Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

芸術と倫理、倫理的批評

芸術の倫理と倫理的批評に関するサーベイ論文を読んだのでまとめました。「倫理的批評って可能なの?」「芸術作品と倫理はどう関わるの?」といった疑問を抱いている方はご一読ください。

・Giovannelli, Alessandro. "The ethical criticism of art: A new mapping of the territory." Philosophia 35.2 (2007): 117-127.

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倫理的批評とはなにか

芸術は倫理的に批評しうるか、という問いは、20世紀の後半にはいってふたたび分析美学のまじめな問いとして見直されることとなった。それに伴い、分析美学において芸術とその倫理的批評に関するさまざまな立場が現れた。この論文では、そうした立場を実践に沿うようなかたちで整理する。

筆者は芸術に対する倫理的批評についてのさまざまな立場を包括的に、そして実践に沿うようにマッピングすることを目指す。というのも、現行のさまざまな立場の包括的な理解はなされておらず、議論にもやや混乱がみられるからだ。そこで、マッピングのために、どの立場からも受け入れられるような前提を提示することが第一の目標とされる。
まずは、倫理的批評とはなにかという確認をする。

  • 倫理的批評(ethical criticism):ある芸術作品に対する芸術的価値の価値づけに際して、その作品の倫理的ステータスや倫理的価値を考慮する芸術批評の実践。

倫理的批評はふつうに行われている。たとえば、リーフェンシュタール『意志の勝利』について、そのナチズムのプロパガンダ映画としての地位がその芸術的価値を損なうとする批評がそれだ。ある作品が芸術的価値をもっていても、その価値を倫理的な欠陥が損ないうるものだという考えじたいは突飛ではない。しかし、倫理的な欠陥はどの程度芸術的価値を損なうのか、倫理的な欠陥が指摘されるのは芸術作品に関するどの側面なのか(すなわち、その制作過程なのか、その作品がひとびとに与えた影響なのか)といった疑問ははいまひとつ明らかではない。

そこで、手はじめに、どのような立場を取るにせよ共有できるような一般的な原則について確認する。

三つの原則

  1. 倫理的価値づけ可能性:芸術作品は倫理的価値づけの対象になりうる。
  2. 基本的な価値の多元主義:芸術作品は、すくなくとも見かけ上は異なってみえるような、さまざまな価値づけの対象である。
  3. 倫理的側面への関与性:芸術作品のどのような倫理的側面が芸術的価値に影響しているのかは、個別に決定される。

以上は倫理的批評に関するいずれの立場をとるにせよ、議論の前提としてじゅうぶん認められうる原則である。
というのも、倫理的価値が芸術的価値に影響する(すなわち倫理的価値のあり方が芸術的価値に影響し、後者を減じさせたり増やしたりする)かしないかはべつにして、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になっていることを否定することはむずかしいし、芸術作品がその芸術的価値のみ(あるいは経済的価値、倫理的価値)に基づいてその価値づけがなされるとみなすにせよ、芸術作品が見かけ上は異なるさまざまな価値づけの対象になっていることは疑いようがないし、芸術作品のさまざまな倫理的側面(すなわち、その制作過程の倫理的問題、埋め込まれた主張内容の道徳性、あるいは鑑賞者に与える道徳的な影響)のうちで、どれがじっさいに芸術的価値と関与しているのかについてはさまざまな立場を取ることができるだろう(これについてはのちほど具体例をあげる)。

こうしたいっけん当たり前にもみえる原則の明確化は重要だと筆者は主張する。

というのも、こうした明確化によって、じっさいには存在しないような立場を考慮しないで済むようになり、無用な混乱なく議論を行えるからだ。たとえば、こうした原則を否定するような極端な立場にも倫理的批評のひとつの立場としての名前が与えられているが、しかし、そうした立場をじっさいにとる論者はほとんどいない*1。にも関わらずありうる立場として名を与えられているために混乱を招いている。しかし、存在しない立場を設定することによる不必要な議論の複雑化は避けるべきだろう。なので、じっさいに共有されうるだろう前提を設定して、そのうちでのおのおのの立場を整理することが重要なのだ。

つぎに、筆者は以上の原則に基づき、さらにいくつかの要素を導入し、さまざまな論者がじっさいにとっているだろう立場を分類する。

新しい分類法

  • 過激な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。しかし、倫理的価値は芸術的価値に何ら影響しない。
  • 穏健な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。そして、芸術作品の倫理的ステータスは、ある場合において、その芸術的価値に影響する。しかし、その影響関係はつねに非規則的(unsystematic)なかたちでしかありえない。
  • 過激な道徳主義:芸術作品の、倫理的価値はその芸術的価値に規則的(systematic)に影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。
  • 過激な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に(in a reverse manner)影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。

以上は筆者の分類を整理し直したものである。

この六つの分類に際して、筆者によってあたらしい要素が導入されている。それは、「規則的/非規則的」および「芸術種や芸術ジャンル」という要素である。かんたんに説明を加えておこう。

