Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ジョン・ディック「音楽の歴史および音楽の存在論における完全な対応」

はじめに

本ノートは、音楽のプラトン主義的な音楽作品の存在論において前提とされている「完全な対応の条件(PCC: Perfect Compliance Condition)」に対して歴史的批判を加えることで、それが成立しないことを示す、ジョン・ディックの「音楽の歴史および音楽の存在論における完全な対応」*1のまとめである*2

2017年9月1日追記:校正し、PDFにまとめました。ご利用ください。

https://drive.google.com/open?id=0BzXV4zzUSBO_SWRfOWhVbnFGc00

Abstract

西洋クラシック音楽の演奏は基本的に完全な対応(perfect complianceの理想音楽作品を演奏するためには、演奏者はその作品の楽譜にあるすべての音を、逸脱することなしに、演奏しようと意図しなければならない、を必然的に伴うのだとする一般的な前提がある。西洋音楽に焦点を当てた音楽の存在論の多くの説明は、結果として、この前提をそれらの説明の前提としている。しかしながら、近年の音楽学における研究によって、この理想は比較的最近に現れた現象であり、多くの規範的なクラシック音楽には適合しないことがあきらかになっている。わたしは、この研究結果を用いて、音楽哲学者たちが以上のような一般的な前提を棄却すべきであることを論じる。

1. 音楽の存在論における完全な対応の重要性

現代における音楽の存在論者たちは、彼らが音楽演奏について説明する際、レオ・トリエトラー(Leo Trietler, 1931-)が「西ヨーロッパの古典的な伝統('Western European classical tradition)」と呼び、一般に「クラシック音楽(classical music)」と呼ばれるようなものに焦点を当てている。このことは重要で、というのも、多くの音楽の存在論者は、クラシック音楽について広く受け入れられている前提を受け継いでいるからである。その前提とは、ある作品(work)の演奏(performance)における必要な条件とは、演奏者(performer)がその作品の楽譜(score)に完全に従おうとしなければならない、というものである。演奏者は自分の演奏が楽譜にあるすべての音符(note)を演奏し、かつその楽譜から逸脱(deviate)しないように意図(intent)しなければならないというものである。このように楽譜にこだわろうとすること-これを理想(ideal)と呼ぶ-は、ジャズにみられるような他の音楽ジャンルの演奏とは異なった、クラシック音楽の演奏の本質的な特徴であると考えられる。(p.31, par.1)

この理想はわたしたちがクラシック音楽に向き合うとき、顕著に現れる。二つの例がある。一つに、この理想はクラシック音楽教育において現れる。二つに、この理想はわたしたちが一般的にクラシック音楽を評価するしかたのなかに現れる。(p.31, par.2)

この理想へのコミットメントは、音楽のプラトニズム(musical Platonism)においてはっきりとなされている。音楽のプラトニズムは、なにによってある演奏はある特定の作品であるとみなすことができるのか? という問いに応えようとする。音楽のプラトニズムによれば、音楽における作品/演奏の区別は、少なくとも部分的にはプラトン主義的なタイプ/トークン(type/token)の区別であるとされる。このような観点においては、演奏は(少なくとも部分的に)抽象的な作品の具体的なトークン化(tokening)あるいは実例(instance)とされる

このように、音楽のプラトニズムは作品/演奏の関係への問いに動機づけられており、その説明を目指している。音楽のプラトニズムのうち、有名なものによれば、その関係は以下のようなものである。
演奏は、それが作品の楽譜に完全に従う意図(intent)を伴って演奏されたときに限って、ある特定の作品の演奏だとみなされる。音楽のプラトニストであるニコラス・ウォーターストーフ(Nicholas Wolterstof, 1932-)は「音楽作品Wを演奏することは、もしそれがWの正確な例であるためには、なにが必要なのかという演奏者の知識に基づいて音列の生起(sound-sequrnce-occurrence)を生み出そうとすることであり、かつWの例を生み出すことに少なくとも部分的に成功することである」と述べている。

