Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

詩の哲学入門

はじめに

詩(poetry)とは何か、詩は翻訳できないのか、詩の形式と内容とはどう関係しているのか、詩における「わたし」とは誰か、詩の真理と深遠さとは何か、歌詞、詩、短歌、これらのジャンルにはどのような特徴があるのか。こうした問いを哲学的に問う学問領域は近年、「詩の哲学(Philosophy of Poetry)」として、活発な広がりをみせている。

本稿では、詩の哲学において問われている問いを提示することでこの分野の輪郭を描くとともに、その意義を示すことで、詩について哲学的に考えるおもしろさを伝えることを試みる。

本稿の構成は以下の通り。第一に、定義論とその意義に触れ、第二に、翻訳不可能性、形式と内容の統一性について、第三に、詩における「わたし」とは誰なのかを考察し、第四に、真理と深遠さに関する議論を概観する。第五に、詩の哲学の意義をあらためてまとめ、さいごに、短歌、現代詩、歌詞といった詩と関係する様々な対象に関する研究の展望を述べる*1

文学研究、表象文化論言語哲学などに取り組んでいる様々な方に、なにより、実際に詩作を行い、詩を批評する方々にも、この興味深いトピックに関心を持って頂き、様々な活動において役立てて頂ければ、実践のための概念を組み立てているひとりの分析美学研究者として非常にうれしく思う。分析美学における詩の哲学は、詩の古さと普遍性にもかかわらず、近年生まれたばかりである。いっしょにこの分野を盛り上げていけたら、この分野に魅了された者としては幸いである。

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1. 詩とは何か、それを問う意義はあるのか?

哲学者たちは、しばしば問い難い問いを問う。「詩とは何か、それはどのように定義できるのか」。

この問いはすぐさま暗礁に乗り上げる。シェイクスピアソネット藤原俊成の歌、ゲーテの『ファウスト』、ダンテの『神曲』、北園克衛の視覚的な詩、これらに共通する語彙も、語法も、韻律も形式も見あたらない。つまり、「この要素や特徴があれば、必ずこれは詩である」と認めうるような「十分条件」は存在しないように思われる。のみならず、「少なくとも、この要素や特徴を持つものは詩でありうる」と認めうるような「必要条件」も有意義なものとしては見あたらないように思われる。とすると、「この要素や特徴があれば必ずこれは詩であり、かつこの要素や特徴を持つときに限りこれは詩である」と認めうるような「必要十分条件」を提示することはできず、十分条件、必要条件、必要十分条件のいずれのレベルでの詩の定義も不可能となる。

とはいえ、哲学者は難題にこそ惹かれ続ける。定義論はいまだ終わっていない。

定義を与える試みの最近の例に、アンナ・クリスティーナ・リベイロの「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(RIbeiro 2007)がある。彼女は、詩を特定の形式そのものというよりも、その形式への詩人の意図から定義する作戦をとった。すなわち、

ある詩は、次のどちらかである。すなわち、(1)詩的伝統を特徴づけてきた反復の技術に従うか、あるいは変形させるか、あるいは拒否することによって、関係的に、あるいは本質的に詩的伝統に属することを意図した言語的対象(素朴でない詩)、あるいは、(2)本質的に反復の枠組みの使用と関与することを意図した言語的対象(素朴な詩)(Ribeiro 2007, 193)

ここで、詩的伝統とは、特定の文化や時代における反復の伝統のことである。たとえば、漢詩、特に、唐の近体詩においては、平仄に代表される韻律が高度に発達していたり、あるいは、ソネット、日本の短歌や俳句の典型例は、行数あるいは字数という形式が、その詩的伝統を特徴づける反復の技術である。したがって、ある制作者は、既存の伝統との距離を測りながら、その伝統を引き継いだり、革新させたりする中で詩を作る(ibid., 192-193)。

この定義の特徴は、形式的な要素(韻律、語彙、語法)というよりも、そうした要素への制作者の意図に基づいて詩を特徴づけている点である。それゆえ、典型例以外の作品もまた詩として適切に理解できる。たとえば、自由律詩俳句は、詩的伝統を特徴づけてきた俳句の形式を大きく変形/拒否することによって、その形式には伝統との目立った隔たりがあるものの、伝統に位置づけられることを意図しているという意味で、なお、詩であり、かつ、自由律詩「俳句」である*2

こうした定義は、なるほど、様々な境界例を含めて、詩かそうでないかを判別、整理できるという意味で役立つ。しかし、それ以外に、詩を定義することに何の意味があるのだろうか。それは、よく言って、知的な遊戯に過ぎず、それどころか、詩のあり方を狭め、実践者たちの創造性を阻害するのではないか。こうした想定反論に対しては、恣意的で一面的な定義を批判するという、哲学的な定義が持つ重要な役割に注目することで応答できる。

たとえば、詩はなんらかの真理や深遠さと関わるものであるとする特徴づけは、なるほど、あるコミュニティにおいて「優れた詩」はそのような特徴を持っているだろうが、それが詩一般の必要条件かつまたは十分条件の提示いずれを意図したものであったとしても明らかに不十分であるし、また、特定の形式の有無についても、自由律詩俳句やコンクリート・ポエトリーの誕生にみられるように必ずしも包括的な特徴づけにはならない。

詩の定義は、こうした問題の整理を行い、しばしば直観的に、提唱者が見知っている限りのあるいは好んでいる詩の特徴をもって、すべての詩の特徴づけとして過度な一般化を行うことを明晰に批判し、詩の多元性をそのままにしておくことができる。これは消極的ではあるものの、詩の可能性を開かれたままにしておくという意味で、詩の実践においてもひじょうに重要な役割を担っている。すなわち、こうした定義は、わたしたちが詩の特徴にあたって最低限共有できるだろう枠組みを提示することで、詩の一面的な理解を退け、詩のさらなる可能性を開いておくことができる。ゆえに、詩のあり方を狭める姿勢に抵抗するための武器となりうるために、詩の定義には意味がある*3

2. 詩の翻訳からこぼれ落ちるものとは何か?

詩の翻訳からこぼれ落ちるものとはなんだろうか。こうした問いは、より一般的に、書かれた同じ言語において、詩を別の表現によって言い換えることができるか、すなわち、「詩の言い換え(不)可能性((un)paraphrasability)」の問題として取り上げられてきた。

だが、ある言葉を他の言葉で言い換えたとき、必ず何かがこぼれ落ちるというのは、あまりにありふれたことのように思える。それでは、いったい、特に際だって、詩の言い換えから失われるものとは何だろうか。

これに対し、その問いを形式と内容の統一性に関する議論から応答するアプローチがみられる。ラフェ・マクレガーは「詩的厚み(poetic thickness)」において、同名の概念を用いて詩における形式と内容の統一性を整理した(McGregor 2014)。

詩的厚みとは、作品の同一性(identity)を損なうことなしには、形式も内容も分離できないといった、詩作品の経験における詩的形式と詩的内容の分離不可能性のことである。詩的厚みとは、テクストの性質というよりも作品によって満足される要求(demand)であり、ある作品が詩作品であるときにそれが応えるだろう詩に特有な要求である。(ibid., 56)*4

すなわち、詩は、生の事実として(テクストの性質として)言い換え不可能であるわけではない。形式と内容が統一的であるような言い換え不可能な経験において詩が鑑賞されているのであり、そうした経験をもたらすことを詩はしばしば要求される。たとえば、

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む(柿本人麿)

という有名な短歌は、その文法的構造や、詩の構造を取り出して論じることも、その内容を逐語訳することもまとめることもできる。その意味で、この詩は「言い換え可能」である。しかし、この詩を経験するときには、詩的形式と詩的内容とは一体となって経験される。あしびきの……と読み進めている時、鑑賞者はその長い枕詞とそれを受ける言葉とを延々と読み、あるいは口ずさみ、ひとり寝る夜の長さを再現するように、形式と内容とを同時に経験しながらこの作品を味わう。詩の鑑賞経験は、こうした厚みのある経験によって特徴づけられる。そしてこの経験をその実質を損なうことなしには言い換えることはできない。ゆえに、詩は、より正確には詩の経験は言い換え不可能である。

しかし、この立場は、統一性を持たない詩をただしく評価できるのだろうか。形式と内容の統一によって評価される伝統的な反復の形式に基づいた詩もあれば、そうした形式からの意図的な離反、否定、あるいは変形によって特定の価値を持つ詩もある(第一節参照)。後者について、形式と内容の統一性、詩的厚みが詩的な価値をもたらすとする立場はどのように応答できるだろうか。

この点について、オウェン・フラットは、詩的伝統における反復の形式から離反するような詩は、そうした伝統的な詩とは異なるかたちで、形式と内容の関係から独自の価値をもたらしているとする(Hulatt 2016)。すなわち、こうした詩は、詩自身が詩の形式自体に反省的に言及しており、形式それ自体が内容となっているために、詩的な価値を持つと指摘している(ibid.,  54)。形式に対して批評的な詩は、伝統的な反復の形式によってかたちづくられた詩的な歴史を前提として、それに対する批評によってそれ特有の意味を伝え、ゆえに価値を持つ(ibid., 57)。

言い換えをめぐる問い、そして、形式と内容の関係をめぐる問いは、詩が持つ特有な意味と価値の謎へとわたしたちを誘う。この問いを問うことで、わたしたちは具体的なマニュアルを得られるわけではない。だが、わたしたちは、抽象的で、それゆえ様々な場面で応用可能な詩の構造へのまなざしを得る。すなわち、詩作や鑑賞の際に、どのように詩と向き合えるのか、どのような点に注目できるのかを再考する機会を得る。したがって、言い換え可能性と形式と内容をめぐる問いは実践に寄与するだろう。

3. 詩における「わたし」は詩人自身なのか?

