Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動

はじめに

予想しなかったほど多くの方の目にふれることになり、さらに幸いなことに、幾人かの方から理解にかかわる貴重なご指摘をいただいた。改めて感謝を記しておきたいと思う。

今回で3回目になる。キヴィの文体にもようやく慣れてきたところだ。

それでは、ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第3章を読んでいこう。

Introduction to a Philosophy of Music

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung

第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

訳語の訂正 'analogy'〈類推〉→〈類比〉・〈類比関係〉

5月28日、訳語についてのご指摘をいただきました。

わたしははじめ、'analogy' を〈類推〉と訳していました。しかし、プロセスを指しているわけではないため、analogyの訳語は類推より類比、あるいは類比関係のほうがよい。とのご指摘をいただきました。

自分自身、anologyの訳語に納得がいっておらず(はじめ考えていた〈類似〉では表象説に近づいていくため、〈類推〉としていました)アドバイスの通りだと考え、訂正しておきました。ご指摘ありがとうございます。

第3章 音楽における情動  Emotions in the Music

この章では、音楽がどのようにして情動をもつのかという問いに対する応答として、汎心論的説明音楽と情動の関係〈輪郭説〉の大きく3つのトピックが扱われる。

まず、わたしたちの一般的な直観についてふれながら、ハーツホーンの汎心論を検討する。次に、音楽と情動の関係(複合的・創発的・潜在下にあること)に注意を向け、それからキヴィが支持している'contour theory'〈輪郭説〉による音楽と情動の関係についての3つの説明が述べられる。この説がうまく説明できない和音と関係する情動については、西洋音楽の和声システムに基づく説明を取り入れることで補強する。最後に〈輪郭説〉の検討が行われる。

ここで、やや煩雑ではあるが、作成した目次をあげておく。議論の整理に役立てていただければ幸いである。

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予備的考察

ハンスリックの否定にもかかわらず、わたしたちは往々にして、音楽は月並みな、あるいはその他の基本的な情動を表現すると考えている。

一般的に、わたしたちが、「この音楽の楽節がある情動である(この音楽の楽節は悲しい)」というとき、そのような情動をわたしたちに惹き起こすような音楽の傾向性を記述しているわけではなく、そのような知覚された情動の原因を、わたしたちにではなく、音楽それ自身に帰属させている。こうした考え方を、アメリカの哲学者ブーウスマ(O. K. Bouwsma)が'the emotion is more like the redness to the apple than like the burp to the cider'(情動は、りんごに対する赤性のようなものであり、サイダーに対するげっぷのようなものではない)とうまく表している(p.32)。

しかしこの見方は、どのように情動が音楽のうちに存在しうるのかについては何も答えてはいない。

悲しいニュース」について考えてみよう。それは、それを聞いたひとを悲しくさせる。
この意味は、悲しさが、ひとびとを悲しくさせるそのニュースの単なる傾向性という意味で、ニュースのうちにあるということだ。ここに形而上学的問題はない。
また、「悲しんでいるひと」のことを考えてみよう。そのひとは、じぶんじしんが悲しい気分にあると意識的に知覚している。それゆえ、わたしたちは「そのひとは悲しい(そのひとは悲しんでいる状態にある)」と述べることができる。しかし、発言者が必ずしも悲しさという情動を感じているわけではない。 ここにも形而上学的問題はない。

けれども、音楽それ自身は、悲しんでいるひとのようには悲しさを経験しない(音楽はじぶんじしんを知覚しない)。かつまた、最初に述べたようなわたしたちの理解に従って、音楽が傾向性や、表象としては悲しさをもたないのだとしたら、それはいったいどのようにして悲しさをもつのだろうか?ブーウスマの言葉通りにであろうか? しかし、この考えは答えになっていない。赤性がりんごにどのように内在するかについてのすぐれた理解を、わたしたちがもっていたとしても情動が音楽にどのように内在するかのついてのすぐれた理解を、わたしたちがもっているわけではない。

さて、哲学者は、問題的な事例と問題のない事例のあいだに類比関係を見つけることで、問題を扱うことがある。ならば、現在扱っている問題について、そうしたやり方をとってみよう。すなわち、通常の経験のうちで、知覚的な情動の要素の観念が物体に属していると認められる場合を考えてみよう。

第1節 汎心論

ハーツホーンの汎心論的な説明とその穏健な説について(pp.32-34)

こうした議論を進展させたアメリカの哲学者、ハーツホーン(Charls Hartshorne)の著作、The Philosophy and Psychology of Sensation(1934)がある。
彼は、黄色が「快活な」色だと言われるとき、それは、「黄色がわたしたちを快活にさせるからではなく、その快活さが、知覚された性質の一部分であり、それ自身の黄色さから分離できないものであるがゆえに、そう言われる」のだと主張した。そして同じことは音にも言える、と述べる。
それではなぜ、黄色いものがわたしたちにある情動を与えうるのだろうか?
ここで言われているハーツホーンの説明は、それほど明らかではない。
キヴィは、彼の説は汎心論的なものであり、すべてのものは、生命のないものも含め、なにがしかの感覚をもつ、とするものだと説明している。
間違っているかもしれないが、わたしが解釈するところでは、黄色いものに対してわたしたちが快活さを感じるのは、おそらく、「悲しいひと」と同じように、「黄色いもの」が「快活さを感じている」ためだ、と彼は説明しようとしているのだ。これは受け入れがたいが、傾向性説をとらないのであれば、論理的な道筋と言えるかもしれない。

しかし、彼の議論に反対する者は、音楽がどのようにして知覚的性質として情動をもつのかという問題を、音楽以外の色といった例に訴えて説明しようとしても、依然として解決されてはいないとする。それどころか、色と情動の関係そのものについてもなんら説明がなされていないとすれば、問題がふたつに増えたようなものだ、とすら述べる。

加えて、彼の哲学は、すべてのものは、生命のないものも含め、なにがしかの感覚をもつ、と結論づけるものであり、受け入れるには大きな飛躍が必要になってしまう。

こうした彼の説を穏健な形に言い換えたとしても、依然として、音楽がどのようにして知覚的性質として情動をもつのかという問いをうまく扱えているようにはみえない。

よって、ここで、傾向性説以外の音楽の情動の理論についてはいったん掘り下げることをやめ、次に、音楽と情動にはどのような関係があるかを考えていく。

第2節 音楽と情動 複合的・創発的・潜在下にあること

さて、この節では、以前の議論を直接には引き継がず、新しい論点を扱う。
まず、「単純なsimple)」情動と「複合的なcomplex)」情動を比較しよう。
たとえば、あるひとが「この布は黄色い」と述べ、べつのひとが「いやこの布はオレンジだ」と反論したとき、はじめのひとが彼自身の主張を擁護するために「いや、かくかくしかじかにより、この布は黄色いのだ」と述べることはできない。そうではなく「これは黄色い。なぜなら黄色いから」としか答えようがない。
同様に、黄色は、ほかの知覚された質(quality)によって快活なのではなく、ただ、黄色さによって快活であるとしか言えない。よって、黄色における快活さは「単純な」要素なのだ。
しかし、これに対して、音楽が快活である、あるいは憂鬱であると主張するとき、わたしたちはさまざまな要素を列挙して、その主張を弁護することができる。
たとえば「はやいテンポ、明るい長調の響き、概しておおきな音量、跳ねるような主題」によって音楽が「快活である」と主張することができる。
この意味で、あらゆる音楽の情動的な質は「複合的」なものであると言える。黄色の快活さといったような単純なものではない。

次にキヴィは、音楽の情動が「創発emergent)」なものであると述べる。
音楽の快活さは、明るい長調の響きや、はやいテンポや、大音量といった諸要素の結合によって、新たに生み出された質である。つまり、創発的な質は、それを生み出す諸要素とはべつに、区別されたそれ自身の質をもっているのだ。
言い換えれば、これは、ケチャのリズムがそうであるように、ひとつひとつの要素が組み合わさって、はじめて全体として新しいリズムが生まれる現象に似ている。

最後に、キヴィは、ある情動を知覚している聴き手が、音楽の複合的な質の諸要素をひとつひとつ明確に意識している必要はないと述べる。特に術語として定義されているわけではないが、理解のために、こうしたキヴィの指摘に基づいて、複合的な質は「潜在下」に知覚される、とまとめておこう。

この節では、音楽の情動は、複合的(complex)であり、創発的(emergent)であり、潜在下で知覚されるものだと述べられた。

第3節 contour theory 〈輪郭説〉

第1項 予備的考察

音楽が表現する情動と、人間の表現との類比関係(pp.36-37)

前節で確認された音楽についての分析を一歩進めて、キヴィは次の問いを発する。
わたしたちは、なぜ、暗い短調の響き、抑えられたダイナミクス、遅くためらうようなテンポ、弱々しいメロディーを聴くだけではなく、これらに加えて憂鬱を聴くのだろうか?

