Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか

はじめに

じぶんが分析美学の研究をはじめるにあたって、芸術の哲学、分析美学の研究者の森功次さんの記事「分析美学にはどのようなトピックがあるのか」*1におおいに助けられました(森 2015)。そこで、本稿では、音楽の哲学、音楽美学をはじめようと考えている方のヒントになればと思い、どのような問いが問われているのかをまとめました。

項目は、英語圏の分析美学の教科書のひとつであるThe Routledge Companion to Philosophy of Music*2の第一部を参照しています。

解説は、何が問われているのか、それを問うと何がうれしいのかを中心に、可能であれば、関連する文献を紹介しています。

それでは、ここからさらに、音楽の哲学を加速させましょう。ちなみに、二万字弱あります。個々のトピックと説明は独立しているので、一気に読まず、お好きなときにつまみ読みしてくだされば。

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I. 音楽の哲学の20のトピック

1. 定義

・分析美学者の好むトピックのひとつである定義論。「音楽とは何か」。音楽には、西洋音楽に注目すれば、音楽作品とその演奏とがあり、どちらの問題も考えられる。ある音の並びがいつ音楽になるのか。あるいは、何が音楽作品と認められる条件なのか。

・音楽の定義論は芸術形式一般の定義論と相互に議論の交流を行なっているため、よりひろい視野から学ぶことも有用だろう。

・ある音の並びや響きを音楽かどうかを判別して、議論の扱う対象を明確化したり、音楽の根本的なあり方を見直す手がかりとなります。個人的には、定義論のよさは、「これが音楽だ」と音楽を狭くとる立場への武装として役立つ点にありますね。「それはあなたの知ってる音楽の定義で、一般的なものではないですよね」。

・作品の存在論に関しては、音楽哲学を牽引してきたピーター・キヴィの入門書をまとめた拙まとめのこちらの項も参照していただければ。

・定義一般については、拙まとめを。

・また、芸術の定義については、この本がまとまっていて参考になる。

Theories of Art Today

Theories of Art Today

 

・拙稿「詩の哲学入門」第一節も比較として。

・定義論にいきなり踏み込むと、「いったい何の戦いなんだ……」となることがあるが、いろいろ役に立つトピックなのだと個人的に強調しておきたい。さいきんは、そもそもなぜ定義するの? という問題も掘られており、緻密な議論と目的の設定を得意とする音楽哲学者が現れてくれたらと期待する。

2. 無音、音、ノイズ、音楽

・何が音楽的な音で、何が音楽ではないノイズなのか。無音には、音楽的な無音とそうでない無音があるのか。音楽の定義と関連しつつ、とくに、音、ノイズ、無音という音のあり方の違いや関係を問うトピック。

・無音の使い方、ノイズの価値を考察することで、グレン・グールドのうなり声は美的にわるいノイズか、それとも作品を構成する音楽的ノイズか。ビートルズの再録において、椅子の軋みや楽器のノイズはどこまで入れるべきか、カットすべきか、といった録音におけるノイズの価値についての議論にも接続される。また、vaporwaveに代表される、あるいは、Lo-Hiヒップホップにみられる、グリッチ、ノイズが作品の美的価値に貢献しているような作品はどのように価値づけられるだろうか。

・参考文献はさわりしかチェックできてないが、次の「Lo-Fiの美学」がおもしろい。Lo-Fiの美学をしたい方は、ナンバもやりたいので、勉強させていただきたい。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1540-594X.2007.00247.x

・その美的価値を見出すことで、音の範囲を広げる活動に興味のある方にもおすすめ。

・うなるグールド

3. リズム、メロディ、ハーモニー

・音楽を構成するリズム、メロディ、そしてハーモニーはそれぞれどのような特徴を持ち、いかなる関係にあるのか。西洋における音楽理論と密接に関わるトピックです。リズムとメロディ、そしてハーモニーについて。拍子とリズムの異なり、メロディの特徴、ハーモニー、カデンツ、調性など。

・以上でふれたような概念の分析と整理を行うことで、それぞれの言語使用を整理できる点に利点がある。

・音楽の哲学における論文は少ないようです。むしろ音楽理論を探ってみるのがよいだろう。最近β版が公開されている次のサイトは、リズムとメロディ、そしてハーモニーについてとても有益な分析を行っている。

進行の分類や、メロディとシェルとカーネル分析は圧倒的。わたしも機会があるたびにチェックして勉強している。メロディはどうまとめられて聴かれるか、やジャズにおける進行の特徴、そもそも緊張と解放とは何か、ハーモニーとメロディとはどう美的性質として異なるか、それは絵画における主題と背景とに分けられるかなどなど。すこしずつ研究していきたい。

音楽理論にも還元可能なトピック。わたしは楽理に弱いのだが、共同して、さらなる音楽理論の発展に向けてお手伝いできたらと思っている。

・リズム、メロディ、ハーモニーの複雑な関係が作り出す聴取経験については、個人的に推しまくっている浜本談子の次の曲を聴いて欲しい。特に、音楽における「リズムの情感」についてより深い実感を得られることだろう。

4. 存在論

・音楽作品とは何か。それは創造されるのか、発見されるのか、消滅しうるのか、そして、作品同士はどう区別されうるのか。ここでの「存在論」とは、「世界に存在する各存在者はどのような基準で分類され、どのような枠組みで整理されるべきか」(森 2015)で、「存在証明」といった意味ではない。

・音楽作品とは何かが明らかになる。作品と演奏の存在論的区別を考察する中で、批評や価値づけの際の理論的道具が生成される。特に、カバーと原曲の関係の説明においてつよい概念的説明力を発揮します。音楽作品とその演奏について、ヘタな演奏があったとしても、その作品の価値にはふつう影響しないし、また、作品の価値と演奏の価値がある程度独立であるからこそ、演奏家は「真の」価値をパフォーマンスにおいて提示するために練習をし、楽譜と対峙する。その際には、作品を繰り返し可能なタイプとして、そして、演奏をそのタイプの例示としてのトークンとして(ちょうど硬貨の金型と硬貨そのもののように)区別することで、それぞれの価値づけのあり方をすっきりと整理できる。

・音楽の哲学に精力的に取り組んでおられる田邊健太郎さんのすっきりとしたサーベイ論考がある。「分析美学における音楽の存在論は何をどのように​論じているのか」

https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=155321

・vaporwaveに詳しい、写真論研究者の銭清弘さんの記事も勉強になる。

・さらに、存在論を応用したカバーと原曲の関係については、次の論文がひじょうにおもしろい。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jaac.12034

この論文に関しては、森功次さんによるスライドもある。

https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=56786

・この発表も含めた応用哲学会での発表のまとめはこちらにある。

・1. 定義論とともに、ばりばり細部を詰めていく方におすすめなトピック。

・たとえば、この曲は、ベートーヴェン交響曲第5番の「演奏」なのだろうか?

5. メディウム

・音楽特有のメディウムとは何か。それは特定の音の構造なのか、それとも作曲者の歴史的な経緯を含み持つものなのか。

・分析美学者のデイヴィッド・デイヴィスの整理によれば、芸術作品はその鑑賞の総体をつくりあげる諸要素とその関係によって特徴づけられる。彼は「芸術的メディウム」「手段的メディウム」そして「芸術的言明」の三つが、鑑賞の対象の総体、すなわち「鑑賞の焦点(focus of appreciation)」を構成し、芸術的メディウムを介し、作者による意図を伴った手段的メディウムの操作を通じて、ある芸術的言明がいかにして「表現(articulate)」されているのかが鑑賞される対象として「芸術作品(art work)」を特徴づけた(Davies 2004, ch. 3)*3

ここで、「芸術的言明(artistic statement)」とは、「芸術家によって生成された対象あるいは構造の、表象的、表出的、そして形式的性質」(ibid., 53)、すなわち、いわゆる作品の「内容(contents)」である。作品がその内容によって評価されることはたしかだが、のみならず、絵画における同一の主題の変奏がそれぞれの価値をもつように、内容がどのように表現されているのかもまた鑑賞の焦点のうちにある。

内容は「芸術的メディウム(artistic medium)」と「手段的メディウム(vehicular medium)」を介して表現される。後者は、たとえば、デュシャンの『泉』における工業製品としての便器という「物体(object)」、そして、それを美術館に展示させるという「行為(action)」といった、作品がそれを介して表現されうる物理的/非物理的な「素材」、である。手段的メディウムなしでは、いかなる内容も表現されえない。だが、素材はそれだけで内容を表現するわけではない。男性用便器が内容を表現するのは、その素材がある特定の内容を表現するものとして理解される場合に限られる。これを可能にするのが芸術的メディウムである。

芸術的メディウムは、特定の素材について、それを特定の内容を表現するものとして認めるような、あるひとびと、コミュニティによって共有された理解の集合である(Davies 2004, 58-59)。芸術的メディウムは、ある文化において、内容を表現しうるものとしてみなされるものに関する共有された知識である。

音楽においては、標準的には「音」が手段的メディウムとなり、そして、それらの音は共通の理解としての芸術的メディウムを介して、特定の芸術的言明が伝達されるとする。

・音楽についてではないですが、メディウムの議論を扱っているものとして、二本論文を書きました。

難波優輝. 2019. 「アニメーションの美学––––原形質性から多能性へ」『アニクリ 6s』

難波優輝. 2019. 「おしゃれの美学––––パフォーマンスとスタイル」

メディウムという概念と枠組みはかなり有用であることがわかる論文かと思います。

・音楽におけるメディウムの拡張を推し進めている作家として、わたしは網守将平をあげたい。最新作の『パタミュージック』においても、様々な電子音、グリッチを導入することで、ポップでありかつ聴いたことのない/ある音楽を混交させる。

・前作のアルバム『SONASILE』については次のように書いたことがある。

6. 即興

・即興とは何か。それは作曲とどう異なり、どのように似ているのか。即興の価値とはパフォーマンスにおけるパフォーマの創意と言われるが、それはどのように価値づけられうるのか。即興は作品なのか。

銭清弘さんのまとめ記事がある。丁寧なまとめと、文献紹介、それから様々な楽曲例のリンクなどがあり、即興の哲学のスタート地点としてとても有用。要チェック。

・一回きりの即興と、その即興を再現した演奏とはどのような関係があるのだろうか。それらは同じ旋律だが、しかし異なる評価がなされているように思える。即興そのものの価値とは何だろうか。

7. 記譜法

・楽譜とは何か。それは演奏、作品とどのような関係を持つのか。

・記譜法には、一般的なものと、様々な移調楽器に対応した楽譜やTABなどの楽器特定的記譜の区別があります。それらはそれぞれにどういう効果をもたらしているのだろうか。また、記譜法には、通奏低音やジャズのスコアシートのような、記憶補助的なもの、西洋クラシック音楽のような緻密で指令的なもの。そして、諸民族の音楽を記録するためのドキュメント的機能をもつものなどがある。

・たとえば、いまもっとも傑出した作曲家、プレイヤであるジェイコブ・コリアーの演奏の記譜の試みがJune Leeによってなされている。

この試みにはひじょうに価値があるが、同時に、彼の演奏の記譜のあまりの難しさや、楽譜からこぼれ落ちるものについても考えを巡らさざるをえない。記譜とは何のためにあるのか、それはどのように聴取の理解と関わるのかもまた興味深いトピックだ。

・楽譜について考察することで、それが作品とどう関わるのかが考察できます。図形譜にみられるように楽譜は表現となりうるのか、それ自体作品となりうるのかなど。

・記譜と作品、演奏の関係については、グッドマンの議論がもっとも有名。

芸術の言語

芸術の言語

 

・トピックのおもしろさとしては、それ自体というより、グラフや図像、建築物の設計図、特に、図形楽譜など様々な記号表現のなかで楽譜の特殊性を分析する点にあるかもしれない。わたしの知るところあまり研究論文をみかけないトピックではある。ブルーオーシャン

存在論や真正な演奏の問題とも関わり、そもそも「楽譜に忠実な演奏とは何か?」といった問いもある。

8. パフォーマンスとレコーディング

・パフォーマンスとレコーディングとは、それぞれどんな本性を持つのか。その関係はいかなるものか。パフォーマンスの一般的特徴、その種類価値づけと聴取者とパフォーマの区別がなくなるパフォーマンスについて。また、録音の種類と、反復可能性と透明性についてなどの問いがある。

・パフォーマンスと作品について、さらに、一回きりのパフォーマンスとは異なるレコーディング特有の価値とは何かが考察できる。

・どのパフォーマンスの解釈が正しいのか、という問いや、レコーディングの区別について、パフォーマンスのドキュメントと、編集されたもの、そして、録音においてのみ存在する楽曲など、考察のしがいがあるだろう。また、録音の透明性については、写真の哲学における写真的出来事との関連など興味深いトピックとなるだろう。

・パフォーマンス論一般は、デイヴィッド・デイヴィスの次の単著が参考になる。

Philosophy of the Performing Arts (Foundations of the Philosophy of the Arts)

Philosophy of the Performing Arts (Foundations of the Philosophy of the Arts)

 

こちらは、個別の議論をばりばり詰めていくというよりは、パフォーマンス芸術にはどのような種類があり、どんな論争があるのかをアラカルトに見ていく印象。

・4. 存在論でふれたように、カバー曲やリマスタリングといった、音楽作品の複製とその価値の整理の議論とも関わってくる。もはやレコーディングがある曲の代表的な演奏となったポップミュージックでは、パフォーマンスの価値はどのように考えられるのか? おもしろいトピック。

