Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ジョン・ディック「音楽の歴史および音楽の存在論における完全な対応」

はじめに

本ノートは、音楽のプラトン主義的な音楽作品の存在論において前提とされている「完全な対応の条件(PCC: Perfect Compliance Condition)」に対して歴史的批判を加えることで、それが成立しないことを示す、ジョン・ディックの「音楽の歴史および音楽の存在論における完全な対応」*1のまとめである*2

2017年9月1日追記:校正し、PDFにまとめました。ご利用ください。

https://drive.google.com/open?id=0BzXV4zzUSBO_SWRfOWhVbnFGc00

Abstract

西洋クラシック音楽の演奏は基本的に完全な対応(perfect complianceの理想音楽作品を演奏するためには、演奏者はその作品の楽譜にあるすべての音を、逸脱することなしに、演奏しようと意図しなければならない、を必然的に伴うのだとする一般的な前提がある。西洋音楽に焦点を当てた音楽の存在論の多くの説明は、結果として、この前提をそれらの説明の前提としている。しかしながら、近年の音楽学における研究によって、この理想は比較的最近に現れた現象であり、多くの規範的なクラシック音楽には適合しないことがあきらかになっている。わたしは、この研究結果を用いて、音楽哲学者たちが以上のような一般的な前提を棄却すべきであることを論じる。

1. 音楽の存在論における完全な対応の重要性

現代における音楽の存在論者たちは、彼らが音楽演奏について説明する際、レオ・トリエトラー(Leo Trietler, 1931-)が「西ヨーロッパの古典的な伝統('Western European classical tradition)」と呼び、一般に「クラシック音楽(classical music)」と呼ばれるようなものに焦点を当てている。このことは重要で、というのも、多くの音楽の存在論者は、クラシック音楽について広く受け入れられている前提を受け継いでいるからである。その前提とは、ある作品(work)の演奏(performance)における必要な条件とは、演奏者(performer)がその作品の楽譜(score)に完全に従おうとしなければならない、というものである。演奏者は自分の演奏が楽譜にあるすべての音符(note)を演奏し、かつその楽譜から逸脱(deviate)しないように意図(intent)しなければならないというものである。このように楽譜にこだわろうとすること-これを理想(ideal)と呼ぶ-は、ジャズにみられるような他の音楽ジャンルの演奏とは異なった、クラシック音楽の演奏の本質的な特徴であると考えられる。(p.31, par.1)

この理想はわたしたちがクラシック音楽に向き合うとき、顕著に現れる。二つの例がある。一つに、この理想はクラシック音楽教育において現れる。二つに、この理想はわたしたちが一般的にクラシック音楽を評価するしかたのなかに現れる。(p.31, par.2)

この理想へのコミットメントは、音楽のプラトニズム(musical Platonism)においてはっきりとなされている。音楽のプラトニズムは、なにによってある演奏はある特定の作品であるとみなすことができるのか? という問いに応えようとする。音楽のプラトニズムによれば、音楽における作品/演奏の区別は、少なくとも部分的にはプラトン主義的なタイプ/トークン(type/token)の区別であるとされる。このような観点においては、演奏は(少なくとも部分的に)抽象的な作品の具体的なトークン化(tokening)あるいは実例(instance)とされる

このように、音楽のプラトニズムは作品/演奏の関係への問いに動機づけられており、その説明を目指している。音楽のプラトニズムのうち、有名なものによれば、その関係は以下のようなものである。
演奏は、それが作品の楽譜に完全に従う意図(intent)を伴って演奏されたときに限って、ある特定の作品の演奏だとみなされる。音楽のプラトニストであるニコラス・ウォーターストーフ(Nicholas Wolterstof, 1932-)は「音楽作品Wを演奏することは、もしそれがWの正確な例であるためには、なにが必要なのかという演奏者の知識に基づいて音列の生起(sound-sequrnce-occurrence)を生み出そうとすることであり、かつWの例を生み出すことに少なくとも部分的に成功することである」と述べている。

ここで、ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)の悪名高い、音楽演奏への完備な(complete)対応、すなわち、「楽譜への完備な対応のみが、作品の純粋な(genuine)実例(instance)であることの唯一の要求である」という過剰な要求を避ける動機を説明しておきたい。こうした要求に従えば、一音でも余分に演奏したり、間違えてしまえば、その演奏がある作品の演奏ではなくなってしまう。ウォルターストーフによる説明はこうした結論を避けることができる。彼にとって、完備な対応は実際の演奏というより、演奏者の意図に関係するものである。彼は、音楽作品は「ある種の規範(norm-kind)」であり、これが楽譜にこだわることを規定し、また、意図の役割は規範的な次元を生み出すとされている。(p.32, par.2)

レヴィンソン(Jerrold Levinson, 1948-)はグッドマン主義者による音楽作品の実例であるための条件を次のように定義する。:ある作品Wの実例は、「Wの構造である音/演奏に完全に一致する」ものである。彼はこの主張が強すぎると考え、適切な演奏は(演奏者によって)「Wを実例化することを意図したものであることが唯一必要」であり、またある程度成功することも必要である、と主張する。また、ジュリアン・ドッド(Julian Dodd)は、近年、その音楽のプラトン主義的説明において、作品を演奏が成功するためには、演奏者は演奏において「作曲家の指示(instruction)に従うこと」が必要であると述べている。スティーヴン・デイヴィス(Stephen Davies)は、上記そのものではないがかなり近い規範を支持している。「誰が書いたものであろうと、作品を特定化する指示のほとんどに演奏者が従おうとすること」が必要であるとする。
音楽のプラトン主義者は、クラシック音楽演奏の必要な条件として、「完全な対応条件(perfect compliance condition)」あるいは'PCC'にコミットメントしている。

PCC: ある演奏Pは、ある作品Wの楽譜に規定された音の構造にPを対応させることを演奏者が意図する場合にのみ、Wの演奏とみなすことができる

2. 歴史における完全な対応の理想

この節では、1800年以前と以後の完全な適合の理想について、音楽学的な証拠を検討する。ディックはゲーアの立場を改定し、音楽学における証拠から、1800年以前には、演奏は完全な対応の理想によっては特徴づけられないことを主張する。(p.35, par.2)

デイヴィッド・シューレンベルクは、バロック音楽家においては、即興演奏がひじょうに重要で、音楽は教育目的にのみ書き留められた。と考えている。
つまり、多くの音楽家には、楽譜に書かれた音のすべて、かつそれのみを演奏するという習慣がなかった。(p.35, par.1)

また、マン(Alfred Man)は、ヘンデルのオーケストラメンバーは「しばしば、彼ら自身の即興の権利を断固として保持しようとし」、そして、楽譜への対応に対するヘンデルの厳格な態度としばしば衝突した、と述べている。つまり、多くの音楽家には、楽譜に書かれた音のすべて、かつそれのみを演奏するという習慣がなかった。(p.35, par.1)

同時に、多くのその他のバロック音楽の作曲家には、完全な適合の理想があった。例えば、フランスの作曲家クープラン(François Couperin, 1668-1733)は「彼の装飾音符の記譜に果てしない労苦を注いだ」。そして18世紀までにわたしたちが用いるような装飾音符の標準的な記譜法を確立した。また、バッハJohann Sebastian Bach, 1685-1750)やヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685-1759)、18世紀初頭のフランスの作曲家、ルクレール(Jean-Marie Leclair, 1697-1764)や17世紀のイタリア音楽の作曲家のほとんどは同様に正確な記譜を行なった。先に述べた演奏家の習慣と同時に、こうした正確さが存在していた。つまり、1800年以前には、地域、時期、個人、そして演奏習慣にわたって実践の複数性があったのだ。「初期の複数性(early pluralism)」が存在したのだ。

初期の複数性は以上の両方の種類の事実を説明する。

例えば、バロック音楽の作曲家であるリュリ(Jran-Baptiste Lully)は委嘱されたオーケストラによってどの程度装飾音符を正確に書き表すかを使い分けていた。初期のフランスのバロック音楽研究で有名なアンソニー(JamesAnthony )は、「(彼の別のグループ)フランス王の24のヴィオロンを特徴づけるような、過剰な装飾音符や思いつきの即興に耽ることを、小さなヴィオロンというグループでは禁じていた」。音楽者のアルソープ(Peter Allsop)は、イタリアにおいて、装飾音符に関する演奏伝統の多様性を記述する際、初期の複数性を強調している。

作曲家は、みずから装飾音符を書くことを必ずしも嫌ってはいなかった。コロンビ(Colombi)の原稿には、装飾のない大枠とひじょうに華麗な旋律で構成された序曲を含んでいる。一方、装飾へのイタリア人の態度は、一般的に想定されているほど、決して明白ではなかった。チーマからG. M. ボノチーニまでの17世紀の作曲家の流れは、その習慣に対する軽蔑を表明していた。そして、有名な歌手であるシファーチェでさえ、表現伝達の手段として、装飾よりもむしろメッサ・ディ・ヴォーチェ(messa di voce)のようなものに頼っていた。

そして、音楽学者ブット(John Butt)は、「18世紀に至るまでの西洋音楽史のほとんどは単純化されている」ことを批判した。(p.36, par.2)

また、ときおり、通奏低音(badso continuo)やカデンツ(cadenza)は即興を含むがゆえにPCCに反するとされるが、それは間違いである。なぜなら、このどちらもすでに楽譜に指示が記載されているがゆえに、作曲者の指示から逸脱することはないからである。(p.37, par.1)

初期の複数性に関して、重要なことは、音楽家がある文脈において、演奏において楽譜を逸脱することができたということである。事実、作曲家でさえも、リュリのように、状況に応じて、異なる対応の理想を用いていたのだった。従って、1800年以前には、多くの演奏の伝統においては、完全な対応の理想は存在しなかったのであり、ゆえに、PCCは1800年以前のクラシック音楽の演奏の一般的な制約とはならない。(p.37, par.2)

さらに重要なことは、対応に対する複数性の態度は室内楽において、1800年以降も存続するということである。ケネス・ハミルトン(Kenneth Hamilton)とサーモン(Jim Samon)による研究によれば、今日におけるような完全な対応の理想は、とりわけピアノリサイタルの文化において、19世紀を通して存在しなかった。例えば、ハミルトンによれば、19世紀の有名なピアニストであるリストFranz Liszt, 1811-1886)は装飾音や即興部分を付け加えることで、意図的に楽譜を逸脱していた。「即興、指定されていない和音のアルペジオ、そしてテンポの柔軟性」は、「ほとんどのロマン主義的演奏習慣の重要な特徴であった」と彼は述べている。(p.37, par.3)

また、ハミルトンは、記譜を尊重していたために当時保守的であるとみなされていた、ピアニストであるルビンシュタイン(Anton Rubinstein, 1829-1894)に触れている。

ルビンシュタインはピアノの生徒に、まずは作曲者が書いた通りに作品を学ぶことを勧め、次に、もし作品に改善の余地があるように思われるのであれば、ピアニストはそれを変更することをためらってはならない、と述べていた。彼の方法論は彼の同時代人に比べはるかに厳格であった。彼らは最初の段階を完全に省いていたからである。

また、フェリス(David Ferris)は「ヴルトゥオーソのコンサートの聴衆は、誰が曲を作曲したのかについて気にかけなかった。というのも、彼らは演奏を聴きに来たのであって、特定の作品を聴きに来たわけではなかった。聴衆は音楽の形式や構造よりも、熟練や独創性や趣向の方にはるかに関心があったのである」と述べている。(p.38, par.1)

