Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか?」PART II

PRT I→http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/03/17/215144の続きです。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

メイル・ゲイズ

前エントリの紹介までで、イートンの分析によって、視覚芸術が性的モノ化を行うことが示され、これにより、 女性のヌード作品の 第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。すなわち、女性のヌード作品が女性の性的モノ化をエロス化していることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードがエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化はただのモノ化でしかないからだ。どういうことか?
たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。さらに、物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びで笑いはしゃぐだけだろう。すなわち、モノ化を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

その見方は「メイル・ゲイズ(male gaze)」と呼ばれる*1

「メイル・ゲイズ」は規範的なものとして理解されなければならず、 当該の作品がそうすることを誘惑する 、性的モノ化を行う「ものの見方」……を指している。ある作品がメイル・ゲイズを体現していると言うとき、それはある作品がオーディエンスに、表象されている女性を -この場合衣服を着ていない女性の体を-第一義的に性的なモノとして(字義通りであれ比喩的であれ) 「みる」ことを求めているということを意味する。(強調は引用者)(p. 293)

ここで、あまりに多くの混乱が見られるために注記しておかなければならないことがある。それは、女性を性的なモノとしてみる見方のすべてがメイル・ゲイズではないということだ。女性を性的なモノとしてみる見方はわたしたちの一般的な知覚の一つの在り方でしかなく、それじたいいいものでもわるいものでもない。

そうではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方がメイル・ゲイズである。ここで第一義的であるということが重要だ。人間はいかなるジェンダーを問わず、性的なモノである以前にそれぞれにユニークなキャラクタと自律的な意志をもつ。にも関わらず、そうした人間的な特徴に注目せずに、性的なモノとしてのみみなすことが問題とされる。もちろん、親密な関係においてはあるいは合意のうえでは、ひとは性的なモノとして扱われることをみずから望む場合もあり、それは異常な状況であるわけでもない。だが、望みもしないのに第一義的に性的なモノとしてみなされるとすれば、彼や彼女の自己決定権を侵害していることになり、それは多くの場合問題視されるであろう。

女性はこうしたメイル・ゲイズのもとで生きざるを得ない、とイートンは指摘する。メイル・ゲイズは男性のみならず女性のうちにも内在化される。たんに男性が女性をそのようにみるだけではなく、女性がその見方のうちで自らの第一義的な魅力を性的なモノの魅力として読み取る。女性はメイル・ゲイズを内在化し、その見方を通して、「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如をみずからの性的魅力とみなして自己理解を行なってゆく」。これは女性の従属をエロス化してしまうために、さまざまなジェンダーにおける平等を重視する立場からは問題であるとされる。

イートンによれば、女性のヌードはこうしたメイル・ゲイズを強調する文化形式、すなわち、「ほかのあらゆる性格よりも女性の見た目や性的魅力を強調する」文化形式であり、「女性にみずからのアイデンティティ理解の理想型」をもたらしているとされる。まとめよう。

  • 女性の性的モノ化の表象は、女性を「第一義的に性的なモノとしてみる」メイル・ゲイズによって性的に魅力的なものとして鑑賞される。女性の性的モノ化の表象である女性のヌード作品は、鑑賞にあたってメイル・ゲイズを必要とする。鑑賞者が女性のヌード作品に魅力を感じることによって、内在化されたメイル・ゲイズが強化、維持される。そうすることによって、男女問わずメイル・ゲイズを内在化したひとびとにおいて、女性を第一義的にその見た目や性的魅力がほかのどの性格よりも重視されてしまうような性的なモノとしてみなす見方が強化、維持される。すなわち「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如」が女性の性的魅力であり、その性的魅力と女性としてのアイデンティティとが同一視されてゆく。これは男女のあいだに支配と従属という不平等な関係をつくりだす原因のひとつとなるがゆえに問題があるとされる。
  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-メイル・ゲイズ-女性のヌード-性的モノ化-女性