この問いに対して、キヴィは、わたしたちの一般的な認識を指摘することで、回答のヒントを示す。

... there seems to be a direct analogy between how people look and sound when they express the garden variety emotions... and how music sounds or is described when it is perceived as expressive of those same emotions.

...ひとびとが月並みな情動を表現しているときに彼らがどのように見えるか、聞こえるか、ということと、同様の情動を表現していると音楽が知覚される際に、音楽がどのように聴こえ、記述されるかということのあいだには直接的な類比がみられる(p.37)

キヴィは、彼の1980年の著作The Corded Shell(のちにSound Sentimentに改訂)において、次のように主張した。音楽の表現性は、音楽の表現性と人間の表現とのあいだにおける類比関係に基づいている、と。以下、この主張の詳細をみていこう。

セントバーナードの顔(p.37)

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セントバーナードの顔を思い浮かべてみよう。その表情はいかにも悲しそうにみえる。
しかし、セントバーナードの顔は悲しさを表現しているわけではない。喜んでいても、セントバーナードは悲しい表情をしているようにみえる。その顔は、むしろ、悲しさについて表現的であると言える。
セントバーナードの顔について考えることが、音楽の情動についての理解の助けになるのは、以下のふたつの理由からだ。まず、その顔における悲しさは、黄色さにおける快活さに似ている。次に、その顔は知覚における、音楽と同様な複合的な対象である。
さて、それではどうしてセントバーナードの顔は私たちに悲しさを惹き起こすのだろうか?
それは、その顔が、わたしたち人間が悲しんでいるときの顔のある種のカリカチュアとしてみえることによる。悲しげな目、シワのよった額、垂れ下がった口や耳、喉袋…こういったものたちが、悲しげな人間の顔の誇張された反映にみえるのだ。

第2項 〈輪郭説〉

第1 音楽の3つの特徴

こうした議論から、音楽の表現性について考える手がかりが得られたところで、わたしたちがこれから扱っていかなければならないだろう、3つの音楽の特徴を取り上げておこう。

  1. 音楽は、人間が自身の情動を表現する音に「似たように響く」
  2. 音楽は、人間の視覚的な表現的ふるまいと類比関係がある
  3. メジャー・マイナー・ディミニッシュコードから、それぞれわたしたちはある情動を受けるが、これらは人間的な声やふるまいには似ていない。

まず最初のふたつについて考えてみよう。最後のものについては、後ほど扱う。

1.音楽は、人間が自身の情動を表現する音に「似たように響く」

音楽における音と、人間の表現における音との間には類比関係があるように思われる。
たとえば、憂鬱なひとは、ちいさく、低く、抑制された声をしており、ゆっくりと、ためらいがちに話す。同様に、憂鬱な音楽は低い音域で、遅く、抑制されたテンポやダイナミクスである。

2.音楽は、人間の視覚的な表現的ふるまいと類比関係がある

聴かれた音楽の要素と、視覚的な人間のふるまいのあいだにも類比関係があると思われる。
たとえば、音楽のフレーズについて、喜びで跳ねるような、うなだれるような、 よろめくような、といった表現がなされる。

第2 〈輪郭説〉

以上のような音楽の表現性についての経験から組み立てた説を、キヴィはThe Corded Shellのなかで、'contour theory'〈輪郭説〉と名付けた。というのも、以上のような説は音楽の音型、すなわち音楽の輪郭を、人間の聴覚的、視覚的な情動表現への類比の基礎としているからである。

これは表象説ではないことに注意しよう。ある像(表象)を認知して、それからわたしたちは情動をもつというわけではない。わたしたちは音楽を聴くと、すぐさま(immediately)に、そして、音楽の各要素を個別に意識するのではなく、無意識(unware)に、音楽に情動を聴きとるのだ。

第3 〈輪郭説〉の擁護

この主張には、さらなる説明を要する。以下いくつか議論をしておこう。

・なぜ他でもなく人間の声やふるまいを聴くのか
・なぜ潜在下で情動が聴かれるのか

キヴィはこの問いに対して、視覚における誤認の例をあげる。

f:id:lichtung:20170526040530j:imageこれは何に見えてしまうだろうか? (わたしには鍵の部分がアヒルに見える)

When presented the with ambiguous figures, we tend to see them as animate rather than inanimate forms: as leaving rather than non-leaving entities. 

「はっきりと形がわからないものを提示されたとき、わたしたちはそれを無生物としてではなく、生物として見がちである」(p.41)

たとえば、雲や、壁のシミや、森に潜む影にわたしたちは生物のすがたをみる。これは、おそらくは、自然淘汰の働きによって獲得され、わたしたち人間に実装されている性質のように思われる。棒だと思って蛇に噛まれるよりは、蛇だと思って棒を恐れるほうが生存には理に適っているというわけだ。
さて、こうしたわたしたち人間の傾向は、聴覚にもまた及んでいるのではないだろうか。とキヴィは仮説を立てる。無生物によって鳴らされた音に、生物の声を聴くのは、ない話ではない。確かに、わたしたちは、茂みがガサゴソと音を立てるのを聞いたとき、風以外の理由を見つけようとするだろう。

・なぜ表現的に聴くのか
わたしたちは、音楽のさまざまな要素、和音やメロディーを、それぞれ個別に聴くだけで、それに加えてべつに情動を聴きとる必要はないように思われる。これに対してキヴィは、前の議論を引き継ぎ「情動を生じさせることで、すぐさま行動に移ることができ、それは生存に役立っている」からではないかと予想する。

・なぜ像そのものを知覚しないのか
音楽を聴くと、わたしたちは、表現的な要素を意識する、すなわち情動を意識する。しかしながら、わたしたちは、人間の声やふるまいそのものを、音楽の輪郭から聴きとるわけではない
これに対して、キヴィは、聴覚は視覚に劣位であることによって応えようとする。
自然淘汰のうちで、わたしたちは徐々に視覚優位の知覚を獲得するに至った。そのため、視覚においては、誤認の際にはある程度はっきりと、棒を蛇だと意識するようなことは起こるが、聴覚においては、その知覚が人間においてはある種の退化を起こしているがゆえに、そういったはっきりとした意識は発生しない(キヴィがここであげているわけではないが、犬と比べると確かに、わたしたちは視覚を重視していることはわかる)。

さて、いささか込み入った議論がなされたので、ここでいったん、〈輪郭説〉についてまとめよう。

 第4 〈輪郭説〉まとめ

Here, then, is one theory of how music comes to embody expressive qualities like melancholy and cheerfulness. It is agreed on all hands that music is melancholy, and cheerful, and so on, in virtue of certain standardly accepted features. It is perennially remarked on that these features bear analogy to the expression behavior, bodily, gestual, vocal, linguistic, of human beings. One can construct an evolutionary story of how and why we might be subconsciously, subliminally aware of this analogy and that this should cause us to perceive the music as melancholy or cheerful or the like as we perceive the sadness of the St Bernard's face. Ihave named this theory the contour theory of musical expressiveness.
(p.43)

