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芸術社会学とともに、芸術社会学に抗して。ザングウィルとファウラー(1)

はじめに

本稿は、ニック・ザングウィル「芸術社会学に抗して」(2002)(Zangwill, Nick. "Against the sociology of art." Philosophy of the Social Sciences 32.2 (2002): 206-218.)のまとめです。

ザングウィルはこの論文において、「なぜひとは芸術作品をつくり、鑑賞するのか?」という問いに対して、芸術家と鑑賞者の動機と意図を社会的な要素や経済的な要素、すなわち美的ではない要素に還元することで答えようとする芸術社会学的な説明を批判しています。そして、芸術作品をつくること、そして鑑賞すること、このふたつの行為の理由を捉えるためには美的な要素に注目する必要があると主張します。

このザングウィルの論文への応答論文(Fowler, Bridget. "A Note on Nick Zangwill'sAgainst the Sociology of Art'." Philosophy of the social science 33.3 (2003): 363-374.)があり、そちらも続いてまとめるつもりです。

まとめ

  • 芸術の制作、芸術作品の鑑賞を美的な要素抜きに説明することはできない。

斜体の見出しは本文に記載のもの。斜体ではない見出しは筆者が付け加えたものである。

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ふたつの懐疑

美学対社会学的説明、芸術活動に関して

「なぜひとは芸術作品をつくり、鑑賞するのか?」という問いに対して、芸術社会学はどのように答えるのか。芸術社会学において、この問いに対して、美的な要素を説明として用いる必要はないとするふたつの説がある、とザングウィルは述べる。

  1. 「制作懐疑主義(production skepticism)」芸術の制作(物)を説明する際、美的な理由に訴える必要はない。
  2. 「消費懐疑主義(consumption skepticism)」芸術に関する経験や判断を説明する際、美的な理由に訴える必要はない。ブルデューやイーグルトンが代表的。

ザングウィルは本論文において、このうち前者を中心的に批判する。

A. 制作への懐疑に対して

芸術制作の二面

ザングウィルは芸術制作におけるふたつの側面を提示する。

  1. 芸術制作における芸術家の精神:少なくとも、芸術家は何かしら特定の美的な質を創り出すことを求め、意図する。
  2. 芸術制作(物)に対する受け手の精神:芸術作品を経験し、それらを欲する際、美的な質がなんらかの役割を担っている。

制作への懐疑はこの二面を否定する。すなわち、芸術家は美的な質を求めて芸術作品を創るわけではなく、受け手は、美的な質を経験してもいないし、それを求めているわけでもないとする。

ザングウィルはこうした懐疑説の例として、ウォルフ(Janet Wolff)とベッカー(Howard Becker)をあげ批判している。ザングウィルによれば、彼らは、ひとがなぜ芸術作品を創り、求めるのかという問いに答えることなく、あたかもふつうのものを作る過程を説明するように芸術の制作を説明しており、芸術の制作における芸術家と受け手の個々人の精神的な、きめ細かい意味を参照していない。

ひるがえって、「ひとがなぜ芸術作品を創り、求めるのか」というこの問いこそが芸術理論の問う問いである。と繰り返し述べる。

B. 懐疑説に共通する過ちについて

ある/すべて、強い/弱い

ある程度は美的ではない要素が芸術の制作に影響することをザングウィルは認める。しかしすべてではないと彼は主張する。このザングウィルの立場に対して、芸術社会学者は「ある(some)」美的ではない要素が芸術の制作に影響しているという事実から、芸術の制作の「すべて(all)」を美的ではない要素の影響によって説明しようとしている。これが芸術社会学的研究にしばしば見られる「あるとすべての過ち(some-all fallacy)」であるとザングウィルは批判する。

そして彼は、芸術家がそのうちにある社会的な状況と、その芸術家の制作における自由な選択(主題や形式、素材など)とは片方に還元できないものなのである。とする。ゆえに、ザングウィルは、こうした芸術家と社会との影響関係に関するふたつの立場を区別する。

  1. 強いプログラム:芸術の制作がどれほど完全に社会経済的条件によって決定されているか。
  2. 弱いプログラム:社会的要因と芸術家自身の自己概念は、十分条件ではないが必要条件として、一体となって、芸術の制作を説明する。

ほとんどの社会学者は強いプログラムを採用してしまっている、とザングウィルは述べる。
弱いプログラムは、芸術家自身の自己概念、つまり美的な質を創り出す意図や動機を芸術の生産における重要な要素として説明に組み込む。

便乗説

ザングウィルは、「芸術制作の動機や意図に対するイデオロギーに基づく説明は、美的なものに基づいている」と主張する。

ザングウィルは、イデオロギー的表現は芸術やいかなる美的な質をも伴わずに行うことができるのに、なぜイデオロギー的なものと美的なものとは混ぜ合わせられ用いられるのか? と疑問を投げかける。これに対して彼は、それは取りも直さず、プロパガンダは美的に優れた制作物を利用していることを示している。とする。美的価値はプロパガンダイデオロギーとは独立している。
同じように、経済的な説明においても、美的な価値なしにひとが芸術作品を求める理由を説明することはできない。
つまり、イデオロギー的説明や経済的説明は美的な説明に便乗しているに過ぎない。なぜなら、イデオロギーや経済に訴える説明を行っても、結局は、美的なものへの説明が必要になるからである、とザングウィルは主張する。

C. 美的な説明の提案

美とよろこび

なぜ美的な要素はわたしたちにその鑑賞を動機付けるのか、そしてなぜわたしたちは美的な要素に価値を置くのか。
こうした問いの答えとして、わたしたちは古代から指摘されているように、「よろこび」に訴えることができる、とザングウィルは述べる。そして、「わたしたちは、美しいものを創り、鑑賞する際に得るよろこびによって、美しいものをつくり、知覚することに価値を置き、そうすることを欲する」。そしてこれが、わたしたちが芸術を高く評価する理由なのである、とザングウィルは結論づける。

コメント

ある制度や価値の体系において、芸術作品が、それ自身の美的価値に基づいてではなく、それを所有することや鑑賞することから生じるさまざまな価値(e.g. 優れた審美眼を持つ、教養深さ)を表現するために用いられる場合はありそうなことだ。後者のように芸術作品がもといた制度や価値体系の場所とは違う別の制度や価値の体系においてどのような独特な価値を持つようになるのかはそれ自身として研究さるべきことであり、美的な要素だけでは説明がつかない現象である。と書いて、次のような着想を得た。

座標と変換について

  1. ある制度や価値の体系がひとつの座標をかたちづくる。
  2. その座標に、おのおのの制度や価値の体系のうちで安定しているようなさまざまなものや出来事(e.g. 音楽行為、学術行為、芸術行為)が連れてゆかれて置かれる。
  3. すると、それ自身の座標で安定していたものや出来事は、新しく連れてこられ置かれた座標で、変換を被る。
  4. これが正しいなら、同じひとつのモノをさまざまな座標に変換させて、その異なりを比較することでさまざまな座標の特徴や変換方式を記述し、説明することができる

このような座標と変換を記述し、説明する方法論が社会学にあるのか、ないのか、すでに否定されているのか。実のところもう古びたものなのか。とくに4の方法論でさまざまな座標をほんとうに記述できるのか。不勉強でよくわからんです(ご教授願えれば嬉しいです)。