個体と一般

ここで、女性のヌードは女性一般をモノ化していると言えるのか? というのも実際の絵画においては個体としての女性が描かれており、ゆえに、女性一般をモノ化しているわけではないのではないか?
この問いに対してイートンは女性のヌードがいかにして女性一般のモノ化の表象でありうるのかについて二つの回答を提出する。

一つ目は女性のヌード表象が総称的(generic)であることによって。女性は同じポーズ、そして同じ顔や肌の色や身体的特徴をもつ識別できないようなものとして描かれる。こうして、女性の表象は総称的なものとして描かれうる。二つ目は理想的(ideal)であることによって。女性はしわや体毛などまったくなく、つねにつるつるとした理想的な体型の女性が描かれる。反して、男性たちはそれぞれの作家に特徴のある個別的な容貌をしている。こうして、個別の女性ではなく、女性一般を表象することができるとイートンは主張する。これらの理由として、イートンは、ピンナップ機能と規範的機能をあげる。総称的で理想的な女性の姿は男性たちのファンタジーに適しており、そしてそれは男女問わず、規範的な女性像として機能する。こうして、西洋における女性のヌードジャンルに属する視覚的表象は女性一般を描きそれを性的モノとして表象することができる。

性的モノ化の何が問題なのか?

これまで女性のヌードのみを扱ってきたために反論があるかもしれない。「男性のヌード」はなぜ問題ではないのか? 男性のヌードもまた性的モノ化の表象ではないか? それを看過しているフェミニストダブルスタンダードではないのか?

イートンはこうしたダブルスタンダード説を否定する。フェミニスト批評は性的モノ化それじたいを批判しているわけではない。そうではなく、西洋の美術史における女性のヌードという視覚的表象のジャンルがもたらす問題を批判しているという。

それでは、性的モノ化はどのようにして問題になるのか。この問いに答えるために、イートンは女性のヌードを巨視的な視点から分析することを試みる。すなわち、おのおのの作品のみに注目するのではなく、諸々の作品が全体としておかれる歴史的な文脈に焦点をあてる。ここで彼女は四つの問題点をあげている。

1. 衣服を着た男性、服を脱いだ女性

女性のヌード作品において、しばしば男性も描かれる。だが、両者ははっきりと非対称的である。同じ画面の中にいる男性は服を着ており、女性だけがはだけており性的モノ化されている。それだけではなく、男性は何かしら芸術的なあるいは知的な活動に従事している。イートンの例の一部を紹介しよう。

マネ『草上の昼食』 1862年1863年、 油彩、カンヴァス、 208 cm × 265.5 cm 、 オルセー美術館、パリ*2

テツィアーノ『ヴィーナスと音楽家と子犬』1550年、油彩、カンヴァス、138 cm × 222.4cm、プラド美術館マドリード*3

アルブレヒト・デューラー『測定法教則』より「横たわる女性を素描する人」1525年、ドレスデン国立美術館*4

だが、反対に、男性がはだけており、女性だけが服を着ている絵画はほぼみられない、とイートンは述べる。こうした非対称性は、女性の性的側面のみを強調する女性のヌードというジャンルに特徴的であるとイートンは指摘する。

2. 膨大な女性のヌード

 男性のヌード作品と比べて、女性のヌード作品は圧倒的に数が多い。それを傍証するように、芸術において、「ヌード」と言えばふつう女性のヌードを指す。こうした大量の女性のヌード作品によって、「性的なモノとしての女性」という女性のステレオタイプ化が行われている可能性をイートンは指摘する。