にもかかわらず、19世紀の室内楽において、他の音楽家たちは事実完全な対応の理想を持っていたのである。例えば、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)は即興を嫌い、楽譜に忠実に対応して演奏することを好んだ。このことは「後期の複数性(late pluralism)」すなわち、1800年以後のクラシック音楽もまた、完全な対応の理想に対する演奏者や作曲者の肯定的、否定的なさまざまな態度によって特徴付けられる。ということを支持する。初期と後期の区別は純粋に歴史的な区別であり、概念的なものではないことに注意されたい。1800年以後も演奏者が作品の楽譜から自由に逸脱していたことは、そのような逸脱が作曲者の意図と両立すると考えていたからではなく、そもそも、多くの演奏者にとって、1800年以後も完全な対応の理想が存在しなかったということを意味しているのだ。(p.38, par.2)
このような、19世紀の多くの音楽家が楽譜から自由に逸脱していた、という主張は傍流のものでははない。まず、ハミルトンの著書に対する深刻な反論が存在しないこと、また、ショパンの場合にも同様の主張がなされている。(p.39, par.1)

こうした完全な対応の理想はいかにして生まれたのだろうか?ケネス・ハミルトン(Kenneth Hamilton)とアンディ・ハミルトン(Andy Hamilton)はともに、録音技術の発達によるものと考えている。また、ゲーア(Lydia Gehre)は作品概念において、クラシック音楽の演奏において楽譜からの逸脱の減少は、完全な対応という見方が支配的になったことの自然な流れだと考えている。(p.39, par.1)

ここまでの結論として、PCCは過去の多くのクラシック音楽の演奏を特徴づけるものではないということが言える。(p.40, par.1)

3. 音楽の存在論の意味

 これまで1800年以前そして以降も、完全な対応の理想がクラシック音楽の演奏の演奏を特徴づけるわけではないことを議論してきた。ここで改めて、「対応に関する議論compliance argument)」を定式化しよう。

対応に関する議論
(1) もし初期の、そして後期の複数性が正しいのであれば、演奏者が意図的に作品の楽譜から逸脱しているようなクラシック音楽の演奏の具体的な実例が存在する。
(2) しかし、もし、演奏者が意図的に作品の楽譜から逸脱しているようなクラシック音楽の演奏の具体的な実例が存在するのであれば、PCCは正しくない。
(3) 初期の、そして後期の複数性は正しい。
(4) ゆえに、PCCは偽である。

複数性の事例は、厳格な音楽のプラトン主義的説明に反しているだけではなく、スティーヴン・デイヴィスによる説明にも反している。というのも、彼は、ほとんどの指示に従う必要を述べているが、それが満たされない場合が存在するからである。

さて、以上の対応に関する議論は正当なものだが、成り立ちうるのだろうか?まず、レヴィンソンの主張に基づいて(2)を否定する立場を考えよう。わたしたちは音楽作品や演奏を分析する際、「規範的事例(paradigmatic cases)」のみを検討すればよいという立場である。上述したディックの事例は規範的な事例ではなく、ゆえに、(2)は偽であると主張する。(p.41, par.1)

そもそも何が正確に規範的な事例とみなされるべきかどうかは難しい問題をはらんでいる。しかし、そのことはともかく、リストやルビンシュタイン、ペデレウスキらは、クラシック音楽の伝統において規範的な事例である。(p.42, par.1)

より洗練された反論は、スティーヴン・デイヴィスや、トーム(Paul Thom)らによってなされている。彼らによれば、リストの演奏は、作品の演奏ではなく、「ヴァリエーション(variations)」あるいは「同型(homages)」と呼ばれるもので、これらは作品の完全な演奏である必要のないものであるとされる。ゆえに、ディックがこれらのヴァリエーションを用いて行う演奏に関する主張はみな誤っているのだとされる。(p.42, par.2)

バーテル(Christopher Bartel)は、ヴァリエーション(彼はそれを「再演(rendition)」と呼ぶ)に訴える議論の整合性に懸念を示している。ディックはここで、こうした立場を音楽学における事実と整合性のないものだ考える。まず、リストのように、PCCに拘らなかった演奏者が存在していた。さらに、次のタルスキンの主張を参照することができる。

タルスキンは、西洋音楽の歴史のすべてにわたって存在していたとされる二つの伝統を「口述の伝統(oral tradition)」と「記述の伝統(textual tradition)」としてまとめた。

[フランチェスコ・ダ・ミラノや中世のリチェルカーレ]、また、パガニーニやリストが演奏するときのように、[多くの音楽家は]口述の媒体のうちで仕事を行なっていた。音楽家の技術と保存されたさまざまな音楽の記述とのあいだにはある程度関係が存在した世紀であったものの、それはフランチェスコ・ダ・ミラノにとってすでに利用可能なものの二次的な関係であった。そして、それ[音楽と記述との関係]は、ヴィラールト(Adrian Willaert, 1490-1562)あるいはヴース(Jaqcues Buus, 1500-1565)がフランチェスコの時代に「完全なる技(ars perfecta)」がしたようには、あるいは、パガニーニの時代にベートーヴェン交響曲がしたようには、フランク・シナトラの時代にシェーンベルク弦楽四重奏がしたようには、彼の芸術を構成することはなかった。

重要な点は、口述的な、あるいは逐語的(literal)な演奏者は、ともに音楽のテキストと関係していたが、前者は、音楽のテキストを二次的なものと考え、後者は一時的なものと考えたということである。そして、この二つはクラシック音楽において、前者は20世紀には規範的ではなかったにせよ、同時に存在していたのである。(p.42, par.3)

二つめの反論は(1)に関するものである。

わたしたちの現代的な演奏実践は、基本的に完全な対応の理想によって特徴づけられる。そして、音楽の存在論における説明は、わたしたちの音楽作品に対する現代的な観念にのみ注目すればよい。そのため上述のような演奏を説明する必要はない。ゆえに、(1)は誤っている。ロマン主義における演奏ではなく、現代的な演奏のみが実在する(substantial)演奏なのである。(p.43, par.1)

過去ではなく現在のみに注目すればよいという考え方は、現在の著名な音楽哲学者のなかで共有されているとはいえない。レヴィンソンは1750年以降の音楽作品を分析することを述べているし、音楽のプラトン主義者であるキヴィ(Peter Kivy)も歴史的な演奏実践を分析することをひじょうに重視している。ゆえに、もしわたしたちがこのような(歴史的な)制限を受け入れている哲学者たちに従うならば、歴史的な例はさまざまな音楽のプラトン主義における問題を構成することになる。(p.43, par.2)

PCCは歴史的には信頼できないものであるが、少なくとも、論理的にはクラシック音楽の特定の存在論と一致するものであると主張するかもしれない。しかし、デイヴィッド・デイヴィス(David Davies)の「実用的制約(pragmatic constraint)」すなわち、わたしたちの芸術の哲学はどんなものであれ、「批評及び鑑賞の実践(critical and appreciative practice)」に一致しなければならない、という考えがある。ここで、もし、PCCを受け入れたなら次の二つの点で、西洋音楽史と矛盾をきたす。一つに、もしクラシック音楽の演奏に完全な対応の理想が不可欠であると主張するなら、クラシック音楽の演奏であるものとそうでないものとの区分がおかしなことになる。つまり、1900年以前、多くの室内楽クラシック音楽の演奏とはみなされえない一方、多くの管弦楽曲はみなされることになってしまう。

二つに、上述の19世紀におけるリストのような、多くの有名で典型的な音楽作品の演奏が実際には音楽作品の演奏ではないことになってしまう。この二つともに受け入れがたく、ゆえに、批評の実践とは一致しない。(p.43, par.3)

最後の反論は(3)に対するものである。これはエディディン(Aron Edidin)の主張に基づく。

エディディンは彼の論考「パフォーミング・コンポジション(Performing Composition)」のなかで、西洋音楽の伝統には、作曲者の重要性についてのロマン主義的な概念が本質的に存在することを議論している。「音楽的価値のある実現化の行為者として、演奏家は作曲家に対して従属的であった。そして、この従属はクラシック音楽におけるわたしたちの演奏実践に組み込まれている」と主張する。そして、ここから、(3)に対する反論を行う者は、音楽演奏は作曲者の作品を提示(exhibit)するためにつくられているのであり、ゆえに、演奏者は楽譜のうちにあるものの、すべてかつそれのみを演奏すべきである、という音楽作品に関するわたしたちの概念の一部をなしている。と主張する。この議論のもっともすぐれた主張はスティーヴン・デイヴィスにみられる。「わたしたちは、演奏者がある作品の演奏であると称しているものの、たまたま作品に関連しているだけのたんに快い戯れとしての演奏には関心がない」と彼は述べている。(p.44, par.1)

しかしこの主張は現行の議論における問いをぼやけさせてしまっている。ここで問われているのは、西洋の芸術音楽の演奏伝統が本質的にPCCによって特徴づけられるかどうかである。そしてディックは歴史的に特徴づけられえないことを示した。ゆえに、エディディンの擁護者は、なぜリストやショパンクラシック音楽を演奏しているとは言えないのかを説明しなければならない。(p.44, par.2)

スティーヴン・デイヴィスにならい、作品の同一性(identity)は作曲者の意図にあると考えることはできるだろうか。彼は「歴史的または文化的に隔たった作曲家同士が、別々に、同一(identical)の音構造を書き記していたとしても、作品を同定する(identifying)機能の一部は、それが創り出された音楽的-歴史的状況に依拠する」と主張している。しかし、複数性が示すのは、なにが演奏とみなされるのかは、この説明よりも、さらに存在論的に文脈に基づくものであるということである。というのも、演奏の基準に作曲者の意図が無関係であるような演奏の伝統が存在するからである。デイヴィスは上記の立場を洗練させ、次のように述べている。

特定の芸術的実践に由来しつつ、その特定の芸術的実践に具現化されている規範を描き出すことの中心的な役割は、特定の存在者を厳密な、あるいは欠陥のある「実例p」として分類することにある。このような作品の複数性(再現性)はそれが分かち持つ歴史の観点から説明することができる。音楽作品Wの実例pとなるためには、(少なくとも楽譜に書き表された作品の場合)楽譜に伴う歴史 H を持つことと、その共同体[それじしん]の規範によって認可された方法でその楽譜を解釈する演奏者の共同体(performative community)を持つだけでよい。

ゆえに、対応に関する議論は正しい。PCCは棄却されるべきである。(p.45, par.1)

4. 結論

 以上で見てきたように、PCCと音楽のプラトン主義とは密接に関係している。プラトン主義者を動機づけるのは、PCCが音楽作品とその演奏との類似性(similarity)を説明できるからである。だが、PCCは誤っている。ならば、わたしたちは音楽のプラトン主義をも棄却しなければならないのだろうか?(p.45, par.2)

音楽のプラトン主義において、PCCを棄却し、次のように主張することができる。
演奏者は作品に完全に対応しようとする意図する必要はなく、作品を演奏しようと意図するだけでよい。(p.45, par.3)

しかし、この主張はうまくいかないとディックは考える。音楽のプラトン主義の動機は、作品とその演奏とのあいだに「音の類似性(sonic similarity)」、すなわち、同じ作品の演奏がみな「似たように鳴る(sound alike)」場合を説明することにあった。グッドマンによる説明は厳格に音のタイプの同一性を説明できるが、楽譜からのわずかな逸脱によって成り立たなくなってしまう。ある程度楽譜の演奏に成功することをもって類似性を説明する方法も上記の議論で棄却された。(p.45, par.4)

