Lichtung

難波優輝|美学と批評|Twitter: @deinotaton|批評:lichtung.hateblo.jp

現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その3

 

第四講義 性質に関する実在論現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その4 - Lichtung

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第三講義 カテゴリーの体系 形式的因子と形式的関係

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存在論とはカテゴリー論である。

1 カテゴリーと形式的因子

1.1 カテゴリーの個別化 形式的因子

・カテゴリーのリストに求められるもの
1. 網羅的(exhaustive)ないし包括的(comprehensive)であること→存在するものであればリストに記載されたいずれかのカテゴリーに属すること
2. (同じ階層にある)カテゴリーは互いに素(disjoint)であること。
3. カテゴリーは何らかの原理に従って体系的に個別化されなければならない。
個別化(individualation):個別化するとは、あるものを一つとして、他のものから区別すること。従って、「カテゴリーの個別化」とは、ある存在者のグループを一つのカテゴリーとして、他のカテゴリーから区別すること。
形式的因子(formal factors):カテゴリーの境界を画定する高次の属性
たとえば、存在するものは、「時空間に位置をもつ」という形式的因子にもとづいて、具体的対象(位置をもつ)-抽象的対象(位置をもたない)との二つのカテゴリーに個別化される。次に具体的対象は、「時間的部分(temporal parts)をもつ」という形式的因子にもとづいて、物(部分をもたない)-プロセス(部分をもつ)としてさらに二つのカテゴリーに個別化される。

1.2 存在論的スクエア

アリストテレスは『カテゴリー論』のなかで、次の二つの形式的因子にもとづくカテゴリーの個別化を行なっている。(a)基体について語られる(b)基体のうちにある
・基体とは、ある文を用いて何かを述べる際にその前提とされるものを指す。
・形式的因子(a)「基体について語られる」における「xはyについて語られる」とは、xがyの何であるかを規定する関係として理解される。
たとえば、「人間はソクラテス(この人間)について語られる」と言われるとき、人間(という種)がソクラテスの何であるかを規定する。
・形式的因子(b)「基体のうちにある」における「xがyのうちにある」という関係は、xがyの部分としてではなくそれに帰属し、かつxはyから離れて存在しえないことを意味する。

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個別実体ないし第一実体はこの人間(ソクラテス)やこの机といった個体である。ソクラテスは、人間や動物といった種とは異なり、他のものの何であるかを規定するものではなく、また、この壁の白さなどとは異なり、他のものに依存して存在するものでもない。
普遍的実体ないし第二実体というカテゴリーには、人間や動物といった種ないし類が属する。こうした種(類)は複数のもの(基体)について、その何であるかを規定する。
これらのカテゴリーに属するものが実体と呼ばれるのは、アリストテレスの言を借りれば「〈類〉と〈種〉だけが第一の本質存在〔個別的実体(もっとも本来的な意味での実体)〕のあり方を明確に示すからである」。
個体が消滅しても存在し続けることができるために、これらのカテゴリーは基体のうちにはない。
個別的付帯性とは、この白さといった個別的性質のことである。こうした性質はそれを持つ存在者の何であるかを規定するものでもなく、複数の存在者について述べられるものでもない。加えて、ある基体のうちにある。
普遍的付帯性というカテゴリーには、白や走るといった普遍的性質が属する。白はある白さを規定する。また、基体のうちにあるという意味は「白が存在するのであれば、必ずなんらかの(個別的な)白さが存在する」と理解できる。

2 形式的関係

2.1 4カテゴリー存在論における形式的関係

・形式的関係→
形式的-存在論的関係(formal-ontological relations)
(i)単一の存在論の構成要素間の関係→存在論(intra-ontological)関係(ii)異なる存在論の構成要素間の関係→存在論(trans-ontological)関係(iii)存在論間の、あるいは存在論と他の存在者とのあいだの関係を指すメタ存在論(meta-ontological)関係
ここでは(i)を扱う。
4カテゴリー存在論(four-category ontology)

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(『現代存在論講義I ファンダメンタルズ 』倉田剛(2017)図4より一部改変)
対象→第一実体
様態→個別的付帯性
種→第二実体
属性→普遍的付帯性

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(『現代存在論講義I ファンダメンタルズ 』倉田剛(2017)図5、図6より一部改変)
・この体系には表に示したような、以下の三つの形式的関係が現れる。
(a)例化関係(instantiation)(b)特徴づけ関係(characterization)(c)例示関係(explification)
・(a)例化関係は(a1)種と対象のあいだ、(a2)属性と様態のあいだに成立する。
(a1)猫という種は、近所のスーパーにいるタマや公園に住んでいるミケといった個別的対象によって例化される。こうした例化関係は原始概念である。
・(b)特徴づけ関係は(b1)種と属性のあいだ(b2)対象と様態のあいだに成立する。この関係も原始概念である。
(b1)猫という種は雑食性によって特徴づけられる。ところが、猫は三毛色という属性によって特徴づけられる訳ではない。
(b2)ミケは肉も魚も食べるという様態によって特徴づけられる。
例示とは、個別的対象が、直接的に普遍的属性をもつというより、間接的にもつことを示す関係である。
(c)例示関係は、属性と対象のあいだに成立する。例示という形式的関係は原始概念ではない
・(c1)「このコップの水(対象)は、100度で沸騰するという属性を例示する」→このコップの水は、水という物質種を例化し、かつその物質種は100度で沸騰するという属性によって特徴づけられる。→このコップの水は、それが例化する種を経由して、普遍的属性との関係をとり結ぶ。
・(c2)「このコップの水(対象)は、100度で沸騰するという属性を例示する」→コップの水は、現に100度で沸騰している様態によって特徴づけられる、かつその特定の様態は、100度で沸騰するという属性を例化する。
・(c1)は傾向的例示(dispositional explification)(c2)は顕在的例示(occurent explification)と呼ばれる。