ここでは、憂鬱や快活さといった表現的な質が、音楽にいかにして備わるのかについての、ひとつの説を示した。特定の一般的に受け入れられた特徴によって、音楽が憂鬱、あるいは快活であると言うことは、反論の余地なく合意されている。そうした音楽の特徴は、人間の身体的、身振り的、発声的、言語的な表現的ふるまいとの類比によって支持されているということは、つねに言及されている。どのようにして、そしてなぜ、この類推を意識下・潜在下で知覚するのかということの、そして、そうした類比が、セントバーナードの顔に悲しさを知覚するように、音楽を憂鬱、あるいは快活なものとしてわたしたちが知覚することについての、進化論的な物語を組み立てることができる。

第5 和音と情動
1 問題について。輪郭説に基づく説明

さて、ここで、答えられずにおいた、音楽の特徴についての3つ目の記述をキヴィは扱う。
3.メジャー・マイナー・ディミニッシュコードから、それぞれわたしたちはある情動を受けるが、これらは人間的な声やふるまいには似ていない。

まず、キヴィはこうした音楽の要素に対する説明の難しさを述べる。「メジャー、マイナーコードのあいだにおける情動的な質の違いに対する広く認められたような説明は存在しない」(pp.43-44)

そして、キヴィは輪郭説に基づいて、なぜC-E-Gといったメジャーコードが明るく、そして、C-E♭-Gといったマイナーコードが暗く響くのかを説明する。彼によれば、後者のコードは前者に比べ、第三音のEが半音下がっている。これは、憂鬱なひとの声が暗く、沈んだ調子であることに類似している。よって、これらふたつのコードにわたしたちは異なる情動を聴くのだと言う。

これは彼自身も認めるように、十分に説得的ではない。そこでキヴィは、マイナー・メジャーコードがわたしたちに与える情動についての原因を、西洋音楽の調性システムに求める。

2 西洋音楽の和声システム

 ここでキヴィは、ディミニッシュコードの進行、そしてマイナーコードによる終止の例をあげているが、もっとも一般的な、コード進行の例に置き換えて説明してみよう。

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G7-Cという進行を考えてみる。G7は、いま、G-F-B(ソ-ファ-ミ)からなる三和音と考えよう。そして、CはC-E-C(ド-ミ-ド)からなる。G7を構成する音のうち、F-Bは+4th、増4度のインターバルをつくっており、これは不協和な音程である。このふたつの音が、それぞれ半音上行・下降することで、Cという、非常に安定した響きになる。こうしたことは、西洋音楽の和声システムのうちでの取り決めであり、(何百年にもわたる)→〔5月28日訂正:ここまでは言っていない。キヴィは、期間については明示してはいない〕ある種の取り決めによって知覚されるようになった情動だとキヴィは述べる。

It is restless, so to say, in its musical function; when it occurs in a compositional structure, at least until fairly recently in the history of the Western harmonic system, it imparts that the restlessness to the coutour of the melody it accompanies. From its 'syntactic' or 'grammatical' role in music it gains, by association, as it were, even when alone, its restless, 'anxious' amotive tone.

いわば、その音楽的機能によって、それ〔キヴィの例では、ディミニッシュコード。音楽理論的には違う性質をもっているが、この場合においては、いま議論しているドミナントとしてのG7と同じように考えていいだろう〕は落ち着かないのだ。すなわち、それが曲の中の構造のうちに現れたときーー西洋音楽の和声システムの歴史のなかで、少なくともごく最近まではーーそれはそれと同時に響いているメロディの輪郭に自身の落ち着かなさを加えているのだ。それは、〔メロディなどと〕連携することで、あるいは、〔それ〕単体であったとしても、その落ち着かなさを、すなわち「不安な」情動的な音色を、音楽のなかでの自身の「統語論的」「文法的」な役割から手に入れているのだ。(p.45)〔5月28日追加〕

5月28日:'harmonic system'「調性システム」と訳していたものを「和声システム」として改訳。

第4節 〈輪郭説〉問題点の検討

さて、この章の最後に、以上で述べてきた輪郭説の問題を検討していこう。

まず、そもそも、音楽と、人間の表現の「かたち(shape)」との類推はほんとうに成り立っているのか。すなわち、音楽の響きと人間のふるまいという異なる感覚のあいだに類比がほんとうに成り立つのかどうかはまだはっきりしていない。

次に、〈輪郭説〉において用いられた心理学的な説明は推測の域を超えていない

最後に、用いられたような進化論的(進化論そのものではないような)説明は、実際の検証を経ていない机上のものであるに過ぎない。

まとめ

さて、この章では、音楽がどのようにして情動をもつのかという問いに対する応答として、汎心論的説明・音楽と情動の関係・〈輪郭説〉の大きく3つのトピックが扱われたが、結局決定的な答えを導くことはできなかった。このままこの問題に留まるのではなく、いったん置いておいて、後続の章では、この章では触れられていなかった情動惹起の〈プロセス〉について扱われるだろう。その前に、次の章ではもう少し基礎的な話題が取り扱われる。

 

注記

セントバーナードの画像の引用は

https://pixabay.com/ja/犬-セント-・-バーナード-ペット-アート-要約-ビンテージ-2327757/

より行なった。他は筆者撮影。

・視覚の誤認の興味深い例は以下を参照

アヒル→こまつたかし・十三夜 on Twitter: "以前、トイレのこいつはアヒルではないかと気になってる、とのツイートをしたが、最近はこの“空に憧れるウサギ”のことも気になってる。 https://t.co/payuTS8tsU"

犬にみえる木の板→Koo on Twitter: "犬さんだね・・・・ https://t.co/eOsM6ipV9s"

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung
第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第2章補足 プラトン『国家』第3巻第399α-399β節に関するコメント

戦士を模倣する旋法について

第2章→Dedicated to Peter Kivy. Introduction to a philosphy of music 読書ノート その2 第2章 すこし歴史の話を - Lichtungにおいて、キヴィがあげている例は、プラトン『国家』第3巻の399aから399bにかけての以下の文だと思われる。ここでプラトンは、ドリアン旋法〔ピアノの白鍵のE-F-G-A-B-C-D-E。以上の七音で構成されているスケール。名称混同の問題に関しては末尾の項を参照〕とフリギア旋法を戦争、勇敢さに関するもの、そして、教育者あるいは祈祷者、つまり節制の状態に関するものとに区別しているようだ。
原文と英語はPerseus→Plato, Republic, Book 3, section 399aより引用した。

[399α] δωριστὶ......τὰς ἁρμονίας, ἀλλὰ κατάλειπε ἐκείνην τὴν ἁρμονίαν, ἣ ἔν τε πολεμικῇ πράξει ὄντος ἀνδρείου καὶ ἐν πάσῃ βιαίῳ ἐργασίᾳ πρεπόντως ἂν μιμήσαιτο φθόγγους τε καὶ προσῳδίας, καὶ ἀποτυχόντος ἢ εἰς τραύματα ἢ εἰς [399β] θανάτους ἰόντος ἢ εἴς τινα ἄλλην συμφορὰν πεσόντος, ἐν πᾶσι τούτοις παρατεταγμένως καὶ καρτερούντως ἀμυνομένου τὴν τύχην:

…戦火のなかにいて、なおかつなにがしかの強いられた任務に就いている勇敢な男が、しくじってしまった。傷を受けていて、あるいは死につつある。もしくは、こうしたたぐいのべつの災難に見舞われてしまった。かくのごとき状況にあって、つねに揺るぎなく、かつ力強く、運命に対して自己を保ち続けている者の、そして口調を…適切に模倣するだろうドリアンの響きを…〔希→和訳〕