詩は誰の言葉なのだろうか。詩はしばしば一人称で書かれ、あるいは一人称を補って読まれる。だが、それは誰の一人称なのだろうか。詩における「わたし」とは誰なのだろうか。そして読み手はそうした「わたし」とどのような関係を結ぶのだろうか。ここに例をあげて考えてみよう。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい(笹井 2019, 5)

ちょうど十年前、早逝した詩人、笹井宏之のこの詩は、誰の言葉なのだろうか。彼が患っていた病、「病名は、重度の身体表現性障害。自分以外のすべてのものが、ぼくの意識とは関係なく、毒であるような状態です。テレビ、本、音楽、街の風景、誰かとの談話、木々のそよぎ。/どんな心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます」(笹井 2011, 102)と語られる、その重い病から、この歌における語り手を笹井と重ね合わせる解釈がある。

口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。(穂村 2019, 193)

この詩の言葉を語るある対象、これを「詩的ペルソナ(poetic persona)」と呼ぼう(cf. Ribeiro 2009, 69-70)*5。こうした詩的ペルソナは、「えーえん」と「くちから」泣くような切ない状況の中から、しかし毅然として、果てない祈りをかけることができる、傷つきやすさと同時に潰えないつよさを持つ誰か(あるいは何か)である。笹井の一連の詩を読むうちに、だんだんと笹井宏之という人物の横顔を浮かび上がってくる、その横顔と、詩的ペルソナとを重ね合わせることは不合理ではない。

だが、他方で、詩的ペルソナは、必ずしもその読み手とは完全に一致しない。読み手は、怒りながら優しい詩を書き、憎しみを持ちながら希望の詩を書くこともできる。あるいは、それは読み手そのものでもなく、しかし特定のキャラクタでもない独特な存在であることもある。

外へ出た瞬間にかんじる、終わってゆく春の匂いが、驚くほど故郷のそれと似ていて、コンビニへの道を歩きながら、これは救いだろうか、それとも地獄なのだろうかと思案している内に、コンビニを過ぎ、駅を過ぎ、まっくらな海辺にたどり着いて、そのままざぶざぶ沖へ歩いてゆくと、お月様がきれいだった。(岩倉 2018, 102)

この岩倉文也の詩において、春の匂いを感じ、歩き、思案し、頭上の、あるいは水面の月を見るのは誰なのだろうか。ここに具体的な地名や人名は現われず、鑑賞者は、どのような故郷をも、どのようなコンビニをも思い浮かべることができる。その意味で、この詩における詩的ペルソナは特定のキャラクタとしてみなすことができるというよりは十分抽象的な誰かである。また、岩倉文也と呼ばれる誰かの手記として読むことは不可能ではないが、それは決定的ではない。

しばしば詩においてわたしたちが出会うのは、読み手と深く結びつきつつも、読み手そのものでもない誰か、あるいは何かである。印字された、あるいはディスプレイの上の文字であり、それは、読み手の言葉でもあり、しかし読み手の言葉そのものでもない詩的ペルソナである。

リベイロは、鑑賞者は、こうした詩的ペルソナと同一化を行うことで、それを自身が思考したものとして鑑賞すると指摘する(RIbeiro 2009, 69-72)*6。すなわち、鑑賞者は詩的ペルソナに成り代わって、(想像の中で)えーえんと口からつぶやき、あるいは「ざぶざぶ沖へ歩いていく」。

とはいえ、詩的ペルソナとの同一化とはいったいどのような事態なのか、それは同一化という概念で説明できるのか。それはどのようにして可能なのかについてはさらなる議論が必要である*7

4. 詩とは見せかけの深遠さに過ぎないのか?

詩はときに深遠な響く。そして、ときに詩は真理のイメージと結びついている。しかし、詩は健全な推論を行なっているわけでも十分な経験的データを検証しているわけでもない。だとすれば詩は真理の響きをもたらすのみであり、その実、それは騙りに過ぎないのだろうか

こうした点についてピーター・ラマルクは、「詩と抽象的思考」において、詩は哲学とは異なった仕方で真理や深遠な洞察と関わるとした(Lamarque 2009)。彼は、詩は、哲学と同様、抽象的思考(具体的な「この犬」や「この怒り」ではなく、「犬一般」「怒り一般」あるいは「情動一般」)と関わるが、哲学とは異なり、具体的なパースペクティブ、そして題材(特定の場面や特定の対象)を用いてそれを行う。ゆえに、詩は、真なる命題の提示の能力によって価値づけられるというより、その具体的表現を介して抽象的思考を扱うプロセスが鑑賞されるものであると指摘した。

たとえば、李白のつぎの詩を見てみよう。

静夜思 李白
牀前 月光を看る
疑うらくは是れ 地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低れて 故鄕を思う

この詩において、語り手は、あまりに静かな夜、寝台の前の手元の白い光を見、それを霜かと思う。と、それが月の光と気づくと、しぜん、光のやって来る方へ頭をあげて、月を見、それが山にかかるのを遠く眺める。遠い風景へと思いを向けているうち、その頭は、無意識のうちにだろうか、いつの間にうなだれてゆき、はるか遠い故郷を思う。手元の光、一瞬、霜かと思うそぶり、顔を上げて、山月を遠く眺める動作、そして、うなだれて望郷の念にひたるまで、一連の行為の流れ、心的状態の変遷が余すところなく描写されている*8

このとき、鑑賞者は、具体的なパースペクティブから、様々な特定の場面や出来事、ものを介して、想像的に行為し、思案し、情動を抱き、山月を眺め、そして郷里に思いを馳せる。具体的で特定的な描写を介して、一般的な情動や行為、そして、情動の流れや行為のプロセスが説得力を持って語られている。ラマルクの指摘は、こうした詩の表現力、すなわち、具体性を介して、鑑賞者たちが共有できるような抽象的な思考を表現する能力を指摘したものだと言える。彼の指摘は詩の経験の価値をも指摘するような射程の広い議論である。しかし、抽象的思考はほんとうにこのような特徴づけでよいのか、そもそも、こうした特徴づけは真理や概念に関するあいまいな理解に基づいているのではないか。詩と真理の関係については、このように様々な問いを立てることができる。

しばしば難解な、そして空疎な表現は「ポエム」と揶揄される。だが、優れた詩の難解さは、「ポエム」の空虚な難解さとは異なるのではないだろうか。詩の難解さは見せかけではなく、その難解さによって読み手に問いを誘う効果を持っているかもしれない。詩が持ちうる力のうちのひとつは、問いを開き、誘惑し、そして問いを問いとして保ち続ける力なのかもしれない。ある種の哲学が、問いを厳密さのうちに問い進め、議論を打ち立ててていく役割を持つのなら、詩とは、そうした議論の場所そのものを開墾し、そしてその土地がふたたび隠れてしまわぬように手入れし、思索者たちを誘惑し、問いを維持し続ける力を持ちうるのかもしれない。より具体的に言えば、詩は読み手の様々な心的状態を生成、すなわち、情動、欲望、信念、意図を生成させることで、読み手に新しい心的状態と、未経験の視座を与え、それによって、これまで問うべきと思ってもみなかった問いへと誘い込むことができるかもしれない。

むろん、こうした問いへの誘いは詩だけに限られない。音楽、文学作品、演劇、絵画、彫刻、映画、そのほか様々な芸術形式と作品は、鑑賞者を問いへと誘う。だが、これらにもまして、詩を読むとき、わたしたちは、そのうちに意味を見出そうとする(Ribeiro 2009, 76)。また、すべての詩がそうした問いへの誘いによって価値づけられるわけでもない。しかし、深遠さと謎めいた表現は、特に詩において、その価値としばしば関わる。そこから、詩と真理、深遠さの関わりは特有の重要性を持っているはずだ。詩の真理と深遠さを問う問いは、詩に特有な価値のひとつへとわたしたちの注目を誘い、わたしたちがあらためて詩の力を再認することを可能にする。

5. そもそも、詩の哲学が何の役に立つのか?

以上の問いを問うことについて次のふたつの想定反論がありうる。

第一に、詩の哲学で触れられている問いは、すでに様々な領域で問われてきたことであり、いまさらあらためて問うことでもない、あるいは、難解な用語によって整理する必要もない。詩の哲学は、遅れてきた哲学者たちによる車輪の再発明に過ぎない

たしかに、詩の哲学が取り組む問いは、これまで、哲学者たちというより、文学研究者、詩作者、批評家によって問われてき古い問いである。詩の哲学者たち、すなわち、分析哲学や分析美学者たちがそうした問いに気づくのが遅かったというのも彼らが認めるところだろう。だが、詩の哲学の意義は、これまで紹介してきた中で示されてきたように、つよい前提や、深遠な思弁的体系を必要とせずに、あくまで最低限共有可能な地点からはじめ、明晰な定義と論証を重要視し、そうした共有可能なステップを踏んだ上で結論に達することを目指す。そのメリットは、様々な立場や思想を異にする者たちの間で、共有可能な前提を探り、互いに批判可能な明晰な議論を行うことで、詩に関する思索をより開かれたものにし、そして、その結論や知見のアクセスしやすさを高める。つまり、詩の哲学は、車輪の再発明かもしれないが、それは、車輪制作を整理し、概念化し、広く理解、共有可能にする、詩の概念に関するインフラストラクチャの構築の役割を果たしうる。したがって、詩の哲学は、問われてきた問いを、あらためて、明晰なかたちで問い、それによって、様々なひとびとを問いに誘い、共有可能な知識を作り出す試みとして意義がある

第二に、なるほど、詩の哲学は、そうした知識の生産としては優れているだろう。しかし、いったい、そのような思索的な作業と理論と概念制作は、詩作、詩の鑑賞といった詩的実践に役立つのだろうか。よく言って、それは優雅ではあるが、無益な知的な戯れにすぎないのではないか。こうした想定反論に対しては、詩の哲学と概念の関わりから応答できる。

詩の哲学は、様々な概念の枠組みを提供し、そして、それは詩的実践のあらゆる場面で役立ちうる。たとえば、詩の定義は、その定義に基づいて、その定義では言い尽くされていないような詩をあらたに作り上げるヒントになるだろうし、一見詩には見えないような現代詩を詩として鑑賞する理由の明晰な理解を可能にし、鑑賞者はこれまではアクセスできなかったその価値に触れることができるようになるだろう。また、詩の翻訳不可能性と形式と内容の統一性に関する議論は、あらためて詩の特徴に注意を向けることを可能にし、詩作者がどのようにじぶんの作品を鑑賞して欲しいのか、鑑賞者は鑑賞すべきなのかを考察する手がかりになるだろうし、真理と深遠さについての問いは、詩に特有な価値のひとつへの注意を払うことを可能にする*9。このように、詩の哲学の議論がもたらす概念的枠組みは、それ基づいて各人が思考を展開しうるような明晰な道具を提供し、そうした思考はあらゆる実践を再考し、よりよいやり方を各人が発明するための役に立つ

6. 様々な詩の哲学へと:短歌、現代詩、歌詞

詩の哲学を日本語で問うなら、豊かな蓄積に目を向けないわけにはいかない。日本語による詩の表現は、古来花開き、異種との遭遇をそのつど繰り返しながら、交わり、変化し、いまなお枯れることはない。そして、特に、現代詩、現代短歌の作品群を読むと、同時代人として、いっそう豊穣な作品にあふれていることに気づかされる。だが、詩の批評において、美学者たちの貢献はその重要性に比すれば十分とは言えない。ゆえに、現代を代表として、様々な時代の作品についての美学的研究が必要だろう。

詩をより深く味わうための概念的枠組み、道具立ては、ときに無粋と言われるかもしれない。だが、わかったふりをして詩の真価を味わわないことや、詩の難解さを前にアクセスすることを諦めるよりかは、理論を駆使してその内実に迫る姿勢は野暮ではあるかもしれないが、真摯であるとわたしは信じる。詩を解釈し、鑑賞し、批評し、あるいは実作の際に様々な枠組みは、後にそれを捨てるにせよあるにこしたことはないだろう。そのために、詩の哲学は重要な意義をもちうるはずだ。

さらにまた、わたしたたちが日頃耳にする歌詞はどのような特徴を持つのか、ラップ、ポップソング、ロック、これらはどのように異なり、どのような価値を持つのか。何より、詩と曲とはどのような関係にあり、どのような美的経験を生み出しているのだろうか。こうした問いもまた、詩の哲学を手がかりに問うていくことができる。このように、詩の哲学には広大な問いの領域が広がっている。

