Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

概念工学と概念倫理学

はじめに

本稿では、近年、いっそう活気づいている哲学的な方法論のひとつ、概念工学、および、概念倫理学に関するかんたんな紹介を行います。哲学における概念創造について考えているひとや、どのような概念をつかうべきかを気にしているひとには、いくらかヒントになるかもしれません。

概念工学ということばは、いくどか言及されていますが*1概念工学とはなにか、それのなにがうれしいのか、どのような問題があるのかについて、アクセスしやすいかたちでの、あるていど以上くわしい日本語の解説を探していました。

しかし見当たらず、なら書いてしまおう、ということで、本稿では、哲学の文献データベースサイトであるPhilPapersのエントリ「概念工学」の訳と、それに加えて、いくつかの論文を読んだうえでの覚え書きを書き添え、概念工学と概念倫理学のおおまかな輪郭を描くことで、この興味ぶかい分野のかんたんな案内をします。

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PhilPapers「概念工学」 by Steffen Koch

サマリー

「概念工学(conceptual engineering)」は、哲学的方法論の名称であり、かつまた、メタ哲学的研究のうちで、ますますポピュラーになりつつある分野の名称でもある。 概念工学という方法が哲学の歴史のうちでつねに実践されてきたことはまちがいないが、最近になってようやく、メタ哲学的研究の対象となった。概念工学の鍵となるアイデアは、伝統的な哲学的問題に対して規範的アプローチをとるというものだ。つまり、知識や人種、あるいはジェンダーといった現行の概念が何を意味しているのかを問うかわりに、概念工学は、これらの概念が何を意味すべきかを問う。〔概念工学においては、〕現実の概念は必ずしも理想的なものではなく、それらを改善することは哲学の重要な使命のひとつである、ということが基本的仮定とされている。概念工学についての現在のメタ哲学的論争は、その規範的基礎、その実現可能性、意味論的外在主義との整合性、そして適切な限界と関わっている。

重要な研究

「概念工学」というラベルは、Richard Creath の Creath(1990)においてつくりだされた。Creathのように、現在、この分野の研究者のおおくは、科学的な目的のためにデザインされた概念工学の一種である、カルナップの解明(explication)の方法(Carnap 1950)とじしんの研究とをむすびつけている。 Brun 2016 は、カルナップ主義的な解明についてのひじょうに有益な議論を含んでいる。概念工学についての現行の議論のそのほかの重要な出発点は、 Haslanger 2000、および、発展した議論は、Haslanger 2012、において導入された、Sally Haslangerによる、いわゆる「改訂的分析(ameliorative analysis)」である。 Burgess & Plunkett 2013〔のふたつの論文〕は、よりひろく、彼らの呼ぶ「概念倫理学(conceptual ethics)」にアプローチしている。概念工学についてのさいしょのモノグラフに、 Cappelen 2018のものがある。

イントロダクション

いまのところは、概念工学についての入門的なテクストはないが。ほとんどの著作はひじょうにわかりやすい。概念工学の基本的な目標の有益な特徴づけと、事例のリストについては、 Cappelen 2018のはじめの二章、Burgess & Plunkett 2013〔の概念倫理学にかんするふたつの論文〕をそれぞれ参照せよ。哲学を行う方法としてのカルナップ主義的な解明についてのすぐれたイントロダクションと議論は、Brun 2016 をみよ。

Koch, S. “Conceptual Engineering,” PhilPapers, https://philpapers.org/browse/conceptual-engineering, 2018/09/07閲覧。

いくつかの覚え書き

概念工学について

Cappelen & Plunkett によれば、概念工学(conceptual engineering)とは「⑴表象的デバイスを評価し、⑵どのように表象的デバイスを改善するかについての反省と提示であり、⑶提示された改善の実装への努力」のことであるとされる(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)。ここで、表象的デバイスは、語や思考(words and thoughts)をいみすると理解できる(cf. Patrick forthcoming, note 1)。この言い方をするのは、概念工学の対象を、それじたい論争の的になっている特定の「概念」の理解の仕方に依存しないかたちで扱いたいがためだ。とはいえ、ややイメージしにくいため、ここでは、表象的デバイスを、思考を可能にさせたり、思考するさいに用いられるものとしての、ひろいいみでの概念として理解しよう(cf. Burgess & Plunkett 2013a, 1095)。それは、たとえば、人権、自由、磁場、量子、確率、因果、責任、尊厳、芸術、批評、精神疾患脳死ジェンダー、人種といった概念のことだ。こうした概念は、帳簿や電卓、靴や眼鏡、顕微鏡や望遠鏡、携帯電話やGPSのように、具体的な実践のなかで、わたしたちの現実に関する理解とはたらきかけ、行動のためのデバイスとして役立てられ、あるいは悪用される。

こうしたデバイスとしての概念は、ほかの物理的なデバイスと同様、特定の歴史と文化のなかで生成された人工物であって、完成されたものではなく、それゆえ、現在の目的に合わせて評価し、改善することができる、という見方をとることができる。これが概念工学を特徴づける態度のひとつだといえる。この態度に基づいて、評価、改善するとは何であり、それはどのようにして可能なのか、そもそも概念とは何か、概念はわたしたちのコントロールのもとにあるのか、概念を改善することの意義などの問いが取り組まれている(cf. Cappelen & Plunkett forthcoming, section 3、および、Cappeln forthcoming)。概念工学は、わたしたちのさまざまな実践のなかで(形而上学的議論から、学術的議論、表現の自由をめぐる議論、芸術的価値と美的価値の問い、精神疾患の鑑別診断、日常の論争まで)、重要な役割を担う概念を、どのように評価、改善しうるか、改善されたものをじっさいにそれをどのようにして実装するのか、という問いに取り組む哲学的方法論であるといえる。

概念工学と概念倫理学

概念倫理学(conceptual ethics)とは「思考、発話、そして表象についての、規範的、評価的な問題について考察」を行い(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 2)、「何をすべきであるか(何をしてもよいのか)と、どの行為や結果がよく、あるいはわるいのか………という研究をともに含む」(Burgess & Plunkett 2013a, 1094)哲学的方法論である。つまり、概念倫理学とは、「わたしたちの概念的な選択が、重大な非概念的な帰結をもたらしうる」がゆえに、わたしたちが「どの概念を使うべきかを決定する」作業のことである(Burgess & Plunkett 2013b, 1102)。たとえば、特定の人種概念やジェンダ概念を用いることじたいが、その概念によって指示されるひとびとに対するわたしたちの態度を決定してしまうために、その概念が公正なものかどうか、それをわたしたちを用いるべきかどうか、用いなければならないとしたらどのようにそうすべきか、といった問いを概念倫理学は問う。

概念工学と概念倫理学との差異と共通点はあるのだろうか。この問いは、両者のアプローチのちがいから答えられるかもしれない。概念工学は、概念の設計、改善と評価、そして実装のプロセスといった、概念を用いた操作と技術、つまり比喩としての工学的課題に注目し、概念倫理学は、概念の使用がもたらすさまざまな効果(偏見の助長、さまざまなひとびとの分類とそれに基づいて行われるさまざまな行為、たとえば、診断、非難、差別)について、規範的かつ評価的な視点から考察する、いわば倫理的課題に取り組む研究態度のことであると理解できる。だが、両者は、概念に関する規範性と評価への関心という点で、共通する部分はおおい*2

現在このトピックでなされている議論のおおくは、両者のどちらにおいても関係するため、これらのことばはあるていど置換可能ではあり(Cappelen & Plunkett forthcoming, section 1)、両者のちがいはくべつしにくいものであるため、そのつど使いかたを意識したほうがよいだろう*3

規範と評価

概念工学と概念倫理学は、「概念を、それがどのような意味をもつものとしてつかうべきか」という規範的な問題に注目する。たとえば、「概念」という概念について、これまでもさまざまな議論が繰り広げられているが、この論争の原因は、さまざまな立場がそれぞれに抱く「概念」のあるべきすがたの食い違いに求めることができる。ある論者は論理的に整合性のある概念を、べつの論者は、わたしたちの認知的なふるまいを説明しうる概念を提示し、おのおのの目的に基づいて、概念のあるべきすがたを想定している(cf. Earl)*4 。各論者を、「その概念はどのような目的に向けられたものなのか」という規範性に基づいて整理することで、各論者の立場は必ずしも両立不可能なわけではなく、さまざまな目的地をもつようなことなる試みとして整理できるかもしれない。たとえば、形而上学的問題を解決するための「概念」の概念と、こどもが対象を認知する発達過程を整理するための「概念」の概念とは、「ナイフ」であるアーミーナイフとバターナイフのように、かなりちがう目的に向かってつくられ、それぞれの実践において運用されるだろうし、わたしたちがきちんと使いこなせるならば、どちらかだけではなく、どちらもあったほうがよい。

規範性の問題は、そうした目的に適うかどうか、つまり、「どのような概念がある目的においてよい概念か」を問うような、評価的な(evaluative)問題にも関係している(Isaac manuscript, section 2.2、Burgess & Plunkett 2013b, section 3)。というのも、ある目的地をもった概念工学/概念倫理学の試みは、つくりだしたり改善した概念によって、その目的地までどれだけ近づけたか、その概念は当該の目的にどれほど適っているのか、という評価が重要な役割を果たすだろうから*5

まとめ
  • 概念工学/倫理学は、両者ともに、概念に関する規範と評価に注目し、じっさいに概念を改善することを志向する哲学的方法論のひとつである。概念工学者/概念倫理学者は、概念は、その種類やカテゴリによって幅は異なるにせよ、多かれ少なかれ、変更可能であるという仮定に基づき、概念の評価、改善、そして実装をすることで、それぞれの実践における概念の使用を、それぞれの目的においてより望ましいものにし、それによって、概念に基づくわたしたちの行為や結果をよりよいものにしようとする。

概念工学と概念倫理学に関して、その輪郭は上のように描くことができるだろう。本稿での説明は表層にとどまる。興味のある方は、PhilPapersのリンクから文献へと進まれることをおすすめする。

ナンバユウキ(美学)

Twitter: @deinotaton

訂正

2018/09/07:人名と一部の文を修正しました。

参考文献

Burgess, A., & Plunkett, D. (2013a). Conceptual ethics I. Philosophy Compass, 8(12), 1091–1101.