2.2 存在論セクステットと形式的関係

存在論セクステット(The ontological Sextet)

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存在論セクステット存在論的スクエアよりも倹約的ではないが、物や性質とは異なるあり方をしているようにみえるプロセスを基本カテゴリーにのレベルで導入するという点で、われわれの日常的直観および科学的実践により合致したものだといえる。
存在論セクステットにおける形式的関係は、存在論的スクエアを踏襲しながら、個別的質と個別的性質との関係は、特徴づける→個別的質は個別的実体に内属する(inheres in)という表現へと変更されている。また、個別的実体が個別的プロセスに「参与する」(participates in)という関係を新たに導入している。

第四講義 性質に関する実在論現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その4 - Lichtung

現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その2

第一講義 イントロダクション 存在論とは何か→現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その1 - Lichtung

第三講義 カテゴリーの体系 形式的因子と形式的関係→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その3 - Lichtung

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第二講義 方法論あるいはメタ存在論について

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1 存在論的コミットメントとその周辺

1.1 世界についての語りと思考

(N)「aはFである」が真であるならば、aは存在する。
「量化されるものは存在する」というのが存在論者における暗黙の了解になっている。
われわれの日常的な語りや信念、世界についてのさまざまな科学的言説をまとめて理論(theory)と呼ぶことにする。

1.2 存在論的コミットメントの基準

存在論者は、ある理論を構成する文から出発し、その文が真であるためには何が存在していなければならないのかを記述する。
存在論的コミットメント(ontological commitment)の基準←W. V. O. Quine
存在するとは変項の値であることである。
クワイン的なメタ存在論
①われわれが承認する理論を構成している文を標準的な論理式に翻訳せよ。
②その翻訳から存在論的コミットメントを取り出せ。
③その存在論的コミットメントを額面通りに受け入れよ。

1.3 パラフレーズ

パラフレーズ(paraphrase)存在論的に適切な仕方での言い換え。
しばしば存在論者たちは、望ましくない対象にコミットする文(あるいはコミットするように見える文)を、存在論的に適切な文にパラフレーズすることで、当のコミットメント(あるいはみせかけのコミットメント)を回避しようとする。
修正的なパラフレーズ(revisonary conception of paraphrase)あるいは革命的なパラフレーズ観(revolutionary conception of paraphrase)において、はパラフレーズ文はオリジナル文の誤りを正す文として捉えられる。
解釈的なパラフレーズ(hermeneutic conception of paraphrase)において、オリジナル文はミスリーディングではあるものの、パラフレーズ文と同じく真であると捉えられる。
・正しいパラフレーズの基準
同値であることは十分条件でも必要条件でもない。
同義性の基準の曖昧さ。

2 理論的美徳 「適切な存在論」の基準について

理論的美徳(theoretical virtues)とは、さまざまな存在論の中での理論選択(theory choice)において用いられる一群の評価基準である。

2.1 単純性

単純性(simplicity)「(他の条件が等しければ)理論はより単純である方が優れている」
構文論的単純性(syntactics simplicity)あるいはエレガンス(elegance)
より少ない原理(仮定、公理、原始概念など)をもつこと。
存在論的単純性(ontological simplicity)あるいは倹約(parsimony)
より少ない存在者を要請すること。
〈倹約について〉
・「オッカムの剃刀(Ockham's razor)」による検証
①世界の説明に関して不必要なものは存在しない。(「オッカムの剃刀」)
②Xは世界の説明に関して不必要である。
ゆえに、③Xは存在しない。
オッカムの剃刀においては、仮想的実在論<仮想的唯名論

・D. Lewissは倹約をふたつに区分する。
質的倹約(qualitative parsimony)とは、存在者のカテゴリーないし種の数を抑える。
量的倹約(quantitative parsimony)とは、カテゴリーないし種の実例(instance)の数を抑える。
様相実在論(modal realism)具体的対象としての可能世界が無数に存在する。
様相実在論は量的には倹約ではないが、質的には倹約。ただし、「時空的に隔絶した無数の可能世界が、現実世界と同様の具体的対象として存在する」という主張の代償(コスト)に見合ったものかどうか。この事例は倹約が無条件に賞賛される美徳ではないことを示している。
〈エレガンスについて〉
・穴(holes)の事例
反実在論者は穴を認めない代わりに、ひと穿ち、ふた穿ちという新たな原始述語(primitives)「それ以上遡って定義することのできない述語」を導入せざるを得ない。ゆえに反実在論はエレガンスをもたない。

エレガンスと倹約はしばしばトレードオフの関係にある。

2.2 説明力

・理論Aは、ある事実に関して、より基本的なレベルでの説明を与えうるのに対し、理論Bはその事実を説明できない、あるいはそれを「原始的事実」として扱うとき、理論Aは理論Bよりも強い説明力(explanatory power)をもつ。
規則性(regularities)について、反ヒューム主義者は自然法(law of nature)の存在に訴えて規則性を説明する。ヒューム主義者は「世界には規則性がある」という事実を原始的事実、それ以上説明できない事実として捉える。
・例えば反ヒューム主義者のひとりであるD. M. Armstrongは、自然法則を普遍的性質のあいだの必然的な関係として、すなわち「F性はG性を必然化する(neccessitas)」という関係として捉える。→二階の普遍者(second-order universals)を含む理論。
・このように説明力と倹約もトレードオフの関係にある。
存在論を比較する際にはコスト-ベネフィット分析(費用便益分析)(cost-benefit analysis)が重要な役割をはたす。

2.3 直観および他の諸理論との整合性

直観との整合性coherence with intuitions)→実験哲学(explimental philosophy)
他の諸理論との整合性coherence with other theories)

