Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

J. グラント「隠喩と批評」

キャロル『批評について』に触発され批評の周辺を探索しています。

 

取り上げるのは、ジェームス・グラントの論文「隠喩と批評」(2011)。

この論文では、なぜ芸術批評においてしばしば隠喩が用いられるのか、批評家は隠喩によって何を達成しているのかが問われる。

前半ではまず分析のための道具を準備する。隠喩の性質に関してグラントが提唱する「ミニマル・テーゼ」が取り上げられる。いくつかの批判に応答することで、その理論を批評の分析に用いてもよいことを示す。後半では批評家が隠喩を用いて何をしているのかを実際の例を挙げて記述しつつ前半で擁護したミニマル・テーゼを用いて分析する。

似ている性と似させるもの

まず、隠喩一般を説明するミニマル・テーゼ(Minimal Thesis)とは次のような主張だ*1。 

  • 例外をのぞいて、隠喩の対象隠喩的要素によってもっていると特徴づけられるそれぞれの性質は、(i) 隠喩的要素によって指摘される似ている性、あるいは(ii) 隠喩的要素によって指摘される似ている性についての似させるものである*2

 ロミオが「ジュリエット! 明るく、美しい君は太陽だ!」と述べたとしよう。このとき、隠喩の対象(subject)は「ジュリエット」、隠喩的要素(element)とは「太陽」である。そして、隠喩的要素によって指摘される似ている性(likeness)とは、「太陽に似ている性」である。最後に似させるもの(likeness-maker)とはある隠喩の対象に対して似ている性を与える要素のことである。ここでは、「太陽に似ている性」をもたらすジュリエットの「明るさや美しさ」といった性質のことであるとされる。以後の批評の分析においてこの似ている性と似させるものの区別が活躍する。まとめれば、似させるものが似ている性をもたらす

次にグラントはこのミニマル・テーゼを擁護する。「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とするシブリー、スクルートンを取り上げ、彼らをグラントのミニマル・テーゼに批判的な立場になりうる隠喩に関する非実在論者とみなして応答する*3。だが、隠喩が実在するなんらかの性質を隠喩的対象に帰属させているかいないか、どちらの立場をとるにせよ、ミニマル・テーゼは成立しうるとされる。

隠喩の二つの種類:似ている性と経験

後半では、ミニマル・テーゼを用いて批評家がなぜ隠喩を用いるのかが分析される。分析のためにグラントは詳細な例をいくつも挙げておりそれぞれ魅力的なのだが、ここではそのすべてを紹介することはできない。彼の結論をまず提示しよう。

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞者に与える経験を知覚、想像、想起させるため
  1. 批評家は、作品を記述するにあたって、しばしば諸性質を帰属させる。なぜなら対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれているからだ。翻って、鑑賞は、しばしば特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えることを知覚・認識することを伴う。批評は、隠喩を用いることで、 特定の諸性質が対象に特定の似ている性を与えていることをわたしたちに理解させることができる。これが批評家がしばしば隠喩を用いる理由の一つである。
  2. 批評家は、読み手に、対象がもつ特定の諸性質の知覚、認識を引き起こすことを欲する。 それは、対象に諸性質があることを知覚、認識することが鑑賞のなかに含まれている場合、すなわち、この経験[知覚・認識することそれじたい]を正確に想像したり想起することが 鑑賞のなかに含まれている場合である。だから、批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起してもらうことを欲する。隠喩を用いること、とくに新しい隠喩を用いることは、これらの狙いを達成する効果的なやり方である。このような隠喩を理解するには、当該の対象を知覚し、知覚を想像したり想起させたりすることなしでは困難なことが多い。したがって、こうした隠喩を用いることで、批評家は、彼女が望むものを知覚、想像、または想起させるよう読み手に対して促すことができる。さらに、隠喩は非常に特定的(specific)なものであるために、読者がこの経験を非常に正確に想起したり想像したりすることを保証しうる。

まず 1について説明しよう。これは隠喩のオーソドックスな使い方である。「似ている性を指摘する隠喩」と言える。

たとえば、グラントも例示しているように、ベルニーニ設計によるサン・ピエトロ広場の石柱(下図)について考えよう。これはしばしば巡礼者をかき抱く両腕に似ていると指摘される。批評家が「サン・ピエトロ広場は敬虔な巡礼者たちをつつむ大いなる手である」と隠喩を用いたならば、それは、サン・ピエトロ広場がもつ「楕円形」や「大きさ」といった似させるものが、巡礼者たちをかき抱く両腕に似ている性をもたらしていることを指摘しているのだとされる。そして、サン・ピエトロ広場を鑑賞するにあたり、こうした似ている性を知覚することがたしかに必要なのだ。

サン・ピエトロ広場*4

次に2について説明しよう。これは「経験を指摘する隠喩」といえよう。たとえばグラントはクラークによるラファエロ作品評を紹介している。

リズミックなカデンツが全体の構成を貫いている。上昇し、下降し、止まり、解放される、完璧に構成されたヘンデルのメロディのように。右から左へと……[エンジンに炭を注ぐ]火夫のような「川の神」が、英雄的な漁師たちの一群[覗き込む二人の漁師]へとわたしたちを突き入れる。彼ら一群の複雑な動きは、力の発条を巻き上げる。立っている使徒との巧みなつながりが現れる。彼の左手はとなりの漁師のはためくドロープの後ろにある。そして聖アンドレ[四人目]は句切れを、一連の流れのクライマックスを形成し、わたしたちの推進力を弱めることなく引き留める。と、最後に、驚くべき加速、聖ペテロの情熱的な動き。すべての装置はこのための準備だった。最後に、キリストの慰めの姿。聖ペテロの思いを確かめそして受け入れる手*5

ラファエロ『奇跡の漁り』(1515-1516)(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)*6

このクラークの批評は、絵画を鑑賞した際に体験される流れるような動きと静止のリズムの経験を読み手に与えるために隠喩が用いられる実例である。まず冒頭から、カデンツ(安定した響きから緊張した響きに移行し、最後にふたたび安定した元の響きに戻るという音楽的な流れ)を隠喩的要素として用いている。なるほど、漁師たちの動きが作り出す輪郭はまるでメロディのように上下している。はじめ火夫と隠喩された男から徐々に上昇してゆき、聖アンドレが一瞬進行を止める。次の瞬間、聖ペテロの祈りの姿勢へと下降しそのキリストへの祈りが強調される。このようにわたしたちがこの絵画を経験することを狙って、クラークは全体を音楽的な隠喩で覆っていることがわかる。

また、グラントによれば、クラークは、1. のように、ラファエロのこの絵画が音楽的であること自体が鑑賞に含まれているためにこのような隠喩を用いているのではなく、あくまで、ラファエロの絵画が鑑賞者にもたらす経験を指摘するために、その資源として隠喩を用いているという。「音楽的な進行」や「メロディ」といったよりわたしたちに馴染み深く了解可能な表現、すなわち、明白で特定的(specific)な記述を隠喩として用いることによって、より伝達が難しい「奇跡の漁りを鑑賞することによる経験」をうまく指摘することができるのだ。

グラントはこうした隠喩によって、「批評家は、鑑賞(行為)のうちに含まれているような対象に対するある種の反応を読み手が経験し、あるいはその経験を正確に想像し、あるいはその経験を想起」することを達成していると指摘する。

まとめと疑問

批評家は次の二つの目的をもって隠喩を用いている。

  1. 読み手に作品がもつ似させるものとそれがもたらす似ている性について気づかせるため
  2. 読み手に作品が鑑賞に与える経験を知覚、想像、想起させるため

はじめに隠喩の概念を明示することで、統一のある分析を行っており、なおかつ具体例を豊富に扱っているために、説得力のある魅力的な論文となっている。彼の分析は、批評文を書く際に行われている行為を整理することによって、批評実践の理解にも寄与していると言えるだろう。

だが、疑問もある。グラントがあげた例は、「行儀のよい隠喩」のみであるように思われる。その意味は時間をかければ理解できるし、あいまいさもそれほどみられないような隠喩である。わたしたちが当惑するとともに魅入られるような理解しがたい「不思議な隠喩」もある。これはたんに「行儀のよくない隠喩」なのだろうか。それともこうした隠喩でしか達成できないような目的があるのだろうか。それは、似ている性の指摘や、鑑賞がもたらす経験の指摘以上のものなのだろうか。このような芸術批評における「不思議な隠喩」が何を意図して用いられているのかについての分析が必要だろう。

*1:以下の似ている性、似させるものという訳は、フォーマルに訳せば「肖似性」、「肖似にするもの」とできるかもしれないし、隠喩に関する議論において定訳が他にあるのかもしれない。

*2:四つの例外が挙げられている。

  • ⑴似ていないことを示す場合。例:「人間は誰も島ではない」
  • ⑵似させるものの所有の仕方が複数の可能性の中でのある一つの仕方である場合。例:「サリーは氷の塊まりだ」においてサリーの情動的な無反応性がサリーに帰属させられている。無反応性は「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」だ。情動的な無反応性は無反応性ではある。しかし、情動的な無反応性はそれじたいでは「氷の塊まりに似ている性」に関する「似させるもの」ではない
  • ⑶ある性質がある仮構の似ている性についての似させるものである場合。例:「バートはゴリラだ」において似させるものはバートの凶暴性であろう。しかしゴリラはそのように信じられてはいるものの、実際には凶暴性をもたない。
  • ⑷隠喩が隠喩の対象に対して、ある種Kについての似させるものを帰属させるが、その似させるもののF性は伝達しない場合。例:「カンディンスキーの絵画のフォルムはすべて動きとともに生き生きとしている」。このとき、「形が生き生きとしている性(あるK)をもつ」と指摘されているものの、その「生き生きとしている性をもたらす性質F性」については言及されていない。

    *3:たとえばスクルートンは、「この音楽は悲しい」という例を取り上げている。彼によれば、これは「彼女は悲しい」という表現と同じように、音楽を人格化して「音楽が悲しんでいる」ことを隠喩的に指摘しているのだとされる。しかし音楽は実際悲しんでなどいない。ゆえに「隠喩は作品にいかなる性質も帰属させてはいない」のであり、「そのように見える」という観点の主張に他ならないとした。しかしグラントによれば、「この音楽は悲しい」という表現が隠喩なのかがそもそも怪しい。この表現は「この音楽はわたしたちを「悲しくさせる」」という因果関係を指摘するものであって隠喩ではないと反論する。ゆえに、「隠喩は隠喩的対象に似ている性や似させるものを帰属させてはいない」とする立場には疑問が残るとする。

    *4:https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:St_Peter's_Square,_Vatican_City_-_April_2007.jpg#mw-jump-to-license

    *5:Clark, ‘Raphael: The Miraculous Draught of Fishes’, 64–65.