——. (2013b). Conceptual ethics II. Philosophy Compass, 8(12), 1102-1110.

Cappelen, H. (forthcoming). “Conceptual Engineering: The Master Argument,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Cappelen, H., & Plunkett, D. (forthcoming). “A Guided Tour Of Conceptual Engineering and Conceptual Ethics,” In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press. 

Earl, D., "The Classical Theory of Concepts," The Internet Encyclopedia of Philosophy,  https://www.iep.utm.edu/conc-cl/#H5, 2018/09/07閲覧。

Isaac, M. G., (manuscript). “How To Conceptually Engineer Conceptual Engineering?” manuscript, https://philpapers.org/rec/ISAHTC, 2018/09/07閲覧。

Patrick, G. (forthcoming). "Neutralism and Conceptual Engineering," In Herman Cappelen, David Plunkett & Alexis Burgess (eds.), Conceptual Engineering and Conceptual Ethics. Oxford: Oxford University Press.

*1:cf. 戸田山和久『哲学入門』筑摩書房、2014年。あるいは、戸田山和久ミニマリスト概念工学としての哲学」2014年。http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/984/

*2:とくに、トピックに焦点をあてた概念工学者は、あるトピックの「課題設定と解決の規範と評価」の層で活動する。これに対して、Burgess & Plunkett的な概念倫理学者のいく人かは、そうした層加えて/の代わりに倫理的な「よさ」、つまり、「倫理的な規範と評価」の層に/も焦点を当てるだろう(ある概念を使うことは、課題解決には役立つが、倫理的によいのか?)。そうであるなら、概念工学と概念倫理学とは、同じ「規範と評価」ということばを使っていても、注目する層によって、かなり近い領域で仕事を行うこともあれば、かなりちがう動機づけによって活動することになるだろう。

*3:かくのごとく、概念工学まわりの概念は、まだ定まっていないため、「概念工学という概念をどう概念工学すべきか」という問いがあり、これを「概念工学のブートストラップ問題」と呼ぶ者もいる(cf. Isaac manuscript, section 2)。

*4:かんたんなまとめは、以下を参照。

*5:さまざまな実践におけるさまざまな概念の評価と改善が、ひとつのグローバルな、あるいはそれぞれの目的に従うような複数のローカルな「よさ」のどちらに基づくべきなのかには議論の余地がある(Isaac manuscript, section 2.2.1)。

2018年7月に読んだもの:Vaporwaveとファッション批評、対話と詭弁と徳美学

キイワード
  • vaporwave、ファッション批評、哲学対話、古代懐疑主義、徳美学、詭弁

はじめに

こんにちは。夏でしたね。外に出るたび身の危険を感じながら、この夏をやり過ごしてきました。ここからがながい夏の暮れも生きのびてゆきましょう。

この記事はナンバが7月に読んだ論文と本のまとめです。当人の主たる目的は備忘録と論文紹介であり、論文や本探しのお供に読んでいただければうれしいです。

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26th:A. Koc「欲しいのはVaporwaveか、それとも真実か」(2017)

まとめ

80-90’sの表象を過剰に用いることで、消費文化へのノスタルジアを表現しつつ、たほうで、後期資本主義のキッチュと近代への逃避を風刺する多面的な表現としてvaporwaveを解釈する。「ノスタルジア」を主題とするvaporwaveを、たんなる-90’sへの憧憬の提示ではなく、社会とそのうちでのひとびとのあり方についての、表現を介した理解の試みであり、かつ、消費文化への批判の表現でもある、とする解釈が試みられている。

そのために、第1節では、F. Jamesonを参照し、グローバル社会におけるじしんの階級的立ち位置を表現を介して反省することで、後期資本主義に対する批判の手がかりとする「認知的マッピング」という実践が提示され、第2節では、そうしたら実践の試みとしての視座からvaporwaveの画像と音響を分析する。次節以降では、R. Williams、B. Massumiらに依拠しつつ、Jameson的で明確な社会的-階級的立ち位置が消えた時代に、社会化以前で前人格的な感情=アフェクションを手がかりに、ノスタルジアを介して、じしんの社会的なあり方を描く「認知的アフェクティブマッピング」の試みとしてvaporwaveを解釈する。

ひとこと

Jamesonの「認知的マッピング」概念、また、それをMassumiらのアフェクト理論に接続した概念は興味ぶかいが、両理論がどのような文脈で提起され、どのような批判を受けてきたのかを確認する必要がある。いつも読んでいる文献の文体や視点とは毛色がちがうが、おおくの手がかりを得た。

Koc, A. Do You Want Vaporwave, or Do You Want the Truth?. capaciousjournal. com, 57.

22th:L. Glitsos「Vaporwave、あるいは遺棄されたショッピングモールに最適化された音楽」(2018)

まとめ

18 Carat Affairを対象に、vaporwaveを、消費資本主義を象徴する素材を用い、「存在しない記憶を思い出す」という美的な想起体験をもたらす表現ジャンルとして特徴づける。第一節は「vaporwaveとは何か」と題し、その歴史をかんたんに整理し、二節ではメディアが生み出す「起こらなかった出来事へのノスタルジア」をめぐって、vaporwaveを考察し、三節では消費文化における記憶の喪失性の表現の、そして、四節では、記憶の再編成の表現の試みとしてvaporwaveを特徴づける。

Glitsos, L., 2018. ‘Vaporwave, or music optimised for abandoned malls.’ Popular Music, 37(1), 100-118.

21st:J. Reponen「ファッション批評の現在?」(2011)

広告宣伝から一定の距離を取りつつ、ファッションを記述し、文脈づけ、価値づけることをめざすファッション批評が、今日、どう行われうるのかを、ファッションを取り巻く状況とそれに特有な問題とを記述するなかで考察してゆく。ファッションの状況について、とくに書き手とデザイナ、書き手と掲載媒体(ファッション雑誌、ブログ)との関係について、具体例を多く示している。よりひろい視野からの理論的考察は、Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)が参照できる。

Reponen, J. (2011) Fashion criticism today? In A. de Witt-Paul &M. Crouch (Eds.), Fashion forward (pp. 29–39). Oxford: Inter-Disciplinary Press.

20th:飯田隆『新哲学対話』(2017)

日常のことばによる哲学書。第一篇「アガトン」では、生活のなかで出会う嗜好と価値観をめぐる問いが、対話のなかで問われてゆく。美と感性をめぐる問いの意義とむずかしさ、なによりその魅力を伝える、哲学することへと誘う対話篇。

19th:J. アナス・J. バーンズ『古代懐疑主義入門』金山弥平

まとめ

古代懐疑主義を通した哲学実践の入門。テクストと向き合い、歴史をたどり、動機を拾い、論証を点検し、20世紀後半の英米圏の哲学者と比較しながら、哲学史に影響を残した「判断保留の十の方式」を解釈し、批判する。その歴史的背景の説明によって、議論を近づきやすいものとするとともに、各議論のていねいな解説と検討によって、古代の哲学が生気を帯びて立ち現れる。ある部分ではこれからの考察の手がかりとなりうるものとして。ある部分では、納得とつよい疑義を表明したくなるものとして。

ひとこと

とてもよい本。相対主義懐疑論に興味があるひとは読むと学びがあるし、哲学ってなにというひとで、主題に興味があるひとには勧めることにする。

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)

 
18th:P・ゴールディ「芸術の徳」Philosophy Compass

近年議論のひろがりをみせる徳美学(virtue aesthetics)について、⑴徳に関する他分野の議論、⑵徳概念とその議論の芸術的活動への援用に際しての前提、⑶諸々の議論、そして、⑷展望と応用とを紹介する。

Goldie, P. (2010). Virtues of art. Philosophy Compass, 5(10), 830-839.

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1747-9991.2010.00334.x

7th:Kyung-Hee & Van Dyke「ファッション批評のためのインクルーシブシステム」(2018)

まとめ

美学、文化社会学の議論を手がかりに、ファッション批評が「だれによって」「どのように」「どのようなレベルで」行われているのかを包括的に整理するモデルをつくりあげる。デザイナ、研究者、エディタといった、さまざまなエージェントによる異なるレベルの批評活動が影響しあうことで形成されるファッション批評のモデルが提示される。作品-商品のどちらとしても扱われるオブジェクト(e.g., ビデオゲーム、デザインプロダクト)に関する批評の整理にも役立ちうるだろう。

ひとこと

ファッション批評の対象は必ずしも服そのものに限定されないし、批評の目的も多層的だ。といえばそれはそうだと思われそうだが、このように整理をされてはじめて対象を区別していくかの手がかりが得られる。この論文はとてもおもしろく読んだ。ファッション批評が気になるひとは読みましょう。美学からはじまり、受容研究、文化社会学といった横断的な領域の文献への指示もあり、ガイドとしてもよい感じ。

Choi, K. H., & Lewis, V. D. (2018). An inclusive system for fashion criticism. International Journal of Fashion Design, Technology and Education, 11(1), 12-21.