・わたしのもっともすきなバンドのひとつである「Lamp」を主導する染谷太陽は、しばしばライブよりレコーディングの魔法を強調する。

僕はつくづく録音物が好きな人間でして、
なんていうんでしょうね、
録音物には浪漫があると思うんです。

聴いているとき、これを作った人の姿が見えないじゃないですか。
全て音の世界じゃないですか。

僕が誰かのライブにほとんど行かず音源ばかり聴いているのも、この浪漫に対する偏愛なのかなと思います。

この『promenade』を作った人のことは知っているんですが、
でも、これを聴いているときはもう本人の事なんか忘れて、スピーカーやヘッドホンから聴こえてくる音の世界に入っているんですね。完全に。*4

そしてまた、じぶんたちの音楽の鑑賞のあり方についても一貫した考えを持つ。

やっぱり自分たちはライブバンドではなく、レコーディングに拘ってきたバンドだと思っていて、スタジオ盤を聴いてもらう前にいきなりライブ盤を聴かれるというのはちょっと抵抗があったりする……*5

たしかに、彼らの演奏は超絶技巧で魅せるというより、そして、それを評価するというより、自然に奏でられる音を聴くという経験に近しい、とわたしは感じる。そのライブ演奏も親密な雰囲気でとてもあたたかく、詩人の読書会に出るような感覚である。彼女の詩作を先にひとりで読んでから、あらためて、相見えて静かに聴き入る、という感覚だ。

さて、Lampの演奏において、レコーディングとパフォーマンスはそれぞれどのような価値の関係を持つのだろうか。

・たとえば、Lampの名曲である「さち子」(2014年発売のアルバム『ゆめ』収録)のレコーディング版とMVはこちら。個人的には先にこちらを聴いて欲しい。

・パフォーマンスはこちら。こちらもとてもいい雰囲気。

・ひるがえって、いまをときめくシンガーソングライタである崎山蒼志は、レコーディングのみならず、そのライブパフォーマンスの熱量においても高く評価される。音のミスがあったとしても、あるいは、あるからこそ、それぞれのパフォーマンスが独自の価値を持っているようにも思える。

・ライブパフォーマンスとレコーディング、これらはどのように違い、どのように味わわれることで、それぞれのよさが感じられるのだろうか。

・パフォーマンスについての考察として、次の記事もおひまがあれば。

9. オーセンティック/真正な演奏

古楽における真正さ(authenticity)とは何か。どうすれば、ある曲の「真正な」演奏となりうるのか。そもそも、真正な演奏は可能なのか。真正さを求める動機とは何だろうか。あるいは、古楽演奏には、独特の美的価値があるように思える。その「新鮮な」古典曲の演奏には、どのような価値があるのだろうか。

・1960年代から興隆したとされるオーセンティックな演奏の運動は様々に興味深い問いを持っている。何が真正な演奏となりうるのだろうか。その作品(あるいは楽譜)それ自体に従う演奏か、それとも作者の意図を十全に汲み取る演奏か、それとも、当時の音や聴取実践を再現した演奏か。こうした考察の際には、「真正さ」という概念を前提とせずに、哲学的な整理を行うことが有用な手段となるだろう。

・さらにまた、カバーアレンジにおける真正さもしばしば議論される。たとえば、つぎの矢野顕子の演奏は、ひとによれば、「原曲の作曲者の意図を裏切り、真摯さに欠ける」という非難を行う者もいるかもしれない。

・あるいは向井秀徳の「CHE.R.RY」のカバーは「真正な」演奏なのだろうか。

これらの曲のカバーに何らかの非難があるとすれば、その非難はどのような意味で正当なのだろうか。あるいは、アレンジにおける正当さについて、わたしたちはそれを聴取に影響させるべきなのだろうか。真正さをめぐる演奏に関する問いは、歴史的側面も持ちつつ、現在のポピュラー音楽実践においても考察を欠かしてはならないものだろう。わたしも、このカバーの真正さについての議論を考察しているところである。

・真正さをめぐる歴史的な運動を踏まえながら考察することで、過去を再現することの意義と謎めいた価値とが徐々に明らかになりうるだろう。音楽学とも連携しつつ歴史を追っていける研究者の論文が読んでみたいと個人的に思っている。

・こちらの拙まとめをチェックするとだいたいどんな議論が行われているのかがわかるだろう。

・真正さについては、アプローチはかなり異なるが、問いの立て方としてはおもしろいと感じた以下の本がある。

あじわいの構造―感性化時代の美学

あじわいの構造―感性化時代の美学

 

10. 音楽と言語

・音楽と言語はしばしば共通した要素を持つものとされる。しかし、両者の同一点と違いとは何だろうか。一方の言語は概念や意味を持つが、他方の音楽は確固たるものとしてはそうしたものを持たない。しかし、両者はある一定の構造との関係のなかで理解されるというい点では類似している。一方は文法的構造において、他方は、多くの場合、なんらかの調性において。

・音楽と言葉の歴史的関係については次のまとめを。

・音楽が言葉のようになにかを表したりできるのかどうか、という問いについては、次のまとめを。

・近年、思弁的な考察のみならず、人間の認知能力や脳機能から、言語と音楽との異同は議論されはじめている。

・この分野をリードしているのは、ジャッケンドフだろう。

A Generative Theory of Tonal Music (The MIT Press)

A Generative Theory of Tonal Music (The MIT Press)

 

・音楽と言語の関連について、パスカルキニャールの『音楽への憎しみ』における言葉と、その言葉を引用した伊藤計劃による『虐殺器官』の言葉を思い起こす者もいるだろう。

「音は視覚とは異なり、魂に直に触れてくる。音楽は心を強姦する。意味なんてのは、その上で取り澄ましている役に立たない貴族のようなものだ。音は意味をバイパスすることができる」

「……耳にはまぶたがない、と誰かが言っていた。わたしのことばを阻むことは、だれにもできない」
伊藤計劃. 2010. 『虐殺器官』225. 早川書房

言葉の意味と音楽的響きによる感情の操作。認知科学にも関心のある美学者の到来を個人的に待っている。

・これに加えて音楽と言語が同時に鑑賞される形式、すなわち、歌においての研究も見過ごしてはならないだろう。

たとえば、キリンジ『エイリアンズ』冒頭において、

はるか空に旅客機音もなく

公団の屋根の上 どこへ行く

という上空への視線から、

誰かの不機嫌も寝静まる夜さ

バイパスの澄んだ空気と

僕の街

と横方向への注意とおそらくは眼下の街へと視線が下がるのと呼応するように、メロディもゆっくりと下がっていく。これはことばと音とが一体となって独自の効果を生み出している好例だろう。

11. 音楽と想像

・音楽における想像の役割とは何か。

・音楽における想像の役割に関するトピック。音楽のうちに、特定の情動や動きやキャラクタを見出すような想像的知覚、あるいは、音楽から何か別のイメージを想起するような知覚的想像の議論などがある。

長谷川白紙の『草木』は、タイトルのように、盛り上がり、競り上がり、互いにひしめきあい伸び続ける草木の生命の熱さを感じさせる。それは、わたしの脳機能のどのような想像力によって可能になっているのか。

・また、音楽的知覚において議論されている、「音楽的な空間」の問題、たとえば、音が「高い」「低い」とは、あるいは「速いパッセージ」とは、比喩なのか否か、といった問題がある。また、鑑賞者は自発的に音楽それ自体を生命的なものとして、心的状態や意志を持つ対象として想像的知覚を行うと考えられているが、それは、どのようなメカニズムによるものなのだろうか。

・この点については、たとえば、ケンダル・ウォルトンによる論集に興味深い議論がまとまっている。

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

 

・想像と想像力にくわしい美学者もいたらなあと思ったりしている。こちらもばりばり認知系の話ができるとさらに発展しそうなトピックだ。

12. 音楽の理解

・音楽を理解するとは何か?

・音楽の理解には、「ある音が鳴っている」「このように響いている」という知覚的、認識的な理解のレベルがある。他方で、さらに、「このコードは前のコードを受けてこのような響きを作り出している」「ここは再現部となっている」といった、楽曲の構造や理論に関する概念的な知識を必要とするような概念的な理解とがある。これらのどちらがより重要なのだろうか。それともどちらも同程度重要なのだろうか。そして、「正しい」理解とは、これらの様々な理解のレベルについて言えるのか。そして、正しさはどの観点から言えるのか。アナリーゼや演奏解釈とも関わってくるトピック。

・これを、「わたしたちは何を理解しながら聴いているのか?」という観点から考えるにあたっては、キヴィのこちらの議論が参考になるだろう。

・たとえば、この論集がこのトピックを扱っている。

Musical Understandings: and Other Essays on the Philosophy of Music (English Edition)

Musical Understandings: and Other Essays on the Philosophy of Music (English Edition)

 

・ナンバがいま音楽の哲学のトピックでもっとも気になっているもののひとつ。

13. スタイル

・ロマン派と印象派はどう違うか。あるスタイルの要素には何が含まれるのか。そこから、あるスタイルを判別したり分類したりできるのか。そもそも、スタイルとは、作品が属するカテゴリやジャンルとは区別すべきなのか。

・さらに、彼女の作品には独自のスタイルがある、と言われるとき、それは何を意味しているのかという問題もある。

・音楽ではないが、わたしは、近刊「おしゃれの美学––––パフォーマンスとスタイル」にて、「あのひとのおしゃれはあのひとらしいスタイルがある」と言う表現は何を意味するのかを分析している。こちらの評価的な含みを持ったスタイル概念についてはご参考に。

・スタイル一般については、日本語文献では、こちらに収録の西村清和/小田部胤久論文が特に参考になるだろう。

スタイルの詩学―倫理学と美学の交叉(キアスム) (叢書 倫理学のフロンティア)

スタイルの詩学―倫理学と美学の交叉(キアスム) (叢書 倫理学のフロンティア)

 

・個人的には、スタイルは、より記述的なスタイル概念––––様式的スタイル(ロココ調)概念––––と、より評価的で、「自己表現」の含みを持つようなスタイル概念とを分けて考えた方がよい。このあたりの議論は、ロビンソンの古典的な論文、Robinson, J. M. (1985). Style and personality in the literary work. The Philosophical Review, 94(2), 227-247.を手がかりにするとよい。

14. 美的性質

・音楽における美的性質とは何か。

・美的性質の議論は音楽の哲学に固有というわけではない。しかし、特に、音楽に関しては、音楽理論として、その他の芸術形式と比していっそう高度な理論化がなされており、特定の美的性質(壮大な、生き生きとした、のどかな、といった用語によって指し示される性質)と特定の音楽語法や構造、ハーモニーなどがつよく結びつけられる実践がより目立ってみられる。しばしば、特定の和声進行が「清廉な」「緊張感に満ちた」と語られるが、いったい、音楽における美的性質は理論によって指摘される特定の構造とどのような関わりを持っているのだろうか。

・たとえば、洗練されたポップスを歌う松木美定の最新作「実意の行進」を取り上げたい。

冒頭の「うららかな」「ここを『去ることは』」の部分にみられるような動きから、クラシカルで端正な響きを感じさせる。そして、全体は、どこかあたたかでのどかな響きを感じさせる。なぜ特定の音型が、あるいは、全体の響きが特定の美的性質と結びついているのか。

・音楽が絵画のように表象的ではなく、何かしら深遠な、そして崇高なものと直接関わっているという説と関係して、興味深いトピックとなっている。また、音楽がもつ、形式的な美についての議論もしばしばなされる。

・美的性質に関する古典的な議論はフランク・シブリーの「美的概念」にある。

邦訳はこちらに。

分析美学基本論文集

分析美学基本論文集

 

・ただ、いきなり読む前に、デ・クレルクのこちらのサーベイを読むといい感じ。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1747-9991.2008.00165.x

15. 価値

・音楽特有の価値とは何か。視覚芸術でも、物語的でもない音楽ならではの価値とは何か。うえの美的性質における「深遠さ」や「崇高」とも関わり、また、しばしば、音楽は「別世界」を立ち上がらせると言われる。それはいったいどういう事態で、ほんとうに音楽それ自体にしかもたらすことのできない価値はあるのか。

・ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第13章参照。

・音楽の価値の議論にあたっては、音楽が歴史的にどう聴かれてきたのかをふりかえることも有用だろう。西洋における歴史のかんたんな概観については、次を参照。

16. 価値づけ

・作曲者、楽曲、演奏をどう評価するか

・こちらは批評の哲学とも関係するトピック。音楽をいかに価値づけるかは、たんにその楽譜に基づいて可能なのか、それとも、つねにその曲の演奏を通じてしか不可能なのか。また、ロックやポップスのような、楽譜に準拠するわけではないパフォーマンスはどのようにそれぞれのパフォーマンスを比較しうるのか。

・批評一般についてはノエル・キャロルの『批評について』を参照。

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

・こんな本です。

・わたしがつねに驚かされるミュージシャンである浦上・想起(旧:浦上・ケビン・ファミリー)の曲は、価値づけに挑戦を与える。

どのようにして彼の曲を価値づけられるのだろうか。その歌詞からだろうか、その演奏技能からだろうか。わたしは、彼の曲が特定の聴取のあり方をデザインするものだ、という視点から価値づけを行った。他にはどのようなアプローチがありうるだろうか。

17. アプロプリエーションとハイブリッド性

・アプロプリエーションとは、音楽的内容や録音のサンプリング、あるいは、じぶんが属するわけではないほかの文化の音楽や録音を流用すること。アプロプリエーションは著作権の問題のみならず、その旋律や曲がある文化において精神的な価値や伝統的な意義を持つ場合、他の文化に属する者がそれらを用いていいのかどうか、という倫理的でもあり美的でもある問題が生じる。このトピックは音楽にのみ限られるわけではないが、しかし、作曲家とともに、、さらに倫理学者とともに、美学者もまた、ともに考える必要があるトピックだろう。