3 非クワイン的なメタ存在論

代表的なクワイン以後のメタ存在論には以下の三つがある。
虚構主義(fictionalism)マイノング主義(Meinongianism)新カルナップ主義(Neo-Carnapianism)

3.1 虚構主義

・虚構主義は、クワイン的なメタ存在論の手続き①と②を認めても、そこから③に至る必要はないと説く。ある領域における言説をフィクションとの類似性をもつ言説として捉える→集団的な「ごっこ遊び」(make-believe)のゲームのうちで真とみなされるような言説として捉える。
・しばしば引かれる標語を用いれば、数学は「真であることなく善い(有益な)」(good without being true)理論である。

3.2 マイノング主義

・マイノング主義とは、クワイン的なメタ存在論が前提する存在論的コミットメントの基準そのものを否定する。→量化と存在との結びつき自体を認めない
・マイノング自身は数などの抽象的対象が、虚構のキャラクターなどとは違い、存立(Bestehen/subsistence)というある種の存在をもつと考えていた。しかし、現代のマイノング主義者は存立という存在概念を認めない。
・マイノング主義者たちの一部は、ある(there is)と、存在する(exists)とを区別する。虚構のキャラクターや数はあるが、存在しない。←どう解釈するか議論が分かれている。
・虚構のキャラクターや数を対象として、すなわち、非存在者(non-existent object)と呼ばれる対象として捉えられる。→存在しないものがある

3.3 新カルナップ主義

新カルナップ主義を代表する哲学者E. Hirschによれば、存在論的論争の多くは、世界のあり方に関わるものではなく、たんなる言葉に関する論争(verbal disputes)に過ぎない。
量化子変動(quantifer variance)の原理:量化表現の意味は言語によって異なる。
→存在する、の意味は、それが属する言語の中での振る舞いによって決定される

第一講義 イントロダクション 存在論とは何か→現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その1 - Lichtung
第三講義 カテゴリーの体系 形式的因子と形式的関係→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その3 - Lichtung

Keywords 

存在論的コミットメント(ontological commitment)
パラフレーズ(paraphrase)修正的なパラフレーズ観(revisonary conception of paraphrase)解釈的なパラフレーズ観(hermeneutic conception of paraphrase)
・理論的美徳(theoretical virtues)理論選択(theory choice)単純性(simplicity)
・構文論的単純性(syntactics simplicity)あるいはエレガンス(elegance)存在論的単純性(ontological simplicity)あるいは倹約(parsimony)オッカムの剃刀(Ockham's razor)質的倹約(qualitative parsimony)量的倹約(quantitative parsimony)
・様相実在論(modal realism)・原始述語(primitives)
・説明力(explanatory power)規則性(regularities)自然法則(law of nature)二階の普遍者(second-order universals)コスト-ベネフィット分析(費用便益分析)(cost-benefit analysis)
・直観との整合性(coherence with intuitions)→実験哲学(explimental philosophy)
・他の諸理論との整合性(coherence with other theories)
・虚構主義(fictionalism)マイノング主義(Meinongianism)新カルナップ主義(Neo-Carnapianism)
・存立(Bestehen/subsistence)ある(there is)存在する(exists)
・非存在者(non-existent object)
・量化子変動(quantifer variance)

現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その1

はじめに

以下は『現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ』倉田剛 新曜社 2017年のまとめノートである。

自分自身の整理のために書かれたもので、用語の簡潔な定義のみを列挙している。

この本を読む人が、同じように章立てに沿ったミニマムなリストを欲するかもしれないと思い、ここに掲載する。細分化された目次、あるいは順番通りの索引として用いられれば幸いである。各講義ごとにページを分けて作成しようと考えている。

 第二講義 方法論あるいはメタ存在論について→現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その2 - Lichtung

 

目次→現代存在論講義I ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート0 目次 - Lichtung

第一講義 イントロダクション 存在論とは何か

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1 何が存在するのか

1.1 何が存在するのかからどのような種類のものが存在するのかへ

・種ないし類をカテゴリー(categories)と呼ぶ。

1.2 性質と関係

・世界には何があるのか。
・人や物といった個別者(particulars)たちがあり、それらが共有する性質(properties)→普遍者(universals)が存在するかが争点となる。普遍者とは、個々のものが共有しうる同一の何かであり、反復可能な何かである。

実在論(realism)は普遍者の存在を認める立場である。それに対して唯名論(nominalism)は普遍者の存在を認めず、個別者のみが存在すると説く。

・具体的対象(concrete object)は時空間に位置を持つ対象であり、抽象的対象(abstract object)は少なくとも空間のうちに位置をもたない対象である。後者は理論、法、音楽作品などが含まれる。これらはある時点で創造されたという意味で時間的起源を有するが、空間内に特定の位置をもつようにはみえない。
・非物質的である具体的対象も考えられる。影や境界など。
・神話や小説に表れる特定のキャラクターは虚構的対象と呼ばれる一種の抽象的対象だと考える存在論者もいる。

・言い直すと、実在論とは数や命題を含む広い意味での抽象的対象の存在を認める立場であり、そうした抽象的対象を認めず、具体的対象の存在のみを認める立場を唯名論と呼ぶ。

実在論者は性質に加え、関係(relation)もまた普遍者であると考える。
・代表的な唯名論は以下の四つ。クラス唯名論(Class Nominalism)、類似的唯名論(Resemblance Npminalism)、述語唯名論(Predicate Nominalism)、トロープ唯名論(Trope Nominalism)

1.3 物とプロセス

空間的なひろがりをもつ三次元的対象であり、同一性を維持しながら時間のうちで存続する。
プロセスは空間的なひろがりに加えて、時間的なひろがりをもつ。→時間的部分(temporal part)をもつ四次元的対象であり、時間のうちで自らを展開する。