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17543266.2017.1284272?journalCode=tfdt20

1st:香西秀信『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』ちくま学芸文庫(2010)

まとめ

詭弁を回避するための詭弁入門。文学作品から政治的論争、日常における具体例を通して、詭弁とレトリックがどう使われるか、それらにどう対応しうるかを解説している。読書案内がありがたい。また、見え隠れする著者の屈託も含めおもしろく読んだ。

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

 

あとがき

いろいろ読めました。ファッションやvaporwaveといったあたらしいトピックにふれられたし、ちがう学問的態度で書かれた論文にも挑戦できて、文化論的研究への理解がすこし得られたとともに、それのなにを問うていくべきなのかも明確になりつつあります。

それでは。

ナンバユウキ(美学)@deinotaton

2018年6月に読んだもの:セックスとジェンダー、社会存在論、言論の自由、そしてナショナリズム

ふりかえり

お仕事といくつか作業があったので、読んだものは少ないです*1スタンフォード哲学百科事典祭り。

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6月30日:M. Mikkola「セックスとジェンダーフェミニストの視点から」スタンフォード哲学百科事典(2017)

まとめ

⑴概念の変遷、⑵ジェンダーの社会的構成、⑶両概念の差異、⑷ジェンダー存在論の議論を概観しつつ、セックス/ジェンダー概念の問題とその有用性を整理する。

生物学的/社会的な女/男区分とおおむね対応するセックス/ジェンダー区分は、素朴な生物学的決定論への反駁の根拠となるが、セックス/ジェンダーの定義は規範性を帯び、それに含まれないひとを排除する点、生物学的身体もつねに社会的意味を含意する点から、その有用性に疑問が付されてきた。両者の区分を認めても、ジェンダー存在論的地位については、唯名論実在論的な立場のあいだで議論が行われており、細部での見解の一致はみられず、上記のような批判もあるが、実践におけるジェンダーアイデンティティの結びつきを扱えることから、両概念の区別は依然として有用であるとされる。

資料

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ひとこと

ポルノグラフィ研究も進めているので、セックスとジェンダー区分は押さえておきたいと思い読みました。いくつか読むべきあたらしい文献が見つけられたのでよかった。

リンク

Mikkola, Mari, "Feminist Perspectives on Sex and Gender", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/feminism-gender/.

6月28日:B. Epstein「社会存在論スタンフォード哲学百科事典(2018)

まとめ

貨幣、法、人種、芸術などの社会的存在者を「なにが/いかにして」構成するのかを問う社会存在論について、⑴歴史、⑵一般的問題、⑶構成物の性質、⑷社会カテゴリと社会種の設定、⑸主要なトピックの五つをとりあげ概観する。 これまでの議論をコンパクトにまとめているので、人工物の存在論の概観を得られ、また、そのつど文献を指示してくれているので、興味のある領域への道を示してくれている。範囲のひろさゆえにぜんたいの分量は多いが、役に立つ。

ひとこと

長く、トピックが多岐にわたったのでややハードだった。ただ、芸術作品の存在論ジェンダー存在論を社会的構成の議論と関係する社会存在論という視野から俯瞰することができるようになったのはよい。分析的な存在論一般がそうであるように、社会存在論の議論もあまりに抽象的にみえる。けれども、分析的な存在論一般がそうであるように、こうした議論が、具体的な議論、社会的実践や批判において、じぶんたちがなにを行なっているのかを再考するための大きな見取り図を与えてくれたりもする。前半の歴史の部分だけでもちょっと読むと整理がされてよい感じ。

リンク

Epstein, Brian, "Social Ontology", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2018/entries/social-ontology/.

6月16日:ファン・ミル「言論の自由スタンフォード哲学百科事典(2017)

まとめ

危害、不快原理に基づいた/民主主義的価値との比較においてなされる言論の自由の部分的な制限の議論の整理。とくにヘイトスピーチおよびポルノグラフィ規制がいかなる理由によって/どこまで正当化しうるのかが問われる。 

ひとこと

危害原理と不快原理とを具体例から理解できたのがよいです。あと、副次的に、倫理学的議論に関して原理をもちだす動機も理解できたのがうれしい。近年に刊行された著作もおおくふれられており、入り口をたくさん知ることができる。

リンク

van Mill, David, "Freedom of Speech", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = https://plato.stanford.edu/archives/sum2018/entries/freedom-speech/.

6月14日:A. D. スミス、庄司信訳『ナショナリズムとは何か』

まとめ

隣接する概念の定義の整理からはじまり、競合する諸々のパラダイムの例示に加え、研究史を振り返りつつ、各説の動機や長所を説明している。読書案内も充実していて、この分野のよい見通しを与えてくれる。

ひとこと

すっきりとした整理と、充実した文献表によって、この分野を鳥瞰できたのがよい。とくに「日常のナショナリズム」研究の存在を知り、アイコンや旗、音楽、イベントなど、ナショナリズムを象徴的に担いうるものが分析の対象になっていると知り、じぶんの研究にもつなげられそうで興味ぶかい。いい本。

あとがき

作業のあいまに、おもしろくきまじめな文章を読むと、すこし涸れていたちからがふたたび湧いてきました。6月もすてきな文章と思考に出会いました。7月もすてきなことにであえればいいと思います。

ナンバユウキ

*1:ユリイカ』50(9) 特集バーチャルYouTuber、二〇一八年。難波優輝「バーチャルYouTuberの三つの身体:パーソン、ペルソナ、キャラクタ」。好評発売中です。キャラクタ、虚構性、メディア論に興味のある方はぜひ。「バーチャルYouTuberスタディーズ入門」もご笑覧ください。

ヴァーチャルリアリティはリアルか?:VRの定義、存在論、価値

近年、ソーシャルVRと言われる『VRChat』のサービス開始(2017年2月〜)や、VRヘッドセットやVR技術の漸進的な普及、そして、VRのアイコンといえるVirtualYoutuber(Vtuber, VTuber)らの登場で、ヴァーチャルリアリティの世界は一段と盛り上がりをみせている。それらはコミュニケーションのあり方を変え、新たなゲームプレイやエンターテイメントの可能性もたらすとともに、哲学的にもさまざまな魅力的な問いをわたしたちに投げかけている。

たとえば、なんとなくわかったような気がしている、ヴァーチャルリアリティとは何だろうか。それはどうヴァーチャルなのだろう。ヴァーチャルな世界は現実世界とは違うのだろうか。さらにそれは、さまざまな物語のなかの虚構世界とは違うのだろうか。もしそれらが互いに異なるとしたら、それはどのようにしてだろうか。また、VRはMR(複合現実)やAR(拡張現実)とはどう違うのだろうか。ヴァーチャルな世界における体験は現実のそれと同じ価値をもつのだろうか。そもそも、リアリティといって、ヴァーチャルリアリティは真の意味でリアルなのだろうか。そうではないとしたらなぜなのか。

本稿ではこうした問いに取り組み、ヴァーチャルリアリティの定義、存在論、価値を論じたチャーマーズ(2017)の論文をまとめている。この項では、当該の論文の前半部分でなされるヴァーチャルリアリティの定義に関する議論をまとめている。

なお、ヴァーチャルリアリティの定義や関連する概念の整理に興味がある方は目次にあるヴァーチャルリアリティの定義のセクションから読んでいただければと思う。

・Chalmers, David J. "The virtual and the real." Disputatio 9.46 (2017): 309-352.*1

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概要

筆者のチャーマーズは、ヴァーチャルリアリティ(Virtual Reality: VR)はある種の真正な現実(reality)の一つであることを主張する。そのために、ヴァーチャルな対象(virtual object)は虚構的対象(fictional object)であるとするヴァーチャル虚構主義(virtual fictionalism)を退け、ヴァーチャルな対象は現実的なデジタルな対象であるとするヴァーチャルデジタリズム(virtual digitalism)を擁護する。そして、ヴァーチャルな対象が現実的対象であることと、ヴァーチャルリアリティにおける知覚が必ずしも幻覚ではないこと、さらにヴァーチャル世界における生活が非ヴァーチャルなそれとおおむね同じ種類の価値をもちうることを主張する*2

チャーマーズの主張:ヴァーチャルデジタリズム

筆者であるチャーマーズが主張したいのは、まず、ヴァーチャルリアリティはある種の真正な現実そのものであるという主張だ。そしてこの主張をサポートするためにチャーマーズはつぎの三つを明らかにしようとしている。

  • ヴァーチャルな対象は現実的対象であり、
  • ヴァーチャルリアリティ内で起こるイヴェントはほんとうに現実であって、
  • ヴァーチャルリアリティにおける体験は非ヴァーチャルリアリティにおける経験と同じだけの価値をもつ。

これを論証するためにはここで用いられる語彙を整理する必要がある。そこで以下上記の主張に対応して次の四つの問いが問われる。

  1. ヴァーチャルな対象は現実的対象か虚構的対象か。
  2. ヴァーチャルなイヴェントは現実のイヴェントか。
  3. ヴァーチャル世界の知覚は幻想か現実の知覚か。
  4. ヴァーチャル世界の経験の価値は非ヴァーチャル世界における経験の価値と同じか。

ここで筆者はヴァーチャルリアリティが現実であることに賛成する立場と競合する立場を提示する。

ヴァーチャル実在論|Virtual Realism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在する。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きている。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は非幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がある。

ヴァーチャル非実在論|Virtual Irrealism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在しない。
  2. ヴァーチャルリアリティにおけるイヴェントは現実に起きていない。
  3. ヴァーチャルリアリティにおける経験は幻覚である。
  4. ヴァーチャルな経験は非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値がない。

ヴァーチャル非実在論はいっけんパワフルだ。あなたがヴァーチャルリアリティ環境でヴァーチャルな猫を飼っても、それはほんとうに存在するはずがないし、それはほんとうに鳴くわけではないし、その鳴き声はほんものではないし、ヴァーチャルな猫である彼女を飼った経験とじっさいの猫を飼った経験とは同じ価値があるとは考えづらい。

だが、チャーマーズは前者の実在論路線をとる。じっさい、チャーマーズは以前『マトリックス』のような完全なヴァーチャルリアリティ世界についてのヴァーチャル実在論を擁護した*3。そのような理想的なヴァーチャルリアリティにおいて「そこにテーブルがある」というわたしたちの信念は正しいものだろう。そしてもし、わたしたちがじっさいにマトリックス世界にいるとしたら、わたしたちは目の前のテーブルをみながら「そこにはテーブルはない」とは言わない。むしろ、「そこには、ビットでつくられたデジタルな対象であるテーブルがある」と言うだろう。ここで、チャーマーズはヴァーチャル実在論の改訂版を提案する。

