Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

「芸術の定義とファインアートの歴史的起源」

概要

近代社会のうちで芸術は本質的にイデオロギー的な機能を持つ。もしこの主張が正しいのなら芸術の定義をめぐる議論は見当違いなもので、取りやめられるべきものである。とする、クロウニーによる「芸術の定義とファイン・アートの歴史的起源」のまとめノートです*1

まとめ
  • 近代的な芸術の体系(≒芸術の定義)は論理的に定められているのではない。それはイデオロギー(経済的、階級的、社会的な機能を持ちつつもその機能の存在を隠蔽しながら作動するもの)的であり、その機能に従って芸術/非芸術の判別を行っている。これを穏健なイデオロギー説と呼ぶ。この説に従えば、論理的な芸術の定義づけの試みが見当違いであることが判明し、加えて、芸術/非芸術の境界に関するよりより説明が可能になる(かもしれない)。
キイ・ワード

 

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 I. イントロダクション

この論文では以下の主張がなされる。

  • 近代社会のうちで芸術は本質的にイデオロギー的な機能を持つ。もしこの主張が正しいのなら芸術の定義をめぐる議論は見当違いなもので、取りやめられるべきものである。

前件はクリステラー、シナー、ブルデュー、イーグルトン 、マティックを参照し、明らかなものとされ、この論文では詳しく議論されない*2

この論文では、18世紀に近代的な芸術の体系が誕生したというクリステラーたちの主張を正しいものとする。クロウニーによれば、近代的な芸術の体系とは、以下のような概念である。

  • 近代的な芸術の体系:諸芸術それ自身、加えて、芸術というカテゴリーが存在するという概念、そしてその芸術のカテゴリーと関連する制度、慣習を総称した概念である。

そして近代的な芸術の体系は、近代における経済的、社会的、階級的な条件と関係して発展した概念であり、ゆえに、イデオロギー的である、とみなすことができる。
芸術の定義には、一貫性が見当たらないにも関わらず、現実には機能し、他の活動と区別されている。ここから、芸術の定義はイデオロギー的な機能を持つ、とみなされる。 

II. 芸術の定義について

わたしたちは日常的には、芸術という言葉をどのように用いるのかを熟知している。しかし、言葉の使い方を知っているからといって、あるものが芸術か非芸術かを判断できない。わたしたちが求めているのは、あるものが芸術であるための必要十分条件である。例えば水のような人間の意図と関わりなく存在するものならば、その本質的な定義を人間の意図と関わりなく述べることができる。しかし、芸術という概念は人間によって創られ、その使用や解釈において人間の意図を伴っているために、その概念が人間の実践のうちでどのように用いられているのかについて分析する必要がある。ここでさらに、芸術の概念は、ある特定の時代に、ある特定のイデオロギー機能を担って生まれたものである。ゆえに、論理的な一貫性を見出すことができない。ゆえに、芸術の定義の試みはうまくいかないとクロウニーは主張する。

III. なぜ歴史的起源説は芸術が定義できないと主張するのか

クリステラーたちの主張が正しければ、次の主張が成り立つ。

  1. 近代的な芸術の体系(制度と慣習と関連づけられたファイン・アートという概念、そしてファイン・アートを構成するそれぞれの芸術がひとつの特有の本質を共有しているという概念)は18世紀の西欧に源を発する。
  2. その誕生から今日まで、近代的な芸術の体系は、近代的な資本主義社会を支えるにあたって、強力なイデオロギー的役割を担ってきた。
  3. 近代的な芸術の概念はファイン・アートという概念の直接的な継承者である。当然概念の歴史的な発展を考慮しても、同じ概念であると言える。

一つ目の主張はクリステラー『近代的な芸術の体系』において提唱され、シナー『芸術の発明』によってさらに詳しく述べられている。シナーによれば、古典的な芸術の体系においては、芸術作品の概念は、熟練の技という意味を意味していた。この熟練の技という概念はギリシア的なものであるとされる。そして、18世紀の初めになってもまだファイン・アートという概念は生まれていなかった。
近代的な芸術の体系の誕生には、次の三つの出来事が必要であったとされる。

  1. 限定された芸術の集合
  2. その集合を容易に同定するような広く受け入れられた術語
  3. その集合を他のすべての活動から区別するような、広く認められた規準

ファイン・アートの興隆に従って、制度(アカデミー、美術館、コンサートホール)や慣習(批評、鑑賞の作法)も発展していった。
近代的な芸術の体系の誕生は、ひとびとに新しい経験と鑑賞、そして芸術家に新しい役割をもたらした。

ファインアートというラベルは過去の人々が行っていた物事への何らかの洞察をわたしたちに与えるのか、あるいは、わたしたちは彼らの実践をわたしたちのカテゴリーに単に同質化させようとしているだけなのか?