1.4 部分と集まり

・物の空間的な部分。複数の物からなる集まり(collection)。
・集まり→集合(set)/クラス(class)、あるいは集積(aggregation)/(sum)を表す。

・集合とそのメンバーはしばしば異なる存在論的カテゴリーに属する。
(「学生の集合」という抽象的なものと「人間である学生」という具体的な対象)
・集積とその構成部分は同じカテゴリーに属する。
(4本の脚と天板という構成部分とそれらからなる集積=机とはどちらも具体的な対象である)
・具体的なクラスが抽象的なメンバーをもつこと、抽象的な集積というものはそれぞれ存在するだろうか?
・多くの哲学者たちは、一つの集積(複合的対象)が形成されるための基準はないと結論する。
1.レオロジー的ユニヴァーサリズム(mereological universalism)はどんなものの集まりでも一つの集積→レオロジー的和(mereological sum)を形成することができるとする立場。
2. レオロジー的なニヒリズム(mereological nihilism)は一切の複合的対象の存在を認めない。
レオロジー(mereology)部分と全体に関する一般的理論

1.5 種という普遍者

・種(kinds)のカテゴリーには金や水といった物質種、カエルや人間といった生物種、椅子や国家といった人工種が属する。これらの種は個別者を実例としてもつ普遍者である。
・性質は偶然的なカテゴリーであり、種は本質的なカテゴリーである。
・種(の中でソータル(sortals)と呼ばれるもの)はものを数え上げる際の基準を与える。
・多くの種は法則的一般化と結びついている。
・これら数え上げの基準、法則的一般化との結びつきは、性質というカテゴリーにはない特性である。

1.6 可能的対象および虚構的対象

・可能的対象(possibilia)
・可能世界(possible worlds)この現実世界における事物のあり方に何らかの変更を加えてできあがる世界
・様相文(modal sentence)可能性と必然性とに関する文。
・可能世界に関する虚構主義(fictionalism)とは、可能世界の存在に関する主張を額面どおりに受け取る必要はなく、可能世界はシャーロックホームズと同様の虚構的対象(fictional objects)として捉える立場である。

2.存在論の諸区分

2.1 領域的存在論と形式的存在論

・領域的存在論(regional ontology)とは、ある特定の領域に固有の存在論。=質料的存在論(material ontology)フッサール
・それに対し、形式的存在論(formal ontology)とは、特定の領域に依らない、領域中立的な(domain-neutral)存在論を指す。形式的=一般的(general)
・形式的存在論の課題は類ないし種を個別化し、適切にレイアウトするとともに、それらに属する対象の本性とそれらのあいだに成立する関係(形式的ー存在論的関係 formal-ontological relation)を記述することにある。

2.2 応用存在論と哲学的存在論

・応用存在論(applied ontology)=オントロジーと表記されることもある。
・応用存在論とは、存在論の道具立てを用いて、汎用的な分類体系を構築しようとする知識工学や情報科学の一分野を指すことが多い。領域的存在論概念化に関する理論。
存在論者/応用存在論者→哲学的存在論(philosophical ontology)≒上位オントロジー(upper ontology)

Box1. 表象的人工物としての存在論 存在論の可能な定義

存在論とは、実在の構造を体系的に表象することを目的とする人工物である。実在の構造は、主に諸カテゴリーの階層およびカテゴリー間の関係を記述するという仕方で表象される。

 2.3 形式的存在論と形式化された存在論

・形式的存在論(コッキャレラによる定義)は「数理論理学の形式的方法が、存在論についての直観的・哲学的諸分析および諸原理と結び付けられたディシプリン」。こうした形式的-論理学的(formal-logical)な存在論形式化された存在論(formalized ontology)と呼ばれる。

フッサールは、形式的-存在論的概念が一般対象領域に関わるのに対し、あくまで形式的-論理学的概念は意味(意義)の領域的(理念的な領域)に関わると考えていた。

2.4 存在論の道具としての論理学

2.5 存在論とメタ存在論

・メタ存在論(metaontology)は「『何が存在するのか』と問うとき、われわれはいったい何を問うているのか」(What we are asking when we ask 'What is there?'?)を考察する分野である。すなわち、存在論的問いそのものについての理論的反省。

第二講義 方法論あるいはメタ存在論について→現代存在論講義Ⅰ ファンダメンタルズ 倉田剛 まとめノート その2 - Lichtung

Key words

・カテゴリー(categories)個別者(particulars)性質(properties)普遍者(universals)
実在論(realism)唯名論(nominalism)
・具体的対象(concrete object)抽象的対象(abstract object)虚構的対象(fictional objects)関係(relation)
・クラス唯名論(Class Nominalism)類似的唯名論(Resemblance Npminalism)述語唯名論(Predicate Nominalism)トロープ唯名論(Trope Nominalism)
・物(thing)プロセス(process)時間的部分(temporal part)四次元的対象
・部分(part)集まり(collection)集合(set)クラス(class)集積(aggregation)和(sum)
・メレオロジー的ユニヴァーサリズム(mereological universalism)メレオロジー的和(mereological sum)メレオロジー的なニヒリズム(mereological nihilism)
・種(kinds)ソータル(sortals)
・可能的対象(possibilia)可能世界(possible worlds)様相文(modal sentence)虚構主義(fictionalism)
・領域的存在論(regional ontology)質料的存在論(material ontology)
・形式的存在論(formal ontology)形式的-存在論的関係 formal-ontological relation)形式的-論理学的(formal-logical)形式化された存在論(formalized ontology)
・応用存在論(applied ontology)哲学的存在論(philosophical ontology)上位オントロジー(upper ontology)
・メタ存在論(metaontology)