ここで、「」「口調」と訳したのは、それぞれφθόγγους→φθόγγοςとπροσῳδίας→προσῳδίαである。前者は、はっきりとした音のすべてをいい、その意味で「声」そのもの、後者のπροσῳδίαはシラブルの音高やピッチをあらわすので「口調」とした。つまり、響き(音の固有の波形としての音色ではないかと推測するが、ギリシア語の言葉の意味は広く断定はさけたい)と音高(音の振動数としての音の高さ、それに加えて、音高の連続的な変化ではないかと考えるが、これも推測に過ぎない)というふたつの要素にプラトンが注目していることがわかる。そして両者とも楽音を意味するものであるため、当時のギリシア語話者はこのふたつの単語があらわれたとき、プラトンが声と音楽との関連を強く意識していることに気づくだろう。

 

5月24日 訂正と解説:ドリアンスケールとフリギアンスケールの混同について

古代ギリシアのドリアン旋法は、現在のフリギア旋法に相当する。

古代ギリシアにおけるドリアン旋法E-F-G-A-B-C-D-Eであり、これは、現代では一般にフリギア旋法と呼ばれている。ラテン語に翻訳される際、この混乱が起こったと言われている。

わたしじしん、現代のドリアン旋法と古代ギリシアのドリアン旋法を同じものとして考え、こちらに記載していたため、訂正させていただきます。早急にご指摘いただいたja_bra_af_cuさんには厚くお礼を申し上げます。

語義ノート

「勇敢な男」に関する分詞は以下のように4つある。それぞれについて筆者が解した変化形の詳細を掲載しておく。

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ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第2章 すこし歴史の話を

はじめに

音楽の哲学についてなぜわたしたちは語りたがるのか、と問うてみると〈なぜならわたしたちは音楽が好きだから〉という存外単純な答えを得られるかもしれない。

音楽には汲み尽くし得ない謎が秘められていて、それを解明しようとすればするほどに、謎はいっそう深く輝きを放つ、というイメージを音楽哲学者は抱いているのかもしれない(し抱いてなどいないかもしれない)。ページをめくりながら、そんなことを考えた。それはさておいて、今回もピーター・キヴィの『音楽哲学入門』に取り組んでいこう。(この青い表紙、見慣れてきました)

注記 訳語の訂正について 'disposition'

5月23日。訳語についてご指摘をいただきました。'disposition'→〈性質〉としていたものを'disposition'→〈傾向性〉と訂正しました。

じぶんなりに見直すと、'disposition'が用いられるのは、すくなくともこの2章では、ある存在者と人間との関係について述べられる場合に限っているように思われます。必ずある関係のもとであらわれる何かを指しています。

たとえば、またたびがそれ自体としてもっている構造は、それが猫に対する場合と人間に対する場合とでは、異なる傾向性をもってあらわれます。またたびの化学的な構造はどの場合においても不変ですが、それが猫と人間という異なる存在者に関係する場合、それぞれの傾向性があらわれているとみなすことができると考えられます。

こうした関係性における、不変な構造の表れの違いをはっきりさせるために、'disposition'〈傾向性〉という表現が用いられている、と考えています。

6月3日。Susanne K. Langerの読みはレンガーではなくランガーだと教えていただきました。ありがとうございます。

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung

第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung

第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

Introduction to a Philosophy of Music

第2章 すこし歴史の話を A Little History

この章では音楽と情動の関係についての歴史が粗描される。
古代ギリシア期、プラトンアリストテレスが提起した説からはじまり、飛んで16世紀後半、後期ルネサンスの音楽サークル「カメラータ」の提起した説、そして17世紀中頃のルネ・デカルトの情念論、19世紀初頭および中期には、アルトゥール・ショーペンハウアーエドゥアルト・ハンスリックの音楽論、そして、20世紀に現代の音楽哲学につながるランガーの同型的という概念。これら大きく6つのトピックが取り上げられる。

1.古代ギリシア期ープラトンアリストテレス

まずは、第一パラグラフをみてみよう。

The oldest and the most continuously reiterated precept in the philosophy of music ......is that there is a special connection between music and the human emotions, beyond the connection there might be supposed between emotions and any other of the fine arts.

音楽の哲学において、もっともふるく、そして何度も繰り返し言及されてきた考えとは……人間の情動と音楽のあいだには、ほかの芸術と人間の情動とのあいだに想定されているような関係を越えている、ある特別な関係があるというものだ。p.14

こうした考えの原型をわたしたちはプラトン(Πλάτων - Plato, 427-347 BC)の『国家』第3巻に見ることができる、とキヴィは言う。

In other words, Plato can be taken, and was, by many, to have claimed that, in general, melodies have the power to arouse emotions in listeners by imitating or representing the manner in which people express them in their speech and exclamations.

つまり、プラトンは、一般に、旋律はひとびとが発話・叫びや感嘆の声によって情動を表現する様態を、模倣しあるいは表象することで、聴き手に情動を惹き起こす力をもっているのだと主張したと考えられているし、実際そう解釈された。p.16

すなわち、プラトンは、旋律が人間の情動の表現を模倣していると考えた(人間の情動そのものを表現しているわけではないことに注意しよう)。

 時代はくだり、アリストテレス(Ἀριστοτέλης - Aristotle, 384-322 BC)は、音楽は人間の情動の物理的な表現を模倣したものではなく、人間の情動そのものである、と主張した。この主張ははっきりとは理解されていない、とキヴィは述べる。また、この章の後に取り上げる、レンガーによる音楽の同型的なものの概念と関連している可能性がある、と示唆されている。

また、キヴィによるプラトンの引用に関する詳細は次を参照のこと→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』第2章補足 プラトン『国家』第3巻第399α-399β節に関するコメント - Lichtung

2.後期ルネサンスーカメラータ〈惹起説〉〈傾向性説〉〈共感説〉

16世紀の終わり、フィレンツェで、カメラータcamerata)と名づけられた音楽サークルが生まれた。カメラータは、当時の著名な詩人や作曲家、理論家といった文人たちのサークルで、ギリシア悲劇の再興を意図し、のちにわたしたちが「オペラ」として知るものの素地を作った。
彼らは、「音楽が人間の情動を惹き起こす力をもっているのは、それがさまざまな情動を表現する際の人間の話し声を旋律によって表象するからだ」と考えた。この考えは上にみたようにプラトンの理論に基づいていることが分かる。

ここで、キヴィは、カメラータの説を整理するためにいくつかの術語を定義する。ひとつひとつ見てゆこう。

まず、'expressive'〈表現的〉という言葉について
◾️表現的→「ある作品Wが、ある感情Xを聴き手に惹き起こす力をもっているとき、その作品Wは感情Xについて表現的である」といわれる(It was expressive of sadness in virtue of arousing sadness in listners.)。
そしてこのような考えに基づく理論を音楽表現における 'arousal' theory〈惹起説〉と呼ぶ。
また、そうした理論を 'dispositional' theory〈傾向性〉とよぶ。なぜなら、そうした理論は、「音楽は聴き手に情動を惹き起こすような情動的要素を〈傾向性〉として持っている」と考えるからだ。
最後に、カメラータの説は、どのようプロセスで音楽が聴き手に情動を惹き起こすかについて、'sympathy' theory〈共感説〉を唱えたと考えられる。共感説において、「音楽は、人間の情動表現を模倣する。聴き手はその音楽がなにを模倣しているかを同定することで、模倣されている情動そのものを感じる」というプロセスが説明される。

もう一度整理すると、カメラータは、音楽そのものに着目した場合、音楽がある〈傾向性〉をもっているという、〈傾向性〉を唱えた一方、他方で、音楽と聴き手のあいだで起こる情動〈惹起〉のプロセスを〈共感説〉というかたちで定式化した。
キヴィはここで注意を促す。これらふたつの分析は異なる問いを問うものだ、と。
言い換えれば、傾向性説と共感説がそれぞれ扱う問題の違いは、以下のふたつの問いとなってあらわれる。

・傾向性説と共感説が扱う問い

  • 傾向性説→音楽が人間にある情動を惹き起こすのは、音楽に属するいかなる傾向性によってであるのか?
  • 共感説→音楽が人間に情動を惹き起こす、そのプロセスはいかなるものか?