前者の説を検討してみよう。
ファイン・アートというラベルがわたしたちに何らかの洞察を与えると主張する際、どんな論法を用いることができるだろうか? ひとつに、ファインアートというラベルの誕生は、18世紀の発展をある種の文化的分化(cultural differentiation)の結果物であると主張することができる。この分化のうちで、普遍的で価値のある人間の活動(諸芸術)が発展し、区別され、そしてそれ自身の場を得ることになった、と主張する。

ここで、この主張に関して二つの問題をあげることができる。

  1. 前近代においても、高度な技術と、豊かな批評の実践が存在していた。つまり、ファイン・アートというラベルがあってはじめて、芸術的な活動の発展や発達がなされたとは言えない。
  2. もしファイン・アートというラベルが文化的分化の結果物ならば、それが参照している人間の諸々の活動をより明確に説明できるはずだが、現実にはそうではない。

ゆえに、ファイン・アートというラベルは概念的に一貫性のある仕方では定義できない。

IV. 芸術のイデオロギー的機能と芸術の定義

ある言説をイデオロギー的であると呼ぶためには、その言説を生み出した者とは異なる読みがなされなければならない。すなわち、その言説を生み出した者たちには正確には意識されないでいたけれども、その言説を支えている諸仮定のセットを認識するような読み方がなされる必要がある。

イデオロギーは階級、人種、ジェンダー、富、その他の権力の構造といった概念と関係する隠された仮定のことである。

ここでクロウニーはイデオロギーと芸術に関するマティックの記述を引用している。

近代的なイデオロギーは、文化にはそれ自身の歴史があるのだとする考えによって特徴づけられる。加えて、文化それ自身の歴史というものは、文化について考えている者たちに作用している他の要因とは無関係に働いている思考の論理を伴うとされている。近代になってはじめて、18世紀以来ファイン・アートとしてまとめあげられた実践の一揃いが上述の意味でのイデオロギーの重要な要素となった。こうして、ファイン・アートは歴史的に自律性のあるものとして見做されるようになり、生産労働やありふれた生活一般とは対置されるような法律、倫理性、宗教、そして哲学と並ぶ「精神」の領域の一部であると見做されるようになった。近代的な芸術概念の特異性は、芸術概念によって定められた自身の言葉の中では説明できない。芸術は、のちに資本主義と呼ばれるような商業的な生産の様式のうちで発展した。芸術(とくに美学)—あるいは芸術の自律性—と相反するものと見做されているこうした商標的な生産の様式から芸術を理解することによってのみ、芸術は理解可能である。Mattick, Paul. Art in its time: Theories and practices of modern aesthetics. Routledge, 2003. p.3

クロウニーは、芸術の定義はイデオロギーであるとする自説を、穏健なイデオロギー(moderate ideological thesis)と呼ぶ。(これは、芸術がイデオロギーそのものでしかないと主張しているわけではない。ただ、鑑賞のある側面はイデオロギー的でありうるとは主張する。)

穏健なイデオロギー説の利点

  1. 近年の芸術の定義の多くを根本に立ち帰らせる。制度的/歴史的定義も現実のアートワールドの構造や働きを考慮できていないということを指摘する。
  2. 芸術のカテゴリーの源泉や存続に関する現行の定義とは別の説明が可能になる。
  3. 芸術と非芸術の区別が明らかに恣意的であるその理由を説明しうる。
  4. 芸術の定義や芸術の理論が説明できていない、芸術と非芸術の境界の変化を説明できる。
  5. 芸術と非芸術の境界は概念的な一貫性に基づいて画定されているのではなく、様々な社会的原因に基づいて画定されることを明らかにする。

V. 二つの反論に関する反駁

i. 反論:小文字の芸術

  • 小文字の芸術説:近代的な西ヨーロッパのファイン・アートという概念は、より一般的な意味における芸術(すなわち、諸文化をまたいで、人類史にわたって、普遍的に存在するような芸術(あえて名付ければ大文字の芸術))の特別な形式に過ぎない。

この主張が成立するには次の二つを証明しなければならない。

  1. 諸文化をまたぎ、またさまざまな時代にわたって存在する大文字の芸術の概念の核(そして音楽から映画に至るさまざまな諸芸術の実践を含むような核)を捉えるような定義を提出しなければならない。
  2. ファイン・アートが歴史的、イデオロギー的な機能を持つという主張に整合的であるためには、小文字の芸術説論者は、非西欧の社会と芸術との関係に注意を払う必要がある。具体的には、芸術の実践に対するその他の社会的な影響について明らかにしなければならない。18世紀の西ヨーロッパの影響範囲外にある文化において、その他の活動と区別されるようないわゆる芸術と呼ばれる実践についての事実を取り扱わなければならない。