音そのものへの旅 網守将平 SONASILE

配置の音楽・創発の音楽

現代とそれ以前の音楽史を無理を承知で分類するなら、「音そのものへの批評眼」の誕生が分岐点になる。
西洋、クラシックと言われる音楽においては、音色そのものへの意識はあったにせよ、歴史的な文脈に限定された楽器しか用いられなかった。ハイカルチャーとしての西洋音楽に現れる限定された楽器のセットはオーケストラでほぼ尽くされている。西洋音楽は、楽器のセットの組み換えと配置によってさまざまな音色を生み出してきたのだ。ゆえに、クラシック音楽は、音色に限定すれば、「アレンジメント=配置の音楽」と名付けられる。アレンジメントとしての西洋音楽はモーリス・ラヴェル管弦楽においてひとつの頂点に達する。彼が管弦楽と同時に、色彩豊かと称えられるピアノ曲を多く残したのは象徴的だ。ピアノという楽器は、クラシック音楽が先鋭化した18世紀に誕生し19世紀に飛躍的な進化を遂げた配置的楽器だ。限定された音色のなかで、それぞれのカラーをもった音域を組み合わせて音色が作られる。
それでは現代の音楽は音色に対してどのような態度をとっているのだろうか?
電子音響の可能性が生み出した。音を創るという作業。既存の楽器ではなく、基本的なサイン波の変形、拡大、足し合わせによって、新たな音色を創る。それによって無限の音を創ることができるようになった。楽音と騒音との境界の融解でもある。電子音楽以後の音楽を「エマージェンス=創発の音楽」と名付けることができる。
アレンジメントからエマージェンスへ。限られた楽器から無限の音へ。現代の音楽へ至る歴史をひとまずこのように整理することができる。
しかし、音概念の拡大は単調ではなく、正負に振動しながら発散していく。

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発見された電子音は、発見者たちにおいては可能性として捉えられたが、その中でも扱いやすいものだけが抜き取られ、残りの可能性は省みられなくなる。エマージェンスの可能性はアレンジメントの安定性へと落下していく。わたしたちはプリセットという言葉がこの落下を象徴していることに気づく。音楽制作ソフトに収められたデジタル音源は、典型的なサウンドとしてプリセットされている。

エマージェンスとアレンジメントの振動

このような状況のなかで、ふたたびエマージェンスの可能性を提示してみせる若きアーティストがいる。網守将平。音楽家。作曲家。東京芸術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院音楽研究科修士課程修了。
彼の1stアルバムSONASILEは、エマージェンスの可能性に満ちている。

SONASILE

網守将平『SONASILE』

PROGRESSIVE FOrM / PFCD64
2016.12.2 release / ¥2,000 (tax ex)


興味深いことにSONASILEピアノ曲'sonasile'で始まる。彼自身の演奏による、端正な響きが心地よい序奏的楽曲であり、アレンジメント的である。タイトル通り、Son-asile、音の聖域への侵入にふさわしい。彼はインタビューでこう答えている。

タイトルは「SON」(音)+「ASILE」(待避所)による造語です。昨今いろんな意味である種飽和状態と化した音の世界から自らを避難させ、その避難した立場から改めて音楽にアプローチしていくという制作態度を取ったことから、このタイトルに決めました。('Song Premiere: 網守将平 ーkuzira')

12.2release 網守将平 "sonasile" from "SONASILE" PFCD64 by PROGRESSIVE FOrM | Free Listening on SoundCloud

'sonasile'は終盤で徐々に電子音の密度を増し、2. Pool Tableが始まる。裁断された音がめまぐるしく動き出す。ときおり見失いそうになりながらも、やがてポップなボーカルのメロディーがやってくる。電子音そのものの質にわたしたちは注意するように促されている。すでに彼の避難場所に立ち入っていることがわかる。

20年近く前に隆盛を極めた電子音って、訳がわからないけどなんかカッコイイものとして登場したあと、次第に多くの音楽家たちが(真っ当な)作り方を身に着けていき、〈いかにポップスに活かすか〉という視座において、電子音をアレンジ用の素材として使いこなすようになりましたよね。同時に電子音も素材として耳触りの良いものが増えたと思う。僕の興味はそれとは逆で、訳のわからなかったものとしての電子音に、いまだに興味がある。その興味を誰かとまた共有したいんです。(下線部は筆者)
(以下引用は「Mikiki | もう一度、電子音を難解なものと考えよう―アカデミックな新鋭、網守将平が突き詰めた斬新すぎるポップ・ミュージック論 | INTERVIEW | JAPAN」より)

アレンジ用の素材=アレンジメントのためではなく、いまだ固定化されないようなエマージェンスの電子音に回帰する試み。

網守将平 "Pool Table" from "SONASILE" PFCD64 by PROGRESSIVE FOrM | Free Listening on SoundCloud

柴田聡子とのツインボーカルによる楽曲、3.kuzira
一聴して、柴田の歌い方が、息遣いを排除したものであることに気づく。声としても、サウンドとしても聴けるような音になっている。
網守将平 "Kuzira" from "SONASILE" PFCD64 by PROGRESSIVE FOrM | Free Listening on SoundCloud

Kuziraは全楽曲中一番最初に作った楽曲ですね。アレンジが終わった段階では、メロディー含めあまりにもナラティブのある曲になってしまったのでどうしようかなと思ったのですが、いろいろ悩んだ結果、この楽曲と相性が合わなさそうな人に敢えて歌ってもらってどうなるか試してみようというアイデアに着地しました。

6.LPF.ar メランコリックなピアノのメロディーの周囲を拡げるように電子音が挿入される。
音響的/音楽的な作品である。

(影響を受けた音楽家について:筆者注)彼らは音楽を形式的な概念以上に、もっと広く時空間的な概念に近いものとして扱っていた作曲家だとも言えますよね。自分のこういった影響の受け方は一貫していて、そのまま後の音響系やサウンド・アートへの関心/活動に繋がっています。