    *6:https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:V&A_-_Raphael,_The_Miraculous_Draught_of_Fishes_(1515).jpg

  • ノエル・キャロル『批評について』

    『批評について』について

    アメリカはニューヨーク市立大学に勤めている著名な美学者ノエル・キャロルの著作『批評について』(邦訳:2017年 原著:2009年)は次のひとつの問いを問うています:「批評とは何か、そしてそれはどのようなものであるべきか」。

    批評とは何かを問う彼の意図は、同時代の批評家が作品への価値づけから撤退していることに異を唱え、価値づけに関わっていく批評の、そして批評家のありうべきあり方を説得的に示すことにあります。過剰なレトリックに頼ることなく、印象批判に陥らないよう注意しながら、前提にもとづいて主張し、予想される反論に対して応答し、さらに再反論とぶつかり合うことによって議論が進められ「批評とは、理由にもとづいた価値づけである」との主張が展開されます*1

    四つの主張

    キャロルは、批評について、四章にわたって、おおきく四つの主張を行なっています。

    一つ目は、批評とは理由にもとづいた価値づけであるという主張。批評とは、たんなる主観的な好き嫌いの表明ではなく、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析といった根拠を用いたある種の論証であり、その当否が議論できるような活動なのだということが主張されます。

    二つ目は、批評の対象は、芸術家の行為であるという主張。作者の意図に関係なく、作品が鑑賞者に与えた価値、すなわち「受容価値」ではなく、作者が意図をその作品やパフォーマンスにおいてどのように達成しているか、すなわち「成功価値」が批評において取り扱われるものであるとされます。

    三つ目に、価値づけのための理由を構築する記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析という六つの批評の要素があるとする主張。

    最後に、批評とは、客観性を伴った活動でありうるという主張。「蓼食う虫も好き好き」といった諺のように批評の原則は存在しないとする前提に挑戦し、絵画や映画といった芸術のカテゴリー、あるいはミステリやスラップスティック・コメディといったジャンルに基づいた客観的な批評がありうると主張します。また、芸術のカテゴリー間の比較………たとえばスラップスティック・コメディとクラシック音楽、システィナ礼拝堂と天才執事ジーヴス……の可能性を文化批評とも絡めながら議論しています。

    コメント

    批評家、アーティスト、理論研究、どんな立場から読んでも、各々の活動につながりうる有益なヒントと、じぶんが取り組むべき問題を引き出すことができるでしょう。また、本書で行われる議論のスタイル……主張を提示し、反論にカウンターを行い、相手の急所を突くなかで協同的に議論を洗練させてゆく……といった攻防はなかなかに魅せます。美や芸術といった、感性がものをいうと言われる世界に言葉と論証で切り込んでいく姿は頼もしく、その技を盗みたくなります*2。また、キャロルのあげる作品は多岐にわたり、さらに具体例も豊富で、彼の興味は作品から遊離した空理空論を組み立てることではなく、実践の捉え直しと整理整頓にあることが見てとられます。付言しておけば、本書では冒頭でかるく言及されるにとどまっているものの、美学や芸術の哲学においては、芸術の定義*3、それから芸術という概念の歴史*4について魅力的な論争が見られます。

    On Criticism (Thinking in Action)

    On Criticism (Thinking in Action)

     
    批評について: 芸術批評の哲学

    批評について: 芸術批評の哲学

     

    *1:原著で読みました。邦訳は訳注も充実しています(ちゃんと読みます)。

    *2:あと、相手をむやみに煽ることのない、落ち着いた言葉遣いも真似してみたいと思わされました。キャロルといい音楽哲学で著名なキヴィといい、この世代の方の英語はお洒落で好きですね。

    *3:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/09/30/170505

    *4:http://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/08/16/215904

    2018年2月の本

    2018年2月よかった本をメモしておきます。

    メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

    メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

     

    『メタ倫理学入門』

    ほうぼうで絶賛されている本。噂に違わぬよさでした。理論のだらっとした羅列ではなく、動機と背景とのくっきりした提示はありがたいですね。各章のまとめとして挿入される立場のチャートが記憶や整理に非常に役立ちます。

    最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

    最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

     

    『最後にして最初のアイドル』

    三作品に共通する主人公の「身体へのこだわりのなさ」に注目したいです。ふつうわたしたちはいまのまま健康であることや身体がそのままであることに気をつかいます。健康や維持自体が目的になっています。健康なほうが嬉しいし、変化がないほうが、なじみがいいですよね。

    でも、この作品では、身体があっけなく改造されていきます。

    その描写に、身体へのこだわりに優先さるべき目的へのこだわりの強さを見て取ることができます。目的とは、ときに、アイドルであることであったり、強大な勢力へのレジスタンスであったり、生き延びることであったりします。

    こうした目的への意志がどれほどにつよいのかが、ふつうわたしたちが気づかうような身体への無頓着さから見て取ることができます。なるほどこれらの意志のすべてに共感するかどうかと言われれば難しいです。しかし、その意志のつよさ自体がわたしには美的なものと思われ心惹かれるのです。

    こうした「つよい意志」が現時点での草野作品に現れていて、わたしはそれをとても好ましく思いました。

    現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

    現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

     

    現代思想 分析哲学

    秋葉剛史、倉田剛、太田紘史、森功次らの論考を読みました。あとは読みかけも読みかけです。

    いいところは、各分野の最新の議論が紹介されていて勉強になるし、それらの魅力的な書きぶりから、じぶんでも考えてみようと思わせられるところですね。森田邦久による時間論を友人と読んでわけわからん……ちょっとわかった……と楽しんだりしました。

    わるいところは、どのテーマもあんまり魅力的で、やるべき作業をほっぽって、つい調べ始めてしまうところですね。

    ただ、わるいばかりでもなく、美学の問題に取り組んでいるものとしても、他分野の議論の道具立ては参考になるものがいっぱいで勉強になるのです。というのも、分析哲学系の各分野では、異なる分野の議論の流れや動機にある程度互換性があり、同時に、流用した道具立ての適用のうまくいかなさから各分野の特殊性や自分野で取り組むとおもしろそうな問題に気づけたりするのです。

    SEP:社会的構成への自然主義的アプローチ

    イントロダクション

    社会的構成(social construction)、構成主義(constructionism)、構築主義(constructivism)は、人文社会科学の分野で幅広く使われている用語であり、感情、性別、人種、性別、ホモ・セクシュアル・ヘテロセクシュアル精神疾患、技術、クォーク、事実、現実、真実といった幅広い対象に関して用いられる。社会構成主義は、おおまかに言えば、こうしたいっけん自然な事実であるようにみえる概念たちが社会的要因によって構成されていることを主張する立場である。このような用語はさまざまな言説においてそれぞれの役割を担っており、そのいくつかは哲学的に興味深いものの、「自然主義的(naturalistic)」なアプローチを採用しているものは少ない。ここで、「自然主義的アプローチ(naturalistic approach)」とは、科学を中心的な、そして(ときおり誤りうるにしても)成功しているような、世界についての知識の源として扱うようなアプローチのことである。対して、社会構成主義の核となるアイデアがあるとするなら、それは、自然要因よりもむしろ社会的または文化的要因によって、ある対象が引き起こされたり制御されたりするというアイデアである。また、社会構成主義的研究のモチベーションがあるとするなら、それは、ある対象は私たちの制御の下にあるか、あるいは制御されていたということ、それらは制御できうるだろうし、できえていただろうということを示すことにあるだろう。
    けれども、こうした社会構成主義において採用されているような考えは、もしそれが正しいならさまざまな対象の由来を明らかにできる点で有用であるように思われるが、決して利点ばかりと言うわけでもない。もし社会構成主義が正しく、それが主張するように、世界についてのわたしたちの表象(representation)(=観念、概念、信念、そして世界についての諸理論)が世界以外の要因やわたしたちの感覚的経験によって決定されるのだとしたら、表象されあるいは突き止められたはずの独立した現象に対する信頼は失われ、どのような表象が正しいのかという事実が存在するという考えも損なわれる。そして、われわれの側の理論によって世界の非表象的な事実が決定されるのだとすれば、認識的活動の成功という考えによって前提されていたはずの表象と現実との間の「適合の方向性」が逆転してしまう。
    これらの理由から、さまざまな対象の偶然性や恣意性を強調する構成主義の支持者と必然性や真理を重視する反対者とは、現代哲学の戦場で、自然主義という主題をめぐる戦いを繰り広げてきたと言える。
    しかし、同時に、社会構成主義者の主題は、自然主義者によって、その社会構成主義的なラディカルな反科学的および反実在論的な論題を避けながらも、構成主義者の手によって記された興味深く重要な文化的現象を、科学的な知見に適合することが試みられてきた。
    本論では、社会構成主義自然主義とを紹介しながら、ある点で対立するふたつの異なるアプローチについて議論し、その後、ふたつのアプローチの統合について若干の議論を行う*1

    f:id:lichtung:20180116031015p:image

    第1章 社会的構成とは何か

    社会的構成(social construction)とはなんだろうか。もっともシンプルに言えばそれは次の二項関係に表せる。

    • XはYを社会的に構成する

    それでは、構成するXとは何か? 構成されるYとは何か? そして構成するとは何か? これらを第1章では順に問うていくことにしよう。

    第1節 何が構成するのか

    これまで哲学者たちは「何が構成されるのか(観念? 知識? 事実? 人間本性?)」という問いについて注意深く考察してきた。しかし、「何が構成するのか」という問いについて同じだけの注意が払われることはなかった。だが、もし自然主義的な立場に立つならば、何が構成するのかも同じだけ重要であるはずだ。ここではまず「構成するX」について考えよう。ここで、Xは作用因(agent)と呼ばれる。作用因はおおきくふたつに分類することができる。

