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デイヴィッド・ベネター『人間という苦境』第2章 意味

第2章 意味 Meaning

この章では、「人生に意味はあるのか」という問いが、どのような問いなのかを確認する。第1節では、人生の意味を問う動機に軽く触れ、第2節では人生の意味をさまざまなパースペクティヴから確認する。第3節では、あるパースペクティヴにおいては人生の意味が存在することを論証する。

The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions

1. イントロダクション

自分の人生が無意味(meaningless)なのではないかとおそれることは、わたしたちにとってまれなことではない。こうした考えをときおり、ほんの一瞬だけ抱くひともいれば、こうした考えをしばしば、継続して抱くひともいる。あるいは、存在的不安(existential anxiety)や絶望にとらわれているひともいる。(p.13, par.1)

こうした深さや長さの如何にかかわらず、ここで懸念されているのは、あるひとの人生の意義のなさ(insignificance)や無益さ(pointlessness)である。

人生に関する問いは次のような問いから生まれている。

わたしたちの時空間的な限界(limitedness)に関する問い(p.13, par.2)、そしてわたしたちが生まれてきた際の偶然性(contingency)に関するもの(p.13, par.3)、あるいは生まれてきた際の偶然性に比べて、死ははっきりとしていることについて(p.14, par.1)。また、死に至るまでの繰り返しの毎日の意味や、次世代がふたたび生まれては死に向かう過程を繰り返す意味について問われる。(p.15)

こうした問いを考えないひとはいないだろう。そのときひとはどんな答えを出すのだろうか?

あるひとはこうした問いに対して悲観的な答えを出すだろう。ベネターは、悲観的な答えは一般に受けいられるものではないかもしれないが、適切(appropriate)な答えであると言う。事実、次章では、人生の意味のうち重要な意味があり得るかどうかについてニヒリスティックな結論が述べられる。けれども、人生におけるすべての意味に対してニヒリスティックな態度をとる必然性はない。次節では、人生にどんな意味がありうるのかを問い、第3節では、わたしたちの人生において、ある種の意味は獲得し得るものだということが論証される。

2. 問いの理解

わたしたちが問おうとする「人生に意味はあるのか」という問いはそもそも無意味(meaningless)な問いである、と主張する者もいる。彼らによれば、意味を持つのはつねに語(word)あるいはサイン(sign)であり、語やサインが指し示す(signify)ものは意味を持たない。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは「ランプシェードに意味はあるのか」と同じく、カテゴリーミステイク(category mistake)で無意味な(meaningless)な問いなのだ。というのも「ランプシェードそのもの」は「ランプシェード」という言葉のように意味を持つわけではない。
これに対してベネターは反論する。
彼らは意味という言葉をあまりにも狭義な理解で用いている。意味とは、〈意義深さ〉(significance)や〈重要性〉(importance)あるいは〈目的〉(purpose)といった意味を含みもつ。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは、人生に意義深さや重要性や目的があるのかどうかを問うており、これはカテゴリーミステイクな無意味な問いではない。(p.17)
意味という言葉に含まれる以上の様々な区別をベネターは取り立てて意識せずに用いる。というのも、ベネターがこれから問おうとするのは、以上のような意味の総体を人生が持ちうるかどうかという問いそのものであるからだ。

限界の超越

多くの論者は人生の有意味性を考えるにあたって、〈限界の超越〉(transcending limits)について注目している。
ここで、「有意味な人生とは、自分が、自分自身の限界を超越し、意義深いようなかたちで他者に影響し、自分を超えた目的に仕えるような人生のことである」(A meaningful life is one that transcends one's own limits and significantly impacts others or serves purposes beyond oneself.)、とされる。(p.18, par.2)

ここで、他者に影響を与えることとはどういうことだろうか?
他者にはさまざまなかたちで影響を与えることができる。歴史を紐解けば、影響力を持った人間たちは、よい影響を与えたというよりも、死や破壊と関係するかたちで他者に影響を与えてきた。すなわち、多くの征服者や僭主、支配者や大量殺戮の指導者が、他者に対して、死や破壊という大きな影響を与えてきた。(p.18, par.3)