9.Sheer Plasticy Of the Lubricant

永続する響きが音響的にも現れる、和音として音楽的にも現れる。網守の言葉を借りれば、テクスチャーとストラクチャーとがLubricous=滑らかに交代する。一曲としては最も長く、ポップさは姿を消しているかに思えるが、ところどころで構造を感じ取られる響きに出会う。音響と音楽の融合という点ではこのアルバムを代表する曲だ。

これは聴き方についてなんですけど、何らかの曲の何らかのフレーズがあったとして、そのフレーズを〈音響〉として聴くか〈音韻〉として聴くかを、精密にではないにしろ、ある程度コントロールできるようになるというか。アカデミックな作曲の勉強をすると、モチーフみたいなものに敏感になって、フレーズからパターンを抽出したくなる。要はストラクチャーを聴き取りたくなるんですが、電子音響はテクスチュアルな要素が強いのでそう簡単にはいかない。そういうテクスチャーとストラクチャーの差異を知覚しようとする、ある種の葛藤としての聴取方法を獲得できたのは、僕にとって本当に良い意味で、アカデミズムをその外部に活かすことができた例だと思います。

(強調は筆者)

10.Mare Song
網守将平 "Mare Song" from "SONASILE" PFCD64 by PROGRESSIVE FOrM | Free Listening on SoundCloud
オーセンティックで美しく儚い旋律が魅力的な佳曲。これは網守の次の言葉を表現した楽曲だろう。

(このアルバム全体が:筆者注)難解ではない理由があるとすれば、最初から電子音楽エレクトロニカではなく〈ポップ・ミュージック〉として作ったからだと思います。僕のなかでは『SONASILE』はポップスでしかないし、最初からポップスを作るつもりでした。電子音響との関係性で言うと、これは制作途中で考えたことなのですが、力づくでもポップスにしていくことで逆説的に電子音の存在感が際立つのではないかと思ったんです。

11.Rithmcat
どこか朴訥さを感じる響きとリズムの試みを感じる。網守のユーモアセンスが図らずももれているような感覚を覚える。

電子音をポップスのためのアレンジ素材として用いつつも、ある種過剰に活かしてアレンジそのものを脱臼させることで、逆にリスナーのなかの電子音への意識を復権させたかったのかなと。むしろもう一度、電子音を難解なものとして考えるべきだというか。そういう発想を徹底することによって、アレンジの範疇を超えたアクシデンタルな音色が、作品全体にバラ撒かれることになった感じです


電子音のエマージェンスへの回帰、同時に高度なアレンジメントとの接合。それも、どこか諦観が遠く響くユーモアを伴って。網守将平にしかできないオリジナリティ溢れるアルバムであり、彼自身の目標が見事に達成された作品だ。一曲一曲が次の展開を秘めており、それらを根として、11の異なるアルバムさえ産むことができるような可能性を持っている。

 

参考資料

・Mikiki | もう一度、電子音を難解なものと考えよう―アカデミックな新鋭、網守将平が突き詰めた斬新すぎるポップ・ミュージック論 | INTERVIEW | JAPAN  http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/13232

・Song Premiere: 網守将平 – Kuzira  http://publicrhythm.com/29552

・【REVIEW】SONASILE / 網守将平(PROGRESSIVE FOrM)http://indiegrab.jp/?p=4394

 

音楽、異なるものとの交わり Music for communication/communion

はじめに

よい音楽にはジャンルの境界がない。とはいうものの、音楽に何を求めるかによってジャンルが生まれたようにも思える。わたしたちは音楽になにを求められるのだろうか? それがこの論考のひとつの問いである。

さて、今回、わたしたちはジャンルをめぐる思考に触れてみたい。クラシックとポピュラー音楽をめぐる思考だ。クラシックという言葉はポピュラー音楽の出現とともに生まれた。同時にそれら2つの音楽を巡ってさまざまな価値の争いが巻き起こった。そして今なお、2つのジャンルは高尚/卑近、複雑/単純、と言った二項対立で整理されている。だが、それはあまりにも窮屈で、互いのよさを知らないままに互いに離れ離れになってしまっている。
そこで、そういった二項対立を脱して、クラシック、ポピュラー音楽を一貫して評価できるような音楽観を作り上げたい。この小論ではその基礎的な作業として、社会学者のテオドール・アドルノと哲学者のウラジーミル・ジャンケレヴィッチの音楽観を比較する。

対話としての音楽  Music for communication

社会学者のテオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund, 1903-1969)は、論文「ポピュラー音楽について(On Popular Music)」において彼なりの見方でもって、クラシック音楽とポピュラー音楽とを整理し、精神的なもの/刺激的なもの=クラシック/ポピュラーという差異を設けた。アドルノの(ただしい)音楽は、「対話的音楽」とも言うべきもので、作曲者と聴取者との対話こそ音楽の本質とみなしている。「ベートーベンや優れたシリアスな音楽[クラシック音楽のこと]の場合には、––出来の悪いシリアスな音楽のことはここでは扱わない。そうした音楽はポピュラー音楽と同じくらいに硬直的で機械的なことがある。––細部が全体を潜在的に含んでおり、全体の提示へと展開するが、同時にまた、細部は全体の構想から作り出されてもいる」。そして、細部を全体へと統合させる能力や努力が聴取者に求められている。例えば、ベートーベンの交響曲第5番第3楽章 (https://youtu.be/QdM6Zl0D8h4)を題材とした、彼の典型的な楽曲分析をみてみよう。