以後、このふたつの問題をめぐる歴史が語られていくため、重ねて注意を促しておきたい。

3.17世紀中期ーデカルトの情念論

前節でみた二つの問題(傾向性とプロセス)は、同等の扱いを受けてきたわけではなかった。カメラータたちによる問題提起の後、数十年に渡り、音楽の〈傾向性〉については注意が払われてきたものの、音楽が情動を惹き起こす「プロセス」について十分な議論があったわけではなかった

そんななか、17世紀中期、正確には、1649年、ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)による『情念論』(Les passions de l'ame)が出版され、状況は変わった。
彼は、人間の情動の発生メカニズムを「動物精気(英:vital spirit 仏:esprits animaux)」によって説明する。これは、液体の媒体で、みずから形を変えることにより、基本的な情動を惹き起こすとされる。例えば、危険を知覚した際、神経系において、動物精気は恐怖を惹き起こすように形を変え、身体を駆け巡り、実際に恐怖を惹き起こす、とされる。
こうした「生理学的理論」は、当時の音楽家たちに、音楽が情動を惹き起こすプロセスのすぐれた説明として受け入れられた。デカルトの理論に深くコミットする立場はドイツで'Affektenlehre'として存在感をもった。

 4.19世紀初頭ーひとつめの革命、ショーペンハウアー

音楽のプロセスについての研究の進展は、カメラータたちやデカルト以後、実に200年の時を待たなければならなかった。
最初の革命は1819年、アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)の『意志と表象としての世界Die Welt als Wille und Vorstellung)』の出版によって始まった、とキヴィは言う。
ショーペンハウアーによれば、音楽は、あらゆる存在の根源となっている意志を、他のあらゆる芸術が成しうるよりも本質的に表象しうるがゆえに、芸術のなかでもっともすぐれたものである。細かな説明はされえないが、このショーペンハウアーの宣言によって、音楽の哲学における、三つの画期がなされたと言われる。
ひとつは、彼の結論が、18世紀において音楽が置かれていた低い地位を引き上げ、むしろ、音楽は芸術のなかでもっともすぐれたものだという考えを生んだこと。
ふたつには、音楽が意志を表象しているという結論から、音楽における表現性聴き手において生まれるのではなく、そもそも音楽のうちにあるということが確認された。キヴィはこれを"The emotions music is expressive of were moved, at a stroke, from the listener, and into the music"「音楽が表現している情動が、聴き手から、音楽そのものへと一挙に移動した」(p.21)と表現する。
最後に、彼は、音楽はじしんの表象の力によって情動を表現しうる(music is expressive of the emotions in virtue of its representational power)のであり、それによってなにがしかの情動が模倣されている(whatever emotion or emotions it represented)ために、情動を表現するのではないということを示した。ややこしくなってしまったので、まとめよう。

・意志-表象-音楽-情動/情動の表象-模倣-音楽-情動

  • 意志を表象する→音楽→情動を惹き起こす
  • 情動の表象(叫び、嘆きの声やしぐさ)を模倣する→音楽→情動を惹き起こす

5.19世紀中期ーふたつめの革命、ハンスリック

19世紀に起こった、音楽哲学におけるふたつめの革命は、1854年、エドゥアルト・ハンスリック(Eduard Hanslick, 1825-1904)『音楽美論(英:On the Musically Beatiful 独:Vom Musikalisch-Schönen)』の出版によって起こった。
キヴィは彼の議論を次のようにまとめる。

Music, as an art, cannot either arouse or represent the garden-variety emotions. Therefore, it cannot be the sole or primary purpose of music, as an art, either to arouse or to represent the garden-variety emotions.

音楽は、芸術のひとつとして、月並みな情動を惹き起こしたり、あるいは表象したりはしない。それゆえに、音楽の芸術としての唯一の、あるいは主要な目的は、月並みな情動を惹き起こしたり、あるいは表象することではありえない。p.22

ここで、'garden-variety emotions'とは、キヴィによる用語法で、よろこび、ゆううつ、怒り、おそれ、愛といった、ありふれていて、月並みで、基本的な人間の情動のことである(p.18)。
ハンスリックは、彼以前に流通していた「音楽は月並みな感情を惹き起こしたり、表象することを目的とする」という考えを完全に否定した。同時に、彼は「音楽は〈芸術としては〉月並みな情動をいっさい惹き起こしたり、表象しない」と断言した。付け加えれば、〈芸術としてではなければ〉音楽も月並みな情動を惹き起こしたり、表象したりしうる。これはつまりこういうことである。わたしたちが音楽が月並みな情動を惹き起こすと勘違いしているのは、ある情動にあるわたしたちがたまたまある音楽を聴いたときに、じぶんの情動と音楽とを関係付けてしまっていることによるものなのである。
ここで、注意しておくべきは、ハンスリックが扱っている音楽は純粋に器楽的な音楽、'absolute music'〈絶対音楽〉であり、歌や舞台の伴奏曲ではないということだ。
さて、ハンスリックは上の主張を正当化するために、ふたつの議論を用いている。
ひとつめは、今日、'cognitive theory of emotions' 〈情動の認知理論〉と呼ばれているものである。たとえば、おそれが惹き起こされる場合を考えよう。おそれを感じているひとは、通常、その情動を経験するに足るある信念をもっている。そして、ある対象をそのひとはおそれる。そしてたいていの場合、さまざまなおそれと呼ばれうる情動のなかで、ある特定の情動を感じている。
こうした分析を、ハンスリックは絶対音楽に適用する。ある情動を惹き起こすような信念、対象、そして月並みな情動のカテゴリーに属するようなある特定の情動を感じるだろうか? ハンスリックはすべて否定する。ゆえに、音楽は芸術としては、月並みな情動をいっさい惹き起こしも、表象しもしないと結論づける。
以上の議論に加え、彼はふたつめの議論を提出する。それは、'argument from disagreement'〈不一致に基づく議論〉と呼ばれるものである。
ある音楽の聴き手に、その音楽がどんな情動を惹き起こしたかを尋ねる。そうすると、全員の一致が得られるか? もちろん得られない。ある聴き手は悲しみを惹き起こされたと語り、別の聴き手は怒りを惹き起こされたと語るうるだろう。ここから、音楽は月並みな情動をいっさい惹き起こしも表象しもしないと結論づけられる。

こうしたハンスリックの〈不一致に基づく議論〉は強力で、理にかなっているように思われる。しかし、彼は次のふたつのことを説明できていない。まず、音楽の〈傾向性〉がいかなるものなのかについては何も説明できていない。加えて、音楽がどのようになにがしかの情動を惹き起こすのかという〈プロセス〉もまた触れられていない

6.20世紀ーランガーの'isomorphonic'なシンボル

ハンスリックののち、このあとの章で扱うことになる、エドモンド・ガーニー(Edmund Gurney, 1847-1888)のThe Power of Sound1880年に出版されたのちは、60年に渡って、音楽哲学の議論は沈静化していた。しかし、1942年、ランガー(Susanne K. Langer, 1895-1985)のPhilosophy in a New Keyの出版によって状況に変化が訪れた。
彼女は、音楽が、月並みな情動の個別的なアイコン、あるいは表象ではないという点ではハンスリックを支持している。しかし、彼女は、音楽は、情動の〈同型的〉'isomorphic'なシンボルだと考えた。これは心理学者Carroll C. PrattのThe Meaning of Music(1931)における卓越した比喩によって言い換えることができる。すなわち、

music sounds the way emotions feel

音楽は情動が感じるように響く

ゆえに、彼女は、「音楽のなかに情動を惹き起こすものがあり、聴き手の側にではない」という点でショーペンハウアーに同意する一方、他方、ハンスリックの結論、すなわち、「音楽はいかなる月並みな情動を惹き起こしも、表象しもしない」という点には批判的である。
彼女の議論そのものは、同型的の意味の曖昧さゆえに、流通していた月並みな情動と音楽との結びつきの直観を越えることができなかった。しかし、キヴィは彼女が次のような認識の素地を作った点を指摘する。

In short, Lager's account allowed them to think that it was silly to call music sad or happy but quite all right to say that there was emotional in it for all of that.