おわりに

本稿の記述は、詩の哲学のスケッチである。他にも紹介に値する様々な問いがあるが、そのすべてに触れることはできなかった。

いくつかの論文で指摘されている主要な問いについては示し、その意義とおもしろさを示すことができれば本稿の目的は達成されたとみてよいだろう。英米圏の分析美学における詩論はいまだはじまったばかりである。そしてまた、日本においてその最新の研究の紹介は今回がほぼ初めてだろう。実作、批評、研究に従事している方、詩を愛する方に、詩の哲学、詩の美学に興味を持って頂き、もっと読みたい、研究してみたいと思って頂ければ幸いである。

また、どこかの媒体で筆者の詩に関する批評あるいは詩の哲学や分析美学に関する記事を依頼される方がおられたら、ぜひお声がけいただければ幸いである。たとえば、本稿のような入門記事のかたちでまだやりたいこと、やるべきことは数多く思いついており(詩人の言語行為論については背景知識の欠乏から取り組めなかったし、言い換え可能性、詩における「わたし」の問題、詩的な真理に関して、まだまだ紹介すべき問いがある)、また、批評や論考については、短歌の美学、歌詞の美学についてもいくつかアイデアをふくらませている。前者は、本稿でも紹介した概念を用いつつ、その特徴を分析するものであり、後者は、音楽哲学との関わりも見出せるスリリングで興味深い問いになるはずだ。

さいごになってしまったが、本稿は、筆者が敬愛する詩人であり、2009年1月24日に逝去され、ちょうど今年、没後十年を迎える笹井宏之が遺した作品の批評のための研究ノートの一環として書かれたことを記しておきたい。現在、彼の詩にいくども勇気づけられたひとりの者として、笹井の豊かな詩作をあらためてより深く味わうために分析美学の観点から批評というかたちで貢献できればと考え、論考を書き進めている。彼の輝きに満ちた詩なしには、詩の可能性に気づくこともできず、こうして詩の哲学に取り組むこともなかっただろう。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

参考文献と案内

Coplan, A. 2008. “Empathy and character engagement.” In The Routledge companion to philosophy and film, eds. P. Livingston, & C. Plantinga, 117-130. Routledge.(作品内へのフィクショナルキャラクタへのエンゲージメントのあり方について、同一化、シンパシー、エンパシーなどの様々なあり方を整理し、それらの問題と関係を指摘している。)

Hulatt, O. 2016. “The Problem of Modernism and Critical Refusal: Bradley and Lamarque on Form/Content Unity.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 74 (1), 47-59.(McGregorの論考とともに、言い換え不可能性、統一性に関する議論に見通しを与えてくれる論文。)

Lamarque, P. 2009. “Poetry and abstract thought.” Midwest Studies in Philosophy, 33 (1), 37-52.(ピーター・ラマルク「詩と抽象的思考」:「抽象的思考」の概念から、詩がたんに個人的で主観的なものにとどまらず、哲学とは違ったかたちで真理や深遠さと関わっていることを明らかにする。詩の価値を考察する上でも重要な文献。こちらはオープンアクセスとなっている(2019年1月26日現在)。)

Lamarque, P. 2013. “Poetry.” In The Routledge companion to aesthetics, eds. B. Gaut & D. M. Lopes, 532-542. Routledge.(勘を得たまとめ。本稿の構成はこちらを踏襲している。)

McGregor, R. 2014. “Poetic Thickness.” British Journal of Aesthetics, 54 (1), 49-64.(マクレガー「詩的厚み」:「詩的厚み」の概念を提示し、言い換え不可能性と統一性の定式化に疑問を付すピーター・キヴィの一連の議論に応答し、形式−内容統一性と翻訳不可能性の意味を明らかにする。キヴィ、ラマルクらのあいだで交わされた一連の議論を追うためのガイドとしても有用だろう。)

Ribeiro, A. C. 2007. “Intending to repeat: A definition of poetry.” The Journal of aesthetics and art criticism, 65 (2), 189-201.(アナ・クリスティーナ・リベイロ「反復を意図すること:詩のひとつの定義」(2007):近年の議論でしばしば引用されるリベイロの論文。)

Ribeiro, A. C.. 2009. “Toward a philosophy of poetry.” Midwest Studies in Philosophy, 33(1), 61-77.(分析美学における詩の哲学の発展に関する問題を指摘し、また、他の芸術形式と比較した際の詩の独自性を、人称、詩的形式、そして、意味と主題の観点から指摘している。)

石川忠久, 編. 2009.『漢詩鑑賞事典』講談社.

岩倉文也. 2018.『傾いた夜空の下で』青土社.

笹井宏之. 2011.『ひとさらい』書肆侃侃房.

笹井宏之. 2019.『えーえんとくちから』筑摩書房.

穂村弘. 2019.「解説」『えーえんとくちから』筑摩書房、所収、189-197項.

*1:トピックの選択はLamarque(2013)から影響を受けている。

*2:ここで、関係的、本質的とは、前者が、特定の作品、あるいは作品群と自身の作品とを関係づけようとする意図であり、後者は、特定の作品群というより、そうした作品が扱われる仕方で鑑賞されようとする意図である(ibid., 189, 193)。

*3:もちろん、定義論を行なうことや、精緻に構築された理論自体が与える知的快楽も、それとして特定のひとびとにとって尊重すべき価値を持つ。

*4:ただし、言い換え不可能性と、形式と内容の統一性とは異なる主張である。後者は前者を支持しうるが、前者が正しくとも後者は成り立たない場合もある(Lamarque 2013, 537)

*5:こうしたペルソナについての概念は、以前議論した、パーソン、ペルソナ、キャラクタの三層理論におけるペルソナとは、その媒体に代表される様々な違いから異なる理解を必要とするだろう(cf. ナンバユウキ. 2018b. 「バーチャルユーチューバの三つの身体––––パーソン・ペルソナ・キャラクタ」Lichtung Criticism, http://lichtung.hateblo.jp/entry/2018/05/19/バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン. この点については現在考察を進めている。

*6:もちろん、リベイロが指摘するように、こうした詩的ペルソナとの同一化以外の鑑賞態度もありうる(ibid. 71-72.)。

*7:同一化の概念は、それ自体、ほんとうにその概念で指摘できるような鑑賞経験があるのかどうかを含め、分析美学において議論の的となっている。この点については、たとえば、Coplan(2008)を参照せよ。

*8:書き下し文および解釈は、石川(2011, 192-193)を参照した。

*9:また、狭義の詩のみならず、現代的な哲学、特に、いわゆる大陸哲学の詩的要素についてアプローチする手がかりをもたらすかもしれない。

論文制作の方法

はじめに:論文制作の方法を問うて何がうれしいのか

論文はいかに作られているのか、論文はどう作るべきなのか、どのような構成要素から論文の制作は成り立っているか。こうした論文の制作に関する問いを仮に「論文制作」に関する問いと呼ぼう。論文制作に関する議論は、いくつかの著書でもなされている*1。これらは、理論と概念の扱い、問いの立て方、資料調査法など、論文制作の上で注意すべき諸々の構成要素に注意を促し、効果的な手法を提示する優れた著作であり、その有用性に疑いはない。

だが、どのようなツールをどのように使うか、どのような作業を繰り返しているのかといった、より日常的で具体的な論文制作の方法の共有は、ゼミや授業の現場ではなされているかもしれないが、著作や論文の形では、これまでそれほどなされてきたとは言えないと考える。しかし、こうした具体的な情報を一般に共有することは、各研究者の研究方法の自己反省の手がかりとなるために、研究者コミュニティ全体の生産性を高める上で有用だろう。

加えて、方法を共有することは、それを手がかりに個々人が自前の方法を洗練させるのみならず、他人が採用している方法を理解し、あるいは他人にじぶん特有の方法を理解させることをも可能にする点に意義がある

方法の共有は、個々人の特性の共有と相互理解を可能にする。たとえば、研究指導にあたっては、しばしば教員の論文制作の方法が雛形として提示されるが、個々人によって身にあった学習の手法やペース、情報処理の仕方、目的、モチベーション、使用可能な時間的、経済的、社会的資源が異なる以上、どこまでが採用可能か、参考にしてほんとうに有益かは明らかではないし、むしろ合わない事態もふつうにありうる。その際に、論文制作の方法がある程度共有され、様々なバリエーションが整理されていれば、教員は学生の特性を理解し、ひとつきりでない選択肢を提示することができるだろうし、学生もまた自身特有の方法を把握しつつ、教員に対してそれ理解させることができる。

この互いの理解は、特に、進捗とその報告という点で重要な意義を持つだろう。たとえば、あるひとは完全に定まった計画を立て、一つずつ実行していく方法を採用しているかもしれないが、他方で、多くの問いを同時に走らせてそれらを取捨選択しあるいは統合していくひともいるだろう。このとき、もし指導教官が前者で学生が後者なら、進捗報告はつねに互いの時間の浪費に終わるかもしれない。両者ともじぶんがただしいと考える方法に基づいて双方を判断し(「なぜ学生は綿密な計画通りにことを進めないのか?」「順調にアイデア出しと取捨選択は進んでいるのになぜ教員は邪魔立てするのか?」)、実際の進捗の程度を正確に伝達し合うことに失敗するかもしれない。同じことは同僚同士にも言えるかもしれない。ひとつのプロジェクトを協働するにあたって、各々の進捗のあり方を共有しておくことはプロジェクト管理や、これ以上行けば破綻するような地点を判断するのに有益かもしれない。

つまり、論文制作の方法の知見は、諸々の制作の方法を共有・比較可能にし、同僚同士、そして教師と生徒といった関係について、研究の共同作業における進捗の共有や、指導をする/される場面における有意義なコミュニケーションを可能にする。ゆえに、それは研究実践の様々なレベルで役立つだろう*2

なにより筆者自身、こうした論文制作の方法の情報を他人に指導される際、そして指導する際につねづね手に入れたいと思っており、論文制作の方法の共有には潜在的なニーズがあるのではないだろうか。

とはいえ、いまだ論文制作の統一的モデルを手にしていない以上、そうした情報共有を可能にするためには、具体例からはじめるしかない。前半部ではかなり日常的で断片的な記述に終始し、後半部では仮説としてモデルを提示する。

以下では、分析美学(芸術の哲学/感性の哲学)を主として研究している筆者が、論文制作を試みに四つのパートと三つのステージに分け、それらについての日常的な作業を提示することで、論文制作の具体的な方法の一例を提供しつつ、論文制作の方法の共有のためのモデル構築とその共有を試みる*3

本稿がその目的を達成できたかは定かではないが、少なくとも、執筆を経て重要な課題が見えてきた。すなわち、論文制作の方法の共有にあたって、次の二つの点について整理を行う必要性が明らかになった。第一に、論文制作の構成要素についての分類、第二に、論文の目的に基づいた制作法の分類である。

本稿の構成は以下の通り。第一節では、四つのパートを説明し、第二節では、三つのステージを説明する。第三節で、論文制作の方法の効果的な共有のための概念整理の必要性について指摘するとともに、仮説的モデルを提示する。そして、最後に課題を提示する。

本稿が論文制作の方法の共有の試みを活性化させるなんらかの役割を担うことを期待する。

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第1節 四つのパート

本節では、筆者が日常的に行なっている論文制作の構成要素を四つのパートに分類し、その具体的な様子を伝える。これらのパートは段階的に完了されていくタスクというより、論文制作の進行あるいはステージによってその比重が変化するもののつねに行われる作業である。つまり、論文制作において、はじめのパートからさいごのパートまで順番に実行されていくのではなく、論文の構想段階から執筆へとステージが移行するにつれて、各パートの作業時間に占める割合が変化していく*4