    1. 非人称的(impersonal)な作用因:非人称的な作用因とは、文化、慣習、直観といった対象である。もっとも影響力のあるものはトマス・クーンによって主張されたような考えである。クーンによれば、ひとがなにを見るのかは、そのひとが「いま見ているものとそれ以前の視覚-概念的経験が見させるもの」の両方に依拠する。また、トマス・ラカーによれば、性によって区分されたふるまいは、生物学的な要素よりも、性の概念の要素に起因するとされる。
    2. 人称的(personal)な作用因:人称的な作用因とは、人間そのものである。これは人間の選択によってなにかが構成される重要性を強調する立場であると言える。たとえば、(a)アンドリュー・ピカリングやイアン・ハッキング。科学理論の選択や実験測定、研究価値の評定における科学者の判断の役割の強調にみられるような立場がこれにあたる。また、(b)批判的構成主義者は、公的に認められた表象の内容を決定する際の人称的な作用因の受益や権力関係を強調した。チャールズ・ミルは、ジム・クロウ法に見られる黒人とそうでない人間との区別を批判し、人間の分類における恣意性を指摘した。そしてその恣意性が権力やひとびとの利益と関係している可能性を示し、人称的な作用因を重視した。

    第2節 何が構成されるのか

    次に「構成されるY」のについて考えよう。大きく3つのものが挙げることができる。

    1. 表象(representation):観念、理論、概念、説明。
    2. 一般の非表象的事実(non-representational facts quite generally):法人、公的なライセンス、パーティ、時計。
    3. 特定の非表象的事実(special sort of non-representational facts):人間の形質(traits)、人間の本性(nature)。

    とくに最後の非表象的事実すなわち、人間の性質(性、情動的ふるまい、精神疾患など)が文化的に構成されるのか、自然的な過程に起因するのかがしばしば問われる。

    ここで、こうした構成されるものに関して、構成主義者がとる立場として大きく2つの選択肢がある。

    • 全体的構成主義(global constructionist):すべての事実が社会的構成物であるとする立場。
    • 部分的構成主義(local constructionist):ある特定の事実が社会構成的であるとする立場。

    前者は社会的構成主義自体の構成すら問題になってしまうため、多くの問題があるとされる。多くの社会的構成主義者はむしろ後者の立場をとっている。本稿でも議論されるのは、後者の部分的構成主義者がほとんどであると言ってよい。さて、ここで、述べられている事実について、さらに、構成されるものについてふたつの区別が指摘されている。

    • 覆いのない構成物(overt constructions):米国議員やドッグトレーナーのライセンス、法人など。
    • 覆われた構成物(covert constructions):精神、情動、人種、ジェンダーなど*2

    前者はそれとして、哲学的な興味を惹くものであり、たとえば法人概念の形成やその哲学的含意についてはさまざまな研究がなされうる*3。しかし本稿では議論になっているのは、後者の覆われた構成物についてである。

    社会的構成主義者はとくに後者の覆われた構成物が社会的に構成されるものとして示そうとする。こうしたものは、あたかも自然的対象のように思えるものの、はっきりと意識されていないような社会的実践によってこっそりと(covertly)構成されると構成主義者は主張する。けれどもその主張に関しては、後述するように自然主義者からの批判が加えられている。

    第3節 構成するとはなにか

    つぎに、構成するとは何かについて考えよう。ふたつの重要な関係があげられる。

    1. 因果的構成(causal construction):Xは次のときかつ次のときにかぎりYを因果的に構成する。XがYを存在させるかあるいは持続させるとき、もしくはXがYの種-典型的(kind-typical)な要素を支配するとき。
    2. 構築的構成(constitutive construction):XはつぎのときかつつぎのときにかぎりYを構築的に構成する。個体yに関して、Xの概念的なあるいは社会的な活動が、yがYであるために形而上的に必然であるとき*4

    前者について言えば、これは特別社会構成主義的ではない。ある家を因果的に構成するのは、さまざまな物理的な材料であり、それを組み立てる行為者たちであり、さまざまな道具や設計図である。こちらに不可解なところはない。しかし、構築的構成とはいかなる構成であろうか?  以下例を参考にしながら考えてゆこう。

    まず、構築的構成の候補としてあげられるのは、社会的事実(social fact)である。

    • 社会的事実:その現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築しているような事実。

    サールは『社会的現実の構築』(1995)のなかで、次のように述べている。

    社会的事実については、わたしたちがこの現象に向かってとる態度が、その現象を部分的に構築している……カクテル・パーティーの一員であることはカクテル・パーティーであることである考えられる。戦争の一員であることは戦争であることであると考えられる。これは社会的事実の顕著な特徴である。というのも、それは物理的事実(physical facts)のなかには類をみないからである。 (Searle 1995、33-34)

    サールの観点に基づけば、ある特定の人々の集まりは、集まっている人々がある概念的なそして社会的な認知を伴ってはじめて、カクテル・パーティになりうる。また、例えば、マイケル・ルート(Michael Root)(2000)も次のように述べている。

    Rがそこで人々を区別するために用いられる場合にのみ、ある場所においてある人がRである。このようなところで、Rが人種なのである。

    サールと似て、ルートは、人種という概念が人々を区別するのでなければ、なにも人種としてみなされえないと主張した。こうした理解から構築的構成の謎を明らかにすることができるだろうか。

    ここで、「どのようにして概念的実践(conceptual practice)が事実を構築するのか」のモデルが求められる。その明白なものは以下のようなモデルである。

    • 概念的実践による事実構築モデル:関連する必然性が分析的(analytic)であり、関連する語や概念の意味によって、概念的実践が事実を構築するとするモデル*5

    これはサールの例においては当てはまるように思えるが、社会構成主義が注目している対象の説明に用いることができるのだろうか。このような分析的な構築性のモデルが、社会的構成の対象に関して説明に用いることができるようなもっともらしいモデルかどうかを問う必要がある。

    さて、もう一度サールの例に戻ろう。一方で一般的な社会的事実に関するサールの説明は正しいように思われる。というのも「カクテル・パーティ」のように参加者が自分たちの行為について特定の意図の状態を共有している場合にのみ生み出されるような事例には枚挙に暇がない。他方で、構成主義者が対象とする覆われた構成物は、「カクテル・パーティ」のような覆われていない構成物が伴っているような参加者の意図が存在しない。こうした構成主義者が対象とする概念の特徴は、ある種類の概念のメンバーであるために社会的概念的な認可(imprimatur)を必要とするようなインスタンス(instance)(すなわち「カクテル・パーティ」といった覆われていない構成物でかつ参加者の意図を必要とするもの)は、こっそりと(covertly)構成された一般的な概念の一部には属し得ないということを示している。

    ここから、覆われた構成物についての批判が加えられる。こうした点からの批判のひとつに、Boghossianによる批判がある。

    電子、あるいは山というものの真の意義concept)の一部は、これらのものがわたしたちによってはつくられていないということにあるのではないか? 電子を例にあげよう。このような概念をもつ真の目的の一部は、わたしたちとは独立したものを示すためではないのだろうか?(2006、39)

    彼は、電子という概念について、そのような概念をもつ目的は、わたしたちと独立しているものを識別するためではないかと考えた。これの主張が正しいとすれば、構成を構築的関係とみなす構成主義者は、異なる説明を必要とする。というのも、覆われた構成物の場合、上にあげたような「概念的実践による事実構築モデル」を採用して、概念や言葉の意味から必然性が生じると主張するのは不合理であり、一貫していないだろうから。

    このように、社会構成主義者が取り沙汰するような構築的構成なる概念はこのままでは必ずしも現実をうまく説明できるような概念ではない。もし、構築的構成が正しいものであると主張するならば、構築性についての必然性以外の別の説明が必要になる。

    ここで、構築的構成の説明のヒントとなるようなモデルが紹介される。それは、問題になっている必然性が当該の現象についてのわたしたちの調査によって事後的(ア・ポステリオリ)に明らかにされると考えるモデルである。それはクリプキ(1980)、パトナム(1975)らが擁護するような次の理論である。

    • 指示の因果説(causal theory of reference):いくつかの用語(特に自然種の用語)がその用語の中心的な語法の根底にある何らかの物や本質を指示(reference)している。

    この説において重要なことは、指示関係が外在的であるために、語の熟達した使用者は、その用語が何を指示しているかについて根本的に誤っている可能性があったとしても、依然として首尾よく正しいものを指示することができるということである。たとえば、水の場合、パトナムは、「水」が、わたしたち自身の因果的歴史において、規範的なインスタンスと適切な因果-歴史的関係を持つようなものをピックアップすると述べた。それがどんな種類のものであったかを知らなかったときでも(すなわち、化学構造を知る以前でも)。クリプキ、パトナムらは、「水= H2O」などの命題は必然的であるもののア・ポステリオリな真理であることを強調した。

    こうした指示の因果説は議論の余地があるが、社会構成主義の解釈に寄与すると言える。というのも、たとえば「人種」などの特定の用語が、アポステリオリにのみ社会言語的行動によって生み出される種であると明らかになるのだとしても、そのような種を指示していたのだと主張することができる。

    こうした理論を採用する構築的構成主義者は、たとえば「人種」といったわたしたちの一般的な概念の一部であるとされるような概念が、電子と同じような世界についての独立した自然の事実を指示するような概念だとされていても、さらなる世界についての研究によって、わたしたちの実践の慣習的特徴によってそれが生み出されているのだと主張することができる。

    • 指示の因果説的な構築的構成:そうした事実がア・ポステリオリによってのみ明らかになるとしても、特定の語は社会-言語的なふるまいによって生み出された種のものをじじつ指示しているかもしれない

    こうした擁護がうまくいっているかはそれとして研究されなければならない。

    第2章 自然主義と社会構成主義

    第1章では社会構成主義の概要を紹介し、その理論的な難点について軽くふれた。以降第3章でそうした社会構成主義への自然主義的なアプローチを紹介する前に、本章では、自然主義とはどのような立場かについて紹介することにしよう。

    現在でも自然主義がどのような立場かについての統一した見解はみられない。しかし、科学に対する批判的な反実在論的態度としばしばセットになっている社会構成主義と科学的方法論を受け入れる自然主義とは、ある種のはっきりとした対立をかたちづくっているように思われる。
    そこで、自然主義を、それと社会構成主義とで争われている点を明確化することを狙って、科学に対する特定の立場として定式化しよう。こうした観点に基づくと、社会構成主義に対置される自然主義に大きく3つの特徴を見いだすことができる。

    1 認識論的基礎主義

    1. 科学との適合(Accomodating Science):あらゆる知識の科学的事実との適合性を必要とする
    2. 経験主義(Empiricism):ア・プリオリではなく、世界の研究によって知識は獲得される
    3. 因果モデル(Causal Modelling):世界は互いに関係する自然法則の集合である。世界を理解しようとするために、さまざまなレヴェルででこれらの関係を理想化する因果モデルをつくる。