事実、演奏における対応の説明を必要としない存在論がある。ローバウ(Guy Rohrbaugh)音楽作品を歴史的個体(historical individual)だと考えている。カプラン(Ben Caplan)、マテゾン(Carl Matheson)は音楽作品を永続する個体(perduring individual)だと説明する。そしてティルマン(Chris Tillman)は音楽作品を持続する個体(enduring individual)だとする。これらの論者は、なにによって、ある演奏はある作品の演奏となるのか、という問いに答える必要はある。(p.46, par.1)

最後にディックは一般的な事柄について述べる。
芸術に関するわたしたちの直観は誤りやすい。歴史的に不正確な演奏実践に関する直観に頼っている場合、わたしたちの記述は誤りやすい。ゆえに、わたしたちの芸術-存在論的説明は、わたしたちの芸術の伝統に基づく証拠と一致する必要があるのだ。(p.46, par.3)

まとめ

西洋クラシック音楽において、ある演奏がある特定の音楽作品の演奏としてみなされるためには、その音楽作品の楽譜に対して、実際の演奏が完全に対応していること、あるいは、演奏者が完全な対応を意図していることが必要だとする「完全な対応の条件(PCC: Perfect Compliance Condition)」は間違っている。西洋音楽史を紐解けば、1800年以前、そして以降も、演奏者は楽譜に忠実に演奏する伝統と同時に、楽譜を逸脱する伝統をも持っていた。これを複数性と呼ぶ。この複数性が存在していたという事実から、PCCは西洋クラシック音楽の演奏を特徴づけるわけではないことが論証される。ゆえに、PCCは棄却されるべきである。

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フランツ・リストコンプライアンス違反」の容疑』

*1:John Dyck. 2015. Perfect Compliance in Musical History and Musical Ontology.

*2:この論文は次回の現代の音楽美学研究会において購読する論文として岩切さんにご紹介いただいたものです。

"The Modern System of the Arts" Part I P. O. Kristeller

はじめに

本稿は、クリステラーの著名な論文「近代的諸芸術のシステム:美学史研究」Kristeller, Paul Oskar. "The modern system of the arts: A study in the history of aesthetics part I." Journal of the History of Ideas (1951): 496-527. の読書ノートである。

この論文は「五つの主要なアート(絵画、彫刻、建築、音楽、詩)(the five major arts)を構成要素とする〈アート〉(Art)」という概念は18世紀以前には存在していなかった」ことを歴史的に示す。
わたしたちがよく耳にし、当たり前の概念として受け入れ、用いるアートという概念が、どのような背景の下で現れたのかということをクリステラーは問う。

クリステラーのこの主張は発表後広く受け入れられることとなった。近年、その真偽に関して正確な検証が行われはじめている*1。それらの論文もついで読解してゆくつもりである。

なお、理解の一助として筆者の責任で小見出しを付けた。

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Ⅰ. イントロダクション

アート(Art)という語でしばしば参照されるのは、「五つの主要なアート」(five major arts)、すなわち、絵画、彫刻、建築、音楽、詩である。
これらは現在、所与のものとして見なされ、美学研究の規範として用いられている。けれども、その中立的な見かけとは裏腹に、18世紀に生まれた比較的新しい概念なのだ。

現代美学の基礎をなしており、わたしたちによく知られている、この五つの主要なアートというシステムが、比較的最近生まれたものであり、古典期、中世そしてルネサンス期の思想に遡れば多くの材料を有していたものの、18世紀以前にははっきりとした形をなしていなかったことを示すことがここでのわたしの目標である。

It is my purpose here to show that this system of the five major arts, which underlies all modern aesthetics and is so familiar to us all, is of comparatively resent origin and did not assume definite shape before the eighteenth century, although it has many ingredients which go back to classical, medieval and Renaissance thought.(p.498, par.2)

Ⅱ. カテゴリーの異同

テクネーとアルス

古典ギリシア語τέχνη(テクネー)、あるいはラテン語ars(アルス)は特別「ファインアート」(fine art)を意味していたのではなく、わたしたちが工芸(crafts)や科学(sciences)と呼ぶような人間の活動のすべてに対して用いられていた。
たとえばギリシアの著述家がアートと自然(nature)とを対置するとき、前者は人間の活動一般を意味していた。ヒポクラテスの有名な言葉「人生は短く、技芸は長い」(Ὁ βίος βραχὺς, ἡ δὲ τέχνη μακρὴ.)*2という言葉における「技芸(τέχνη)」は芸術ではなく、医術のことを指している。また、プラトンは合理的な方法とルールによって発展するものとしてアートを考え、アリストテレスは知(knowledge)に基づいた活動としてアートを捉えていた。さらにストア派は、道徳的に生きる技術としてアートを捉えていた。(p.498, par.1)

現代美学の中心的な概念である美(beauty)は古典期において、現代的な意味では現れていなかった。
ギリシア語καλόνカロン)、ラテン語pulchrum(プルケルム)は道徳的なよさ(the moral good)とはっきりとは区別されていなかった。プラトンは、『ファイドロス』において、「神は美しく(καλός, カロス)、知恵深く(σοφός, ソフォス)、そして道徳的にすぐれている(ἀγαθός, アガトス)。」*3と述べている。ここでκαλόςは純粋に美しいものを意味するのではなく、道徳的なよさと結びついた美しさを意味している。また、ストア派の言葉に「美しいもの(καλός, カロス)のみが道徳的によい(ἀγαθός, アガトス)のだ。」*4とあり、それを受けたキケロの言葉「真摯であることのみが道徳的によいことだ」*5がある。ゆえに「美しさは道徳的なよさ以外ではありえず、よさとは有用なものとしてのよさ以外ではありえなかった。*6のだ。

詩、音楽、視覚芸術の実相

 さて、次に、個々の芸術が古典期においてどのように評価され、グルーピングされていたのかに注目しよう。

まず、(poetry)は古典期、非常に敬意を払われていた。ミューズによって霊感を受ける詩人という考えは、ホメロスやヘシオドスにまで遡ることができる。また、ラテン語のvatesという言葉は、古典期における詩と宗教的な讃歌との関連の消息を伝えている。さらに、プラトン『ファイドロス』における「聖なる狂気(divine madeness)」としての詩という表現もある*7。ここでは独立した「ファインアート」という概念はなかった。(p.500, par.1)

アリストテレスは『詩学Poetics)』において体系だった詩の研究を行い、後の批評家たちに大きな影響を与えた。ソフィストたちが活躍をはじめた時代から、古典期を通して、詩と弁論との間には相互関係があった。また、後のアラビア圏の解釈者たちは、アリストテレスの『弁論術(Rhetoric)』と『詩学』という二つの著作が彼の『論理学(Organon)』ののちに置かれていることから、論理学、修辞学、詩学という関係を強調した。そのことはのちにルネサンス期の思想にも影響することになる。(p.501, par.1)

音楽(music)は古典期の思想の中で重要な位置を占めていた。しかし、ギリシア語のμουσική(ムーシケー)という言葉には注意が必要である。例えばギリシアにおける音楽教育について見てみよう。それはプラトンの『国家』からうかがい知ることができる。当時の音楽教育では、わたしたちが考える音楽のみならず、詩や舞踊もまた教えられていた*8。また、プラトンアリストテレスの著作において、音楽は詩や舞踊、さらに叙情詩(lyric)や劇詩(dramatic poetry)とは区別されていなかった*9。こうした伝統は器楽曲、そして、ピュタゴラス派による数学的な音楽理論の発展によって徐々に消えていった。(p.501, par.2)

古典期の哲学者たちは視覚芸術(visual arts)について個別の組織的な論考を著さなかった。加えて、自分たちの思考の体系のなかで際立った位置を与えることもなかった。(p.502, par.1-p.503)

また、プラトンアリストテレスは模倣の術(imitation art)という分類を述べている。しかし、この模倣 μίμησις(ミメーシス)の術のなかには詩や音楽のみならず、鏡の用い方や、マジックなどが含まれていた*10。やはり現在のアートの分類とは異なるものだった。(p.504, par.1)

カテゴリーの欠如

次に次節で扱うリベラル・アーツ(liberal arts)の由来についてすこし触れておこう。
その前身はギリシアにおける初等教育(τὰ ἐγκύκλα)(タ・エンキュクラ)である。しかし、その初期の歴史は未だに明らかにはなっていない。キケロ(Marcus Tullius Cicero, BC. 106-BC. 43)は、しばしばリベラル・アーツに言及し、それらのアーツの相互作用について語っているが、その正確なリストは述べられていない*11
「自由七科」(seven liberal arts)のはっきりとした定義の登場はカペッラ(Martianus Capella)を待たねばならなかった。彼は、文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文学、そして音楽の七つをあげた。(p.505, par.1)
(p.506, par.2)

以上をまとめよう。

古典期の著述家、思想家たちは、すぐれた作品に出会い、その魅力に鋭敏であったものの、それらの美的質をそれら作品の知的、倫理的、宗教的、実際的機能や内容から切り離すことができなかったし、したがらなかった。また、作品の美的質を、ファイン・アートを一緒にまとめ上げるための基準として用いることも、それらの作品を包括的な哲学的解釈の主題とすることもできなかったし、したがらなかった。

'ancient writers and thinkers, though confronted with excellent works of art and quite susceptible to their charm, were neither able nor eager to detach the aesthetic quality of these works of art from their intellectual, moral, religious and practical functional or content, or to use as such an aesthetic quality as a standard for grouping the fine arts together or for making them the subject of a comprehensive philosophical interpretation.'(p.506, par.2)

Ⅲ. リベラル・アーツ 

中世初期、古典期後期から自由七科の枠組みは受け継がれていた。この自由七科は、人間の知識の包括的な分類であるだけではなく、修道院学校(monastic school)や本山学校(cathedral school)のカリキュラムとして12世紀に至るまで用いられた*12

またカロリング朝期から、三学Trivium):文法、修辞学、弁証法と、四科(Quadrivium):算術、幾何、天文学、音楽。という区別が強調されはじめた。

加えて、自由七科とは別に、アリストテレス書物とその順番に基づいた論理学、倫理学、自然学という三つの哲学区分が、ギリシア語アラビア語の翻訳作業を通じて知られるようになってきた。さらに、大学の興隆に伴い、哲学、医学、法学が生まれた。

他方、聖ヴィクトールのフーゴ(Hugh of Saint Victor, 1096-1141)によって、自由七科に対置される形ではじめて機械七科(seven mechanical arts)が形成された*13。この枠組みは後の重要な思想家、ボーヴェのヴァンサン(Vincent de Beauvais, 1184-1264)やアクィナス(Saint Thomas Aquinas, 1225-1274)に影響を与えた。

ファインアートは以前として一つにまとめあげられることもなく、また、科学、工芸、そのほかの共通する部分のないばらばらな種々の人間の活動から拾い出されることはなかった。(p.507, par.1)

学校や大学では詩と音楽は教えられていたが、視覚芸術に関しては、職人のギルドにおいて扱われるものだった。(p.508, par.1)

アートは古典期と同じく広い意味を持っており、人に教えられるもの[技術]みなされていた。中世に生まれた artista (アルティスタ)という言葉は、職人(craftsman)、もしくはリベラルアーツの学生のどちらをも意味していた。加えて、ダンテ(Dante Alighieri, 1265-1321)、アクィナスにとって、artesアルテス)は絵画、彫刻、音楽のみならず、靴作り、料理、ジャグリング、文法や算術をも意味していた。(p.508, par.2)