こうした人物たちの人生が有意味である可能性もあるが、それに反対する論者もいる。彼らは、「その目的や超越の方法がポジティヴで、有益な、あるいは価値があるようなものでなければ、その人生は有意味ではない(a life is not meaningful unless its purposes or ways of transcending limits are positive, worthy, or valuable)」と主張する*1。(p.19, par.1)

有意味性と生の質

また、有意味性(meaningfulness)はよい人生の部分をなしているように思われる
(Meaningfulness does seem to be part of a good life.)*2。そして、生の質(quality of life)と深く関わっているように思われる。けれども、有意味性と生の質とが単純に関係しているわけではない。
というのも、もし生の質という言葉が、その人生を生きる人間に感じられた質のことを指すのだとすれば、客観的には意味に欠けているけれども、本人が人生の意味を気に掛けていない場合や、自分の人生が有意味であると勘違いしている場合、主観的にはよい質を持った人生がありうるからである。こうした生の質と有意味性との複雑な関係とは対照的に、自分の人生が無意味であると考えている場合、そこには、生の質に対して非常に強いネガティヴな影響がある。(p.20, par.1)

語の整理  不条理さ absurdを例に

 人生の意味に関する問いは、あるひとには理解されるが、別のひとには理解されない。例えば、人生は不条理(absurd)かどうか、といった問いがそうである。ひとびとの理解と不理解を隔てているのは、深刻な不一致ではなく、関連する語の理解の違いなのだ、とベネターは言う。例えば、無意味な人生を不条理な人生と規定することもできるし、また、無意味ではあるが不条理ではない人生、不条理ではあるが無意味ではない人生がありうる、というように規定することができる。(p.20, par.2)
試みに、ネーゲル(Thomas Nagel, 1937-)の議論を検討してみよう。不条理を生み出すのは、「わたしたちの人生に対する真剣さと、わたしたちが真剣に向き合っているすべてが恣意的なものであり、疑いに開かれているのではないかという永続する可能性との衝突(the collision between the seriousness with which we take our lives and the perpetual possibility of regarding everything about which we are serious as arbitrary, or open to doubt)」*3であるとネーゲルは述べている。(p.20, par.3)

ネーゲルの議論をまとめると、彼は、
(a) あるひとの人生は不条理である。
(b) あるひとが自分の人生が不条理であると認識する。
という二つの条件に関して、(a)が(b)によって導き出される、と考えたのだ。逆に言えば、自分の人生が不条理であると認識することのないネズミの生は、不条理ではありえない。

ベネターはこれに対し、反論を述べる。あるひとがまったく不条理な行為をしていることを彼自身が認識していない光景をわたしたちが目の当たりにするとき、彼の無自覚ゆえに一層わたしたちは、彼の人生が不条理であると考える。従って、ベネターは、本人の自覚なしにあるひとの人生が不条理であったり無意味であったりすることがありうる、と考える(a life can be absurd or meaningless...without the being whose life it is realizing that it is so)。(p.21, par.1)

パースペクティヴ

はっきりさせておかなければならないのは、人生に意味があるかどうかという問いを問うているとき、わたしたちがどのような意味を思い浮かべているかである。ベネターは、異なるパースペクティヴ(perspective)に応じた異なる意味がある、と主張する。ここでパースペクティヴとは、そこから人生に意味があるかどうかを問うことができるような視座(persoective)のことである(perspectives from which one can ask whether life has meaning)。(p.21, par.2)

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図2.1(p.22より、一部改変)を参照しながらパースペクティヴと意味の関係について考えてゆこう。
もっとも広いパースペクティヴから人生の意味の有無を考えることができる。〈宇宙的なパースペクティブ〉がそれであり、そのパースペクティヴにおける意味が〈永遠の相の下に〉あるかどうかが議論されうる。また、より限定的なパースペクティヴから人生の意味の有無を問うこともできる。(p21, par.3)

人間全体のパースペクティヴからの意味は〈人間の相の下に〉。その下位には、国家や部族、コミュニティや家族といったさまざまな人間の集団のパースペクティヴがあり、その視座からの意味は〈共同体の相の下に〉。もっとも限定的なものとして、ある個人のパースペクティヴ、〈(個)人の相の下に〉おける人生の意味が問われうる。(p.22, par.1)