  • 規則的(systematic)/非規則的(unsystematic):いっぽうの価値の多寡がたほうの価値の多寡と規則的に対応している/していない。(例:経済的価値と芸術的価値はふつう非規則的にしか関係していないと考えられている。すぐれて芸術的価値のある作品が必ずしも経済的価値をもつわけではなく、経済的価値をもつ作品が必ずしも芸術的価値をもつとは限らない。)
  • 芸術種・芸術ジャンル:芸術種は「絵画」や「音楽」といった芸術のカテゴリ。後者はさらにきめの細かい「印象派」や「ダブステップ」といったジャンル。

ここで反比例的に影響するとはどういうことか。議論において指摘されているのは、道徳主義においてはポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響すること、逆に、不道徳主義においては、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響するとされているということだ。

さて、こうした分類はどのていどきめが細かいのだろうか? 筆者はとくに穏健な立場に関して多くのヴァリエーションがあることを指摘し、こうしたヴァリエーションをうまく分類に含み込んでいることを主張する。

ヴァリエーション

穏健な立場(そして過激な道徳主義と過激な不道徳主義の立場)にはさまざまなヴァリエーションがありうる。ここで筆者の指摘を三つにまとめることができる。

  1. 倫理的側面の多元性
  2. 影響関係の強弱
  3. 芸術種と芸術ジャンル

作品のどの倫理的側面が芸術的価値に影響するかについて、そしてどの程度影響するかについて、さらにそのような影響がどの芸術種やジャンルには認められるかについて、同じ立場をとるひとであってもとうぜん異なりうる。たとえば、倫理的な主張は芸術的価値に規則的に影響すると同時に、その制作手段の倫理性は、非規則的なしかたでしか芸術的価値に影響しないとする立場(主張の道徳主義+制作手段の自律主義の立場)もありうる。

つぎに筆者があげているわけではないが、理解のために具体例をあげやや詳しく議論してみよう。筆者のまとめじたいに興味があるかたもざっと見ていただければと思う。

地獄変」のケース

たとえば、芥川龍之介の「地獄変」にみられる架空の屏風絵『地獄変』について考えてみよう。これは、娘が火に呑まれるさまを実の父良秀が活写した末に出来上がった逸品とされる。さて、いまあなたの目の前に、「これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映え」の地獄絵の屏風が鎮座している。この作品の芸術的価値はその制作過程の倫理性によって影響を受けるだろうか。それとも、登場人物が最終的に受け入れているように、制作過程がどうであれ、芸術作品としての価値は揺るぎないものなのだろうか。

多くのひとはこの作品の制作過程が「倫理的にわるい」ものだと判断するだろう*2。しかし、幾人かはその倫理的なわるさにもかかわらず、芸術的価値は損なわれないとするだろう。さらに、そうしたひとびとのうちには、作品の制作過程に関しては過激な自律主義的な立場をとり、その作品の内容は、ひとの悪行の行きつく先を余すところなく示しているとして、ゆえに倫理的によく、その内容の倫理性と芸術的価値に関しては道徳主義をとるものもいるかもしれない。

だが他のひとはその制作過程における「倫理的なわるさ」ゆえに、その芸術的価値がはっきり損なわれていると判断するかもしれない。この場合、制作過程において道徳主義的な立場をとることになる。

あるいは、その作品が制作過程における倫理性にかかわりなく芸術的価値をもつとされることで、すぐれた芸術的価値をもつ作品をつくるためならばひとに危害をくわえてもよいとする価値観が社会において認められてしまうかもしれず、そのことが帰結として「倫理的にわるい」ために、その作品の芸術的価値は、その倫理的価値に影響されるだと考えるひとがいるかもしれない。このようなひとは、作品の制作過程や内容に関してはべつの立場をとるにせよ、作品が帰結的にひとびとに与える影響に関して道徳主義的な立場を採用したいと思うだろう*3

マッピングの利点

こうしたマッピングによって三つの利点がえられると筆者は主張する。

  1. 包括的かつ明晰:さまざまな論者の立場をもれなく整理できる*4
  2. 普遍的かつ実践的:実践的な批評に即した分類である。
  3. なにが有効な反例となるのかが判明となる:典型的な立場に対してどのような反例が弱点となるのかを整理できる。

これらのうち、さいごの利点について解説する。

ここで、

W:その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品

を考えよう。

第一に、これは過激な自律主義と過激な道徳主義に対する反例となりうる。なぜなら、倫理的地位がたしかに芸術的価値に影響しているからであり、ふたつの価値は規則的なしかし反比例的な影響関係にあるからである。