すなわち、ランガーの説明によって、音楽が悲しいだとかよろこびにみちているだとか述べることはばかげているが、そこに情動があると言うことは、何と言おうと、きわめて正しいということが分かるのだ。p.29

こうした音楽の哲学をめぐる歴史を辿って、わたしたちはさまざまな問いの形成と変化とをみることができた。これ以後、以上の議論を洗練させた現代における議論を見ていこう。

第1章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学 - Lichtung
第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第1章 …の哲学

はじめに

ピーター・キヴィの『音楽哲学入門』 (Peter Kivy, Introduction to a philosphy of music, Oxford University Press, 2002.)は音楽哲学の創始に多大な貢献を果たしたPeter Kivy(1934-2017)による音楽哲学の入門書である。300ページほどのそこまで大部ではない本であり、音楽の哲学への入門書として基本的な文献になっているそうだ。

しかし邦訳はいまだ出版されていない。そもそも2017年現在、音楽哲学に興味のある初学者が気軽にアクセスできるような出版環境は整っていないようだ。

これから読書ノートとして、全13章を読み進めていきたい。そのときにつくったまとめと妙訳を合わせて掲載していきたいと思う。
あえて稚拙なノートを掲載するのは、音楽哲学に興味のある誰かが、検索の末にこの場末に辿り着いたとき、このノートがすこしなりとも学習の手がかりになってほしいと思ったからであり、そしてなにより、この2017年の5月6日に惜しくも亡くなられたピーター・キヴィそのひとに対して、彼の豊かな研究をわずかでも受け継ぎたいと思っている、極東の僻地に住む名もない人間からのささやかな感謝のしるしになれば、と思ったからだ。

Introduction to a Philosophy of Music

Introduction to a Philosophy of Music

 

 第2章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung
第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

第5章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第5章 形式主義 - Lichtung

第6章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第6章 強化された形式主義 - Lichtung

第1章 …の哲学

さて、本文に入っていこう。第1章は、Philosophy of...と銘打たれている。そのまま「...の哲学」と訳した。
この章では、大きく二つの話題を扱っている。
ひとつめの話題として、音楽の哲学についての本格的な導入の前に、そもそも「哲学」とわたしたちが呼ぶようなものとは何か、という問いを立て、それに対して、三つの特徴を述べている。加えて、ふたつめの話題として「音楽哲学」という研究分野が学問として問うに値するような意味を持っているか、という問いを立て、価値はあることを音楽の扱いに関する簡単な歴史にふれつつ示している。
それぞれ、詳しくみていこう。

1.哲学とは何か

キヴィは、野球における格言をひいている。バッターがどこにボールを打つべきか、という問いに 'Hit'em where they ain't'〈誰もいないとこに打て〉と答えた人物の話を紹介する。この格言は、言ってみれば「野球の哲学」の第一公理に置かれるべきようなことがらだ。
これは、一見したところ内容のない自明なことにのように思えるし、あまりに自明なので、あえてはっきりと述べる必要がないもののようにも思える。しかし、とキヴィは言う。この格言は、野球という実践を基礎づけているような最も基本的なことを言い表しているのだ、と。
これだけではよく分からないので、次に彼は「結果主義」の例をあげる。結果主義とは倫理学における主義のひとつで、'Do what will turn out to be best.'〈最良の結果をもたらすことを為せ〉という命題を基礎としている。
これも、'Hit'em where they ain't'と同じく一見無意味なもののように思える。しかし、次のような例をあげるとどうだろう:真実を言うことは良いことだ。痛みを与えることはもっとも悪いことだ。
→しかし、真実を言うことで痛みを与えてしまう場合はどうすればよいか?
このとき、結果主義者は'Do what will turn out to be best.'という原理にしたがって、真実をいわないことを選択することができる。
キヴィはこの例で、一見無意味な言葉が、わたしたちの実践を基礎づけている前提を言い当てたものだということを示している。
ここから彼はわたしたちが「哲学」と呼ぶものの特徴をまとめる。

  • 1.一見したところ内容のない自明なことにのように思える
  • 2.あまりに自明なので、あえてはっきりと述べる必要がないもののようにも思える。
  • 3.しかし、よく考えると、それらの言葉は、暗黙のうちにある、実践の基礎に光をあてる

以上がひとつめの話題である。

2. 音楽の哲学は問うに値するのか?

次にキヴィは、哲学として成立するものとそうでないものとの違いについて述べる。
彼はまず、哲学が成立したりしなかったりするものだということを述べる。
プラトンにおいては、「体操の哲学」というものが考えられていた。なぜなら、彼の思想のなかでは、身体の運動と精神的なものとがいまのわたしたちがふつう思い描くよりも強く結びついていたためだ。いってみれば、プラトンにとっては、身体の運動が、人間存在の根本的な条件を成していると考えられていたために「体操の哲学」が成立していた。けれども、今は成立していない(ように思える)。なぜなら、体操は人間存在の根底を成すとは思われなくなっているからだ。
音楽の哲学もキヴィたち以前には成立していなかった。なぜなら、以前の思想家においては、音楽は人間存在の根底を成すとは思われていなかったからだ。
たとえば、もう一度プラトンに例を取ると、彼は音楽の実践を靴製作や陶器作りと同様の活動とみなしており、詩文や演劇とは異なるカテゴリーに割り当てていた。
時代が下って18世紀に至って、音楽は詩文や演劇と同じ「芸術」というカテゴリーに参入することができたが、依然として思想家たちは散発的にしか音楽を扱わなかった。ようやくキヴィらの時代にあって、音楽は哲学的に扱われるようになってきた。音楽の哲学の興隆は遅れてきたものだったが、決して偶然に起こったものではないとキヴィは考える。なぜなら、キヴィは音楽と人間の関係を非常に深いものと考えるからだ。

Surely music, like art itself, stretches back into the dim prehistory of the race, and spreads over the entire globe. In other words, there never has been, anywhere, a culture without its music; and that music penetrates to our blood and bones hardly, I think, needs argument.

疑いようもなく音楽は、芸術そのものと同様、人間という種の仄暗い前史にまで遡り、そして地球全体に広がっている。つまり、みずからの音楽をもたない文化はどこにも存在しなかったのだ。そして音楽がわたしたちの血と骨に深く入り込んでいることは、思うに、まったく議論の余地がない。本書p.9より(斜体は下線部)

 

音楽と人間の関係の深さは直観のみならず、18世紀以降の音楽学によっても示されてきた、とキヴィは述べる。

It is historical musicology and ethno-musicology that have made us keenly aware of what has always been so: that music is a deep and abiding force in the human family, no matter when or where that family has flourished.