ここで、ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)の悪名高い、音楽演奏への完備な(complete)対応、すなわち、「楽譜への完備な対応のみが、作品の純粋な(genuine)実例(instance)であることの唯一の要求である」という過剰な要求を避ける動機を説明しておきたい。こうした要求に従えば、一音でも余分に演奏したり、間違えてしまえば、その演奏がある作品の演奏ではなくなってしまう。ウォルターストーフによる説明はこうした結論を避けることができる。彼にとって、完備な対応は実際の演奏というより、演奏者の意図に関係するものである。彼は、音楽作品は「ある種の規範(norm-kind)」であり、これが楽譜にこだわることを規定し、また、意図の役割は規範的な次元を生み出すとされている。(p.32, par.2)

レヴィンソン(Jerrold Levinson, 1948-)はグッドマン主義者による音楽作品の実例であるための条件を次のように定義する。:ある作品Wの実例は、「Wの構造である音/演奏に完全に一致する」ものである。彼はこの主張が強すぎると考え、適切な演奏は(演奏者によって)「Wを実例化することを意図したものであることが唯一必要」であり、またある程度成功することも必要である、と主張する。また、ジュリアン・ドッド(Julian Dodd)は、近年、その音楽のプラトン主義的説明において、作品を演奏が成功するためには、演奏者は演奏において「作曲家の指示(instruction)に従うこと」が必要であると述べている。スティーヴン・デイヴィス(Stephen Davies)は、上記そのものではないがかなり近い規範を支持している。「誰が書いたものであろうと、作品を特定化する指示のほとんどに演奏者が従おうとすること」が必要であるとする。
音楽のプラトン主義者は、クラシック音楽演奏の必要な条件として、「完全な対応条件(perfect compliance condition)」あるいは'PCC'にコミットメントしている。

PCC: ある演奏Pは、ある作品Wの楽譜に規定された音の構造にPを対応させることを演奏者が意図する場合にのみ、Wの演奏とみなすことができる

2. 歴史における完全な対応の理想

この節では、1800年以前と以後の完全な適合の理想について、音楽学的な証拠を検討する。ディックはゲーアの立場を改定し、音楽学における証拠から、1800年以前には、演奏は完全な対応の理想によっては特徴づけられないことを主張する。(p.35, par.2)

デイヴィッド・シューレンベルクは、バロック音楽家においては、即興演奏がひじょうに重要で、音楽は教育目的にのみ書き留められた。と考えている。
つまり、多くの音楽家には、楽譜に書かれた音のすべて、かつそれのみを演奏するという習慣がなかった。(p.35, par.1)

また、マン(Alfred Man)は、ヘンデルのオーケストラメンバーは「しばしば、彼ら自身の即興の権利を断固として保持しようとし」、そして、楽譜への対応に対するヘンデルの厳格な態度としばしば衝突した、と述べている。つまり、多くの音楽家には、楽譜に書かれた音のすべて、かつそれのみを演奏するという習慣がなかった。(p.35, par.1)

同時に、多くのその他のバロック音楽の作曲家には、完全な適合の理想があった。例えば、フランスの作曲家クープラン(François Couperin, 1668-1733)は「彼の装飾音符の記譜に果てしない労苦を注いだ」。そして18世紀までにわたしたちが用いるような装飾音符の標準的な記譜法を確立した。また、バッハJohann Sebastian Bach, 1685-1750)やヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685-1759)、18世紀初頭のフランスの作曲家、ルクレール(Jean-Marie Leclair, 1697-1764)や17世紀のイタリア音楽の作曲家のほとんどは同様に正確な記譜を行なった。先に述べた演奏家の習慣と同時に、こうした正確さが存在していた。つまり、1800年以前には、地域、時期、個人、そして演奏習慣にわたって実践の複数性があったのだ。「初期の複数性(early pluralism)」が存在したのだ。

初期の複数性は以上の両方の種類の事実を説明する。

例えば、バロック音楽の作曲家であるリュリ(Jran-Baptiste Lully)は委嘱されたオーケストラによってどの程度装飾音符を正確に書き表すかを使い分けていた。初期のフランスのバロック音楽研究で有名なアンソニー(JamesAnthony )は、「(彼の別のグループ)フランス王の24のヴィオロンを特徴づけるような、過剰な装飾音符や思いつきの即興に耽ることを、小さなヴィオロンというグループでは禁じていた」。音楽者のアルソープ(Peter Allsop)は、イタリアにおいて、装飾音符に関する演奏伝統の多様性を記述する際、初期の複数性を強調している。