・たとえば、vaporwaveというジャンルにおいては、既存の曲の変形、ノイズ加工によって独特の鑑賞経験をもたらしているが、これは原曲に対してどのような関係にあるのか。アプロプリエーションによって原曲は傷つけられうるのか、それとも無関係なのか。こうした問いを問うトピックであり、その意義は大きいだろう。

・文化的アプロプリエーションの議論はヤングのこの本が有名のようだ。

Cultural Appropriation and the Arts (New Directions in Aesthetics)

Cultural Appropriation and the Arts (New Directions in Aesthetics)

 

・この本もある。

The Ethics of Cultural Appropriation

The Ethics of Cultural Appropriation

 

・日本語だと渡辺さんのこちら渡辺一暁. 2018. 「文化的盗用—その限界、その分析の限界—」がアクセスしやすい。

フィルカル Vol. 3, No. 2 ―分析哲学と文化をつなぐ―

フィルカル Vol. 3, No. 2 ―分析哲学と文化をつなぐ―

 

18. 器楽の技術

・楽器と音楽、演奏の関係について。技術の発展による、音楽の語られ方や、「電子楽器では心を表現できない」といった物言いは正しいのか、それとも的外れなのか。音楽の哲学では主要なトピックではないが、しかし、発展可能性を持つ議論だろう。

・特に、音楽演奏においては、絵画や彫刻制作における絵筆やノミ以上に、楽器についての語りがしばしばみられ、楽器はプレイヤと様々なレベルで結びつけて語られる。

・部活動などで吹奏楽に関わったことのあるひとは、楽器とじぶんの親密な結びつきや、あるいは距離を感じることがあるだろう。トランペット奏者なら、自身を鼓舞しどこまでも遠くへ声を届けられるような相棒として、打楽器奏者なら、その時々にコミュニケーションをとる様々なおしゃべりな友人たちとして。

武田綾乃原作小説・京都アニメーション制作アニメーションである『響け! ユーフォニアム』においても、吹奏楽部における高校生活を描きながら、楽器とじぶんとの様々な関係が語られ、ときにはパートナーのような、ときには思い通りにいかない相手として楽器が描かれる。

しばしば語られる楽器性格論(トランペッターには勇壮な者が多い、打楽器奏者は移り気ではしゃぎがち)とも関連して、楽器とプレイヤの関係は、音楽の哲学の興味深いトピックとして、これからまだまだ議論の余地はある。わたしも趣味ではあるが楽器と日常的に触れている者として、プレイヤと楽器との関係をより深く考えていく。

19.情動と表出

・音楽は悲しいのだろうか。それともただわたしたちが悲しくなるだけなのか。あるいは、そもそも音楽は悲しくもなく、わたしたちが感じる情動もじつはほんとうの悲しさではないのか。「情動と表出」をめぐる問いとして、音楽の哲学において魅力的でひじょうに多くの論争が交わされているトピック。

・参考として、源河亨さんの「音楽は悲しみをもたらすか?–––キヴィーの音楽情動について–––」

そして、「悲しい曲のどこが「悲しい」のか?:音楽のなかの情動認知」

が参考になる。

・キヴィの議論も簡便なまとめとして参考になる。

・情動をめぐる歴史的議論を振り返ることも有用だろう。

20. ジャンル

・音楽には様々なジャンルがあり、それらはどのような価値として聴かれているのだろうか。

・ポップス、ロック、ジャズ、オペラ、器楽曲/歌、映画音楽、映像のための音楽、ダンスミュージックなど、音楽には、様々な目的を持ち、様々な機能を持つ音楽がある。これらを通り一遍に評価することは望ましくないだろうし、特定の音楽のみに絶対的な価値があり、他のものにはないとするには、かなりがんばらないといけないだろう。

・たとえば、ヘヴィ・メタルはどのように聴かれているのか。それは、ライブハウスやフェス会場でのコミュニティやライフスタイルとの関わりもあり、ほんとうに音楽だけの響きの価値から分類、価値づけ可能なのだろうか。

グレイシクのこの論文は、ジャンルの歴史、受容の複雑性を考えるうえでひじょうに示唆に富む。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/phc3.12386

II. 音楽の哲学についてのメモランダム

1. 日本における音楽の哲学の現状

日本で英米圏の音楽の哲学に取り組んでおられる方は、ナンバの知る限りですが、立命館大学助手をしておられます田邊健太郎さんと、慶應義塾大学非常勤講師を務められておられる源河亨さんがいらっしゃいます。

田邊さんは、存在論や音楽理解についての研究を、源河さんは、音楽の情動表出の議論をされています。西条玲央さんも、音楽の存在論に関わる論文を著されています。

加えて、院生の方ですと、デジタル写真論、表象文化論を研究しておられる銭清弘さんは、vaporwaveやファンクに関する浩瀚な記事を著されており、音楽の哲学は日本においておもしろい展開を見せています。

ナンバも音楽の哲学全般、音楽と想像、音楽理解、そして価値づけといったトピックに関心を持っており、継続的に研究を進めています。

現在は、特に、詩の哲学に興味を持っていることもあり、歌の哲学について研究を進めています。今年中には論文一本投稿する準備を進めています。

・学知は共同で形成されていくものなので、あらたなプレイヤの参入をひとりのプレイヤとしてお待ちしています。

2. 学習のアドバイス

・分析美学全般の教科書についてはこちら。

分析美学入門

分析美学入門

 

・分析美学の主要なトピックについてのブックガイドは、森さんの「分析美学邦語文献リーディングリスト」が参考になります。

・さいきん、グレイシックの音楽の哲学入門が訳されました。ありがたい。

音楽の哲学入門

音楽の哲学入門

 

学生さんなら、興味があるトピックは、教科書を二三かるく読んでから、ガリガリ論文読んじゃっていいと思います(わたしはそうしてます)。論文で一番新しくおもしろそうなのを五つぐらい読んでいくと参照されている古典的な文献がわかってくるし、逆に辿っていけばいいので。

学籍がなく論文をダウンロードできない方は、個別にナンバに依頼頂ければ調査を請け負います。「演奏の美学について知りたい!」「演奏指導に役立つ哲学研究はあるの?」など。そのシステムはまだ準備中なのですが、お見積もりは受付中です。

依頼まではいかなくとも、ご関心のある方は、SNSにおけるコメントやツイートで「音楽の哲学は加速するべき」「音楽の哲学の本が読みたい!」などとつぶやいて頂ければ、出版社の方の目に留まり、音楽の哲学に関する著作依頼が美学者に来るはずですので応援よろしくお願いいたします。

おわりに

これを読んで学生さんが音楽の哲学に興味を持っていただいたらなと思います。さらに、音楽学や関係する領域で研究されている方がこの記事を読んで関心を持ち、議論の整理に音楽の哲学の概念や枠組みを役立てていただけたらさいわいです。

わたしも音楽の哲学はまだまだ勉強中なので、読んだ記事をまとめて、ブログやウェブサイトにあげて頂けるとうれしいです。宣伝ですが、もちろん、解説記事の依頼などがあれば、お仕事お待ちしています。『音楽の哲学入門』も翻訳され、音楽の哲学へのアクセス環境は整ってきました。音楽の哲学をはじめましょう。

ナンバユウキ(美学と批評)Twitter: @deinotaton

引用例

ナンバユウキ. 2019. 「音楽の哲学にはどのようなトピックがあるのか」Lichtung. http://lichtung.hatenablog.com/entry/topics.of.philosophy.of.music.

*1:

*2:Gracyk, T., & Kania, A. eds. 2011. The Routledge companion to philosophy and music. Routledge.

The Routledge Companion to Philosophy and Music (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Philosophy and Music (Routledge Philosophy Companions)

 

*3:Davies, D. 2004. Art as Performance. Oxford: Blackwell.

*4:染谷大陽. 2014. 「2014.10.23 Thursday 北園みなみ『promenade』を聴いて」

*5:染谷太陽. 2019.「ライブ盤『Lamp “A Distant Shore” Asia Tour 2018』について」2019.04.10 Wednesday

分析美学のQ&A:落語と幻想文学、正しい批評、メタ分析美学

はじめに

本稿は、分析美学の(ひとつの)質問箱にて受け付けた質問に答える記事です。分析美学に関するトピックに興味のある方の参考になれば。

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質問1:落語と幻想文学

Q.1:「友達が落語と幻想文学の共通性をテーマに苦しんでいます。何かヒントはありますでしょうか」(明智小五郎さん)

A.1:おもしろい質問ですね。落語と幻想文学。人生ではじめて口にしたならびです。「共通性をテーマに苦しんで」いるとのこと。わたしは「共通性を見出したい」と理解しました。どちらも詳しくないので一般的なヒントを二点だけ。

まずは、それを問う意義はどんなものか考えてみるとよいです。落語と幻想文学の共通性を見出すと何がうれしいのか。なぜその作業に意味があるのか。友人が彼/彼女自身の家族やあなたを納得させうる説明を組み立てていくなかで、問うべき問いも見つかるかもしれません。

第二に、扱う対象を具体的にするとよいです。落語といっても、幻想文学といっても、ものすごい種類が時代と地域とによってあるでしょうから。いきなりそれらの共通性を探すのは得策ではなさそうです。それら一般の共通性を最終的には問うにせよ、現在焦点をあてる具体的な対象や範囲を絞ってゆくとよいです。

  • まとめ:意義と対象の明示化はいかがですか。(2019/02/14)

質問2:正しい批評

Q. 2:「何でもかんでも関連性のありそうなものを引用した批評(特に映画批評やアニメ批評に多いと思うのですが)は、正しい批評に思えず、気持ち悪さを感じてしまいます。正しい批評はともかくとして、批評の美学のようなものはどう我々の前に姿を現しているのでしょうか」(トッポギさん)

A. 2:舌鋒鋭い質問ですね。わたしは違和感半分おもしろみ半分を感じます。それ自体異様な魅力を放つものもしばしばあるので。とはいえ、「正しい批評」あるいは「より正しい/正しくない批評」の存在を完全に否定する立場をとろうとは現在考えていません。批評それ自体を評価できるような尺度の存在も気になっています。

話を戻して、「批評の美学のようなものはどう我々の前に姿を現しているの」か、という質問には、批評をめぐる分析美学の問いの広がりに触れることで、部分的にせよお答えできるかもしれませんね。

まず、日本語でアクセスできる批評の哲学のすぐれた著作には、一昨年刊行された、ノエル・キャロル『批評について:芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房(2017)があり、特定の「正しい価値づけ」がありうるとするラインであり、「正しい批評」を考える際にはおすすめです。とはいえ、キャロルの主張にも批判は加えられています。

たとえば、ジェームス・グラントによる『批評的想像力』において、キャロルの立場も含めたいくつかの批評の哲学の論者の主張は、批評と呼ばれる言説の一部分のみを拾っているものだとの批判が加えられています。また、同著において、グラントは、批評と隠喩の関わり、優れた批評家の能力とは何か、といった問いも議論しており、ここに批評の妥当性の探求のみではない批評の美学/哲学のひろがりを見出すことができます。

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

The Critical Imagination (Oxford Philosophical Monographs)

というわけで、「批評の美学のようなものはどう我々の前に姿を現しているの」かという問いには、以下のようなお答えになります。

  • まとめ:分析美学における批評の哲学は、「よりよい/より正しい批評とは何か」といった問いを代表に、隠喩やすぐれた批評家とは何か、と言った問いも扱いつつ幅広く議論され(はじめ)ており、そうしたものとして批評の美学が現れている*1。(2019/02/14)

質問3:メタ分析美学

Q.3:分析美学の方法論、認識論、パースペクティブ、学史などメタレベルの問題について、わかりやすく論じられた概説書などご存知ありませんか?(JBさん)

A. 3:盛りだくさんな質問ですね。そういった概説書はいずれも見たことないですわたしが読みたいです。見つけたらぜひ教えてください。

特に、あげられているように、(1)方法論、(2)認識論、(3)学史については、いま分析美学をやる者にとってもあればひじょうに有益であり必要です。ただ、概説書こそありませんが、方法論に関しては散発的にウォルトンステートメントやカリーの論文でみられますし*2、あるいは芸術作品の存在論(特に音楽作品の存在論)に関しては、メタ哲学的議論が行われていますね*3。認識論に関しては、若手のジョン・ロブソンが精力的に行なっていますね*4。学史についても、教科書の章ではありますが、コンパニオンなどで、ネルソン・グッドマン、リチャード・ウォルハイムなどの目立った哲学者は項目があります*5。これらのいずれかをまとめる仕事はかなり重要な仕事になりそうですね*6

  • まとめ:残念がら概説書はありませんが、いくつか議論はあります。(2019/02/14)

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

*1:ちなみに、わたしは、このあたりの議論をある程度以上探索しているので、批評の美学に関する原稿を書く準備は揃っています。批評の美学/哲学の記事はおまかせください。

*2:Walton, K. 2007. “Aesthetics—what? why? and wherefore?.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 65 (2), 147-161.; Currie, Gregory, 2013, “On getting out of the armchair to do aesthetics.” In Philosophical Methodology: The Armchair or the Laboratory? M. Haug ed. Routledge. なおこちらの論文は次の有用なまとめ記事があります。

*3:たとえば、Thomasson, A. L. 2006. “Debates about the ontology of art: what are we doing here?.” Philosophy Compass, 1 (3), 245-255.; Dodd, J. 2008. “Musical Works: Ontology and Meta‐Ontology.” Philosophy Compass, 3 (6), 1113-1134.

*4:たとえば、Robson, J. 2014. “A social epistemology of aesthetics: belief polarization, echo chambers and aesthetic judgement.” Synthese, 191 (11), 2513-28.