このスケルツォ[第三楽章]のスケルツォ部分全体(つまり、トリオの始まりを印づけるハ長調の弦の低い響きが入ってくる前の部分)は、二つの主題からなる二元性によって成り立っている。すなわち、弦楽器の奏でる、這うような音型と、管楽器による「客観的な」、硬質な応答である。この主題の二元性は、図式的な仕方で展開されてはいないので、最初に弦楽器のフレーズが練り上げられ、次に管楽器の返答が示され、その後に弦楽器の主題が機械的に反復される、という風には進行しない。ホルンによって演奏される第二主題が最初に現れた後、二つの本質的な要素[主題]は、対話するかのように交替しながら相互に結びつけられていく。そして、スケルツォ部分の最後を実際に印づけるのは、第一主題ではなく、第二主題のほうである。第二主題が最初の音楽的フレーズ[第一主題]を圧倒してしまったのである。

こうして「ベートーベンは、伝統的なメヌエットでは何も語らない無意味なゲームの規則に過ぎなかったものに、意味を持って語るように強制している」。このようにして彼は細部のフレーズ・応答を聴き取り統合することが、音楽を聴くことであるとした。
対して、「ポピュラー音楽の場合、細部と全体との関係は偶然的である」。そして、「楽曲が聴取者の代わりに聴くのである。このようにしてポピュラー音楽は聴取者から自発性を奪い、条件反射を促進する」とする。そうすると、彼にとってポピュラー音楽というものは、対話ではなく、せいぜい会話、有り体に言って雑談なのだ。そこでは「主体は、ポピュラー音楽に対して自由意志のいかなる残滓も奪われ、与えられたものに対する受動的反応を再生産しがちになり、社会的に条件付けられた反射行動の中心に過ぎなくなる」。

コミュニオンとしての音楽  Music for communion

これに鋭く対立する音楽観をもった哲学者がいる。20世紀を生きたフランス哲学者、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankélévitch, 1903-85)だ。彼は『音楽と語り尽くし得ないもの(La musique et l'ineffable)』のなかで、ドビュッシーが「音楽は表現できないもののために作られている(La musique est faite pour l'inexprimable)」と語ったのを受けて、音楽は「表現できないものを無限に表現する(exprimer l'inexprimable à l'infini)」と述べた。表現できないもの(l'inexprimable)は語り尽くしえない(l'ineffable)。だからジャンケレヴィッチはアドルノとは異なる音楽を聴いている。次の言葉がその対立を明確に表している。「音楽は対話には非本来的である。対話とは諸理念の交換、分析、相互性と平等のうちでの友情に満ちた協力の上に立てられている。音楽は意味の論証的かつ総合的な伝達(communication)ではなく、直接的かつ語り尽くしえないコミュニオン(communion)を認める」。

ここでのコミュニオンは、神学において通常「交わり」と訳されるもので、キリスト教的意味を背負っている。新約聖書ヨハネの手紙第1章第3節において、

私たちの見たこと、聞いたことを、あなた方にも伝えるのは、あなた方も私たちと交わり(コミュニオン)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

とあるのが原義だ。まず、キリスト自身と信徒との精神的交わり、それから教会組織における儀式での交わり、すなわち聖餐、キリストの体と血となったパンと葡萄酒を分け合うことを意味する。
コミュニオンは霊的なニュアンスを強くもっていて、伝達できない事柄を伝えるための関わり、交流をイメージさせる。ただ、キリスト教的意味は比喩として機能していて、それにとらわれる必要はない。
聖書ではコミュニオンはギリシア語でκοινωνία(コイノーニア)と書き表されており、これはキリスト教以前の古典ギリシャ時代には、仕事仲間・結婚生活での夫婦・友人とのパートナーシップ、神との精神的な関係、すなわち交流と共同を意味していた。ここからも分かるように、キリスト教的文脈を越えて、ジャンケレヴィッチは、コミュニオンという言葉で、言語的ではなく、共同そのものから生まれる理解や交流を表そうとしている。
すなわち、communicationが言語的、客観的ならば、communionは非言語的、直観的な行為と言える。

それでは対話ではなく、交わりの音楽とは、なにを指すのだろうか?
ジャンケレヴィッチのコミュニオンには、宗教的なニュアンスが強い。彼は「音楽がわれわれに伝える神秘は、生命、自由そして愛の豊かな表現できないものである」と語る。彼は美しいドビュッシーのコメンタリーを著しているが、そこでもつねに美しく気高いもの、文学的な生と死、希望や絶望といったものが俎上にある。しかしわたしは彼の概念を異なった視点から解釈したい。概念により即物的なニュアンスを付与したい。
音楽を聴くとき、アドルノは作者との対話を目指した。それは、聴取者と作者のうちにすでにある一定の了解を前提としている聴取の態度である。それは主題や形式についての規約を共有して語り合うゲームのようなものだ。それに対し、ジャンケレヴィッチは音楽の本質を、対話ではなく、コミュニオン=交わりであるとした。しかしそこでも、交流されるものはあまりに文学的で、限定された概念である。

異なるものとの交わり  Music for communication-communion

そこでわたしは、規約を共有するゲームでもなく、宗教的なニュアンスを含むコミュニオンでもない音楽観を提示したい。
すなわち、音楽とは、異なるものとの交わりである。という定義だ。
自分の知る世界観を越えてやってくるもの、世界観同士のつながりを生み出すことができるもの。異なる世界とつながり、アクセスできる音楽、それこそが根本的な意味での対話的・コミュニオン的な音楽と言えないだろうか。音楽は、異なるものと対話する際の壁となる言語を越えているという点で対話的であり、表現できない感情や文化ごとにもつ世界観を暗示し、交わりの可能性を生み出すという点でコミュニオン的である。