    2 形而上的基礎主義

    1. 付随性(Supervenience):存在者には、より基礎的な、あるいはより基礎的でない存在者が存在する。そして、より基礎的でない存在者はより基礎的な存在者に付随している。多くの自然主義者は、基礎的な存在者とは物理的な存在者のことであると考えている。
    2. 還元主義(Reductionism):より基礎的でない存在者が関係している規則性は、そうした規則性が付随しているようなより基礎的な存在者が関係している自然法則によって説明される。

    3 人間的自然主義

    1. 非逸脱主義(Nonanomalism):人間やその生成物は、科学によって説明できるような世界のうちにある自然的対象であり、形而上的な、逸脱したものではない。
    2. 方法論的自然主義(Methodological Naturalism):人間の本性や人間の文化、社会生活を研究するにあたり、自然科学の方法論が採用される。

    第3章 社会的構成を自然化する

    第1章の第3節でみたように、社会的作用因による事実の生成は、その生成が因果的な構成として理解されているかぎり、自然主義者にとっても特別問題はない。けれども、対照的に、構築的構成による事実の生成の説明は、第2章で定式化したような自然主義的な立場からみると不十分な説明であるように思われる。
    こういうわけで、構成された現象に取り組む多くの自然主義者は、既存の科学知識に沿うような仕方で、構成主義者が関心を寄せる問題に因果モデルを与えてしまおうとする。本章では、このような自然主義的アプローチを例示するために、表象と人間本性(human nature)の社会的構築をより詳細に議論する。

    第1節 表象の社会的構成

    まず、「表象」とはなんだろうか。ひとびとが社会的構成の文脈で「表象の構成」について考えているとき、この場合考えられている表象とは、「精神状態、集団の信念、科学理論、そのほか概念や命題を表現するような表象」であるように思われる。事実、多くの論者のみるところ、構成主義者は、まず第一に、何らかの表象が構成されていると主張している点で共通している(例えばAndreasen 1998, Hacking 1999, Haslanger 2012, Mallon 2004)。

    それでは、こうした「表象の構成」について考えるとき、ひとびとは、「構成」についてはどう考えているのだろうか?

    まずは、ある特定の表象の構成について、すなわち社会全体で共有されているわけではない段階での、科学理論の構成について考えてみよう。

    例えば、ピカリング(1984)によってクォークの構成が叙述されるとき、あるいは、ラカー(1990)によって、性が構成されたものであると示唆されるとき、彼らはほとんど直接的に、クォーク理論や性の理論が生み出されるプロセス(構成のプロセス)について語っているように思える。(例えばLatour and Woolgar 1979 Collins and Pinch2012)。

    こうした社会構成主義者による「表象の構成の説明」は、ほんとうに社会的事実の「構成」のメカニズムやプロセスの説明になっているだろうか?

    哲学者の幾人かは、なっていないと答える。彼らにしてみれば、「構成主義者は、構成される対象(つまり構成される事実)そのものついて語る際、その対象に言及すべきときに、その対象を構成する表象のひとつを使って対象ついて語ってしまうという不注意な(あるいは意図的に挑発的な)誤りを犯している」のである。どういうことか。

    例えば、プトレマイオスが2世紀に天動説を提示したことを考えよう。たしかに彼はそのことで何らかの社会構成、すなわち「天動説」に貢献したと言える。こうした表象の構成について、その理論がどのように発生したのか、またその理論がどのように変化したのかについて触れることで説明できる。

    しかし、そうすることで、わたしたちは単にあるひとつの表象(または関連する表象)の発生や変遷についてのみ語っているに過ぎない。もしこれらの主張から飛躍して、「この理論を構成することによって、プトレマイオスが天動説的な宇宙観を「構成」したのだ」とすれば、それは端的に誤りである。なぜなら、プトレマイオスの理論は、ひとつの構成であるとはいえども、そうしたある表象そのものの解釈のみでは、社会的構成の産物として「天動説的宇宙観」が誕生したメカニズムやプロセスを明らかにはできないからである。

    ここで、第1章の第3節の議論が再び問題になる。そもそも社会的に構成するとは、いったいなんなのか? 因果的に構成されるわけでもない構築的な構成とは何か? 物理的事実の表象ではないとしたらいったいどのような対象の表象なのか?

    こうした表象の構成の問題に関して、それでは自然主義者はどのような態度をとっているのだろうか?

    自然主義者は、科学的表象、経験的観察が理論負荷的であり、科学理論はそれじたい数多くの社会的影響を被る対象であるのだとする社会構成主義者側からの批判に対し、「科学は、誤りうるとしても、世界についての知識を獲得するための中心的な方法でありうる」ことを説明しようとする。

    これはある意味で、社会構成主義者の言うような「存在しない物理的事実に関する表象が社会的に構成される」という説明に抗して「存在しないかもしれないとされている物理的事実に関する表象はそれでも自然的に説明されうるような仕方で構成される」ということを示そうとする試みである。

    そこで、社会構成主義的な表象の構成説に対する自然主義的な回答として、文化的につくりだされた認知の3つの標準的な自然主義的説明を紹介する。

    1. 文化的進化(culutural evolution):文化は集団遺伝学(population genetics)との類比によって理解しうる。そして、ある文化種(cultural items)は、人口の拡大の成功という点に基づいて成功の多少が理解されうる。これらの論者のほんの一部だけがじしんの研究を構成主義的研究に結びつけているが、いずれの場合も、そのプロジェクトは形式的に文化プロセスをモデル化し、複雑なプロセスをより単純なものにしたがって理解することである。
    2. 進化認知心理学(evolutionary cognitive psychology):文化を選択圧がはたらく表象のシステムとして考え、そしてこの考えを進化認知心理学に一般的な考えと結びつけようとする。その考えとは、精神は膨大な領域特異的(domain-specific)な心理的メカニズムによって構成されるものであるとする考えである。そして、これらを第一義的な選択のメカニズムとしてはたらく選択的メカニズムとして扱う立場である。
    3. 批判的構成主義の自然化(critical constructionism):批判的構成主義(critical constructionism)の中心的な主張である、判断と理論的活動に対する暗黙の評価の影響を示唆するアプローチを自然主義的に解釈する立場である。例えば、「動機づけられた認知」(Kunda 1999)に関する経験的証拠の増大しつつある研究は、こうしたアプローチが有益な発見をもたらしうることを示唆している。

     第2節 人間の種類と人間の形質の構成

    いかなる種類の人間の形質も社会的構成の対象になりうるが、そのなかでもっとも興味深いもので、かつ争点にもなっているのは、人間の種類(human kinds)を構成する一群の形質である。こうした一群の形質は、思考やふるまいの特定の傾向性としての精神状態と共起し相関するとされる。
    思考と行動の傾向性のセットとしての人間の種類に関する議論は自由意志と社会的規制に関する他の疑問を引き起こすために、人間の種類に関する構成主義をめぐる議論は、セックスやジェンダー、人種、感情、異性愛と同性愛、および精神疾患に関する問いを巻き込みながら、人間の分類に関する社会的、政治的議論の中心となっている。構成主義者は戦略として、文化を含むひじょうに偶発的な要因に訴えることによってこうした形質の構成を説明しようとする、これらの議論における各々の論者は、ある形質または一群の形質が文化的に特異的であるかそれとも文化を越えて見出されるかを問うことが多い。

    第1項 概念的プロジェクト

    これらの問題は、実りよりも論争を多くもたらした。しかし、同時に、哲学者は一般的に、そして自然主義者は部分的に構成主義者のさまざまな立場注意深く分析するという役割を果たした。例えば、文化的な特異性や普遍性に関する議論を反省するなかで、多くの識者は、文化的特異性に関する構成主義者による反論や批判のポイントは、歴史や文化を通して発見された/されなかったようなをめぐる単に経験的な事実に関するさまざまな論者の見解の相違に関するものではなく、現象の個別化に関して、その個別化が、文化的に異なる文脈的特徴に基づいた仕方で行われるのかどうかについての論者の見解の相違に関するものだと指摘した(Mallon and Stich 2000; Boghossian 2006,28; Pinker 2003,38)。たとえば、社会構成主義者は、わたしたちが科学的と呼ぶその活動が文化的に異なる特異な現象の個別化のひとつではないかといった疑問をもつ。この概念的プロジェクトは卓越した哲学的プロジェクトの一つであり、構成主義者の研究に関わっている概念についての問題や経験的な問題の明確化に多大な貢献をしたと言える。

    第2項 社会的役割プロジェクト

    別のプロジェクトとして、自然主義者は、人間の社会言語的行動が社会的役割を生み出すという構成主義的な示唆に基づいて、人間の形質に関する実質的な因果モデルを提案することを試みている(例えばHacking 1995b、1998; Appiah 1996; Griffiths 1997; Mallon 2003; Murphy 2006)

    ここで大きな注目を集めているのがイアン・ハッキングの「人々をつくりだす」(1986、1991、1992、1995a、1995b、1998)ことに関する研究である。一連の論文や書籍では「児童虐待」「多重人格」「逃避」などの「ある人物である新しいやり方」を官僚的、技術的、医療的分類の作成と公布が創造する主張されている(1995b 、p.239)。これは、特定の種類の人間についての概念が広範な社会的反応を形作ると同時に、当該の概念は個人の行動の「パフォーマンス」を、行動の非常に具体的な手段を提案することによって、形づくるとする考えである。

    第4章 社会的構成の新たな方向

    以上、社会構成主義の概要と問題点を第1章で、自然主義の立場を第2章で、そして、社会構成主義を自然化する試みを第3章で議論した。本章では、社会構成主義自然主義とを統合する諸アプローチについて紹介する。

    第1節 構成主義者による説明と統合モデル

    人間の心理に対する進化論的・自然主義的アプローチに共感するもののあいだで、統合的アプローチ(integrative approach)が一般的になっている。

    • 統合的アプローチ:人間の本性の形成に進化論的力が果たす役割に関する知見と、人間の形質と人間の生産物の生産に社会構成的メカニズムが果たす役割への重視を結びつけたアプローチ。

    このような統合的説明を構成しようとする方法は多くみられる。人間の形質(human traits)や種類(human kinds)の社会的構成と表象の説明をともに組み合わせるとき、それは多かれ少なかれ、構成主義者的な立場であると言える。おそらく、人間の特性や種類に関する社会的役割の説明は、社会的役割を構造化する表象の構成主義的説明と対になるだろうし、実際、これは多くの構成主義的研究の読みとして自然だろう。構成主義的研究は、人間の種類と形質に関する理論と、これらを社会的役割に訴えて説明しようとする理論との両方を説明しようとする。例えば、ジェンダーに関するわたしたちがもつ理論と、その理論が構造化する差異化のふるまいとは、ともに社会的構成の産物であるとする。