作曲家は、みずから装飾音符を書くことを必ずしも嫌ってはいなかった。コロンビ(Colombi)の原稿には、装飾のない大枠とひじょうに華麗な旋律で構成された序曲を含んでいる。一方、装飾へのイタリア人の態度は、一般的に想定されているほど、決して明白ではなかった。チーマからG. M. ボノチーニまでの17世紀の作曲家の流れは、その習慣に対する軽蔑を表明していた。そして、有名な歌手であるシファーチェでさえ、表現伝達の手段として、装飾よりもむしろメッサ・ディ・ヴォーチェ(messa di voce)のようなものに頼っていた。

そして、音楽学者ブット(John Butt)は、「18世紀に至るまでの西洋音楽史のほとんどは単純化されている」ことを批判した。(p.36, par.2)

また、ときおり、通奏低音(badso continuo)やカデンツ(cadenza)は即興を含むがゆえにPCCに反するとされるが、それは間違いである。なぜなら、このどちらもすでに楽譜に指示が記載されているがゆえに、作曲者の指示から逸脱することはないからである。(p.37, par.1)

初期の複数性に関して、重要なことは、音楽家がある文脈において、演奏において楽譜を逸脱することができたということである。事実、作曲家でさえも、リュリのように、状況に応じて、異なる対応の理想を用いていたのだった。従って、1800年以前には、多くの演奏の伝統においては、完全な対応の理想は存在しなかったのであり、ゆえに、PCCは1800年以前のクラシック音楽の演奏の一般的な制約とはならない。(p.37, par.2)

さらに重要なことは、対応に対する複数性の態度は室内楽において、1800年以降も存続するということである。ケネス・ハミルトン(Kenneth Hamilton)とサーモン(Jim Samon)による研究によれば、今日におけるような完全な対応の理想は、とりわけピアノリサイタルの文化において、19世紀を通して存在しなかった。例えば、ハミルトンによれば、19世紀の有名なピアニストであるリストFranz Liszt, 1811-1886)は装飾音や即興部分を付け加えることで、意図的に楽譜を逸脱していた。「即興、指定されていない和音のアルペジオ、そしてテンポの柔軟性」は、「ほとんどのロマン主義的演奏習慣の重要な特徴であった」と彼は述べている。(p.37, par.3)

また、ハミルトンは、記譜を尊重していたために当時保守的であるとみなされていた、ピアニストであるルビンシュタイン(Anton Rubinstein, 1829-1894)に触れている。

ルビンシュタインはピアノの生徒に、まずは作曲者が書いた通りに作品を学ぶことを勧め、次に、もし作品に改善の余地があるように思われるのであれば、ピアニストはそれを変更することをためらってはならない、と述べていた。彼の方法論は彼の同時代人に比べはるかに厳格であった。彼らは最初の段階を完全に省いていたからである。

また、フェリス(David Ferris)は「ヴルトゥオーソのコンサートの聴衆は、誰が曲を作曲したのかについて気にかけなかった。というのも、彼らは演奏を聴きに来たのであって、特定の作品を聴きに来たわけではなかった。聴衆は音楽の形式や構造よりも、熟練や独創性や趣向の方にはるかに関心があったのである」と述べている。(p.38, par.1)

にもかかわらず、19世紀の室内楽において、他の音楽家たちは事実完全な対応の理想を持っていたのである。例えば、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)は即興を嫌い、楽譜に忠実に対応して演奏することを好んだ。このことは「後期の複数性(late pluralism)」すなわち、1800年以後のクラシック音楽もまた、完全な対応の理想に対する演奏者や作曲者の肯定的、否定的なさまざまな態度によって特徴付けられる。ということを支持する。初期と後期の区別は純粋に歴史的な区別であり、概念的なものではないことに注意されたい。1800年以後も演奏者が作品の楽譜から自由に逸脱していたことは、そのような逸脱が作曲者の意図と両立すると考えていたからではなく、そもそも、多くの演奏者にとって、1800年以後も完全な対応の理想が存在しなかったということを意味しているのだ。(p.38, par.2)
このような、19世紀の多くの音楽家が楽譜から自由に逸脱していた、という主張は傍流のものでははない。まず、ハミルトンの著書に対する深刻な反論が存在しないこと、また、ショパンの場合にも同様の主張がなされている。(p.39, par.1)