A. 情報収集・整理

論文集めのステップ。材料となるアイデアや理論を論文から集める。集めた論文の文献リストを作る。

google scholarを検索、引用元を辿りながら、使うだろう論文をどんどん増やす。一日の作業終わりに行う。一回で済みそうなものだが、案外「こんないい論文あったのか」と気づくことが多々あるので、繰り返すのはわるくない。

f:id:lichtung:20190109225625p:image図1クリアケースと論文

論文はクリアケースにそのトピック毎にまとめると、いくつのトピックを扱っているのか、各トピックどれぐらいの論文を集めたのかといった分量が物理的に可視化されてよい(図1)。

無印のこちらのファイルを使っている。安くてある程度丈夫なため使い勝手がよい。

B. 情報解釈・理解

at_akada(2015)で指摘されているように、だいたい10篇ぐらい読んでいくと、重要な論文や論争状況がわかってくる*5。そこからさらに必要な周辺知識を固めてゆく。論文を仕上げるまでの前半はこのパートで占められる。

f:id:lichtung:20190109225632j:image図2 論文とメモ

わたしは、論文は印刷して脇にメモを書いたり線を引く(図2)*6。あとで論文を引用する時、どこで特定の議論がされていたかめくるだけでパッとわかるので(だが、無限に紙片が増えていくので困っている)。

C. 執筆

イデアが形を取りはじめたら論文で問いたい問いに向かって彼らを並べてあげる。すると、おおまかに形が見えてきたり、本筋と関係ない議論が見つかったりするので、カットしてあげたり、補強するためにまた論文を探しにゆく。するといい感じにできてきて、本格的に、論証や例示の出し方、全体の構成に力を割いていくことになる*7

D. 評価、批評

作曲家の中川俊朗さんが、作曲法として、小さな五線譜に様々なアイデアを書き留めておいて、あとで結びつけてゆく、と語っておられたが*8、わたしも一気に書くというよりは、断片的なアイデアを一冊のノートに書き溜め、それらを後で結びつける方法が性に合っている(図3)。

f:id:lichtung:20190111010243p:image図3 研究ノート

無印の単行本ノートを使っている。小さい鞄にも入るし、栞もついていて便利。書き心地もわるくない。本棚にもきれいにしまえる*9

書いておくのがポイント。「書くと忘れる」という効果を生かしたいので。外部記憶のメモにアイデアを記録させておくことで、それを忘れてもいいようにする。頭の中に後生大事にアイデアを置いていても、実は大したことのないものばかりなので、吐き出し続けて、頭の空き作業領域をつねにたっぷりとってあげる。すると、いまいちなアイデアは書いたそばから忘れてゆくが、いいアイデアは、論文を読んだりするなかで成長してゆく。それをまた書き出して、いらない部分を捨ててゆく。つまり、細かく考えを書き留め、それを評価、批評する。

第2節 三つのステージ

前節では、具体例とともに、四つのパートを提示した。その際に触れたステージについて本節では提示したい。以下では、⑴構想段階、⑵執筆段階、そして、⑶修正・洗練段階の三つのステージについて述べる。

I. 構想段階

この段階では、執筆の前に、どのようなトピックが関連しうるのか、どのような議論に意義があるのかを確認、検討する。そのために、できるだけ多くの論文に目を通し、現行の議論の潮流や、問いの立て方を確認する。この段階では、論文の論証の細かい精査というより、どのような道具立てがどの程度必要なのかを見積もる。たとえば、価値論に関わる場合、美学のみならず倫理学における議論を参照する必要がありそうか、参照するにしてもどこまでがいまだ係争中の議論であり立ち入るべきでないかを調査する。

II. 執筆段階

この段階では、文献収集はある程度完了し、取り組むべきトピックは明白になっている。そこで、前段階では軽く目を通すにとどまっていた細かな論証や問いを明らかにする際に導入すべき前提を確認し、それらをどのように論文に組み込むのかを考える。また、執筆する中で、時間的、能力的に取り組めないトピックと議論を放棄する。

III. 修正・洗練段階

この段階では、ほぼ原稿の構造が固まっている。このとき、不必要な文献を削りつつ、あやふやな議論や定義を見直しながら、その補強に必要な論文があれば確認する。この頃から原稿を知り合いに渡して、コメントを頂く。また、教科書や関係のない本を読んだり、研究ノートの最初の方を見て、現在の作業をいったん忘れるふりをして、はじめて読むように原稿を読み、漏れているトピックやおかしな前提がないかを確認する。ここがもっともうまくいかない作業のひとつだが。

第3節 論文制作のモデル

以上の四つのパートは筆者の自己の作業の再記述を試みたものであり、特定の共有された理論的枠組みに基づいたものではない。ゆえに、以上の区分それ自体、論文制作の方法の共有にあたって有用なものではない可能性は大いにある。そこで、論文制作の生産的な共有のためには、第一に、そもそも論文制作はどのような構成要素から成り立っているのかに関する議論が必要だろう。

ひとつの仮説として、試みに、論文制作は、⑴情報収集と整理、⑵情報解釈と理解、⑶執筆、⑷生産物の評価、批評の四つの要素(パート)から成り立っており、それらのパートの比重が、⑴構想段階、⑵執筆、そして、⑶修正・洗練段階の三つの進行(ステージ)によって変化してゆく作業だとする「論文制作のパート−ステージモデル」を提示しておく*10。このモデルに基づいて仮に筆者の論文制作の方法を試みに図形楽譜を模して「スコア」として図示すると次のようになる(図4)。縦の項は四つのパートを、横の項は三つのステージを意味し、黒い図形は、各パートとその作業時間の大きさを太さで表している。各ステージのある時点を切り取ったとき、どのような比重でどのような作業がなされているのかが分かる。

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第二に、論文のそれぞれの目的に基づいた論文制作の整理が必要である。本稿は、芸術、感性に関する問いについての概念の整理や提示、論証や問題の整理を行う分析美学という研究分野を専攻する著者によるものであり、論文制作の作業は論文の読解と理論や議論の構築で占められている。対して、経験的研究を行う者は、かなり異なった作業を行い、論文制作の各パートやその比重も異なるだろう。ゆえに、本稿で提示したパートや作業は異なる分野の研究には有用な情報ではないかもしれない。

そこで、価値のある情報共有のためには、こうした様々な目的の共通性と差異とを包括的に説明しうるようなモデルが必要になる。というのも、そうしたモデルなしでは、特定の研究分野においてのみ有効な制作の方法に過度な一般化がなされたり、逆に、普遍的に有効なはずの制作法が特殊なものとみなされ、うまく共有されない事態を招きうるからだ。

つまり目下必要なのは、すぐれた論文制作の方法とは何かという問いよりも前に、異なる方法を採用しているひとびとのあいだで、様々な論文制作の方法を議論し、伝達する際に有用な基本的な語彙と枠組みの構築であろう。そうしたインフラストラクチャ構築の作業が行われることで、論文制作の方法に関する分析と議論は深化しうる。

第4節 課題

より一般的な哲学的課題に関する議論を参照すれば、論文制作の方法に関する研究にあたって、わたしたちは、一方で、論文制作の方法に関する様々なデータを集める必要があり、そうしたデータの収集と同時に、他方で、それらを説明する包括的な理論構築を行う必要もあるだろう。つまり、論文制作の方法の議論を深めるにあたって、次の二つの具体的な作業課題がある*11

  • データに関する課題:どのような要素から論文制作の作業は構成されているのかについての実践者が持つデータの収集。
  • モデルに関する課題:特定のデータのまとまりについて、論文制作に関するどのようなモデルが提示されているのかに関する整理、および理論構築。

もちろん、各実践家が提供するデータには、その提供者自身によるなんらかの理論化が施されているだろうから、それを処理し、比較するために仮説的理論を構築し続ける必要もあり、データとモデルに関する問いを互いに連動させながら研究を進めていく必要があるだろう。

本稿では、前者に関しては、筆者のデータの紹介と、後者に関してはそのデータにのみ基づいたごく限定的なモデルを提示するにとどまった。

おわりに

本稿では、論文制作の方法を問う意義を指摘しつつ、論文制作を構成するだろう四つのパートと三つのステージについて説明し、それらを組み合わせた論文制作のパート−ステージモデルの提示と、その図示を試み、最後に課題を指摘した。

本稿の記述は「論文制作学」とでも呼ぶべき興味深い分野の種を含んでいるかもしれない。そのような分野がありうるかはともかく、本稿が論文制作の方法の共有の試みをより豊かにできればと願う。

ナンバユウキ(美学)

*1:たとえば、上野千鶴子『情報生産者になる』筑摩書房、2018年。戸田山和久『論文の教室––––レポートから卒論まで』NHK出版、2012年。など

*2:以上の論文制作の方法を考察する意義について考えるにあたって、次にあげたツイートの他にも、最近Twitter上で研究者のあいだで議論されていた関連するいくつものツイートを参照した。それらのすべてをあげることは、鍵アカウントの方を含め、現在、ツイートを引用する作法を筆者が作り上げていないため控えさせていただく。ただ一点、以上の意義に関する議論に瑕疵があるとすれば筆者の瑕疵だが、発想自体は筆者オリジナルなものではなく、幾人かが指摘したことをまとめたに過ぎないことをはっきりと明示化しておかなければならない。

*3:論文執筆の実践数は数回であり、このような考察をするには明らかに数は不足している。

*4:ある楽曲において、イントロ、Aメロ、そしてサビからアウトロに至るまで各声部やパートはその比重を変化させ続けるように。

*5:

*6:三色マーカーなどいろいろやり方はありそうだが、面倒なため赤と青のボールペンしか使わない。

*7:ここまで来ると、文献リストはどんどん減ってゆく。最初の方に読んだ論文は不必要だったり、議論には関わらないことが判明するので。

*8:

*9:以前は京大式カードの類を使っていたが、整理しにくいし、失くすので辞めてしまった。

*10:このうち、⑶はアカデミックライティングに関する研究がなされているだろうが、⑴、⑵と⑷とに関しては、デザインコミュニケーションの分野で盛んに研究されていると感じる。たとえば、アーロン・イリザリー&アダム・コナー『みんなではじめるデザイン批評―目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド』、安藤貴子訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2016年。

*11:この点については、次の論文を参照した。Walton, K. 2007. “Aesthetics—what? why? and wherefore?.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 65(2), 147-161.