歴史的な音楽学民族音楽学のおかげで、わたしたちはつねにかわらないことにはっきりと気づくことができた。
音楽は人類のうちにある、深く永続的な力だということ。そして、いつどこで人類が繁栄したとしてもそうであったということを。本書p.9

こうした音楽と人間との深い関わりこそが、音楽の哲学が問うに値する学問であることを証し立てるのだ、とキヴィは主張する。

さて、このノートの最後は、彼自身がまとめた文章を引用して終えよう。

SUMMARY 

The kinds of precepts and propositions we tend to call 'philosophical,' outside the philosopher's study or classroom, tend to have the following three features: they seem, on first reflection, to be vacuous truisms; they seem to be so obvious they tend to remain unstated; on more considered reflection they come to be seen as casting light on, as explanatory of, the practice or discipline for which they are the(frequently) unspoken foundations.
Such precepts, isolated and unsystematic, can occur anywhere, as, for example, in what we only half-seriously call a 'philosophy of baseball.' But where they occur as a part of a true 'philosophy of...' is where they deal with some practice or discipline that lies at the heart of our concsiousness, of our lives as a human beings. And when they do occur there, they form a system of inferences and arguments, not really a loose collection of percepts or aphorisms , like 'Hit'em where they ain't' or 'The best offense is a good defense.'. That is why we mean it with it with full seriousness, not merely half-seriously, when we refer to a philosophy of science, a philosophy of morality, or, as we have now come to see, a philosophy of music.

A philosophy of music, then, will be a system of precepts and propositions, perhaps, on first reflection, vacuous truisms not worthy of being made explicit, but, on reflection, richly illuminating of the practice they underlie, a practice that as far back as we can trace it has been the center of our lives and helped to define us as human beings.

哲学者の研究領域や教室の外で「哲学的だ」と呼ばれがちな、ある種の格言や主張は、次の三つの特徴をもつ傾向にある。・いちばんはじめ、それらのものは、意味のない分かりきったことのようにみえる。・それらはあまりに明白なことなので、述べられずにいる。
・よく考えられた反省において、それらは説明的なものとして、(しばしば)暗黙のうちにある、実践やルールに光をあてるということにわたしたちは気づくようになる。
このような格言は孤立していて、体系立っておらず、たとえば、わたしたちが冗談半分に「野球の哲学」と呼ぶようなかたちで、どこにでもあらわれうる。けれども、真の「…の哲学」の部分としてそれら(格言、そしてそれから一歩進んだ前提や議論 訳者注記)があらわれるところでは、それらは、わたしたちの人間としての生の意識の核心にあるなにかしらの実践やルールを扱っているのだ。そしてそれらがあらわれるとき、それらは「やつらがいないところに打て」や「攻撃は最大の防御」といった、たんなる格言や警句の雑多な集まりではなく、推論や議論の体系を形作るのだ。そういうわけで、科学の哲学や道徳の哲学を、あるいはいまこうして音楽の哲学を参照する際には、そういったこと(つまり、ほんとうの意味での哲学 訳者注)を冗談半分にではなしに、真剣に考えているのだ(ということに注意しよう 訳者 注記)。
したがって、音楽の哲学は、おそらく、はじめは、それは明示的に述べる価値がないような意味のない自明なことにみえるが、けれども、よく考えてみると、それら(音楽の哲学における前提や主張)が基礎づける実践の、すなわち、辿れるかぎりふるくからわたしたちの生の中心を成していたし、かつまた、わたしたちを人間として定義するために役立ってきた実践〔つまり、音楽 訳者注〕の豊かな理解になる前提や主張の体系になるだろう。本書p.12-13

第2章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第2章 すこし歴史の話を - Lichtung
第3章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』読書ノート 第3章 音楽における情動 - Lichtung
第4章→ピーター・キヴィ『音楽哲学入門』 読書ノート 第4章 もうすこし歴史の話を - Lichtung

注記

・最後の文を訳すにあたって分からないことがあった。
they underlieのtheyとはなんだろうか。わたしは、precepts and propositonsと解した。
the practiceとa practiceの違いは一体なんだろうか。わたしはa practiceを音楽と訳した。
これらの解釈は正しいのか。これがわからない。

現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート0 目次

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・公式サイト目次→現代存在論講義 I

・まとめノートリンク

現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その5

第四講義 性質に関する実在論現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その4 - Lichtung

目次→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート0 目次 - Lichtung

第五講義 唯名論への応答

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1クラス唯名論

1.1クラスによる説明

クラス唯名論(Class Nominalism)
◾️クラス唯名論(CN)
(CN)aはFである⇔aはFのクラスのメンバーである
1.2 例化されていない性質および共外延的性質の問題
共外延的な性質(coexstensive properties)の事例
肝臓をもつという性質と腎臓を持つという性質の外延(extension)は等しい(「F性の外延」とは、Fであるものすべてからなるクラスである)。よって、肝臓をもつ性と腎臓をもつ性は同一の性質になってしまう。
・これに対し、クラス唯名論者は可能世界の理論的枠組み、そのうちの可能的個体(possible individuals)に訴えることで対処する。すなわち、現実世界とは異なる少なくとも一つの可能世界において、肝臓をもつが腎臓はもたない生物が存在することになる。性質の外延の範囲をすべての可能世界に拡張すれば、肝臓をもつ性と腎臓をもつ性の外延は二つの異なるクラスになる。

1.3 クラスの同一性基準と性質

性質の同一性は、それを例化する実例(インスタンス)の同一性によっては決定されない

1.4 すべてのクラスは性質に対応するのか

クラスは任意に作ることができてしまう。ゆえにすべてのクラスは性質に対応しない。

2 類似性唯名論

2.1 類似性の哲学

類似性唯名論(Resemblance Nominalism)とは、ある対象がFであるという事実、および数的に異なる二つの対象が同じFタイプであるという事実を、類似性という基礎概念に訴えて説明する立場。代表格はプライス(H. Price)。『思惟することと経験』(1953)。
・普遍者の哲学↔︎本源的な類似性の哲学(Philosophy of Ultimate Resembrance):類似性が性質(関係)を規定する。
・典型例(exemplars)への類似性(resemblance toward…)
◾️類似性唯名論(RN)
(RN)aはFである⇔aはFの典型例に類似している
・典型例は複数あってよいが、aは各々の典型例に似ている必要がある。
・認知意味論におけるプロトタイプとの親和性。→G. Lakoff
ヴィトゲンシュタイン家族的類似性(family resemblances)を参照

2.2 類似性唯名論への反論

1.主観的あるいは相対的な観点の説明の中に持ち込んでしまう。
2.aはどの点において典型例に似ているのかという問題。
3.白いものが1つしか存在しない場合。
4.「ある対象がFのクラスに属するがゆえにF性をもつ」という説明より、むしろ「ある対象がF性をもつがゆえにFのクラスに属する」という説明の方がより自然。

3 述語唯名論

3.1 正統派の唯名論

述語唯名論(Predicate Nominalism):普遍者をたんなる名に過ぎないと捉える立場という、唯名論の原義にもっとも近い立場。
◾️述語唯名論(PN)
(PN)aはFである⇔述語"F"はaに適合する(apply to)
言語表現と対象との関係の問題とする。
・適合関係は原始概念とされる。
・述語唯名論者にとって、aはFであるという事実が成り立つのは、Fのクラスがaをメンバーとするからではなく、Fの典型例がaに似ているからでもなく、いわんやFがaによって例化されるからでもなく、単に"F"という述語がaに適合するからである。

3.2 述語唯名論への反論

・客観性の要請を満たさない。
・説明の順序が逆ではないか。

4 トロープ唯名論

4.1 実在論の代替理論としてのトロープ理論

トロープ(trope)とは個別的性質の現代的名称。トロープ理論(trope theory)は現代存在論のうちで確固たる位置を占めている。→出発点はウィリアムズ(D. C. Williams)
◾️トロープ唯名論1(TN1)
(TN1)aはFである⇔aはFトロープをもつ
(1)aとbはともに赤い。
(1*)aの赤さトロープとbの赤さトロープはよく似ている。
・類似性唯名論と異なるのは、(1)を説明する際に、aの赤さトロープとbの赤さトロープという二つの数的に区別される性質に言及する点である。