こうした完全な対応の理想はいかにして生まれたのだろうか?ケネス・ハミルトン(Kenneth Hamilton)とアンディ・ハミルトン(Andy Hamilton)はともに、録音技術の発達によるものと考えている。また、ゲーア(Lydia Gehre)は作品概念において、クラシック音楽の演奏において楽譜からの逸脱の減少は、完全な対応という見方が支配的になったことの自然な流れだと考えている。(p.39, par.1)

ここまでの結論として、PCCは過去の多くのクラシック音楽の演奏を特徴づけるものではないということが言える。(p.40, par.1)

3. 音楽の存在論の意味

 これまで1800年以前そして以降も、完全な対応の理想がクラシック音楽の演奏の演奏を特徴づけるわけではないことを議論してきた。ここで改めて、「対応に関する議論compliance argument)」を定式化しよう。

対応に関する議論
(1) もし初期の、そして後期の複数性が正しいのであれば、演奏者が意図的に作品の楽譜から逸脱しているようなクラシック音楽の演奏の具体的な実例が存在する。
(2) しかし、もし、演奏者が意図的に作品の楽譜から逸脱しているようなクラシック音楽の演奏の具体的な実例が存在するのであれば、PCCは正しくない。
(3) 初期の、そして後期の複数性は正しい。
(4) ゆえに、PCCは偽である。

複数性の事例は、厳格な音楽のプラトン主義的説明に反しているだけではなく、スティーヴン・デイヴィスによる説明にも反している。というのも、彼は、ほとんどの指示に従う必要を述べているが、それが満たされない場合が存在するからである。

さて、以上の対応に関する議論は正当なものだが、成り立ちうるのだろうか?まず、レヴィンソンの主張に基づいて(2)を否定する立場を考えよう。わたしたちは音楽作品や演奏を分析する際、「規範的事例(paradigmatic cases)」のみを検討すればよいという立場である。上述したディックの事例は規範的な事例ではなく、ゆえに、(2)は偽であると主張する。(p.41, par.1)

そもそも何が正確に規範的な事例とみなされるべきかどうかは難しい問題をはらんでいる。しかし、そのことはともかく、リストやルビンシュタイン、ペデレウスキらは、クラシック音楽の伝統において規範的な事例である。(p.42, par.1)

より洗練された反論は、スティーヴン・デイヴィスや、トーム(Paul Thom)らによってなされている。彼らによれば、リストの演奏は、作品の演奏ではなく、「ヴァリエーション(variations)」あるいは「同型(homages)」と呼ばれるもので、これらは作品の完全な演奏である必要のないものであるとされる。ゆえに、ディックがこれらのヴァリエーションを用いて行う演奏に関する主張はみな誤っているのだとされる。(p.42, par.2)

バーテル(Christopher Bartel)は、ヴァリエーション(彼はそれを「再演(rendition)」と呼ぶ)に訴える議論の整合性に懸念を示している。ディックはここで、こうした立場を音楽学における事実と整合性のないものだ考える。まず、リストのように、PCCに拘らなかった演奏者が存在していた。さらに、次のタルスキンの主張を参照することができる。

タルスキンは、西洋音楽の歴史のすべてにわたって存在していたとされる二つの伝統を「口述の伝統(oral tradition)」と「記述の伝統(textual tradition)」としてまとめた。

[フランチェスコ・ダ・ミラノや中世のリチェルカーレ]、また、パガニーニやリストが演奏するときのように、[多くの音楽家は]口述の媒体のうちで仕事を行なっていた。音楽家の技術と保存されたさまざまな音楽の記述とのあいだにはある程度関係が存在した世紀であったものの、それはフランチェスコ・ダ・ミラノにとってすでに利用可能なものの二次的な関係であった。そして、それ[音楽と記述との関係]は、ヴィラールト(Adrian Willaert, 1490-1562)あるいはヴース(Jaqcues Buus, 1500-1565)がフランチェスコの時代に「完全なる技(ars perfecta)」がしたようには、あるいは、パガニーニの時代にベートーヴェン交響曲がしたようには、フランク・シナトラの時代にシェーンベルク弦楽四重奏がしたようには、彼の芸術を構成することはなかった。