*5:Gaut, B., & Lopes, D. Eds. 2013. The Routledge companion to aesthetics. Routledge.

*6:ちなみに、ナンバは(1)分析美学の方法論を調査開始しています。長いスパンでお楽しみに。

詩の哲学入門

はじめに

詩(poetry)とは何か、詩は翻訳できないのか、詩の形式と内容とはどう関係しているのか、詩における「わたし」とは誰か、詩の真理と深遠さとは何か、歌詞、詩、短歌、これらのジャンルにはどのような特徴があるのか。こうした問いを哲学的に問う学問領域は近年、「詩の哲学(Philosophy of Poetry)」として、活発な広がりをみせている。

本稿では、詩の哲学において問われている問いを提示することでこの分野の輪郭を描くとともに、その意義を示すことで、詩について哲学的に考えるおもしろさを伝えることを試みる。

本稿の構成は以下の通り。第一に、定義論とその意義に触れ、第二に、翻訳不可能性、形式と内容の統一性について、第三に、詩における「わたし」とは誰なのかを考察し、第四に、真理と深遠さに関する議論を概観する。第五に、詩の哲学の意義をあらためてまとめ、さいごに、短歌、現代詩、歌詞といった詩と関係する様々な対象に関する研究の展望を述べる*1

文学研究、表象文化論言語哲学などに取り組んでいる様々な方に、なにより、実際に詩作を行い、詩を批評する方々にも、この興味深いトピックに関心を持って頂き、様々な活動において役立てて頂ければ、実践のための概念を組み立てているひとりの分析美学研究者として非常にうれしく思う。分析美学における詩の哲学は、詩の古さと普遍性にもかかわらず、近年生まれたばかりである。いっしょにこの分野を盛り上げていけたら、この分野に魅了された者としては幸いである。

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1. 詩とは何か、それを問う意義はあるのか?

哲学者たちは、しばしば問い難い問いを問う。「詩とは何か、それはどのように定義できるのか」。

この問いはすぐさま暗礁に乗り上げる。シェイクスピアソネット藤原俊成の歌、ゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、北園克衛の視覚的な詩、これらに共通する語彙も、語法も、韻律も形式も見あたらない。つまり、「この要素や特徴があれば、必ずこれは詩である」と認めうるような「十分条件」は存在しないように思われる。のみならず、「少なくとも、この要素や特徴を持つものは詩でありうる」と認めうるような「必要条件」も有意義なものとしては見あたらないように思われる。とすると、「この要素や特徴があれば必ずこれは詩であり、かつこの要素や特徴を持つときに限りこれは詩である」と認めうるような「必要十分条件」を提示することはできず、十分条件、必要条件、必要十分条件のいずれのレベルでの詩の定義も不可能となる。

とはいえ、哲学者は難題にこそ惹かれ続ける。定義論はいまだ終わっていない。

定義を与える試みの最近の例に、アンナ・クリスティーナ・リベイロの「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(RIbeiro 2007)がある。彼女は、詩を特定の形式そのものというよりも、その形式への詩人の意図から定義する作戦をとった。すなわち、

ある詩は、次のどちらかである。すなわち、(1)詩的伝統を特徴づけてきた反復の技術に従うか、あるいは変形させるか、あるいは拒否することによって、関係的に、あるいは本質的に詩的伝統に属することを意図した言語的対象(素朴でない詩)、あるいは、(2)本質的に反復の枠組みの使用と関与することを意図した言語的対象(素朴な詩)(Ribeiro 2007, 193)

ここで、詩的伝統とは、特定の文化や時代における反復の伝統のことである。たとえば、漢詩、特に、唐の近体詩においては、平仄に代表される韻律が高度に発達していたり、あるいは、ソネット、日本の短歌や俳句の典型例は、行数あるいは字数という形式が、その詩的伝統を特徴づける反復の技術である。したがって、ある制作者は、既存の伝統との距離を測りながら、その伝統を引き継いだり、革新させたりする中で詩を作る(ibid., 192-193)。

この定義の特徴は、形式的な要素(韻律、語彙、語法)というよりも、そうした要素への制作者の意図に基づいて詩を特徴づけている点である。それゆえ、典型例以外の作品もまた詩として適切に理解できる。たとえば、自由律詩俳句は、詩的伝統を特徴づけてきた俳句の形式を大きく変形/拒否することによって、その形式には伝統との目立った隔たりがあるものの、伝統に位置づけられることを意図しているという意味で、なお、詩であり、かつ、自由律詩「俳句」である*2

こうした定義は、なるほど、様々な境界例を含めて、詩かそうでないかを判別、整理できるという意味で役立つ。しかし、それ以外に、詩を定義することに何の意味があるのだろうか。それは、よく言って、知的な遊戯に過ぎず、それどころか、詩のあり方を狭め、実践者たちの創造性を阻害するのではないか。こうした想定反論に対しては、恣意的で一面的な定義を批判するという、哲学的な定義が持つ重要な役割に注目することで応答できる。

たとえば、詩はなんらかの真理や深遠さと関わるものであるとする特徴づけは、なるほど、あるコミュニティにおいて「優れた詩」はそのような特徴を持っているだろうが、それが詩一般の必要条件かつまたは十分条件の提示いずれを意図したものであったとしても明らかに不十分であるし、また、特定の形式の有無についても、自由律詩俳句やコンクリート・ポエトリーの誕生にみられるように必ずしも包括的な特徴づけにはならない。

詩の定義は、こうした問題の整理を行い、しばしば直観的に、提唱者が見知っている限りのあるいは好んでいる詩の特徴をもって、すべての詩の特徴づけとして過度な一般化を行うことを明晰に批判し、詩の多元性をそのままにしておくことができる。これは消極的ではあるものの、詩の可能性を開かれたままにしておくという意味で、詩の実践においてもひじょうに重要な役割を担っている。すなわち、こうした定義は、わたしたちが詩の特徴にあたって最低限共有できるだろう枠組みを提示することで、詩の一面的な理解を退け、詩のさらなる可能性を開いておくことができる。ゆえに、詩のあり方を狭める姿勢に抵抗するための武器となりうるために、詩の定義には意味がある*3

2. 詩の翻訳からこぼれ落ちるものとは何か?

詩の翻訳からこぼれ落ちるものとはなんだろうか。こうした問いは、より一般的に、書かれた同じ言語において、詩を別の表現によって言い換えることができるか、すなわち、「詩の言い換え(不)可能性((un)paraphrasability)」の問題として取り上げられてきた。

だが、ある言葉を他の言葉で言い換えたとき、必ず何かがこぼれ落ちるというのは、あまりにありふれたことのように思える。それでは、いったい、特に際だって、詩の言い換えから失われるものとは何だろうか。

これに対し、その問いを形式と内容の統一性に関する議論から応答するアプローチがみられる。ラフェ・マクレガーは「詩的厚み(poetic thickness)」において、同名の概念を用いて詩における形式と内容の統一性を整理した(McGregor 2014)。

詩的厚みとは、作品の同一性(identity)を損なうことなしには、形式も内容も分離できないといった、詩作品の経験における詩的形式と詩的内容の分離不可能性のことである。詩的厚みとは、テクストの性質というよりも作品によって満足される要求(demand)であり、ある作品が詩作品であるときにそれが応えるだろう詩に特有な要求である。(ibid., 56)*4

すなわち、詩は、生の事実として(テクストの性質として)言い換え不可能であるわけではない。形式と内容が統一的であるような言い換え不可能な経験において詩が鑑賞されているのであり、そうした経験をもたらすことを詩はしばしば要求される。たとえば、

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む(柿本人麿)

という有名な短歌は、その文法的構造や、詩の構造を取り出して論じることも、その内容を逐語訳することもまとめることもできる。その意味で、この詩は「言い換え可能」である。しかし、この詩を経験するときには、詩的形式と詩的内容とは一体となって経験される。あしびきの……と読み進めている時、鑑賞者はその長い枕詞とそれを受ける言葉とを延々と読み、あるいは口ずさみ、ひとり寝る夜の長さを再現するように、形式と内容とを同時に経験しながらこの作品を味わう。詩の鑑賞経験は、こうした厚みのある経験によって特徴づけられる。そしてこの経験をその実質を損なうことなしには言い換えることはできない。ゆえに、詩は、より正確には詩の経験は言い換え不可能である。

しかし、この立場は、統一性を持たない詩をただしく評価できるのだろうか。形式と内容の統一によって評価される伝統的な反復の形式に基づいた詩もあれば、そうした形式からの意図的な離反、否定、あるいは変形によって特定の価値を持つ詩もある(第一節参照)。後者について、形式と内容の統一性、詩的厚みが詩的な価値をもたらすとする立場はどのように応答できるだろうか。

この点について、オウェン・フラットは、詩的伝統における反復の形式から離反するような詩は、そうした伝統的な詩とは異なるかたちで、形式と内容の関係から独自の価値をもたらしているとする(Hulatt 2016)。すなわち、こうした詩は、詩自身が詩の形式自体に反省的に言及しており、形式それ自体が内容となっているために、詩的な価値を持つと指摘している(ibid.,  54)。形式に対して批評的な詩は、伝統的な反復の形式によってかたちづくられた詩的な歴史を前提として、それに対する批評によってそれ特有の意味を伝え、ゆえに価値を持つ(ibid., 57)。

言い換えをめぐる問い、そして、形式と内容の関係をめぐる問いは、詩が持つ特有な意味と価値の謎へとわたしたちを誘う。この問いを問うことで、わたしたちは具体的なマニュアルを得られるわけではない。だが、わたしたちは、抽象的で、それゆえ様々な場面で応用可能な詩の構造へのまなざしを得る。すなわち、詩作や鑑賞の際に、どのように詩と向き合えるのか、どのような点に注目できるのかを再考する機会を得る。したがって、言い換え可能性と形式と内容をめぐる問いは実践に寄与するだろう。

3. 詩における「わたし」は詩人自身なのか?

詩は誰の言葉なのだろうか。詩はしばしば一人称で書かれ、あるいは一人称を補って読まれる。だが、それは誰の一人称なのだろうか。詩における「わたし」とは誰なのだろうか。そして読み手はそうした「わたし」とどのような関係を結ぶのだろうか。ここに例をあげて考えてみよう。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい(笹井 2019, 5)

ちょうど十年前、早逝した詩人、笹井宏之のこの詩は、誰の言葉なのだろうか。彼が患っていた病、「病名は、重度の身体表現性障害。自分以外のすべてのものが、ぼくの意識とは関係なく、毒であるような状態です。テレビ、本、音楽、街の風景、誰かとの談話、木々のそよぎ。/どんな心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます」(笹井 2011, 102)と語られる、その重い病から、この歌における語り手を笹井と重ね合わせる解釈がある。

口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。(穂村 2019, 193)

この詩の言葉を語るある対象、これを「詩的ペルソナ(poetic persona)」と呼ぼう(cf. Ribeiro 2009, 69-70)*5。こうした詩的ペルソナは、「えーえん」と「くちから」泣くような切ない状況の中から、しかし毅然として、果てない祈りをかけることができる、傷つきやすさと同時に潰えないつよさを持つ誰か(あるいは何か)である。笹井の一連の詩を読むうちに、だんだんと笹井宏之という人物の横顔を浮かび上がってくる、その横顔と、詩的ペルソナとを重ね合わせることは不合理ではない。

だが、他方で、詩的ペルソナは、必ずしもその読み手とは完全に一致しない。読み手は、怒りながら優しい詩を書き、憎しみを持ちながら希望の詩を書くこともできる。あるいは、それは読み手そのものでもなく、しかし特定のキャラクタでもない独特な存在であることもある。

外へ出た瞬間にかんじる、終わってゆく春の匂いが、驚くほど故郷のそれと似ていて、コンビニへの道を歩きながら、これは救いだろうか、それとも地獄なのだろうかと思案している内に、コンビニを過ぎ、駅を過ぎ、まっくらな海辺にたどり着いて、そのままざぶざぶ沖へ歩いてゆくと、お月様がきれいだった。(岩倉 2018, 102)

この岩倉文也の詩において、春の匂いを感じ、歩き、思案し、頭上の、あるいは水面の月を見るのは誰なのだろうか。ここに具体的な地名や人名は現われず、鑑賞者は、どのような故郷をも、どのようなコンビニをも思い浮かべることができる。その意味で、この詩における詩的ペルソナは特定のキャラクタとしてみなすことができるというよりは十分抽象的な誰かである。また、岩倉文也と呼ばれる誰かの手記として読むことは不可能ではないが、それは決定的ではない。

しばしば詩においてわたしたちが出会うのは、読み手と深く結びつきつつも、読み手そのものでもない誰か、あるいは何かである。印字された、あるいはディスプレイの上の文字であり、それは、読み手の言葉でもあり、しかし読み手の言葉そのものでもない詩的ペルソナである。

リベイロは、鑑賞者は、こうした詩的ペルソナと同一化を行うことで、それを自身が思考したものとして鑑賞すると指摘する(RIbeiro 2009, 69-72)*6。すなわち、鑑賞者は詩的ペルソナに成り代わって、(想像の中で)えーえんと口からつぶやき、あるいは「ざぶざぶ沖へ歩いていく」。

とはいえ、詩的ペルソナとの同一化とはいったいどのような事態なのか、それは同一化という概念で説明できるのか。それはどのようにして可能なのかについてはさらなる議論が必要である*7

4. 詩とは見せかけの深遠さに過ぎないのか?