4.2 トロープの主要な特性とそれにもとづく「構築」

(a)個別性:トロープは時空的位置をもつ
(b)単純性:リアルな構成部分をもたない↔︎事態(state of affairs):ある対象がある性質を持つこと、または複数の対象がある関係に立つことを指す。成立している事態は事実(fact)。
(c)抽象性:共生(compresence)複数のトロープが同時に一つの場所に位置しうる。また、トロープは認識論的なもので、心の抽象作用によってリンゴの赤さトロープは他のトロープから切り離される。
単一カテゴリー存在論(one-category ontology):個別的実体はトロープの和(the sum of tropes)として構築される。こうした個別的実体の捉え方は束理論(bundle theory)を含意する。私たちの身近にある具体的個別者はトロープの束に過ぎないと言う見解を含んでいる。
・普遍的性質はトロープのクラスによって構築される。

4.3 トロープ唯名論のテーゼとそれへの反論

◾️トロープ唯名論2(TN2)
(TN2)aはFである⇔Fトロープ-1は、Fトロープたちの類似性のクラスのメンバーであり、かつそれは共生するトロープの和(束)としてのaの部分である
・しばしばクラス唯名論と類似唯名論極端な唯名論(extreme nominalism)と言われるのに対し、トロープ唯名論穏健な唯名論(moderate nominalism)と言われる。
・束理論への反論、トロープの存在そのものへの疑念、トロープたちのあいだの類似性。
アームストロングはトロープ唯名論者を個別主義者(Particularists)と呼ぶ。

4.4 実在論との共存

個別的性質(トロープ)が普遍的性質を例化している。と考えることができる。

現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その4

第三講義 カテゴリーの体系 形式的因子と形式的関係→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その3 - Lichtung

目次→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート0 目次 - Lichtung

第四講義 性質に関する実在論

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1 ものが性質をもつということ

1.1 何が問われているのか

◾️存在論的(形而上学的)な問い
(I)数的に異なる二つのものが、タイプ的に(質的に)同じであるとはいかなることか。
(II)そもそも対象aがFであるとはいかなることか。
◾️意味論的な問い
(I*)「aとbはともにFである」という文が真であるための必要十分条件とは何か。
(II*)"Fa"という文の真理条件とはなにか。

1.2 存在論的説明あるいは分析について

存在論的説明(ontological explanation)の目標は、「あるものがFである」ためには、世界がどのようなあり方をしていなければならないのか、すなわち世界には何が存在し、存在するもののあいだにはどのような関係が成立しているのかを明らかにすることである。
存在論的分析(ontological analysis)とは、世界で成立する事実を、基本的な構成要素に分解することによって説明する作業のことである。

1.3 実在論による説明

実在論イデアの代わりに性質、分有の代わりに例化(instantiation)と言う言葉を用いて、先程の問い(I)に次のように答える。

(R1)aとbはともにFである⇔aとbは同一のF性を例化している。
(R2)aはFである⇔aはF性を例化している。

・性質を例化するものは、その性質の実例(instance)ないしインスタンスと呼ばれる。
・抑制された実在論は、すべての性質は個別者の性質であるという立場に立つ。
・寛容な実在論は、性質の性質、すなわち高階の性質(higher-order properties)を認める立場である。
アリストテレス主義的実在論は、性質が何らかの実例と不可分である、すなわち、実例を持たない性質は性質ではない、とする立場である。
他方、性質の存在がその実例の存在から独立していると主張する立場はプラトン主義的実在論と呼ばれる。
・普遍者/個別者の区分は例化される/されないという特性、あるいは反復可能性(repeatability)という概念を用いてなされる。

2 実在論の擁護

2.1 分類の基礎

(A)性質は類似性にもとづく世界の諸事物の分類に存在論的な基礎を与える。

2.2 日常的な言語使用

(B)われわれの日常的な言語使用は性質の存在にコミットしている。

2.3 自然法則と性質

(C)自然法則にもとづく規則性の説明は性質(普遍者)の存在を要請する。
・ヒューム主義者は、世界のうちに規則性が認められること自体を否定はしないが、それが法則によって支えられていることを否定する。彼らにとって自然法則といったものは存在せず、あるのは単なる規則性に過ぎない。
・これに対し、反ヒューム主義者はたんに偶然的な規則性から法則的な規則性(真正な自然法則)を区別できると主張する。
・(古典的な)ヒューム主義者によれば、法則と呼ばれるものは個別者への量化のみを含む全称命題(AL)によって表現される。
(AL)すべてのxについて、xはFであれば、xはGである。
反ヒューム主義者のひとりであるアームストロングによれば、
(NL)N(F, G)(F性はG性を必然化する)
と表されなければならないとされる。これはー、二つの性質が必然化関係(neccessitation)と呼ばれる高階の関係に立つことを示している。
・アームストロングの見解が正しければ、自然法則に関する実在論は性質(普遍者)に関する実在論を含意することになる。ちなみにアームストロングはこうした実在論科学的実在論(scientific realism)と呼んでいるが、この用法は一般的な科学的実在論の意味からかなり逸脱する。

3 ミニマルな実在論

ミニマルな実在論(minimal realism)

3.1 述語と性質

・すべての述語が何らかの性質に対応するわけではない。意味による論証(the Argument from Meaning)は誤っている。
例化原理(the Principal of Instantiation)
(I)例化原理:すべての性質Fについて、Fを例化するxが存在する。
(II)ア・ポステオリ原理(経験原理):ある述語がある対象にア・プリオリに(経験によらずに)適合するということが判明しうるのであれば、その述語が対応するような性質は存在しない。
(III)因果的力能の原理:ある対象が何らかの性質をもつのであれば、その性質は当該の対象に特定の因果的力能(casual power)を授けるものでなくてはならない。

3.2 否定的性質

・Fが性質述語(性質を表現する述語)であるとき、Fでない、は性質述語ではない。
第一の論証:Fでないという述語が多くの対象に適合するとき、それらの対象が何らかの点において同一であるがゆえにその述語が適合すると主張することは信じがたい。
第二の論証:否定的性質を認めるとあらゆる対象が全く同じ数の性質をもつという結論が出てしまう。この結論およびその導出の仕方は許容しがたいので、否定的性質は存在しない。
→否定的性質を認めると、任意の二つの対象が同じ数の性質を持つもつことがア・プリオリに決まってしまうので、否定的性質は存在しない。

3.3 選言的性質

・FとGがともに性質述語であるとき、FまたはGは性質述語ではない。したがって、FまたはGであるという選言的性質は存在しない。
第一の論証:aとbという二つの対象があるとする。いまaはf性をもつがG性を欠いている。当然、aには「FまたはG」という述語が適合する。他方、bはF性を欠くがG性をもつ。これよりbにも同じ述語「FまたはG」が適合する。しかしこのことからaとbはある点において類似している、すなわちaとbは、FまたはGという性質を共有すると考えるのは馬鹿げている。
第二の論証:ア・ポステオリの原理に反する。
第三の論証:因果的力能の原理に反する。

3.4 連言的性質と構造的性質

・アームストロングは少なくとも二つのタイプの複合的性質(complex properties)を認めている。連言的性質(conjunctive properties)と構造的性質(structual properties)である。
・選言的性質:FとGが性質述語であるとき、FかつGもまた性質述語である。そしてFかつG
という連言的性質は存在する。
単純な性質のみが存在するという立場に対して、アームストロングはすべての性質が複合的である可能性を示唆している。
また、連言的性質FかつGは、F性(あるいはG性)から区別される性質であるが、両性質のあいだには部分的同一性(partial identity)が成り立つ。
・構造的性質:複合的個別者の性質であり、その個別者の諸部分が例化する諸性質及び関係からなる複合的性質

 

第五講義 唯名論への応答→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その5 - Lichtung