3. ヌードのマナー

男性のヌード作品もまた多く存在する。しかし、それらは性的モノ化されるような描写の仕方では描かれてはいない。イートンの例をみてみよう。

アントニオ・ポッライオーロ『Battle of the Nude Men』1465–75年、42.4 x 60.9 cm*5

ドミニク・アングル『Oedipus and the Sphinx』1808–27年、油彩、カンヴァス、189 x 144 cm、ルーヴル美術館*6 

オーギュスト・ロダン『考える人』1902年、ロダン美術館、パリ*7

女性のヌードは伝統的に描かれた女性を性的モノ化してきた、これに対して、男性のヌードは性的モノ化されていない。活動的で、強靭で、知的なものとして描かれている。

4. 女性芸術家の排除

ここで、イートンは、個別の表象ではなく、芸術を取り巻く環境に注意を向ける。彼女は、こうした女性の肉体の表象の豊富さと裏腹に、女性が芸術から排除されている点を指摘する。まず第一に、イートンは女性芸術家の排除を指摘する。近代や現代の女性芸術家の作品が芸術作品の正典としてあげられることはほとんどない。第二に、彼女が指摘するのは伝統的に女性によって作り出されてきた服飾やキルト、針仕事、陶器といった人工物はこれまで真剣に芸術作品として扱われてはこなかったことである。

こうした現象は直接個別の女性のヌードと関連するわけではない。しかし、「偉大な美術館に足を踏み入れたとき、芸術史の教科書を開いたとき、女性はクリエイターとしてではなく、たんに身体とのみ結びつけられており、そこから男性がマスターピースをつくりだすような生の素材として結びつけられている」とイートンは語る。こうした点から、女性芸術家は、芸術から排除されているとイートンは主張する。

まとめ

女性のモノ化の表象は女性のヌードと呼ばれる。女性のヌードは、男性のヌードと比較して、つねに女性を主体性がなく、受動的なモノとして描いている。このモノ化は、女性を第一義的に性的なモノとしてみなすメイル・ゲイズを通して、魅力的なものとして鑑賞される。西洋における女性のヌードの伝統は繰り返されることで、メイル・ゲイズを強化し、ステレオタイプな女性像を作り上げてゆく。そして男性の支配と女性の従属はエロス化される。このことによって、女性の従属がもたらされる。イートンがこれまで解説してきたのはこうした関係性である。翻って、ここで、女性の従属は道徳的に問題があるとされたとき、女性の従属をもたらす原因のひとつである男性の支配と女性の従属はエロス化は問題があることになる。そして男性の支配と女性の従属のエロス化をもたらすメイル・ゲイズには問題があり、さらに、メイル・ゲイズを強化する女性のヌード作品には問題がある。以上が女性のヌードがフェミニズム批評において問題視されている理由だ。

イートンは「あらゆる女性の裸体の表象=わるい」と言ってるわけではなく「西洋の芸術史のうちの女性のヌードという視覚的表象のジャンル」は男性の支配と女性の従属という関係を芸術の名のもとに美化してしまうために問題があるとする。こうしてフェミニズム批評の問題意識が決して不条理ではないことを示そうとしている‬。

疑問

イートンは時折、「女性のヌードは女性をモノ化する」と述べているが、この表現はイートンの主張をぼやけさせてしまうおそれがある。モノ化はつねに行為者とモノ化される対象のあいだで起こるために、女性をモノ化しうるのは特定の芸術家であって、女性ヌード作品ではないはずだ。ある表象がある女性をモノ化するという表現は、あたかもある表象が人格をもち、女性に対してモノ化を行なっているようだが、それはイートンの主張との関係では適切でない表現のように思える。なぜなら、女性のヌードが女性をモノ化するという表現は、女性のモノ化が自動的に起こるという印象を与えてしまうからだ。イートンが結論としてあげているように、女性のヌードが女性をモノ化することそれじたいに問題があるのではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方との関係において問題視されていることに注意を払う必要がある。

メイル・ゲイズについて疑問がある。たしかに、「女性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」が存在していること、そして、反対にこうした見方と比べれば「男性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」はそれほど普遍的な見方でもなければ、男性のアイデンティティを形成する見方でもないだろうことは、統計的事実というより日常的な常識としては確認できる。しかし、こうした無意識の意図をあぶり出すような指摘は、ときにどんな対象にも適用できるような恣意的な道具となるかもしれない。ゆえに、イートンが行ったように、こうしたメイル・ゲイズという枠組みが突飛なものでも恣意的なものでもないことを確認すること、そしてどのような限界や批判がありうるのかを調査していくことを今後のわたしの課題としたいと思う。