分析美学の道具箱

はじめに

入門書の邦訳、重要な著作の翻訳、入門記事の充実などにみられるように、分析美学への日本語でのアクセス環境も整ってきました*1。分析美学を手がかりに研究している者のひとりとして、いろんなひとが分析美学に触れ、そのおもしろさを味わう機会が増えることを喜ばしく思います。

本稿では、分析美学の入門を終えて、もう少し分析美学を勉強しようという時に、次に読む本を探している方に向けて、わたしがふだん使っている教科書や辞典、雑誌やウェブサイトをまとめました。お役立てください*2

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教科書/辞典
The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

 

よく使います。基本的な議論をおさえたり、文献を探すときはまずこちらでチェックします。あるいは、いくつか文献を読んでから漏れがないかを確認する際に参照します。

美学辞典

美学辞典

 

分析美学のみならず、美学全般を学ぶ際にはひじょうに参考になります。いきなり読むとその凝縮具合に驚いてしまうのですが、いくつか論文を読んだ後に帰ってくると、その凝縮具合に感嘆しますし、頭の整理になり、また、問いを立てるヒントにもなります。上のコンパニオンが現行の議論に焦点をあてたものだとすれば、こちらは歴史的な議論の変遷をたどって、現在へと至る過程を教えてくれるものです。

西洋美学史

西洋美学史

 

楽しくて新しい論文ばかり読んでしまいがちなのですが、並行して学問の歴史を振り返り、自分の立ち位置を再確認することが大事だと考えます。なぜなら、美学的/哲学的問い、そしてその方法論は、その時代や状況において形作られ、実践されるものであり、わたしたちもまた、そうした特定の美学を行なっていることを歴史はあらためて教えてくれるからです。いま主流なやり方や問いの立て方をいっそう意義あるものにするために、歴史という大きな地図を用いて、それらを俯瞰して眺めることは有益です。

時代における思考からどう距離をとるか、どう自分の問いを形作るか、じぶんはどんな立ち位置にいると自己規定しているのか、これらを明確化する作業を絶えず行うことを通じて、他人にじぶんの研究のおもしろみや意義をうまく伝えられるようになるのだとわたしは考えています。

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

 

教科書を手にとって、異なる問いの並べ方や重点の置き方に触れ、取り組んでいる問いからいったん身を引き離して、より広い視野から、ほかの問いとの関連を確かめつつ、もう一度問いに戻るといいことが結構あります(重要な論点に気づいたり、議論の構成を発見したり)。なので、入門の後こそ、もう一度教科書を読むことに価値があると考えています。

雑誌

Philosophy Compass https://onlinelibrary.wiley.com/journal/17479991

「哲学のコンパス」の名前の通り、特定のトピックを一望し、進むべき方向を指し示してくれる優れたサーベイ論文を掲載している頼れる雑誌です。もちろん、著者の特定の問題意識から論争が整理されていることは言うまでもありませんが。

上のコンパニオンにはない細かなトピックについて最新の議論の見取り図と文献リストを提供してくれるという点で、とても役に立つ雑誌です。また、ティーチング/ラーニングガイドも論文を読んでいく際には強い味方になって、なかなかにくい。

The British Journal of Aesthetics | Oxford Academic

Journal of Aesthetics and Art Criticism https://onlinelibrary.wiley.com/journal/15406245

この二つの雑誌を抜きにして現代の分析美学は語れません。イギリスとアメリカの著名な美学雑誌です。BJAとJAACと略されます。個人的には、JAACの論文はバリエーション豊かで読むのが楽しくて、BJAはかなり啓発的で芯に当ててくる論文が多い印象があります。

 Contemporary Aesthetics is an international, interdisciplinary, peer- and blind-reviewed open-access, online journal of contemporary theory, research, and application in aesthetics.

分析美学に限らず、大陸哲学を援用した議論もみられます。BJAやJAACよりさらに新しいトピックや珍しい論点を扱っている印象です。オープンアクセス。

Proceedings – The European Society for Aesthetics

大陸哲学や分析美学の別を問わず、両者を架橋するような研究も見られる雑誌です。おもしろい研究が多いですね。オープンアクセス。

ウェブサイト

Stanford Encyclopedia of Philosophy

https://www.iep.utm.edu

両者ともインターネット上で誰でもアクセスできる哲学百科事典です。スタンフォード哲学百科事典、インターネット哲学百科事典の両者とも、きちんと理解したい時に用いています。

PhilPapers: Online Research in Philosophy

哲学論文の包括的なリンクサイト。著者によるドラフトが公開されていたり、トピックに関する文献のリストが提供されていたり、ひじょうに有益なサイトです。

ナンバユウキ(美学)Twitter: @deinotaton

*1:昨年末にアップロードされた森功次さんの次のリーディングリスト、を参照ください。

*2:執筆にあたっては、先ほどあげた森さんのリーディングリスト、以前まとめられていた以下のリスト、また、「分析美学は加速する」フェアのウェブサイトブックフェア「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店(2015年9月8日~10月25日)を参考にしています。本稿であげた著作はすべて以上で触れられているものであり、選書にオリジナリティがあるわけではありません。

概念工学と概念倫理学

はじめに

本稿では、近年、いっそう活気づいている哲学的な方法論のひとつ、概念工学、および、概念倫理学に関するかんたんな紹介を行います。哲学における概念創造について考えているひとや、どのような概念をつかうべきかを気にしているひとには、いくらかヒントになるかもしれません。

概念工学ということばは、いくどか言及されていますが*1概念工学とはなにか、それのなにがうれしいのか、どのような問題があるのかについて、アクセスしやすいかたちでの、あるていど以上くわしい日本語の解説を探していました。

しかし見当たらず、なら書いてしまおう、ということで、本稿では、哲学の文献データベースサイトであるPhilPapersのエントリ「概念工学」の訳と、それに加えて、いくつかの論文を読んだうえでの覚え書きを書き添え、概念工学と概念倫理学のおおまかな輪郭を描くことで、この興味ぶかい分野のかんたんな案内をします。

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PhilPapers「概念工学」 by Steffen Koch

サマリー

「概念工学(conceptual engineering)」は、哲学的方法論の名称であり、かつまた、メタ哲学的研究のうちで、ますますポピュラーになりつつある分野の名称でもある。 概念工学という方法が哲学の歴史のうちでつねに実践されてきたことはまちがいないが、最近になってようやく、メタ哲学的研究の対象となった。概念工学の鍵となるアイデアは、伝統的な哲学的問題に対して規範的アプローチをとるというものだ。つまり、知識や人種、あるいはジェンダーといった現行の概念が何を意味しているのかを問うかわりに、概念工学は、これらの概念が何を意味すべきかを問う。〔概念工学においては、〕現実の概念は必ずしも理想的なものではなく、それらを改善することは哲学の重要な使命のひとつである、ということが基本的仮定とされている。概念工学についての現在のメタ哲学的論争は、その規範的基礎、その実現可能性、意味論的外在主義との整合性、そして適切な限界と関わっている。

重要な研究

「概念工学」というラベルは、Richard Creath の Creath(1990)においてつくりだされた。Creathのように、現在、この分野の研究者のおおくは、科学的な目的のためにデザインされた概念工学の一種である、カルナップの解明(explication)の方法(Carnap 1950)とじしんの研究とをむすびつけている。 Brun 2016 は、カルナップ主義的な解明についてのひじょうに有益な議論を含んでいる。概念工学についての現行の議論のそのほかの重要な出発点は、 Haslanger 2000、および、発展した議論は、Haslanger 2012、において導入された、Sally Haslangerによる、いわゆる「改訂的分析(ameliorative analysis)」である。 Burgess & Plunkett 2013〔のふたつの論文〕は、よりひろく、彼らの呼ぶ「概念倫理学(conceptual ethics)」にアプローチしている。概念工学についてのさいしょのモノグラフに、 Cappelen 2018のものがある。

イントロダクション

いまのところは、概念工学についての入門的なテクストはないが。ほとんどの著作はひじょうにわかりやすい。概念工学の基本的な目標の有益な特徴づけと、事例のリストについては、 Cappelen 2018のはじめの二章、Burgess & Plunkett 2013〔の概念倫理学にかんするふたつの論文〕をそれぞれ参照せよ。哲学を行う方法としてのカルナップ主義的な解明についてのすぐれたイントロダクションと議論は、Brun 2016 をみよ。

Koch, S. “Conceptual Engineering,” PhilPapers, https://philpapers.org/browse/conceptual-engineering, 2018/09/07閲覧。

いくつかの覚え書き

概念工学について

Cappelen & Plunkett によれば、概念工学(conceptual engineering)とは「⑴表象的デバイスを評価し、⑵どのように表象的デバイスを改善するかについての反省と提示であり、⑶提示された改善の実装への努力」のことであるとされる(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)。ここで、表象的デバイスは、語や思考(words and thoughts)をいみすると理解できる(cf. Patrick forthcoming, note 1)。この言い方をするのは、概念工学の対象を、それじたい論争の的になっている特定の「概念」の理解の仕方に依存しないかたちで扱いたいがためだ。とはいえ、ややイメージしにくいため、ここでは、表象的デバイスを、思考を可能にさせたり、思考するさいに用いられるものとしての、ひろいいみでの概念として理解しよう(cf. Burgess & Plunkett 2013a, 1095)。それは、たとえば、人権、自由、磁場、量子、確率、因果、責任、尊厳、芸術、批評、精神疾患脳死ジェンダー、人種といった概念のことだ。こうした概念は、帳簿や電卓、靴や眼鏡、顕微鏡や望遠鏡、携帯電話やGPSのように、具体的な実践のなかで、わたしたちの現実に関する理解とはたらきかけ、行動のためのデバイスとして役立てられ、あるいは悪用される。

こうしたデバイスとしての概念は、ほかの物理的なデバイスと同様、特定の歴史と文化のなかで生成された人工物であって、完成されたものではなく、それゆえ、現在の目的に合わせて評価し、改善することができる、という見方をとることができる。これが概念工学を特徴づける態度のひとつだといえる。この態度に基づいて、評価、改善するとは何であり、それはどのようにして可能なのか、そもそも概念とは何か、概念はわたしたちのコントロールのもとにあるのか、概念を改善することの意義などの問いが取り組まれている(cf. Cappelen & Plunkett forthcoming, section 3、および、Cappeln forthcoming)。概念工学は、わたしたちのさまざまな実践のなかで(形而上学的議論から、学術的議論、表現の自由をめぐる議論、芸術的価値と美的価値の問い、精神疾患の鑑別診断、日常の論争まで)、重要な役割を担う概念を、どのように評価、改善しうるか、改善されたものをじっさいにそれをどのようにして実装するのか、という問いに取り組む哲学的方法論であるといえる。

概念工学と概念倫理学

概念倫理学(conceptual ethics)とは「思考、発話、そして表象についての、規範的、評価的な問題について考察」を行い(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 2)、「何をすべきであるか(何をしてもよいのか)と、どの行為や結果がよく、あるいはわるいのか………という研究をともに含む」(Burgess & Plunkett 2013a, 1094)哲学的方法論である。つまり、概念倫理学とは、「わたしたちの概念的な選択が、重大な非概念的な帰結をもたらしうる」がゆえに、わたしたちが「どの概念を使うべきかを決定する」作業のことである(Burgess & Plunkett 2013b, 1102)。たとえば、特定の人種概念やジェンダ概念を用いることじたいが、その概念によって指示されるひとびとに対するわたしたちの態度を決定してしまうために、その概念が公正なものかどうか、それをわたしたちを用いるべきかどうか、用いなければならないとしたらどのようにそうすべきか、といった問いを概念倫理学は問う。