詩はときに深遠な響く。そして、ときに詩は真理のイメージと結びついている。しかし、詩は健全な推論を行なっているわけでも十分な経験的データを検証しているわけでもない。だとすれば詩は真理の響きをもたらすのみであり、その実、それは騙りに過ぎないのだろうか

こうした点についてピーター・ラマルクは、「詩と抽象的思考」において、詩は哲学とは異なった仕方で真理や深遠な洞察と関わるとした(Lamarque 2009)。彼は、詩は、哲学と同様、抽象的思考(具体的な「この犬」や「この怒り」ではなく、「犬一般」「怒り一般」あるいは「情動一般」)と関わるが、哲学とは異なり、具体的なパースペクティブ、そして題材(特定の場面や特定の対象)を用いてそれを行う。ゆえに、詩は、真なる命題の提示の能力によって価値づけられるというより、その具体的表現を介して抽象的思考を扱うプロセスが鑑賞されるものであると指摘した。

たとえば、李白のつぎの詩を見てみよう。

静夜思 李白
牀前 月光を看る
疑うらくは是れ 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低れて 故鄕を思う

この詩において、語り手は、あまりに静かな夜、寝台の前の手元の白い光を見、それを霜かと思う。と、それが月の光と気づくと、しぜん、光のやって来る方へ頭をあげて、月を見、それが山にかかるのを遠く眺める。遠い風景へと思いを向けているうち、その頭は、無意識のうちにだろうか、いつの間にうなだれてゆき、はるか遠い故郷を思う。手元の光、一瞬、霜かと思うそぶり、顔を上げて、山月を遠く眺める動作、そして、うなだれて望郷の念にひたるまで、一連の行為の流れ、心的状態の変遷が余すところなく描写されている*8

このとき、鑑賞者は、具体的なパースペクティブから、様々な特定の場面や出来事、ものを介して、想像的に行為し、思案し、情動を抱き、山月を眺め、そして郷里に思いを馳せる。具体的で特定的な描写を介して、一般的な情動や行為、そして、情動の流れや行為のプロセスが説得力を持って語られている。ラマルクの指摘は、こうした詩の表現力、すなわち、具体性を介して、鑑賞者たちが共有できるような抽象的な思考を表現する能力を指摘したものだと言える。彼の指摘は詩の経験の価値をも指摘するような射程の広い議論である。しかし、抽象的思考はほんとうにこのような特徴づけでよいのか、そもそも、こうした特徴づけは真理や概念に関するあいまいな理解に基づいているのではないか。詩と真理の関係については、このように様々な問いを立てることができる。

しばしば難解な、そして空疎な表現は「ポエム」と揶揄される。だが、優れた詩の難解さは、「ポエム」の空虚な難解さとは異なるのではないだろうか。詩の難解さは見せかけではなく、その難解さによって読み手に問いを誘う効果を持っているかもしれない。詩が持ちうる力のうちのひとつは、問いを開き、誘惑し、そして問いを問いとして保ち続ける力なのかもしれない。ある種の哲学が、問いを厳密さのうちに問い進め、議論を打ち立ててていく役割を持つのなら、詩とは、そうした議論の場所そのものを開墾し、そしてその土地がふたたび隠れてしまわぬように手入れし、思索者たちを誘惑し、問いを維持し続ける力を持ちうるのかもしれない。より具体的に言えば、詩は読み手の様々な心的状態を生成、すなわち、情動、欲望、信念、意図を生成させることで、読み手に新しい心的状態と、未経験の視座を与え、それによって、これまで問うべきと思ってもみなかった問いへと誘い込むことができるかもしれない。

むろん、こうした問いへの誘いは詩だけに限られない。音楽、文学作品、演劇、絵画、彫刻、映画、そのほか様々な芸術形式と作品は、鑑賞者を問いへと誘う。だが、これらにもまして、詩を読むとき、わたしたちは、そのうちに意味を見出そうとする(Ribeiro 2009, 76)。また、すべての詩がそうした問いへの誘いによって価値づけられるわけでもない。しかし、深遠さと謎めいた表現は、特に詩において、その価値としばしば関わる。そこから、詩と真理、深遠さの関わりは特有の重要性を持っているはずだ。詩の真理と深遠さを問う問いは、詩に特有な価値のひとつへとわたしたちの注目を誘い、わたしたちがあらためて詩の力を再認することを可能にする。

5. そもそも、詩の哲学が何の役に立つのか?

以上の問いを問うことについて次のふたつの想定反論がありうる。

第一に、詩の哲学で触れられている問いは、すでに様々な領域で問われてきたことであり、いまさらあらためて問うことでもない、あるいは、難解な用語によって整理する必要もない。詩の哲学は、遅れてきた哲学者たちによる車輪の再発明に過ぎない

たしかに、詩の哲学が取り組む問いは、これまで、哲学者たちというより、文学研究者、詩作者、批評家によって問われてき古い問いである。詩の哲学者たち、すなわち、分析哲学や分析美学者たちがそうした問いに気づくのが遅かったというのも彼らが認めるところだろう。だが、詩の哲学の意義は、これまで紹介してきた中で示されてきたように、つよい前提や、深遠な思弁的体系を必要とせずに、あくまで最低限共有可能な地点からはじめ、明晰な定義と論証を重要視し、そうした共有可能なステップを踏んだ上で結論に達することを目指す。そのメリットは、様々な立場や思想を異にする者たちの間で、共有可能な前提を探り、互いに批判可能な明晰な議論を行うことで、詩に関する思索をより開かれたものにし、そして、その結論や知見のアクセスしやすさを高める。つまり、詩の哲学は、車輪の再発明かもしれないが、それは、車輪制作を整理し、概念化し、広く理解、共有可能にする、詩の概念に関するインフラストラクチャの構築の役割を果たしうる。したがって、詩の哲学は、問われてきた問いを、あらためて、明晰なかたちで問い、それによって、様々なひとびとを問いに誘い、共有可能な知識を作り出す試みとして意義がある

第二に、なるほど、詩の哲学は、そうした知識の生産としては優れているだろう。しかし、いったい、そのような思索的な作業と理論と概念制作は、詩作、詩の鑑賞といった詩的実践に役立つのだろうか。よく言って、それは優雅ではあるが、無益な知的な戯れにすぎないのではないか。こうした想定反論に対しては、詩の哲学と概念の関わりから応答できる。

詩の哲学は、様々な概念の枠組みを提供し、そして、それは詩的実践のあらゆる場面で役立ちうる。たとえば、詩の定義は、その定義に基づいて、その定義では言い尽くされていないような詩をあらたに作り上げるヒントになるだろうし、一見詩には見えないような現代詩を詩として鑑賞する理由の明晰な理解を可能にし、鑑賞者はこれまではアクセスできなかったその価値に触れることができるようになるだろう。また、詩の翻訳不可能性と形式と内容の統一性に関する議論は、あらためて詩の特徴に注意を向けることを可能にし、詩作者がどのようにじぶんの作品を鑑賞して欲しいのか、鑑賞者は鑑賞すべきなのかを考察する手がかりになるだろうし、真理と深遠さについての問いは、詩に特有な価値のひとつへの注意を払うことを可能にする*9。このように、詩の哲学の議論がもたらす概念的枠組みは、それ基づいて各人が思考を展開しうるような明晰な道具を提供し、そうした思考はあらゆる実践を再考し、よりよいやり方を各人が発明するための役に立つ

6. 様々な詩の哲学へと:短歌、現代詩、歌詞

詩の哲学を日本語で問うなら、豊かな蓄積に目を向けないわけにはいかない。日本語による詩の表現は、古来花開き、異種との遭遇をそのつど繰り返しながら、交わり、変化し、いまなお枯れることはない。そして、特に、現代詩、現代短歌の作品群を読むと、同時代人として、いっそう豊穣な作品にあふれていることに気づかされる。だが、詩の批評において、美学者たちの貢献はその重要性に比すれば十分とは言えない。ゆえに、現代を代表として、様々な時代の作品についての美学的研究が必要だろう。

詩をより深く味わうための概念的枠組み、道具立ては、ときに無粋と言われるかもしれない。だが、わかったふりをして詩の真価を味わわないことや、詩の難解さを前にアクセスすることを諦めるよりかは、理論を駆使してその内実に迫る姿勢は野暮ではあるかもしれないが、真摯であるとわたしは信じる。詩を解釈し、鑑賞し、批評し、あるいは実作の際に様々な枠組みは、後にそれを捨てるにせよあるにこしたことはないだろう。そのために、詩の哲学は重要な意義をもちうるはずだ。

さらにまた、わたしたたちが日頃耳にする歌詞はどのような特徴を持つのか、ラップ、ポップソング、ロック、これらはどのように異なり、どのような価値を持つのか。何より、詩と曲とはどのような関係にあり、どのような美的経験を生み出しているのだろうか。こうした問いもまた、詩の哲学を手がかりに問うていくことができる。このように、詩の哲学には広大な問いの領域が広がっている。

おわりに

本稿の記述は、詩の哲学のスケッチである。他にも紹介に値する様々な問いがあるが、そのすべてに触れることはできなかった。

いくつかの論文で指摘されている主要な問いについては示し、その意義とおもしろさを示すことができれば本稿の目的は達成されたとみてよいだろう。英米圏の分析美学における詩論はいまだはじまったばかりである。そしてまた、日本においてその最新の研究の紹介は今回がほぼ初めてだろう。実作、批評、研究に従事している方、詩を愛する方に、詩の哲学、詩の美学に興味を持って頂き、もっと読みたい、研究してみたいと思って頂ければ幸いである。

また、どこかの媒体で筆者の詩に関する批評あるいは詩の哲学や分析美学に関する記事を依頼される方がおられたら、ぜひお声がけいただければ幸いである。たとえば、本稿のような入門記事のかたちでまだやりたいこと、やるべきことは数多く思いついており(詩人の言語行為論については背景知識の欠乏から取り組めなかったし、言い換え可能性、詩における「わたし」の問題、詩的な真理に関して、まだまだ紹介すべき問いがある)、また、批評や論考については、短歌の美学、歌詞の美学についてもいくつかアイデアをふくらませている。前者は、本稿でも紹介した概念を用いつつ、その特徴を分析するものであり、後者は、音楽哲学との関わりも見出せるスリリングで興味深い問いになるはずだ。

さいごになってしまったが、本稿は、筆者が敬愛する詩人であり、2009年1月24日に逝去され、ちょうど今年、没後十年を迎える笹井宏之が遺した作品の批評のための研究ノートの一環として書かれたことを記しておきたい。現在、彼の詩にいくども勇気づけられたひとりの者として、笹井の豊かな詩作をあらためてより深く味わうために分析美学の観点から批評というかたちで貢献できればと考え、論考を書き進めている。彼の輝きに満ちた詩なしには、詩の可能性に気づくこともできず、こうして詩の哲学に取り組むこともなかっただろう。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献と案内

Coplan, A. 2008. “Empathy and character engagement.” In The Routledge companion to philosophy and film, eds. P. Livingston, & C. Plantinga, 117-130. Routledge.(作品内へのフィクショナルキャラクタへのエンゲージメントのあり方について、同一化、シンパシー、エンパシーなどの様々なあり方を整理し、それらの問題と関係を指摘している。)

Hulatt, O. 2016. “The Problem of Modernism and Critical Refusal: Bradley and Lamarque on Form/Content Unity.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 74 (1), 47-59.(McGregorの論考とともに、言い換え不可能性、統一性に関する議論に見通しを与えてくれる論文。)

Lamarque, P. 2009. “Poetry and abstract thought.” Midwest Studies in Philosophy, 33 (1), 37-52.(ピーター・ラマルク「詩と抽象的思考」:「抽象的思考」の概念から、詩がたんに個人的で主観的なものにとどまらず、哲学とは違ったかたちで真理や深遠さと関わっていることを明らかにする。詩の価値を考察する上でも重要な文献。こちらはオープンアクセスとなっている(2019年1月26日現在)。)

Lamarque, P. 2013. “Poetry.” In The Routledge companion to aesthetics, eds. B. Gaut & D. M. Lopes, 532-542. Routledge.(勘を得たまとめ。本稿の構成はこちらを踏襲している。)

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.(マクレガー「詩的厚み」:「詩的厚み」の概念を提示し、言い換え不可能性と統一性の定式化に疑問を付すピーター・キヴィの一連の議論に応答し、形式−内容統一性と翻訳不可能性の意味を明らかにする。キヴィ、ラマルクらのあいだで交わされた一連の議論を追うためのガイドとしても有用だろう。)

Ribeiro, A. C. 2007. “Intending to repeat: A definition of poetry.” The Journal of aesthetics and art criticism, 65 (2), 189-201.(アナ・クリスティーナ・リベイロ「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(2007):近年の議論でしばしば引用されるリベイロの論文。)

Ribeiro, A. C.. 2009. “Toward a philosophy of poetry.” Midwest Studies in Philosophy, 33(1), 61-77.(分析美学における詩の哲学の発展に関する問題を指摘し、また、他の芸術形式と比較した際の詩の独自性を、人称、詩的形式、そして、意味と主題の観点から指摘している。)

石川忠久, 編. 2009.『漢詩鑑賞事典』講談社.

岩倉文也. 2018.『傾いた夜空の下で』青土社.

笹井宏之. 2011.『ひとさらい』書肆侃侃房.

笹井宏之. 2019.『えーえんとくちから』筑摩書房.

穂村弘. 2019.「解説」『えーえんとくちから』筑摩書房、所収、189-197項.