他方、美(beauty)の概念について、アクィナスや少数の中世哲学者たちは言及していたが、それらはいかなるアートとも結びついていなかった。第一に神の形而上学的な恩寵と、神の創造として美は考えられていた。結論として、中世においては、ファインアートという概念やシステムは存在していなかった。(p.509, par.1)

Ⅳ. ルネサンス

人文学と詩

一般的に流布している意見とは異なり、ルネサンス期にファインアートというシステムは形成されなかったし、包括的な美学理論もまた形作られなかった。(p.510, par.1)

初期のイタリアの人文主義において、以前の自由七科を引き継ぎつつ、新たに人文学Studia humanitas)が誕生した。これは、自由七科の中の三学の論理学を抜き出し、伝統的な文法学と修辞学に歴史学ギリシアの哲学と、道徳哲学(moral philosophy)を加えて、さらに詩をもっとも重要な部分とした*14

14世紀から15世紀における詩(poetry)とは、ラテン語の詩句を書き、古代の詩句を解釈する能力のことと理解されていた。そして、16世紀には、俗語(vernacular)詩や俗語の散文がラテン文学と同様の地位を分かちもつようになった。加えて、プラトン主義の復興により、「聖なる狂気」としての詩人というイメージが再び広がった。(p.510, par.2)

16世紀の中期、アリストテレスの『詩学』が『修辞学』とともに影響を増した。翻訳書や注釈書が著わされただけではなく、詩学に関する論考の増加によるものだった。そして、詩的模倣(poetic imagination)がアリストテレス学者のうちで注目され、学者の中には、模倣の形式としての詩、絵画、彫刻、そして音楽の類似性を指摘した者もいる。しかし、多くはこうした模倣芸術としての分類を作ろうとはしなかった。(p.511, par.1)

ルネサンスにおける諸芸術

ルネサンス期、音楽理論リベラルアーツの一つとしての地位を保ち続けていた。加えて、16世紀終わりには、カメラータ(camerata)のオペラ形成のプロジェクトが、音楽と詩の関係性に改めて光を当てた。(p.512, par.1)
ルネサンス期には、イタリアにおいて、チマブーエ(Cimabue, 1240-1302)やジョット(Giotto di Bondone, 1267-1337)が現れ、絵画やその他の視覚芸術の漸進的な発展が始まっており、それは16世紀に頂点に達した。また、14世紀から16世紀にかけて、著述家は視覚芸術に共感を示し、絵画が機械的技術(mechanical arts)ではなく、リベラルアーツの一員として見なされるべきだと繰り返し主張していた。(p.513, par.1)

こうした視覚芸術に関する文化的主張は、16世紀のイタリアに重要な発展をもたらした。そして、三つの視覚芸術として、絵画、彫刻、そして建築がはっきりと定義された。

さらに画家、建築家であるヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)によって、'Arti del Disegno' という言葉も誕生し、この名称は、1563年のー絵画芸術アカデミー(Accademia delle Arti del Disegno)の誕生に影響した。これは画家、彫刻家、建築家がそれまでの職人ギルドとの繋がりを断ち切るかたちで設立された。工場における教育ではなく、幾何学と解剖学を取り入れた科学的な講義を行なった。(p.514, par.1)

'Ut pictora poesis.' 「詩は絵のように」というホラティウス箴言は16世紀から18世紀にかけて注意深く研究された。また、ホラティウスの『詩について(Ars poetica)』は絵画論のための文学のモデル(literlly model)として用いられ、多くの詩の理論と概念が絵画に応用された。こうした詩と絵画の比較は、三つの視覚芸術が工芸(crafts)から解放される契機となり、後の五つのファインアートのシステムの基盤をつくった。(p.515, par.1)

優位性、アマチュア、比較

また、当時、優位性(precedence)に関する論争が盛んに行われた。これはさまざまな科学、芸術、そのほか法学や医学などのさまざまな人間活動のなかでいずれが比較して長所や優越性を持っているかを議論するものだった。(p.516, par.1)

当時のマチュア(amateur)の伝統に目を向けてみよう。当時、カスティリョーネ(Baldassare Castiglione, 1478-1529)による紳士淑女のマナーを記載した『宮廷人の書』(Il Cortegiano)は出版されるや否や大好評を博した。この書の中で、詩、音楽、そして絵画の鑑賞は紳士淑女に御誂え向きの趣味であるとされている。ただ、同時に、フェンシングや乗馬、古典の学習やコインやメダル集め、自然探究もまた趣味のリストに入れられている。
けれども、17世紀前半には絵画、音楽、詩によって生み出される喜びは、幾人かの著述家に、同様のものであると感じられていた。(p.517, par.1)

ルネサンスの文芸における詩と絵画、そして音楽のもっとも精密な比較はボヘミアイエズス会ポンタヌス(Jacobus Pontanus, 1542-1626)の著作に記されている*15
ポンタヌスは、視覚芸術における三つの芸術を喜びを与えてくるような模倣の形式とみなし、絵画をリベラルアーツであることを論じている。一方、音楽理論ではない作曲は詩と絵画と同列ではないとしている。(p.517, par.2)

美についてのルネサンスの思索は、いまだアートとは関係しておらず、明白に古代の枠組みに影響されている。(p.518, par.1)

イタリアにおいて、ファインアートのモダンシステムはベッティネッリ(Saverio Bettinelli, 1718-1808)のような著述家が当時のフランス、イギリス、そしてドイツの論説に追随するようになる以前は現れなかった。(p.518, par.2)

Ⅴ. 芸術と科学の分離 

フランスの達成

17世紀の間、ヨーロッパの文化的主導権はイタリアからフランスへと移った。その際、イタリアのルネサンスに特徴的な思考や傾向性は引き継がれた。(p.521, par.1)
ルイ14世の治世、フランスでは多くの文化的偉業が達成された。詩や文学、絵画ではプッサン(Nicolas Poussin, 1594-1665)、音楽ではリュリ(Jean-Baptiste de Lully, 1632-1687)が登場した。(p.521, par.2)
こうしたさまざまな芸術の興隆は、政府主導による学会や団体の発展によるものだった。
1635年には宰相リシュリー(Armand Jean du Plessis de Richelieu, 1585-1642)により、フランス語及びフランス詩の発展のためのアカデミー・フランセーズ(Académie Française)が設立された。その7年後王立絵画彫刻アカデミー(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)が設立され、アルチザンギルドから芸術家たちを切り離すことが試みられた。
以後1660年から1680年の間に、さらに多くのアカデミーが政治家コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619-1683)によって設立された。
こうしたコルベール設立のアカデミーは文化的な分野や各々の職業の分野の包括的なシステムを反映していたものの、特にはっきりとしたファインアートという概念を反映していたわけではなかった。(p.521, par.3)

この時代、自然科学の発展と自立とがなされた。1666年にはフランスでは科学アカデミー(Acqdémie des Sciences)が誕生し、1660年にはイギリスで王立協会(Royal Academy)が設立された。

新旧論争

こうしたさなか、「新旧論争」(Querelle des Anciens et Modernes)が勃発した。

その由来に触れておこう。
自分たちの新しい方法論や視座をひとびとにアピールするために、現代的な研究のメリットを古典的なそれと対置する方法は、ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)やデカルト(René Descartes, 1596-1650)に起因する*16。例えば、デカルトの『情念論』(1649)ではこう述べられている。

What the ancients have taught is so scanty and for the most part so lacking in credibility that I may not hope for any kind of approach toward truth except by rejecting all the paths which they have followed.

古典作家たちが教えてきたことは、あまりに不十分で、信頼性に欠けるために、彼らが辿っていったあらゆる道を拒否することのないような真理に向かうどんな行程も望まない。

直接新旧論争を引き起こしたのは、近代派ペロー(Charles Perrault, 1628-1703)による、ルイ14世の病気からの回復祝いとして書かれ、ルイ14世の治世における科学的、文芸的な達成を寿ぐために著された『ルイ大王の世紀』(1687)の中の次の詩句だった。

La docte Antiquité dans toute sa durée
A l'égal de nos jours ne fut point éclairée.

Le siècle de Louis le Grand ("The Century of Louis the Great," 1687)*17

Learned Antiquity, through all its extent,
Was never enlightened to equal our times.

ペローのこの文章に対して、古代派はさまざまな反駁を加え、以後長きに渡る論争が繰り広げられた。(p.525, par.1)

この論争は二つの重要な結果をもたらした。

一つに、近代派は、文芸における論争を、古代人と近代人との間での、人間活動のさまざまな分野の組織だった比較へと拡大した。そのことにより、これまでのシステムよりも新しく、より明確な、知識や文化の分類を発展させた。

二つに、古代人と近代人の発言がひとつひとつ検証されることで、近代人が古代人にはっきりと優越している数学的計算や、知識の蓄積に拠るすべての分野がある一方で、近代人と古代人のどちらが優れているのかはっきりしないような、個人の才能や批評家の趣味に依拠する分野があることが確認された。(p.525, par.2)

こうして、芸術と科学とを明白に区別する基礎がはじめて用意されたのだった。(p.525, par.7)

*1:Porter, James I. "Is Art Modern? Kristeller's ‘Modern System of the Arts’ Reconsidered." The British Journal of Aesthetics 49.1 (2009): 1-24. Shiner, Larry. "Continuity and Discontiuity in the Concept of Art." The British Journal of Aesthetics 49.2 (2009): 159-169. Kivy, Peter. "What Really Happened in the Eighteenth Century: The ‘Modern System’Re-examined (Again)." The British Journal of Aesthetics 52.1 (2012): 61-74. Young, James O. "The ancient and modern system of the arts." The British Journal of Aesthetics 55.1 (2015): 1-17. 筆者注

*2:Hippocrates, Aphorisms

*3:τὸ δὲ θεῖον καλόν, σοφόν, ἀγαθόν, καὶ πᾶνὅτι τοιοῦτον. Plato, Phaedrus, 246 d-e

*4:μόνον τὸ καλόν ἀγαθόν. Stoicorum Veterum Fragmenta III, p.9ff.

*5:quod honestum sit id solum bonum. Cicero, De finibus III, 26

*6:"Beauty" nothing but moral goodness, and in turn understood by "good" nothing but the useful. p.500, par.1

*7:Phaedrus 245 a.

*8:Republic II, 376 e ff.

*9:Poetics I, 1447 a 23ff. Laws II, 669 e f.

*10:Republic X, 596 d f. 1602 d.

*11:Pro Archia poeta 1, 2: "etenim omnes artes quae ad humanitatem pertinent habent quoddam commune vinculum." 「実際、人間に関係する技芸のすべては、互いに強い関連性を持つ」筆者注。

*12:P. Abelson, The Seven Liberal Arts ( thes. Columbia University, New York, 1906.)