[大文字の芸術があるのだとして、西欧の18世紀に起源を持ち、イデオロギー的な機能を持つファイン・アートという小文字の芸術がその大文字の芸術の一形式に過ぎないのだとする。すると、非西欧の社会における小文字の芸術は、ファイン・アートとは異なる社会的影響下や歴史において誕生し、独自の実践や機能を持つはず。もし、大文字の芸術の存在を主張するなら、こうした非西欧の社会における小文字の芸術についての事実を提示しなければならない。]

つまり、小文字の芸術説論者は、他の文化において、意識的にではないにしても、実際的に、わたしたちがそうしているように、しかしイデオロギー的な内容なしに、ひと組の実践と経験とを芸術として他の活動から区別していること、あるいは、そうした区別をしていなかったとしても、事実、ある実践と経験が、人間の生の一貫していて分離されている側面を形成していることを示す必要がある。

しかし、こうした小文字の芸術たちが西欧の影響なしに存在しているという事実は見つからない。ゆえに、小文字の芸術説は成り立たない。

ii. 不適切な還元主義

反論:穏健なイデオロギー説は、美的な経験やその価値を、経済的、階級的な機能に還元してしまっている。つまり、穏健なイデオロギー説は不適切な還元主義説である。

再反論:穏健なイデオロギー的説は特定の芸術や特定の経験の持続性や本性について、それらすべてがイデオロギー的であるとするような主張ではない。穏健なイデオロギー説は、一般的な近代的な芸術のカテゴリーの存在とその特徴をイデオロギーという側面から説明しようとする。芸術に関係するすべての経験をイデオロギーによって説明しようとするものではない。

補足:個々の芸術の鑑賞においてもイデオロギーは部分的に機能している。例えば、趣味にはイデオロギー的な側面がある。もちろん、そうした趣味においてもヒトの生物的な機能も同様に機能している。そうした事実を穏健なイデオロギー説が無視しているわけではない。

ここでクロウニーによって主張されている穏健なイデオロギー説は、近代的な芸術の体系に関して、何が芸術として定義され、何が定義されないのかは経済的、階級的な、総称して社会的な制度と慣習によるものだということを主張している。すなわち、近代西欧において、あるものが芸術か否かを判定する基準は論理的というよりもイデオロギー的であるということのみを主張している。

そして、すべての芸術に関する経験や鑑賞が(部分的には可能でも)イデオロギーという側面のみから説明できるといったことは主張していない。

VI. 結論

芸術か否かの判定は歴史的な起源を持ち、イデオロギー的な役割を持つ。ゆえに(純粋に論理的なやり方による)芸術の定義はうまくいかない。
ひとつのまとまった芸術という観点からではなく、個別の芸術に注目する重要性。

コメント

クリステラーの正しさへの疑義

クロウニーはクリステラーたちの主張が正しいものとして議論を進めている。しかし、少なくともクリステラーの論文に限って言えば、近代的な芸術の体系の誕生以前には、近代的な芸術の体系と同様に、ある程度はっきりとしていて、ひとつの基準に則ったような、いかなる芸術の体系も存在しなかったという主張とその主張の論拠とされる資料の解釈の多くは信用できないとわたしは考える(Young, James O. "The ancient and modern system of the arts." British Journal of Aesthetics 55.1 (2015): 1-17を参照)。ゆえに、クリステラーたちの主張がいかに自明なものに思えても、その主張の妥当性を検証しなければならない。

議論の前提

イデオロギーという概念の取り扱いに対する批判。クロウニーの定義では、あるものがイデオロギー的な機能を持つ=階級的な、経済的な、社会的な機能を持つことを意味する。しかし内実は曖昧である。クロウニーの想定する機能とはなんなのか。いつ、どこでそのイデオロギーが機能するというのか、そのイデオロギー的な機能なるものが、どの程度近代に特徴的なものなのかが明らかにされているとは言えない。イーグルトンやブルデューを引っ張ってきて、芸術はイデオロギー的であると単に結論しても説得的ではない。

ただわたしはイーグルトンもブルデューも読んでいないので正当な批判を行うことができない。したがって読まなければならない。

*1:Clowney, David. "Definitions of Art and Fine Art's Historical Origins." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 69.3 (2011): 309-320.

*2:第1部のまとめ:"The Modern System of the Arts" Part I P. O. Kristeller - Lichtung