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J. グラント「隠喩と批評」

キャロル『批評について』に触発され批評の周辺を探索しています。

 

取り上げるのは、ジェームス・グラントの論文「隠喩と批評」(2011)。

この論文では、なぜ芸術批評においてしばしば隠喩が用いられるのか、批評家は隠喩によって何を達成しているのかが問われる。

前半ではまず分析のための道具を準備する。隠喩の性質に関してグラントが提唱する「ミニマル・テーゼ」が取り上げられる。いくつかの批判に応答することで、その理論を批評の分析に用いてもよいことを示す。後半では批評家が隠喩を用いて何をしているのかを実際の例を挙げて記述しつつ前半で擁護したミニマル・テーゼを用いて分析する。

似ている性と似させるもの

まず、隠喩一般を説明するミニマル・テーゼ(Minimal Thesis)とは次のような主張だ*1。 

  • 例外をのぞいて、隠喩の対象隠喩的要素によってもっていると特徴づけられるそれぞれの性質は、(i) 隠喩的要素によって指摘される似ている性、あるいは(ii) 隠喩的要素によって指摘される似ている性についての似させるものである*2

 ロミオが「ジュリエット! 明るく、美しい君は太陽だ!」と述べたとしよう。このとき、隠喩の対象(subject)は「ジュリエット」、隠喩的要素(element)とは「太陽」である。そして、隠喩的要素によって指摘される似ている性(likeness)とは、「太陽に似ている性」である。最後に似させるもの(likeness-maker)とはある隠喩の対象に対して似ている性を与える要素のことである。ここでは、「太陽に似ている性」をもたらすジュリエットの「明るさや美しさ」といった性質のことであるとされる。以後の批評の分析においてこの似ている性と似させるものの区別が活躍する。まとめれば、似させるものが似ている性をもたらす

次にグラントはこのミニマル・テーゼを擁護する。「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とするシブリー、スクルートンを取り上げ、彼らをグラントのミニマル・テーゼに批判的な立場になりうる隠喩に関する非実在論者とみなして応答する*3。だが、隠喩が実在するなんらかの性質を隠喩的対象に帰属させているかいないか、どちらの立場をとるにせよ、ミニマル・テーゼは成立しうるとされる。

隠喩の二つの種類:似ている性と経験

後半では、ミニマル・テーゼを用いて批評家がなぜ隠喩を用いるのかが分析される。分析のためにグラントは詳細な例をいくつも挙げておりそれぞれ魅力的なのだが、ここではそのすべてを紹介することはできない。彼の結論をまず提示しよう。

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞者に与える経験を知覚、想像、想起させるため
  1. 批評家は、作品を記述するにあたって、しばしば諸性質を帰属させる。なぜなら対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれているからだ。翻って、鑑賞は、しばしば特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えることを知覚・認識することを伴う。批評は、隠喩を用いることで、 特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えていることをわたしたちに理解させることができる。これが批評家がしばしば隠喩を用いる理由の一つである。
  2. 批評家は、読み手に、対象がもつ特定の諸性質の知覚、認識を引き起こすことを欲する。 それは、対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれている場合、すなわち、この経験[知覚・認識することそれじたい]を正確に想像したり想起することが 鑑賞のなかに含まれている場合である。だから、批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起してもらうことを欲する。隠喩を用いること、とくに新しい隠喩を用いることは、これらの狙いを達成する効果的なやり方である。このような隠喩を理解するには、当該の対象を知覚し、知覚を想像したり想起させたりすることなしでは困難なことが多い。したがって、こうした隠喩を用いることで、批評家は、彼女が望むものを知覚、想像、または想起させるよう読み手に対して促すことができる。さらに、隠喩は非常に特定的(specific)なものであるために、読者がこの経験を非常に正確に想起したり想像したりすることを保証しうる。

まず 1について説明しよう。これは隠喩のオーソドックスな使い方である。「似ている性を指摘する隠喩」と言える。

たとえば、グラントも例示しているように、ベルニーニ設計によるサン・ピエトロ広場の石柱(下図)について考えよう。これはしばしば巡礼者をかき抱く両腕に似ていると指摘される。批評家が「サン・ピエトロ広場は敬虔な巡礼者たちをつつむ大いなる手である」と隠喩を用いたならば、それは、サン・ピエトロ広場がもつ「楕円形」や「大きさ」といった似させるものが、巡礼者たちをかき抱く両腕に似ている性をもたらしていることを指摘しているのだとされる。そして、サン・ピエトロ広場を鑑賞するにあたり、こうした似ている性を知覚することがたしかに必要なのだ。

サン・ピエトロ広場*4

次に2について説明しよう。これは「経験を指摘する隠喩」といえよう。たとえばグラントはクラークによるラファエロ作品評を紹介している。

リズミックなカデンツが全体の構成を貫いている。上昇し、下降し、止まり、解放される、完璧に構成されたヘンデルのメロディのように。右から左へと……[エンジンに炭を注ぐ]火夫のような「川の神」が、英雄的な漁師たちの一群[覗き込む二人の漁師]へとわたしたちを突き入れる。彼ら一群の複雑な動きは、力の発条を巻き上げる。立っている使徒との巧みなつながりが現れる。彼の左手はとなりの漁師のはためくドロープの後ろにある。そして聖アンドレ[四人目]は句切れを、一連の流れのクライマックスを形成し、わたしたちの推進力を弱めることなく引き留める。と、最後に、驚くべき加速、聖ペテロの情熱的な動き。すべての装置はこのための準備だった。最後に、キリストの慰めの姿。聖ペテロの思いを確かめそして受け入れる手*5