しかし、第二に、後者の道徳主義に対する反例となるためにはさらなる条件が必要である。ある道徳主義者が注目している倫理的側面がWの不道徳性が帰属される倫理的側面と等しくなければ反例にはならない。たとえば、その制作過程の不道徳性がWの芸術的価値の達成に関係している場合に、ある作品の制作過程ではなく、ある作品が社会に与えうる影響について道徳主義的な立場をとっているのだとすれば、Wは彼女の立場に対する反例にはならない。

また、第三に、加えて、Wが穏健な道徳主義の反例となるのは、その論者が参照する芸術種やジャンルにWが属するときのみである。

そして最後に、Wが道徳主義に対する反例として提示された場合彼女は二つの応答を行うことができる。

第一に、Wであるとされた作品は、たまたま不道徳ではあるが芸術的価値をもつだけかもしれない、ゆえに、道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

ふたたび芥川の小説にあらわれる『地獄変』を例にとろう。この作品はその制作過程において倫理的な欠陥を抱えているとみなすことができる。さて、この作品はその制作過程の不道徳性ゆえに芸術的価値をもつのだろうか? そうではないだろう。その不道徳性にもかかわらずある芸術的価値をもつと言えるだろう。道徳主義が認めているのは、「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する」ということのみである。それに対する反例は、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」であって、「その不道徳性にもかかわらず芸術的価値を達成している芸術作品」ではない。たとえば、娘の死なしで済んだ『クリーンな地獄変』と小説の中の『ダーティな地獄変』が同時に存在したとしよう。前者は絵師が想像のうちで描きあげることができた作品で、後者は娘の悲劇的な最期なしでは描きあげられなかった作品であるとする。このとき、ほかの条件がまったく同一ならば、前者のほうが後者よりは倫理的価値をもつだろう。そしてまた、芸術的価値に関しては、どちらも変わらないか、前者のほうがより価値があるだろう。いずれにせよ、すくなくとも、いまの前提において、後者のほうが価値があると述べるものはかなりすくないだろう。ということは、いずれの『地獄変』も、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」ではないといえる。ゆえに、道徳主義の反例にはならない。ある作品がその不道徳性ゆえに芸術的価値をもつことが示されるまでは、その作品は反例にはならない。

第二に、その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品は、その芸術的価値も同時に損なわれているために道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

たとえば、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を達成しているジョークは、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を損なうだろう。ここでも「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響」しているのであり、道徳主義的な立場に対する反例にはなりえないとする*5

*1:たとえば⑴を否定し、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になり得ないとする立場にはキャロル(2000)によって「(キャロル的な言葉づかいで)過激な自律主義」の名前が与えられている。だが、このような立場をとるものはほとんどいないだろう。ゆえに、このような立場に対する呼び名は不必要だ。文献については後の注を参照のこと。

*2:もちろん、制作過程における倫理的わるさというのも通りいっぺんに判断できるものではないだろう。作中の描写のように娘が捕られ、屈強な武士がそばに控えている状態では、良秀はただみるほかなかったかもしれない。すると、事故現場をカメラにおさめるカメラマンの倫理的責任がふつう問われないように、良秀に倫理的責任はなく、制作過程において、その絵もまた倫理的にわるい光景を写しているものの、その制作過程のわるさは作品に帰属させるべきではないかもしれない。

*3:このような立場はキャロル(2000)によって「帰結主義」と呼ばれ、その反論が検討されている。なお、この論文は倫理的批評におけるさまざまな立場の分類に関しては筆者によって批判されており、その批判は正当なものであろうが、倫理的批評の見取り図としてはいぜん有用だと思われる。Carroll, Noël (2000). Art and ethical criticism: An overview of recent directions of research. Ethics 110 (2):350-387.

*4:筆者は、Anderson and Dean(1998)を過激な自律主義に、Jacobson (1997)を穏健な自律主義に、Kieran(2003)を穏健な自律主義かつ穏健な不道徳主義に、Carroll(1996, 1998)を穏健な道徳主義に分類している。Anderson, J., & Dean, J. (1998). Moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 150–166. Carroll, N. (1996). Moderate moralism. The British Journal of Aesthetics, 36, 223–238. Carroll, N. (1998). Moderate moralism versus moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 419–424. Jacobson, D. (1997). In praise of immoral art. Philosophical Topics, 25, 155–199. Kieran, M. (1996). Art, imagination, and the cultivation of morals. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 54, 337–351. Kieran, M. (2003). Forbidden knowledge: The challenge of immoralism. In J. L. Bermúdez & S. Gardner (Eds.), Art and morality. London: Routledge.

*5:この議論はやや理解しづらい。不道徳主義的立場と道徳主義的立場は同時にとることができるようなものなのだろうか。この主張のみをきくと不可能にも思えるが、倫理的側面に注目することで可能であるように思われる。たとえば不道徳な内容ゆえに芸術的価値を達成しているジョークも、その内容が鑑賞者に与える影響の倫理的わるさゆえに芸術的価値を損なうとするならば、道徳主義への反例とはなっていないことが理解できるだろう。