*1:トピックの選択はLamarque(2013)から影響を受けている。

*2:ここで、関係的、本質的とは、前者が、特定の作品、あるいは作品群と自身の作品とを関係づけようとする意図であり、後者は、特定の作品群というより、そうした作品が扱われる仕方で鑑賞されようとする意図である(ibid., 189, 193)。

*3:もちろん、定義論を行なうことや、精緻に構築された理論自体が与える知的快楽も、それとして特定のひとびとにとって尊重すべき価値を持つ。

*4:ただし、言い換え不可能性と、形式と内容の統一性とは異なる主張である。後者は前者を支持しうるが、前者が正しくとも後者は成り立たない場合もある(Lamarque 2013, 537)

*5:こうしたペルソナについての概念は、以前議論した、パーソン、ペルソナ、キャラクタの三層理論におけるペルソナとは、その媒体に代表される様々な違いから異なる理解を必要とするだろう(cf. ナンバユウキ. 2018b. 「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン. この点については現在考察を進めている。

*6:もちろん、リベイロが指摘するように、こうした詩的ペルソナとの同一化以外の鑑賞態度もありうる(ibid. 71-72.)。

*7:同一化の概念は、それ自体、ほんとうにその概念で指摘できるような鑑賞経験があるのかどうかを含め、分析美学において議論の的となっている。この点については、たとえば、Coplan(2008)を参照せよ。

*8:書き下し文および解釈は、石川(2011, 192-193)を参照した。

*9:また、狭義の詩のみならず、現代的な哲学、特に、いわゆる大陸哲学の詩的要素についてアプローチする手がかりをもたらすかもしれない。

論文制作の方法

はじめに:論文制作の方法を問うて何がうれしいのか

論文はいかに作られているのか、論文はどう作るべきなのか、どのような構成要素から論文の制作は成り立っているか。こうした論文の制作に関する問いを仮に「論文制作」に関する問いと呼ぼう。論文制作に関する議論は、いくつかの著書でもなされている*1。これらは、理論と概念の扱い、問いの立て方、資料調査法など、論文制作の上で注意すべき諸々の構成要素に注意を促し、効果的な手法を提示する優れた著作であり、その有用性に疑いはない。

だが、どのようなツールをどのように使うか、どのような作業を繰り返しているのかといった、より日常的で具体的な論文制作の方法の共有は、ゼミや授業の現場ではなされているかもしれないが、著作や論文の形では、これまでそれほどなされてきたとは言えないと考える。しかし、こうした具体的な情報を一般に共有することは、各研究者の研究方法の自己反省の手がかりとなるために、研究者コミュニティ全体の生産性を高める上で有用だろう。

加えて、方法を共有することは、それを手がかりに個々人が自前の方法を洗練させるのみならず、他人が採用している方法を理解し、あるいは他人にじぶん特有の方法を理解させることをも可能にする点に意義がある

方法の共有は、個々人の特性の共有と相互理解を可能にする。たとえば、研究指導にあたっては、しばしば教員の論文制作の方法が雛形として提示されるが、個々人によって身にあった学習の手法やペース、情報処理の仕方、目的、モチベーション、使用可能な時間的、経済的、社会的資源が異なる以上、どこまでが採用可能か、参考にしてほんとうに有益かは明らかではないし、むしろ合わない事態もふつうにありうる。その際に、論文制作の方法がある程度共有され、様々なバリエーションが整理されていれば、教員は学生の特性を理解し、ひとつきりでない選択肢を提示することができるだろうし、学生もまた自身特有の方法を把握しつつ、教員に対してそれ理解させることができる。

この互いの理解は、特に、進捗とその報告という点で重要な意義を持つだろう。たとえば、あるひとは完全に定まった計画を立て、一つずつ実行していく方法を採用しているかもしれないが、他方で、多くの問いを同時に走らせてそれらを取捨選択しあるいは統合していくひともいるだろう。このとき、もし指導教官が前者で学生が後者なら、進捗報告はつねに互いの時間の浪費に終わるかもしれない。両者ともじぶんがただしいと考える方法に基づいて双方を判断し(「なぜ学生は綿密な計画通りにことを進めないのか?」「順調にアイデア出しと取捨選択は進んでいるのになぜ教員は邪魔立てするのか?」)、実際の進捗の程度を正確に伝達し合うことに失敗するかもしれない。同じことは同僚同士にも言えるかもしれない。ひとつのプロジェクトを協働するにあたって、各々の進捗のあり方を共有しておくことはプロジェクト管理や、これ以上行けば破綻するような地点を判断するのに有益かもしれない。

つまり、論文制作の方法の知見は、諸々の制作の方法を共有・比較可能にし、同僚同士、そして教師と生徒といった関係について、研究の共同作業における進捗の共有や、指導をする/される場面における有意義なコミュニケーションを可能にする。ゆえに、それは研究実践の様々なレベルで役立つだろう*2

なにより筆者自身、こうした論文制作の方法の情報を他人に指導される際、そして指導する際につねづね手に入れたいと思っており、論文制作の方法の共有には潜在的なニーズがあるのではないだろうか。

とはいえ、いまだ論文制作の統一的モデルを手にしていない以上、そうした情報共有を可能にするためには、具体例からはじめるしかない。前半部ではかなり日常的で断片的な記述に終始し、後半部では仮説としてモデルを提示する。

以下では、分析美学(芸術の哲学/感性の哲学)を主として研究している筆者が、論文制作を試みに四つのパートと三つのステージに分け、それらについての日常的な作業を提示することで、論文制作の具体的な方法の一例を提供しつつ、論文制作の方法の共有のためのモデル構築とその共有を試みる*3

本稿がその目的を達成できたかは定かではないが、少なくとも、執筆を経て重要な課題が見えてきた。すなわち、論文制作の方法の共有にあたって、次の二つの点について整理を行う必要性が明らかになった。第一に、論文制作の構成要素についての分類、第二に、論文の目的に基づいた制作法の分類である。

本稿の構成は以下の通り。第一節では、四つのパートを説明し、第二節では、三つのステージを説明する。第三節で、論文制作の方法の効果的な共有のための概念整理の必要性について指摘するとともに、仮説的モデルを提示する。そして、最後に課題を提示する。

本稿が論文制作の方法の共有の試みを活性化させるなんらかの役割を担うことを期待する。

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第1節 四つのパート

本節では、筆者が日常的に行なっている論文制作の構成要素を四つのパートに分類し、その具体的な様子を伝える。これらのパートは段階的に完了されていくタスクというより、論文制作の進行あるいはステージによってその比重が変化するもののつねに行われる作業である。つまり、論文制作において、はじめのパートからさいごのパートまで順番に実行されていくのではなく、論文の構想段階から執筆へとステージが移行するにつれて、各パートの作業時間に占める割合が変化していく*4

A. 情報収集・整理

論文集めのステップ。材料となるアイデアや理論を論文から集める。集めた論文の文献リストを作る。

google scholarを検索、引用元を辿りながら、使うだろう論文をどんどん増やす。一日の作業終わりに行う。一回で済みそうなものだが、案外「こんないい論文あったのか」と気づくことが多々あるので、繰り返すのはわるくない。

f:id:lichtung:20190109225625p:image図1クリアケースと論文

論文はクリアケースにそのトピック毎にまとめると、いくつのトピックを扱っているのか、各トピックどれぐらいの論文を集めたのかといった分量が物理的に可視化されてよい(図1)。

無印のこちらのファイルを使っている。安くてある程度丈夫なため使い勝手がよい。

B. 情報解釈・理解

at_akada(2015)で指摘されているように、だいたい10篇ぐらい読んでいくと、重要な論文や論争状況がわかってくる*5。そこからさらに必要な周辺知識を固めてゆく。論文を仕上げるまでの前半はこのパートで占められる。

f:id:lichtung:20190109225632j:image図2 論文とメモ

わたしは、論文は印刷して脇にメモを書いたり線を引く(図2)*6。あとで論文を引用する時、どこで特定の議論がされていたかめくるだけでパッとわかるので(だが、無限に紙片が増えていくので困っている)。

C. 執筆

イデアが形を取りはじめたら論文で問いたい問いに向かって彼らを並べてあげる。すると、おおまかに形が見えてきたり、本筋と関係ない議論が見つかったりするので、カットしてあげたり、補強するためにまた論文を探しにゆく。するといい感じにできてきて、本格的に、論証や例示の出し方、全体の構成に力を割いていくことになる*7

D. 評価、批評

作曲家の中川俊朗さんが、作曲法として、小さな五線譜に様々なアイデアを書き留めておいて、あとで結びつけてゆく、と語っておられたが*8、わたしも一気に書くというよりは、断片的なアイデアを一冊のノートに書き溜め、それらを後で結びつける方法が性に合っている(図3)。

f:id:lichtung:20190111010243p:image図3 研究ノート

無印の単行本ノートを使っている。小さい鞄にも入るし、栞もついていて便利。書き心地もわるくない。本棚にもきれいにしまえる*9

書いておくのがポイント。「書くと忘れる」という効果を生かしたいので。外部記憶のメモにアイデアを記録させておくことで、それを忘れてもいいようにする。頭の中に後生大事にアイデアを置いていても、実は大したことのないものばかりなので、吐き出し続けて、頭の空き作業領域をつねにたっぷりとってあげる。すると、いまいちなアイデアは書いたそばから忘れてゆくが、いいアイデアは、論文を読んだりするなかで成長してゆく。それをまた書き出して、いらない部分を捨ててゆく。つまり、細かく考えを書き留め、それを評価、批評する。

第2節 三つのステージ

前節では、具体例とともに、四つのパートを提示した。その際に触れたステージについて本節では提示したい。以下では、⑴構想段階、⑵執筆段階、そして、⑶修正・洗練段階の三つのステージについて述べる。

I. 構想段階

この段階では、執筆の前に、どのようなトピックが関連しうるのか、どのような議論に意義があるのかを確認、検討する。そのために、できるだけ多くの論文に目を通し、現行の議論の潮流や、問いの立て方を確認する。この段階では、論文の論証の細かい精査というより、どのような道具立てがどの程度必要なのかを見積もる。たとえば、価値論に関わる場合、美学のみならず倫理学における議論を参照する必要がありそうか、参照するにしてもどこまでがいまだ係争中の議論であり立ち入るべきでないかを調査する。

II. 執筆段階

この段階では、文献収集はある程度完了し、取り組むべきトピックは明白になっている。そこで、前段階では軽く目を通すにとどまっていた細かな論証や問いを明らかにする際に導入すべき前提を確認し、それらをどのように論文に組み込むのかを考える。また、執筆する中で、時間的、能力的に取り組めないトピックと議論を放棄する。

III. 修正・洗練段階

この段階では、ほぼ原稿の構造が固まっている。このとき、不必要な文献を削りつつ、あやふやな議論や定義を見直しながら、その補強に必要な論文があれば確認する。この頃から原稿を知り合いに渡して、コメントを頂く。また、教科書や関係のない本を読んだり、研究ノートの最初の方を見て、現在の作業をいったん忘れるふりをして、はじめて読むように原稿を読み、漏れているトピックやおかしな前提がないかを確認する。ここがもっともうまくいかない作業のひとつだが。

第3節 論文制作のモデル

以上の四つのパートは筆者の自己の作業の再記述を試みたものであり、特定の共有された理論的枠組みに基づいたものではない。ゆえに、以上の区分それ自体、論文制作の方法の共有にあたって有用なものではない可能性は大いにある。そこで、論文制作の生産的な共有のためには、第一に、そもそも論文制作はどのような構成要素から成り立っているのかに関する議論が必要だろう。

ひとつの仮説として、試みに、論文制作は、⑴情報収集と整理、⑵情報解釈と理解、⑶執筆、⑷生産物の評価、批評の四つの要素(パート)から成り立っており、それらのパートの比重が、⑴構想段階、⑵執筆、そして、⑶修正・洗練段階の三つの進行(ステージ)によって変化してゆく作業だとする「論文制作のパート−ステージモデル」を提示しておく*10。このモデルに基づいて仮に筆者の論文制作の方法を試みに図形楽譜を模して「スコア」として図示すると次のようになる(図4)。縦の項は四つのパートを、横の項は三つのステージを意味し、黒い図形は、各パートとその作業時間の大きさを太さで表している。各ステージのある時点を切り取ったとき、どのような比重でどのような作業がなされているのかが分かる。

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第二に、論文のそれぞれの目的に基づいた論文制作の整理が必要である。本稿は、芸術、感性に関する問いについての概念の整理や提示、論証や問題の整理を行う分析美学という研究分野を専攻する著者によるものであり、論文制作の作業は論文の読解と理論や議論の構築で占められている。対して、経験的研究を行う者は、かなり異なった作業を行い、論文制作の各パートやその比重も異なるだろう。ゆえに、本稿で提示したパートや作業は異なる分野の研究には有用な情報ではないかもしれない。

そこで、価値のある情報共有のためには、こうした様々な目的の共通性と差異とを包括的に説明しうるようなモデルが必要になる。というのも、そうしたモデルなしでは、特定の研究分野においてのみ有効な制作の方法に過度な一般化がなされたり、逆に、普遍的に有効なはずの制作法が特殊なものとみなされ、うまく共有されない事態を招きうるからだ。

つまり目下必要なのは、すぐれた論文制作の方法とは何かという問いよりも前に、異なる方法を採用しているひとびとのあいだで、様々な論文制作の方法を議論し、伝達する際に有用な基本的な語彙と枠組みの構築であろう。そうしたインフラストラクチャ構築の作業が行われることで、論文制作の方法に関する分析と議論は深化しうる。

第4節 課題

より一般的な哲学的課題に関する議論を参照すれば、論文制作の方法に関する研究にあたって、わたしたちは、一方で、論文制作の方法に関する様々なデータを集める必要があり、そうしたデータの収集と同時に、他方で、それらを説明する包括的な理論構築を行う必要もあるだろう。つまり、論文制作の方法の議論を深めるにあたって、次の二つの具体的な作業課題がある*11

  • データに関する課題:どのような要素から論文制作の作業は構成されているのかについての実践者が持つデータの収集。
  • モデルに関する課題:特定のデータのまとまりについて、論文制作に関するどのようなモデルが提示されているのかに関する整理、および理論構築。