重要な点は、口述的な、あるいは逐語的(literal)な演奏者は、ともに音楽のテキストと関係していたが、前者は、音楽のテキストを二次的なものと考え、後者は一時的なものと考えたということである。そして、この二つはクラシック音楽において、前者は20世紀には規範的ではなかったにせよ、同時に存在していたのである。(p.42, par.3)

二つめの反論は(1)に関するものである。

わたしたちの現代的な演奏実践は、基本的に完全な対応の理想によって特徴づけられる。そして、音楽の存在論における説明は、わたしたちの音楽作品に対する現代的な観念にのみ注目すればよい。そのため上述のような演奏を説明する必要はない。ゆえに、(1)は誤っている。ロマン主義における演奏ではなく、現代的な演奏のみが実在する(substantial)演奏なのである。(p.43, par.1)

過去ではなく現在のみに注目すればよいという考え方は、現在の著名な音楽哲学者のなかで共有されているとはいえない。レヴィンソンは1750年以降の音楽作品を分析することを述べているし、音楽のプラトン主義者であるキヴィ(Peter Kivy)も歴史的な演奏実践を分析することをひじょうに重視している。ゆえに、もしわたしたちがこのような(歴史的な)制限を受け入れている哲学者たちに従うならば、歴史的な例はさまざまな音楽のプラトン主義における問題を構成することになる。(p.43, par.2)

PCCは歴史的には信頼できないものであるが、少なくとも、論理的にはクラシック音楽の特定の存在論と一致するものであると主張するかもしれない。しかし、デイヴィッド・デイヴィス(David Davies)の「実用的制約(pragmatic constraint)」すなわち、わたしたちの芸術の哲学はどんなものであれ、「批評及び鑑賞の実践(critical and appreciative practice)」に一致しなければならない、という考えがある。ここで、もし、PCCを受け入れたなら次の二つの点で、西洋音楽史と矛盾をきたす。一つに、もしクラシック音楽の演奏に完全な対応の理想が不可欠であると主張するなら、クラシック音楽の演奏であるものとそうでないものとの区分がおかしなことになる。つまり、1900年以前、多くの室内楽クラシック音楽の演奏とはみなされえない一方、多くの管弦楽曲はみなされることになってしまう。

二つに、上述の19世紀におけるリストのような、多くの有名で典型的な音楽作品の演奏が実際には音楽作品の演奏ではないことになってしまう。この二つともに受け入れがたく、ゆえに、批評の実践とは一致しない。(p.43, par.3)

最後の反論は(3)に対するものである。これはエディディン(Aron Edidin)の主張に基づく。

エディディンは彼の論考「パフォーミング・コンポジション(Performing Composition)」のなかで、西洋音楽の伝統には、作曲者の重要性についてのロマン主義的な概念が本質的に存在することを議論している。「音楽的価値のある実現化の行為者として、演奏家は作曲家に対して従属的であった。そして、この従属はクラシック音楽におけるわたしたちの演奏実践に組み込まれている」と主張する。そして、ここから、(3)に対する反論を行う者は、音楽演奏は作曲者の作品を提示(exhibit)するためにつくられているのであり、ゆえに、演奏者は楽譜のうちにあるものの、すべてかつそれのみを演奏すべきである、という音楽作品に関するわたしたちの概念の一部をなしている。と主張する。この議論のもっともすぐれた主張はスティーヴン・デイヴィスにみられる。「わたしたちは、演奏者がある作品の演奏であると称しているものの、たまたま作品に関連しているだけのたんに快い戯れとしての演奏には関心がない」と彼は述べている。(p.44, par.1)

しかしこの主張は現行の議論における問いをぼやけさせてしまっている。ここで問われているのは、西洋の芸術音楽の演奏伝統が本質的にPCCによって特徴づけられるかどうかである。そしてディックは歴史的に特徴づけられえないことを示した。ゆえに、エディディンの擁護者は、なぜリストやショパンクラシック音楽を演奏しているとは言えないのかを説明しなければならない。(p.44, par.2)