異なるものとの交わりとしての音楽は、性質というよりむしろわたしたちの聴取の態度によって生み出される。わたしたちはクラシックやポピュラー音楽を基準に他の音楽を判断するのではなくて、対話的・コミュニオン的に判断することで、音楽をジャンルに縛られない、世界にアクセスする場所として体験することができる。ここで、定義を振り返っておこう。

3つの音楽

  • Communication Music:対話的-規約的、テオドール・アドルノ
  • Communion Music:交流的-宗教的、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ
  • Communication-Communion Music:対話的-交流的-中立的

以上、アドルノとジャンケレヴィッチを比較し、それぞれの弱点を補える、異なるものとの交わりとしての音楽、という概念を提案した。

次の論考では、ここではいまだ述べられていない、具体的には音楽をどのように聴けば、異なるものとの交わりを生むことができるのかという問いを考えたい。

 

参考文献

・「ポピュラー音楽について」テオドール・アドルノ、海老根 剛訳(http://www.korpus.org/onpopularmusic01)2017/04/15閲覧

・「語り得ないもの、音楽と死 ジャンケレヴィッチのドビュッシー解釈」橋本典子『精神と音楽の交響』今道友信編、1997、音楽之友社

・新改訳 聖書、2007、日本聖書刊行会

グルッポ・イッテン『にく展』 於:ギャラリー・パサージュ 2017年2月19日〜2月26日 出展作品

2017年2月19日〜2月26日の期間、元町のギャラリー・パサージュにてグループ展"グルッポ・イッテン『にく展』" を行いました。出展した作品を掲載しています。

 

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展示風景。

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気配 Sign、油性・水性スプレー/木、49.5×34.58

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暗示 Allusion、油性・水性スプレー/木、49.5×34.59

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ピュグマリオーンの子供 Son of Pygmalion、鉄、5×5×13

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想起 Reminiscence、油性スプレー/木、70×70

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兆候 Presage、鉄、インク/木、56×60

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到来 Arrival、油性ペンキ/木、90×60

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思索 muse、油性ペンキ、鉄、インク/キャンバス、W4

波動、じぶんと作品との緊張

塚脇淳×工藤聡×関典子

「波動」

塚脇淳の鉄の彫刻作品と工藤聡、関典子というふたりの舞踊家の舞踊の組み合わせの作品。 

この実験展を図式化するなら

"完全さと不完全さ-作品とじぶん-立っている彫刻と立っていられないからだ"

となるだろう。

《作品のスケッチ》

関典子は踊らない。それどころか立っていられない。意識を失って倒れるその寸前、ふたりの黒ずくめの男が彼女を支える。不気味な鉄や鎖のぶつかる音が聞こえてくる。

そこに慈悲や人間的なやり取りはなく、ただ男たちは調子の悪い機械にするように事務的に彼女の転倒を阻止し続ける。彼女は立っていられないが、立てないままにいることができない。

工藤は彫刻を前にして痙攣する。それから足萎えて立てなくなる。何度も立ち上がることを繰り返し、だが失敗し、地面を這いつくばり、眼を開いたまま死の一瞬前のような表情を浮かべる。死の一瞬が延々と引き伸ばされる。彼は立てないのだが、立てないままにいることができない。

最後、関は彫刻の上に乗り静止する。

工藤は遠いコラールに応答し、導かれるように立ち去る。

そして彫刻は立っている。

《分析》

ふたりの舞踊家は「立てないこと、にもかかわらず立たねばならないこと」を示そうとしているのだと私は見取った。価値付けを抜きにして人間の人生を莫大な徒労の塊として表そうとしているのだと感じた。立てないことを塚脇の彫刻と対比させようとしているのではないか、彼と彼女は立ち続けることのできる彫刻と対決しようとしているのだと私は判断した。

舞踊家のふたりの闘いの姿勢に私は共感する。ときに完璧な作品は不完全であるしかないわたしに暴力的な美として迫ってくる。その美に窒息させられそうになる。わたしの不完全さを告発されているように感じてしまう。わたしは不完全さを受け入れなければ、心をなくしてしまいそうになる。

完全であれという指令との対峙。立たせられることへの疑問。

彫刻家のひとりの問いの姿勢に私は共感する。より研ぎ澄まされたもの、より純粋なものを求める行為が、不完全であるしかないわたしの不完全さを追い越してくれるような感覚。美によってここから飛び立てるような喜び。わたしは完全さを求めることで不完全さの泥沼に陥らずにいられる。

完全さを求めたいという願い。立ち上がること。 

わたしは立っていられないのだが、なおも立ち続けることを欲望する。わたしは不完全であるしかないのだが完全さを求める。

《最後に、見つけ出した問い》

わたしはふたつの見方に共感する。けれどもこの共感は完全さと不完全さをめぐる完全に二項対立的なふたつの立場への矛盾した共感ではない。ふたつの違う層からの見方への共感である。

舞踊家の表現と彫刻家の表現とはすこしずれている。

舞踊家は、「じぶん」に完全さを求める悲痛を表す。

彫刻家は、「作品」に完全さを求める喜びを表す。

このふたつを同時に肯定することはできる。だが、作品に完全さを求めるひとがいつしかじぶんに完全さを求めるとき、苦しみははじまるだろうし、じぶんが不完全であることを認めるひとが作品の不完全さを甘受するとき、堕落ははじまるだろう。

だがこの断言はあまりに優等生的ではないか?

じぶんと作品をそう簡単に切断できるだろうか。これがじぶんと表現、じぶんとじぶんの決断、じぶんと選択、と敷衍していけば…? いつしかじぶんと作品との境界は溶け落ちていくのではないか?

じぶんと作品とがどんな距離を保つべきか。

どんな緊張感と親密さをもつべきか。という問いはこれからも問いとして保持されるべきだろう。