ヴァーチャルデジタリズム|Virtual Digitalism

  1. ヴァーチャルな対象はほんとうに存在し、それらはデジタルな対象である。
  2. ヴァーチャル世界におけるイヴェントはおおむねデジタルなイヴェントであり、それらはほんとうに起きている。

以上が前述の論文で議論されたことであり、これらに加えて、

  • ヴァーチャルリアリティにおける経験はデジタル世界の非幻覚的な知覚を含んでいる。
  • デジタル世界におけるヴァーチャルな経験は非デジタル世界の非ヴァーチャルな経験と同じだけの価値をもちうる。

これらについて、現在VR技術によって可能になっている、より不完全なヴァーチャルリアリティに関しても論証する。そのためには、ヴァーチャル非実在論をとる論者にも受け入れられるような議論の土台を組み立てる必要がある。

ヴァーチャルリアリティの定義

まず、議論を設定するためにヴァーチャルリアリティに関する定義を行う。はじめに、一般的に英語話者にとって、ヴァーチャルという言葉は大きく二つの意味をもつとされる。

ヴァーチャルの二つの意味|実質と仮想
  • 実質的なもの:あるXのようであるがXではない。
  • コンピュータに基づいたもの:コンピュータ上の情報処理を通してつくられたX。

前者の意味で考えれば、ヴァーチャル実在論は棄却される。だが、わたしたちが2018年にヴァーチャルリアリティという言葉で指示しているのは、後者の意味でのことだろう。こちらの意味で考えれば、実在論非実在論のどちらが正しいかは開かれた問いのままになる。チャーマーズは後者の意味で考えたさい、ヴァーチャルリアリティの核となる三つの要素を指摘する。

ヴァーチャルリアリティの三つの要素|没入、インタラクション、コンピュータによる生成
  • ヴァーチャルリアリティ環境virtual reality environment):ヴァーチャルリアリティ環境とは、没入的で、インタラクティヴで、コンピュータによって生成された環境のことである。

コンピュータによって生成された環境は前述のとおり、コンピュータ上の情報処理を通してつくられたものであるために、まさしくヴァーチャルなものであるといえる。そして、その環境が没入的でインタラクティヴな環境であることによってリアリティに近づくといえよう*4。それでは、これら三つの没入、インタラクション、そしてコンピュータによる生成とは正確にはどのような意味をもつのだろうか。

  1. 没入(immersion):没入的環境とは、その環境内でのパースペクティブにおいて、ユーザに「現前性(presence)」の感覚(すなわち、ユーザにそのパースペクティブにおいて[じしんが]ほんとうに現前しているという感覚)を与えるような、その環境における知覚的経験を生成する環境のことである。
  2. インタラクション(interaction):インタラクティヴな環境とは、ユーザによる行為が、その環境で起こることに重大な変化をもたらすような環境のことである。
  3. コンピュータによる生成(computer generation):コンピュータによって生成された環境とは、ユーザの感覚器官によって処理されるような出力を生成する、コンピュータシミュレーションのようなコンピュータ処理に基づく環境のことである。

没入的環境は、典型的には、三次元空間における立体的な視覚体験を可能にするVRヘッドセット、そしてヘッドフォンのような聴覚的な装置によってもたらされている。インタラクティヴな環境は、体の各部位のトラッカーやコントローラ、あるいはキーボードを通してユーザの行為が入力されることでVR環境に変化がもたらされることで可能になっており、コンピュータによって生成された環境は、デスクトップコンピュータや、あるいはスマートフォンによって可能になっている。こうした三つの条件によるヴァーチャルリアリティの特徴づけは、あとで行うように「VRらしい」さまざまなものごとをよく整理できる点ですぐれている。

さまざまな用法

VRの狭い意味での二つの用法|環境と技術

VR周辺を整理する前に、英語において、次の二つの意味で使われていることに注意したい。

  • 可算名詞としてのVR:個別のヴァーチャルリアリティ環境。
  • 不可算名詞としてのVR:VR環境一般あるいはVR技術。

日本語でも、VRといったとき、可算名詞的に、個別のヴァーチャルリアリティ環境を指す場合もあれば、不可算名詞的に、複数のヴァーチャルリアリティ環境のぜんたいや、VR技術のことを指す場合もあるだろう。本稿ではVRといったとき、おおむねVR環境一般を指し、VR技術は指示しない。

また、ここで、

  • VR技術:ヴァーチャルリアリティ環境を維持する技術の総称(e.g. VRヘッドセット、それに同期する聴覚的機器やトラッカー、コンピュータなど)。

とする。

VRの広い意味での用法|VRプロパー

まず、もっともげんみつなVRについて定義しよう。

  • VRプロパー:上記の⑴没入的環境、⑵インタラクティヴな環境、⑶コンピュータによって生成された環境の条件をすべてみたすようなヴァーチャルリアリティ。

VRプロパーな環境とは、わたしたちがヘッドセットとヘッドフォンを被り、トラッカーを装着し、コントローラを握り、アクセスする環境、没入し、画面上に刻々と描画される他者と交流する環境のことである(e.g. 『VRChat』)。

つぎに、予告したように、「VRっぽい」さまざまなものごとを整理しよう。これは、⑴から⑶の条件のどれかが欠如しているものごとに分類できる。

一つの条件の欠如|非没入、非インタラクティヴ、非コンピュータ生成
  1. 非没入的VR:⑴没入の否定。非没入的だが、インタラクティヴでありコンピュータによって生成された環境(e.g. 家庭用ビデオゲーム)。
  2. 非インタラクティヴVR:⑵インタラクションの否定。没入的だが、非インタラクティヴであり、コンピュータ生成された環境(e.g. ヘッドマウントディスプレイに映し出されるコンピュータによって生成された映画)。
  3. 非コンピュータ生成VR:⑶コンピュータによる生成の否定。没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ロボットアームを操作することによる遠隔医療手術)。

例示したように、⑴から⑶のどれか一つの条件を満たしていなくてもVRと呼ばれるものがある。さらに、これらのひとつしか満たしていなくても、VRと呼ばれるものもある。

二つの条件の欠如|VR的なもの
  1. 没入のみのVR:没入的だが、非インタラクティヴで、非コンピュータ生成環境(e.g. VRヘッドマウントディスプレイ上に映し出されるグーグルストリートビューのような360°映像)。
  2. インタラクションのみのVR:非没入的で、インタラクティヴであるが、非コンピュータ生成環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出された映像に基づく遠隔地のロボット操作やドローンの操作)。
  3. コンピュータ生成のみのVR:非没入的で、非インタラクティヴであるが、コンピュータによって生成された環境(e.g. ふつうの平面ディスプレイ上に映し出されるVtuber映像のようなコンピュータ生成の映像)。

これらはVRプロパーからはかなり隔たっているが、やはりVR的なものと言われるものである。

このようにして、チャーマーズは⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の条件によって、VRプロパーからより広い意味でのVRっぽいものをもうまく分類している。じつのところこれからの議論で取り扱うぶんには、VRプロパーの定義でじゅうぶんであるように思えるが、この部分単体でもひじょうに有益な整理であると思われる。

VRのヴァリエーション|MR、AR

さて、さらに、VRと関連して語られるつぎの二つのについても整理しておこう。

  • ミクストリアリティ|複合現実(Mixed Reality: MR):ミクストリアリティ環境とは、⑴没入かつ⑵インタラクションの条件をみたし、かつ、部分的に⑶コンピュータによって生成され、また部分的にコンピュータによって生成されていない、すなわち物理的であるような環境である。
  • オーギュメンテッドリアリティ|拡張現実(Argumented Reality: AR):拡張現実的環境とは、複合現実の代表例であって、ふつうの物理的環境にヴァーチャルな対象が付け加えられたような環境である(e.g. 『Pokemon GO』)。

こう考えると、VRからMR、そしてR(リアリティ)という三者を、コンピュータによる生成と物理的環境との二つの要素によって位置づけることができる。つまり。いっぽうの極は純粋にコンピュータによって生成された環境のVR、他方の極には、まったくコンピュータによって生成されておらず、物理的環境としてあるような現実、その中間に、部分的にコンピュータによって生成され、部分的に物理的な環境としてのMRがある。

ヴァーチャルな世界とヴァーチャルな対象

本稿のさいごに、これまで何気なく使ってきた二つの概念を定義して終わることとする。

  • ヴァーチャルな世界|仮想世界(virtual world):VR技術を用いることで、そこにわたしたちが滞在している(ように感じられる)インタラクティヴなコンピュータによって生成された世界(e.g. 『ワールドオブウォークラフトWorld of Warcraft)』)。
  • ヴァーチャルな対象|仮想的対象(virtual object):ヴァーチャル世界のなかに含まれており、VR技術を用いることで、そこでわたしたちが知覚しインタラクトしている(ように感じられる)対象(e.g. ヴァーチャルな身体、ヴァーチャルな建物、ヴァーチャルな武器など)。

ヴァーチャルな世界に関して、『ワールドオブウォークラフト』はVRプロパーではない。しかしヴァーチャル世界を含んでいるといえる。というのも、VRの条件の一つである⑴没入条件はこれから議論したいヴァーチャルな対象の存在論的問題には関係がないため含まれておらず、ヴァーチャルな世界を定義するにあたって考慮しなくともよいとされるからだ。

これらふたつの定義はヴァーチャル世界やヴァーチャルな対象が現実的なもので非現実的なものでも適用できる。そのため、これらふたつの定義に至るまで、これまでながながと定義してきたものは特定の実在論非実在論と直接関わっていないためどちらの論者にも受け入れられるだろう。よって、以上の定義は冒頭で述べたように、議論の土台として有用な諸定義であるといえる。