あるひとの人生は、あるパースペクティヴからの意味を獲得し、あるいは獲得に失敗する。こうした異なる意味を区別することができないとき、ひとはある種の意味の欠落や存在が、他の意味の欠落や存在であると勘違いしてしまいうる。議論に入って行く前に、いくつかの注意を述べておく。(p.23, par.1)

一つに、パースペクティヴという言葉を字義通りに解釈してはならない。宇宙や人間の全体といったものがパースペクティヴを持つわけではないし、個人でさえ、赤子や重い認知症を患ったひとはパースペクティブを持ちえない。ゆえに、これからわたしたちがパースペクティヴという言葉を扱うとき、比喩的な意味で用いることにしよう。本当の問題は、関連するレヴェルで人生が目的や影響や意義深さを持ちうるかどうかという問いなのである。(p.23, par.2)

二つに、意味とは程度の問題でありうる(meaning can be a matter of degree)。人生はあるパースペクティヴからある意味をある程度持ちうるかもしれないし、持ちえないかもしれない。それは無か有かという二値のみならずさまざまなグラデーションを持つ。

三つに、わたしたちが人生に意味があるかどうかを問う際、〈生〉の範囲は可変である(the scope of "life" may vary)。個人の人生、人間の人生一般、あるいは、あらゆる生一般について問いを設けることができる。そしてそうしたそれぞれの生に関して異なるパースペクティヴに基づく意味を問うことができる。例えば、わたしたちは個人の人生が宇宙的な意味を持つかどうかを気にかけるが、人間の全体の人生が、個人やコミュニティといったパースペクティヴから意味があるかどうかはそれほど問われない。(p.23, par.4)

四つに、次の二つの意味を区別に注意しよう。
(a)〈主観的意味〉(subjective meaning):知覚された意味(perceived meaning)
(b)〈客観的意味〉(objective meaning):アクチュアルな意味(actual meaning)

主観的に意味のある人生が客観的に無意味である場合もあるし、主観的に意味のない人生が客観的には意味のある人生である可能性もある。こうした区別を設けるのは〈客観主義者〉(objectivist)の立場である。(p.24, par.2)

 けれども、すべてのひとがこの区別を受け入れるわけではない。自分自身で意味があると感じられる人生のみが、アクチュアルな意味を持つ、とする立場がある。こうした、アクチュアルな意味が知覚された意味からのみ生まれるとする立場を〈主観主義者〉(subjectivist)と呼ぶ。

しかしこの立場には問題がある。

例えば、テイラー(Richard Taylor)は次のようなシシュポスのヴァリエーションを提示している。シシュポスが、石を転がしているのは、自覚的に無益な労働に耐え忍んでいるのではなく、寛大でひねくれた神が、シシュポスに石を転がしたいという奇妙で不合理な衝動を植え付けたがゆえである、という物語である。

もしわたしたちが主観主義の立場に立つなら、シシュポス自身が石をひたすらに転がすことを意味あるものと考えている限り、シシュポスの人生は有意味であると結論しなければならない。だが、わたしたちの多くは、彼の人生は彼にとって満足のいくものではあろうが、無意味な人生であると考える。同様に、ソープオペラを見るためだけに捧げられた人生や、他人の頭に生えている髪を数えるために一生を捧げる人生を懸けた人間がいるとして、彼ら自身が人生に意味を感じている限り彼らの人生はアクチュアルに意味のある人生である、と結論することはあまりにも奇妙だ。(p.25, par.1)

客観主義の立場に立つならばこうした問題は解決される。

ここで注意しておきたいことがある。それは、あるひとが自分自身で無意味であると感じられた人生がアクチュアルな意味で有意味である場合がある。例えば、フランツカフカ(Franz Kafka)は、自身の作品の価値をほとんど無と考え、死後友人のブロート(Max Brod)に原稿の焼却を命じた。しかし、ブロートはその指示に従わず、そのおかげで現在もカフカの作品を読むことができる。

カフカは満足のいかない人生を送ったが、彼の人生は優れて有意味であると考えられる。(p.25, par.2)

ここで、主観主義と客観主義のハイブリッドを考えることもできる。例えば、ヴォルフ(Susan Wolf)は「主観的に魅力的なものが、客観的な魅力に適合するとき、意味が発生する」(meaning arises when subjective attraction meets objective attractiveness)と述べる。この立場では、主観的に魅力的なものがなければ、意味が存在し得ないとされる。(p.26, par.1)

