Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

音楽、異なるものとの交わり Music for communication/communion

はじめに

よい音楽にはジャンルの境界がない。とはいうものの、音楽に何を求めるかによってジャンルが生まれたようにも思える。わたしたちは音楽になにを求められるのだろうか? それがこの論考のひとつの問いである。

さて、今回、わたしたちはジャンルをめぐる思考に触れてみたい。クラシックとポピュラー音楽をめぐる思考だ。クラシックという言葉はポピュラー音楽の出現とともに生まれた。同時にそれら2つの音楽を巡ってさまざまな価値の争いが巻き起こった。そして今なお、2つのジャンルは高尚/卑近、複雑/単純、と言った二項対立で整理されている。だが、それはあまりにも窮屈で、互いのよさを知らないままに互いに離れ離れになってしまっている。
そこで、そういった二項対立を脱して、クラシック、ポピュラー音楽を一貫して評価できるような音楽観を作り上げたい。この小論ではその基礎的な作業として、社会学者のテオドール・アドルノと哲学者のウラジーミル・ジャンケレヴィッチの音楽観を比較する。

対話としての音楽  Music for communication

社会学者のテオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund, 1903-1969)は、論文「ポピュラー音楽について(On Popular Music)」において彼なりの見方でもって、クラシック音楽とポピュラー音楽とを整理し、精神的なもの/刺激的なもの=クラシック/ポピュラーという差異を設けた。アドルノの(ただしい)音楽は、「対話的音楽」とも言うべきもので、作曲者と聴取者との対話こそ音楽の本質とみなしている。「ベートーベンや優れたシリアスな音楽[クラシック音楽のこと]の場合には、––出来の悪いシリアスな音楽のことはここでは扱わない。そうした音楽はポピュラー音楽と同じくらいに硬直的で機械的なことがある。––細部が全体を潜在的に含んでおり、全体の提示へと展開するが、同時にまた、細部は全体の構想から作り出されてもいる」。そして、細部を全体へと統合させる能力や努力が聴取者に求められている。例えば、ベートーベンの交響曲第5番第3楽章 (https://youtu.be/QdM6Zl0D8h4)を題材とした、彼の典型的な楽曲分析をみてみよう。

このスケルツォ[第三楽章]のスケルツォ部分全体(つまり、トリオの始まりを印づけるハ長調の弦の低い響きが入ってくる前の部分)は、二つの主題からなる二元性によって成り立っている。すなわち、弦楽器の奏でる、這うような音型と、管楽器による「客観的な」、硬質な応答である。この主題の二元性は、図式的な仕方で展開されてはいないので、最初に弦楽器のフレーズが練り上げられ、次に管楽器の返答が示され、その後に弦楽器の主題が機械的に反復される、という風には進行しない。ホルンによって演奏される第二主題が最初に現れた後、二つの本質的な要素[主題]は、対話するかのように交替しながら相互に結びつけられていく。そして、スケルツォ部分の最後を実際に印づけるのは、第一主題ではなく、第二主題のほうである。第二主題が最初の音楽的フレーズ[第一主題]を圧倒してしまったのである。

こうして「ベートーベンは、伝統的なメヌエットでは何も語らない無意味なゲームの規則に過ぎなかったものに、意味を持って語るように強制している」。このようにして彼は細部のフレーズ・応答を聴き取り統合することが、音楽を聴くことであるとした。
対して、「ポピュラー音楽の場合、細部と全体との関係は偶然的である」。そして、「楽曲が聴取者の代わりに聴くのである。このようにしてポピュラー音楽は聴取者から自発性を奪い、条件反射を促進する」とする。そうすると、彼にとってポピュラー音楽というものは、対話ではなく、せいぜい会話、有り体に言って雑談なのだ。そこでは「主体は、ポピュラー音楽に対して自由意志のいかなる残滓も奪われ、与えられたものに対する受動的反応を再生産しがちになり、社会的に条件付けられた反射行動の中心に過ぎなくなる」。

コミュニオンとしての音楽  Music for communion

これに鋭く対立する音楽観をもった哲学者がいる。20世紀を生きたフランス哲学者、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankélévitch, 1903-85)だ。彼は『音楽と語り尽くし得ないもの(La musique et l'ineffable)』のなかで、ドビュッシーが「音楽は表現できないもののために作られている(La musique est faite pour l'inexprimable)」と語ったのを受けて、音楽は「表現できないものを無限に表現する(exprimer l'inexprimable à l'infini)」と述べた。表現できないもの(l'inexprimable)は語り尽くしえない(l'ineffable)。だからジャンケレヴィッチはアドルノとは異なる音楽を聴いている。次の言葉がその対立を明確に表している。「音楽は対話には非本来的である。対話とは諸理念の交換、分析、相互性と平等のうちでの友情に満ちた協力の上に立てられている。音楽は意味の論証的かつ総合的な伝達(communication)ではなく、直接的かつ語り尽くしえないコミュニオン(communion)を認める」。