ラファエロ『奇跡の漁り』(1515-1516)(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)*6

このクラークの批評は、絵画を鑑賞した際に体験される流れるような動きと静止のリズムの経験を読み手に与えるために隠喩が用いられる実例である。まず冒頭から、カデンツ(安定した響きから緊張した響きに移行し、最後にふたたび安定した元の響きに戻るという音楽的な流れ)を隠喩的要素として用いている。なるほど、漁師たちの動きが作り出す輪郭はまるでメロディのように上下している。はじめ火夫と隠喩された男から徐々に上昇してゆき、聖アンドレが一瞬進行を止める。次の瞬間、聖ペテロの祈りの姿勢へと下降しそのキリストへの祈りが強調される。このようにわたしたちがこの絵画を経験することを狙って、クラークは全体を音楽的な隠喩で覆っていることがわかる。

また、グラントによれば、クラークは、1. のように、ラファエロのこの絵画が音楽的であること自体が鑑賞に含まれているためにこのような隠喩を用いているのではなく、あくまで、ラファエロの絵画が鑑賞者にもたらす経験を指摘するために、その資源として隠喩を用いているという。「音楽的な進行」や「メロディ」といったよりわたしたちに馴染み深く了解可能な表現、すなわち、明白で特定的(specific)な記述を隠喩として用いることによって、より伝達が難しい「奇跡の漁りを鑑賞することによる経験」をうまく指摘することができるのだ。

グラントはこうした隠喩によって、「批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起」することを達成していると指摘する。

まとめと疑問

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞に与える経験を知覚、想像、想起させるため

はじめに隠喩の概念を明示することで、統一のある分析を行っており、なおかつ具体例を豊富に扱っているために、説得力のある魅力的な論文となっている。彼の分析は、批評文を書く際に行われている行為を整理することによって、批評実践の理解にも寄与していると言えるだろう。

だが、疑問もある。グラントがあげた例は、「行儀のよい隠喩」のみであるように思われる。その意味は時間をかければ理解できるし、あいまいさもそれほどみられないような隠喩である。わたしたちが当惑するとともに魅入られるような理解しがたい「不思議な隠喩」もある。これはたんに「行儀のよくない隠喩」なのだろうか。それともこうした隠喩でしか達成できないような目的があるのだろうか。それは、似ている性の指摘や、鑑賞がもたらす経験の指摘以上のものなのだろうか。このような芸術批評における「不思議な隠喩」が何を意図して用いられているのかについての分析が必要だろう。

*1:以下の似ている性、似させるものという訳は、フォーマルに訳せば「肖似性」、「肖似にするもの」とできるかもしれないし、隠喩に関する議論において定訳が他にあるのかもしれない。

*2:四つの例外が挙げられている。

  • ⑴似ていないことを示す場合。例:「人間は誰も島ではない」
  • ⑵似させるものの所有の仕方が複数の可能性の中でのある一つの仕方である場合。例:「サリーは氷の塊まりだ」においてサリーの情動的な無反応性がサリーに帰属させられている。無反応性は「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」だ。情動的な無反応性は無反応性ではある。しかし、情動的な無反応性はそれじたいでは「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」ではない
  • ⑶ある性質がある仮構の似ている性についての似させるものである場合。例:「バートはゴリラだ」において似させるものはバートの凶暴性であろう。しかしゴリラはそのように信じられてはいるものの、実際には凶暴性をもたない。
  • ⑷隠喩が隠喩の対象に対して、ある種Kについての似させるものを帰属させるが、その似させるもののF性は伝達しない場合。例:「カンディンスキーの絵画のフォルムはすべて動きとともに生き生きとしている」。このとき、「形が生き生きとしている性(あるK)をもつ」と指摘されているものの、その「生き生きとしている性をもたらす性質F性」については言及されていない。

    *3:たとえばスクルートンは、「この音楽は悲しい」という例を取り上げている。彼によれば、これは「彼女は悲しい」という表現と同じように、音楽を人格化して「音楽が悲しんでいる」ことを隠喩的に指摘しているのだとされる。しかし音楽は実際悲しんでなどいない。ゆえに「隠喩は作品にいかなる性質も帰属させてはいない」のであり、「そのように見える」という観点の主張に他ならないとした。しかしグラントによれば、「この音楽は悲しい」という表現が隠喩なのかがそもそも怪しい。この表現は「この音楽はわたしたちを「悲しくさせる」」という因果関係を指摘するものであって隠喩ではないと反論する。ゆえに、「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とする立場には疑問が残るとする。

    *4:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:St_Peter's_Square,_Vatican_City_-_April_2007.jpg#mw-jump-to-license

    *5:Clark, ‘Raphael: The Miraculous Draught of Fishes’, 64–65.

    *6:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:V&A_-_Raphael,_The_Miraculous_Draught_of_Fishes_(1515).jpg