*13:Hugonis de Sancto Victore Didascalion, bk. II, ch20ff. 簡単な説明を付す。lanificium:織物の学。毛織物や服飾、カーテンやシーツなどの作製に関する織物の学(cf. haec omnia studia ad lanificium pertinent.)。armatura:戦争の道具の学。造船、建築、鎧作りなど、戦争の道具に関する学(cf. arma aliquando quaelibet instrumenta dicuntur, sicut dicimus arma belli, arma navis, id est, instrumenta belli et navis. ceterum proprie arma sunt quibus tegimur, ut scutum, thorax, galea, vel quibus percutimus, ut gladius, bipennis, sarisa. tela autem sunt quibus iaculari possumus, ut hasta, sagitta.)。navigatio:商業の学。航海法だけではなく、商業や交渉に関する学(cf. Navigatio continet omnem in emendis, vendendis, mutandis, domesticis sive peregrinis mercibus negotiationem.)。agricultura:農業の学。葡萄園や果樹園、林業を含む学。venatio:狩りの学。狩猟のみならず、畜産と漁業、養蜜やチーズの発酵業など、かなり幅広い分野を含む学(cf. venatio igitur continet omnia pistorum, carnificum, coquorum, cauponum officia.)。medicina:医の学。手術や薬といった医学のみならず、運動や睡眠、食事や空気といった広い意味での健康に関する学。theatrica:劇の学。アートを鑑賞する劇場や、祈りのための教会のみならず、晩餐会や祭りの場といったひとびとが喜びや休息のために集まる場所に関する学(cf. Theatrica dicitur scientia ludorum a theatro ubi populus ad ludendum convenire solebat, non quia in theatro tantum ludus fieret, sed quia celebrior locus fuerat ceteris.)。筆者注。

*14:Kristeller, Paul Oskar. "Humanism and Scholaticism in the Italian Renaissance," Byzantion 17 (1944-45), 346-47, esp.364-65

*15:Jacobi Pontani de Societate Jesu Poeticarum Institutionum libri III. Catalog Record: Jacobi Pontani ... Poeticarum institutionum... | Hathi Trust Digital Library2017/08/16閲覧。サイト引用は筆者。

*16:Dictionary of the History of Ideas Ancients and Moderns in the Eighteenth Century Dictionary of the History of Ideas :: :: University of Virginia Library 2017/08/16閲覧。筆者注。

*17:筆者引用。

Aaron Meskin "Videogames and Creativity" Workshop in Ritsumeikan Report

概要

2017年8月9日、立命館大学にて分析美学者のメスキン教授の発表とワークショップが行われた。本レポートでは、メスキンの発表の振り返りと質問と応答を記す。

Videogames and Creativity ビデオゲームと創造性

はじめに

ビデオゲームプレイヤーは創造性(creativety)を発揮していないとされる。しかしこれは本当だろうか? この発表では、創造性についての定義を概観し、つぎに、ビデオゲームと創造性に関する三つの問いを確認し、ビデオゲームが問題解決(problem-solving)の要素を含むがゆえに創造的であることを示す。

創造性とは何か?

まず、創造性の定義を概観する。まず、ボーデンの定義、グートの定義を紹介し、一般的な定義を採用する。ボーデンは創造性を以下のように定義する。

「創造性とは、新しく驚きを与えるような価値のある概念や人工物をつくりだす能力のことである」

'Creativity is the ability to come up with ideas or artifacts that are new, surprising, and valuable'(Boden, 2004, p.1)*1.

さらにボーデンは 創造性を心理的創造性と歴史的創造性とに区別する。

心理的創造性とは、それを生み出した人物にとって新たな驚きを与えるような価値のある概念をつくりだすことである。」
'P-creativity*2 involves coming up with a suprising, valuable idea that's new to the person who comes up with it' (Boden, 2004, p.2).

「新しい概念が歴史的に創造的であるとは(わたしたちが知っている限り)、それ以前には誰もそれを持っていなかったということ、すなわち、人類史においてその概念がはじめて生じたということを意味する」
'[I]f a new idea is H-creative*3, that means that (so far as we know) no one else has had it before: it has arisen for the first time in human history'(Bodn, 2004, p.2).

ここでは、行為者については注目されてはいない。ゆえにメスキンはつぎのグートの定義を参照する。

ゆえに創造性は、オリジナル(非常に新奇)で、顕著な価値を持つ何かを生み出すセンスを伴う、ある種の創造活動である、

'So creativity in the narrower non-modal sense is the kind of making that involves flair in producing something which is original (saliently new) and which has considerable value'(Gaut, 2003, p.151)*4.

そこで、この発表では定義としてつぎの定義を参照する。

創造性は本質的に新奇さ、価値、そしてある程度の行為者的、かつまたは意図的条件を伴う

Creativity essentially involves in novelty, value, and some broad agential and/or intentional condition.

三つの問い

まず、ビデオゲームと創造性に関する三つの問いを提示する。
1.創造の問題(The creation question):ビデオゲームを作る際に創造性はどのように関係するのか?
2.因果関係の問題(The causal question):ビデオゲームはいかなる程度、創造性を促進し、あるいは阻害するのか?
3.ゲームプレイの問題(The game play question):ビデオゲームプレイはどの程度創造性を持つのか?

1.の創造の問題は明白に創造性を持つと考えられるので、ここでは扱わない。

因果関係の問題

そして、2の因果関係の問題についていくつかの実験を紹介する。しかしそのどれも相関関係のみを提示しており、ビデオゲームが創造性にどのような影響を与えるかについては十分に示せていない。とメスキンは述べる。

ゲームプレイの問題

マインクラフトにおける建築のような創造性、ハックやチートのような創造性、ボイスチャットを用いた対戦ゲームにおける創造性を扱うことはしない。なぜならこれらの創造性は明白だからである。ここでは、一般的なゲームプレイにおける創造性を扱う。

ゲームプレイの創造性は(1) ゲームであるがゆえに、あるいは(2) インタラクティブであるがゆえに生じるのだろうか?
(1) に関して:マルバツゲームのようなゲームから、ゲームであることがただちに創造性の条件ではないことが分かる。
(2) に関して:インタラクティブであることが創造性の根拠であるとは必ずしも言えない。

Problem-solvingとしての創造性

 そこで、メスキンは、問題-解決と創造性に深い関係があることを指摘する。もちろん、すでに存在する手法をなぞるだけの問題解決や、機械によるそれは創造的ではないし、すべての創造性が問題解決に基づくものではない(ex. インプロビゼーション)。しかし、メスキンは以下のように主張する:

ビデオゲームのすべての側面が問題解決的であるわけではない。しかし、問題解決はビデオゲームプレイの中心的な部分である。さらに、多くのビデオゲームにおける問題解決は、機械的なものではなく、既知のルーティンや技術に基づいてはいない。ゆえに多くのビデオゲームにおける問題解決は創造的である。

さらに、ビデオゲームにおける問題解決は

心理的にオリジナル(Psychologically original)である。

機械的に、偶然的には達成されない。

・価値を持っている(「よい戦略」を立てることの価値、美的価値、ルーディック(ludic)な価値)。

ゆえに、一般的な主張として、

ゲームプレイは、高度に問題解決的な活動が含まれているがゆえに、創造的な活動である。

Gaming is, in virtue of the high degree of problem-solving involved in it, a creative activity.

と結論する。

Q&A

Q:ゲームプレイの創造性において、機械が行為者である場合は創造性の定義には当てはまらない。しかし、対戦ゲームのコンピュータ同士の戦いにおける行動は、ときに鑑賞に値するような興味深いものであり、将棋における人工知能の一手は棋士をしてときに「創造的な一手だ」と言わしめる。ゆえに、創造的な行為者を人間だけに限らない可能性もあるのではないか?*5

A:それらは「一見創造的」な例である。ここでは、人間によるゲームプレイの創造性に焦点を当てているので、機械が行為者の場合を除外している。AIによる創造性はこれから議論されうる問題だろう。

また、見かけの創造性と真の創造性との区別も問題になるだろう。この発表で行為者を人間に限定しており、そうした区別の問題は問題の外にある。

あとがき

Meskin教授は笑顔がチャーミングで、蒼い眼が好奇心でくりくりと輝いている印象を受けました。非常にフレンドリーで、どんな質問でも丁寧に答えてくださる方でした。

f:id:lichtung:20170810215536j:image

"スケッチ、メスキン教授によせて"

 

*1:Boden, Margaret A. The creative mind: Myths and mechanisms. Psychology Press, 2004.

*2:Psychology-Creativetyの略

*3:Historical-creativeの略

*4:Gaut, Berys. "Creativity and imagination." The creation of art (2003): 148-173

*5:実際のわたしの英語による発言はこれほど流暢ではないので、メスキンに十分には伝わっていない可能性があること、そして、日を開けているため、不可避的に自身による補強や言い方の洗練がいくらか加えられていることに注意。

アーロン・メスキン「自己-関与的なインタラクティブフィクションとしてのビデオゲーム」

書誌情報

Robson, Jon, and Aaron Meskin. "Video Games as Self‐Involving Interactive Fictions." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 74.2 (2016): 165-177.

章立て

1.イントロダクション
2.ビデオゲームとフィクション
2.A.ビデオゲームフィクション
2.B .ビデオゲームフィクションに関する既存の説明
2.C.インタラクティビティ
3.自己-関与的なインタラクティブフィクション
3.A.SIIFを理解する
3.B.アバター
3.C.SIIFを動機づける
4.ウォルトン主義からの反論
4.A.ウォルトンによるフィクション的自己-関与
4.B.ウォルトン主義の手続き
4.C.作品世界への参加
4.D.作品世界に関する懸念
5.SIIFの意義とスコープ
5.A.SIIFのスコープ
5.B.SIIFの意義

どんな論文?

多くのビデオゲームTRPGなどをその例とするSIIF(Self-Involving Interactive Fiction)*1というフィクションの定義を提唱する。

有用さ

ビデオゲームTRPGといったさまざまなゲームを包括的に扱うことができるような定義の提示。ウォルトンの虚構概念のビデオゲームへの適用とその修正を行う。

手法

SIIFの擁護のために多くの実例を用いている。また、ウォルトンの議論を具体例に当てはめ、検討している。

発展性

ビデオゲーム研究から包括的なゲーム研究への可能性を提示している。また、暴力表現を含むゲームとゲームプレイヤーの倫理的な関係を分析する手がかりを与える。

関連文献

Meskin, Aaron, and Jon Robson. "Videogames and the Moving Image." Revue Internationale de Philosophie 254.4 (2011): 547.
Meskin, Aaron, and Jon Robson. "Fiction and fictional worlds in videogames." The philosophy of computer games. Springer Netherlands, 2012. 201-217.

Walton, Kendall L. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. Harvard University Press, 1990.
Walton, Kendall L., and Michael Tanner. "Morals in fiction and fictional morality." Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volumes 68 (1994): 27-66.

 

*1:8/9のワークショップにて会話した際のメスキン本人の発音は/si:f/と聴こえた。

アーロン・メスキン「コミックを定義する?」

書誌情報

Meskin, Aaron. "Defining comics?." The Journal of Aesthetics and Art Criticism 65.4 (2007): 369-379.

Defining Comics? - MESKIN - 2007 - The Journal of Aesthetics and Art Criticism - Wiley Online Library

章立て

1. イントロダクション
2. コミックを定義する近年の試みに関する簡単な歴史
3. ハイマン-プラットによるコミックの定義
4. コミックとナラティヴ
5. コミックと子供の絵本
6. コミックと歴史
7. いくつかのさらなる懸念
8. コミックと定義
9. 結論

どんな論文?