スティーヴン・デイヴィスにならい、作品の同一性(identity)は作曲者の意図にあると考えることはできるだろうか。彼は「歴史的または文化的に隔たった作曲家同士が、別々に、同一(identical)の音構造を書き記していたとしても、作品を同定する(identifying)機能の一部は、それが創り出された音楽的-歴史的状況に依拠する」と主張している。しかし、複数性が示すのは、なにが演奏とみなされるのかは、この説明よりも、さらに存在論的に文脈に基づくものであるということである。というのも、演奏の基準に作曲者の意図が無関係であるような演奏の伝統が存在するからである。デイヴィスは上記の立場を洗練させ、次のように述べている。

特定の芸術的実践に由来しつつ、その特定の芸術的実践に具現化されている規範を描き出すことの中心的な役割は、特定の存在者を厳密な、あるいは欠陥のある「実例p」として分類することにある。このような作品の複数性(再現性)はそれが分かち持つ歴史の観点から説明することができる。音楽作品Wの実例pとなるためには、(少なくとも楽譜に書き表された作品の場合)楽譜に伴う歴史 H を持つことと、その共同体[それじしん]の規範によって認可された方法でその楽譜を解釈する演奏者の共同体(performative community)を持つだけでよい。

ゆえに、対応に関する議論は正しい。PCCは棄却されるべきである。(p.45, par.1)

4. 結論

 以上で見てきたように、PCCと音楽のプラトン主義とは密接に関係している。プラトン主義者を動機づけるのは、PCCが音楽作品とその演奏との類似性(similarity)を説明できるからである。だが、PCCは誤っている。ならば、わたしたちは音楽のプラトン主義をも棄却しなければならないのだろうか?(p.45, par.2)

音楽のプラトン主義において、PCCを棄却し、次のように主張することができる。
演奏者は作品に完全に対応しようとする意図する必要はなく、作品を演奏しようと意図するだけでよい。(p.45, par.3)

しかし、この主張はうまくいかないとディックは考える。音楽のプラトン主義の動機は、作品とその演奏とのあいだに「音の類似性(sonic similarity)」、すなわち、同じ作品の演奏がみな「似たように鳴る(sound alike)」場合を説明することにあった。グッドマンによる説明は厳格に音のタイプの同一性を説明できるが、楽譜からのわずかな逸脱によって成り立たなくなってしまう。ある程度楽譜の演奏に成功することをもって類似性を説明する方法も上記の議論で棄却された。(p.45, par.4)

事実、演奏における対応の説明を必要としない存在論がある。ローバウ(Guy Rohrbaugh)音楽作品を歴史的個体(historical individual)だと考えている。カプラン(Ben Caplan)、マテゾン(Carl Matheson)は音楽作品を永続する個体(perduring individual)だと説明する。そしてティルマン(Chris Tillman)は音楽作品を持続する個体(enduring individual)だとする。これらの論者は、なにによって、ある演奏はある作品の演奏となるのか、という問いに答える必要はある。(p.46, par.1)

最後にディックは一般的な事柄について述べる。
芸術に関するわたしたちの直観は誤りやすい。歴史的に不正確な演奏実践に関する直観に頼っている場合、わたしたちの記述は誤りやすい。ゆえに、わたしたちの芸術-存在論的説明は、わたしたちの芸術の伝統に基づく証拠と一致する必要があるのだ。(p.46, par.3)

まとめ

西洋クラシック音楽において、ある演奏がある特定の音楽作品の演奏としてみなされるためには、その音楽作品の楽譜に対して、実際の演奏が完全に対応していること、あるいは、演奏者が完全な対応を意図していることが必要だとする「完全な対応の条件(PCC: Perfect Compliance Condition)」は間違っている。西洋音楽史を紐解けば、1800年以前、そして以降も、演奏者は楽譜に忠実に演奏する伝統と同時に、楽譜を逸脱する伝統をも持っていた。これを複数性と呼ぶ。この複数性が存在していたという事実から、PCCは西洋クラシック音楽の演奏を特徴づけるわけではないことが論証される。ゆえに、PCCは棄却されるべきである。

f:id:lichtung:20170830184224j:image

フランツ・リストコンプライアンス違反」の容疑』

*1:John Dyck. 2015. Perfect Compliance in Musical History and Musical Ontology.

*2:この論文は次回の現代の音楽美学研究会において購読する論文として岩切さんにご紹介いただいたものです。