もちろん、各実践家が提供するデータには、その提供者自身によるなんらかの理論化が施されているだろうから、それを処理し、比較するために仮説的理論を構築し続ける必要もあり、データとモデルに関する問いを互いに連動させながら研究を進めていく必要があるだろう。

本稿では、前者に関しては、筆者のデータの紹介と、後者に関してはそのデータにのみ基づいたごく限定的なモデルを提示するにとどまった。

おわりに

本稿では、論文制作の方法を問う意義を指摘しつつ、論文制作を構成するだろう四つのパートと三つのステージについて説明し、それらを組み合わせた論文制作のパート−ステージモデルの提示と、その図示を試み、最後に課題を指摘した。

本稿の記述は「論文制作学」とでも呼ぶべき興味深い分野の種を含んでいるかもしれない。そのような分野がありうるかはともかく、本稿が論文制作の方法の共有の試みをより豊かにできればと願う。

ナンバユウキ(美学)

*1:たとえば、上野千鶴子『情報生産者になる』筑摩書房、2018年。戸田山和久『論文の教室––––レポートから卒論まで』NHK出版、2012年。など

*2:以上の論文制作の方法を考察する意義について考えるにあたって、次にあげたツイートの他にも、最近Twitter上で研究者のあいだで議論されていた関連するいくつものツイートを参照した。それらのすべてをあげることは、鍵アカウントの方を含め、現在、ツイートを引用する作法を筆者が作り上げていないため控えさせていただく。ただ一点、以上の意義に関する議論に瑕疵があるとすれば筆者の瑕疵だが、発想自体は筆者オリジナルなものではなく、幾人かが指摘したことをまとめたに過ぎないことをはっきりと明示化しておかなければならない。

*3:論文執筆の実践数は数回であり、このような考察をするには明らかに数は不足している。

*4:ある楽曲において、イントロ、Aメロ、そしてサビからアウトロに至るまで各声部やパートはその比重を変化させ続けるように。

*5:

*6:三色マーカーなどいろいろやり方はありそうだが、面倒なため赤と青のボールペンしか使わない。

*7:ここまで来ると、文献リストはどんどん減ってゆく。最初の方に読んだ論文は不必要だったり、議論には関わらないことが判明するので。

*8:

*9:以前は京大式カードの類を使っていたが、整理しにくいし、失くすので辞めてしまった。

*10:このうち、⑶はアカデミックライティングに関する研究がなされているだろうが、⑴、⑵と⑷とに関しては、デザインコミュニケーションの分野で盛んに研究されていると感じる。たとえば、アーロン・イリザリー&アダム・コナー『みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド』、安藤貴子訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2016年。

*11:この点については、次の論文を参照した。Walton, K. 2007. “Aesthetics—what? why? and wherefore?.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 65(2), 147-161.

分析美学の道具箱

はじめに

入門書の邦訳、重要な著作の翻訳、入門記事の充実などにみられるように、分析美学への日本語でのアクセス環境も整ってきました*1。分析美学を手がかりに研究している者のひとりとして、いろんなひとが分析美学に触れ、そのおもしろさを味わう機会が増えることを喜ばしく思います。

本稿では、分析美学の入門を終えて、もう少し分析美学を勉強しようという時に、次に読む本を探している方に向けて、わたしがふだん使っている教科書や辞典、雑誌やウェブサイトをまとめました。お役立てください*2

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教科書/辞典
The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

 

よく使います。基本的な議論をおさえたり、文献を探すときはまずこちらでチェックします。あるいは、いくつか文献を読んでから漏れがないかを確認する際に参照します。

美学辞典

美学辞典

 

分析美学のみならず、美学全般を学ぶ際にはひじょうに参考になります。いきなり読むとその凝縮具合に驚いてしまうのですが、いくつか論文を読んだ後に帰ってくると、その凝縮具合に感嘆しますし、頭の整理になり、また、問いを立てるヒントにもなります。上のコンパニオンが現行の議論に焦点をあてたものだとすれば、こちらは歴史的な議論の変遷をたどって、現在へと至る過程を教えてくれるものです。

西洋美学史

西洋美学史

 

楽しくて新しい論文ばかり読んでしまいがちなのですが、並行して学問の歴史を振り返り、自分の立ち位置を再確認することが大事だと考えます。なぜなら、美学的/哲学的問い、そしてその方法論は、その時代や状況において形作られ、実践されるものであり、わたしたちもまた、そうした特定の美学を行なっていることを歴史はあらためて教えてくれるからです。いま主流なやり方や問いの立て方をいっそう意義あるものにするために、歴史という大きな地図を用いて、それらを俯瞰して眺めることは有益です。

時代における思考からどう距離をとるか、どう自分の問いを形作るか、じぶんはどんな立ち位置にいると自己規定しているのか、これらを明確化する作業を絶えず行うことを通じて、他人にじぶんの研究のおもしろみや意義をうまく伝えられるようになるのだとわたしは考えています。

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

 

教科書を手にとって、異なる問いの並べ方や重点の置き方に触れ、取り組んでいる問いからいったん身を引き離して、より広い視野から、ほかの問いとの関連を確かめつつ、もう一度問いに戻るといいことが結構あります(重要な論点に気づいたり、議論の構成を発見したり)。なので、入門の後こそ、もう一度教科書を読むことに価値があると考えています。

雑誌

Philosophy Compass https://onlinelibrary.wiley.com/journal/17479991

「哲学のコンパス」の名前の通り、特定のトピックを一望し、進むべき方向を指し示してくれる優れたサーベイ論文を掲載している頼れる雑誌です。もちろん、著者の特定の問題意識から論争が整理されていることは言うまでもありませんが。

上のコンパニオンにはない細かなトピックについて最新の議論の見取り図と文献リストを提供してくれるという点で、とても役に立つ雑誌です。また、ティーチング/ラーニングガイドも論文を読んでいく際には強い味方になって、なかなかにくい。

The British Journal of Aesthetics | Oxford Academic

Journal of Aesthetics and Art Criticism https://onlinelibrary.wiley.com/journal/15406245

この二つの雑誌を抜きにして現代の分析美学は語れません。イギリスとアメリカの著名な美学雑誌です。BJAとJAACと略されます。個人的には、JAACの論文はバリエーション豊かで読むのが楽しくて、BJAはかなり啓発的で芯に当ててくる論文が多い印象があります。

 Contemporary Aesthetics is an international, interdisciplinary, peer- and blind-reviewed open-access, online journal of contemporary theory, research, and application in aesthetics.

分析美学に限らず、大陸哲学を援用した議論もみられます。BJAやJAACよりさらに新しいトピックや珍しい論点を扱っている印象です。オープンアクセス。

Proceedings – The European Society for Aesthetics

大陸哲学や分析美学の別を問わず、両者を架橋するような研究も見られる雑誌です。おもしろい研究が多いですね。オープンアクセス。

ウェブサイト

Stanford Encyclopedia of Philosophy

https://www.iep.utm.edu

両者ともインターネット上で誰でもアクセスできる哲学百科事典です。スタンフォード哲学百科事典、インターネット哲学百科事典の両者とも、きちんと理解したい時に用いています。

PhilPapers: Online Research in Philosophy

哲学論文の包括的なリンクサイト。著者によるドラフトが公開されていたり、トピックに関する文献のリストが提供されていたり、ひじょうに有益なサイトです。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

*1:昨年末にアップロードされた森功次さんの次のリーディングリスト、を参照ください。

*2:執筆にあたっては、先ほどあげた森さんのリーディングリスト、以前まとめられていた以下のリスト、また、「分析美学は加速する」フェアのウェブサイトブックフェア「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店(2015年9月8日~10月25日)を参考にしています。本稿であげた著作はすべて以上で触れられているものであり、選書にオリジナリティがあるわけではありません。

概念工学と概念倫理学

はじめに

本稿では、近年、いっそう活気づいている哲学的な方法論のひとつ、概念工学、および、概念倫理学に関するかんたんな紹介を行います。哲学における概念創造について考えているひとや、どのような概念をつかうべきかを気にしているひとには、いくらかヒントになるかもしれません。

概念工学ということばは、いくどか言及されていますが*1概念工学とはなにか、それのなにがうれしいのか、どのような問題があるのかについて、アクセスしやすいかたちでの、あるていど以上くわしい日本語の解説を探していました。

しかし見当たらず、なら書いてしまおう、ということで、本稿では、哲学の文献データベースサイトであるPhilPapersのエントリ「概念工学」の訳と、それに加えて、いくつかの論文を読んだうえでの覚え書きを書き添え、概念工学と概念倫理学のおおまかな輪郭を描くことで、この興味ぶかい分野のかんたんな案内をします。

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PhilPapers「概念工学」 by Steffen Koch

サマリー

「概念工学(conceptual engineering)」は、哲学的方法論の名称であり、かつまた、メタ哲学的研究のうちで、ますますポピュラーになりつつある分野の名称でもある。 概念工学という方法が哲学の歴史のうちでつねに実践されてきたことはまちがいないが、最近になってようやく、メタ哲学的研究の対象となった。概念工学の鍵となるアイデアは、伝統的な哲学的問題に対して規範的アプローチをとるというものだ。つまり、知識や人種、あるいはジェンダーといった現行の概念が何を意味しているのかを問うかわりに、概念工学は、これらの概念が何を意味すべきかを問う。〔概念工学においては、〕現実の概念は必ずしも理想的なものではなく、それらを改善することは哲学の重要な使命のひとつである、ということが基本的仮定とされている。概念工学についての現在のメタ哲学的論争は、その規範的基礎、その実現可能性、意味論的外在主義との整合性、そして適切な限界と関わっている。

重要な研究

「概念工学」というラベルは、Richard Creath の Creath(1990)においてつくりだされた。Creathのように、現在、この分野の研究者のおおくは、科学的な目的のためにデザインされた概念工学の一種である、カルナップの解明(explication)の方法(Carnap 1950)とじしんの研究とをむすびつけている。 Brun 2016 は、カルナップ主義的な解明についてのひじょうに有益な議論を含んでいる。概念工学についての現行の議論のそのほかの重要な出発点は、 Haslanger 2000、および、発展した議論は、Haslanger 2012、において導入された、Sally Haslangerによる、いわゆる「改訂的分析(ameliorative analysis)」である。 Burgess & Plunkett 2013〔のふたつの論文〕は、よりひろく、彼らの呼ぶ「概念倫理学(conceptual ethics)」にアプローチしている。概念工学についてのさいしょのモノグラフに、 Cappelen 2018のものがある。

イントロダクション

いまのところは、概念工学についての入門的なテクストはないが。ほとんどの著作はひじょうにわかりやすい。概念工学の基本的な目標の有益な特徴づけと、事例のリストについては、 Cappelen 2018のはじめの二章、Burgess & Plunkett 2013〔の概念倫理学にかんするふたつの論文〕をそれぞれ参照せよ。哲学を行う方法としてのカルナップ主義的な解明についてのすぐれたイントロダクションと議論は、Brun 2016 をみよ。

Koch, S. “Conceptual Engineering,” PhilPapers, https://philpapers.org/browse/conceptual-engineering, 2018/09/07閲覧。

いくつかの覚え書き

概念工学について

Cappelen & Plunkett によれば、概念工学(conceptual engineering)とは「⑴表象的デバイスを評価し、⑵どのように表象的デバイスを改善するかについての反省と提示であり、⑶提示された改善の実装への努力」のことであるとされる(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)。ここで、表象的デバイスは、語や思考(words and thoughts)をいみすると理解できる(cf. Patrick forthcoming, note 1)。この言い方をするのは、概念工学の対象を、それじたい論争の的になっている特定の「概念」の理解の仕方に依存しないかたちで扱いたいがためだ。とはいえ、ややイメージしにくいため、ここでは、表象的デバイスを、思考を可能にさせたり、思考するさいに用いられるものとしての、ひろいいみでの概念として理解しよう(cf. Burgess & Plunkett 2013a, 1095)。それは、たとえば、人権、自由、磁場、量子、確率、因果、責任、尊厳、芸術、批評、精神疾患脳死ジェンダー、人種といった概念のことだ。こうした概念は、帳簿や電卓、靴や眼鏡、顕微鏡や望遠鏡、携帯電話やGPSのように、具体的な実践のなかで、わたしたちの現実に関する理解とはたらきかけ、行動のためのデバイスとして役立てられ、あるいは悪用される。

こうしたデバイスとしての概念は、ほかの物理的なデバイスと同様、特定の歴史と文化のなかで生成された人工物であって、完成されたものではなく、それゆえ、現在の目的に合わせて評価し、改善することができる、という見方をとることができる。これが概念工学を特徴づける態度のひとつだといえる。この態度に基づいて、評価、改善するとは何であり、それはどのようにして可能なのか、そもそも概念とは何か、概念はわたしたちのコントロールのもとにあるのか、概念を改善することの意義などの問いが取り組まれている(cf. Cappelen & Plunkett forthcoming, section 3、および、Cappeln forthcoming)。概念工学は、わたしたちのさまざまな実践のなかで(形而上学的議論から、学術的議論、表現の自由をめぐる議論、芸術的価値と美的価値の問い、精神疾患の鑑別診断、日常の論争まで)、重要な役割を担う概念を、どのように評価、改善しうるか、改善されたものをじっさいにそれをどのようにして実装するのか、という問いに取り組む哲学的方法論であるといえる。

