Lichtung

ナンバユウキ|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

SEP: プラトン

はじめに

本稿は、SEP(スタンフォード哲学百科事典)のプラトンの項のまとめノートである。

この記事において、イデア説や模倣説といったプラトン中心的な理論が個別に議論されることはない。それよりも前の問い、「プラトンの作品である対話篇をいかに読むべきか」という歴史学的、文献学的な問いが議論される。

ここでは、対話篇を文学作品として読むべきなのか、ソクラテスの名声の宣伝として読むべきなのか、教育用のスキットとして読むべきなのか……このような「対話篇とは何か?」という問い、あるいは、対話篇をプラトンの思考の表現として読むべきなのか、プラトンの思考を読み取ることはできないような、単なる対話者たちの記録として読むべきなのか……こうした「プラトンの思考とは何か?」という問いが問われる。

書誌情報

Kraut, Richard, "Plato", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2017/entries/plato/>. 

f:id:lichtung:20170914152911j:image

1. プラトンの中心的な学説

形相(Form)、あるいはイデア(Idea)といった、永遠で、不変で、わたしたちの感覚に表れる観測可能な対象に対して規範的なものが実在するという説がプラトンの中心的な学説であるとしばしば指摘される。

2. プラトンのパズル

けれども、プラトンの著作は、そうした学説の無味乾燥な列挙ではなく、わたしたちを問いに誘うような完結していない問いをめぐる対話篇(dialogue)としてある。そして、その形式ゆえに、さまざまな問いを含んでいる。以下、3、4、5節では簡単な説明を行い、何が問われるのかをそれ以下で記す。

3. 対話・設定・登場人物

  • 対話:ひとりの人物が語る劇(drama)や神話(myth)ではなく、議論(debate)という形式。
  • 設定:多様な生活の場面。
  • 登場人物:社会的地位も含んだ生き生きとした人間たちとの、生き方をも含めた対話。

4. ソクラテス

三つの主要なソクラテス

  1. アリストファネス(Aristophanes)『雲(Clouds)』:ソクラテスそのものというより、長髪、不潔、不道徳的、という当時の哲学者像の典型としてのソクラテス
  2. クセノフォン(Xenophon)『弁明(Apology)』:歴史的証言としての価値はあるものの、プラトンの著作にみられるような哲学的精妙さに欠ける記述。
  3. プラトンプラトンソクラテスの重要な方法論を引き継いでおり、ソクラテスプラトンの思考を分けることは難しいが、プラトンソクラテスの単なる翻訳者ではないとみなされている。

5. プラトンの間接性

対話は、それぞれに異なるトピック(topic)・話し手(speaker)・役割(role)からなっていて、単なる固定化した形式ではなかった。

また、プラトンは、先人たちや後の時代に一般的だった哲学的論考を書かなかった。つまり、彼が直接読者に主張を訴えることはなく、彼の主張が示されているとしても、それらはつねに間接的なかたちで示されていた。

6. プラトンの思考を知ることができるのか?

対話篇から「プラトンの哲学」といったものを導き出すことはできるのだろうか?
ミニマリスト(minimalist)」的なアプローチとして、著作に含まれる彼の意図に関しては中立的な立場を取りつつ、しかし完全に意図を想定しないのではなく(e.g. プラトンは自説の説得のための装置として対話篇を用いただろうと推測できる)、彼の登場人物(dramatis personae)が何を述べたかのみに注意して、彼の著作を解釈する方法がある。ここで、プラトンが、彼の書かれたものとしての著作を、哲学的な対話のための補助として考えていたのであり、著作を読むだけで何か知識が身につくといったことを否定していた(cf.『パイドロスPhaedrus)』274e-276d)ことに注意すべきである。

7. 主要な話し手としてのソクラテス

登場人物として「ソクラテス」は『法律(Laws)』をのぞくすべての対話篇に登場する。なぜか? これは、プラトンがその哲学的技法や思考を師としてのソクラテスに負っていることを考えれば自然ではある。
プラトンがたんにソクラテスの名声のために彼をすぐれた人物として描いているという主張は、ソクラテスがうまくいかない主張を行い、にもかかわらず愚かな対話相手が納得するという描写があることから、支持されえない。
多くの場合、ソクラテスの議論は対話相手を納得させることに成功する。ここからわたしたちは、プラトンの考えのなかに立ち入っていることに注意しなければならない。というのも、対話相手を納得させている議論は、プラトンがそう記述している限り、著者である彼自身が、その議論を現実にも説得的な議論であると評価しているということだ*1

8. 対話篇のつながり

対話篇は独立したものだが、いくつかは事前に他の著作を読んでおかなければ理解できないものもある(例えば、『パイドロス』は、『テアテイトス(Theaeteitus)』『ソピステスSophist)』『国家(Republic)』を読んでいることを前提とする。あるいは、『ティマイオスTimaeus)』の冒頭は『国家(Republic)』との関連を示唆している)。こうした著作においては、主要な登場人物が自説を著作ごとに洗練させている。ここから、プラトンは、たんに教育的な目的のみならず、プラトンの自説の擁護と読者への説得のために対話篇を著述したと結論づけることができる

9. プラトンは形相についての考えを変えるか?