概念工学と概念倫理学との差異と共通点はあるのだろうか。この問いは、両者のアプローチのちがいから答えられるかもしれない。概念工学は、概念の設計、改善と評価、そして実装のプロセスといった、概念を用いた操作と技術、つまり比喩としての工学的課題に注目し、概念倫理学は、概念の使用がもたらすさまざまな効果(偏見の助長、さまざまなひとびとの分類とそれに基づいて行われるさまざまな行為、たとえば、診断、非難、差別)について、規範的かつ評価的な視点から考察する、いわば倫理的課題に取り組む研究態度のことであると理解できる。だが、両者は、概念に関する規範性と評価への関心という点で、共通する部分はおおい*2

現在このトピックでなされている議論のおおくは、両者のどちらにおいても関係するため、これらのことばはあるていど置換可能ではあり(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)、両者のちがいはくべつしにくいものであるため、そのつど使いかたを意識したほうがよいだろう*3

規範と評価

概念工学と概念倫理学は、「概念を、それがどのような意味をもつものとしてつかうべきか」という規範的な問題に注目する。たとえば、「概念」という概念について、これまでもさまざまな議論が繰り広げられているが、この論争の原因は、さまざまな立場がそれぞれに抱く「概念」のあるべきすがたの食い違いに求めることができる。ある論者は論理的に整合性のある概念を、べつの論者は、わたしたちの認知的なふるまいを説明しうる概念を提示し、おのおのの目的に基づいて、概念のあるべきすがたを想定している(cf. Earl)*4 。各論者を、「その概念はどのような目的に向けられたものなのか」という規範性に基づいて整理することで、各論者の立場は必ずしも両立不可能なわけではなく、さまざまな目的地をもつようなことなる試みとして整理できるかもしれない。たとえば、形而上学的問題を解決するための「概念」の概念と、こどもが対象を認知する発達過程を整理するための「概念」の概念とは、「ナイフ」であるアーミーナイフとバターナイフのように、かなりちがう目的に向かってつくられ、それぞれの実践において運用されるだろうし、わたしたちがきちんと使いこなせるならば、どちらかだけではなく、どちらもあったほうがよい。

規範性の問題は、そうした目的に適うかどうか、つまり、「どのような概念がある目的においてよい概念か」を問うような、評価的な(evaluative)問題にも関係している(Isaac manuscript, section 2.2、Burgess & Plunkett 2013b, section 3)。というのも、ある目的地をもった概念工学/概念倫理学の試みは、つくりだしたり改善した概念によって、その目的地までどれだけ近づけたか、その概念は当該の目的にどれほど適っているのか、という評価が重要な役割を果たすだろうから*5

まとめ
  • 概念工学/倫理学は、両者ともに、概念に関する規範と評価に注目し、じっさいに概念を改善することを志向する哲学的方法論のひとつである。概念工学者/概念倫理学者は、概念は、その種類やカテゴリによって幅は異なるにせよ、多かれ少なかれ、変更可能であるという仮定に基づき、概念の評価、改善、そして実装をすることで、それぞれの実践における概念の使用を、それぞれの目的においてより望ましいものにし、それによって、概念に基づくわたしたちの行為や結果をよりよいものにしようとする。

概念工学と概念倫理学に関して、その輪郭は上のように描くことができるだろう。本稿での説明は表層にとどまる。興味のある方は、PhilPapersのリンクから文献へと進まれることをおすすめする。

ナンバユウキ(美学)

Twitter: @deinotaton

訂正

2018/09/07:人名と一部の文を修正しました。

参考文献

Burgess, A., & Plunkett, D. (2013a). Conceptual ethics I. Philosophy Compass, 8(12), 1091–1101.

——. (2013b). Conceptual ethics II. Philosophy Compass, 8(12), 1102-1110.

Cappelen, H. (forthcoming). “Conceptual Engineering: The Master Argument,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Cappelen, H., & Plunkett, D. (forthcoming). “A Guided Tour Of Conceptual Engineering and Conceptual Ethics,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Earl, D., "The Classical Theory of Concepts," The Internet Encyclopedia of Philosophy,  https://www.iep.utm.edu/conc-cl/#H5, 2018/09/07閲覧。

Isaac, M. G., (manuscript). “How To Conceptually Engineer Conceptual Engineering?” manuscript, https://philpapers.org/rec/ISAHTC, 2018/09/07閲覧。

Patrick, G. (forthcoming). "Neutralism and Conceptual Engineering," In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press.

*1:cf. 戸田山和久『哲学入門』筑摩書房、2014年。あるいは、戸田山和久ミニマリスト概念工学としての哲学」2014年。http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/984/

*2:とくに、トピックに焦点をあてた概念工学者は、あるトピックの「課題設定と解決の規範と評価」の層で活動する。これに対して、Burgess & Plunkett的な概念倫理学者のいく人かは、そうした層加えて/の代わりに倫理的な「よさ」、つまり、「倫理的な規範と評価」の層に/も焦点を当てるだろう(ある概念を使うことは、課題解決には役立つが、倫理的によいのか?)。そうであるなら、概念工学と概念倫理学とは、同じ「規範と評価」ということばを使っていても、注目する層によって、かなり近い領域で仕事を行うこともあれば、かなりちがう動機づけによって活動することになるだろう。

*3:かくのごとく、概念工学まわりの概念は、まだ定まっていないため、「概念工学という概念をどう概念工学すべきか」という問いがあり、これを「概念工学のブートストラップ問題」と呼ぶ者もいる(cf. Isaac manuscript, section 2)。

*4:かんたんなまとめは、以下を参照。

*5:さまざまな実践におけるさまざまな概念の評価と改善が、ひとつのグローバルな、あるいはそれぞれの目的に従うような複数のローカルな「よさ」のどちらに基づくべきなのかには議論の余地がある(Isaac manuscript, section 2.2.1)。

2018年7月に読んだもの:Vaporwaveとファッション批評、対話と詭弁と徳美学

キイワード
  • vaporwave、ファッション批評、哲学対話、古代懐疑主義、徳美学、詭弁

はじめに

こんにちは。夏でしたね。外に出るたび身の危険を感じながら、この夏をやり過ごしてきました。ここからがながい夏の暮れも生きのびてゆきましょう。

この記事はナンバが7月に読んだ論文と本のまとめです。当人の主たる目的は備忘録と論文紹介であり、論文や本探しのお供に読んでいただければうれしいです。

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26th:A. Koc「欲しいのはVaporwaveか、それとも真実か」(2017)

まとめ

80-90’sの表象を過剰に用いることで、消費文化へのノスタルジアを表現しつつ、たほうで、後期資本主義のキッチュと近代への逃避を風刺する多面的な表現としてvaporwaveを解釈する。「ノスタルジア」を主題とするvaporwaveを、たんなる-90’sへの憧憬の提示ではなく、社会とそのうちでのひとびとのあり方についての、表現を介した理解の試みであり、かつ、消費文化への批判の表現でもある、とする解釈が試みられている。

そのために、第1節では、F. Jamesonを参照し、グローバル社会におけるじしんの階級的立ち位置を表現を介して反省することで、後期資本主義に対する批判の手がかりとする「認知的マッピング」という実践が提示され、第2節では、そうしたら実践の試みとしての視座からvaporwaveの画像と音響を分析する。次節以降では、R. Williams、B. Massumiらに依拠しつつ、Jameson的で明確な社会的-階級的立ち位置が消えた時代に、社会化以前で前人格的な感情=アフェクションを手がかりに、ノスタルジアを介して、じしんの社会的なあり方を描く「認知的アフェクティブマッピング」の試みとしてvaporwaveを解釈する。

ひとこと

Jamesonの「認知的マッピング」概念、また、それをMassumiらのアフェクト理論に接続した概念は興味ぶかいが、両理論がどのような文脈で提起され、どのような批判を受けてきたのかを確認する必要がある。いつも読んでいる文献の文体や視点とは毛色がちがうが、おおくの手がかりを得た。

Koc, A. Do You Want Vaporwave, or Do You Want the Truth?. capaciousjournal. com, 57.

22th:L. Glitsos「Vaporwave、あるいは遺棄されたショッピングモールに最適化された音楽」(2018)

まとめ

18 Carat Affairを対象に、vaporwaveを、消費資本主義を象徴する素材を用い、「存在しない記憶を思い出す」という美的な想起体験をもたらす表現ジャンルとして特徴づける。第一節は「vaporwaveとは何か」と題し、その歴史をかんたんに整理し、二節ではメディアが生み出す「起こらなかった出来事へのノスタルジア」をめぐって、vaporwaveを考察し、三節では消費文化における記憶の喪失性の表現の、そして、四節では、記憶の再編成の表現の試みとしてvaporwaveを特徴づける。

Glitsos, L., 2018. ‘Vaporwave, or music optimised for abandoned malls.’ Popular Music, 37(1), 100-118.

21st:J. Reponen「ファッション批評の現在?」(2011)

広告宣伝から一定の距離を取りつつ、ファッションを記述し、文脈づけ、価値づけることをめざすファッション批評が、今日、どう行われうるのかを、ファッションを取り巻く状況とそれに特有な問題とを記述するなかで考察してゆく。ファッションの状況について、とくに書き手とデザイナ、書き手と掲載媒体(ファッション雑誌、ブログ)との関係について、具体例を多く示している。よりひろい視野からの理論的考察は、Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)が参照できる。

Reponen, J. (2011) Fashion criticism today? In A. de Witt-Paul &M. Crouch (Eds.), Fashion forward (pp. 29–39). Oxford: Inter-Disciplinary Press.

20th:飯田隆『新哲学対話』(2017)

日常のことばによる哲学書。第一篇「アガトン」では、生活のなかで出会う嗜好と価値観をめぐる問いが、対話のなかで問われてゆく。美と感性をめぐる問いの意義とむずかしさ、なによりその魅力を伝える、哲学することへと誘う対話篇。

19th:J. アナス・J. バーンズ『古代懐疑主義入門』金山弥平

まとめ

古代懐疑主義を通した哲学実践の入門。テクストと向き合い、歴史をたどり、動機を拾い、論証を点検し、20世紀後半の英米圏の哲学者と比較しながら、哲学史に影響を残した「判断保留の十の方式」を解釈し、批判する。その歴史的背景の説明によって、議論を近づきやすいものとするとともに、各議論のていねいな解説と検討によって、古代の哲学が生気を帯びて立ち現れる。ある部分ではこれからの考察の手がかりとなりうるものとして。ある部分では、納得とつよい疑義を表明したくなるものとして。

ひとこと

とてもよい本。相対主義懐疑論に興味があるひとは読むと学びがあるし、哲学ってなにというひとで、主題に興味があるひとには勧めることにする。

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

 
18th:P・ゴールディ「芸術の徳」Philosophy Compass

近年議論のひろがりをみせる徳美学(virtue aesthetics)について、⑴徳に関する他分野の議論、⑵徳概念とその議論の芸術的活動への援用に際しての前提、⑶諸々の議論、そして、⑷展望と応用とを紹介する。

Goldie, P. (2010). Virtues of art. Philosophy Compass, 5(10), 830-839.

