Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

廃墟はなぜ魅了するのか?『摩耶観光ホテル』に行って廃墟を美学する。第13回応用哲学会発表「廃墟とペルソナ」資料公開

廃墟はなぜわたしたちを魅了するのかについての美学研究をしました。美学者の難波です。

2021/05/22に第13回応用哲学会のワークショップ「廃墟と亡霊たち」にて、広島工業大学萬屋博喜さん(ヒューム・哲学)と京都大学の松永伸司さん(ゲーム研究・美学)と共同発表してきました。オンライン開催、休みのお昼下がりに70名ほど来ていただいて、とてもうれしかったです。

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廃墟の亡霊

廃墟に行ったときに感じる、あのいわく言い難い寂寥感、しかし安心した感じ、どこか後ろめたい仄暗い快楽……とは何なのか。こうした疑問から、わたしは廃墟に行くことで感じられる美的経験を分析することにしました。

まずは文献を読み、廃墟の美学小史をつくりました。ちょっと並べてみましょう。

  • 1961:ポール・ザッカー「廃墟––––美的ハイブリッド」。歴史的な廃墟鑑賞態度を絵画作品から読み解き、18世紀において廃墟は自然に侵食されながらも建築家の目指したものを幾分か保持し、オリジナルな作品のよさも含め鑑賞されていたとする。
  • 1982:フロレンス・M・ヘツラー「廃墟の美学:存在の新たなカテゴリ」。自然と人工物、そしてそれを鑑賞するわたしたちが作り上げる新しい種類の「廃墟美」をもたらす対象として廃墟を特徴づける。
  • 1983:ドナルド・クロフォード「自然と芸術:弁証法的関係」。廃墟を自然と人工物が「弁証法的」に作り上げる「ハイブリッドオブジェクト」として特徴づける。廃墟の他にランドアートの話もメイン。スカブローの「古典」「ロマン主義」の区別の参照元
  • 2001:クリストファー・ウッドワード『廃墟論』。物語作品を手がかりに廃墟のイメージを探求。歴史的な話。
  • 2004:ロバート・ギンズバーグ『廃墟の美学』詩も含めた多岐にわたる廃墟イメージの分析。
  • 2009:グレン・パーソンズ&アレン・カールソン『機能的美』。機能をうまく果たしているものが機能美を持つとする立場から、機能を果たしていない廃墟は非機能的な面は美的欠陥だが、その表出的価値によって欠陥は見逃されるとする。
  • 2014:ジェニファー・ジュドキンス「もうそこにはないものについて」。既に失われたものを失われている場所で鑑賞する経験について。真正性や場所の感覚との関係を指摘。
  • 2014:ジャネット・ビックネル「建築的幽霊」。「建築的幽霊」と呼ばれる痕跡から過去の創造的に再建される建物について、設計図だけの建築や写真から想像される建築などと比較。建築の身体経験との差異、喚起される情動について。
  • 2014:キャロライン・コースマイヤー「時の勝利:ロマン主義の再来」。歴史的価値と、美的価値に関与する歳月的価値を区別。時間経過を重視して廃墟を特徴づけ「崇高」などの経験を廃墟経験に結びつける。
  • 2014:エリザベス・スカブロー「想像されざる美」。ジュドキンス、ビックネル、コースマイヤーの説を批判。
  • 2015:エリザベス・スカブロー「廃墟の美学」スライド中に詳細。

どれもけっこうおもしろみがあるので気になった方は読んでみてください。

それに加えて、廃墟についての語りを分析してみました。すると「面影」「人の気配」といった人間的な要素が廃墟の良さとして指摘されていたんですね。

軍艦島は昔栄えていたけれど、廃れていって、廃墟化してそのまま荒れるにまかせるようになっている。死んでいるまちだけれど、まちには人の生きている気配がある。人の息吹をいまだに感じるという部分があったんですね。自分のいとこは死んでしまったけれど、彼女の存在というものはどこかで感じている。そういうところと重なったのがきっかけで、廃墟を求めて縦横無尽にうろうろして、写真を撮るようになったというわけです。(西川&山崎 2021, 3、強調は筆者)

さて、こうした経験をどう概念化するか……? 発表とは名前を変えつつ概念を提示すると*1

人影:人間の生活の痕跡から想像的に再建される人間の仮想的な身体と振る舞い。

人は、廃墟に訪れたとき、そこにある様々な壊れたオブジェクトをただそれとして知覚するだけではない。人は、そのオブジェクトの配置から「ここに住まっていた人々はどのような習慣的なふるまいをしていたのだろうか」と想像し、その想像が高まったときには、その人の横顔さえ想像できるようになる。オブジェクトから想像される存在したかもしれない人々の振る舞い=人影が廃墟から立ち上がることで、わたしたちは廃墟に人の姿を見出し、それを味わっているわけです。

廃墟に行ってみた「摩耶観光ホテル」探訪篇

これだけだと本当にこの概念がいい感じに使えるかわからないので、試すために廃墟に行ってみた、というのが、この発表のおもしろいポイントかなと思います。立ち入り禁止のところ、ご協力をお願いし、保存グループの方にご案内していただきました。写真の一部をご紹介しましょう。

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作為の自由な戯れ

廃墟に行った結果、当初考えていなかった廃墟の美的経験の特徴を発見しました。スライド中では「意図の自由な戯れ」と呼んでいますが、作為の自由な戯れにしようかなと思っています*2

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芸術作品は作為によって作られ、作為を認知する。環境などは作為なしに作られ、しかし作為を認知してしまう。この両者の間に廃墟はあり、作為があるようでないようで、やはりあるように見える……こうした作為の自由な戯れが独特の美的な快楽を生み出しているのでは、というアイデアです。

いずれも生成途中なので、これからもっと発展させていきたいですね。

資料はこちらです。

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*1:川瀬和也、大岩雄典、銭清弘の指摘による。

*2:銭清弘の指摘による。