    ここで、社会的構成主義者の目には、⑴ある人間の形質や種類に関するおそらくは客観的な記述(あるいは理論)と、⑵その記述が構造化(structure)する社会的役割(あるいは社会的なふるまい)とがともに社会的構成の産物であるように見えている。そして⑴はひろく「表象」と言い換えることができる。それは事実を記述するものとして書かれたもの、言われたもの、描かれたもの、としての人間の形質や種類だ。例えば、発達障碍に対する研究論文、治療者からの報告といったものは、おしなべて「ある人間の形質や種類に関する記述」すなわち表象である。さて、こうした表象は、⑵当の表象された人物の社会的役割を構造化してゆく。もう一度例を用いれば、発達障碍に関する表象がその当事者とされる人物じしんの社会的役割を構造化する。こうした⑴表象、⑵構造化、というふたつの現象がともに社会的構成であるとみなしているのが広い意味での社会的構成主義者であると言える。

    こうした社会構成主義的主張のある種の魅力と弱点とはコインの裏表になっている。
    ⑴の表象が「ほんとうに社会的構成物なのか? 表象というものは、むしろ物理的事実をあらためて記述したものではないのか?」と問うことができるし、⑵の「構造化はいったいどのようにしてなされるというのか?」すなわち、「どのような因果的モデルが提案されうるのか?」という疑問にも答えなければならない。そこで、こうした問題に対する自然主義的なアプローチが存在する。

    表象の説明に関心をもつ自然主義者は表象に関する構成主義的な説明と認知的説明とを結びつける統合的説明を提案している。人間の形質に関する社会的役割の説明と結びつけられたとき、この統合的説明は、人間の形質と種類の表象の(部分的に)自然主義的な説明と、表象が社会的役割の生産を通じてつくりあげている人間の特性や人間の種類の完全に構成主義的な説明とを結びつける可能性を提案する

    ここで、先ほどの⑴の表象に関しては自然主義的な立場に立ちつつ、⑵の構造化のアイデアは社会構成主義の眼目とする統合的アプローチについて説明している。このようなアプローチは、先ほどの例でゆくと、発達障碍の理論や研究は客観的で物理的事実の表象であるのだが、それが社会的役割を構造化する点については、社会的構成であると考える立場である*6

    第2節 最遠位的な説明としての社会的構成

    典型的な社会構成主義は、⑴人間の形質は世界の経験から立ち現れる。⑵そのように経験される世界を構造化する文化の役割を強調する。しかし、これは前節でもふれたように、自然主義者の態度とは異なる。そこで、いささか社会構成主義的な色合いが薄まるものの、有用であるかもしれないようなこうした説明に対する自然主義的なアプローチを紹介しよう。

    ここで、社会的に構成されているような現象に関する説明を形成する際、その現象の構成に社会的/文化的影響力が果たす異なる役割に注目して、大きくふたつの説明の仕方があると考えることができる。

    • 近位的説明(proximal)
    • 最遠位的説明(ultimate)

    この場合の遠近は、説明するもの(explanans)と説明されるもの(explanandum)との違いを示している。
    たとえば、「小佐内さんはいちごタルトを食べる」という事象の理由を説明しよう。

    • 近位的説明:おいしい食べ物を食べたいという小佐内さんの欲求であるという説明。
    • 最遠位的説明:その小佐内さんの欲求を生じせしめた選択圧の生産物とする説明

    たとえば、哲学者のフィリップ・キッチャー(1999)は、人種グループに人々を分割するという文化的実践は、そうした文化的実践が重要な生殖的隔離の結果であるような集団において、それじしんで生物学的に重要な分割の結果でありうる。とした。どういうことか。
    キッチャーの主張は、原則として、そのような隔離は、集団間の生物学的な差異を保存し、蓄積することを可能にしているということである。 キッチャーはこれが現実の人種(例えば現代アメリカ人集団における黒人、白人、アジア人など)の中で実際に起こっているかどうかについて懐疑的だが、形質の進化を形作る文化の役割の最遠位的説明としての役割を提案している。

    また、生物が自らとその子孫に利益をもたらす方法で環境を改変するプロセスである「ニッチ構成(niche construction)」に関する近年の研究(Odling-Smee, Laland, Feldman 2003)もあり、この研究においては、自然選択を変化させる文化の役割が示唆されている。
    ニッチ選択の重要な例に基づいて、乳製品生産の文化的な受容など、選択圧を形成する人為的な文化や技術の役割を強調されている(Feldman and Cavalli-Sforza 1989, Holden and Mace 1997)。また、こうしたニッチは、さまざまな種類の人間の概念を含むわたしたちの文化的概念によっても多かれ少なかれ構造化されているとされる*7

    このような仮説は、社会的に構成された人種区分が生産する異文化間の生殖隔離の生物学的重要性に関するキッチャーの示唆と、ニッチ選択主義者による、文化が生物学的適応をもたらす選択圧を生み出すという考えとを結びつけている。キッチャーやニッチ選択主義者、コクランやハーディ、ハーペンディングらが行ったような研究は、ある意味では社会構成主義者的であるという理由から注目に値するが、社会的作用因(social agent)を近位的な要因ではなく最遠位的な要因として重視しているため、社会的構成主義的感覚をもつ多くの人には、違和感を抱かせるものである。

    第5章 結論

    「社会的構成」という隠喩は、ラベリングという点および社会科学と人文科学のさまざまな研究の推進という点で、 非常に柔軟であることが判明した。また、この研究で取り上げられた個人的および文化的因果関係のテーマ自体が[社会的構成における]中心的な関心であった。
    ほとんどの哲学的努力は、とくに、科学の歴史と社会学の研究から生じた社会的構成の挑発的な説明の解釈と反論へと向かいつつあるも、社会構成主義的なテーマは数多くの文脈に出現し、哲学的自然主義者がさまざまな別の方法で構築主義者のテーマに取り組む[機会を]提供している。哲学的自然主義者および科学者は、社会構成主義の仮説を記述するとともに評価するために、哲学と科学の方法を用いることで、この機会を利用し始めている。文化が人間の社会環境、行動、アイデンティティ、そして発達を形成するうえで、強力で中心的な役割を果たすため、社会構成主義のテーマを自然主義的枠組みの中で追求しさらには拡大し続けるための十分な余地がある。

    コメント

    とくに構築的構成の理論的分析に興味をもった。覆われた構成物が社会的に構成されていると言えるためにはどんな証拠を持ってきたらよいのだろうか。この点がこの議論でいちばんよくわからないので気になる。社会的構成という曖昧模糊とした言葉の意味がすこし明らかになるとともに、それだけいっそう影に隠れていたより多くの興味深い問題が見えてきた。

    *1:本記事はスタンフォード哲学百科事典「社会的構成への自然主義的アプローチ」のまとめノートである。Mallon, Ron, "Naturalistic Approaches to Social Construction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/social-construction-naturalistic/>.

    *2:この区分はGriffiths, P. E., 1997. What Emotions Really Are, Chicago: The University of Chicago Press.による。原注5。

    *3:たとえば、倉田剛「社会存在論——分析哲学における新たな社会理論」『現代思想』12月増刊号、89-107。

    *4:こうした区別はHaslanger, S., 1995. “Ontology and Social Construction,” Philosophical Topics, 23(2): 95–125.やKukla, A., 2000. Social constructivism and the philosophy of science, London: Routledge.においてなされている。原注7。

    *5:ここの必然性が分析的の意味がよく分からない。関連するのは「分析/総合の違い」あるいは「参照理論」と言った話題のようなので。調べることにする。Rey, Georges, "The Analytic/Synthetic Distinction", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), forthcoming URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2018/entries/analytic-synthetic/>. Reimer, Marga and Michaelson, Eliot, "Reference", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/spr2017/entries/reference/>.

    *6:ここで、まとめると、⑴の表象がすでに社会的構成であるとする「強い構成主義(strong constructionism)」の立場と、⑴は客観的な記述だけど、⑵は社会的構成だねという「穏健な構成主義(moderate constructionism)」の立場がというふたつの立場が提案されていると言えるかもしれない。

    • 強い構成主義:表象は事実の記述以上のものであり、その記述は社会的役割を構造化する。
    • 穏健な構成主義:表象は自然主義的説明が可能な事実の記述だが、その記述は社会的役割を構造化する。

    もちろん、強い構成主義の立場であるからといって、すべての表象に関して強い立場を取る必要はないだろう。しかし、もし自然主義的な立場を取るなら、すべての表象に関して広義の穏健な構成主義(ある記述が社会的役割を構造化するか否かはべつとして)を取るひとは多そうである。

    *7:論争の的となっている論文として、グレゴリー・コクラン、ジェイソン・ハーディ、ヘンリー・ハーペンディング(Cochran et al. 2006)による研究が紹介されている。この論文ではさまざまな証拠に基づいて、9世紀から17世紀の東ヨーロッパにおいて、ユダヤ人に対する人種区分と差別の文化的実践が作り出した選択圧が、高IQに対してはたらいていたとたこと、そして、それとは異なる事象として、同時期に、特定の遺伝的疾患が高IQの人物、とくにアシュケナージユダヤ人に関係していた (ここからアシュケナージユダヤ人はその時期にこうした文化的実践によって生殖隔離がなされていたのかもしれない)ことが論じられている。Cochran, G., J. Hardy, et al., 2006. “Natural History of Ashkenazi Intelligence,” Journal of Biosocial Science, 38: 659–693.