ヴァーチャルリアリティをめぐる定義

それでは以上をまとめてみよう。

  • VR(ヴァーチャルリアリティ)は⑴没入、⑵インタラクション、⑶コンピュータによる生成の三つの条件を満たすある特定の環境である。ときに、よりゆるやかな意味で、こうしたVR環境とVR技術の両方を指す総称としても用いられる。さらにより広い意味で、以上の三つの条件のどれか一つを満たさないような環境を、また、一つだけを満たすような環境を指すこともある。加えて、VRを構成する三要素のうち、⑶コンピュータによる生成の条件に注目して、VRと関連する環境について、コンピュータによってのみ生成された環境としてのVR、部分的にコンピュータによる生成と物理的環境が複合したMR・AR、そして純粋に物理的環境である現実とを整理することもなされうる。

*1:オープンアクセスになっており、こちらから入手できる。https://www.degruyter.com/view/j/disp.2017.9.issue-46/disp-2017-0009/disp-2017-0009.xml

*2:本稿では「Virtual」を「ヴァーチャル」と音訳する。ふつうヴァーチャルリアリティは「仮想現実」と訳されているが、そのニュアンスは込み入っており、それらのニュアンスに関して比較的中立的な音訳でいくことにした。強いて音訳以外で訳さなければならないとしたら、わたしは本稿で扱うチャーマーズの議論に乗っ取って、いくつかありうる訳語のなかでは「仮想的」の訳語を選択するだろう。もし必要ならば、わたしは、ヴァーチャルリアリティ、ヴァーチャルな対象、ヴァーチャルな世界などを、仮想現実、仮想的対象、仮想世界と訳すだろう。

*3:Chalmers, D.J. 2003. The matrix as metaphysics. Online at thematrix.com. Published in print in Philosophers Explore the Matrix, ed. by C. Grau. Oxford University Press, 2005. チャーマーズじしんのウェブサイトにも掲載されている。http://consc.net/papers/matrix.html

*4:チャーマーズはこの三つの要素をHeimのものと比較している。Heimはほぼ同様な三要素を提示したが、環境ではなくそれをもたらすヴァーチャルリアリティシステムについての定義を試みた。cf.Heim, M. 1993. The Metaphysics of Virtual Reality. Oxford University Press.

芸術と倫理、倫理的批評

芸術の倫理と倫理的批評に関するサーベイ論文を読んだのでまとめました。「倫理的批評って可能なの?」「芸術作品と倫理はどう関わるの?」といった疑問を抱いている方はご一読ください。

・Giovannelli, Alessandro. "The ethical criticism of art: A new mapping of the territory." Philosophia 35.2 (2007): 117-127.

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倫理的批評とはなにか

芸術は倫理的に批評しうるか、という問いは、20世紀の後半にはいってふたたび分析美学のまじめな問いとして見直されることとなった。それに伴い、分析美学において芸術とその倫理的批評に関するさまざまな立場が現れた。この論文では、そうした立場を実践に沿うようなかたちで整理する。

筆者は芸術に対する倫理的批評についてのさまざまな立場を包括的に、そして実践に沿うようにマッピングすることを目指す。というのも、現行のさまざまな立場の包括的な理解はなされておらず、議論にもやや混乱がみられるからだ。そこで、マッピングのために、どの立場からも受け入れられるような前提を提示することが第一の目標とされる。
まずは、倫理的批評とはなにかという確認をする。

  • 倫理的批評(ethical criticism):ある芸術作品に対する芸術的価値の価値づけに際して、その作品の倫理的ステータスや倫理的価値を考慮する芸術批評の実践。

倫理的批評はふつうに行われている。たとえば、リーフェンシュタール『意志の勝利』について、そのナチズムのプロパガンダ映画としての地位がその芸術的価値を損なうとする批評がそれだ。ある作品が芸術的価値をもっていても、その価値を倫理的な欠陥が損ないうるものだという考えじたいは突飛ではない。しかし、倫理的な欠陥はどの程度芸術的価値を損なうのか、倫理的な欠陥が指摘されるのは芸術作品に関するどの側面なのか(すなわち、その制作過程なのか、その作品がひとびとに与えた影響なのか)といった疑問ははいまひとつ明らかではない。

そこで、手はじめに、どのような立場を取るにせよ共有できるような一般的な原則について確認する。

三つの原則

  1. 倫理的価値づけ可能性:芸術作品は倫理的価値づけの対象になりうる。
  2. 基本的な価値の多元主義:芸術作品は、すくなくとも見かけ上は異なってみえるような、さまざまな価値づけの対象である。
  3. 倫理的側面への関与性:芸術作品のどのような倫理的側面が芸術的価値に影響しているのかは、個別に決定される。

以上は倫理的批評に関するいずれの立場をとるにせよ、議論の前提としてじゅうぶん認められうる原則である。
というのも、倫理的価値が芸術的価値に影響する(すなわち倫理的価値のあり方が芸術的価値に影響し、後者を減じさせたり増やしたりする)かしないかはべつにして、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になっていることを否定することはむずかしいし、芸術作品がその芸術的価値のみ(あるいは経済的価値、倫理的価値)に基づいてその価値づけがなされるとみなすにせよ、芸術作品が見かけ上は異なるさまざまな価値づけの対象になっていることは疑いようがないし、芸術作品のさまざまな倫理的側面(すなわち、その制作過程の倫理的問題、埋め込まれた主張内容の道徳性、あるいは鑑賞者に与える道徳的な影響)のうちで、どれがじっさいに芸術的価値と関与しているのかについてはさまざまな立場を取ることができるだろう(これについてはのちほど具体例をあげる)。

こうしたいっけん当たり前にもみえる原則の明確化は重要だと筆者は主張する。

というのも、こうした明確化によって、じっさいには存在しないような立場を考慮しないで済むようになり、無用な混乱なく議論を行えるからだ。たとえば、こうした原則を否定するような極端な立場にも倫理的批評のひとつの立場としての名前が与えられているが、しかし、そうした立場をじっさいにとる論者はほとんどいない*1。にも関わらずありうる立場として名を与えられているために混乱を招いている。しかし、存在しない立場を設定することによる不必要な議論の複雑化は避けるべきだろう。なので、じっさいに共有されうるだろう前提を設定して、そのうちでのおのおのの立場を整理することが重要なのだ。

つぎに、筆者は以上の原則に基づき、さらにいくつかの要素を導入し、さまざまな論者がじっさいにとっているだろう立場を分類する。

新しい分類法

  • 過激な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。しかし、倫理的価値は芸術的価値に何ら影響しない。
  • 穏健な自律主義:芸術作品が倫理的価値づけの対象になりうることは否定しない。そして、芸術作品の倫理的ステータスは、ある場合において、その芸術的価値に影響する。しかし、その影響関係はつねに非規則的(unsystematic)なかたちでしかありえない。
  • 過激な道徳主義:芸術作品の、倫理的価値はその芸術的価値に規則的(systematic)に影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。
  • 過激な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に(in a reverse manner)影響する。そして、そのような影響関係はすべての芸術種や芸術ジャンルの作品に存在する。
  • 穏健な不道徳主義:芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に反比例的に影響する。しかし、そのような影響関係はある特定の芸術種や芸術ジャンルの作品にのみ存在する。

以上は筆者の分類を整理し直したものである。

この六つの分類に際して、筆者によってあたらしい要素が導入されている。それは、「規則的/非規則的」および「芸術種や芸術ジャンル」という要素である。かんたんに説明を加えておこう。

  • 規則的(systematic)/非規則的(unsystematic):いっぽうの価値の多寡がたほうの価値の多寡と規則的に対応している/していない。(例:経済的価値と芸術的価値はふつう非規則的にしか関係していないと考えられている。すぐれて芸術的価値のある作品が必ずしも経済的価値をもつわけではなく、経済的価値をもつ作品が必ずしも芸術的価値をもつとは限らない。)
  • 芸術種・芸術ジャンル:芸術種は「絵画」や「音楽」といった芸術のカテゴリ。後者はさらにきめの細かい「印象派」や「ダブステップ」といったジャンル。

ここで反比例的に影響するとはどういうことか。議論において指摘されているのは、道徳主義においてはポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響すること、逆に、不道徳主義においては、ネガティヴな倫理的価値は芸術的価値にポジティヴに影響すること、そして、ポジティヴな倫理的価値は芸術的価値にネガティヴに影響するとされているということだ。

さて、こうした分類はどのていどきめが細かいのだろうか? 筆者はとくに穏健な立場に関して多くのヴァリエーションがあることを指摘し、こうしたヴァリエーションをうまく分類に含み込んでいることを主張する。

ヴァリエーション

穏健な立場(そして過激な道徳主義と過激な不道徳主義の立場)にはさまざまなヴァリエーションがありうる。ここで筆者の指摘を三つにまとめることができる。

  1. 倫理的側面の多元性
  2. 影響関係の強弱
  3. 芸術種と芸術ジャンル

作品のどの倫理的側面が芸術的価値に影響するかについて、そしてどの程度影響するかについて、さらにそのような影響がどの芸術種やジャンルには認められるかについて、同じ立場をとるひとであってもとうぜん異なりうる。たとえば、倫理的な主張は芸術的価値に規則的に影響すると同時に、その制作手段の倫理性は、非規則的なしかたでしか芸術的価値に影響しないとする立場(主張の道徳主義+制作手段の自律主義の立場)もありうる。

つぎに筆者があげているわけではないが、理解のために具体例をあげやや詳しく議論してみよう。筆者のまとめじたいに興味があるかたもざっと見ていただければと思う。

地獄変」のケース

たとえば、芥川龍之介の「地獄変」にみられる架空の屏風絵『地獄変』について考えてみよう。これは、娘が火に呑まれるさまを実の父良秀が活写した末に出来上がった逸品とされる。さて、いまあなたの目の前に、「これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映え」の地獄絵の屏風が鎮座している。この作品の芸術的価値はその制作過程の倫理性によって影響を受けるだろうか。それとも、登場人物が最終的に受け入れているように、制作過程がどうであれ、芸術作品としての価値は揺るぎないものなのだろうか。