ここでのコミュニオンは、神学において通常「交わり」と訳されるもので、キリスト教的意味を背負っている。新約聖書ヨハネの手紙第1章第3節において、

私たちの見たこと、聞いたことを、あなた方にも伝えるのは、あなた方も私たちと交わり(コミュニオン)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

とあるのが原義だ。まず、キリスト自身と信徒との精神的交わり、それから教会組織における儀式での交わり、すなわち聖餐、キリストの体と血となったパンと葡萄酒を分け合うことを意味する。
コミュニオンは霊的なニュアンスを強くもっていて、伝達できない事柄を伝えるための関わり、交流をイメージさせる。ただ、キリスト教的意味は比喩として機能していて、それにとらわれる必要はない。
聖書ではコミュニオンはギリシア語でκοινωνία(コイノーニア)と書き表されており、これはキリスト教以前の古典ギリシャ時代には、仕事仲間・結婚生活での夫婦・友人とのパートナーシップ、神との精神的な関係、すなわち交流と共同を意味していた。ここからも分かるように、キリスト教的文脈を越えて、ジャンケレヴィッチは、コミュニオンという言葉で、言語的ではなく、共同そのものから生まれる理解や交流を表そうとしている。
すなわち、communicationが言語的、客観的ならば、communionは非言語的、直観的な行為と言える。

それでは対話ではなく、交わりの音楽とは、なにを指すのだろうか?
ジャンケレヴィッチのコミュニオンには、宗教的なニュアンスが強い。彼は「音楽がわれわれに伝える神秘は、生命、自由そして愛の豊かな表現できないものである」と語る。彼は美しいドビュッシーのコメンタリーを著しているが、そこでもつねに美しく気高いもの、文学的な生と死、希望や絶望といったものが俎上にある。しかしわたしは彼の概念を異なった視点から解釈したい。概念により即物的なニュアンスを付与したい。
音楽を聴くとき、アドルノは作者との対話を目指した。それは、聴取者と作者のうちにすでにある一定の了解を前提としている聴取の態度である。それは主題や形式についての規約を共有して語り合うゲームのようなものだ。それに対し、ジャンケレヴィッチは音楽の本質を、対話ではなく、コミュニオン=交わりであるとした。しかしそこでも、交流されるものはあまりに文学的で、限定された概念である。

異なるものとの交わり  Music for communication-communion

そこでわたしは、規約を共有するゲームでもなく、宗教的なニュアンスを含むコミュニオンでもない音楽観を提示したい。
すなわち、音楽とは、異なるものとの交わりである。という定義だ。
自分の知る世界観を越えてやってくるもの、世界観同士のつながりを生み出すことができるもの。異なる世界とつながり、アクセスできる音楽、それこそが根本的な意味での対話的・コミュニオン的な音楽と言えないだろうか。音楽は、異なるものと対話する際の壁となる言語を越えているという点で対話的であり、表現できない感情や文化ごとにもつ世界観を暗示し、交わりの可能性を生み出すという点でコミュニオン的である。

異なるものとの交わりとしての音楽は、性質というよりむしろわたしたちの聴取の態度によって生み出される。わたしたちはクラシックやポピュラー音楽を基準に他の音楽を判断するのではなくて、対話的・コミュニオン的に判断することで、音楽をジャンルに縛られない、世界にアクセスする場所として体験することができる。ここで、定義を振り返っておこう。

3つの音楽

  • Communication Music:対話的-規約的、テオドール・アドルノ
  • Communion Music:交流的-宗教的、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ
  • Communication-Communion Music:対話的-交流的-中立的

以上、アドルノとジャンケレヴィッチを比較し、それぞれの弱点を補える、異なるものとの交わりとしての音楽、という概念を提案した。

次の論考では、ここではいまだ述べられていない、具体的には音楽をどのように聴けば、異なるものとの交わりを生むことができるのかという問いを考えたい。

 

参考文献

・「ポピュラー音楽について」テオドール・アドルノ、海老根 剛訳(http://www.korpus.org/onpopularmusic01)2017/04/15閲覧

・「語り得ないもの、音楽と死 ジャンケレヴィッチのドビュッシー解釈」橋本典子『精神と音楽の交響』今道友信編、1997、音楽之友社

・新改訳 聖書、2007、日本聖書刊行会