    IEP:概念の古典理論

    はじめに

     「概念には定義が存在する」と主張する概念に関する「古典理論」についての記事のまとめノートです。

    元の記事:インターネット哲学大百科「概念の古典理論」http://www.iep.utm.edu/conc-cl/

    「概念はどうすれば明らかになるんだろう」「定義は便利よね。だけれど、すべての概念は定義できるような性質の存在者なのかしら」と思い悩んでいる方のヒントになればと思います。

    f:id:lichtung:20180110042809p:image

    イントロダクション

    古典理論とは、概念に関する以下に挙げる5つの主要な理論のうちのひとつ。

    1. 古典理論(Classical theory)
    2. プロトタイプ理論(prototype theories)/典型例理論(exemplar theories)
    3. 原子理論(atomistic theories)
    4. 理論理論(theory-theories)
    5. 新古典理論(neoclassical theories)

    ここで、古典理論と古典的分析は以下のように定式化される。

    • 古典理論:すべての複雑な概念に古典的分析(classical analysis)が存在することを主張する理論。
    • 古典的分析:可能世界にまたがってある外延に含まれる形而上的に必要かつ連言的に十分な条件をその概念に与えるような命題。

    こうした古典説は、概念の定義が必要かつ連言的に十分な条件によって与えられることから、「概念の定義説」や「定義主義(definitionism)」とも呼ばれる*1

    1 歴史的背景と古典説の利点

    歴史:古典説は、その出自をプラトンによって描かれたソクラテスが行なっていた、ある概念の本質を探求する営みへと遡ることができる。その後、アリストテレスデカルト、ロック、ヒューム、そしてフレーゲラッセル、ムーアによっても行われた。
    利点:⑴古典説は本性や本質を思考する哲学的な問いへの正統的な答えがあるという前提によくフィットする。⑵議論の批判的評価に役立つ。議論において概念の定義が重要であるような場合に威力を発揮する。例えば、人工中絶の論争における胎児の人間としての地位の定義など。
    現代の代表的な論者:J. J. Katz, Frank Jackson, Christopher Peacockeなどが代表的な論者としてあげられる。
    現代では、第4節でみるようにさまざまな批判にさらされている。

    2 概念についての概説

    概念はいったい何か。それに対してさまざまな観点が存在する。ここでは、5つの観点を紹介する。

    a. 意味論的値としての概念

    意味論的値(semantic values)として、概念は、述語や形容詞、動詞や副詞といった文部分的(sub-sententional)な言語表現の内包や意味であるとされる。
    「太陽は恒星である」は、太陽が恒星であるという命題を示し、述語である「恒星である」は、恒星であることの概念を表現している。文の内包や意味は命題であり、多くの文部分的要素の内包や意味は概念である*2

    b. 普遍者としての概念

    概念はしばしば普遍者として考えられる。その理由は以下の3つ。

    3つの理由

    1. ある概念は、異なる言語表現をもちいても表現可能である。
    2. 異なるエージェントが同じ概念を所有、把握、理解しうるが、そのような所有には程度の差がある。
    3. 概念は、概して、複数の例示するもの(exemplifications)や例化するもの(instantiation)をもつ。さらに、異なる概念がまったく同じインスタンスをもちうる。

    このように、概念が普遍者であるとみなすと、それをどのような存在者として扱うかによって、さまざまな立場が存在しうる。

    • 概念に関する実在論(Realism about concepts):概念はそのインスタンスとは異なる。
    • 概念に関する唯名論(Nominalism about concepts):概念はそのインスタンス以上のものではなく、インスタンスと異なるものではない。
    • ものに先立つ実在論Ante rem realism)(またはプラトニズム):概念がその概念に先立って存在論的に存在する。すなわち、インスタンスが存在するかどうかにかかわらず概念が存在する。
    • もののうちの実在論In re realism):概念はある意味ではそのインスタンスの中にあり、したがってそのインスタンスより先立っては存在論的に存在しない。
    • 概念に関する概念主義(Conceptualism with respect to concepts):概念が心的存在者であり、心の中に一種の観念として、完全に思考の構成要素として、あるいは何らかの形でその存在を精神に依存している(おそらく行為者によって所有されるか、行為者によって所有可能である)。
    • 言語的唯名論(Linguistic nominalism):それらを表現するために用いられる言語表現を用いて概念を識別する。
    • タイプ言語的唯名論(Type linguistic nominalism):言語表現のタイプによって概念を識別する。

    c. 心的依存/心的独立な存在者としての概念

    概念は精神の「うち」にあるあるいは、「部分」であると考える立場は、概念を心的依存(mind-dependent)な存在者であるとみなす。これにたいして、概念は精神とは独立した存在者であるとする立場は、概念を心的独立(mind-independent)な存在者であるとみなす。前者は上述の概念主義などと相性がよく、後者はプラトニズムと相性がよい。

    d. 分析対象としての概念

    《Fとは何か》というかたちの哲学的問いは、さまざまな概念の概念分析を必要とする。けれども、「概念分析とは何か」という問いにもまたさまざまな答え方がある。そこで、ここでは、各理論ごとにどのように概念分析を捉えているかを概観する。

    • 古典説:すべての複雑な概念には古典的分析が存在する。複雑な概念には他の概念による分析が存在する。
    • プロトタイプ説:典型的な特徴(typical featues)に関して、またはプロトタイプ的な・例示的な事例という観点から概念を分析する。例えば、飛行可能な、小型の、といった典型的な特徴という観点から、鳥であるという概念を分析する。
    • 典型説:最も典型的な事例(exemplary case)(例えば、鳥という概念におけるハト)の観点から、鳥であるという概念を分析する。
    • 理論理論:ある概念の外延のメンバーについての内在的に表象された理論の観点から概念を分析する。例えば、ある人が鳥についての包括的な理論をもつとする。この人がその人の「鳥」という概念の用い方に基づいて「鳥」という概念を表現したとしよう。このとき、この人が表現した概念は、[この人において]内在的に表象された理論において概念が果たしている役割という観点から分析される*3
    • 新古典説:古典説の1つの要素、すなわちすべての複雑な概念が形而上的に必要な条件(例えば、未婚であることが独身のために必要であるという条件)をもつという主張を引き継ぐが、形而上的に十分な条件を有するという条件は放棄する。
    • 原子論説:以上で言及された分析の概念をすべて拒絶し、概念には分析が全く存在しないと主張する。

    e. 古典説と概念一般について

    再度確認すると、古典説は、「すべての複雑な概念には古典的分析が存在する」とのみ主張しているのであり、概念が普遍者であるかどうか、あるいは心的に依存しているか独立かどうかとは、独立である。

    3 古典的分析

    複雑な概念の分析には2つの構成要素が存在する。

    • 被分析項(Analysandum 英:アナリザンダム):分析されるもの
    • 分析項(Analysand 英:アナリザンド):分析するもの

    命題が古典的分析であるためには以下の条件を満たさなければならない:

    • (I)古典的分析は、被分析項の外延のうちにあるための必要かつ連言的に十分な条件の集合を特定しなければならない。
    • (II)古典的分析は、被分析項の論理的構成(logical constitution)を特定しなければならない。

    a. 必要かつ十分な条件について

    • 必要条件:Fであるための必要条件とは、Fであるために必ず満たさなければならない条件。
    • 十分条件:Fであるための十分条件とは、もしその条件を満たすならば必ずFであるような条件。
    • 必要十分条件:Fであるために必要かつ十分な条件は、Fであるためにはその条件を満たす必要があるだけでなく、その条件を満たす場合に必ずFでなければならないという条件である。
    • 必要かつ連言的に十分な条件:概念Fについて、Fであるために必要かつ連言的に十分な条件とは、それらのすべてを満足することがFであるのに十分であるような一連の必要条件。

    b. 論理的構成

    古典的分析はまた、分析とは、概念をその組成または構成要素に分解することである、というムーアの考えに従って、分析される概念の論理的構成を与える。

    c. 古典的分析についてのその他の条件

    上述の(I)と(II)とに加えて、他の条件も提案されている。

    • (III)古典的分析は、被分析項を分析項あるいは分析項の部分として含んではならない。
    • (IV)古典的分析は、分析項が被分析項よりも複雑であってはならない*4
    • (V)古典的分析は、いかなる可能的対象であっても、それが、その概念の外延に含まれるか否かを正確に特定するようなかたちで、分析されている概念の正確な外延を特定する。
    • (Ⅵ)古典的分析は、その分析対象またはその分析対象に曖昧な概念を含まない。

     d. 分析候補の検証

    正しい分析を探し求める中で、さまざまな分析候補(candidate analyses)について考える必要が生まれる。正しい分析は、可能的反例(possible counterexamplees)をもたない。ここで、可能的反例は、分析候補が広すぎるか狭すぎるかを明らかにしうるものである。

    ここで、現実的反例(actual counterexample)のみなず、可能的反例を考慮に入れる必要性は、分析は、必然的真理(necessary truth)に関わるものであるからである。ある概念の分析は、例えば意識のような概念に関して、現実に存在している意識に共有されているのみならず、すべての可能な意識に共有されているものを特定することであるからである。

    e. 古典的分析に関するアプリオリ性と分析性

    古典的分析は、ア・プリオリ(a priori)で分析的(analytic)であると考えられている。

    ア・プリオリ:分析の正当化にいかなる経験的な構成要素も必要とせず、理性によってのみ知られうる。

    分析的:分析的命題は「意味のみによって真」であるような命題であるとする分析的命題の大まかな解釈に基づくなら、古典的分析はこのような種類の命題である。分析的命題が、述語表現によって表現されるものが主語表現に表現されるものに「含まれる」命題であるような分析であるゆえに、古典的分析は分析的である。

    4 古典理論への反論

    その歴史と魅力にもかかわらず、古典理論はさまざまな批判にさらされている。多くの人は、すべての複雑な概念には、上記のような性格の古典的な分析が存在するという主張のに疑問を抱いている。より一般的な意見は、いくつかの(some)複雑な概念は古典的なモデルに従うが、すべて(all)ではないということである。この節では、古典説に対する6つの一般的な異論を紹介する。

    a. プラトンの問題

    プラトンの問題:長きにわたり哲学的に重要な概念の分析の探求が行われてきたものの、そのような概念の古典的な分析が発見され、事実として広く合意されたことはほとんどないという問題。

    反論:すべての複雑な概念に対する古典的分析があるとしよう。今までの努力が費やされたことを考えれば、そのような分析の発見可能性にはは、はるかに高い成功率が見込めるはず。けれども、実際、「学者」や「妹」などのふつうの概念や、論理や数学の概念をのぞいて、哲学的に重要な概念の分析についての合意がみられない。ゆえに、この試みはうまくいっていない、とする。

    再反論:このような異論は、あまりにも高い基準を古典説に課しているかもしれない。というのも、科学においても、特定の科学理論に関する普遍的な合意はめったになく、電子やニュートリノといった存在者やビッグバンのような事象の研究はいまなお発展途上にある。そこで、科学的方法に関して、研究調査がいまなお進行中であり、調査段階の科学のさまざまな理論に関して普遍的な合意がないために、何らかの形で欠陥があると考えるのはばかげている。そうであるならば、なぜ哲学的に重要な概念の完全な分析に関して普遍的な合意が欠如しているために、すべての複雑な概念には古典的分析が存在するという仮定に基づいた哲学的分析の方法が何らかの方法で欠陥があると考えるのはおかしい。