多くのひとはこの作品の制作過程が「倫理的にわるい」ものだと判断するだろう*2。しかし、幾人かはその倫理的なわるさにもかかわらず、芸術的価値は損なわれないとするだろう。さらに、そうしたひとびとのうちには、作品の制作過程に関しては過激な自律主義的な立場をとり、その作品の内容は、ひとの悪行の行きつく先を余すところなく示しているとして、ゆえに倫理的によく、その内容の倫理性と芸術的価値に関しては道徳主義をとるものもいるかもしれない。

だが他のひとはその制作過程における「倫理的なわるさ」ゆえに、その芸術的価値がはっきり損なわれていると判断するかもしれない。この場合、制作過程において道徳主義的な立場をとることになる。

あるいは、その作品が制作過程における倫理性にかかわりなく芸術的価値をもつとされることで、すぐれた芸術的価値をもつ作品をつくるためならばひとに危害をくわえてもよいとする価値観が社会において認められてしまうかもしれず、そのことが帰結として「倫理的にわるい」ために、その作品の芸術的価値は、その倫理的価値に影響されるだと考えるひとがいるかもしれない。このようなひとは、作品の制作過程や内容に関してはべつの立場をとるにせよ、作品が帰結的にひとびとに与える影響に関して道徳主義的な立場を採用したいと思うだろう*3

マッピングの利点

こうしたマッピングによって三つの利点がえられると筆者は主張する。

  1. 包括的かつ明晰:さまざまな論者の立場をもれなく整理できる*4
  2. 普遍的かつ実践的:実践的な批評に即した分類である。
  3. なにが有効な反例となるのかが判明となる:典型的な立場に対してどのような反例が弱点となるのかを整理できる。

これらのうち、さいごの利点について解説する。

ここで、

W:その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品

を考えよう。

第一に、これは過激な自律主義と過激な道徳主義に対する反例となりうる。なぜなら、倫理的地位がたしかに芸術的価値に影響しているからであり、ふたつの価値は規則的なしかし反比例的な影響関係にあるからである。

しかし、第二に、後者の道徳主義に対する反例となるためにはさらなる条件が必要である。ある道徳主義者が注目している倫理的側面がWの不道徳性が帰属される倫理的側面と等しくなければ反例にはならない。たとえば、その制作過程の不道徳性がWの芸術的価値の達成に関係している場合に、ある作品の制作過程ではなく、ある作品が社会に与えうる影響について道徳主義的な立場をとっているのだとすれば、Wは彼女の立場に対する反例にはならない。

また、第三に、加えて、Wが穏健な道徳主義の反例となるのは、その論者が参照する芸術種やジャンルにWが属するときのみである。

そして最後に、Wが道徳主義に対する反例として提示された場合彼女は二つの応答を行うことができる。

第一に、Wであるとされた作品は、たまたま不道徳ではあるが芸術的価値をもつだけかもしれない、ゆえに、道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

ふたたび芥川の小説にあらわれる『地獄変』を例にとろう。この作品はその制作過程において倫理的な欠陥を抱えているとみなすことができる。さて、この作品はその制作過程の不道徳性ゆえに芸術的価値をもつのだろうか? そうではないだろう。その不道徳性にもかかわらずある芸術的価値をもつと言えるだろう。道徳主義が認めているのは、「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響する」ということのみである。それに対する反例は、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」であって、「その不道徳性にもかかわらず芸術的価値を達成している芸術作品」ではない。たとえば、娘の死なしで済んだ『クリーンな地獄変』と小説の中の『ダーティな地獄変』が同時に存在したとしよう。前者は絵師が想像のうちで描きあげることができた作品で、後者は娘の悲劇的な最期なしでは描きあげられなかった作品であるとする。このとき、ほかの条件がまったく同一ならば、前者のほうが後者よりは倫理的価値をもつだろう。そしてまた、芸術的価値に関しては、どちらも変わらないか、前者のほうがより価値があるだろう。いずれにせよ、すくなくとも、いまの前提において、後者のほうが価値があると述べるものはかなりすくないだろう。ということは、いずれの『地獄変』も、「その不道徳性ゆえに芸術的価値を達成している芸術作品」ではないといえる。ゆえに、道徳主義の反例にはならない。ある作品がその不道徳性ゆえに芸術的価値をもつことが示されるまでは、その作品は反例にはならない。

第二に、その不道徳性ゆえに(部分的にであれ)芸術的価値を達成している芸術作品は、その芸術的価値も同時に損なわれているために道徳主義の反例にはならない。とする応答である。

たとえば、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を達成しているジョークは、その差別的な表現ゆえに芸術的価値を損なうだろう。ここでも「芸術作品の倫理的価値はその芸術的価値に規則的に影響」しているのであり、道徳主義的な立場に対する反例にはなりえないとする*5

*1:たとえば⑴を否定し、じっさいに芸術作品が倫理的価値づけの対象になり得ないとする立場にはキャロル(2000)によって「(キャロル的な言葉づかいで)過激な自律主義」の名前が与えられている。だが、このような立場をとるものはほとんどいないだろう。ゆえに、このような立場に対する呼び名は不必要だ。文献については後の注を参照のこと。

*2:もちろん、制作過程における倫理的わるさというのも通りいっぺんに判断できるものではないだろう。作中の描写のように娘が捕られ、屈強な武士がそばに控えている状態では、良秀はただみるほかなかったかもしれない。すると、事故現場をカメラにおさめるカメラマンの倫理的責任がふつう問われないように、良秀に倫理的責任はなく、制作過程において、その絵もまた倫理的にわるい光景を写しているものの、その制作過程のわるさは作品に帰属させるべきではないかもしれない。

*3:このような立場はキャロル(2000)によって「帰結主義」と呼ばれ、その反論が検討されている。なお、この論文は倫理的批評におけるさまざまな立場の分類に関しては筆者によって批判されており、その批判は正当なものであろうが、倫理的批評の見取り図としてはいぜん有用だと思われる。Carroll, Noël (2000). Art and ethical criticism: An overview of recent directions of research. Ethics 110 (2):350-387.

*4:筆者は、Anderson and Dean(1998)を過激な自律主義に、Jacobson (1997)を穏健な自律主義に、Kieran(2003)を穏健な自律主義かつ穏健な不道徳主義に、Carroll(1996, 1998)を穏健な道徳主義に分類している。Anderson, J., & Dean, J. (1998). Moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 150–166. Carroll, N. (1996). Moderate moralism. The British Journal of Aesthetics, 36, 223–238. Carroll, N. (1998). Moderate moralism versus moderate autonomism. The British Journal of Aesthetics, 38, 419–424. Jacobson, D. (1997). In praise of immoral art. Philosophical Topics, 25, 155–199. Kieran, M. (1996). Art, imagination, and the cultivation of morals. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 54, 337–351. Kieran, M. (2003). Forbidden knowledge: The challenge of immoralism. In J. L. Bermúdez & S. Gardner (Eds.), Art and morality. London: Routledge.

*5:この議論はやや理解しづらい。不道徳主義的立場と道徳主義的立場は同時にとることができるようなものなのだろうか。この主張のみをきくと不可能にも思えるが、倫理的側面に注目することで可能であるように思われる。たとえば不道徳な内容ゆえに芸術的価値を達成しているジョークも、その内容が鑑賞者に与える影響の倫理的わるさゆえに芸術的価値を損なうとするならば、道徳主義への反例とはなっていないことが理解できるだろう。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか?」PART II

PRT I→http://lichtung.hatenablog.com/entry/2018/03/17/215144の続きです。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

メイル・ゲイズ

前エントリの紹介までで、イートンの分析によって、視覚芸術が性的モノ化を行うことが示され、これにより、 女性のヌード作品の 第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。すなわち、女性のヌード作品が女性の性的モノ化をエロス化していることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードがエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化はただのモノ化でしかないからだ。どういうことか?
たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。さらに、物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びで笑いはしゃぐだけだろう。すなわち、モノ化を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

その見方は「メイル・ゲイズ(male gaze)」と呼ばれる*1

「メイル・ゲイズ」は規範的なものとして理解されなければならず、 当該の作品がそうすることを誘惑する 、性的モノ化を行う「ものの見方」……を指している。ある作品がメイル・ゲイズを体現していると言うとき、それはある作品がオーディエンスに、表象されている女性を -この場合衣服を着ていない女性の体を-第一義的に性的なモノとして(字義通りであれ比喩的であれ) 「みる」ことを求めているということを意味する。(強調は引用者)(p. 293)

ここで、あまりに多くの混乱が見られるために注記しておかなければならないことがある。それは、女性を性的なモノとしてみる見方のすべてがメイル・ゲイズではないということだ。女性を性的なモノとしてみる見方はわたしたちの一般的な知覚の一つの在り方でしかなく、それじたいいいものでもわるいものでもない。

そうではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方がメイル・ゲイズである。ここで第一義的であるということが重要だ。人間はいかなるジェンダーを問わず、性的なモノである以前にそれぞれにユニークなキャラクタと自律的な意志をもつ。にも関わらず、そうした人間的な特徴に注目せずに、性的なモノとしてのみみなすことが問題とされる。もちろん、親密な関係においてはあるいは合意のうえでは、ひとは性的なモノとして扱われることをみずから望む場合もあり、それは異常な状況であるわけでもない。だが、望みもしないのに第一義的に性的なモノとしてみなされるとすれば、彼や彼女の自己決定権を侵害していることになり、それは多くの場合問題視されるであろう。

