Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか?:愛の認識論的問題に対する愛のニーズ応答説

はじめに

誰かが自分を愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか。これは近年「愛の認識論」として盛り上がりをみせるトピックである(cf. Stringer 2024)。

最新の論文の一つ、ライアン・ストリンガーによる「How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love. においては、アリストテレス的な習慣と美徳の議論を参照しつつ「その人が愛するときに愛する仕方を把握することで、愛しているかどうかが分かる」という主張を行っている。

だが、この主張には問題がある。例えば、モラルハラスメントを繰り返し行ってくるパートナーは「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。それに対して、私は「これがあの人の愛する仕方なのか」と納得させられてしまい、より手酷いモラルハラスメントの渦中に突入していく。これは、おそらくたんなる想像ではなくよくある実際の話だと思う。

私は、別の答えを提示する。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか? これに対しては、「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができるという「愛のニーズ応答説」を主張する。

愛する仕方の多元性とモラハラの危険

あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るには手っ取り早い方法があるはずだ。それは、あの人が私を愛する行為をしているかどうかを判断すればいい。すると、途端に問題が生じる。「愛する行為とはなにか?」

セックスはどうだろう。だが、ハルワニが指摘するように、あるいは直観的に考えても、セックスすることと愛することは重なることも少なくないが全然別の行為である。

ケアすることはどうだろう。だが、ケアは愛していなくとも可能であろう。あるいは、すごく薄い意味での愛に基づいてもできるし、ケアの種類も多種多様である。ある人は、ロブションに連れて行ったり、ハワイの夕焼けで告白することがケアなのだと言うかもしれないし、別の人は、日々洗濯してあげておいしい料理をつくることがケアなのだと言うかもしれない。

フィクションや常識的に考えて愛する行為はなんとなくグルーピングできそうだが、それらは定型発達的な常識やマジョリティの常識にかなり縛られている可能性が高い。毎日笑顔で接することやきめ細やかなケアをすることが得意な人もいれば不得意な人もいる。記念日を覚えられない人もいれば、細かく覚えておいて欲しい人もいる。そういうわけで、私達は常識に訴えることも避けたいと思う。なぜなら、私が愛する人は私が常識に従って判断すべきものというより、何よりもユニークな私とあの人の関係のなかで判断されるべきものだからだ。

それゆえ、ライアン・ストリンガーによる「その人が愛するときに愛する仕方を把握することで、愛しているかどうかが分かる」という主張は説得的なものにみえる。

ある人を私が愛していたとき、その人がいつも仏頂面だったとしても、さりげなく黙って魚のおいしいところを取り分けてくれたのだとしたら、私は愛を知ることができるだろう。

しかし、ストリンガーの方法説には問題がある。それは、愛の騙りを見抜けない可能性が高いことだ。

例えば、ある人が、「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。しかし傍からみれば、それは愛というより明らかに支配欲の表出であり、ちっとも幸せをもたらさなかったり虐待的であったりする。しかし、しばしば、そういう状況にいる人は、「ああ、これがあの人にとっての愛なんだ、答えなくては」と無意識の自己欺瞞に陥り、人生を疲労させていくものだ。これを批判できるような枠組みを私は作りたい。

愛のニーズ応答説

私が主張するのはシンプルな説である。

愛のニーズ応答説:「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができる。

愛のニーズ応答説は、私の愛のニーズに相手が答えてくれるかどうかによって愛を知ることができると主張する。例えば、私に叱る人に対して「そういう叱り方はやめて」であったり「その指摘はおかしい」というニーズに対して応答してくれるならば、私を愛していると知ることができる。

これは、相手の愛する仕方を重視するストリンガーよりももう一歩、あの人と私の愛の関係性(あるいは私の好みの言い方で言えば間柄)を含みこんだ理論である。

友人の哲学者が言った「個体であるあなたと私がたまたま出会ってぶるぶる震えているだけが愛ではない」と*1。互いのニーズを互いが理解して、調整し合って生き続けていくことが愛である。この直観を拾い上げるのがこの愛のニーズ応答説だ。

この説はモラルハラスメント的なあのひとの発言から愛を知ったという勘違いを回避することができる。あの人の愛する仕方があるのはそうかもしれないが、同時に、私の愛されたい仕方も存在する。私の愛のニーズを無視することは、どのような性格を相手がもっていたとしても、私を愛することにはならないと私は主張する。

同時に、愛のニーズ応答説は、つねにあの人と私がコミュニケーションの関係にあることを強調する。私のニーズに対して、あの人のニーズもまた表明され、互いのニーズの落ち着きどころを日々探っていくことになる。この努力や気遣いの過程のなかでのみ愛する行為は可能になるのだ。それゆえに、あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るためには、私もまたあの人をほんとうに愛していなければならない。現実の愛は、交渉の不必要な作り事の愛とは異なるのだから。

もちろん、私の愛のニーズが不当であるケースもある。いわゆる「試し行動」といったものは、私があの人の愛を確かめようとして、私の真のニーズというよりもただ試すためだけに無茶な要求をしたりすることである。それが軽微な場合はかわいらしいものだが、重篤なものになると、それは相手に対する危害を構成する。愛のニーズの真正性も重要になるだろうが、ここでは議論しない。

おわりに

愛のニーズ応答説は、私の愛する行為について想定を前提にしている点で議論の余地があるだろう。しかし、どのような関係においても、自分のニーズに対する応答があるかないかによって、ほんとうに愛しているかを判断することは案外容易にできるのではないか。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るのは簡単である。あの人が私の想いを聞き届けてくれるかどうか、ただそれだけなのだから。

参考文献

伊藤迅亮. (2023). 私的対話.

Stringer, R. (2024). How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love. In The Philosophical Forum.

*1:伊藤迅亮との私的な対話に基づく(伊藤 2023)