    再々反論:しかし、特にある科学理論が新しく提案された場合、科学において意見の相違はあるものの、そのような不一致は、哲学のそれほど一般的ではない。哲学においては、哲学における最も基本的な問題についてさえも不一致が存在する。ゆえに、古典的分析の方法論には誤りがあるのかもしれない。

    b. 分類からの議論

    反論:経験的データに基づく批判:わたしたちは区分や分類分けの際、必要かつ十分な条件の集合を用いてそれ行なっているわけではない。そうではなく、典型的な特徴に基づいて分類を行なっている。
    というのも、特定のカテゴリのより典型的なメンバーが、同じカテゴリの典型的でないメンバーよりもすばやくにそのカテゴリに分類されるからである。例えば、ロビンはタカよりも素早く鳥類のカテゴリに分類され、そして、タカはダチョウよりもよりも素早く鳥類のカテゴリに分類される。これが示唆しているのは、概念が分類の際に用いられているとするとき、以上で見たように、分類のすべてにおいて古典的分析を用られていないということである。ゆえに古典説は誤りである。

    再反論:ここで、この議論は次を前提としている。「ある人が何かをあるカテゴリに、あるいは、他のカテゴリに分類するとき、ある人は、その課題を遂行するために、概念分析の理解力を用いている」古典説はこの部分を批判する。

    典型的な特徴の集合を用いて鳥を分類することができる。しかし、鳥のように見えるものと鳥であるものとの間に違いがある。つまり、分類できるからといって、それが実際の概念の性質を明らかにしているのかどうかとは独立である、と主張する。したがって、概念分析は、たとえ行為者がその概念のインスタンスであるような条件を与え、分類の行為において古典的分析とは異なるような他の何らかの条件を使用しても、概念には分析(古典的またはその他の方法)が存在しうるように思われる*5

    分類からの議論に対して、この返答がうまい反駁になっているかどうか不明だが、認知心理学の多くの研究者は、分類の行為からの経験的証拠を古典的見解に対する強い証拠とみなしている。ここで、もうひとつの分類に関する批判を紹介しよう。

    プロトタイプ説による批判:プロトタイプ説によれば、概念は、必要かつ連言的に十分な条件ではなく、典型的な特徴のリストによって分析される。ここで、そのような典型的な特徴は、概念のすべてのインスタンスによって共有されるのではなく、それらのほとんどのものによって共有されるようなものである。例えば、典型的な鳥は飛行可能で、比較的小さく、肉食ではない。しかし、これらの特徴はすべての鳥に共通しているわけではない。例えば、ペンギンは飛べないし、タカはかなり大きく、肉食である。プロトタイプ説は、われわれの分類行為に関する事実をうまく説明する。そして、プロトタイプ説の擁護者は古典的見解を拒絶する。

    c. あいまいさという観点からの議論

    あいまいさも、古典説にとって問題であると考えられている。必要かつ共に十分な条件を特定することによって、古典的分析は分析される概念の正確な外延を特定すると考えられる(このように特定された概念Cはすべてのxに対してxが正確にCの外延、またはCの外延ではないと区分できる)。

    反論:しかし、ほとんどの複雑な概念は、そのような正確な外延を持っていないようにみえる 。例えば、「おおげさな」「短い」「古い」のような用語はすべて、その用語が適用されるかどうかが不明確な場合がありうる。ゆえに、それらの用語によって表される概念の外延は不明確であるように思われる。例えば、禿げた人と禿げていない人、背の低い人とそうでない人、そして老人と非老人の間には正確な境界がないようにみえる。多くの概念の外延に正確な境界がないとすると、古典的分析はそのような正確な境界を特定するはずだが、あいまいな用語で表現されているものの古典的分析はできない。ゆえに、古典的分析はうまくいかない。

    応答⑴:あいまいさは世界それ自体の一部ではなく、むしろわたしたちの認識論的な欠点の問題であると主張する。さまざまな概念の正確な境界がどこにあるのかわからないため、不明確なケースが見つかるだけであるとする。例えば、禿げた人と禿げていない人の正確な境界があるかもしれないが、その境界がどこにあるのかわからないため、「禿げている」というのはあいまいなままである。ゆえに、古典的分析がうまくいかないのはわたしたち側の問題でしかない。*6

    応答⑵:不明確な事例があることを認め、世界それ自体の特徴としてのあいまいさの存在を認めるものの、そのようなあいまいさが漠然とした概念分析に反映されていると主張する。
    例えば、黒い猫であるという概念は、たとえ「黒い」と「猫」が両方とも曖昧な用語であっても、「黒」と「猫」の観点から分析することができる。したがって古典理論は、用語の漠然とした性格をこのような方法で分析することができれば、批判を免れることができるかもしれない*7

    d. クワインの批判

    W.V.O. Quineは、分析性と分析的/総合的な区別に攻撃を行った。 Quineによれば、分析的命題および合成的命題の区別について哲学的に明確な説明はなく、そのような区別は全くないか、または哲学的研究には有用ではないとした*8

    e. 科学的本質主義による批判

    科学的本質主義(scientific essentialism):自然種のすべてのメンバーはミクロ物理レベルの記述において本質的な性質が存在し、自然種の術語(例えば、水)およびそのような性質の記述(例えば、H2O)の間における同一性記述(identity statement)は形而上的に必然的であり、ア・ポステリオリにのみ知られうる。
    「水はH2Oである」という命題は、科学的本質主義においては、すべての可能世界で真であるとともに、経験科学によって発見されうる真理であるとされる。可能的反例を探すことで明らかになるわけではない。
    古典的分析は、ア・プリオリで分析的であるとされる。これに対して、科学的本質主義はア・ポステリオリで総合的であるとされる。ゆえに、古典的分析は科学的本質主義の意見と対立する*9

    *1:これら古典理論やその他の概念の諸理論は、不正確だが、「概念の性質」についての特定の立場だと言える。概念が実際にどういう性質であるかによって、それを明らかにするプロジェクトが変わってくる。古典理論は、概念は定義してもいいような性質であると主張していると言える。

    *2:ここの説明ぜんぜんわかっていません。

    *3:理論理論のメタっぽいところは興味深い。概念一般の性質について積極的な主張はせずに、ひとびとの使い方を見ていこうとする。しかし、この説明だけだと「じゃあなんで鳥という概念がある程度ひとびとの間で共有されているの?」という疑問が浮かぶ。また、これだけでは分からないが、理論理論は、「各人のあいまいな概念に共通する性質を探すために各人の理論に基づいた概念を分析する」という動機に基づいているのだろうか。つまり、「各人の概念の理論によって違う記述の仕方を見ていこう、そしてそこで概念分析を終了させよう」というより、「概念そのものにある時期や地域に限られるにせよ特定の性質があって、それを探そう」といった主張なのだろうか?

    *4:原文では、’A classical analysis must not have its analysandum be more complex than its analysans.’となっているが、被分析項と分析項とは逆のように思える。

    *5:分類の仕方がどうであろうと、それは人間種に独特なものであり、概念そのものの性質とは独立だよ。そして、古典説における概念の捉え方と排他的であるわけでもないし、直接関係しているわけでもないよ。ということか。

    *6:へんな議論に思える。禿げている/そうではないの境界が確実にどこかにあるということ? それは物理定数のように発見されうるものであるということ?

    *7:さらにわからない。このふたつの応答に共通してわからないのは、世界それ自体の特徴としてあいまいさ云々という点である。概念には、⑴自然法則のような世界それ自体の記述のようにみえる概念。それから⑵「芸術」や「同性愛」のような人工の概念。とのおおきくふたつの種類があるように思える。前者に関して言えば、応答⑴の立場は分かるが、例として挙げられているのが⑵の人工の概念に思えるのでよく理解できない。また、応答⑵の立場は、⑵のような人工の概念に関してはあいまいさがあることは理解できる。対して、世界それ自体のあいまいさが存在して、⑴のような概念にあいまいさが反映されていると主張しているように思える。その主張に反して、この世界は物理定数や法則があいまいであるような世界にはみえない。マクロでみれば、理想的な状況において、つねに同じ条件下では同じ現象が生ずる。そのため、世界それ自体のあいまいさという主張が理解できない。さらに、⑴のような概念にあいまいさが反映されているというのもおかしい。ニュートン万有引力の法則はミクロの挙動を記述できないという点で量子力学の諸理論よりも不正確であいまいかもしれないが、ニュートン万有引力の法則が世界のあいまいさを反映しているという理解はおかしい。それはその時点でのわたしたちの認識能力の問題であるからだ。

    *8:ぜんぜんわかっていません。Quine, W. V. O. 1953/1999. “Two Dogmas of Empiricism.” In Margolis and Laurence 1999, 153-170.とQuine, W. V. O. 1960. Word and Object. Cambridge: The M.I.T. Press.に議論があるそうなので読みます。

    *9:対立するとすると、どういう問題が生まれるのかは書いていない。自然種に関しては古典的分析はあきらめて、科学的本質主義を採用しようということになるのかもしれない。

    芸術社会学とともに、芸術社会学に抗して。ザングウィルとファウラー(1)

    はじめに

    本稿は、ニック・ザングウィル「芸術社会学に抗して」(2002)(Zangwill, Nick. "Against the sociology of art." Philosophy of the Social Sciences 32.2 (2002): 206-218.)のまとめです。

    ザングウィルはこの論文において、「なぜひとは芸術作品をつくり、鑑賞するのか?」という問いに対して、芸術家と鑑賞者の動機と意図を社会的な要素や経済的な要素、すなわち美的ではない要素に還元することで答えようとする芸術社会学的な説明を批判しています。そして、芸術作品をつくること、そして鑑賞すること、このふたつの行為の理由を捉えるためには美的な要素に注目する必要があると主張します。

    このザングウィルの論文への応答論文(Fowler, Bridget. "A Note on Nick Zangwill'sAgainst the Sociology of Art'." Philosophy of the social science 33.3 (2003): 363-374.)があり、そちらも続いてまとめるつもりです。

    まとめ

    • 芸術の制作、芸術作品の鑑賞を美的な要素抜きに説明することはできない。

    斜体の見出しは本文に記載のもの。斜体ではない見出しは筆者が付け加えたものである。

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    ふたつの懐疑

    美学対社会学的説明、芸術活動に関して

    「なぜひとは芸術作品をつくり、鑑賞するのか?」という問いに対して、芸術社会学はどのように答えるのか。芸術社会学において、この問いに対して、美的な要素を説明として用いる必要はないとするふたつの説がある、とザングウィルは述べる。