女性はこうしたメイル・ゲイズのもとで生きざるを得ない、とイートンは指摘する。メイル・ゲイズは男性のみならず女性のうちにも内在化される。たんに男性が女性をそのようにみるだけではなく、女性がその見方のうちで自らの第一義的な魅力を性的なモノの魅力として読み取る。女性はメイル・ゲイズを内在化し、その見方を通して、「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如をみずからの性的魅力とみなして自己理解を行なってゆく」。これは女性の従属をエロス化してしまうために、さまざまなジェンダーにおける平等を重視する立場からは問題であるとされる。

イートンによれば、女性のヌードはこうしたメイル・ゲイズを強調する文化形式、すなわち、「ほかのあらゆる性格よりも女性の見た目や性的魅力を強調する」文化形式であり、「女性にみずからのアイデンティティ理解の理想型」をもたらしているとされる。まとめよう。

  • 女性の性的モノ化の表象は、女性を「第一義的に性的なモノとしてみる」メイル・ゲイズによって性的に魅力的なものとして鑑賞される。女性の性的モノ化の表象である女性のヌード作品は、鑑賞にあたってメイル・ゲイズを必要とする。鑑賞者が女性のヌード作品に魅力を感じることによって、内在化されたメイル・ゲイズが強化、維持される。そうすることによって、男女問わずメイル・ゲイズを内在化したひとびとにおいて、女性を第一義的にその見た目や性的魅力がほかのどの性格よりも重視されてしまうような性的なモノとしてみなす見方が強化、維持される。すなわち「不活性さ、受動性、毀損性、自律性の欠如」が女性の性的魅力であり、その性的魅力と女性としてのアイデンティティとが同一視されてゆく。これは男女のあいだに支配と従属という不平等な関係をつくりだす原因のひとつとなるがゆえに問題があるとされる。
  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-メイル・ゲイズ-女性のヌード-性的モノ化-女性

個体と一般

ここで、女性のヌードは女性一般をモノ化していると言えるのか? というのも実際の絵画においては個体としての女性が描かれており、ゆえに、女性一般をモノ化しているわけではないのではないか?
この問いに対してイートンは女性のヌードがいかにして女性一般のモノ化の表象でありうるのかについて二つの回答を提出する。

一つ目は女性のヌード表象が総称的(generic)であることによって。女性は同じポーズ、そして同じ顔や肌の色や身体的特徴をもつ識別できないようなものとして描かれる。こうして、女性の表象は総称的なものとして描かれうる。二つ目は理想的(ideal)であることによって。女性はしわや体毛などまったくなく、つねにつるつるとした理想的な体型の女性が描かれる。反して、男性たちはそれぞれの作家に特徴のある個別的な容貌をしている。こうして、個別の女性ではなく、女性一般を表象することができるとイートンは主張する。これらの理由として、イートンは、ピンナップ機能と規範的機能をあげる。総称的で理想的な女性の姿は男性たちのファンタジーに適しており、そしてそれは男女問わず、規範的な女性像として機能する。こうして、西洋における女性のヌードジャンルに属する視覚的表象は女性一般を描きそれを性的モノとして表象することができる。

性的モノ化の何が問題なのか?

これまで女性のヌードのみを扱ってきたために反論があるかもしれない。「男性のヌード」はなぜ問題ではないのか? 男性のヌードもまた性的モノ化の表象ではないか? それを看過しているフェミニストダブルスタンダードではないのか?

イートンはこうしたダブルスタンダード説を否定する。フェミニスト批評は性的モノ化それじたいを批判しているわけではない。そうではなく、西洋の美術史における女性のヌードという視覚的表象のジャンルがもたらす問題を批判しているという。

それでは、性的モノ化はどのようにして問題になるのか。この問いに答えるために、イートンは女性のヌードを巨視的な視点から分析することを試みる。すなわち、おのおのの作品のみに注目するのではなく、諸々の作品が全体としておかれる歴史的な文脈に焦点をあてる。ここで彼女は四つの問題点をあげている。

1. 衣服を着た男性、服を脱いだ女性

女性のヌード作品において、しばしば男性も描かれる。だが、両者ははっきりと非対称的である。同じ画面の中にいる男性は服を着ており、女性だけがはだけており性的モノ化されている。それだけではなく、男性は何かしら芸術的なあるいは知的な活動に従事している。イートンの例の一部を紹介しよう。

マネ『草上の昼食』 1862年1863年、 油彩、カンヴァス、 208 cm × 265.5 cm 、 オルセー美術館、パリ*2

テツィアーノ『ヴィーナスと音楽家と子犬』1550年、油彩、カンヴァス、138 cm × 222.4cm、プラド美術館マドリード*3

アルブレヒト・デューラー『測定法教則』より「横たわる女性を素描する人」1525年、ドレスデン国立美術館*4

だが、反対に、男性がはだけており、女性だけが服を着ている絵画はほぼみられない、とイートンは述べる。こうした非対称性は、女性の性的側面のみを強調する女性のヌードというジャンルに特徴的であるとイートンは指摘する。

2. 膨大な女性のヌード

 男性のヌード作品と比べて、女性のヌード作品は圧倒的に数が多い。それを傍証するように、芸術において、「ヌード」と言えばふつう女性のヌードを指す。こうした大量の女性のヌード作品によって、「性的なモノとしての女性」という女性のステレオタイプ化が行われている可能性をイートンは指摘する。

3. ヌードのマナー

男性のヌード作品もまた多く存在する。しかし、それらは性的モノ化されるような描写の仕方では描かれてはいない。イートンの例をみてみよう。

アントニオ・ポッライオーロ『Battle of the Nude Men』1465–75年、42.4 x 60.9 cm*5

ドミニク・アングル『Oedipus and the Sphinx』1808–27年、油彩、カンヴァス、189 x 144 cm、ルーヴル美術館*6 

オーギュスト・ロダン『考える人』1902年、ロダン美術館、パリ*7

女性のヌードは伝統的に描かれた女性を性的モノ化してきた、これに対して、男性のヌードは性的モノ化されていない。活動的で、強靭で、知的なものとして描かれている。

4. 女性芸術家の排除

ここで、イートンは、個別の表象ではなく、芸術を取り巻く環境に注意を向ける。彼女は、こうした女性の肉体の表象の豊富さと裏腹に、女性が芸術から排除されている点を指摘する。まず第一に、イートンは女性芸術家の排除を指摘する。近代や現代の女性芸術家の作品が芸術作品の正典としてあげられることはほとんどない。第二に、彼女が指摘するのは伝統的に女性によって作り出されてきた服飾やキルト、針仕事、陶器といった人工物はこれまで真剣に芸術作品として扱われてはこなかったことである。

こうした現象は直接個別の女性のヌードと関連するわけではない。しかし、「偉大な美術館に足を踏み入れたとき、芸術史の教科書を開いたとき、女性はクリエイターとしてではなく、たんに身体とのみ結びつけられており、そこから男性がマスターピースをつくりだすような生の素材として結びつけられている」とイートンは語る。こうした点から、女性芸術家は、芸術から排除されているとイートンは主張する。

まとめ

女性のモノ化の表象は女性のヌードと呼ばれる。女性のヌードは、男性のヌードと比較して、つねに女性を主体性がなく、受動的なモノとして描いている。このモノ化は、女性を第一義的に性的なモノとしてみなすメイル・ゲイズを通して、魅力的なものとして鑑賞される。西洋における女性のヌードの伝統は繰り返されることで、メイル・ゲイズを強化し、ステレオタイプな女性像を作り上げてゆく。そして男性の支配と女性の従属はエロス化される。このことによって、女性の従属がもたらされる。イートンがこれまで解説してきたのはこうした関係性である。翻って、ここで、女性の従属は道徳的に問題があるとされたとき、女性の従属をもたらす原因のひとつである男性の支配と女性の従属はエロス化は問題があることになる。そして男性の支配と女性の従属のエロス化をもたらすメイル・ゲイズには問題があり、さらに、メイル・ゲイズを強化する女性のヌード作品には問題がある。以上が女性のヌードがフェミニズム批評において問題視されている理由だ。

イートンは「あらゆる女性の裸体の表象=わるい」と言ってるわけではなく「西洋の芸術史のうちの女性のヌードという視覚的表象のジャンル」は男性の支配と女性の従属という関係を芸術の名のもとに美化してしまうために問題があるとする。こうしてフェミニズム批評の問題意識が決して不条理ではないことを示そうとしている‬。

疑問

イートンは時折、「女性のヌードは女性をモノ化する」と述べているが、この表現はイートンの主張をぼやけさせてしまうおそれがある。モノ化はつねに行為者とモノ化される対象のあいだで起こるために、女性をモノ化しうるのは特定の芸術家であって、女性ヌード作品ではないはずだ。ある表象がある女性をモノ化するという表現は、あたかもある表象が人格をもち、女性に対してモノ化を行なっているようだが、それはイートンの主張との関係では適切でない表現のように思える。なぜなら、女性のヌードが女性をモノ化するという表現は、女性のモノ化が自動的に起こるという印象を与えてしまうからだ。イートンが結論としてあげているように、女性のヌードが女性をモノ化することそれじたいに問題があるのではなく、女性を第一義的に性的なモノとしてみる見方との関係において問題視されていることに注意を払う必要がある。

メイル・ゲイズについて疑問がある。たしかに、「女性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」が存在していること、そして、反対にこうした見方と比べれば「男性を第一義的にその見た目や性的魅力に還元するような見方」はそれほど普遍的な見方でもなければ、男性のアイデンティティを形成する見方でもないだろうことは、統計的事実というより日常的な常識としては確認できる。しかし、こうした無意識の意図をあぶり出すような指摘は、ときにどんな対象にも適用できるような恣意的な道具となるかもしれない。ゆえに、イートンが行ったように、こうしたメイル・ゲイズという枠組みが突飛なものでも恣意的なものでもないことを確認すること、そしてどのような限界や批判がありうるのかを調査していくことを今後のわたしの課題としたいと思う。

A. W. イートン「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」PART I

 芸術的価値の周辺を探索しています。

Art and Pornography: Philosophical Essays

Art and Pornography: Philosophical Essays

 