分析美学者メスキン(Aaron Meskin)のコミックの定義に関する論文。コミックの四つの定義を批判。コミックを定義する試み自体への疑問を表明。

有用さ

コミックの定義をまとめ、neccessary faturesを定義する難しさを指摘。コミックの定義は可能であるにしてもstandard featuresに関する定義であると述べる。また、何を目的として定義するのかを再考する必要性を説く。

手法

コミックの定義を批判する際、コミックの事例のみならず、映像や絵本などの関連する分野の事例も豊富に用いている。芸術作品の定義の議論に関して、ウォルトンやレヴィンソンの議論を紹介している。

発展性

芸術作品を定義する目的と定義という作業そのものの意味の再考を促している。

関連文献

Walton, Kendall L. "Categories of art." The philosophical review (1970): 334-367.Categories of Art on JSTOR

Meskin, Aaron. "Comics as literature?." The British Journal of Aesthetics 49.3 (2009): 219-239.
Weitz, Morris. "The role of theory in aesthetics." The journal of aesthetics and art criticism 15.1 (1956): 27-35.The Role of Theory in Aesthetics on JSTOR

デイヴィッド・ベネター『人間という苦境』第2章 意味

第2章 意味 Meaning

この章では、「人生に意味はあるのか」という問いが、どのような問いなのかを確認する。第1節では、人生の意味を問う動機に軽く触れ、第2節では人生の意味をさまざまなパースペクティヴから確認する。第3節では、あるパースペクティヴにおいては人生の意味が存在することを論証する。

The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions

1. イントロダクション

自分の人生が無意味(meaningless)なのではないかとおそれることは、わたしたちにとってまれなことではない。こうした考えをときおり、ほんの一瞬だけ抱くひともいれば、こうした考えをしばしば、継続して抱くひともいる。あるいは、存在的不安(existential anxiety)や絶望にとらわれているひともいる。(p.13, par.1)

こうした深さや長さの如何にかかわらず、ここで懸念されているのは、あるひとの人生の意義のなさ(insignificance)や無益さ(pointlessness)である。

人生に関する問いは次のような問いから生まれている。

わたしたちの時空間的な限界(limitedness)に関する問い(p.13, par.2)、そしてわたしたちが生まれてきた際の偶然性(contingency)に関するもの(p.13, par.3)、あるいは生まれてきた際の偶然性に比べて、死ははっきりとしていることについて(p.14, par.1)。また、死に至るまでの繰り返しの毎日の意味や、次世代がふたたび生まれては死に向かう過程を繰り返す意味について問われる。(p.15)

こうした問いを考えないひとはいないだろう。そのときひとはどんな答えを出すのだろうか?

あるひとはこうした問いに対して悲観的な答えを出すだろう。ベネターは、悲観的な答えは一般に受けいられるものではないかもしれないが、適切(appropriate)な答えであると言う。事実、次章では、人生の意味のうち重要な意味があり得るかどうかについてニヒリスティックな結論が述べられる。けれども、人生におけるすべての意味に対してニヒリスティックな態度をとる必然性はない。次節では、人生にどんな意味がありうるのかを問い、第3節では、わたしたちの人生において、ある種の意味は獲得し得るものだということが論証される。

2. 問いの理解

わたしたちが問おうとする「人生に意味はあるのか」という問いはそもそも無意味(meaningless)な問いである、と主張する者もいる。彼らによれば、意味を持つのはつねに語(word)あるいはサイン(sign)であり、語やサインが指し示す(signify)ものは意味を持たない。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは「ランプシェードに意味はあるのか」と同じく、カテゴリーミステイク(category mistake)で無意味な(meaningless)な問いなのだ。というのも「ランプシェードそのもの」は「ランプシェード」という言葉のように意味を持つわけではない。
これに対してベネターは反論する。
彼らは意味という言葉をあまりにも狭義な理解で用いている。意味とは、〈意義深さ〉(significance)や〈重要性〉(importance)あるいは〈目的〉(purpose)といった意味を含みもつ。ゆえに、「人生に意味はあるのか」という問いは、人生に意義深さや重要性や目的があるのかどうかを問うており、これはカテゴリーミステイクな無意味な問いではない。(p.17)
意味という言葉に含まれる以上の様々な区別をベネターは取り立てて意識せずに用いる。というのも、ベネターがこれから問おうとするのは、以上のような意味の総体を人生が持ちうるかどうかという問いそのものであるからだ。

限界の超越

多くの論者は人生の有意味性を考えるにあたって、〈限界の超越〉(transcending limits)について注目している。
ここで、「有意味な人生とは、自分が、自分自身の限界を超越し、意義深いようなかたちで他者に影響し、自分を超えた目的に仕えるような人生のことである」(A meaningful life is one that transcends one's own limits and significantly impacts others or serves purposes beyond oneself.)、とされる。(p.18, par.2)

ここで、他者に影響を与えることとはどういうことだろうか?
他者にはさまざまなかたちで影響を与えることができる。歴史を紐解けば、影響力を持った人間たちは、よい影響を与えたというよりも、死や破壊と関係するかたちで他者に影響を与えてきた。すなわち、多くの征服者や僭主、支配者や大量殺戮の指導者が、他者に対して、死や破壊という大きな影響を与えてきた。(p.18, par.3)

こうした人物たちの人生が有意味である可能性もあるが、それに反対する論者もいる。彼らは、「その目的や超越の方法がポジティヴで、有益な、あるいは価値があるようなものでなければ、その人生は有意味ではない(a life is not meaningful unless its purposes or ways of transcending limits are positive, worthy, or valuable)」と主張する*1。(p.19, par.1)

有意味性と生の質

また、有意味性(meaningfulness)はよい人生の部分をなしているように思われる
(Meaningfulness does seem to be part of a good life.)*2。そして、生の質(quality of life)と深く関わっているように思われる。けれども、有意味性と生の質とが単純に関係しているわけではない。
というのも、もし生の質という言葉が、その人生を生きる人間に感じられた質のことを指すのだとすれば、客観的には意味に欠けているけれども、本人が人生の意味を気に掛けていない場合や、自分の人生が有意味であると勘違いしている場合、主観的にはよい質を持った人生がありうるからである。こうした生の質と有意味性との複雑な関係とは対照的に、自分の人生が無意味であると考えている場合、そこには、生の質に対して非常に強いネガティヴな影響がある。(p.20, par.1)

語の整理  不条理さ absurdを例に

 人生の意味に関する問いは、あるひとには理解されるが、別のひとには理解されない。例えば、人生は不条理(absurd)かどうか、といった問いがそうである。ひとびとの理解と不理解を隔てているのは、深刻な不一致ではなく、関連する語の理解の違いなのだ、とベネターは言う。例えば、無意味な人生を不条理な人生と規定することもできるし、また、無意味ではあるが不条理ではない人生、不条理ではあるが無意味ではない人生がありうる、というように規定することができる。(p.20, par.2)
試みに、ネーゲル(Thomas Nagel, 1937-)の議論を検討してみよう。不条理を生み出すのは、「わたしたちの人生に対する真剣さと、わたしたちが真剣に向き合っているすべてが恣意的なものであり、疑いに開かれているのではないかという永続する可能性との衝突(the collision between the seriousness with which we take our lives and the perpetual possibility of regarding everything about which we are serious as arbitrary, or open to doubt)」*3であるとネーゲルは述べている。(p.20, par.3)

ネーゲルの議論をまとめると、彼は、
(a) あるひとの人生は不条理である。
(b) あるひとが自分の人生が不条理であると認識する。
という二つの条件に関して、(a)が(b)によって導き出される、と考えたのだ。逆に言えば、自分の人生が不条理であると認識することのないネズミの生は、不条理ではありえない。

ベネターはこれに対し、反論を述べる。あるひとがまったく不条理な行為をしていることを彼自身が認識していない光景をわたしたちが目の当たりにするとき、彼の無自覚ゆえに一層わたしたちは、彼の人生が不条理であると考える。従って、ベネターは、本人の自覚なしにあるひとの人生が不条理であったり無意味であったりすることがありうる、と考える(a life can be absurd or meaningless...without the being whose life it is realizing that it is so)。(p.21, par.1)

パースペクティヴ

はっきりさせておかなければならないのは、人生に意味があるかどうかという問いを問うているとき、わたしたちがどのような意味を思い浮かべているかである。ベネターは、異なるパースペクティヴ(perspective)に応じた異なる意味がある、と主張する。ここでパースペクティヴとは、そこから人生に意味があるかどうかを問うことができるような視座(persoective)のことである(perspectives from which one can ask whether life has meaning)。(p.21, par.2)

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図2.1(p.22より、一部改変)を参照しながらパースペクティヴと意味の関係について考えてゆこう。
もっとも広いパースペクティヴから人生の意味の有無を考えることができる。〈宇宙的なパースペクティブ〉がそれであり、そのパースペクティヴにおける意味が〈永遠の相の下に〉あるかどうかが議論されうる。また、より限定的なパースペクティヴから人生の意味の有無を問うこともできる。(p21, par.3)

人間全体のパースペクティヴからの意味は〈人間の相の下に〉。その下位には、国家や部族、コミュニティや家族といったさまざまな人間の集団のパースペクティヴがあり、その視座からの意味は〈共同体の相の下に〉。もっとも限定的なものとして、ある個人のパースペクティヴ、〈(個)人の相の下に〉おける人生の意味が問われうる。(p.22, par.1)

あるひとの人生は、あるパースペクティヴからの意味を獲得し、あるいは獲得に失敗する。こうした異なる意味を区別することができないとき、ひとはある種の意味の欠落や存在が、他の意味の欠落や存在であると勘違いしてしまいうる。議論に入って行く前に、いくつかの注意を述べておく。(p.23, par.1)

一つに、パースペクティヴという言葉を字義通りに解釈してはならない。宇宙や人間の全体といったものがパースペクティヴを持つわけではないし、個人でさえ、赤子や重い認知症を患ったひとはパースペクティブを持ちえない。ゆえに、これからわたしたちがパースペクティヴという言葉を扱うとき、比喩的な意味で用いることにしよう。本当の問題は、関連するレヴェルで人生が目的や影響や意義深さを持ちうるかどうかという問いなのである。(p.23, par.2)

二つに、意味とは程度の問題でありうる(meaning can be a matter of degree)。人生はあるパースペクティヴからある意味をある程度持ちうるかもしれないし、持ちえないかもしれない。それは無か有かという二値のみならずさまざまなグラデーションを持つ。

三つに、わたしたちが人生に意味があるかどうかを問う際、〈生〉の範囲は可変である(the scope of "life" may vary)。個人の人生、人間の人生一般、あるいは、あらゆる生一般について問いを設けることができる。そしてそうしたそれぞれの生に関して異なるパースペクティヴに基づく意味を問うことができる。例えば、わたしたちは個人の人生が宇宙的な意味を持つかどうかを気にかけるが、人間の全体の人生が、個人やコミュニティといったパースペクティヴから意味があるかどうかはそれほど問われない。(p.23, par.4)

四つに、次の二つの意味を区別に注意しよう。
(a)〈主観的意味〉(subjective meaning):知覚された意味(perceived meaning)
(b)〈客観的意味〉(objective meaning):アクチュアルな意味(actual meaning)

主観的に意味のある人生が客観的に無意味である場合もあるし、主観的に意味のない人生が客観的には意味のある人生である可能性もある。こうした区別を設けるのは〈客観主義者〉(objectivist)の立場である。(p.24, par.2)

 けれども、すべてのひとがこの区別を受け入れるわけではない。自分自身で意味があると感じられる人生のみが、アクチュアルな意味を持つ、とする立場がある。こうした、アクチュアルな意味が知覚された意味からのみ生まれるとする立場を〈主観主義者〉(subjectivist)と呼ぶ。