    1. 「制作懐疑主義(production skepticism)」芸術の制作(物)を説明する際、美的な理由に訴える必要はない。
    2. 「消費懐疑主義(consumption skepticism)」芸術に関する経験や判断を説明する際、美的な理由に訴える必要はない。ブルデューやイーグルトンが代表的。

    ザングウィルは本論文において、このうち前者を中心的に批判する。

    A. 制作への懐疑に対して

    芸術制作の二面

    ザングウィルは芸術制作におけるふたつの側面を提示する。

    1. 芸術制作における芸術家の精神:少なくとも、芸術家は何かしら特定の美的な質を創り出すことを求め、意図する。
    2. 芸術制作(物)に対する受け手の精神:芸術作品を経験し、それらを欲する際、美的な質がなんらかの役割を担っている。

    制作への懐疑はこの二面を否定する。すなわち、芸術家は美的な質を求めて芸術作品を創るわけではなく、受け手は、美的な質を経験してもいないし、それを求めているわけでもないとする。

    ザングウィルはこうした懐疑説の例として、ウォルフ(Janet Wolff)とベッカー(Howard Becker)をあげ批判している。ザングウィルによれば、彼らは、ひとがなぜ芸術作品を創り、求めるのかという問いに答えることなく、あたかもふつうのものを作る過程を説明するように芸術の制作を説明しており、芸術の制作における芸術家と受け手の個々人の精神的な、きめ細かい意味を参照していない。

    ひるがえって、「ひとがなぜ芸術作品を創り、求めるのか」というこの問いこそが芸術理論の問う問いである。と繰り返し述べる。

    B. 懐疑説に共通する過ちについて

    ある/すべて、強い/弱い

    ある程度は美的ではない要素が芸術の制作に影響することをザングウィルは認める。しかしすべてではないと彼は主張する。このザングウィルの立場に対して、芸術社会学者は「ある(some)」美的ではない要素が芸術の制作に影響しているという事実から、芸術の制作の「すべて(all)」を美的ではない要素の影響によって説明しようとしている。これが芸術社会学的研究にしばしば見られる「あるとすべての過ち(some-all fallacy)」であるとザングウィルは批判する。

    そして彼は、芸術家がそのうちにある社会的な状況と、その芸術家の制作における自由な選択(主題や形式、素材など)とは片方に還元できないものなのである。とする。ゆえに、ザングウィルは、こうした芸術家と社会との影響関係に関するふたつの立場を区別する。

    1. 強いプログラム:芸術の制作がどれほど完全に社会経済的条件によって決定されているか。
    2. 弱いプログラム:社会的要因と芸術家自身の自己概念は、十分条件ではないが必要条件として、一体となって、芸術の制作を説明する。

    ほとんどの社会学者は強いプログラムを採用してしまっている、とザングウィルは述べる。
    弱いプログラムは、芸術家自身の自己概念、つまり美的な質を創り出す意図や動機を芸術の生産における重要な要素として説明に組み込む。

    便乗説

    ザングウィルは、「芸術制作の動機や意図に対するイデオロギーに基づく説明は、美的なものに基づいている」と主張する。

    ザングウィルは、イデオロギー的表現は芸術やいかなる美的な質をも伴わずに行うことができるのに、なぜイデオロギー的なものと美的なものとは混ぜ合わせられ用いられるのか? と疑問を投げかける。これに対して彼は、それは取りも直さず、プロパガンダは美的に優れた制作物を利用していることを示している。とする。美的価値はプロパガンダイデオロギーとは独立している。
    同じように、経済的な説明においても、美的な価値なしにひとが芸術作品を求める理由を説明することはできない。
    つまり、イデオロギー的説明や経済的説明は美的な説明に便乗しているに過ぎない。なぜなら、イデオロギーや経済に訴える説明を行っても、結局は、美的なものへの説明が必要になるからである、とザングウィルは主張する。

    C. 美的な説明の提案

    美とよろこび

    なぜ美的な要素はわたしたちにその鑑賞を動機付けるのか、そしてなぜわたしたちは美的な要素に価値を置くのか。
    こうした問いの答えとして、わたしたちは古代から指摘されているように、「よろこび」に訴えることができる、とザングウィルは述べる。そして、「わたしたちは、美しいものを創り、鑑賞する際に得るよろこびによって、美しいものをつくり、知覚することに価値を置き、そうすることを欲する」。そしてこれが、わたしたちが芸術を高く評価する理由なのである、とザングウィルは結論づける。

    コメント

    ある制度や価値の体系において、芸術作品が、それ自身の美的価値に基づいてではなく、それを所有することや鑑賞することから生じるさまざまな価値(e.g. 優れた審美眼を持つ、教養深さ)を表現するために用いられる場合はありそうなことだ。後者のように芸術作品がもといた制度や価値体系の場所とは違う別の制度や価値の体系においてどのような独特な価値を持つようになるのかはそれ自身として研究さるべきことであり、美的な要素だけでは説明がつかない現象である。と書いて、次のような着想を得た。

    座標と変換について

    1. ある制度や価値の体系がひとつの座標をかたちづくる。
    2. その座標に、おのおのの制度や価値の体系のうちで安定しているようなさまざまなものや出来事(e.g. 音楽行為、学術行為、芸術行為)が連れてゆかれて置かれる。
    3. すると、それ自身の座標で安定していたものや出来事は、新しく連れてこられ置かれた座標で、変換を被る。
    4. これが正しいなら、同じひとつのモノをさまざまな座標に変換させて、その異なりを比較することでさまざまな座標の特徴や変換方式を記述し、説明することができる

    このような座標と変換を記述し、説明する方法論が社会学にあるのか、ないのか、すでに否定されているのか。実のところもう古びたものなのか。とくに4の方法論でさまざまな座標をほんとうに記述できるのか。不勉強でよくわからんです(ご教授願えれば嬉しいです)。

     

     

     

    「美学における理論の役割」 モーリス・ヴァイツ

    概要

    分析的な芸術の定義論争がこの論考からはじまったとされる、モーリス・ヴァイツ(Morris Weitz, 1916-1981)の古典的な論文「美学における理論の役割」(1956)(Weitz, Morris. 1956. “The Role of Theory in Aesthetics.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, XV: 27-35.)のまとめです。

    まとめ

    1. ヴィトゲンシュタインの家族的類似の概念を芸術の定義に援用し、あるものが芸術作品であるかどうかを判断する必要十分条件を見つけ出すことはできないとする。
    2. 概念には外延が定まった閉じた概念と、要素が変動する開いた概念とがある。
    3. 過去の芸術の理論は、特定のしかたで特定の芸術の特徴にわたしたちの注意を促す提案のまとめとして理解できる。

    キイ・ワード

    • 家族的類似、開いた概念、閉じた概念、記述的用法、評価的用法、尊称的定義

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    イントロダクション

    芸術を定義するにあたり様々な定義が試みられてきた。こうした試みは単なる知的遊戯ではなく、芸術の理解と適切な評価に欠かせないものであるとされてきた。ゆえに、美学理論は、それ自身のためのみならず、鑑賞と批評の基礎づけのために重要であるとされてきた。

    美学理論、すなわち、芸術であるための要素の必要十分条件の提示は可能なのか。いまだその定義は現れてはいない。ヴァイツはこの論文でそうした美学理論は到来しないと主張する。

    現行の理論の批判

    次にヴァイツは芸術作品であるための必要十分条件を提示しているとみられる5つの理論を紹介し、それらが必要十分条件を提示できていないことを示す。
    そして、これらの定義は経験的でもなく、真偽が決定できるものでもない。

    家族的類似説

    次にさらに根本的な批判をする。
    まず、ヴィトゲンシュタイン『哲学的探求』(1953年)において提示された「家族的類似説」を紹介する。

    • 「家族的類似説」:あるもの(e.g. ゲーム)が何であるかを知るために必要なのは、必要十分条件ではなく、重複し、交差する複雑な類似性の網を見つけることである。

    芸術がなんであるかを知っていること→それらの類似性ゆえに「芸術」と呼ぶことができるものを認知し、記述し、説明できること。

    開いた概念、閉じた概念

    家族的類似説に関連して、ヴァイツは概念の二つのあり方を提示する。それは、開いた概念と閉じた概念とである。

    • 開いた概念→じしんの適用条件が改訂可能であるもの(→要素に応じて変更可能なもの)。
    • 閉じた概念→外延が固定化されているもの(→必要十分条件が確定したもの)。

    ここで、「芸術」という概念は、それじしん開かれた概念であるといえる。ただ、芸術の下位区分の中には、閉じた概念と言えるようなものがありうる。例えば、「ギリシア悲劇」という概念は、その要素が決まっていると考えてよいので、閉じた概念であると言える。しかし、それに対して、「悲劇」という概念はその要素が変動しうるために、開いた概念であると言える。

    あえて喩えれば、閉じた概念は古地図に引かれた国境で、開いた概念は現在と未来の国境と言える。

    「芸術」の用法

    つぎに、「芸術」という言葉には以下の二つの用法がある、とヴァイツは指摘する。

    • 記述的(descriptive)用法:認識の基準(criteria of recognition)
    • 評価的(evaluative)用法:評価の基準(criteria of evaluation)→尊称的定義(honorific definition)

    記述的用法における「これは芸術だ」という発言は、何物かが芸術であるといわれる際に必要な条件に基づいた主張を行っている。

    評価的用法における「これは芸術だ」という発言は、何物かが芸術であるといわれる際に必要な条件を主張しているのではなく、そのものを賞賛するために用いられている。

    尊称的定義

    定義(必要十分条件)そのものとしてではなく、定義的な形式を警句に近いかたちで用いることで、わたしたちの注意をある要素に向けるために核心的な提案を正確に指し示すことが美学理論の役割である。

    ゆえに、伝統的な芸術理論を論理的には失敗を運命づけられた定義としてとらえるのではなく、特定のしかたで特定の芸術の特徴に注意を促す提案のまとめとして読み直すことができる。このようにして美学理論を扱うことが、その理論の役割を理解することになる。

    コメント

    論文の最後の議論、伝統的な美学理論の扱い方が含蓄深い。個人的に歴史的な美学理論と当時の芸術運動との関連に興味があるため、尊称的な芸術理論という理解の仕方は、伝統的な芸術理論とのうまい付き合い方を提示してくれるという点で研究の参考になる。