しかし、この立場からカフカの人生を考えると、カフカ自身は主観的に魅力的なものを感じていなかった以上、彼の人生は意味のないものであったことになるが、それは納得しがたい。ゆえに、わたしたちは、(a)人生が有意味に感じられること、(b)人生がアクチュアルに有意味であること、とを区別する。(p.26, par.2)

以上の客観的、主観的意味の区別は、さまざまなパースペクティヴの各々に対して考えられる。つまり、宇宙的、人間的、共同体的、個人的なパースペクティヴにおいて、それぞれに客観的/主観的の意味がありうる。(p.26, par.3)

主観的な意味の重要性ははっきりしているが、ここからは客観的な意味を主として扱う。けれども、特に第7章では、自死に関する主観的な意味と客観的な意味とを分析する。(p.27, par.1)

さて、次の節では、あるパースペクティヴにおける意味は獲得しうることを論証しよう。

3. (いくらか)よいニュース

さて、一般的に、より限定されたパースペクティヴにおいては、人生の意味は獲得の可能性がより高いものとなる。そこで、もっとも身近であるようなもっとも限定されたパースペクティヴから議論をはじめよう。(p.27, par.2)

個人の相の下での意味

まず、個人のパースペクティヴから見た人生の意味を考える。このパースペクティヴから見た意味の説明にはふた通りの理解の仕方がある。
一つに、個人の相の下での意味を、他の個人のパースペクティヴから見た個人の人生の意味として理解することができる。すなわち、ある個人が他者に対してポジティブな影響を十分に与えたかどうか、つまり他者のパースペクティヴに基づいて、ある個人の人生に意味があるかどうかを考えるのである。こう考えると、隠居している者や、孤立している個人を除いて、多くのひとがこの他者のパースペクティヴに基づいた人生の意味を獲得しうると言える。(p.27, par.3)
二つに、個人の相の下での意味を、ある個人の人生そのもののパースペクティヴから見たある個人の人生の意味としてとらえることができる。客観主義に基けばこの理解は以下のように解釈することができる:人生は、その人生を生きているひと自身が設けた意義深い目的や目標を達成するとき、有意味になる。
多くのひとはこの意味で、有意味な人生を送る。運動、技術、熟練、知識、理解といった自分で立てた目標を達成することができる。(p.28, par.1)
ゆえに、どちらの理解に基づいても、個人の相の下での意味は多くの人々に獲得可能なものである。(p.28, par.2)

共同体の相の下での意味

つぎに、より広域的な、人間集団のパースペクティヴ、共同体の相の下での意味を考えよう。ここで、まず、もっとも小規模で、もっとも親密である人間の集団として、家族(family)を考える。多くのひとびとは、家族において、愛され、祝福され、有意味な人生を送る。(p.28, par.3)
むろん、すべてのひとがそうではない。弱く、ときに敵対的であるような家族関係を持つひとはそうではない。けれども、やはり多くのひとびとにとって、彼らの人生は、彼らの子ども、親、兄弟姉妹、祖父母、叔父、叔母、従兄弟、甥、姪にとって有意味である。彼らの人生は家族において、重要で価値のある目的を担っている。(p.29, par.1)
次により広域的な、ローカルコミュニティのパースペクティヴから見た意味を考える。
これは家族のパースペクティヴにおける意味よりも獲得が難しい。けれども、面倒見のよい医者や、献身的な看護師、ひとを元気付ける神父や牧師、人気のラジオパーソナリティや無私で慈悲深い働き手として、ローカルコミュニティにおける意味を得ることができる。(p.29, par.2)

また、さらに大きな、国家という共同体において有意味な人生はまれである。(p.29, par.3)
ここで、足跡を残す(making a mark)ことは認知されることとは同一ではない。例えば、秘密裏に活動するエージェントはひとびとに大きな影響を与えているかもしれないが、認知されることはない。(p.29, par.4)

ここで、人間以外の動物の幸福に寄与する活動を行う人間も、共同体のパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ることに注意しよう。そうしたひとびとは、人間の共同体や人間全体に対して、間接的ではあるが、価値のある仕事をしている。例えば獣医師は、ペットを治療することで、そのペットを大切にしているひとびとに寄与する。また、動物の権利の活動家は、人間が動物の扱いに関して倫理的な過ちを犯すことを減らし、廃絶することに寄与する。(p.29, par.5)