しかしこの立場には問題がある。

例えば、テイラー(Richard Taylor)は次のようなシシュポスのヴァリエーションを提示している。シシュポスが、石を転がしているのは、自覚的に無益な労働に耐え忍んでいるのではなく、寛大でひねくれた神が、シシュポスに石を転がしたいという奇妙で不合理な衝動を植え付けたがゆえである、という物語である。

もしわたしたちが主観主義の立場に立つなら、シシュポス自身が石をひたすらに転がすことを意味あるものと考えている限り、シシュポスの人生は有意味であると結論しなければならない。だが、わたしたちの多くは、彼の人生は彼にとって満足のいくものではあろうが、無意味な人生であると考える。同様に、ソープオペラを見るためだけに捧げられた人生や、他人の頭に生えている髪を数えるために一生を捧げる人生を懸けた人間がいるとして、彼ら自身が人生に意味を感じている限り彼らの人生はアクチュアルに意味のある人生である、と結論することはあまりにも奇妙だ。(p.25, par.1)

客観主義の立場に立つならばこうした問題は解決される。

ここで注意しておきたいことがある。それは、あるひとが自分自身で無意味であると感じられた人生がアクチュアルな意味で有意味である場合がある。例えば、フランツカフカ(Franz Kafka)は、自身の作品の価値をほとんど無と考え、死後友人のブロート(Max Brod)に原稿の焼却を命じた。しかし、ブロートはその指示に従わず、そのおかげで現在もカフカの作品を読むことができる。

カフカは満足のいかない人生を送ったが、彼の人生は優れて有意味であると考えられる。(p.25, par.2)

ここで、主観主義と客観主義のハイブリッドを考えることもできる。例えば、ヴォルフ(Susan Wolf)は「主観的に魅力的なものが、客観的な魅力に適合するとき、意味が発生する」(meaning arises when subjective attraction meets objective attractiveness)と述べる。この立場では、主観的に魅力的なものがなければ、意味が存在し得ないとされる。(p.26, par.1)

しかし、この立場からカフカの人生を考えると、カフカ自身は主観的に魅力的なものを感じていなかった以上、彼の人生は意味のないものであったことになるが、それは納得しがたい。ゆえに、わたしたちは、(a)人生が有意味に感じられること、(b)人生がアクチュアルに有意味であること、とを区別する。(p.26, par.2)

以上の客観的、主観的意味の区別は、さまざまなパースペクティヴの各々に対して考えられる。つまり、宇宙的、人間的、共同体的、個人的なパースペクティヴにおいて、それぞれに客観的/主観的の意味がありうる。(p.26, par.3)

主観的な意味の重要性ははっきりしているが、ここからは客観的な意味を主として扱う。けれども、特に第7章では、自死に関する主観的な意味と客観的な意味とを分析する。(p.27, par.1)

さて、次の節では、あるパースペクティヴにおける意味は獲得しうることを論証しよう。

3. (いくらか)よいニュース

さて、一般的に、より限定されたパースペクティヴにおいては、人生の意味は獲得の可能性がより高いものとなる。そこで、もっとも身近であるようなもっとも限定されたパースペクティヴから議論をはじめよう。(p.27, par.2)

個人の相の下での意味

まず、個人のパースペクティヴから見た人生の意味を考える。このパースペクティヴから見た意味の説明にはふた通りの理解の仕方がある。
一つに、個人の相の下での意味を、他の個人のパースペクティヴから見た個人の人生の意味として理解することができる。すなわち、ある個人が他者に対してポジティブな影響を十分に与えたかどうか、つまり他者のパースペクティヴに基づいて、ある個人の人生に意味があるかどうかを考えるのである。こう考えると、隠居している者や、孤立している個人を除いて、多くのひとがこの他者のパースペクティヴに基づいた人生の意味を獲得しうると言える。(p.27, par.3)
二つに、個人の相の下での意味を、ある個人の人生そのもののパースペクティヴから見たある個人の人生の意味としてとらえることができる。客観主義に基けばこの理解は以下のように解釈することができる:人生は、その人生を生きているひと自身が設けた意義深い目的や目標を達成するとき、有意味になる。
多くのひとはこの意味で、有意味な人生を送る。運動、技術、熟練、知識、理解といった自分で立てた目標を達成することができる。(p.28, par.1)
ゆえに、どちらの理解に基づいても、個人の相の下での意味は多くの人々に獲得可能なものである。(p.28, par.2)

共同体の相の下での意味

つぎに、より広域的な、人間集団のパースペクティヴ、共同体の相の下での意味を考えよう。ここで、まず、もっとも小規模で、もっとも親密である人間の集団として、家族(family)を考える。多くのひとびとは、家族において、愛され、祝福され、有意味な人生を送る。(p.28, par.3)
むろん、すべてのひとがそうではない。弱く、ときに敵対的であるような家族関係を持つひとはそうではない。けれども、やはり多くのひとびとにとって、彼らの人生は、彼らの子ども、親、兄弟姉妹、祖父母、叔父、叔母、従兄弟、甥、姪にとって有意味である。彼らの人生は家族において、重要で価値のある目的を担っている。(p.29, par.1)
次により広域的な、ローカルコミュニティのパースペクティヴから見た意味を考える。
これは家族のパースペクティヴにおける意味よりも獲得が難しい。けれども、面倒見のよい医者や、献身的な看護師、ひとを元気付ける神父や牧師、人気のラジオパーソナリティや無私で慈悲深い働き手として、ローカルコミュニティにおける意味を得ることができる。(p.29, par.2)

また、さらに大きな、国家という共同体において有意味な人生はまれである。(p.29, par.3)
ここで、足跡を残す(making a mark)ことは認知されることとは同一ではない。例えば、秘密裏に活動するエージェントはひとびとに大きな影響を与えているかもしれないが、認知されることはない。(p.29, par.4)

ここで、人間以外の動物の幸福に寄与する活動を行う人間も、共同体のパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ることに注意しよう。そうしたひとびとは、人間の共同体や人間全体に対して、間接的ではあるが、価値のある仕事をしている。例えば獣医師は、ペットを治療することで、そのペットを大切にしているひとびとに寄与する。また、動物の権利の活動家は、人間が動物の扱いに関して倫理的な過ちを犯すことを減らし、廃絶することに寄与する。(p.29, par.5)

ここでは主題的に扱うことはできないが、個々の動物のパースペクティヴ、動物の集団のパースペクティヴを考えることもできる。(p.29, par.6)

人間の相の下での意味

人間の相の下での意味を獲得しうるひとは比較的少ない。例えば仏陀シェイクスピアアインシュタインチューリング、サーク、マンデラのようなひとがこのパースペクティヴにおいて有意味な人生を送った。(p.30, par.2)
もちろん、彼らを生み、育てたひとや、教師たちは認知されない貢献を行なっているために、このパースペクティヴにおいて有意味な人生を送ったと言える。(p.30, par.3)

今まででベネターは人生の意味に関して「影響を与える」「足跡を残す」「目標を達成する」「目的を担う」と言ったことを強調してきた。これは人生の意味を図る尺度としてふさわしいのだろうか?(p.31, par.2)

もしあなたの人生が家族に対してある影響を与えるがゆえに家族のパースペクティヴにおいて有意味であると考えられるなら、同様に、人類に対してあなたの人生が有意味であるとするなら、それはあなたが何らかの影響を人類全体に対して与えているからに他ならない(If your life has meaning from the perspective of your family because of what you mean to them, then for your life to have meaning from the perspective of all humanity, it must be because of what you mean to hummanity.)。家族における意味と人類における意味とに違いはない、とベネターは述べる。

今までの議論に加えて、人間の相の下での意味と、人間の共同体の相の下での意味とは区別されるべきである。家族に対してあなたの人生が意義深いものだとしても、それが直接人間全体に対してそうであるとは限らない。(p.32, par.2)

また、個人や共同体の相の下で影響を持つことは、知覚できない形で人間の相の下での意味を持つ、とする考えがある。しかし、パースペクティヴという比喩で捉えようとしている影響のちがいをぼやけさせてしまうためこの考えを受け入れることはできない。例えば、キュリー夫人と小さな街の市長の影響はやはり区別できなければならないのだ。(p.33, par.1)

もちろんこの区別の強調は、家族やコミュニティにおける意味をより広域的なものと比べて少なく見積もるために行なっているのではない。(p.33, par.2)

4. 結論 

いくらか良いニュースは、私たちの人生が、あるパースペクティヴから、有意味でありうるということだ。これがいくらか良いニュースでしかないひとつの理由は、より限定的な水準でさえ、アクチュアルに、あるいは感じられたものとしての人生が無意味であるひとびともいるからだ。さらに言えば、意味を獲得できる見込みは、一般に、パースペクティヴがより広域的になるに従って減じる。このようにして見込みが減じる傾向にあることは、より限定的なパースペクティブにおいて無意味な人生が、より広域的なパースペクティヴにおいて、まったく有意味でない、ということを示しているわけではない。というのも、例えば、家族を持たず、あるいは彼の家族やコミュニティに避けられているために、それらに対して意味を持たない者が、より広域的な水準で影響力持つことがあるからだ。

このニュースがいくらか良いものでしかない別の理由は、より広域的な、地球におけるパースペクティブから見て有意味な人生を送っている者が、彼の人生における意味で満足することは稀でしかないからだ。これは、ひとびとが単に彼らが手にすることのできるもの以上の意味を求めるからではなく、ひとびとが獲得しうる意味のほぼ全てが、限定されたものでしかありえないことによる。これが次章で向き合うことになる、悪いニュースである。(p.33, par.3-p.34)

*1:ランダウ(Iddo Landau)は、有意味な人生の条件として「十分に高い程度の有益さや価値」 "a sufficiently high degree of worth or value" を伴うことを主張している:Landau, Iddo. "Immorality and the Meaning of Life." The Journal of Value Inquiry 45.3 (2011): 309-317. を参照。注9、p.217

*2:ヴォルフ(Susan Wolf)はこの見方を持っている:Wolf, Susan. "Happiness and meaning: two aspects of the good life." Social Philosophy and Policy 14.1 (1997): 207-225. を参照。注10、p.217

*3:Thomas, N. A. G. E. L. "The Absurd." repr. in Mortal Questions (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1979) (1971), 3.

