Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

波動、じぶんと作品との緊張

塚脇淳×工藤聡×関典子

「波動」

塚脇淳の鉄の彫刻作品と工藤聡、関典子というふたりの舞踊家の舞踊の組み合わせの作品。 

この実験展を図式化するなら

"完全さと不完全さ-作品とじぶん-立っている彫刻と立っていられないからだ"

となるだろう。

《作品のスケッチ》

関典子は踊らない。それどころか立っていられない。意識を失って倒れるその寸前、ふたりの黒ずくめの男が彼女を支える。不気味な鉄や鎖のぶつかる音が聞こえてくる。

そこに慈悲や人間的なやり取りはなく、ただ男たちは調子の悪い機械にするように事務的に彼女の転倒を阻止し続ける。彼女は立っていられないが、立てないままにいることができない。

工藤は彫刻を前にして痙攣する。それから足萎えて立てなくなる。何度も立ち上がることを繰り返し、だが失敗し、地面を這いつくばり、眼を開いたまま死の一瞬前のような表情を浮かべる。死の一瞬が延々と引き伸ばされる。彼は立てないのだが、立てないままにいることができない。

最後、関は彫刻の上に乗り静止する。

工藤は遠いコラールに応答し、導かれるように立ち去る。

そして彫刻は立っている。

《分析》

ふたりの舞踊家は「立てないこと、にもかかわらず立たねばならないこと」を示そうとしているのだと私は見取った。価値付けを抜きにして人間の人生を莫大な徒労の塊として表そうとしているのだと感じた。立てないことを塚脇の彫刻と対比させようとしているのではないか、彼と彼女は立ち続けることのできる彫刻と対決しようとしているのだと私は判断した。

舞踊家のふたりの闘いの姿勢に私は共感する。ときに完璧な作品は不完全であるしかないわたしに暴力的な美として迫ってくる。その美に窒息させられそうになる。わたしの不完全さを告発されているように感じてしまう。わたしは不完全さを受け入れなければ、心をなくしてしまいそうになる。

完全であれという指令との対峙。立たせられることへの疑問。

彫刻家のひとりの問いの姿勢に私は共感する。より研ぎ澄まされたもの、より純粋なものを求める行為が、不完全であるしかないわたしの不完全さを追い越してくれるような感覚。美によってここから飛び立てるような喜び。わたしは完全さを求めることで不完全さの泥沼に陥らずにいられる。

完全さを求めたいという願い。立ち上がること。 

わたしは立っていられないのだが、なおも立ち続けることを欲望する。わたしは不完全であるしかないのだが完全さを求める。

《最後に、見つけ出した問い》

わたしはふたつの見方に共感する。けれどもこの共感は完全さと不完全さをめぐる完全に二項対立的なふたつの立場への矛盾した共感ではない。ふたつの違う層からの見方への共感である。

舞踊家の表現と彫刻家の表現とはすこしずれている。

舞踊家は、「じぶん」に完全さを求める悲痛を表す。

彫刻家は、「作品」に完全さを求める喜びを表す。

このふたつを同時に肯定することはできる。だが、作品に完全さを求めるひとがいつしかじぶんに完全さを求めるとき、苦しみははじまるだろうし、じぶんが不完全であることを認めるひとが作品の不完全さを甘受するとき、堕落ははじまるだろう。

だがこの断言はあまりに優等生的ではないか?

じぶんと作品をそう簡単に切断できるだろうか。これがじぶんと表現、じぶんとじぶんの決断、じぶんと選択、と敷衍していけば…? いつしかじぶんと作品との境界は溶け落ちていくのではないか?

じぶんと作品とがどんな距離を保つべきか。

どんな緊張感と親密さをもつべきか。という問いはこれからも問いとして保持されるべきだろう。