ここでは主題的に扱うことはできないが、個々の動物のパースペクティヴ、動物の集団のパースペクティヴを考えることもできる。(p.29, par.6)

人間の相の下での意味

人間の相の下での意味を獲得しうるひとは比較的少ない。例えば仏陀シェイクスピアアインシュタインチューリング、サーク、マンデラのようなひとがこのパースペクティヴにおいて有意味な人生を送った。(p.30, par.2)
もちろん、彼らを生み、育てたひとや、教師たちは認知されない貢献を行なっているために、このパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ったと言える。(p.30, par.3)

今まででベネターは人生の意味に関して「影響を与える」「足跡を残す」「目標を達成する」「目的を担う」と言ったことを強調してきた。これは人生の意味を図る尺度としてふさわしいのだろうか?(p.31, par.2)

もしあなたの人生が家族に対してある影響を与えるがゆえに家族のパースペクティヴにおいて有意味であると考えられるなら、同様に、人類に対してあなたの人生が有意味であるとするなら、それはあなたが何らかの影響を人類全体に対して与えているからに他ならない(If your life has meaning from the perspective of your family because of what you mean to them, then for your life to have meaning from the perspective of all humanity, it must be because of what you mean to hummanity.)。家族における意味と人類における意味とに違いはない、とベネターは述べる。

今までの議論に加えて、人間の相の下での意味と、人間の共同体の相の下での意味とは区別されるべきである。家族に対してあなたの人生が意義深いものだとしても、それが直接人間全体に対してそうであるとは限らない。(p.32, par.2)

また、個人や共同体の相の下で影響を持つことは、知覚できない形で人間の相の下での意味を持つ、とする考えがある。しかし、パースペクティヴという比喩で捉えようとしている影響のちがいをぼやけさせてしまうためこの考えを受け入れることはできない。例えば、キュリー夫人と小さな街の市長の影響はやはり区別できなければならないのだ。(p.33, par.1)

もちろんこの区別の強調は、家族やコミュニティにおける意味をより広域的なものと比べて少なく見積もるために行なっているのではない。(p.33, par.2)

4. 結論 

いくらか良いニュースは、私たちの人生が、あるパースペクティヴから、有意味でありうるということだ。これがいくらか良いニュースでしかないひとつの理由は、より限定的な水準でさえ、アクチュアルに、あるいは感じられたものとしての人生が無意味であるひとびともいるからだ。さらに言えば、意味を獲得できる見込みは、一般に、パースペクティヴがより広域的になるに従って減じる。このようにして見込みが減じる傾向にあることは、より限定的なパースペクティブにおいて無意味な人生が、より広域的なパースペクティヴにおいて、まったく有意味でない、ということを示しているわけではない。というのも、例えば、家族を持たず、あるいは彼の家族やコミュニティに避けられているために、それらに対して意味を持たない者が、より広域的な水準で影響力持つことがあるからだ。

このニュースがいくらか良いものでしかない別の理由は、より広域的な、地球におけるパースペクティブから見て有意味な人生を送っている者が、彼の人生における意味で満足することは稀でしかないからだ。これは、ひとびとが単に彼らが手にすることのできるもの以上の意味を求めるからではなく、ひとびとが獲得しうる意味のほぼ全てが、限定されたものでしかありえないことによる。これが次章で向き合うことになる、悪いニュースである。(p.33, par.3-p.34)

*1:ランダウ(Iddo Landau)は、有意味な人生の条件として「十分に高い程度の有益さや価値」 "a sufficiently high degree of worth or value" を伴うことを主張している:Landau, Iddo. "Immorality and the Meaning of Life." The Journal of Value Inquiry 45.3 (2011): 309-317. を参照。注9、p.217

*2:ヴォルフ(Susan Wolf)はこの見方を持っている:Wolf, Susan. "Happiness and meaning: two aspects of the good life." Social Philosophy and Policy 14.1 (1997): 207-225. を参照。注10、p.217

*3:Thomas, N. A. G. E. L. "The Absurd." repr. in Mortal Questions (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1979) (1971), 3.