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1747-9991.2010.00334.x

7th:Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)

まとめ

美学、文化社会学の議論を手がかりに、ファッション批評が「だれによって」「どのように」「どのようなレベルで」行われているのかを包括的に整理するモデルをつくりあげる。デザイナ、研究者、エディタといった、さまざまなエージェントによる異なるレベルの批評活動が影響しあうことで形成されるファッション批評のモデルが提示される。作品-商品のどちらとしても扱われるオブジェクト(e.g., ビデオゲーム、デザインプロダクト)に関する批評の整理にも役立ちうるだろう。

ひとこと

ファッション批評の対象は必ずしも服そのものに限定されないし、批評の目的も多層的だ。といえばそれはそうだと思われそうだが、このように整理をされてはじめて対象を区別していくかの手がかりが得られる。この論文はとてもおもしろく読んだ。ファッション批評が気になるひとは読みましょう。美学からはじまり、受容研究、文化社会学といった横断的な領域の文献への指示もあり、ガイドとしてもよい感じ。

Choi, K. H., & Lewis, V. D. (2018). An inclusive system for fashion criticism. International Journal of Fashion Design, Technology and Education, 11(1), 12-21.

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17543266.2017.1284272?journalCode=tfdt20

1st:香西秀信『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』ちくま学芸文庫(2010)

まとめ

詭弁を回避するための詭弁入門。文学作品から政治的論争、日常における具体例を通して、詭弁とレトリックがどう使われるか、それらにどう対応しうるかを解説している。読書案内がありがたい。また、見え隠れする著者の屈託も含めおもしろく読んだ。

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

 

あとがき

いろいろ読めました。ファッションやvaporwaveといったあたらしいトピックにふれられたし、ちがう学問的態度で書かれた論文にも挑戦できて、文化論的研究への理解がすこし得られたとともに、それのなにを問うていくべきなのかも明確になりつつあります。

それでは。

ナンバユウキ(美学)@deinotaton

2018年6月に読んだもの:セックスとジェンダー、社会存在論、言論の自由、そしてナショナリズム

ふりかえり

お仕事といくつか作業があったので、読んだものは少ないです*1スタンフォード哲学百科事典祭り。

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6月30日:M. Mikkola「セックスとジェンダーフェミニストの視点から」スタンフォード哲学百科事典(2017)

まとめ

⑴概念の変遷、⑵ジェンダーの社会的構成、⑶両概念の差異、⑷ジェンダー存在論の議論を概観しつつ、セックス/ジェンダー概念の問題とその有用性を整理する。

生物学的/社会的な女/男区分とおおむね対応するセックス/ジェンダー区分は、素朴な生物学的決定論への反駁の根拠となるが、セックス/ジェンダーの定義は規範性を帯び、それに含まれないひとを排除する点、生物学的身体もつねに社会的意味を含意する点から、その有用性に疑問が付されてきた。両者の区分を認めても、ジェンダー存在論的地位については、唯名論実在論的な立場のあいだで議論が行われており、細部での見解の一致はみられず、上記のような批判もあるが、実践におけるジェンダーアイデンティティの結びつきを扱えることから、両概念の区別は依然として有用であるとされる。

資料

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ひとこと

ポルノグラフィ研究も進めているので、セックスとジェンダー区分は押さえておきたいと思い読みました。いくつか読むべきあたらしい文献が見つけられたのでよかった。

リンク

Mikkola, Mari, "Feminist Perspectives on Sex and Gender", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/feminism-gender/.

6月28日:B. Epstein「社会存在論スタンフォード哲学百科事典(2018)

まとめ

貨幣、法、人種、芸術などの社会的存在者を「なにが/いかにして」構成するのかを問う社会存在論について、⑴歴史、⑵一般的問題、⑶構成物の性質、⑷社会カテゴリと社会種の設定、⑸主要なトピックの五つをとりあげ概観する。 これまでの議論をコンパクトにまとめているので、人工物の存在論の概観を得られ、また、そのつど文献を指示してくれているので、興味のある領域への道を示してくれている。範囲のひろさゆえにぜんたいの分量は多いが、役に立つ。

ひとこと

長く、トピックが多岐にわたったのでややハードだった。ただ、芸術作品の存在論ジェンダー存在論を社会的構成の議論と関係する社会存在論という視野から俯瞰することができるようになったのはよい。分析的な存在論一般がそうであるように、社会存在論の議論もあまりに抽象的にみえる。けれども、分析的な存在論一般がそうであるように、こうした議論が、具体的な議論、社会的実践や批判において、じぶんたちがなにを行なっているのかを再考するための大きな見取り図を与えてくれたりもする。前半の歴史の部分だけでもちょっと読むと整理がされてよい感じ。

リンク

Epstein, Brian, "Social Ontology", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2018/entries/social-ontology/.

6月16日:ファン・ミル「言論の自由スタンフォード哲学百科事典(2017)

まとめ

危害、不快原理に基づいた/民主主義的価値との比較においてなされる言論の自由の部分的な制限の議論の整理。とくにヘイトスピーチおよびポルノグラフィ規制がいかなる理由によって/どこまで正当化しうるのかが問われる。 

ひとこと

危害原理と不快原理とを具体例から理解できたのがよいです。あと、副次的に、倫理学的議論に関して原理をもちだす動機も理解できたのがうれしい。近年に刊行された著作もおおくふれられており、入り口をたくさん知ることができる。

リンク

van Mill, David, "Freedom of Speech", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2018/entries/freedom-speech/.

6月14日:A. D. スミス、庄司信訳『ナショナリズムとは何か』

まとめ

隣接する概念の定義の整理からはじまり、競合する諸々のパラダイムの例示に加え、研究史を振り返りつつ、各説の動機や長所を説明している。読書案内も充実していて、この分野のよい見通しを与えてくれる。

ひとこと

すっきりとした整理と、充実した文献表によって、この分野を鳥瞰できたのがよい。とくに「日常のナショナリズム」研究の存在を知り、アイコンや旗、音楽、イベントなど、ナショナリズムを象徴的に担いうるものが分析の対象になっていると知り、じぶんの研究にもつなげられそうで興味ぶかい。いい本。

あとがき

作業のあいまに、おもしろくきまじめな文章を読むと、すこし涸れていたちからがふたたび湧いてきました。6月もすてきな文章と思考に出会いました。7月もすてきなことにであえればいいと思います。

ナンバユウキ

*1:ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、二〇一八年。難波優輝「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」。好評発売中です。キャラクタ、虚構性、メディア論に興味のある方はぜひ。「バーチャルYouTuberスタディーズ入門」もご笑覧ください。

ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、存在論、価値

近年、ソーシャルVRと言われる『VRChat』のサービス開始(2017年2月〜)や、VRヘッドセットやVR技術の漸進的な普及、そして、VRのアイコンといえるVirtualYoutuber(Vtuber, VTuber)らの登場で、ヴァーチャルリアリティの世界は一段と盛り上がりをみせている。それらはコミュニケーションのあり方を変え、新たなゲームプレイやエンターテイメントの可能性もたらすとともに、哲学的にもさまざまな魅力的な問いをわたしたちに投げかけている。

たとえば、なんとなくわかったような気がしている、ヴァーチャルリアリティとは何だろうか。それはどうヴァーチャルなのだろう。ヴァーチャルな世界は現実世界とは違うのだろうか。さらにそれは、さまざまな物語のなかの虚構世界とは違うのだろうか。もしそれらが互いに異なるとしたら、それはどのようにしてだろうか。また、VRはMR(複合現実)やAR(拡張現実)とはどう違うのだろうか。ヴァーチャルな世界における体験は現実のそれと同じ価値をもつのだろうか。そもそも、リアリティといって、ヴァーチャルリアリティは真の意味でリアルなのだろうか。そうではないとしたらなぜなのか。

本稿ではこうした問いに取り組み、ヴァーチャルリアリティの定義、存在論、価値を論じたチャーマーズ(2017)の論文をまとめている。この項では、当該の論文の前半部分でなされるヴァーチャルリアリティの定義に関する議論をまとめている。

なお、ヴァーチャルリアリティの定義や関連する概念の整理に興味がある方は目次にあるヴァーチャルリアリティの定義のセクションから読んでいただければと思う。

・Chalmers, David J. "The virtual and the real." Disputatio 9.46 (2017): 309-352.*1

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概要

筆者のチャーマーズは、ヴァーチャルリアリティ(Virtual Reality: VR)はある種の真正な現実(reality)の一つであることを主張する。そのために、ヴァーチャルな対象(virtual object)は虚構的対象(fictional object)であるとするヴァーチャル虚構主義(virtual fictionalism)を退け、ヴァーチャルな対象は現実的なデジタルな対象であるとするヴァーチャルデジタリズム(virtual digitalism)を擁護する。そして、ヴァーチャルな対象が現実的対象であることと、ヴァーチャルリアリティにおける知覚が必ずしも幻覚ではないこと、さらにヴァーチャル世界における生活が非ヴァーチャルなそれとおおむね同じ種類の価値をもちうることを主張する*2

チャーマーズの主張:ヴァーチャルデジタリズム

筆者であるチャーマーズが主張したいのは、まず、ヴァーチャルリアリティはある種の真正な現実そのものであるという主張だ。そしてこの主張をサポートするためにチャーマーズはつぎの三つを明らかにしようとしている。

  • ヴァーチャルな対象は現実的対象であり、
  • ヴァーチャルリアリティ内で起こるイヴェントはほんとうに現実であって、
  • ヴァーチャルリアリティにおける体験は非ヴァーチャルリアリティにおける経験と同じだけの価値をもつ。

これを論証するためにはここで用いられる語彙を整理する必要がある。そこで以下上記の主張に対応して次の四つの問いが問われる。

  1. ヴァーチャルな対象は現実的対象か虚構的対象か。
  2. ヴァーチャルなイヴェントは現実のイヴェントか。
  3. ヴァーチャル世界の知覚は幻想か現実の知覚か。
  4. ヴァーチャル世界の経験の価値は非ヴァーチャル世界における経験の価値と同じか。

ここで筆者はヴァーチャルリアリティが現実であることに賛成する立場と競合する立場を提示する。

ヴァーチャル実在論|Virtual Realism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在する。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きている。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は非幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がある。

ヴァーチャル非実在論|Virtual Irrealism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在しない。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きていない。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がない。

ヴァーチャル非実在論はいっけんパワフルだ。あなたがヴァーチャルリアリティ環境でヴァーチャルな猫を飼っても、それはほんとうに存在するはずがないし、それはほんとうに鳴くわけではないし、その鳴き声はほんものではないし、ヴァーチャルな猫である彼女を飼った経験とじっさいの猫を飼った経験とは同じ価値があるとは考えづらい。

だが、チャーマーズは前者の実在論路線をとる。じっさい、チャーマーズは以前『マトリックス』のような完全なヴァーチャルリアリティ世界についてのヴァーチャル実在論を擁護した*3。そのような理想的なヴァーチャルリアリティにおいて「そこにテーブルがある」というわたしたちの信念は正しいものだろう。そしてもし、わたしたちがじっさいにマトリックス世界にいるとしたら、わたしたちは目の前のテーブルをみながら「そこにはテーブルはない」とは言わない。むしろ、「そこには、ビットでつくられたデジタルな対象であるテーブルがある」と言うだろう。ここで、チャーマーズはヴァーチャル実在論の改訂版を提案する。

ヴァーチャルデジタリズム|Virtual Digitalism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在し、それらはデジタルな対象である。
  2. ヴァーチャル世界におけるイヴェントはおおむねデジタルなイヴェントであり、それらはほんとうに起きている。