 『芸術とポルノグラフィ』に収録のA. W. イートンの「(女性の)ヌードのなにがわるいのか」*1

裸婦画に代表される「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」としての「女性のヌード(作品)」の問題を扱っている。
この論文の目的は、こうした「女性のヌード」がなぜフェミニズム批評のなかで問題となってきたのかを、フェミニズム研究のうちでの暗黙の了解を前提とせずに説明することだ。
著者のイートンはこう語る。

残念ながら、女性のヌードに関するフェミニスト研究は、「釈迦に説法」のかたちをとりがちである。つまり、既にその考えを受け入れる気になっているフェミニストに向けて言葉が発せられがちである。(279)

そこでイートンは、ヌスバウムのモノ化の記述を参照して具体的な芸術作品を分析し、女性のヌードがなぜ問題になるのかを説得的に描き出そうと試みている。

なぜ問題なのか:ヌードと従属

前半では、まずフェミニスト批評の問題設定を説明し、つぎに、そうした問題設定は誤りであるとする反論に答えている。ここでは問題設定を取り上げよう。イートンが取り上げるのは、「女性の従属(subordination)」の問題だ。「従属」概念の説明は文中にないため、説明を補っておく。

「女性の従属」という用語は、女性の劣勢な地位、 [社会的]資源や意思決定へのアクセスの乏しさ……を指す。したがって、女性の従属とは、女性の男性に対する劣勢な地位を意味する。無力感、差別、制限された自尊心と自信の経験は、組み合わさることによって女性の従属をつくりだす。したがって、女性の従属は、権力関係が存在し、男性が女性を支配する状況のことだ。*2

こうした女性の従属がもしほんとうに女性を取り巻く状況を言い当てているなら、そして、性別に関する不平等を問題視するなら、女性の従属は是正すべき問題として設定できる。じっさい、わたしたちは女性に対する男性の支配的なあり方が、その逆の場合と比較した場合、いかにありふれているのかを日常経験的には確認できるだろうし、性別に関する不平等は是正すべきだと考えるはずだ。

イートンは女性の従属をつくりだしている主要な原因のひとつとして「男性の支配と女性の従属」の「エロス化(eroticization)」をあげる。エロス化とは、イートンによる説明から考えるに、「あるものを性的に魅力的なものとすること」だ。これは何が問題なのか?

問題は、不平等性だ。男性が女性の従属を性的に魅力的なものとみなすように、女性もまた従属をじしんの女性としての性的魅力として自己理解する。女性は、男性への従属という不平等な関係のなかで女性としてのアイデンティティを形成する。女性の従属を問題視するならば、それ引き起こす一つの原因である「男性の支配と女性の従属」の「エロス化」も問題視すべきだろう。

「 男性の支配と女性の従属のエロス化」はどのようにして行われるのか。イートンはその主要な原因のひとつとして「女性のヌード」を取り上げている。ここで「女性のヌード」は「衣服を脱いだ女性の体を第一義的な主題とする芸術的表象のジャンル」を意味する。イートンは「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」のエロス化の重要な原因のひとつであるためにフェミニスト批評の対象となると主張する*3

イートンの主張を説得的に示すためには、次の二項関係に関する問いを明らかにする必要がある。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属-女性のヌード
  • 問い:女性のヌードはいかにして男性の支配と女性の従属をエロス化するのか?

 この問いに取り組むため、イートンは「性的モノ化」という概念を導入する。イートンは、女性と女性のヌードのあいだに性的モノ化の契機を見出す。

性的モノ化について

イートンヌスバウムのモノ化の議論を紹介する。

「モノ化」とは「ほんとうはモノではないものをたんなるモノとして扱う」ことである。マーサ・ヌスバウムは、概念的に異なるモノ化の意味を指摘した。彼女によれば、モノでないひとをモノとしてとりあつかう(treating person as an object)ということには、次のような異なる意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。*4

そして、Rae Langtonの三つのモノ化の意味が加えられる。

  1. 体への還元(Reduction to body)。体や体の部分と同一のものとして扱う。
  2. 見た目への還元(Reduction to appearance)。第一義的に感覚に対してどのように見えるかという観点から扱う。
  3. 沈黙化(Silencing)。沈黙したもの、話す能力が欠落したものとして扱う。*5

そしてイートンによれば「あるまとまりの絵画や他の表象的な作品はモノではないものをモノであるかのように、とくに、性的な(sexual)モノであるかのように表象する」とされる。しかしどのようにして視覚的表象は女性をモノとして表象するのか?こうしたモノ化の表象は実際にどのようなものなのか。ここではイートンによる分析の一部を取り上げよう*6。まずイートンはジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』(1510)を例にとる。

ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』(1510)油彩、カンヴァス、108.5 cm × 175 cm、アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン*7

ジョルジオーネの『眠れるヴィーナス』は横たわったヌードのすべての伝統のプロトタイプである。人物の体の態勢は眠りによっては説明できない注目すべき脆弱性とアクセス可能性にによって特徴づけられる。むしろ、このポーズの機能は脆弱性を強調し、性的に敏感な部分への最大限の視覚的なアクセスをもたらすことにある。……彼女の主体性は彼女の意識の欠落が完全な受動性と脆弱性を強調するに限って重要であるに過ぎない。

イートンの記述に基づけば、こうした人物はただ彼女の性的な器官の強調によって、「見た目」や「体への還元」が行われ、「主体性は最小化されるかその痕跡も消去されている」ために、「自律性の否定」や「不活性」の強調、さらには「主観の否定」が行われている。

あるいは、女性のヌードが画題に関係なくごく単純に眼を愉しませるためだけに用いられている例がある、とイートンは指摘する。

ティツィアーノ『The Bacchanal of the Andrians』(1523–1526)油彩、カンヴァス、175 cm × 193 cm 、プラド美術館マドリード*8 

 お馴染みの脆弱で露わなポーズが目に入ってくるが、物語世界の出来事のなかで何の役割も果たしていないし、コンポジションのなかに明らかに統一されてもいない。このジャンルにおける多くの作品のようにヌードは性的な目の保養(sexual eye candy)以外の何物でもない。

このように、絵画における女性のヌード作品のいくつかは⑴女性の性的モノ化の表象であり、そして、それによって⑵鑑賞者に視覚的な性的快を供給するものであることが示された。

以上、モノ化概念の導入によってはじめの二項関係では明らかではなかった新たな関係が明示された。

  • 二項関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-女性のヌード
  • 性的モノ化関係:男性の支配と女性の従属のエロス化-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

性的モノ化を読み取る

分析によって、いくつかの女性のヌード作品は、性的モノ化の表象であることが示され、これにより、 女性のヌード作品の第一義的な機能が視覚的にエロティックな快の供給にあることが明らかになった。だが、性的モノ化の表象である女性のヌードが鑑賞者にエロティックな快の供給を可能にするにはある「ものの見方」が必要になる。というのも、モノ化の表象はただのモノ化の表象でしかないからだ。

たとえば、犬が『眠れるヴィーナス』を眺めても「 エロティックな快」を得ることはない。物心のついたばかりの子どもが見ても、異様なものを発見した喜びではしゃぐだけだろう。性的モノ化の表象を性的に魅力的なものとして読み取る見方が必要なのである。

つまり、次の関係が暗示される。

  • 男性の支配と女性の従属のエロス化-読み取り-〈性的モノ化の表象としての女性のヌード〉-女性

前半の紹介でこのエントリを終える。次のエントリでは読み取りを可能にする見方について紹介されるだろう。

*1:Eaton, Anne W. "What’s Wrong with the (Female) Nude?." Art and Pornography: Philosophical Essays (2012)

*2: Sultana, Abeda. "Patriarchy and Women s Subordination: A Theoretical Analysis." Arts Faculty Journal 4 (2012): 1-18.

*3:この主張に対する反論のひとつをイートンは紹介している:「 「女性のヌード(作品)」は「女性の従属」の重要な原因のひとつではない。なぜなら男性の支配性と女性の従属性のエロス化は文化ではなく、適応進化によるものだからだ」とする反論である。曰く、わたしたちの先祖は支配的な男性を選好した。なぜなら支配的な男性と従属的な女性のペアは 生存に有利だったからだ。ゆえに、「男性の支配と女性の従属」のエロス化は支配的な男性と従属的な女性のペアをつくりだすために生存戦略上有益であり、今もなおわたしたちの脳に刻み込まれている生理学的かつ心理学的なセットアップだ。つまりわたしたちは遺伝的に性的に平等ではないのであり、その道徳性は云々できない。かつまた、 「男性の支配と女性の従属」 という構造は遺伝的にそう振る舞うように定まっているためにそれを女性のヌードがつくりだすわけではない。ゆえに女性のヌードは問題にはならない。こうした反論に対し、イートンは応答する。仮にわたしたちの性的選好が確かにそのように形成され深く刻まれているとしよう。だからといって、それが「道徳的に正しい」とは言えない。遺伝的に定められていようといまいと女性の従属化は道徳的に問題がある。さらに遺伝は人間の振る舞いの唯一の決定要因ではない。文化的な観念、価値、趣味などが複合的に振る舞いをつくりあげる。ゆえに、 「男性の支配と女性の従属」のエロス化は道徳的に問題があり、さらにその原因である 「女性のヌード(作品)」もまた問題がある。

*4:翻訳は、江口聡「性的モノ化と性の倫理学」『現代社会研究』第9 (2006): 135-150.)を参照。

*5:Langton, Rae (2009) “Autonomy Denial in Objectification,” ch. 10 in Rae Langton, Sexual Solipsism (New York: Oxford University Press), pp. 223-40.

*6:イートンは計15作品を取り上げ分析している。

*7:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Giorgione_-_Sleeping_Venus_-_Google_Art_Project_2.jpg#mw-jump-to-license

*8:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Bacanal_de_los_andrios.jpg#mw-jump-to-license