プラトンじしんの思想が変化したかどうかを決定することは簡単なことではない。わたしたちは、彼の著した対話篇を手掛かりに真偽を確かめるほかはない。

パルメニデスPamenides)』においてはイデア説が批判され、それに対する応答が行われ、次にそれとは別の一性(oneness)が議論される。ここから少なくともプラトンが初期のイデア説を部分的に改訂していると主張できるかもしれない。あるいは、『ティマイオス』におけるティマイオス、『ソピステス』と『政治家(Statesman)』におけるにおけるエレア人によって、ソクラテスが『パイドン』や『国家』で語ったイデア説に一致する説が語られながら、いっぽうでソクラテスが考える抽象的な存在者とは異なるものが議論されてゆく。ここからプラトンは、こうした存在者についての考えを変化させていったと考えることができる。

10. プラトンは政治についての考えを変えるか?

同様に、政治に対するプラトンの考えが変化したかどうかを考える。
そもそも、プラトンは形而上的なものへの共感を強くもっていた(e.g.『パルメニデス』『ソピステス』における実践的なものとは関わりのないものについての議論)、同時にわたしたちの生きている世界を理解し、その限りのある美を鑑賞し(e.g.『ティマイオス』における感覚的な世界における混成的な美についての議論)、国家の制度を改善すること(e.g.『国家』に描かれる、政治生活からの改善の欲求。そして『法律』において議論される具体的で実践的な制度論)にも心血を注いだ。
プラトンの政治観は、多数による支配への嫌悪によって特徴づけられる(e.g.『国家』におけるソクラテスの議論)。しかし、多数による支配の具体的な制度についての議論もなされている(e.g.『法律』におけるアテナイ人)。このふたつの『国家』『法律』という著作における話し手の態度の違いをプラトンのうちの分裂と考える根拠はない。なぜなら話し手が異なっているからである*2。ゆえに、プラトンの政治についての考えが変化したとは考えにくい。

11. 歴史的なソクラテス:初期、中期、後期

初期

プラトンは、『ソクラテスの弁明(Apology)』を含むいくつかの倫理に関する短い対話篇によって、彼の著述家としての道をひらいた。それらは、『カルミデス(Carmides)』『クリトー(Crito)』『エウテュデモス(Euthydemus)』『エウテュプロン(Euthyphro)』『ゴルギアスGorgias)』『ヒッピアス(大)(Hippias Major)』『ヒッピアス(小)(Hippias Minor)』『イオン(Ion)』『ラケス(Laches)』『リュシス(Lysis)』『プロタゴラスProragoras)』であり、これらは初期の対話篇と呼ばれる。
これらの著作においては、後期ほど深く形而上学的、認識論的、方法論的な問いが扱われておらず、ソクラテスを主要な登場人物として、もっぱら倫理的な事柄に関する議論がなされている。その議論は、(a)対話相手が知っていると思いなしていることをソクラテスが繰り返し問い直し、その矛盾やあいまいさを明らかにしてゆくというかたちをとっており、また、(b)倫理的な事柄に関する議論に限られているという点で、ソクラテスに関するアリストテレスの証言(e.g. ソクラテスが(a)つねに定義に関する問いを問うていたこと、そして(b)「いかに生きるべきか」という倫理的な問いを問い、それ以外のことにはそれほど注意を払わなかったこと。)とも符合している。そのため、これらの対話篇は、「歴史的なソクラテス(historical Socrates)」すなわち、ソクラテスそのひとの歴史的な記録であるというみなすこともできる。また、ここからこうした対話篇を「ソクラティック(socratic)」な対話篇と呼ぶ。

中期

パイドン』を皮切りに、プラトンの対話篇には、ソクラテスそのひとではなく、登場人物としてのソクラテスが現れるようになる。「ソクラテス」は数学に着想を得た哲学の方法論、美や善のイデアの重要性、不死性など、ソクラテスが語らなかったことを語りはじめる。この時期から、前期に扱われた倫理的な問いのみならず、さまざまな問いが問われはじめる。『パイドンPhaedo)』『クラテュロス(Cratylus)』『饗宴(Symposium)』『国家(Republic)』『パイドロスPhaedrus)』は、上述の特徴を持つために、中期の作品であると考えられている。