以上が前述の論文で議論されたことであり、これらに加えて、

  • ヴァーチャルリアリティにおける経験はデジタル世界の非幻覚的な知覚を含んでいる。
  • デジタル世界におけるヴァーチャルな経験は非デジタル世界の非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値をもちうる。

これらについて、現在VR技術によって可能になっている、より不完全なヴァーチャルリアリティに関しても論証する。そのためには、ヴァーチャル非実在論をとる論者にも受け入れられるような議論の土台を組み立てる必要がある。

ヴァーチャルリアリティの定義

まず、議論を設定するためにヴァーチャルリアリティに関する定義を行う。はじめに、一般的に英語話者にとって、ヴァーチャルという言葉は大きく二つの意味をもつとされる。

ヴァーチャルの二つの意味|実質と仮想
  • 実質的なもの:あるXのようであるがXではない。
  • コンピュータに基づいたもの:コンピュータ上の情報処理を通してつくられたX。

前者の意味で考えれば、ヴァーチャル実在論は棄却される。だが、わたしたちが2018年にヴァーチャルリアリティという言葉で指示しているのは、後者の意味でのことだろう。こちらの意味で考えれば、実在論非実在論のどちらが正しいかは開かれた問いのままになる。チャーマーズは後者の意味で考えたさい、ヴァーチャルリアリティの核となる三つの要素を指摘する。

ヴァーチャルリアリティの三つの要素|没入、インタラクション、コンピュータによる生成
  • ヴァーチャルリアリティ環境virtual reality environment):ヴァーチャルリアリティ環境とは、没入的で、インタラクティヴで、コンピュータによって生成された環境のことである。

コンピュータによって生成された環境は前述のとおり、コンピュータ上の情報処理を通してつくられたものであるために、まさしくヴァーチャルなものであるといえる。そして、その環境が没入的でインタラクティヴな環境であることによってリアリティに近づくといえよう*4。それでは、これら三つの没入、インタラクション、そしてコンピュータによる生成とは正確にはどのような意味をもつのだろうか。

  1. 没入(immersion):没入的環境とは、その環境内でのパースペクティブにおいて、ユーザに「現前性(presence)」の感覚(すなわち、ユーザにそのパースペクティブにおいて[じしんが]ほんとうに現前しているという感覚)を与えるような、その環境における知覚的経験を生成する環境のことである。
  2. インタラクション(interaction):インタラクティヴな環境とは、ユーザによる行為が、その環境で起こることに重大な変化をもたらすような環境のことである。
  3. コンピュータによる生成(computer generation):コンピュータによって生成された環境とは、ユーザの感覚器官によって処理されるような出力を生成する、コンピュータシミュレーションのようなコンピュータ処理に基づく環境のことである。

没入的環境は、典型的には、三次元空間における立体的な視覚体験を可能にするVRヘッドセット、そしてヘッドフォンのような聴覚的な装置によってもたらされている。インタラクティヴな環境は、体の各部位のトラッカーやコントローラ、あるいはキーボードを通してユーザの行為が入力されることでVR環境に変化がもたらされることで可能になっており、コンピュータによって生成された環境は、デスクトップコンピュータや、あるいはスマートフォンによって可能になっている。こうした三つの条件によるヴァーチャルリアリティの特徴づけは、あとで行うように「VRらしい」さまざまなものごとをよく整理できる点ですぐれている。

さまざまな用法

VRの狭い意味での二つの用法|環境と技術

VR周辺を整理する前に、英語において、次の二つの意味で使われていることに注意したい。

  • 可算名詞としてのVR:個別のヴァーチャルリアリティ環境。
  • 不可算名詞としてのVR:VR環境一般あるいはVR技術。

日本語でも、VRといったとき、可算名詞的に、個別のヴァーチャルリアリティ環境を指す場合もあれば、不可算名詞的に、複数のヴァーチャルリアリティ環境のぜんたいや、VR技術のことを指す場合もあるだろう。本稿ではVRといったとき、おおむねVR環境一般を指し、VR技術は指示しない。

また、ここで、

  • VR技術:ヴァーチャルリアリティ環境を維持する技術の総称(e.g. VRヘッドセット、それに同期する聴覚的機器やトラッカー、コンピュータなど)。

とする。

VRの広い意味での用法|VRプロパー

まず、もっともげんみつなVRについて定義しよう。

  • VRプロパー:上記の⑴没入的環境、⑵インタラクティヴな環境、⑶コンピュータによって生成された環境の条件をすべてみたすようなヴァーチャルリアリティ。

VRプロパーな環境とは、わたしたちがヘッドセットとヘッドフォンを被り、トラッカーを装着し、コントローラを握り、アクセスする環境、没入し、画面上に刻々と描画される他者と交流する環境のことである(e.g. 『VRChat』)。

つぎに、予告したように、「VRっぽい」さまざまなものごとを整理しよう。これは、⑴から⑶の条件のどれかが欠如しているものごとに分類できる。

一つの条件の欠如|非没入、非インタラクティヴ、非コンピュータ生成
  1. 非没入的VR:⑴没入の否定。非没入的だが、インタラクティヴでありコンピュータによって生成された環境(e.g. 家庭用ビデオゲーム)。
  2. 非インタラクティヴVR:⑵インタラクションの否定。没入的だが、非インタラクティヴであり、コンピュータ生成された環境(e.g. ヘッドマウントディスプレイに映し出されるコンピュータによって生成された映画)。
  3. 非コンピュータ生成VR:⑶コンピュータによる生成の否定。没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ロボットアームを操作することによる遠隔医療手術)。

例示したように、⑴から⑶のどれか一つの条件を満たしていなくてもVRと呼ばれるものがある。さらに、これらのひとつしか満たしていなくても、VRと呼ばれるものもある。

二つの条件の欠如|VR的なもの
  1. 没入のみのVR:没入的だが、非インタラクティヴで、非コンピュータ生成環境(e.g. VRヘッドマウントディスプレイ上に映し出されるグーグルストリートビューのような360°映像)。
  2. インタラクションのみのVR:非没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出された映像に基づく遠隔地のロボット操作やドローンの操作)。
  3. コンピュータ生成のみのVR:非没入的で、非インタラクティヴであるが、コンピュータによって生成された環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出されるVtuber映像のようなコンピュータ生成の映像)。

これらはVRプロパーからはかなり隔たっているが、やはりVR的なものと言われるものである。

このようにして、チャーマーズは⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の条件によって、VRプロパーからより広い意味でのVRっぽいものをもうまく分類している。じつのところこれからの議論で取り扱うぶんには、VRプロパーの定義でじゅうぶんであるように思えるが、この部分単体でもひじょうに有益な整理であると思われる。

VRのヴァリエーション|MR、AR

さて、さらに、VRと関連して語られるつぎの二つのについても整理しておこう。

  • ミクストリアリティ|複合現実(Mixed Reality: MR):ミクストリアリティ環境とは、⑴没入かつ⑵インタラクションの条件をみたし、かつ、部分的に⑶コンピュータによって生成され、また部分的にコンピュータによって生成されていない、すなわち物理的であるような環境である。
  • オーギュメンテッドリアリティ|拡張現実(Argumented Reality: AR):拡張現実的環境とは、複合現実の代表例であって、ふつうの物理的環境にヴァーチャルな対象が付け加えられたような環境である(e.g. 『Pokemon GO』)。

こう考えると、VRからMR、そしてR(リアリティ)という三者を、コンピュータによる生成と物理的環境との二つの要素によって位置づけることができる。つまり。いっぽうの極は純粋にコンピュータによって生成された環境のVR、他方の極には、まったくコンピュータによって生成されておらず、物理的環境としてあるような現実、その中間に、部分的にコンピュータによって生成され、部分的に物理的な環境としてのMRがある。

ヴァーチャルな世界とヴァーチャルな対象

本稿のさいごに、これまで何気なく使ってきた二つの概念を定義して終わることとする。

  • ヴァーチャルな世界|仮想世界(virtual world):VR技術を用いることで、そこにわたしたちが滞在している(ように感じられる)インタラクティヴなコンピュータによって生成された世界(e.g. 『ワールドオブウォークラフトWorld of Warcraft)』)。
  • ヴァーチャルな対象|仮想的対象(virtual object):ヴァーチャル世界のなかに含まれており、VR技術を用いることで、そこでわたしたちが知覚しインタラクトしている(ように感じられる)対象(e.g. ヴァーチャルな身体、ヴァーチャルな建物、ヴァーチャルな武器など)。

ヴァーチャルな世界に関して、『ワールドオブウォークラフト』はVRプロパーではない。しかしヴァーチャル世界を含んでいるといえる。というのも、VRの条件の一つである⑴没入条件はこれから議論したいヴァーチャルな対象の存在論的問題には関係がないため含まれておらず、ヴァーチャルな世界を定義するにあたって考慮しなくともよいとされるからだ。

これらふたつの定義はヴァーチャル世界やヴァーチャルな対象が現実的なもので非現実的なものでも適用できる。そのため、これらふたつの定義に至るまで、これまでながながと定義してきたものは特定の実在論非実在論と直接関わっていないためどちらの論者にも受け入れられるだろう。よって、以上の定義は冒頭で述べたように、議論の土台として有用な諸定義であるといえる。

ヴァーチャルリアリティをめぐる定義

それでは以上をまとめてみよう。

  • VR(ヴァーチャルリアリティ)は⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の三つの条件を満たすある特定の環境である。ときに、よりゆるやかな意味で、こうしたVR環境とVR技術の両方を指す総称としても用いられる。さらにより広い意味で、以上の三つの条件のどれか一つを満たさないような環境を、また、一つだけを満たすような環境を指すこともある。加えて、VRを構成する三要素のうち、⑶コンピュータによる生成の条件に注目して、VRと関連する環境について、コンピュータによってのみ生成された環境としてのVR、部分的にコンピュータによる生成と物理的環境が複合したMR・AR、そして純粋に物理的環境である現実とを整理することもなされうる。

*1:オープンアクセスになっており、こちらから入手できる。https://www.degruyter.com/view/j/disp.2017.9.issue-46/disp-2017-0009/disp-2017-0009.xml

*2:本稿では「Virtual」を「ヴァーチャル」と音訳する。ふつうヴァーチャルリアリティは「仮想現実」と訳されているが、そのニュアンスは込み入っており、それらのニュアンスに関して比較的中立的な音訳でいくことにした。強いて音訳以外で訳さなければならないとしたら、わたしは本稿で扱うチャーマーズの議論に乗っ取って、いくつかありうる訳語のなかでは「仮想的」の訳語を選択するだろう。もし必要ならば、わたしは、ヴァーチャルリアリティ、ヴァーチャルな対象、ヴァーチャルな世界などを、仮想現実、仮想的対象、仮想世界と訳すだろう。

*3:Chalmers, D.J. 2003. The matrix as metaphysics. Online at thematrix.com. Published in print in Philosophers Explore the Matrix, ed. by C. Grau. Oxford University Press, 2005. チャーマーズじしんのウェブサイトにも掲載されている。http://consc.net/papers/matrix.html

*4:チャーマーズはこの三つの要素をHeimのものと比較している。Heimはほぼ同様な三要素を提示したが、環境ではなくそれをもたらすヴァーチャルリアリティシステムについての定義を試みた。cf.Heim, M. 1993. The Metaphysics of Virtual Reality. Oxford University Press.