概念工学と概念倫理学

概念倫理学(conceptual ethics)とは「思考、発話、そして表象についての、規範的、評価的な問題について考察」を行い(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 2)、「何をすべきであるか(何をしてもよいのか)と、どの行為や結果がよく、あるいはわるいのか………という研究をともに含む」(Burgess & Plunkett 2013a, 1094)哲学的方法論である。つまり、概念倫理学とは、「わたしたちの概念的な選択が、重大な非概念的な帰結をもたらしうる」がゆえに、わたしたちが「どの概念を使うべきかを決定する」作業のことである(Burgess & Plunkett 2013b, 1102)。たとえば、特定の人種概念やジェンダ概念を用いることじたいが、その概念によって指示されるひとびとに対するわたしたちの態度を決定してしまうために、その概念が公正なものかどうか、それをわたしたちを用いるべきかどうか、用いなければならないとしたらどのようにそうすべきか、といった問いを概念倫理学は問う。

概念工学と概念倫理学との差異と共通点はあるのだろうか。この問いは、両者のアプローチのちがいから答えられるかもしれない。概念工学は、概念の設計、改善と評価、そして実装のプロセスといった、概念を用いた操作と技術、つまり比喩としての工学的課題に注目し、概念倫理学は、概念の使用がもたらすさまざまな効果(偏見の助長、さまざまなひとびとの分類とそれに基づいて行われるさまざまな行為、たとえば、診断、非難、差別)について、規範的かつ評価的な視点から考察する、いわば倫理的課題に取り組む研究態度のことであると理解できる。だが、両者は、概念に関する規範性と評価への関心という点で、共通する部分はおおい*2

現在このトピックでなされている議論のおおくは、両者のどちらにおいても関係するため、これらのことばはあるていど置換可能ではあり(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)、両者のちがいはくべつしにくいものであるため、そのつど使いかたを意識したほうがよいだろう*3

規範と評価

概念工学と概念倫理学は、「概念を、それがどのような意味をもつものとしてつかうべきか」という規範的な問題に注目する。たとえば、「概念」という概念について、これまでもさまざまな議論が繰り広げられているが、この論争の原因は、さまざまな立場がそれぞれに抱く「概念」のあるべきすがたの食い違いに求めることができる。ある論者は論理的に整合性のある概念を、べつの論者は、わたしたちの認知的なふるまいを説明しうる概念を提示し、おのおのの目的に基づいて、概念のあるべきすがたを想定している(cf. Earl)*4 。各論者を、「その概念はどのような目的に向けられたものなのか」という規範性に基づいて整理することで、各論者の立場は必ずしも両立不可能なわけではなく、さまざまな目的地をもつようなことなる試みとして整理できるかもしれない。たとえば、形而上学的問題を解決するための「概念」の概念と、こどもが対象を認知する発達過程を整理するための「概念」の概念とは、「ナイフ」であるアーミーナイフとバターナイフのように、かなりちがう目的に向かってつくられ、それぞれの実践において運用されるだろうし、わたしたちがきちんと使いこなせるならば、どちらかだけではなく、どちらもあったほうがよい。

規範性の問題は、そうした目的に適うかどうか、つまり、「どのような概念がある目的においてよい概念か」を問うような、評価的な(evaluative)問題にも関係している(Isaac manuscript, section 2.2、Burgess & Plunkett 2013b, section 3)。というのも、ある目的地をもった概念工学/概念倫理学の試みは、つくりだしたり改善した概念によって、その目的地までどれだけ近づけたか、その概念は当該の目的にどれほど適っているのか、という評価が重要な役割を果たすだろうから*5

まとめ
  • 概念工学/倫理学は、両者ともに、概念に関する規範と評価に注目し、じっさいに概念を改善することを志向する哲学的方法論のひとつである。概念工学者/概念倫理学者は、概念は、その種類やカテゴリによって幅は異なるにせよ、多かれ少なかれ、変更可能であるという仮定に基づき、概念の評価、改善、そして実装をすることで、それぞれの実践における概念の使用を、それぞれの目的においてより望ましいものにし、それによって、概念に基づくわたしたちの行為や結果をよりよいものにしようとする。

概念工学と概念倫理学に関して、その輪郭は上のように描くことができるだろう。本稿での説明は表層にとどまる。興味のある方は、PhilPapersのリンクから文献へと進まれることをおすすめする。

ナンバユウキ(美学)

Twitter: @deinotaton

訂正

2018/09/07:人名と一部の文を修正しました。

参考文献

Burgess, A., & Plunkett, D. (2013a). Conceptual ethics I. Philosophy Compass, 8(12), 1091–1101.

——. (2013b). Conceptual ethics II. Philosophy Compass, 8(12), 1102-1110.

Cappelen, H. (forthcoming). “Conceptual Engineering: The Master Argument,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Cappelen, H., & Plunkett, D. (forthcoming). “A Guided Tour Of Conceptual Engineering and Conceptual Ethics,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Earl, D., "The Classical Theory of Concepts," The Internet Encyclopedia of Philosophy,  https://www.iep.utm.edu/conc-cl/#H5, 2018/09/07閲覧。

Isaac, M. G., (manuscript). “How To Conceptually Engineer Conceptual Engineering?” manuscript, https://philpapers.org/rec/ISAHTC, 2018/09/07閲覧。

Patrick, G. (forthcoming). "Neutralism and Conceptual Engineering," In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press.

*1:cf. 戸田山和久『哲学入門』筑摩書房、2014年。あるいは、戸田山和久ミニマリスト概念工学としての哲学」2014年。http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/984/

*2:とくに、トピックに焦点をあてた概念工学者は、あるトピックの「課題設定と解決の規範と評価」の層で活動する。これに対して、Burgess & Plunkett的な概念倫理学者のいく人かは、そうした層加えて/の代わりに倫理的な「よさ」、つまり、「倫理的な規範と評価」の層に/も焦点を当てるだろう(ある概念を使うことは、課題解決には役立つが、倫理的によいのか?)。そうであるなら、概念工学と概念倫理学とは、同じ「規範と評価」ということばを使っていても、注目する層によって、かなり近い領域で仕事を行うこともあれば、かなりちがう動機づけによって活動することになるだろう。

*3:かくのごとく、概念工学まわりの概念は、まだ定まっていないため、「概念工学という概念をどう概念工学すべきか」という問いがあり、これを「概念工学のブートストラップ問題」と呼ぶ者もいる(cf. Isaac manuscript, section 2)。

*4:かんたんなまとめは、以下を参照。

*5:さまざまな実践におけるさまざまな概念の評価と改善が、ひとつのグローバルな、あるいはそれぞれの目的に従うような複数のローカルな「よさ」のどちらに基づくべきなのかには議論の余地がある(Isaac manuscript, section 2.2.1)。

2018年7月に読んだもの:Vaporwaveとファッション批評、対話と詭弁と徳美学

キイワード
  • vaporwave、ファッション批評、哲学対話、古代懐疑主義、徳美学、詭弁

はじめに

こんにちは。夏でしたね。外に出るたび身の危険を感じながら、この夏をやり過ごしてきました。ここからがながい夏の暮れも生きのびてゆきましょう。

この記事はナンバが7月に読んだ論文と本のまとめです。当人の主たる目的は備忘録と論文紹介であり、論文や本探しのお供に読んでいただければうれしいです。

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26th:A. Koc「欲しいのはVaporwaveか、それとも真実か」(2017)

まとめ

80-90’sの表象を過剰に用いることで、消費文化へのノスタルジアを表現しつつ、たほうで、後期資本主義のキッチュと近代への逃避を風刺する多面的な表現としてvaporwaveを解釈する。「ノスタルジア」を主題とするvaporwaveを、たんなる-90’sへの憧憬の提示ではなく、社会とそのうちでのひとびとのあり方についての、表現を介した理解の試みであり、かつ、消費文化への批判の表現でもある、とする解釈が試みられている。

そのために、第1節では、F. Jamesonを参照し、グローバル社会におけるじしんの階級的立ち位置を表現を介して反省することで、後期資本主義に対する批判の手がかりとする「認知的マッピング」という実践が提示され、第2節では、そうしたら実践の試みとしての視座からvaporwaveの画像と音響を分析する。次節以降では、R. Williams、B. Massumiらに依拠しつつ、Jameson的で明確な社会的-階級的立ち位置が消えた時代に、社会化以前で前人格的な感情=アフェクションを手がかりに、ノスタルジアを介して、じしんの社会的なあり方を描く「認知的アフェクティブマッピング」の試みとしてvaporwaveを解釈する。

ひとこと

Jamesonの「認知的マッピング」概念、また、それをMassumiらのアフェクト理論に接続した概念は興味ぶかいが、両理論がどのような文脈で提起され、どのような批判を受けてきたのかを確認する必要がある。いつも読んでいる文献の文体や視点とは毛色がちがうが、おおくの手がかりを得た。

Koc, A. Do You Want Vaporwave, or Do You Want the Truth?. capaciousjournal. com, 57.

22th:L. Glitsos「Vaporwave、あるいは遺棄されたショッピングモールに最適化された音楽」(2018)

まとめ

18 Carat Affairを対象に、vaporwaveを、消費資本主義を象徴する素材を用い、「存在しない記憶を思い出す」という美的な想起体験をもたらす表現ジャンルとして特徴づける。第一節は「vaporwaveとは何か」と題し、その歴史をかんたんに整理し、二節ではメディアが生み出す「起こらなかった出来事へのノスタルジア」をめぐって、vaporwaveを考察し、三節では消費文化における記憶の喪失性の表現の、そして、四節では、記憶の再編成の表現の試みとしてvaporwaveを特徴づける。

Glitsos, L., 2018. ‘Vaporwave, or music optimised for abandoned malls.’ Popular Music, 37(1), 100-118.

21st:J. Reponen「ファッション批評の現在?」(2011)

広告宣伝から一定の距離を取りつつ、ファッションを記述し、文脈づけ、価値づけることをめざすファッション批評が、今日、どう行われうるのかを、ファッションを取り巻く状況とそれに特有な問題とを記述するなかで考察してゆく。ファッションの状況について、とくに書き手とデザイナ、書き手と掲載媒体(ファッション雑誌、ブログ)との関係について、具体例を多く示している。よりひろい視野からの理論的考察は、Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)が参照できる。

Reponen, J. (2011) Fashion criticism today? In A. de Witt-Paul &M. Crouch (Eds.), Fashion forward (pp. 29–39). Oxford: Inter-Disciplinary Press.

20th:飯田隆『新哲学対話』(2017)

日常のことばによる哲学書。第一篇「アガトン」では、生活のなかで出会う嗜好と価値観をめぐる問いが、対話のなかで問われてゆく。美と感性をめぐる問いの意義とむずかしさ、なによりその魅力を伝える、哲学することへと誘う対話篇。

19th:J. アナス・J. バーンズ『古代懐疑主義入門』金山弥平

まとめ

古代懐疑主義を通した哲学実践の入門。テクストと向き合い、歴史をたどり、動機を拾い、論証を点検し、20世紀後半の英米圏の哲学者と比較しながら、哲学史に影響を残した「判断保留の十の方式」を解釈し、批判する。その歴史的背景の説明によって、議論を近づきやすいものとするとともに、各議論のていねいな解説と検討によって、古代の哲学が生気を帯びて立ち現れる。ある部分ではこれからの考察の手がかりとなりうるものとして。ある部分では、納得とつよい疑義を表明したくなるものとして。

ひとこと

とてもよい本。相対主義懐疑論に興味があるひとは読むと学びがあるし、哲学ってなにというひとで、主題に興味があるひとには勧めることにする。

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

 
18th:P・ゴールディ「芸術の徳」Philosophy Compass

近年議論のひろがりをみせる徳美学(virtue aesthetics)について、⑴徳に関する他分野の議論、⑵徳概念とその議論の芸術的活動への援用に際しての前提、⑶諸々の議論、そして、⑷展望と応用とを紹介する。

Goldie, P. (2010). Virtues of art. Philosophy Compass, 5(10), 830-839.

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1747-9991.2010.00334.x

7th:Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)

まとめ

美学、文化社会学の議論を手がかりに、ファッション批評が「だれによって」「どのように」「どのようなレベルで」行われているのかを包括的に整理するモデルをつくりあげる。デザイナ、研究者、エディタといった、さまざまなエージェントによる異なるレベルの批評活動が影響しあうことで形成されるファッション批評のモデルが提示される。作品-商品のどちらとしても扱われるオブジェクト(e.g., ビデオゲーム、デザインプロダクト)に関する批評の整理にも役立ちうるだろう。

ひとこと

ファッション批評の対象は必ずしも服そのものに限定されないし、批評の目的も多層的だ。といえばそれはそうだと思われそうだが、このように整理をされてはじめて対象を区別していくかの手がかりが得られる。この論文はとてもおもしろく読んだ。ファッション批評が気になるひとは読みましょう。美学からはじまり、受容研究、文化社会学といった横断的な領域の文献への指示もあり、ガイドとしてもよい感じ。

Choi, K. H., & Lewis, V. D. (2018). An inclusive system for fashion criticism. International Journal of Fashion Design, Technology and Education, 11(1), 12-21.

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17543266.2017.1284272?journalCode=tfdt20

1st:香西秀信『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』ちくま学芸文庫(2010)

まとめ

詭弁を回避するための詭弁入門。文学作品から政治的論争、日常における具体例を通して、詭弁とレトリックがどう使われるか、それらにどう対応しうるかを解説している。読書案内がありがたい。また、見え隠れする著者の屈託も含めおもしろく読んだ。

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

 

あとがき

いろいろ読めました。ファッションやvaporwaveといったあたらしいトピックにふれられたし、ちがう学問的態度で書かれた論文にも挑戦できて、文化論的研究への理解がすこし得られたとともに、それのなにを問うていくべきなのかも明確になりつつあります。

それでは。

ナンバユウキ(美学)@deinotaton