デイヴィッド・ベネター『人間という苦境』第1章 イントロダクション

『人間という苦境——人生の問題への率直なガイド』 The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions *1

はじめに

著者のベネター(David Benatar, 1966—.)は南アフリカ共和国ケープタウン大学の哲学科教授。著書に『生まれてこないほうがよかった――生まれ出るという害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』(2006年)や、『第二のセクシズム――成人男子と男児に対する差別(The Second Sexism: Discrimination Against Men and Boys)』(2012年)がある。専攻は道徳と社会の哲学、応用倫理学、法と宗教に関する哲学である*2

 ベネターは Better Never to Have Been における次のような主張によって有名である:いかなる場合においても、子供をもうけることはつねに道徳的に悪い(In all cases, it is morally wrong to procreate.)*3。これは一般的な感覚からすれば問題含みの主張であり*4、事実多くの論争を引き起こしていると言われる*5

このような記述から陰鬱でペシミスティックな、あるいはスノビッシュで奇を衒った哲学者の像が結ばれるかもしれない。

事実この本『人間という苦境——人生の問題への率直なガイド』*6 で扱われるのは、次のような陰鬱で奇妙なテーマである:生の無意味さ、死の無意味さ、自死の無意味さ、生の質(QOL)の無意味さ、不死の無意味さ。

けれども、単にひとを驚かすためにこれらのテーマが扱われるわけではない。ベネターは端々で、人生の苦境をその場しのぎでやり過ごすのではなく、真剣に議論することの価値を強調している。そして、すぐれて倫理的であろうとするなら、生と死に関する問い、そして、それらの意味に関する問いを放って置くわけにはいかないことに何度も注意を向ける。この主張には説得力があり、読者が本書に読む動機のひとつとなりうる。

加えてもうひとつ読み進める動機となりうるのは、彼の文章それそのものの魅力だろう。必要十分で乾いた論証のそこかしこに、おかしみを誘うぼやき、韜晦、とぼけが挿入され、読み進める苦痛を感じることは能うかぎり少ない。

筆者はその議論の態度と軽妙なユーモアに魅力を感じ、自分の学習と、ベネターの紹介のために、こうして読書ノートとして公開することにした。倫理学に興味のある方、人生の意味を考えているひとになんらかの形で寄与できれば幸いである*7

The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions

第1章 イントロダクション

1. 人生の大問題 Life's big questions

この本は人生の「大問題」を扱う:わたしたちの人生に意味はあるのか? 人生は生きるに値するのか? わたしたちが現在も死に近づいていることにどう向き合うべきか? 永遠に生きることはよりよいことなのか? わたしたちは自身の人生をはやく終わらせてよいのだろうか?

この問題を考えたことのない者はいないだろう。その点ではわたしたちは共通しているものの、その答え方には様々な深さや方向の違いがある。この大問題に対して、宗教的、世俗的な心地よい出来合いの答えを持ち出す者もいれば、この問題が答えようがないほど複雑であると考える者もいるし、この問題に対する答えは一般にむごたらしいものだと考える者もいる。
そして、ベネターがこれから述べるものは最後の部類に属する。つまり、この本でベネターは端的に、「人生は悪く、死もまた悪い」ことを論証する。 'Life is bad, but so is death.' (p.1-2)

これから6章にわたる議論を概観しておこう。
まず、宇宙的視点(a cosmic perspective)から見て、人生にはなんの意味もない。わたしたちの人生は互いにとって意味があるかもしれないが(第2章)、それ以上の目的はない(第3章)。
わたしたちの生活の質(quality of life)はそれがどんなによいものでも、究極的に悪さがよさを上回る(第4章)。
死は人生の苦しみからの解放であるがゆえに悪くはない、と考えられている。けれども、死は人生の宇宙的視点からの無意味さになんら対抗し得ないし、自死すら救いをもたらさない(第5章)。
不死(immortality)がもし可能でも、悪いものである(第6章)。
自死は人生の苦しみからの解放としては合理的ではある。しかし、悲劇的であり、悪い(第7章)。
人生の苦境に対する応答はなにも自死に限らない。ベネターの悲観主義に対する楽観主義の反論を論駁しつつ、別の応答の可能性を述べる(結論部)。(p.2-4)

2. 悲観主義と楽観主義 Pessimism and optimism

 ここで悲観主義(pessimism)と楽観主義(optimism)の区別をしておこう。
これらの間には、事実についての見方の違いと、事実をどのように評価するかについての二つの違いがある。

事実についての見方の違い:楽観主義者は、不幸が自分のもとには降りかからないと考えており、悲観主義者は、自分に不幸が降りかかる、と考えている。あるいは不幸な人間の数について両者は明白に異なる答えを出すはずである。

事実をどのように評価するかについての違い:使い古された例だが、コップに半分の水が入っているときに楽観主義者は「半分も水が入っている」と考え、悲観主義者は「半分しか水が入っていない」と考える。
しかし、これから扱う問題に関して、その回答の仕方が楽観主義的か悲観主義的かを判別する際には注意を要する。例えば、6章で扱う不死性について、不死性が悪いものだと考える立場は悲観主義だろうか? しかしこれは死性(mortality)がましなものだと考えているために楽観主義的な見方であるとも言える。ゆえに、この本では、人間の条件の要素をネガティブな言葉で描写する立場を悲観主義と呼び、その反対を楽観主義と呼ぶこととする。(p.4)

この節の最後に、悲観主義と楽観主義に関して注意すべき点を挙げておこう。

まず、わたしたちが悲観主義的であるか楽観主義的であるかは、扱う対象ごとに変わりうるのであって、すべてにわたって悲観主義的な、あるいは楽観主義的な態度を取る必要はない。
次に、悲観主義と楽観主義とはデジタルな0と1の問題ではない。わたしたちは、両極端な主義に振り切ることなく、正確に議論を展開しなければならない。(p.5-6)

人生の大問題に関する悲観主義的な回答は不人気である。ひとびとは悪いニュースを避けたがるものであり、楽観主義的な見方を信じたがるものである。
けれども、そうした楽観主義に馴染めず、かといって現実の過酷さを認められない者は厳しい現状にある。
しかし、人生の大問題は、その見かけに反して、回答不可能な問題などではない。単に怖ろしい(horror)ものであるだけだ。ゆえにベネターは「人間の条件」(human condition)は「人間という苦境」(human predicament)に等しいと考える。(p.7)

3. 人間の苦境と動物の苦境 The human predicament and the animal predicament 

人間の苦境は動物の苦境とそれほどかけ離れてはいない。
例えば、孵卵場で鶏のひよこは孵化後雄と雌とに選別され、卵を産まない不要な雄は粉砕や圧殺など様々な方法で処理される*8。雌として生き延びても、狭いゲージでストレスを感じながら一生を終える。
ある種の動物の苦境は人間の苦境よりもひどいと言える。

にも関わらず、この本で人間の苦境を主題的に扱い、動物の苦境について本格的な議論を行わない。次の二つの理由がある。
一つに、人間は自分が苦境にあると意識し、自殺も選択できるという点で、他の動物とは異なる。ゆえに、この点で検討の価値がある。
二つに、実際的な理由として、人間は自分たちの苦境にしか興味を持たないことが多い。ゆえに、人間の条件に関する悲観主義的な見方を打ち出すことは、人間の注意を引くことができる。(p.8-9)

4. 伝えるべきか、伝えざるべきか To tell or not to tell?

この章の最後に、悲観主義的な見方を擁護する際に起こる明白なディレンマについて考えよう。
ひとびとが人間の苦境を直視しないために様々な仕組みを用いて対処しているというのに、その鼻面に人生の苦境を、それがいかにひどいものかを強調して見せつけることになんの意味があるのだろうか?
もちろんベネターはひとを不幸にさせたくて人生の苦境を考察しようとしているわけではない。しかし、ひとびとが苦境に対処するために抱いている幻想が無害なものであるとは限らないことを指摘する。
人生の苦境に対処するための宗教が不寛容を生み出すことはしばしば見受けられる。瀆神者、同性愛者、不信心者、宗教的マイノリティに対する宗教的な弾圧の例は多く存在する。
加えて、世俗のイデオロギーによって、多くの悲惨な出来事が起こされたことも間違いがない。そして、日常的な楽観主義的なイデオロギーにも苛烈ではないにせよ多くの害が潜んでいる。ゆえに、ひとびとの楽観主義的な幻想は無害というわけではないのだ。

もちろん、ベネターは、各個人の幻想に関しては、それが他人を傷つけない限り関知しない*9
ただ、世の中に流通している心地よい書物や言説、本屋の「セルプヘルプ」(self-help)や「精神と宗教」(spiritual and religious)といった棚に並んでいる心理学的インチキ薬(psychological snake oil)に抗してこの本を書いているのだ、と強調する。(p.9-10)
最後にベネターは彼の著述の目的を述べる。

悲観主義的な書物は、すでに悲観的な見方を持っており、孤独を感じ、ゆえに精神に不調をきたしているひとびとにいくらか快癒をもたらす。他の者も自分と同じ見方を分かち持っていることを認識し、さらに、その見方が優れた議論によって組み立てられていることを知ることで快活さを得るだろう。
もちろんすべてのひとの目の曇りを晴らせるわけではない。けれども、読者の幾人かが、以前には持ち得なかった自分の立場を支持する議論の力を理解することを望む。人間という苦境を認識することは決して心地よいものではない。けれども、結論で述べるように、現実を否定せずに、現実に対処する道があるのだ。

A pessimistic book is most likely to bring some solace to those who already have those views but who feel alone or pathological as a result. They may gain some comfort from recognizing that there are others who share their views and that these views are supported by good arguments.
This is not to say that the scales will fall from a nobody's eyes. One hopes that at least some readers will come to see the force of arguments for a position that they did not previously hold. Recognizing the human predicament will never be easy. However, as I show in the concluding chapter, there are ways of coping with reality that do not denying it.(p.11) 

*1:原題は The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions.  字義通りに訳せば『人間の苦境』となるはずだが、次の理由から『人間という苦境』とした:Predicamentには苦境の他にも、論理学用語として「範疇」の意味があり、加えて、古い用法として「状態」の意味がある。ベネターは本書で、人間の存在そのものが無意味であるという立場を取っており、人間の状態が根本的に苦しみであること、人間という範疇がつねに苦しみを伴うものであることを主張している。ゆえに、Predicamentの「範疇」「状態」「苦境」という3つの意味を含意するよう、『人間の苦境』ではなく、『人間という苦境』と訳した。しかし、文中で字義通りに訳したほうが意味が取りやすい場合は適宜「人間の苦境」とそのまま訳す。predicament - definition of predicament in English | Oxford Dictionaries及びpredicament noun - Definition, pictures, pronunciation and usage notes | Oxford Advanced Learner's Dictionary at OxfordLearnersDictionaries.comを参照。

*2:Overview | Department of Philosophy

*3: ベネターの議論を整理した図2を参照。Philosophical Disquisitions: Harman on Benatar's Better Never to Have Been (Part One) 2017/07/23閲覧

*4:反出生主義に対する反応にも少し触れられているベネター本人に対するインタヴュー記事:The Critique – Why We Should Stop Reproducing: An Interview With David Benatar On Anti-Natalism 2017/07/23閲覧。

*5:例えば、Harman, E. "Critical Study: David Benatar's Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence" (2009) 43 Nous 776

*6: Benatar, David. The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions. Oxford University Press, 2017.

*7:倫理学に関して門外漢の筆者がベネターの名前を知ったのは長門氏(@nag_ato)のTweetを偶然見かけたことによる。

*8:独の研究(Laser tech may mean fewer unwanted male chicks 2017/07/23閲覧)によって孵化前に雌雄の診断を可能にする技術が開発されたとのことである。もし痛みを感覚しないことがよいという立場に立つならば、孵化前の痛みを感覚しないであろう時期にひよこを処分できることはひよこたちにとってはよいことだと言える。生命を容易に選別できることがよいことかどうかは別の問題である。

*9:ベネターはある倫理学者との会話を注記している。あるとき、『生まれてこないほうがよかった――生まれ出るという害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』(2006年)に対して反論を加えてきた倫理学者のハーマン(Elizabeth Harman)が「わたし妊娠しているんです」とベネターに言った。ベネターはそれに対して沈黙していた。そこで、彼女が「あなたはせめておめでとう、と言うべきです」と言ったとき、ベネターは「おめでとう。あなたにとってはね。しかしこれからも生まれて来る子どもにとっては、おめでたくないですね」("I am happy for you. It is your expected child for whom I'm not happy.")と言った。ベネターによれば、ハーマンは学会などでこの会話を不正確な形で広めているという。なので、正しい会話の記録を注記しておくそうである。(本書216ページ、注9)