『国家』第1巻には、正義の定義を問う「歴史的なソクラテス(historical Socrates)」の姿が、そして以後はソクラテスが答えられなかった問いに答えうるような新しい概念や道具立てがプラトンの「新しいソクラテス(new Socrates)」によって示される。ここからソクラテスの問いを問う問い方を踏襲していることを示すために、プラトンソクラテスという人物像を彼の著作に用いたことが見てとれる。

後期

歴史的な証言によれば、『法律』はプラトンの晩年の作品のひとつであるとされている。この『法律』の文体的特徴と類似する対話篇、『ソピステスSophistes)』『政治家(Statesman)』『ティマイオスTimaeus)』『クリティアス(Critias)』『ピレボス(Philebus)』を合わせて後期の対話篇とされている。文体の類似性は19世紀にはすでに指摘されていた。これらの六つの対話篇には、異なる時期の対話篇を参照する記述があり、そのため、これらの対話篇が前期や中期とはことなる哲学的な議論の発展の段階を示しているかどうかは明らかではない。

区分について

以上の三つの区分がプラトンの理解に益するかどうかは議論されている。

クラウトの議論に少し触れよう。初期の対話篇は、簡潔で短いという特徴があるが、プラトンがその後、そうした簡潔で短く、哲学的な教育に有益な対話篇を著していないとは言えないかもしれない。つまり、初期の「ソクラティック」な対話篇が後期に書かれたのではないと決定されたわけではない。

プラトンは哲学教育のための著作と、自説の構築という二つの種類の対話篇を著したといえる。これらを同じ時期にそれぞれ著したのか、前期以後は、後者のみを著したのかが問われる。ここで、クラウトは前者の主張を支持する。プラトンは対話篇のなかで、哲学を行う方法論について、天下り式に結論を受け入れるのではなく、みずから考え獲得する重要性を強調していた(e.g. 『メーノ(Meno)』『テアテイトス』『ソピステス』)。ゆえに、形式上前期の対話篇と考えられているもの(e.g.『エウテュデモス』『カルミデス』『パルメニデス』)も、中期、あるいは後期に著されたものである可能性がないとは言えないとする。

ソクラテスについて

ソクラテスの弁明』による記述から、ソクラテスは道徳家であり、プラトンのように形而上学や認識論や宇宙論を研究することはなかったとされている。これはアリストテレスの記述にも一致する。そしてまた、プラトンの対話篇においても、ソクラテスは倫理に関する問い投げかける人物として描かれており、倫理に関する問い以外については、以下のように、形而上学的な議論はエレアからの旅人によって(cf.『ソピステス』『政治家』)、宇宙論的な議論はティマイオスによって、制度論的な議論はアテナイからの旅人によって(cf.『法律』)担われた。ただ、それでも「ソクラテス」が『法律』をのぞく全対話篇に登場するのは、彼の独自の哲学の方法、すなわち、問いを投げかけ、対話を行うという営みがソクラテスそのひとに帰されるとプラトンがみなしていたからこそであると考えられる。

12. なぜ対話篇なのか?

「なぜプラトンは対話篇を著したのか」という問いはうまくいく問いではない。そうではなく、「なぜプラトンはこの特定の対話篇を著したのか」という問いを立てて、個別に議論してゆくことが望ましい。この際「もし対話篇が対話篇でなければ失われるものは何か」という問いを問うことができる。失われるだろう代表的なものとしては、おのおのの社会的地位や環境のことなるひとびとが出会うさまから感じられる、会話の生き生きとしたありさまであり、そして、哲学的な営みとは、このように対話し、批判し、質問し、応答するのだという実例を示す教育的な意義である。

総じて言えることは、プラトンの対話篇をこのように読むべきであるというような機械的なルールは存在せず、おのおのの著作をおのおのに従って解釈することが必要だということである。

 注

*1:「著作のなかで、ソクラテスの議論が対話相手を説得することに成功していると記述しつつ、その議論の成功をプラトンが心から信じていない」という場合が確かにあるにせよ、すべての場合においてそうであるとすると、「プラトンの哲学」を描くことは不可能になる。こうしたプラトンの思考と著作とを分割する主張を否定する議論がこの記事では主として述べられている。

*2:話し手とプラトンそのひとの思考との距離をどう取るかについて、ここでは議論がつくされていない。もちろん議論がないわけではなく、本記事の文献表には「話し手をどう解釈するか」という問いに関する1996年から2002年までの10冊の著作があげられている。