるかもしれない*7

d. クワインの批判

W.V.O. Quineは、分析性と分析的/総合的な区別に攻撃を行った。 Quineによれば、分析的命題および合成的命題の区別について哲学的に明確な説明はなく、そのような区別は全くないか、または哲学的研究には有用ではないとした*8

e. 科学的本質主義による批判

科学的本質主義(scientific essentialism):自然種のすべてのメンバーはミクロ物理レベルの記述において本質的な性質が存在し、自然種の術語(例えば、水)およびそのような性質の記述(例えば、H2O)の間における同一性記述(identity statement)は形而上的に必然的であり、ア・ポステリオリにのみ知られうる。
「水はH2Oである」という命題は、科学的本質主義においては、すべての可能世界で真であるとともに、経験科学によって発見されうる真理であるとされる。可能的反例を探すことで明らかになるわけではない。
古典的分析は、ア・プリオリで分析的であるとされる。これに対して、科学的本質主義はア・ポステリオリで総合的であるとされる。ゆえに、古典的分析は科学的本質主義の意見と対立する*9

*1:これら古典理論やその他の概念の諸理論は、不正確だが、「概念の性質」についての特定の立場だと言える。概念が実際にどういう性質であるかによって、それを明らかにするプロジェクトが変わってくる。古典理論は、概念は定義してもいいような性質であると主張していると言える。

*2:ここの説明ぜんぜんわかっていません。

*3:理論理論のメタっぽいところは興味深い。概念一般の性質について積極的な主張はせずに、ひとびとの使い方を見ていこうとする。しかし、この説明だけだと「じゃあなんで鳥という概念がある程度ひとびとの間で共有されているの?」という疑問が浮かぶ。また、これだけでは分からないが、理論理論は、「各人のあいまいな概念に共通する性質を探すために各人の理論に基づいた概念を分析する」という動機に基づいているのだろうか。つまり、「各人の概念の理論によって違う記述の仕方を見ていこう、そしてそこで概念分析を終了させよう」というより、「概念そのものにある時期や地域に限られるにせよ特定の性質があって、それを探そう」といった主張なのだろうか?

*4:原文では、’A classical analysis must not have its analysandum be more complex than its analysans.’となっているが、被分析項と分析項とは逆のように思える。

*5:分類の仕方がどうであろうと、それは人間種に独特なものであり、概念そのものの性質とは独立だよ。そして、古典説における概念の捉え方と排他的であるわけでもないし、直接関係しているわけでもないよ。ということか。

*6:へんな議論に思える。禿げている/そうではないの境界が確実にどこかにあるということ? それは物理定数のように発見されうるものであるということ?

*7:さらにわからない。このふたつの応答に共通してわからないのは、世界それ自体の特徴としてあいまいさ云々という点である。概念には、⑴自然法則のような世界それ自体の記述のようにみえる概念。それから⑵「芸術」や「同性愛」のような人工の概念。とのおおきくふたつの種類があるように思える。前者に関して言えば、応答⑴の立場は分かるが、例として挙げられているのが⑵の人工の概念に思えるのでよく理解できない。また、応答⑵の立場は、⑵のような人工の概念に関してはあいまいさがあることは理解できる。対して、世界それ自体のあいまいさが存在して、⑴のような概念にあいまいさが反映されていると主張しているように思える。その主張に反して、この世界は物理定数や法則があいまいであるような世界にはみえない。マクロでみれば、理想的な状況において、つねに同じ条件下では同じ現象が生ずる。そのため、世界それ自体のあいまいさという主張が理解できない。さらに、⑴のような概念にあいまいさが反映されているというのもおかしい。ニュートン万有引力の法則はミクロの挙動を記述できないという点で量子力学の諸理論よりも不正確であいまいかもしれないが、ニュートン万有引力の法則が世界のあいまいさを反映しているという理解はおかしい。それはその時点でのわたしたちの認識能力の問題であるからだ。

*8:ぜんぜんわかっていません。Quine, W. V. O. 1953/1999. “Two Dogmas of Empiricism.” In Margolis and Laurence 1999, 153-170.とQuine, W. V. O. 1960. Word and Object. Cambridge: The M.I.T. Press.に議論があるそうなので読みます。

*9:対立するとすると、どういう問題が生まれるのかは書いていない。自然種に関しては古典的分析はあきらめて、科学的本質主義を採用しようということになるのかもしれない。